2024年1月~6月

2024年1月

前回で『ぽつりぽつりと』をいったん休止した。

そのまま終了しようかとも思ったがストックしていた断片的なメモもあるので再開することとした。

ただし今後は気張らずに寸感をそのまま投げ出すようなスタイルでいきたい。


・「真実はひとつ!」ではなく事実がひとつ。

「ばかやろう!」と言って殴った。

この事実が片方にとっては友情、片方にとっては暴力というそれぞれの真実になる。


・善や正義も独りよがり。

「おれは百歩譲ってお前の事情も考慮してやっているのに」

たいていこういうふうに自己正当化する。


・同じ星座の星々は同一平面上に並んでいるのではない。

地球との距離はそれぞれ違う。


・病気になって実感する健康のありがたみ。

人生も不幸が訪れてそれまでの日常の価値をさとる。

平凡な日々は退屈なのでなく幸せな毎日だったと。


・大事なお金を差し出すのはぜひともお願いしたいことがあるから。

服を買う、居酒屋で飲む……

お金を支払う側は店員に感謝を伝えるべき。


・恋人どうしがたまに会えば嬉しい。

一緒に住めば高揚感は薄れる。

生活という日常が始まるからだ。

仕事上の必要でホテルに一か月近く滞在した。

観光地のど真ん中のホテルだったがまあ退屈だったこと。


・目を閉じて瞑想しても無心になるのは難しい。

何か祈れば雑念は浮かばない。

専修念仏は無心という名の安穏が救いだったのでは。


・住宅街のどの家々も玄関先がちまちましている。

玄関までのアプローチをカーブさせたりミニ花壇を作ったり。

軽自動車1台分の駐車スペースくらいとれるのに。


・ボーイスカウトの野外活動中、ナイフを紛失した団員がいた。

ある少年が夢を見た。

前を歩く団員の腰からナイフが落ちた。

さがしてみるとその地点にナイフはあった。

少年は実際に目にしていたのだろう。

顕在記憶としてとどまらず潜在意識にしまいこまれたのだ。

似たようなことは私にも毎日起こっている。

朝めざめた時最初に目に入るものは天井のはず。

しかし天井が見えたという(顕在)記憶はない。


・イライラするのは才能。

料理の出てくるタイミングが遅すぎる、早すぎる。

アルコールや料理を運んできたら使用済みの皿を下げればいいのに。

こんな人は接客業の資質がある。


・芸能人が俳句を詠んでプロの俳人に査定してもらうTV番組。

常連芸能人の言葉。

「俳句のタネを生活の中で常に探すようになりました」

刑務所の服役者にこそ有用。

感動のタネを見つける。

それが習慣になれば人間性が根底から変わる可能性あり。


・高速道路を走行する時スピードを上げていけば視野狭窄。

沿線の景色を楽しむ余裕はなくなる。

核融合、クローン、AI等々、研究者は弊害の深刻さまで考慮したか。


・メルカリを初めて利用した。

出品者の千葉県からこの九州の果てまで2日で届く。

こういったサービスは都会の若者がスマホ片手に気軽に利用するイメージ。

ネット通販類のサービスは都会の若者には贅沢。

一歩外に出ればいくらでも店がある。

過疎地の老人たちにこそ利用してほしいがスマホやパソコンの操作が不得手ときている。


・同じ電車に乗り合わせた老人と若者。

老人は幾つめかの駅で降り若者は乗り続けた。

人生に似ている。


・インスタグラムで見る街並みや路地の画像。

何とも言えないよい気分でずっと見ていられる。

演劇の第四の壁と同じで人ごと、よそ事だからいいのだ。

実際に街角や舞台に立てば圧倒的な身体性、臨場感。

現実というものはリアルすぎるほどリアル。


・車に乗ってからたとえばパソコンをシャットアウトしなかったことに気づいたとする。

そんなとき私はハンカチを助手席に放り出したりする。

「なんで助手席にハンカチが?」

帰宅して車を降りる時に頭をひねるのがねらい。

ところが老化の悲しさ。

何を忘れないためだったのか、肝心なことが思い出せない。

何も不思議に思わずハンカチをしまうことさえも。


・日々の営みの中でいろんな人が意識にのぼってくる。

敵であれ味方であれ、当然のことながらその人々と向き合わねばならない。

しかし陰ながら自分を支えてくれる人は自分の視界の外にいる。


・肩や背中を揉むのは凝っている時。

飲食ものどが渇いたりお腹がすいたりしているとき。

マイナスの状況を満たすときに幸福が生まれる。

凝ってもいない、空腹でもない時は幸せのはずだが実感できない。


・理解はできても納得はできない。

それは価値観の相違。

具体的には問題になっている事象を是とするか非とするか、程度問題ならどこまでが是でどこからが非かという基準の相違。


・喜怒哀楽の怒と哀は理不尽の情で喜と楽は望外の情。

理不尽も望外も基準値から外れている点で同じ。

喜怒哀楽のないフラットな状態が安心立命。

淡々と生きようと思う。

おバカなタレントが「淡々と」を「あわあわと」と読んでいたことを思い出す。

飄々と生きることにしよう。


・遠足前夜のわくわく感と遠足当日の楽しさは別物。

小説を読む、それを原作とした映画を見る、この両者の違いに似ている。


・楽しいから笑うのでなく笑えば楽しくなる。

幸せだから感謝するのでなく感謝できることが幸せ。

「情けは人のためならず」と同じ。

見返りを求めるギブアンドテイクの「我」を超えねば。


・暇と金があれば何をするか。

ぜいを尽くした旅行、買い物、飲食だろうか。

そういった楽しみの本質は「興奮」。

一生をそれで通せば酔生夢死。


・知人が1か月余入院していて退院間近。

自分が3週間ほど入院していた時を思い起こす。

入院中は身辺に出来事が起こらないので喜怒哀楽が静まる。

退屈だという思いさえ薄れていく。

起きて3度の食事をして寝る。

相部屋の限られた空間でその繰り返し。

ただ生きている、生かされている。

諦念にも似た無機質な感覚。

退院した時は「やっと我が家に戻れた」という安堵と喜び。

ただそれはそう大きなものではなかった。

リビングの炬燵でくつろぎながら特にすることもない。

そわそわとして落ち着かないのが我ながら不思議だった。

よその家にお邪魔して手持ち無沙汰でいる感じ。

「ここで数時間過ごして夜になればまたあの病室に戻るのだな」

そんな錯覚に陥った。

それならそれでもいい、そんなふうにも思ったものだった。


・「こうあるべき」からは脱却できた。

「こうありたい」からはまだ。

「こうありたい」から不平や不安が生じる。


・さきほどゴミを捨てに集積所へ向かった。

冬晴れの朝、小さな子と手をつないだ母。

その二人を目にして思った。

「物語が始まる」

これから子供を保育園に預け母親は勤めに出るのだろう。

一般大衆のどこにでもいるような母子。

この家族の平凡な今日一日を描けば大衆文学でなく純文学になることだろう。


・サスペンスやミステリー類は残りページの分量で解決までのみちのりが分かるのが困りものだ。

話の展開からしてそろそろ大団円だと思っても残りページが多ければまだ一波乱あるのかと興が覚めたりもする。


・つくられた感はあったが短い動画に感動。

列に並んでいたひとりの女性のところへ知人と思われる女性がやって来た。

そのまま列に入れば後ろに並んでいる人々の反感を買うところだ。

以降の展開は次のとおり。

元から並んでいた女性は後から来た女性を列に入れると自分は列の最後尾に回った。

すると新しく入った女性のすぐ後ろの若い男性が列を抜けると最後尾に移動した。

この男性の後ろに並んでいた4、5人の人たちもそれにならった。

結果、知人どうしの二人の女性は前後くっつく形になった。

次々に列を譲る行為が無言でなされたので、より印象的だった。


・難病を表すのに「1万人に1人」というような言い方をする。

同じような難病がもう一つあれば5千人に1人の計算。

すべてを合算すると難病といえどもけっこうな確率。

実際、誰しも身近に難病の人が一人や二人いるのでは。

難病でなければなおさらだ。

大学病院の待合室の「本日の来院予定者数 〇〇人」という貼り紙。

いつ行っても1500人くらい。

自分の居住地域の全病院の来院者を合わせればかなりの数になるだろう。

だから?私も定期的に病院に通っている。

「生きてるだけで丸儲け」と言うが年を取ると生きるだけでも大変。

重力に抗して立っているだけでも大変。

かててくわえて老齢ゆえの精神的な悩みも抱える。

「生きてるだけで丸儲け」と言うより「生きてるだけで立派」


・男らしさや女らしさは後天的な面も大きいけれど本質的な違いもあると聞く。

太古の昔、女は集落内で木の実の採集や子育てを行い男は集落外で獣を狩って帰った。

