第2話 錆と真鍮色の町
咄嗟に開いた目の前には賽銭箱や社なんてなかった。足元を見ても桜の花びらなんてない。雷のような音は続いているが、目に映る景色は見覚えのない、現代日本にはありえない色ばかりだった。錆と真鍮色の世界。壁に這わされた複数のパイプからは所々スチームのようなものが音を立てて噴き出していた。
「え、あれ?」
きょろきょろと辺りを見回す。どこもかしこも似たような光景でわたしが上がって来た階段もない。当然ながら御神木もない。ここは路地の入り口だろうか、わたしの背後には薄暗い道が続いている。進むべきかもわからない。何もわからない。ただ聞こえるのはスチームと雷のような音。頭が混乱する。その場を動けないまま、ただくるくると回って必死に見覚えのある景色を探す。しかし、そんなものはどこにもなかった。ここまで来ると泣き喚く余裕すらない。頭が痛い。背負ったリュックの肩紐を強く強く握り締めた。
「おい、お嬢ちゃん」
男性の声がして、わたしは跳ねるように振り返った。
「あー、悪い、怖がらせるつもりじゃなかったんだが……ちょっと話いいか?」
さっと男性の身なりを確認する。見たこともない服装。身体の所々に金属でできたパーツがついていてなんだか重そうな服を着ている。長すぎない黒髪は高く結い上げられ、一房だけ銀色になっている。顔にも傷跡があり、ガタイがよく背も高い。なんだか戸惑ったように首の後ろを掻いて、言葉を選びながらわたしに話しかけてきているのがほんのり伝わった。
わたしは男性に伝わるかも怪しいほど小さく頷く。だがそれは男性に確かに伝わったようで、男性はほっと息を吐いた。
「すまんな、突然。お嬢ちゃん、俺はあんまり、こう……遠回しに上手く聞いてやるってのが苦手でな……率直に聞くぞ。俺には、お嬢ちゃんが突然この場に出てきた霞のようなモンの中から現れたように見えたんだ。それだけで驚いていたのに、しばらく様子を伺ってたらどうやらお嬢ちゃんも混乱しているようだし、声をかけたってわけだ」
「……はい」
こうして男性の話を聞いてみて、ふと、ああ、ここは日本語なんだ、と思った。それだけは救いかもしれない。そして、霞の中から自分が現れたという話を聞いて、一体どういう状況だと改めて混乱した。考えに耽って少し俯けていた顔を上げて、男性の顔を見上げる。すると、傷跡の目立つ少々厳つい顔つきに似合わない優しい目と目が合った。
「とりあえず、俺が見た様子については飲み込めたか?」
「はい。え、と……霞の中からわたしが出て来た、んですよね」
「ああ、そうだ。お嬢ちゃんには、なにか心当たりはあるか?ここに出て来るまで何をしていたとか」
「神社に、神社にいました。大きな桜が御神木の。そこで参拝するために目を閉じたら、遠くに雷の音がして、思わず目を開けたんです。そうしたら、ここに……。」
「神社ぁ?もうそんなのほとんど残ってないはずだがな……。桜の木だって過去の資料の中くらいでしかお目にかかれないモンだぜ?」
「そう、なんですか?」
「ああ、鬼の奴らとの戦いが始まって、そこらに瘴気の澱みができてから植物が育たなくなったからな。雑草程度なら見ないこともないが、桜のように立派に花をつけるらしい木なんて放っておくだけじゃそうそう育たねぇよ」
「……おに?」
「ああ、鬼」
「おに……鬼ってあの角がある……?」
「確かに角がある奴もいるな。……もしかして鬼を知らねぇのか?」
「知ってはいます……昔話とか、節分の鬼とか。でも見たことなんて、実際にいるなんて知りません」
「こりゃあ、話が長くなりそうだな……俺の家がこの近くにある。そこに移動して腰据えて話さないか?」
男性は少し屈んでわたしと目を合わせてくれた。その目の奥を覗き込んで、なにか疚しさのようなものが込められていないかを、自分なりに必死になって探る。すぐに頷かないわたしに怒る素振りも見せず、男性は身を屈ませたままわたしと目を合わせていた。そこでわたしはやっと覚悟を決める。
「……ご迷惑でなければ、お願いします」
わたしはぺこりと頭を下げた。そんなわたしの肩に分厚い手のひらが置かれる。
「そう畏まらんでいい。そういやお嬢ちゃんの名前を聞いてなかったな。聞いてもいいか?ちなみに俺はギンジだ。好きに呼んでくれ」
にかっと笑ったギンジさんが、わたしに名乗るよう促す。それを聞いて、わたしは驚愕と共に絶望にも近い感覚に陥った。まるで足元の地面ががらがらと崩れてしまうような、そんな感覚。立っているのがやっとで、わたしは震える身体を抱き締めながら必死に呼吸を繰り返す。
「おい、どうした」
「ギンジ、さん、わたし、わたし……!」
ギンジさんがわたしの呼吸を落ち着けようとしてかわたしの背中に手を当てる。大きな
手のひら全体から温かさを感じることができて、ほんの少しだけ呼吸が楽になったような気持ちになる。そして、その楽になった呼吸で息を多めに吸って、震える声を吐き出した。
「わたし、自分の名前が、わかりません」
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