第5話 夜          5/8




 日が暮れてしまった。


 とんだ事に巻き込まれてしまったと思いながらも、さっきから実に切実な問題に直面していた。


 身体は二時間ほど前に動くようになったのだが、それと同時に抑圧されていた欲求が感覚神経を通じて私を困らせている。


 と、トイレに行きたい。


 それもかなり限界だ。


 だが、劣悪なる元クラスメイトが後ろにいる状態でそんな真似は死んでも出来ない。

 大体助け出された時の無様さと言ったら無いだろう。


「おい、某女子高生。さっきから黙ってどうした? 放っておけば三日くらいべらべらと喋ってるようなお前が」


 実に心外だ。

 私はそこまで饒舌じゃない。


 そこそこには饒舌だが。


 というか、そんなことに意識を向けていられない。

 気を緩めたら漏れそうだ。


「ん? 本当に大丈夫か?」


 あまり心配しているようでもないが、しつこい奴だ。

 全然大丈夫じゃないというのに。


「少し黙れ、劣悪なる元クラスメイト。私は変わらず健在だ」


 とは言え、まだ春先で日が陰ると急に冷えてきた。

 この冷えがまた尿意を誘う。


 うう、くそう。なんという無様だ。


「随分辛そうだな。そんなに漏れそうか?」


 クリティカルに図星を付かれて絶句する。

 あ、ちょっと漏れた。


「ぐ……貴様」


「ふう。そっちもか。こっちも結構ヤバイ」


 どうやら、お互い様だったらしいが、だからといって問題が何か解決するわけではない。


 この場合、お互いの姿が背中合わせで見えないのが救いか。


「おい、某女子高生。一つ提案なんだが」


「なんだ、劣悪なる元クラスメイト。下らないことなら殺すぞ」


「お互いこの先何が起こっても、今日のことは忘れよう」


「……当然だ。覚えてたら殺す」


 く、そろそろ、本当に限界か。

 うわ、波が、かなり大きな波が。


 やりすごせやりすごせ。

 ……ふう。危ない危ない。


「あ、ん? これは、もしかしたら」

 後ろで劣悪なる元クラスメイトがもぞもぞと動いている。


「よ、と。ん? こうかな」

「おい、何をやっている」


 変な振動を起こすな。余計に漏れそうになる。


 私の問いには答えずに暫くもぞもぞと動いている。


 ぱきん


 乾いた金属音が鳴った。


 そして、腕の拘束が僅かばかり弛んだ。


「お、おお、解けた?」

 劣悪なる元クラスメイトが立ち上がる。


 私も弛んだ鎖をなんとかすり抜け、立ち上がる。


 だがいかんせん私の両手と劣悪なる元クラスメイトの両手を後ろ手で拘束した手錠が、無骨な鉄骨を挟んで鎖でつながれていた。


 行動範囲は僅かばかり広がったが、根本的な解決には遠そうだ。


「はあ、よかった。これでなんとか服を濡らさずにすむ」


 安堵したのか、劣悪なる元クラスメイトはさっさと立ち小便を始める。


 男はこう言う時便利だ。

 とは言え、こっちもこっちで限界だ。


 すぐ後ろに男がいるのに、そこでするなどと言うのは羞恥プレイ以外の何ものでもなかったが、漏らすよりは数倍マシだ。


 スカートをたくし上げるのは両手が後ろ手で不可能なので、ファスナーを出来る限り下ろして、地面に落とすと、パンツを下げて少しだけ離れて屈んだ。


 暫くお待ち下さい。


 スカートを四苦八苦しながら履き直した私は、そこでようやく安堵の息を吐いた。