それが性差となって幼児期から男は空間認識能力にすぐれ動くものや光るものに興味を示す。

一方、女は色調や動かない物体の認識に高い適応力を示すという。


・大福と饅頭の違い。

中身の小豆餡は同じだが生地の材料が違う。

大福は餅で饅頭は小麦粉。


・「寺もないのに大徳寺」とは長崎七不思議の一つ。

その旧大徳寺の近くの「菊水」という古い茶店。

そこの梅ケ枝餅が大きい。

祭りの出店によくある梅ケ枝餅の倍ほど。

買った観光客はたいてい驚く。

思えば昔の大福や饅頭はこの大きさが普通だった。

いつのまにか大福や饅頭のサイズは昔の半分ほどに。

寿司や錠剤の薬もだいぶ小さくなった。


・一人で車を運転している時に鼻歌を歌うことがある。

ふと思った。

ドライブレコーダーの存在を忘れている人が多いのでは。

だとすれば録画の再生は小説のネタになる。

家人の思いがけない独り言、二人組の悪だくみの打合せ等々。


・職場や地域のレクレーションレベルのソフトボール。

素人の女性がピッチャーを務めることも多い。

馬鹿力の男性が力任せにひっぱたく球が直撃すれば大惨事だ。

プロ野球ではよく見かけるが不思議に素人女性ピッチャーへの直撃は見たことがない。

第二次大戦末期の日本の都市への焼夷弾爆撃。

人間には霊性があるのか、不思議と人体への直撃はなかった。

作家のそんな随筆の記事を思い出す。


・コンビニやスーパーでの会計時にレジの店員に話しかける老人。

話し相手のいない一人暮らしの身で寂しいのだろう。

店員は失礼にならない程度に応対しているが迷惑なことだ。

先日コンビニで弁当を買った。

「温めますか?」と言われて「いや、いい」と答えたがその自分の声が新鮮に響いて驚いた。

殆ど外出せず家庭内での会話もめっきり少なくなって自分の声を忘れかけているのだ。

なるほどスーパーやコンビニの老人はその対策をかねているのかも。

私も自宅で一人きりの時に発声練習をしてみた。

「おはようございます」「お先に失礼します」「お疲れさまでした」

現役時代が脳裏によみがえった。


・全知全能の神になってあらゆる欲望をかなえたい。

しかし、全能ならば「~したい」という希望や欲望は生じない理屈だ。

ただ「~しよう」という意思のみ。

さらには、これから行うことの結果も全てお見通しなら「~しよう」いう意思さえ起こらないのでは。

結論、神は退屈である。


・風呂は健康のため41度に設定しているが物足りず顔に汗もかかない。

38度にでも下げれば肌寒くさえ感じることだろう。

38度は体温より高いのに。

それなのに夏に35度になれば猛暑日と呼び汗が吹き出る。

体温より低いにもかかわらず。


・TVドラマやCMの病室でベッドサイドの床頭台しょうとうだいを見ると入院していた頃を思い出す。

「床頭台」という言葉は分かりにくい。

駅頭えきとう」「埠頭ふとう」等の語で分かるように「頭」には「~のあたり」という意味がある。

だから「床頭」は文字どおり「ベッドサイド」という意味だ。

あの小さな床頭台に入れていたわずかな身の回り品、あれだけで生活していけるのだと思えば究極のミニマリズム。


・女性よりも男のストーカーが多いのは男の方が女々しいからではないか。

種の保存の本能に従う女性は女々しさが生き抜くことの差しさわりになると分かっている。

離婚や死別の際の未練についてもそうだ。

私の伯父は連れ合いの伯母が亡くなると後を追うように1年後に逝った。

これはストレスがいかに心身を蝕むかということも示している。

精神面がどうして健康に影響を及ぼすのか。

医学的に言えば免疫不全に陥るのではなかろうか。


・兄弟や親戚の家を訪問すると旦那はたいてい寝そべっている。

奥さんはそうでもない。

女はつつましくという文化のせいだろうか。

理由はともあれ大したものだ。

休日に1日中ずっと体を横たえるなと言われたら耐えられそうにない。


・大金を手にすれば何をしようか、どこへ行こうかと気ぜわしいことだろう。

貧乏人は無一物の日常を仙人の暮らしと心得ればよい。

あわただしく耳目を楽しませるよりもずっと上等だ。


・昔と今の生活を細部まで具体的に比較してみれば昔ほど季節に敏感であったろう。

季語が生まれるゆえんだ。



2024年2月

・老人たちの使う方言は地元であっても若い人たちには分からないとはよく聞く話だ。

私も若い時に老人たちが話す長崎弁を聞いてそう思った。

その私が知っているたとえば次のような長崎弁はどうだろう。

今の若い人が理解できないとすれば方言はだんだんと薄まっていくということになる。

 つうのできかかっとったとばかっさいだけん痛うしてのさん。

 つうくれどんがそこんねきばつんのうでさるきよった。

 つんとうして手のがんにゃになってゴミ袋ん口ばきびりえんとばってんどがんすう。


・人生はちょっとしたことで大きく変わる。

たとえば直進している車のハンドルを左か右にちょっと切れば人生は暗転する。

これは拉致されて車に押し込められた時に応用できる。

ハンドルに手をかければ他の車に衝突して人が集まってくるだろう。


・ご飯やパンは炭水化物で豆腐はタンパク質。

前者の素材の稲と小麦、後者の大豆、どちらも同じ農作物なのに。

大豆は用途が広い。

豆腐や薄揚げ、納豆、湯葉、豆乳。

同じ豆類のそら豆、小豆、グリーンピースなども同じようにできないものだろうか。


・病院の待合室での老人たちの会話。

「〇〇さんは近頃来ないけどどこか悪いのかしら」

若い頃は面白いジョークだと思っていたが当人たちはジョークのつもりではあるまい。

とすれば、老人にとって病院に来れるのは軽い病なのだろう。

医学の進歩で多病息災の現代、老人が定期的に病院に通うのは健康的な日常なのだ。


・神奈川県の形は犬に似ている。

右を向いている犬のように見える。

少し違和感を覚えるのは私が左利きのせいだろうか。

横向きの犬を描くとしたら私は左向きで描く。

右利きの人はどうなのだろう。


・ど忘れは老化の特徴の一つであるという記事を読んだ。

それは周知のことだが「ど忘れ」という言葉が気になった。

「どあほう」「ど根性」など、「ど」という接頭語はののしるニュアンスだ。

その「ど」を付けた「ど忘れ」がどうして「ふと忘れる」という意味になるのだろう。

辞書をひくとののしる意を自嘲に転用したとの説明があって納得した。

自嘲だから「私、ちょっとど忘れしてしまって」はOKでも「あなた、ど忘れしたんじゃない?」は不自然だ。

さらに言えばもともと俗っぽい表現だから高貴な方々にはふさわしくない。

皇族の女性が「私、ちょっとど忘れしてしまって」とは言いそうにない。


・ゴミを捨てに行く途中に気づいた。

道路の路側帯の白線が消えかかっている。

消えかかっていると言うより点々と散見されるのみ。

この住宅団地ができて20数年が経過しての劣化だ。

それなら20数年どころではない私の体のあちこちにがたが来ているのは当たり前だ。

エントロピーの増大と言おうか諸行無常と言おうか。


・私は高いところが苦手だ。

断崖絶壁のきわに平気で立てる人がいる。

そんな人と比べて臆病だと卑下する必要はないという説を聞いた。

生物にとって最も大事なのは危険回避能力。

その観点から見ると高いところや断崖を恐れるほうがまともなのだそうだ。

将来のことに関してつい悲観的に考えがちな人についても同じだ。

危険回避という点からすると最初にまずい結果を想定するのは当然だということになる。

もちろんずっと悲観的なままでいていいわけではない。


・住宅街を散歩すると足場が組まれて外壁塗装をしている家を見かける。

ふと思った。

塗装職人は体重が軽い人がよいのでは。

外壁はともかく屋根の塗装では瓦やスレートの強度が気になる。

実際に巨漢の職人が屋根にいるのは見たことがない。


・「燃焼」という言葉は炎、高温といったイメージ。

「脂肪の燃焼」というのは大げさではないか。

そう考えた時ふと気になったことがある。

死ねば体は冷たくなるが生きている証とも言える体温はどうやって発生するのだろう。

血液の巡りに関係あるなら温水配管が張り巡らされた床暖房みたいなものか。


・若者に「帰省」のイメージを聞いてみたい。

私などの年代では『カントリーロード』や『思い出のグリーングラス』のイメージ。

田舎の駅で降りて大きめのカバンを提げてある程度の距離を歩く、これが「帰省」だ。

自宅と親の実家を自家用車で往復する。

玄関から玄関へ、今どきの若者の帰省は小さい時からそういうスタイルだったはずだ。


・同窓会や身内の集まりでは昔の思い出話に花が咲く。

そんなとき過去の自分のちょっとした発言が話題になることがある。

よくそんなささいなことを覚えているなあと意外の感に打たれる。

まてよ?

