第7話 新しい家

 世界を超え、クロになったわたし。なんだか奇妙な感覚だ。ショックも不安もないと言えば嘘になる。だがしかし泣き喚きたくなるような衝動もない。実はわたしには五歳ぐらいまでの記憶がない。親に聞いても教えてもらえなかった。

 物心ついてから二、三年の記憶がないこと。今この世界に来てからは名前すら失ったこと。それがわたしの心をざわつかせる。このままどんどんいろんなものを失ってしまうんじゃないか。そんなことすら考える。できることならば、これ以上なにも取り落したくない。そんな物思いに耽っていたせいか、わたしは目の前を歩く銀次が歩みを止めたのに気がつかなかった。そしてそのまま彼の背中に鼻から突っ込んでしまう。


「わっ……銀次?」

「困った時は?」

「え?」

「困った時はどうするんだった?」

「へ……」

「さっきから俺の話もまともに耳に入らないくらい、何か思い悩んでいるだろ?」

「……銀次の声、聞こえてなかった?」

「ああ、みたいだな。それで?なにがあった?」

「…………」

「クロ」

「……あのね、」

 

 わたしは先ほどまで自分が考えていたことをぽつりぽつりと話しだした。実は五歳までの記憶がないこと。名前まで失って、他にもなにか忘れて失ってしまうんじゃないかと恐れていること。ついでにこの世界でどう生きていくか不安に思っていることも吐露した。すると銀次は体ごとこちらを向いて、わたしを見下ろした。


「この世界でどう生きるって……うちにいりゃあいいだろう」

「え?」

「あー、やっぱ年頃の娘が男と一緒に住むのは嫌か?少なくともここに慣れる間は、うちにいてもらった方がいいと思ったんだが……」

「……いいの?」

「あ?」

「銀次のところにいてもいいの?迷惑じゃない?」

「クロさえよければ、な。俺が鬼狩りをやってることは少し話したな?自慢じゃないが、俺は鬼狩りの中でもそれなりでな。稼ぎなら十分だし、お前を養っていくくらい訳ないんだ。だから、嫌じゃねえなら遠慮することはねぇ」


 わたしは、自分の両手を見下ろす。小さくて薄く頼りない手だ。わたしは目の前の彼の役に立てるだろうか。

 

「わたし、銀次の役に立てるかな」

「役に立つなんて、今は考えるな。クロ、お前はひと先ずここに慣れることだけ考えりゃいい」


 若干震えるわたしの右手を銀次がそっと取った。そのまま手を引かれる。銀次の家の方向だ。銀次がわたしに向けた背中は大きく見えた。その背中と自身の右手に灯った温かさにだんだん目の前が滲んでくる。左手でごしごし擦ると左手が濡れた。それでも視界は滲んだまま。


「…………銀次、家まで手、このままでいい?今、前が見えないから」

「お安いご用だ。しっかり捕まってろよ。転けねぇようにな」

 

 銀次に手を引かれて、家への道を歩く。そこまで長い道のりではなかったはずだが、銀次がゆっくり歩いてくれるおかげで、わたしは声を殺して泣き続けることができた。


 家に着くと、何も言わずに銀次は濡れタオルを用意してくれた。わたしはそれを受け取って目を冷やす。その時に撫でられた頭がむず痒かった。


 銀次が作ってくれた夕食はおいしかった。具だくさんのお味噌汁は食べ応えがあって、普段朝食を食べないわたしにとって、昨晩の夕食以来の温かなご飯も噛めば噛むほど甘味があっておいしい。ここの作物はプラント頼りと聞いていたので、味はどんなものなのだろう、と思っていたが十分過ぎるほどおいしい。お味噌汁とお米、食べ物もわたしがいた日本とあまり変わらなさそうで安心した。せめてなにか手伝いたくて、洗い物をさせてもらった。蛇口も洗剤も、わたしが元いた日本と大きく変わらないのが救いだった。一応、最初に台所周りの使い方を教えてもらったが、この辺り、文化レベルもあまり変わらないようだった。なんてついてるんだろう。これなら、銀次にあまり迷惑をかけずに台所仕事もできそうだ。

 

