第3話 わたしの名前

 その後の記憶は曖昧だ。

 ギンジさんに導かれるまま人目につかないらしい路地を曲がって進んでを何回か繰り返し、彼の家に辿り着いた。わたしの制服はここでは目立つらしく、人目につかない道を選んだのは、その配慮らしい。ずっと自分の頭の中から自身の名前を探していたわたしは、そんなギンジさんの配慮にお礼を言う余裕もなくただただ足を動かすばかりだった。

 

 辿り着いたギンジさんの家で、土間で靴を脱ぎ、上がりかまちを超えて、家に上がらせてもらう。そして座布団に座るように促されたわたしは、大人しく促された場に腰を下ろした。 外側は真鍮色や錆色、そして血管のように這わされたパイプに覆われた家だったが、内装は金属と古い木と漆喰のような壁が混ざった独特な趣だった。素材が独特だがまるで日本家屋のような作りだ。部屋の中央には囲炉裏の代わりにストーブのような機械がある。そしてしばらくして、なにか飲み物らしきものを持ったギンジさんが部屋に戻ってきた。わたしの目の前に湯呑みが置かれる。そこには湯気を立てるお茶が入っていた。

 

「待たせたな。まず茶でも飲んで、少し落ち着くといい。不安なら毒味するが」

「……いえ、大丈夫です、いただきます」


 湯呑みを手に取って、息を吹きかけて熱いお茶を冷ます。ほんのりとほうじ茶のような香ばしい香りがした。それに一息吐いていると、ギンジさんが小さく笑い声を上げた。


「お嬢ちゃんはもう少し人を疑うことを覚えた方がいいな。俺が悪人だったら、家について来るのも、出された茶を飲むのも悪手だ。たとえ、自分の名前が思い出せなくて混乱していたとしてもな」

「うっ、すみません……」

「いや、謝ることじゃねぇ。それがお嬢ちゃんの美徳ってところもあるんだろうからな」

「……目を見てくれたので」

「ん?」

「ギンジさんが屈んで真っ直ぐわたしの目を見て下さった時、疚しい気持ちがなさそうというか、とても優しい目をされていたので……」


 ギンジさんがわたしから目を逸らして、恥ずかしそうに頬を掻く。


「……なんだ、照れくせぇな」

「す、すみません」

「あー、謝らないでくれ。それよりも少しは落ち着いてきたか?ゆっくりでいいからな」

「ありがとうございます」


 冷ましていたお茶に口をつける。お茶の香ばしい香りが鼻に抜けた。まだ頭はぐるぐるしているがそれでも、ほんの少し余裕が出て来たことを感じた。

 

 自分について思い出せることを考えてみる。わたしは高校生。里ヶ原高校に通っている。学校帰りに神社に寄って、桜の木の下で参拝をした。遠くに雷の音を聞いて目を開くとあそこにいた。他のことも思い出す。家族の顔も名前も覚えている。友人がいたことも。優しくて気さくな先生も、厳格で話しかけにくい先生についても覚えてる。それでも、自分の名前だけは思い出せない。みんながわたしを呼ぶところを思い浮かべても、そこだけ靄とノイズがかかったようで、わたしの名前の部分だけ唇も読めないし、声も聞こえない。わたしは、名前を失ってしまったらしい。不思議と涙は出なかった。多分、まだ名前を失った自覚が足りないのだろう。これは後からショックを受けるのだろうな、と異様に冷静な頭で思った。

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