特にどうということのない発言でさえそうなら人を傷つけた発言はなおさら覚えられているだろう。

ただ相手が言わないから分からないだけだ。

一生をかけて自分の成長でつぐなわなければならない。

今だから言うけどあんたに昔こんなひどいことを言われた。

笑い話としてそう言ってもらえる日まで。


・五七五の「川柳せんりゅう」が柄井川柳からいせんりゅうの名から取ったものであるように七七七五の「都都逸どどいつ」も都都逸坊扇歌どどいつぼうせんかから。

 お酒飲む人 花ならつぼみ 今日もさけさけ 明日もさけ

都都逸は男女の人情の機微を歌ったものが多い。

 あざのつくほど つねっておくれ それをのろけの たねにする

これをひねったものがまた面白い。

 あざのつくほど つねってみたが 色が黒くて わからない


・難病にまでは指定されていないが徐々に進行して死に至る不治の病がある。

以下にその症状を列記する。

全身の筋力が徐々に衰え無理がきかなくなる。

気力も衰えて物忘れがひどくなる。

皮膚の色つやが徐々に失われる。

体の柔軟性が徐々に奪われ靴下やズボンを履くのにも難渋するようになる。

腰や膝が痛み出し起居や歩行がつらくなり最終的には寝たきりになる。

他にも頻尿など色々な症状があるがただ一つの救いは進行が比較的ゆるやかなこと。

この恐るべき病の名を「老化」と言う。


・健康的な食生活には5大栄養素をバランスよく摂る必要があるらしい。

どんな食品を食べればいいのか。

ネットで検索すると「六つの基礎食品群」「毎日食べた方が良い食べ物15選」などの記事が並ぶ。

それほどまでにしなければ健康を保てないほど人間は繊細なのだろうか。

満足できる食環境にあるとは思えない野良猫や野良犬でも体を壊しているようには見えない。

野生の肉食動物や草食動物も偏食を改めて「六つの基礎食品群」を、という話にはなるまい。


・日本と西洋でドアの開閉が異なるのは周知の事実だ。

西洋では内側に開くのに対し日本は外側に開く構造になっている。

日本は玄関に靴を脱ぎそろえるスペースを確保する必要があるためだ。

刑事もののドラマで鍵のかかったドアに体をぶつけて強行突破するシーンがよく出てくる。

日本でもホテルの部屋などは西洋式の構造だからあれが可能なのだ。

一般的なアパートやマンションのドアはそうはいかない。

だからたいてい刑事が管理人に鍵を開けてもらうシーンになる。


・私が子供だった頃に比べると電化製品や交通機関など目覚ましい発達を遂げた。

おかげで便利で効率的にはなったが生活は楽になっただろうか。

便利で効率的になったがゆえにふん刻みで動かなければならないほどせわしくなった。

最速の交通機関である飛行機はその象徴だ。

飛行機はゆっくり飛ぶほうが難しい。


・人は中年になると体力の低下を嘆く。

だがそれは若い時のようなパフォーマンスができない嘆きに過ぎない。

老年になってのそれは日常生活に支障をきたす深刻な嘆きだ。

そしてやがては寝たきりにいたる。

自力で動き回ることができないなら「動物」の名にふさわしくない。

いっそ植物に近いがしかしそれは嘆かわしいことだろうか。

置かれた場所で不平も言わず生きる、そんな植物の潔さを思えば寝たきりも悪くない。

悪くないどころか恵まれた境遇とさえ評価できる。

寝たきりになれば人と会わねばならない時は向こうから訪ねてくる。

それは世の社長や大統領が常に相手を呼びつけるのと同じだ。

しかも執務室の椅子でなくベッドで寝そべったまま応対してよい。


・知人が言った。

「寝る前のコップ1杯の水は命の水ですよ」

就寝中に血液がドロドロになるのを防げるとのこと。

それはいいがトイレに起きて眠りが浅くなるのは困ったものだ。

もっと深刻な二律背反もある。

心臓の病があれば医者は水分を控えろと言う。

泌尿器を治療すれば医者はどんどん水分を摂れと言う。

両方を患えばどうすればいいのか。

食べ物についても同じ。

動脈硬化を防ぐためには不飽和脂肪酸が豊かなイワシなどの青魚を食べればいい。

しかし青魚は痛風の元になるプリン体も多く含んでいる。


・全国的な人気を誇るアイドルも帰省すれば実家の親には単なる我が子である。

グラバー園、眼鏡橋など私の地元長崎の観光名所には全国から観光客が押し寄せる。

私は乗り合いバス1本で気軽に行けるが特に行こうとは思わない。

とかく身近なものの価値には気づきにくい。

近年のコロナ禍についての評価もそうである。

私が通った高校の記念誌を見るとスペイン風邪の記事がある。

1918年(大正7年)の記事だから旧制中学校の時代だ。

関西方面に出かけた修学旅行団のほとんどがスペイン風邪に罹患りかんし教師1名生徒1名が死亡したとある。

スペイン風邪というのは1918年から1921年にかけて全世界的に大流行したインフルエンザである。

我々はようやく収束したかという程度の感覚でいるが今回のコロナ禍はスペイン風邪と同じく後世に語り継がれる歴史的パンデミックだったのだ。


・「彼は人一倍責任感が強い」

なんということもない言い方だが次のような指摘を受ければどうだろう。

「人一倍」は人の一倍なのだから他の人と変わらないのではないか。

もっともな疑問だと思うがこの謎はすぐに解ける。

「人の倍は働け」

このように「倍」はもともと「2倍」という含みの単位なのだ。

だから「人一倍」は「人の1×2倍」ということになる。

「ビール1ダース」がビール1本ではないのと同じようなものだ。

数に関する言葉で「人一倍」以上に分かりにくい表現がある。

「隣りの娘さんに見合いを世話しようと思うが器量はどうだい、美人かね?」

「十人並みってところだよ」

この「十人並み」という言葉を十倍という意味にとる人が多い。

辞書によれば「十人並み」は「容貌、才能などが普通であること」

ネットで調べてみると「どんぐりの背比べ」と同じだみたいな説明がある。

この「十人並み」や「憮然ぶぜん」など、意味を誤解しがちな言葉はしだいに使われなくなっていくだろう。


・即席のインスタント麺はゆでるときに麺をほぐさないほうがいい。

麺に含まれるでんぷんが麺をコーティングしてツルツルした触感を出す。

箸でほぐすとそのコーティングがはがれてしまう。

麺が縮れているので箸でほぐさなくても自然にほぐれる。

そんなネット記事を読んだので「サッポロ〇〇 みそラーメン」で試してみた。

袋には「麺をほぐしながら3分ゆでる」とあるが今回は次の要領でやってみた。

熱湯に麺を入れて1分後に1度だけひっくり返してゆで終わったらどんぶりへ。

結果は確かに実感できるほどに麺の触感がこれまでより美味しくなった。

なお「どん〇〇」などのカップ麺も以下のようにすれば美味しいというがまだ試していない。

通常どおりにカップに湯を入れる。

それをどんぶりなどの耐熱容器に移す。

ラップをして電子レンジに入れ500Wで3分過熱して終わり。


・鍋に玉子全体がほぼ浸るほどの水をいれて10数分茹で続ける。

これが私の茹で玉子の作り方だがネットの記事に時短の作り方が紹介されていた。

①鍋に玉子を入れ鍋底から1㎝の高さまで水を加えて中火にかける。