 一時はどうなることかと思ったが、どうやら事なきを得たようだ。


「はあ、死ぬかと思った」


 思わず本音が口をついて出た。


「同じく。どうなるかと思ったぜ」


 劣悪なる元クラスメイトも同様なようだ。


 私はなんとか動ける範囲で反対側に回り込む。可動範囲と言っても一メートルもない。


 ぎりぎり隣に来ると、様子を伺う。


 すこし酸っぱい匂いがしたが、私を助けるためにやったことなので文句を言う筋合いもない。

 この酸味がなければ私はあの精神破綻者に虜辱されていたのだろうから。


「助かった。礼を言わせて貰おう、劣悪なる元クラスメイト」


「そりゃ重畳。ようやく顔を見れたな。お互い何時間も一緒にいるってのに」


 そう言ってつまらなそうに笑った。

 かなり疲れているようだ。それはそうだろう。


 私は知能だけでなく肉体面においても他の追随を許さない完全なる存在だが、こいつはあくまで一般人の枠を出ない。


 不当に数時間拘束されれば疲れない方がおかしいだろう。


「しかし、これからどうするよ。手錠抜け出来るか、某女子高生」


 かちゃかちゃと動かすたびに音がする手錠は、ひんやりとした感触を伝えてくる。


 そして、もちろん手錠抜けなんて非日常的技能は持ち合わせていない。


「無理を言うものではないな。私とて出来ることと出来ないことくらいある。出来るものならこんな場所、一人でさっさと抜け出しているさ」


「なるほど、確かに。僕も後ろ手じゃどうしようもないな。まあ、前にあればどうとか言う話でもないけど」


「結局助けが来るのを待つしかないか。とは言え、連絡が取れなくなってから警察に通報するとしても、恐らくは数時間後だろうな」


 早くとも夜明け以降になるだろう。


 そこから捜査が始まって、七三眼鏡が誰かに目撃されていれば、明日中には助けが来るだろうか。


 自首してくれていればもっと話は早いのだが、それはあり得ないだろうし。

 最悪三日くらい待つことになるかも知れない。


 因みに叫んで助けを呼ぶという行為は、動けない時に二時間ほどやってみたが無駄以外の何ものでもなかった。


 そもそも周辺に人がいる気配がない。

 ここがどこか分からないが、かなり人気の無い場所のようだ。


 そうなると偶発的な助けはあまり期待できそうにない。


「ふん。衰弱死するのが先か、助けが来るのが先か。自分の命が他人の働き次第というのも気に入らないものだな」


「不安か?」


 見透かすようなセリフに少しカチンと来た。

 睨み付けるとじっと見返してくる。


「私が不安? 馬鹿にしないで貰えるかな。私の精神は君の思っている数十倍は強靱なのだよ。例えこのまま死のうが微塵も揺らぎはしないね。そちらこそ不安でいてもたってもいられないのではないのかな?」


「ああ、まあな」


 あっさりと肯定するが、その割に平静そのものにも見える。

 よく分からない奴だ。だからこその劣悪だが。


 じゃり、じゃり、じゃり


 足音が聞こえて、同時に視線をそちらに向ける。


 見ると頭にハチマキを巻いて、なんのつもりかそのハチマキに二本のペンライトを差した七三眼鏡だった。


「ひ、ひひひ、ひひひひ、さっきは、よくも、騙してくれたな。いや、騙されたんじゃないぞ! 振りだ。そう、騙された振りをしてやったんだよ。でも、もう駄目。終わり。まずは邪魔なお前から殺してやるよ。くひ、殺して、やる」


