第6話 わたしはクロ

 今にも殴り合いになりそうなゴロ爺さんと銀次さんにヒヤヒヤしていれば、ゴロ爺さんがぱっと顔をこちらに向けたので、わたしは思わず身を震わせた。

 

「そういやぁ、嬢ちゃん名前がねぇって言ってたな?それじゃあ、元の世界に戻れるにしろ戻れないにしろ少なくともここでの生活で困るだろう。なにか名乗りたい名前はねぇのかい?」

「特別思いつくものがなくて……だからさっきまで、銀次さんにわたしに名前つけてもらえるようにお願いしてたんです」

「銀の字に名前だぁ?大丈夫か?こいつそういう洒落っ気はねぇぞ」

「言われなくても、俺が一番わかってるんだっての」

「でも、わたしは銀次さんに見つけてもらったから……」

「まあ確かに拾い主に名付けの義務はあるだろうなぁ」

「おいゴロ爺、お嬢ちゃんは犬猫とは違うんだぞ」


 銀次さんが苛立たしげにゴロ爺さんに食ってかかる。そんな銀次さんの額を勢いよくゴロ爺さんが弾いた。

 

「痛ってぇ!」

「落ち着け馬鹿野郎。この嬢ちゃんは名前なんて大事なモンをもらいたいくらいに、おめぇしか頼る相手がいねぇんだってわからねぇのか」

「ぐ……」

「……ご迷惑おかけしてすみません。少し時間をください、自分で名前考えてみます」

 

 わたしが少々不格好に笑ってそう言えば、銀次さんが途端に悲しそうな顔をする。ゴロ爺さんが大きな溜め息を吐いて銀次さんの後ろ頭をいい音がする勢いではたいた。はたかれたその拍子に顔を俯かせた銀次さんは、今度は痛いとは言わなかった。きっと痛かったはずなのに、なにも言わずに俯いたままでいる。あんまりにも静かに俯いているので、心配になって銀次さんの名を呼ぼうと口を開きかければ、銀次さんがなにかを呟いた。聞き取れなくて思わず聞き返す。

 

「え?銀次さん、今なんて?」

「……クロ」

「クロ?」

「その黒い髪と黒い目が綺麗だから……だからクロ」

「わたしの……名前?」

「銀の字……おめぇそれこそ犬猫じゃねぇんだぞ。洒落っ気がねぇにも程があんだろうが……」

「仕方ねぇだろ!俺はこういうのは苦手なんだよ!」

 

 呆れたように頭を抱えるゴロ爺さんと、顔を赤くして吠える銀次さん。わたしはそんなやり取りを見ながら、クロ、クロ、と口の中でその二文字を転がしていた。なんてことない色の名前。ゴロ爺さんの言うように犬猫にでもつけそうな名前だ。それは否定しない。けれども、それはどこか甘い響きを持っているようにも感じられた。自分の名前。それがどれだけ甘く愛しいものなのか。この世界に来て名前も家族も友人も失ったわたし。そんなわたしに新しい名前がつけられた。これが嬉しくないはずがないのだ。

 

「わたし、クロがいいです」

「そうだよなぁ、クロなんて嫌だよなぁ、って、ああ?」

 

 ゴロ爺さんが素っ頓狂な声を上げる。銀次さんがぽかんとした表情でわたしの顔を見た。わたしは、わたしの目を真正面から見る銀次さんの目を見据えてはっきりと言った。

 

「わたし、クロがいいです。名前、今日からクロがいいです」

「……いいのか?」

 

 銀次さんが呆然としつつ問うてくる。それにわたしは改めて真っ直ぐ答えた。

 

「髪が綺麗とか目が綺麗とか……理由はちょっと恥ずかしいというか照れますけど、でもわたしは銀次さんがつけてくれたクロって名前がいいです。クロって名前をわたしにください。お願いします」

「嬢ちゃん……いや、クロちゃん……おめぇさん、いいだなぁ」


 ゴロ爺さんに頭を撫でられる。それは思っていたより穏やかで優しい手つきだった。


「ゴロ爺さん……クロって呼んでくれてありがとうございます」

「銀の字……おめぇ、こんないいを泣かせたら、この俺がドタマかち割ってやるから覚悟しとくんだなぁ」

「うるせぇ、わかってらぁ……なあ、お嬢ちゃん、クロって名前のどこが気に入ったのかはわからないが、これから俺が言うことをよく聞いてから、改めてクロと名乗るかを決めてくれるか?」

「……はい」

「まず、銀次さんってのはやめてくれ。柄じゃねぇんだ。銀次でいい。あと、敬語もやめるようにな。もっと砕けていい。いきなり世界飛ばされて、訳もわからずこんなとこまで来たんだ。不安もあんだろ。甘えたいこともあんだろ。泣きたい時もあんだろ。そういうのを我慢するな。もっと頼れ。少なくとも今、お嬢ちゃんには俺とゴロ爺がいる。どっちでもいい。頼れ。そんで、ここで暮らしてりゃそのうち他に頼れる相手もできるだろう。俺にも何人か信用のできる連中に心当たりがあるからな。頃合いになったら紹介もしてやる。……俺の言ったこと、飲み込めたか?」

「…………はい」

「それなら、俺が言ったこと、簡単に言ってみな」

 

 銀次さんが軽く顎をしゃくる。ほれ、と促されてわたしはゆっくり自分に言い聞かせるように口を開いた。

 

「銀次さん、じゃなくてこれからは銀次って呼ぶようにする、敬語も使わない。困った時、つらい時にはちゃんと銀次やゴロ爺さんを頼るようにする……」

「……よし、上出来だ!これからよろしくな、クロ」

「はい!よろしくお願いしま、あっ。じゃない、よ、ろしく!」

「はっはっは!まあ少しずつな、っあだ!」

「クロちゃん、そこの馬鹿野郎がどんどん話を進めやがるせいで、そういやきちんと名乗ってなかったな。俺は五郎兵衛ごろべえ。ゴロ爺でいいぞ。あと俺にも敬語なんてもんはいらねぇ。一番楽な話し方で話してくれや。俺のことは爺ちゃんだと思ってくれていいからよぉ」

「は、えっと、うん、ありがとうゴロ爺」

 

 銀次さん、否、銀次の頭を叩いて身を乗り出したゴロ爺にぎこちなく返す。今日の銀次は何度もゴロ爺に頭部を叩かれているが大丈夫だろうか。毎度痛そうな音がしているので心配だ。銀次がゴロ爺に噛みつき出したのを見て、今日はいろんなことがあったなぁ、と物思いに耽る。

 

 わたしは今日、世界を超えてクロになりました。

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