②水が沸騰したら蓋をして中火で4分加熱して火を止める。

③蓋をしたまま5分おく。

農林水産省の公式Xに掲載されている作り方らしいが茹で玉子というより蒸し玉子だ。

しかし私のやり方と比較すれば水とガス代が節約できる。

そこで料理にまめでない私も実践してみた。

温泉玉子くらいにしかならないのではと思っていたが結果はまあまあ。

固めが好きな私には加熱や蒸らす時間を少し長くしたほうがよかったかもしれない。


・だいぶ前に見たTVドラマ。

主人公は若い男性で元気そうに見えるが余命いくばくもない。

そんな進行性の病を抱えていることを親には黙っていた。

しかし母親が知ってしまう。

「母さん、ごめん」

母親を前にして悲しそうな顔と声でそう言った。

隠していたことでなくせっかく生を授かりながら病にかかってしまったことを母親に詫びたように見えた。

自分のことはさておいて他者をおもんぱかる心がねの健気けなげさ。

こういった姿にかれるのは親の側に立つ年齢なればこそだろうか。


・毎年冬になると豪雪地帯がニュースになる。

道路の雪かきや屋根の雪下ろしは大変で死者もでたりする。

積雪量の少ない都市部や近県に移り住めばいいのに。

仕事がらみで難しいなら高齢者だけでもそうしたらどうか。

というのは短絡的な考えなのだろうとも思ったりする。

近所の道路に高低差があれば削って平にしカーブも直線化する。

人間関係にしても気に入らない身内がいれば放逐して遠ざける。

現実的にはそういうわけにはいかないだろう。

人生は不快なことを強制的になくせば豊かになるというものでもなさそうだ。

ただし雪下ろししなくてすむように北国の家は屋根に傾斜をつければいいのにとは思う。


・昨日の2月25日(日)で17日間にわたる長崎ランタンフェスティバル2024が終了した。

3連休が2回あったせいもあり人出は過去最高の121万人だったとのこと。

最終日の昨日、私は用事で市の中心部へ出かけたが吉宗にも入店待ちの長い行列。

「吉宗」は創業者の吉田宗吉の名から取った屋号で「よっそう」と読む。

1866(慶応2)創業の老舗で茶碗蒸しが名物。

茶碗蒸しは食事の添え物として小さな器で供されるのが普通だが吉宗はどんぶりに入って出てくる。

長崎市民には身近な存在だから県外の人が大きさに驚いたと言うのを聞くと新鮮な気がする。

同様に「皿うどん」も灯台もと暗しだ。

皿うどんという呼称に長崎市民はなんの疑問も抱いていない。

しかし県外の人に「うどんと言うより焼きそばに近いのでは」と言われると首肯せざるをえない。

皿うどんを食するときに酢をかける人もいるが長崎市民は一般的にはウスターソース。

私の知人は塩分を控えるために減塩のソースを使い始めた。

スーパーの食品売り場を見て回ると減塩対策の品のなんと多いことか。

中でも目を引くのは減塩の塩で初めて見たときは冗談かと思った。

調べてみると塩の主成分である塩化ナトリウムを減らして塩化カリウムで塩味を補っているようだ。

ただし塩化カリウムは腎臓に疾患を持つ人にはよくないらしい。


・「楽あれば苦あり」で若いころからの不摂生がたたって2年前に心筋梗塞を患った。

予後は良好だが高血圧症、高脂血症、高尿酸血症を抱えていたこともあり以下の7種類の薬を毎日服用。

バイアスピリン錠100mg(血の流れを良くする薬)、タケキャブ錠10mg(胃酸の分泌を抑える薬)、ロスバスタチンOD錠10mg(コレステロールを下げる薬)、エナラプリルマレイン酸塩錠5mg(血圧を下げ心臓の働きを助ける薬)、カルベジロール錠10mg(血管を拡げ心臓の負担を減らす薬)、エゼチミブ錠10mg(コレステロールを下げる薬)、酸化マグネシウムNP原末(胃酸を抑え便通を良くする薬)

最後の一つを除けばみな錠剤だが私が子供のころの薬は粉薬が多く薬包紙に包んであった。

子供は粉薬を飲むのが苦手なので親がオブラートに包んでくれたものだ。

餃子の皮程度の大きさの円形の薄いオブラートが懐かしい。

現在は錠剤が主流になって見かけなくなり「オブラートに包んだような物言いをする」というような比喩表現も聞かれなくなった。

病気をすれば生活は健康的になる。

薬を飲むため食べたくなくても朝食を規則正しく食べなければならない。

糖尿病の予防で善玉コレステロールを増やすため運動したくなくても歩きに出かけなければならない。

塩辛い味付けが好きでも塩分を減らさなければならない。

若いころはウオーキングをしている老人を見ると年寄りの暇つぶしくらいに思っていた。

いざ自分がその身になってみると老人は生きること自体が仕事であり運動は治療行為みたいなものだ。

ウオーキングは疲れるし寝たきりも悪くない、そうも思うが家族は長々と寝付かれては困るだろう。

ぽっくり逝くために運動しているようなものだ。

ここからは「苦あれば楽あり」の例。

私の知人の知人が徒歩による通勤で高血圧を克服したとのこと。

片道1時間半、つまり往復3時間をしかもかなりの速度で歩く。

それで数年後には体重が17kgスリムになり高血圧も完治したという。

薬代もかからず羨ましい話だが「言うは易く行うは難し」だ。

むしろそのような苦行を小さな錠剤いくつかを飲むことで免れさせてもらっていると感謝すべきだろう。


・近しい人の不遇を表立って救うことができなくても心の中でエールを送ることはできる。

あるとき人のために祈りながら思った。

かつて自分が窮地にあったときも今の自分と同じように祈ってくれていた人がいたのでは。

「人にしてやったことは忘れろ。人にしてもらったことは忘れるな」とはよく聞く言葉だ。

してやったことを忘れずにいると見返りがないことに不満を覚えるかもしれない。

それではせっかくの善行がだいなしだ。

してもらったことはなぜ忘れてはならないのか。

「自分を愛してくれる人がいる、自分は生きていていいのだ」

そう思えるからではないか。

その思いは生きていくための究極のよすがとなりうる。

「最大の不幸は貧しさや病気でなく自分が誰からも必要とされないと感じること」

マザー・テレサはそう言ったが私も人が生きるうえでの最大の問題は孤独ではないかと思う。

お金があれば孤独はとりあえずは回避できる。

周囲に人が寄ってくるし楽しいこともいろいろとできるだろう。

しかしそれは高笑い、バカ笑いに取り囲まれた表面的な回避だ。

心の深いところでじんわりと噛みしめるような喜びではない。

さいわい私は貧乏だから本物志向でいくしかない。


・うかつなことは言うものではない。

雪下ろししなくてすむように北国の家は屋根に傾斜をつければいいのに。

四つ前の記事でそう書いた。

誰しも思いつくようなことなのに実施されていないのは理由があるはずだ。

ネット上でリサーチすると理由があれこれ挙げてある。

私もうすうす予想していたことが多いが意外な事実が一つあった。

急こう配どころかあえて屋根からの落雪を防ごうとさえするのだ。

そのために屋根に金具を取り付けたり特殊な形状の瓦を使用したりもしている。

(「落雪防止 屋根」「落雪防止 瓦」で検索して「画像」を見てほしい)