 いい感じにきまっている。


 薬でもやっているのだろうか。


 それとも自分のしでかしたことに精神が堪えきれなくなったのか。

 どちらにしても精神的な人生の敗北者であることには変わりない。


 私の目にはゴミにしか見えない。


「死ねえええっ!」


 大声で叫びながら、サバイバルナイフを向けて、真っ直ぐに劣悪なる元クラスメイトの方へ駆けていく。


 と言っても隣りに私もいるわけで。


「おおおおっ、ぐぼはあっ!」


 勢いよく私のカウンターのケリが顔面を捕らえた。


 ふらふらと後退ると、後ろに倒れる。


 そして、そこにあった何かの機械、恐らくは古くなった旋盤に勢いよく後頭部を強打し、動かなくなった。


「うっわ~、モロ。死んだんじゃね?」


「加減はしなかったから、そうかもしれんな。まあどうせ正当防衛は成り立つ。ああいうゴミは死んでおいた方が世のためだ」


 情けをかける要素が一つも見あたらない。


 出来れば視界の中に残しておきたくはなかったが、こればかりはしかたあるまい。


 劣悪なる元クラスメイトは、やや同情したような目で七三眼鏡を見ていた。


「刺されるところだったというのに、あんなゴミに同情するのかね? 随分とお優しいことだな」


「もう少し加減をしろよ。あいつをこってり絞って手錠外させれば話は早かったつーに」


「手遅れだな」


 七三眼鏡は動く気配がない。


 というか、呼吸音も聞こえ無い。


 どうやら打ち所が悪かったようだ。


「ふん、つまらん死に方だな」


「……ええと、もう少し狼狽とかしてくれないと人間として怖いんですが」


 劣悪なる元クラスメイトの劣悪なる感想。


「死ぬべき屑は死ぬべきだ。のうのうと生きていても害悪にしかなりはしない。違うかな劣悪なる元クラスメイト」


「否定はしねーけど。さすがは某女子高生。まあ、当面の気がかりが一つ減ったと思うことにしよう」


「前向きな意見だな。君らしくもなく」


 劣悪なる元クラスメイトはため息を吐いて腰を下ろした。


 私も座る。さて、これからどうしたものか。


 ふと視線が気になって横を見ると、元クラスメイトがじっとこちらを見ていた。


「なんだ?」


「んー、いや。改めて見るに付け、某女子高生もなかなか可愛いなと」


「今更気が付いたのか?」


 揶揄するように言うと、元クラスメイトは顔をしかめる。


「はあ。あくまで統計的な話題だよ。僕が顔がいいだけで誰かに惚れるような底の浅い奴と思わないでくれ」


「はん、そいつは失礼した。見た目すら考慮に入れない劣悪だったな貴様は」


「それを言うと鬼畜みたいだな。まったくの真逆だというのに」


 元クラスメイトは視線を外すとポケットからタバコを出して銜える。


 火を付けるとメンソールの匂いが鼻孔をくすぐった。


「タバコ、吸うのか?」


「吸ってるだろ? 今現在」


 意外だと言えば意外だった。


 タバコを吸う人種を不良などと言うカテゴリで一括りするエゴは持たないが、吸う人間全般が愚かしいとは思っている。


 わざわざ寿命を縮める真似をして、それを自分の勝手と開き直れる厚かましさは見ていて不愉快だ。


 元クラスメイトは一本私にも差し出す。


「やる?」


「いらん」


「さいですか」


 タバコを箱に戻すと、ポケットに仕舞う。


「なあ、某女子高生。今日って満月だよな」


「それがどうした?」


「いや、某女子高生が大ザルに変身したりしないものか心配で」


「……どこからそう言う発想が出てくるのか不思議でならないな。私が戦闘民族だとでも?」


「尻尾隠してないよな」


「そんなもの付いてるわけないだろ」


 元クラスメイトは怪しいモンだと呟いて煙を吐き出す。


「綺麗な夜空だってのに、トタンの隙間からしか見えないってのもなあ。こう言う時くらいゆっくり眺めたいモンだが」


「さっきから何が言いたいんだ、元クラスメイト」


「実に言いにくいんだがな、某女子高生。さっきから寒くて仕方ないんだが」


 そう言われて元クラスメイトの格好を見る。随分と薄着だ。


「まだ春先だって言うのに、なんでそんな薄着なんだ?」


「某女子高生の用がなんであれ、日が暮れるまでには帰れると踏んでいたんだよ。それがこれだ」


「明日の朝、霜注意報が出てたぞ」


「気休めにもならない情報をありがとう」


 だが、私に言われても困る。

 私だって厚着をしているわけではない。


 上に羽織っているジャケットを脱いでしまえば今度はこちらが凍える。


「某女子高生に生肌で暖めてくれとまでは言わないが、せめてもう少し近づいてくれてると助かる」


「やれやれ。下手な真似をしたら貴様もアレと同じ目に遭うからな」


 しかたなくくっつく。


 仮にも付き合ってくれと言ったのはこちらではあるし、肩を寄せ合うくらい、別に構わないか。


「一応遺言は聞いておこうか。劣悪なる元クラスメイト」


 元クラスメイトは自嘲的な笑みを浮かべる。


「どうか、世界が平和でありますように」


 そう言ってこちらに寄りかかってきた。


 服越しでも温もりは伝わっているだろうか。


 こちらの方は、あんまり暖かくなった気がしないな。

 そんな事を思いつつ、私もトタンの隙間から覗く夜空を見上げえていた。



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