「俺に迷惑かけずにあれこれできるとか思ってるだろ」

「へっ」

「お前案外わかりやすいんだなぁ。迷惑だとかあんまり気にすんなよ。そりゃあ手伝ってもらった方が助かる時もあるだろうが、今はとりあえず難しいこと考えるんじゃねぇ。あんまり気張ると後からしんどくなるぞ」

「……わたし、そんなわかりやすい?」

「こっちとしては、これくらいわかりやすい方がありがたいがね」


 銀次はけらけら笑ってわたしの頭を撫でくり回した。視界がぐらぐらする。でも、決して居心地は悪くない。髪も乱れるだろうが、それでも構わないと思った。銀次の手は不思議と安心する。大人しく撫でられていたら、銀次の手がわたしの頭の上に乗っかったまま止まった。どうしたのだろう、そう思いながら細めていた目を開く。目が合った銀次はなんとも言えないような表情をしていた。

 

「銀次?」

「……なんだか猫みたいだな」

「え」


 そう言ってまた撫でる手を再開させる彼に、今度は恥ずかしくて顔が熱くなる。

 

「ぎ、銀次!もう寝る!」

「ああ、そうか、じゃあお前の部屋まで案内するよ」

 

 最後に仕上げとばかりにぽんぽんと頭を撫でて、わたしの頭から銀次の手が離れていった。わたしは慌てて乱れた髪を手櫛で直す。

 

「わたしの部屋があるの?」

「なきゃ困るだろ。ちょうど使ってない部屋があるんだ。あんまり広さはねぇがそこは許してくれ。二人で軽く掃除してから今日は寝るとするか。明日以降は必要なもの買いに出るぞ。会わせておきたい奴もいる。服も揃えなきゃなんねぇからな。」

「ごめんなさい……」

「謝るんじゃなくて、そこは礼を言うのが正解だな。ほれ、言ってみ?」

「……ありが、とう」

「おう、どういたしまして」

「……銀次はどうして偶然出会っただけのわたしにこんなによくしてくれるの?突然現れた得体の知れない人間なのに」

「なぁんでだろうなぁ。なんか放っておけないというか……。放っておいちゃならねぇ気がするというか。とりあえず俺はお前の面倒を見ることについて、なにひとつ迷惑だと思っちゃいないし、負担だとも思わない。あそこで偶然クロを見つけたのが俺だったのもなにか縁があったんだと思ってる。だからどっちかってぇと、クロを見つけたのが俺で良かったと思ってる」

「銀次、ありがとう」

「ああ。だからお前はなにも気にしなくていい。遠慮なく頼れ、甘えろ。とりあえず、今はさっさと部屋を掃除しちまおう。物は置いてないから埃をどうにかするだけでいいだろう。布団は一応客用のがあるから、それを使えな」

「はい」

 

 そうしてわたしと銀次は部屋を掃除した。埃を掃き出し、水拭きと乾拭きをする。銀次のいう通り、物がなかったので掃除は二人がかりということもあってとても早く済んだ。銀次が押し入れから布団を取り出す。部屋に布団を敷いてくれて、あっという間にわたしの寝床ができた。

 

「この布団も最近干したばかりだから、多分大丈夫だ。一応、明日起きたらまた干すといい」

「うん、わかった。ありがとう銀次」

「じゃあ、今夜はゆっくり寝な。明日は買い物三昧になる。疲れると思うから、今日の疲れは今晩のうちにとっとけよ」

「うん。銀次、おやすみなさい」

「おやすみ、クロ」

 

 わたしの頭を撫でて去って行く銀次。わたしの頭は撫でやすいのだろうか、と思いながら、わたしは部屋の襖を閉めて、灯りを消す。夜目に頼って布団に潜った。

 今日はいろんなことがあった。世界を飛び越えて、名前をなくして、路頭に迷うところだったのを銀次に拾われた。そしてゴロ爺に会って話を聞いてもらって、優しくしてもらった。銀次の作ってくれた食事はおいしかったし、今は温かい布団に包まれている。暗い部屋で思考を回す。いろいろあったなぁ、と結局そこに帰結した。少しずつ眠気がやってくる。瞼が重い。得体の知れない世界なのに、そう思いながらもわたしは眠気に抗えず、思考は眠りの闇に落ちていった。

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