以上のことは私は初耳だが北国の人にとっては言わずもがなのことだろう。

東京に雪が降って数センチ積もればテレビのワイドショーは朝から大騒ぎ。

あれを北国の人たちはどんな思いで見ているのだろう。



2024年3月

・「九仞の功を一簣に虧く」という故事成語を久しぶりに思い出した。

正確な意味を確認しよう。

「きゅうじんのこうをいっきにかく」と入力し変換キー。

すると表示されたのは「求人の功を一気に書く」

そうだろうなあとため息交じりに納得してしまった。

オブラートという「物」を日常的に目にすることがなくなった。

そのため「オブラートに包んだような物言いをする」というような比喩表現も使われなくなった。

3回前の記事にそう書いた。

これは「物」に限らず「度量衡どりょうこう」(分かりやすくいえば「単位」)についても言えるのではないか。

「九仞の功を一簣に虧く」の意味が分かりにくいのは「じん」という単位に馴染みがないせいもあるだろう。

他の例を挙げれば昔は両腕を真横にげた長さを「一尋ひとひろ」とした。

この単位は物差しやメジャーが普及した現代、漁師以外の一般の人々はまず使わないだろう。

「割合」を表す単位も同じだ。

「(望みは)九分九厘くぶくりんなくなった」より「99%なくなった」が一般的になっている。

五分五分ごぶごぶ」もそのうち「フィフティフィフティ」に取って代わられるのでは。

おしゃれな服飾や理美容の世界で「七分しちぶ袖」「五分ごぶ刈り」などの言い方が残っているのは面白い。


・農林水産省が紹介しているやり方でゆで玉子を作った件を2月の記事に載せた。

全体的に柔らかすぎたので今回、次のような手順で再試行。

小鍋に水を1センチ入れて沸かし、玉子を入れて蓋をし4分ゆでる。

湯が1センチしかないのでゆでると言うより蒸し煮?

4分たったら火を止めて蓋をしたままおいておく。

前回はマニュアルどおり5分おいたが今回は8分にしてみた。

結果は前回よりよかった。

黄身は固ゆでと半熟の中間でOKだったが白身がまだ柔らかかった。

白身が先に固まるイメージがあったので調べてみると以下のことが分かった。

白身は約60℃で固まり始め約80℃で完全に固まる。

黄身は約65℃で固まり始め約70℃で完全に固まる。

私は白身も黄身も固いのが好みだが温泉玉子が好きな人も多い。

温泉玉子は黄身はほどよい固さで白身はどろっとしている。

これは上記の白身と黄身の微妙な凝固温度差を利用して作る。

私の今回のやり方は期せずして温泉玉子に近いものを作ることになったのだった。

外の白身より中の黄身から先に固まる、つまり「シンから温まる」というのが「温泉玉子」の名の由来らしい。

なお、今回玉子のお尻を画びょうでぷすっと刺してから鍋に入れた。

初めてやってみたが話に聞いていたとおりきれいに簡単に殻がむけた。


・ナマコやホヤを初めて食べた人は大変な勇気の持ち主だとよく言われる。

そんな大それたものでなくても自分にとっての初物はつものを口にする時は誰でも若干の拒否反応が起こるのでは。

私はコーヒーを初めて目にした時、それまでそんな真っ黒な飲み物を見たことがなかったので泥水のようだと思った。

高校生のころコカ・コーラが日本に上陸したが、初めて飲んだ時は漢方薬のような味に感じたことを覚えている。


・赤ん坊のニギニギのように手を握っては開く動作を反復すると数分でつらくなるだろう。

それを思えば数十年間一時も休みなく拍動や呼吸を続ける心臓と肺には我が体ながら頭が下がる思いだ。

全身麻酔で心臓の手術をするとき心臓と肺は止まる。

しかし手術が終わると止まっていた心臓と肺が再び動き出す、これも神秘的なことだ。

自律神経が文字どおり自律的にコントロールしてくれているのだ。

それに対し排泄作用は自分の意思が介在できる。

昨日の朝6時ごろ尿意を覚えて目が覚めた。

起きるには少し早い時間だったのでかなり強い尿意だったが我慢して寝たままスマホをいじっていた。

すると尿意が薄れてきて気にならなくなった。

自律神経にしてみれば強い尿意を送るところまでが仕事で、目が覚めたら後は自分の意思で勝手にやれということなのだろうか。

括約筋を緩めて排便や排尿をするのはたしかに自分の意思でやることだ。

ではふだん大小便を垂れ流さないようにしているのはどういう仕組みなのだろう。

自律神経がコントロールしてくれているのか自分の意思でそれとなく頑張っているのか。

ともあれ若いときは自分の体についてありがたいとかどうなっているのだろうなどと考えなかった。

「いつまでもあると思うな親と金」と言うが「健康」も付け加えたい。


・「ありがとう」に比べると「すみません」はどこかしら自分を守ろうとする意識が潜んでいる。

人に何かしてもらったときは「ありがとう」のほうがいい。

そう思っていると自然と「ありがとう」が口をついて出るものだ。

先日、長崎の産土うぶすな神である諏訪すわ神社に出かけ家内安全を祈った。

諏訪神社に隣接して明治18年創業の「月見茶屋」という老舗がある。

片参りを避けて両参りとばかりに入店。

ここはぼた餅が名物だが板わさといなり寿司を肴に日本酒を注文した。

店員の女性が注文の品を運んできたので「ありがとうございます」と私。

すると女性も「こちらこそありがとうございます」

なんと気持ちのいいやりとりだろう。

それが1週間ほど前のことで昨日は再び長崎の中心部へでかけるため乗り合いバスに乗った。

バスの運転士が乗客が降りるたびに「ありがとう」と声を発する。

私も終点で降りるとき「ありがとうございました」と礼を言った。

すると運転士は無言。

どういうことだったのだろう?


