第8話 黒の夢、カムナリ初めての朝

 黒。

 

 視界を埋める黒。

 左右を見ても、上下を見ても、黒。

 もはや自分がちゃんと眼球を動かしているのかもわからない。自分の体があるはずの場所すら黒に染まってなにも見えない。ここはどこだろう、わたしはなにをしていたっけ。

 

 ――わたしって、誰だっけ。

 

「――ちゃん」

「誰?」

「――ちゃん、忘れちゃったの?」

「誰なの?どこにいるの?」

 

 あちこちを見回してみる。見回すための首があるのかどうかもわからないけれど。どこからか声がする。誰かを呼んでいる声。忘れたのかと問いかける声。子供であることはわかるが、男女どちらなのかまではわからない。わたしに話しかけているのか、わたし以外に話しかけているのか。それすらわからない。謎の声はわたしの問いには答えない。遠いようで近いような。どこから聞こえてくるのか。わからないことばかりで頭がうまく回らない。

 ぐらぐらと揺れる脳。足元からずぶずぶと黒に沈み込んでいく感覚だけがわたしを襲う。

 

「――ちゃん、またね」

 

 また子供の声がする。今度もどこで発されたものかはわからなかった。身体はどんどん沈んでいく。ぷつり、まるでテレビを消すように、意識が途切れた感覚がした。

 

 

「ん、ここどこだっけ……ああ、そっか」

 

 ここは銀次の家だ。わたしは昨日世界を超えたんだった。どうやら寝ぼけているらしい。

 頭がぼーっとする。布団に寝転がったまま天井を仰いで、両手で目を覆う。今は何時頃だろう。なんだか夢を見ていた気がする。曖昧な夢の輪郭が思考の端をふわふわと漂うのがわかる。しばらく夢の内容を思い出せないものかと頭を回していたが、まるで逃げ水のように夢を捉えることができないので、もう今朝は起きてしまうことにした。

 布団を跳ね除けて、重い頭を無視して勢いづけて身体を起こす。昨夜は銀次の古い寝巻きを借りて寝たから、制服へともそもそ着替える。鏡がないので、自分で見える範囲で制服の襟を正して、プリーツスカートを払う。部屋にあった窓を開けて外の空気を部屋の中に入れる。深呼吸をしたら重たかった頭が少しだけ冴えた気がした。布団を畳んでいると、襖の向こうに人の気配。ふと振り返ると、襖越しに控えめな銀次の声が聞こえた。

 

「クロ、もう起きてるか?」

「銀次、起きてるよ」

「ここ、開けてもいいか?」

「大丈夫」

 

 畳んだ布団の上に最後に枕をぽん、と置いたところで襖が開いた。そこには銀次が立っていて、若干目を丸くしていた。

 

「なんだ、もう着替えも済んでたのか。早起きだな、眠れなかったか?」

「大丈夫、おかげさまでぐっすり眠れたよ」

「……本当か?少し顔色が悪いようにも見えるが」

「そう?気のせいじゃないかな」

「クーロ」

「……本当は、ちょっと夢見が悪かったみたいで。と言っても夢の内容は覚えてないんだけど」

「もう少し休むか?無理しないでいいんだぞ」

「平気だよ。外の空気吸ったら気分もマシになったから。ありがとう」

 

 わたしは銀次を心配させないように笑顔で返す。それでも彼は心配そうに眉を下げて、わたしの頭を労るように撫でた。

 

「本当に無理はするなよ。今日は外に出る予定だが、つらかったら言えよ?」

「うん、わかった。……ねぇ、銀次、ひとつ聞いてもいい?」

「なんだ、どうした?」

「わたしの頭って撫でやすいの?」

「んん?なんでそんなこと聞くんだ?」

「銀次ってよくわたしの頭撫でるから」

「あ、悪い!嫌だったか!?」


 銀次が驚いたように飛び上がる。頭から離れていってしまった大きな手のひらが少し惜しく感じた。

 

「んーん、嫌じゃない。でもなんでかなって」

「なん、でだろうな。俺にもわからん。意識してなかったからな……すまん」

 

 すっかり小さくなってしまった銀次に、こちらが申し訳なくなってくる。わたしは彼の手を取って自分の頭にその手のひらを乗せた。

 

