第11話 帰るべき場所
小間物屋の前を脱出して、わたしは月乃さんにかわいらしい包みを握らされていた。中には綺麗な桃色のとんぼ玉が光る一本挿しの簪が入っている。陳列されていた何色ものとんぼ玉つきの簪。どれをわたしに当てがっても似合うから、と複数の簪を購入しようとする月乃さんを必死に止めた。そりゃあもう必死に。銀次もわたしに加勢してくれて、クロを困らせるな、というひと言で月乃さんは泣く泣く何本かの簪を諦めて、一本に絞ってくれたのだった。
「必要なものは揃ったのか?」
「そうですね、当面はこれで大丈夫かと。あとは状況を見て買い足せばいいのではないでしょうか。その時はぜひ、ええ、ぜひとも!私も呼んでくだされば!」
「勢いがなんだか怖いんだが」
前のめりに熱く語る月乃さんに銀次が若干引いた態度を取る。わたしはそんな二人を見て苦笑いするしかなかった。
「クロさんも、またお買い物に出る時には私にも声を掛けるよう、銀次に言ってくださいね、ええ、ええ、それはもう必ず!」
月乃さんがわたしの両手を取り、強く訴えかけてきたことで、思わず一歩下がってしまった。こくこくと頷いて、肯定の意を示す。それに満足したのか、美しいひとは壊れ物をそっと置くようにわたしの手を離した。
「あ、あの月乃さん、ひとつだけ、わたしからお願いがあるんですがいいですか?」
「ええ!なんなりと!」
圧がすごい。
少し狼狽えてしまった足を踏ん張り直して、わたしよりいくらか背の高い月乃さんの瞳を見る。通りに降り注ぐ夕日を反射してまるで宝石のようだった。
「わたしのこと、クロって呼んでください。その、もちろん月乃さんが嫌でなければ、」
言葉も途中の段階で、その細腕に似合わず強く抱き締められて、わたしの顔は豊満な胸部に埋まる。これはいけない感覚。何かに目覚めてしまいそう。
「クロさん、いえ、クロ。あなたの境遇については、今日の始めにも伝えたように銀次から聞いています。つらいこともあるでしょう。悲しみを抱えて過ごす夜もあるでしょう。そんな時でも、私もあなたの味方であることは常に覚えておいてください。あなたには銀次だけでなく味方がいる。それは決して忘れないで。この先、あなたを厭うものが現れることもあるかもしれません。けれども、それを恐れる必要はありません。だって、私たちがあなたを厭うことは何があってもありえないのですから」
力強く温かい言葉だった。月乃さんに呼ばれたわたしの名前がまるで慈雨のように優しくわたしを包み込む。前の世界にいた、ただの女子高生だったわたしには味方だの敵だのといった意識も選別も必要なかったはずだ。しかし今、わたしには心強い味方がいる。涙腺がかぁっと熱くなり痛む。それでも今は泣くべきではないと思った。彼女の言葉にはきっと涙ではなく、笑顔で返すべきだ。笑顔で、たった五文字返せばいい。それ以上もそれ以下もない。
「月乃さん、ありがとう」
「ええ、ええ、クロ。あなたと出会えたことを、私は嬉しく思いますよ」
月乃さんはわたしを両の
「……よかったな、クロ」
「うん、今日は本当にとってもよかった。買い物も、月乃さんのことも。どれもこれも銀次のおかげだ。ありがとうね、銀次」
わたしが銀次の顔を見上げてお礼を言えば、銀次は照れたように視線を逸らして首の後ろを掻いた。
「荷物、置きに帰るか」
「うん」
抱えていた荷物を持ち直して、銀次の後に続く。夕日がわたしたちの影を長く長く引き伸ばして地面に貼り付ける。建物の壁を這う真鍮のパイプが光を反射していた。
慣れない道を歩いて、賑やかだった商店の並ぶ通りから住宅地へと場所が移った。商店の客寄せの声が聞こえなくなり、生活音や子供の声が聞こえてくるようになる。どこからかおいしそうな出汁のにおいがして、もう夕飯時か、と改めて驚く。そういえば月乃さんと出会った時はまだ日が高かった。彼女には半日ほど時間をいただいてしまったことになる。今度銀次に言って月乃さんにお礼をしよう。わたしに何ができるかわからないけれど、そこは銀次に相談しながら考えようと思う。お菓子でも作れたらいいけれど、材料が一体いくらかかるのか、そもそも材料が揃うのかがわからない。わたしに作れるお菓子なんて簡単なクッキーくらいだけど、レシピもなく目分量で作っておいしいものが作れるのかどうかも心配だ。わたしの世界のものをご馳走するのも楽しいかと思ったけれど、こちらのお菓子をこちらで手に入る正しいレシピと安全な食材で作って食べてもらうのが
そんなことを考えながら、銀次の結い上げた髪が揺れる様を追いかける。銀次はわたしの様子を逐一確認するでもなく、わたしの歩調に完璧に合わせて歩く。それが不思議でわたしは早足で銀次の隣に並んだ。
「どうした?」
「銀次って背中に目でもあるの?」
「なんだよ、藪から棒に」
「だって、わたし、銀次の後ろ歩いているのに、銀次、わたしが歩く速さにぴったり合わせてくるから」
「ああ、そういうことか。そうだな、気配、とでも言うのかね。お前さんの気配は覚えたからな。それを頼りに歩いてた。まあ、無意識に気配を辿るのは職業病みたいなもんだろうな」
「へえー」
「はは、納得したか?」
「うん。なんだか難しいのはわかった」
「それ、わかってねぇんじゃねぇのか?」
わたしの荷物で両手をいっぱいにした銀次が歯を見せて笑う。荷物がなければ頭を撫でられていただろうな、なんて考えて、自分がこの短時間で銀次と一緒にいることにすっかり馴染んでしまっていることに気がついた。優しい手に撫でられることにも慣れてしまった自分がすっかり甘ったれになってしまったような恥ずかしさを覚えて俯く。恥ずかしさと共に、しっかりと守られていることも感じて嬉しさを噛み締めた。
ゆっくりと歩を進めていくうちに、なんとなく見覚えのある通りに出て、まもなく銀次の家が見えた。
「あ、銀次の家だ」
「お前の家でもあるだろ」
「え?」
「なんだ、違ったか?」
「う」
桜舞い散るあの神社で、遠雷に
「銀次」
「ん?」
「ただいま」
「おう、おかえり……なぁ、クロ」
「なぁに」
「ただいま」
「……おかえり、銀次」
ただいま、わたしたちの家。
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