・「心身一如しんしんいちにょ」という言葉もあるように体と心は密接に結びついている。

年を取ると心身ともに衰えて何をしてもこんが続かない。

録画したテレビ番組を見るときも早送りにしたりする。

年寄りは気が短いといわれるゆえんだ。

別の言い方をすれば力の衰え。

推理小説にしても同時進行する複数の場面を交互に描写するような構成のものは読むのが面倒になった。

本を読むというのは脳にとってけっこうな努力を要する作業なのだろう。

読書どころか「考える」ということも煩わしくなりつつある。

「考える」に対して「思う」は努力を要しない。

歩いていて「暑いな」とか「風が気持ちいい」とかの「思い」は自然に湧き上がってくる。

しかしその「思い」さえ最終的には浮かばなくなるのかもしれない。

体が暑さを感じても脳内で「暑い」と言語化できなくなれば心身一如の乖離かいりの始まりだ。


・小田〇正の歌には「風」という言葉がよく出てくる。

歌詞の中では喜びや悲しみなど色々な思いを風は運ぶ。

しかし実生活では風は害悪も運んでくると昔の人は恐れた。

これは空気感染などを考慮すると的外れな用心ではない。

感染でなくとも元気だった人がいきなり倒れて亡くなったり体が不自由になったりすることがある。

現代医学では脳卒中などの脳血管疾患と診断されるケースだ。

昔の人はこれを「悪い気」「悪い風」に「あたった」と考え「中気ちゅうき」とか「中風ちゅうふう」と言った。(「中風」は「ちゅうぶう」「ちゅうぶ」とも)

なお「脳卒中」の「中」も上記の「中気」「中風」や「中毒」などと同じく「あたる」という意味。

「卒」にはいくつかの意味があってなじみ深いのは「卒業」などに使われる「終わる、終える」。

「脳卒中」の場合は「卒倒」などと同じく「突然、急に」の意味だから「脳卒中」は脳が邪気に突然あたる病い。

と、偉そうに知識をひけらかせば世間のが強くなる。


・特殊なを紹介するテレビ番組を見た。

藻そのものよりも藻の横にボールペンが置かれてあったのが印象深かった。

昔は物のサイズの見当をつけるための比較材料はタバコの箱と相場が決まっていた。

タバコはあらゆる場面で排斥される存在になってしまった。


・円周率について素朴に不思議に思うことがある。

円周=直径×円周率、おなじみの公式だが算数の授業では円周率を3.14として計算していた。

現在はコンピュータで1兆けた以上まで分かっているが無理数なのでどこまでいってもきりはない。

コンパスを5センチの間隔に開いて円を描いたとする。

直径は10センチだから円周の長さは「10×3.14……」

しかし「3.14……」の部分は延々と続くから円周の長さも数字では確定できないことになる。

現実にはちゃんとコンパスで円周が描けているというのに。

次に円周が10センチの円があるとする。

この場合は直径が数値で確定できないことになる。

ちゃんと定規で直径の線が引けるのに。


・「禁煙は簡単だよ。俺なんか何度も成功した」

ものは言いようで、うまいことを言う人がいるものだ。


・動物の1匹、2匹、3匹という数え方。

同じ「匹」なのにどうして1ぴき、2ひき、3びきと読み方が変わるのか。

日本語を習得しようとする外国人はこんなところにもひっかかるらしい。

我々日本人には何の抵抗もないことだが言われてみれば確かにそうだ。

ほかの例を考えてみた。

1本、2本、3本も同じで「ぽん」「ほん」「ぼん」

以上のふたつの例を並べてみると2のときが「ひき」「ほん」と普通に読む。

1のときが「ぴき」「ぽん」と半濁音、3のときが「びき」「ぼん」と濁音になる。

このような法則がみてとれる。

しかしほかの例を考えてみたらこの法則はすぐにくずれた。

「1歩(ぽ)」「2歩(ほ)」「3歩(ぽ)」

やはり日本語は難しい。


・若いころにアブサンをいう酒を飲んだことがある。

友人たちと飲んでいてふざけ半分に一番強い酒を飲もうということになったのだ。

度数は70度前後だったと記憶している。

小さなカクテルグラスに注がれて出されたのだが一口飲んだ瞬間「ウッ!」という感じでのどが詰まった。

40度くらいのウイスキーならともかく、これは一気に飲んだら危ないと体が自然に反応したのだろう。

酒でさえそうなら毒物はなおさら体が受けつけないだろう。

ということは人を死に至らしめるための毒物は致死量が微量でなければならない。

実際、青酸カリの致死量は0.3グラムである。

液体の毒物で致死量がコップ1杯くらいだったら飲み終える前に吐き出すはずだ。


・ショッピングセンターで親子づれの二人を見た。

息子が小柄な母親の後ろを付いて歩いていた。

母親はごく普通のおばさん。

子は中学3年くらいで運動をやっているのか体格がよく頭も坊主刈りだった。

学校では下級生や部活の後輩に先輩風を吹かしていてもおかしくない。

その息子が何か買ってもらいたいのか、母親の顔色や機嫌をうかがうように歩いているのが微笑ましかった。

親子っていいものだなと思ったことだった。


・自分の人生は行き当たりばったりだったがそれも悪くはなかったと今は思っている。

知人が自分のブログにそう記していた。

あの時違う決断をしていればと思うこともあるがそうしていても今よりいい人生だったかどうかは分からないとも。

この感慨自体、知人の現在が少なくとも不幸ではないことを物語っている。

私も常々次のように考えている。

過去にどんな失敗をしたとしても現在を幸せだと思えるようになれば過去の失敗さえ必要だったということになる。

こう書き記しながら改めて思う。

現在を幸せだと思えるように生きようとする心がけを手に入れたこと自体が最も価値のあることではないかと。

私もあの時こうしていればと後悔することは多い。

それら全てが願いどおりになっていたなら私の社会的地位や経済状態は恵まれたものになっただろう。

しかし人間的には逆におかしな方向に向かっただろうことも想像に難くない。

昨日たまたま次のような内容の講演をYouTubeで見た。

ある男性が交通事故に遭って左足を切断した。

知らせを受けて妻が病院に駆け付けた。

悲嘆にくれるかと思いきや妻はこう言ったという。

「あなた良かったわね、命が助かって。右足も失わずに」

講師はこう話をまとめた。

人生を決めるのはできごとではない、できごとをどう解釈するかにかかっている。


・塩辛いものを食べれば高血圧ひいては心筋梗塞や脳梗塞、甘いものを食べれば糖尿病が心配。

過度の塩味や甘味がないのはどんな食事かと考えて浮かんだのは病院食。

知人が病気で入院して1か月ちょっとたったころに血液検査があった。

結果は以前と違ってすべての数値が基準値内。

ところが退院して用心しながらも好き勝手な食事に戻ったところ血液検査でひっかかる項目が出てきたとのこと。

病院食は味気ない食べ物の代表のように思われているがカロリーや塩分がコントロールされた理想の食事なのだ。

飲み物も同様に何の味も刺激もない白湯さゆが最も健康的な飲み物だろう。

なにやら人の生き方についても考えさせられる。


・YouTubeで見た興味深いコンテンツの紹介。

結論は「現代人は食べすぎ」というものだった。

原始時代の狩猟生活から長いあいだ人類も他の動物と同じく十分な食料が得られず空腹が常だった。

しかし低血糖の空腹状態であっても動き回らねばならない。

そのエネルギーを生み出すため血糖値を上げる働きをするホルモンが人体には10種類ほどある。

それに対して血糖値を下げるホルモンはインシュリンひとつしかない。

このことからも分かるように人の体は空腹で過ごすようにできており糖尿病を心配する必要はなかった。

現代人は明らかに食べすぎでありそれが高血糖、高血圧、高脂血症など「高~」という多くの症状となって現れている。

だいたい以上のような内容だった。

実感としては肥満体の人はともかく普通の体形の人は食べすぎという自覚はないだろう。

私もBMI25未満の普通体重だが「高」の付く症状をいくつか抱えているので少なくとも満腹は避けよう。


・たまに飲みに行く店に30代後半の女性がいる。

彼女が年に似合わず長崎弁の古い言葉を知っている。

聞いてみると祖母と同居していたとのこと。

3世代同居で文化は受け継がれていくのだと納得。

昨日の夕食は妻とカレー専門店で外食。

妻は食べる前にスプーンをお冷やの入ったコップにけた。

昔ながらのこんな習慣も核家族化した現在、私たちの孫には伝わらないだろう。


・明後日から4月。

新年度を迎えてこのブログをリニューアルする。

変更は次の2点。

「日付けを入れる」「文体を調にする」

ですます調に関しては、読者の耳障りがいいだろうということもあるが私の気分転換が主な理由。



●2024.4.1(月)