「クロ?」

「わたし銀次に頭撫でられるの嫌いじゃないよ。むしろ落ち着く気がする。だからもっと撫でていいよ」

「お、おう、そうか」

「うん」


 少々ぎこちなくわたしの頭の上を往復する手のひらにくすぐったい気持ちになる。大人しく撫でられていれば、銀次はほんのりと嬉しそうな表情を浮かべた。


「そうだ、クロ朝飯食うか?もうできてるから大丈夫なら顔でも洗ってきな」

「わ、わたし結構ゆっくり寝ちゃってたんだね。朝ごはんまで準備させちゃってごめんね」

「気にすんなって。ほら、顔洗ったら居間に来な」

「わかった!」


 銀次に手渡されたタオルを握って、わたしは洗面所に向かった。昨晩銀次が用意してくれた歯ブラシを使って歯を磨く。寝起きでもにょもにょしていた口の中がさっぱりした。顔も洗ってしまえば、先ほどまで頭の端に引っかかっていた夢の名残はもう気にならない。わたしは駆け足で居間へと向かった。

 居間へむかうとそこには銀次とわたしの分の朝食が用意されていた。銀次は律儀にもわたしを待っていてくれたらしい。自分の席について銀次を見遣る。すると銀次が手を合わせたのでわたしもそれに倣った。


「いただきます」

「いただきます」

 

 声を揃えて挨拶をして食事に手をつける。食事をしながら、今日の予定を話し合った。今日は主にわたしの生活必需品の買い出しらしい。それと、女性の知り合いをひとり紹介してくれるという。生活していく上で、男相手より女性の方が相談しやすいこともあるだろうとのことだった。銀次の細やかな気遣いには恐れ入る。

 

「今日紹介するのはツキノってんだがな、こいつも俺と同じで鬼狩りでな。この里の鬼狩りの中でも手練てだれでな。里のモンには信頼されてる。それだけ人柄もいいってこった。だからクロも心配しなくていいぞ。鬼狩りって言っても物腰も柔らかい方だしな。まあ、気が合うかは会ってみなけりゃわからんことだが、肩の力抜いて会ってみろ」

「ツキノさん……仲良くなれるかな」

「クロなら大丈夫だと、俺は思うがな」

 

 油揚げとネギのお味噌汁を啜りながら、銀次が笑う。わたしは虚空を眺めて、ツキノさんとはどんな女性だろうかとあれこれ想像を膨らませる。くだんの彼女は鬼狩りとのことだが、女性でも鬼狩りになれるんだ、とふと思った。……もしかして筋骨隆々なプロレスラーみたいな方なのかな。そこまで考えたところで、口の中で甘くなるまでしっかり噛んだ、最後のひと口のご飯を飲み込んだ。

 ふたりで食事を終え、ごちそうさま、と挨拶をする。その後、銀次とわたしの食器を流しに運んで、きゅっきゅと洗い上げる。器を水切りかごに置いて、手を拭いた。水音が聞こえなくなったことに気がついたのか、銀次が台所にひょっこり顔を出した。

 

「クロ終わったか?」

「うん」

「ちょっと一服してから行くか?」

「うーん、わたしは大丈夫だよ。あんまり遅くなるとツキノさんにも悪いし。わたしのもの買ってもらうのに帰りが遅くなっても申し訳ないし」

「あー……、クロ、お前さんは遠慮が過ぎるな……と言ってもまだ完全に気ィ抜けるわけもねぇか。まあなんだ、ツキノのやつも先に連絡回してるから大丈夫だし、俺のことならもっと気にすんな。甘えとけって本人が言ってるんだから、目一杯甘えとけ」

「でも……」

「もし!甘えすぎだと思ったら、こっちから言うさ。それでいいだろ?」

「う……、ハイ……」

「よし、それじゃあ昨日貸した俺の外套被って来な。ツキノのとこ行くぞ。俺は女物の服だったり、生活に必要なもんはわからねぇからな。今日の役目は荷物持ちだ!」


 銀次の手がわたしの頭を慣れた手つきでぽんぽん撫でる。まだ出会って一回しか夜を越してないのに、もはや長年の付き合いのように頭を撫でてくる銀次が面白くて、ついくすくすと笑い声を漏らせば、銀次が不思議そうに首を傾げた。

 

「外套、着てくる!」

 

 不思議を抱えたままであろう銀次に敢えて答えを返さずに、自室へ小走りで向かう。

 

 今日一日、わたしに訪れる新しい出会いに胸を膨らませながら、鴨居にかけていた外套を下ろして胸にぎゅっと抱き締めた。

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