今日から4月、春もたけなわです。

私の父は生前、春どころか6月に入ってもフリースのジャンバーを着ていました。

熱中症やのぼせが心配なので「暑いだろうに脱げば?」と笑ったものです。

けれどもそれは余計なお世話でした。

「若者叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」

現在の私が家族の中で一人まだフリースのジャンバーを着ています。

防寒着は肌寒いから着用するのであって暑いと思えば人に言われなくても脱ぐ。

自分が老人になって初めてそんな当たり前のことを実感している次第です。

年を取るとどうも寒さに弱くなるようです。

銭湯で子供の自分には熱すぎる湯を老人客が好んでいた気持ちも今は分かります。

話変わって「ジャンバー」が気になって調べてみました。

すると英語の綴りは「jumper」なので「ジャンパー」が正しいとのこと。

しかし日本人にとっては「ジャンパー」より「ジャンバー」が発音しやすく私も子供のころからずっと「ジャンバー」で通してきました。

こんな細かいことにこだわっている間に時代は移り若者はフランス語の「ブルゾン」を使っています。

「ジャンバー」であろうが「ジャンパー」であろうが若者にとっては「死語」と化したのです。

ついでに「バンド」と「ベルト」の違いも調べてみると説明の末尾にこうありました。

「年配の人はベルトのことをバンドと呼ぶことがある」

はい、そのとおりです……



●2024.4.2(火)

長崎のケーブルテレビ局制作の「この坂のぼれば」という番組があります。

私の地元長崎は「坂の町」と言われるくらいですから無数の坂道があります。

そういった坂道を局員一人がハンドカメラ片手に歩く番組ですが最近の放送を紹介します。

ルートは長崎市油木町の県立総合体育館(通称:アリーナかぶとがに)前から長崎北高校前交差点まで。

途中から階段交じりで車は通れなくなる細い道で道沿いのフェンスにいろんな言葉が書かれた紙が吊るしてありました。

面白い川柳もありました。

  驚いた れるとけるは 同じ文字

文字だけでなくぼうっとした放心状態という点ではれるのもけるのも同じですね。

もうひとつ紹介。

「ご主人は?」「お盆に帰る」と 詐欺さぎに言い



●2024.4.3(水)

この4月の記事から語り口を「ですます調」にしたせいか常体、敬体の別に敏感になっています。

「もしもしかめよかめさんよ」で始まる有名な童謡『うさぎとかめ』

その2番の冒頭「なんとおっしゃるうさぎさん そんならお前とかけくらべ」

この部分はうさぎに対して「おっしゃる」と敬語を使っているのだから「お前」でなく「あなた」と呼ぶべきでは。

この童謡に関しては個人的なエピソードがあります。

長男がまだ小さかったころ我が家に電話がかかってくると側に待機させておきました。

電話にでると相手はほとんどの場合「もしもし」と言います。

そこですかさず長男に受話器を渡し「かめよ」と言わせる、そんないたずらをしたものでした。

もちろん電話の相手が気の置けない人の場合に限ります。

気の置けない相手限定でもう一つ思い出したことがあります。

これは私だけでなく、話し相手に反論するときに昔はよく最前の童謡の文句を借りたものでした。

相手が言い終わると「なにをおっしゃるうさぎさん」とか「なんとおっしゃるうさぎさん」とか言って反論を始めるのです。

『うさぎとかめ』の歌詞もそういう軽口めいたニュアンスでとらえるなら「お前」と同居しても矛盾しませんね。



●2024.4.5(金)

自分に関係する人や物や事に感謝しなさい。

そんな話はよく聞きますが空間にも感謝の念を持ちなさいという話は耳新しく響きました。

調べてみると地球より少し太陽に近いだけの金星、少し太陽から遠いだけの火星、この二つの星でさえとても人間が住める環境ではありません。

私たちの住む地球は固体である大地、液体の海、気体の空気、それらの絶妙なバランスで成り立っています。

もし地球に海や大気がなければ人間はモグラのような暮らしをするのでしょうか。

それはさておき鳥や魚でない人間にとって大地はありがたい環境です。

『大地讃頌さんしょう』という壮麗な合唱曲があります。

作詞した大木惇夫あつお氏の経歴の一部をウイキペディアから引用します。

「1941年(昭和16年)太平洋戦争が始まると徴用を受け、海軍の宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船(佐倉丸)が味方の船の誤射により沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もしている」

氏はこういう体験もあって大地に自分の足で立つことのありがたみを実感していたのではないでしょうか。

太陽は踏みしめることのできる大地はなく水素とヘリウムからなる気体の星です。

それでもスケールは壮大です。

肉眼では月と同じくらいの大きさにしか見えませんが直径は地球の109倍。

さらには夜空の北極星は小さく輝く星ですが太陽よりもはるかに大きいのだそうです。

私たち人間一人一人は壮大な宇宙の運行とは無縁のちっぽけな存在にしか思えません。

しかし人事も宇宙現象の一環であると説く人もいます。

私の近所の公園では桜の花が風に吹かれて散っています。

人間は個々人が自由意思で動き回っていろんな因果関係を作っているように見えます。

しかしそんな人事現象も花びらが風に吹かれて散るのと同じく宇宙の自然現象。

そうとらえれば煩わしい人間関係も一歩引いて考えられる気がします。



●2024.4.7(日)

客のほとんどが高齢者のスナックで飲んでいたときのこと。

間に何人かはさんで同じ並びのカンター席に座っていた常連のお婆さんが健康に関する話を始めました。

耳寄りな話が載ったパンフレットがある病院から送られて来たと言うのです。

どうも健康食品の類いのようでそれさえ飲めば万病が解消するというしろもの。

そんな怪しげなものを詐欺まがいの業者ならともかく病院が推奨するはずがない。

私がそう言って疑うとお婆さんはれました。

いやちゃんとしたところからだ、具体的な病院名が喉まで出かかっているんだけど。

私は隣りの客と別の話に移りました。

するとしばらくしてさきほどのお婆さんが「思い出した!」と言ってスツール椅子を滑り降りて駆け寄り私の肩を叩きました。

病院名を思い出したのだろうと思って私が顔を向けるとお婆さんはぽかんと口を開けて視線を宙にさまよわせています。

そしてこう言ったのです。

「ここに来るまでのあいだに忘れた…」

一同爆笑でしたが物忘れや健忘症は老人にとって深刻な問題でもあります。



●2024.4.10(水)

車で日頃よく通るルートに小学校があります。

その学校のすぐ前は川が流れています。

端午の節句に向けて川をまたいだ数本のロープにたくさんの鯉のぼりが吊るされています。

数年前の同じ時季、風が強い日に側を通りかかったら壮観でした。

胴体が丸々と膨らんで真横に(水平に)たなびき、尾びれもぱたぱたと右に左にせわしく振れていました。

串刺しにされたメザシのようにだらんと垂れているふだんの姿とは大違いです。

かなりの強風だったからこそ見ることのできた生き生きと泳ぐ鯉のぼりなのでした。



●2024.4.16(火)

話を分かりやすくするために星型のヒトデのような形状の山をイメージしてください。

山の中腹には鉢巻のようにぐるりと1周する道路があるとします。

その道を時計回りに車で走ると右カーブの部分は分水嶺の尾根で左カーブは沢の部分になります。

右カーブ、左カーブを間違えないための説明としてスピードの出し過ぎでカーブを回り切れないケースを考えてみます。

右カーブはガードレールを突き破って空中に飛び出し崖下に転落するでしょう。

左カーブは山肌に乗り上げるか激突するか。

ですから山肌からみ出した水が路面を濡らしているのは必ず左カーブ(反時計回りなら右カーブ)なのです。

車が水でスリップしないようにその部分だけ橋にしてあったりもします。

自宅近くの山を歩いた今日、子供でも分かるそんなことに気づいたのでした。



●2024.4.19(金)

久しぶりにハイヒールを履いた女性を見ました。

傍目はためながら履いている本人はさぞ辛いのではないのかと心配になりました。

履いたことのない私でもつま先やふくらはぎに負担がかかりそうなことは分かります。

きっと健康によくないだろうと思って調べるとその影響は足のみならず全身に及ぶとのこと。

かつての中国の纏足てんそくを思い出しました。

あれは男性側の嗜好の犠牲ですがハイヒールは美という魔物に女性が自らすり寄るようなものでしょうか。



●2024.4.24(水)

代謝の個人差を措けばよく食べる人は太っていて小食の人は痩せています。

かと言ってそういう人たちは無理して多く食べたり我慢して食事の量を抑えたりしているわけではないでしょう。

ちょうどよいと思うところで食事を切り上げているから際限なく太り続けたり痩せ続けたりはしません。

その意味ではどんな体形の人も自分なりの適正体重を維持していると言えるでしょう。

精神面でも同じことが言えそうに思います。

あの人は陽気だ、あの人は暗い、そう言われる人も演技してキャラクターを作っているわけではないはずです。

一人一人が自分らしく生活しているのに体つきや性格が異なるのは自然な多様性ととらえていいのではないでしょうか。

だとすれば平均値的なありようをもとにして他人の体つきや性格についてアドバイスするのは余計なお世話というものでしょう。



●2024.5.1(水)

現役時代には定年退職を待ち望んでいました。

仕事のどこが嫌なのかと言えば「不自由」ということに尽きます。

やりたくないことでもやりたくない時でも仕事ならやらなければなりません。

「いつまでに」「どれだけ」といったノルマも課されます。

ではそういったくびきから逃れた現在、幸福かと問われればそうでもないのです。

この件に関連して最近、仕事というものの本質に思い至りました。

「比較」と「評価」です。

たいていの仕事にはこの二つがつきものではないでしょうか。

仕事に限らず人が生き抜いていくための必須の条件のようにさえ思えます。

定年退職でリタイアしても長年の勤務で比較と評価は性癖のように沁みついてしまっているようです。

何をするにも誰といても無意識裡に発動します。

老荘思想の「無為自然」はそこから脱却できた境地なのではないか。

幸福の別名は静謐せいひつなのではないか。

そんなことをうつらうつらと考えている今日この頃です。



●2024.5.3(金)

ゴールデンウイーク後半の4連休がスタートしました。

ゴールデンウイークは私が子供のころは「黄金週間」と呼んでいました。

そのころの生活を思い起こせば部屋を出るときには「電気を消したか」とそのつど親に言われたものです。

顔を洗うのも水道の出しっぱなしは厳禁で洗面器に必要な分だけ水を入れて洗っていました。

日本全体がまだ貧しかったころですから「使い込む」「磨き込む」等々の言葉があるように物も大事にしました。

「~込む」が象徴する昔の文化は内側に凝集していくイメージとしてとらえられます。

それに対し現代の大量生産、大量消費は外に拡散していくイメージでしょうか。

どちらがいいかは一概には言えませんが「使い捨て」という言葉の響きは好きではありません。



●2024.5.5(日)

私は母親が人前で歌を歌っているところを見たことがありません。

人前どころか家の中で小さく口ずさんでいたのを3、4回覚えているくらいです。

うちに限らずどこの母親も似たようなものではなかったかと思います。

女性は慎ましくという気風が強かった時代のせいでしょうか。

時をさかのぼるほど女性は言葉づかいや所作に奥ゆかしさが求められました。

笑い声も昔は「オホホ」程度でしたから手を縦にして当てるだけで口元が隠れました。

昨今の女性の笑い方は手を横にしなければ広がった口を隠せません。

さらに豪快に笑う女性はもはや大口を隠す意識もなく歯並びや歯茎まで丸見えです。

と言って私はことさらに女性に奥ゆかしさを求めようとは思っていません。

それでも女性芸能人が夫の前でおならをしたことはないと語ったりしているのを聞くと感心します。

佐賀鍋島藩の有名な秘書『葉隠はがくれ』にも、あくびやくしゃみなどは人前ではするまいと意識していれば一生せずに済むものだと書いてあります。



●2024.5.8(水)

山岳は植物が育つには厳しい環境です。

土壌が肥沃でなく風当たりも強いため丈が低く葉や花は小さい。

これらが高山植物によく見られる特徴です。

ウオーキングしていると道端にいろんな雑草が花を咲かせています。

雑草の生育環境も高山植物同様に厳しいのか、花は小ぶりのものが多いようです。

数日前、白く小さな花をつけた道端の雑草を2株ほどスコップで掘り取って庭に植えました。

うまく根付いてくれればいいのですが。

ネットで山野草の図鑑を見ても名前が分かりませんがそれもまた一興。



●2024.5.10(金)

今日、ほぼ4か月ぶりに髪を切りに行きました。

私は服や髪には全くこだわりがないのです。

頭はスポーツ刈りにして見苦しくなるほどに伸びたらまたスポーツ刈りにという繰り返し。

それだけでも経済的な上に店もシャンプー等なしでカットのみの安い理髪店。

店員に告げる注文も毎回決まっています。

「スポーツ刈りにしてください。3ミリで上も短めでいいです。ノービンで」

「ノービン」というのはもみあげを残さない「NOびん」の意味ですがどうも九州近辺の方言のようです。

では何と言うのかと調べたら「テクノカット」みたいですが、これを口にするのは方言以上に恥ずかしい。



●2024.5.15(水)

「でまかせを言うな」はこれまで漠然と「でたらめなことを言うな」という意味でとらえていました。

このあいだ何かのテレビ番組で「口から出任せ」というテロップが出たときになるほどと覚りました。

「口から出任せ」の文字どおり、よく考えることなく口から出るのに任せるということなのでした。

結果として「いいかげんなこと」という意味にもなりますから冒頭の私の解釈も外れてはいません。

繰り返しになりますが「出るに任せる、出るままにしておく」ということなので「出任せ」は次のようにも使えるわけです。

「私は涙を出任せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」

ご存じ川端康成の名作『伊豆の踊子』のラストシーンです。

改めて読んでみたくなりましたが川端康成は1972年没なので著作権(死後70年間)が消滅しておらず無料の『青空文庫』には収録されていません。



●2024.5.21(火)

さわやかな初夏の朝です。

火曜と金曜は可燃物の回収日です。

ゴミを捨てに行くと小学生や高校生が登校しているのを見かけました。

彼らの姿を目にして羨ましいという感覚が湧き起こりました。

分かりやすいように先生方が工夫する授業を享受していろんな知識を獲得し成長していく。

そして放課後になれば自ら望んだ好きな部活動が待っている。

そんな環境を彼らは恵まれたことだと思いもせずに眠い目をこすりながら登校しているのでしょう。

そういう状態こそが恵まれていることの何よりのあかしなのですが。



●2024.5.23(木)

カラオケスナックで気づいたことがあります。

若者であろうが中高年であろうが歌う歌のほとんどが恋愛ソングなのです。

愛する気持ちを訴えたり別れの悲しみにうちひしがれたり、恋愛がテーマの歌が多いのです。

その傾向は時代が下るにつれて顕著になってきたのではないでしょうか。

ヒット曲の歴代のランキングでも調べれば分かるかもしれません。

それはさておき恋愛の歌が多くなったのはなぜでしょう。

時代の進展とともに生活が安定し平和ぼけ的状況の中で恋愛くらいにしか人々の関心が向かない。

恋愛をつきつめれば単なる惚れた腫れたの問題でなく出会いと別れは人生の一大事である。

ほかにもいろんな解釈ができることでしょう。

「演歌」は文字どおり明治時代の自由民権運動の主義主張を歌った「演説歌」がその名の由来です。

それが今は「艶歌」という字を当てたりしてもっぱら男女間の心の機微を歌っています。



●2024.5.28(火)

人間にとって大切な「いのち」、「こころ」、こういった言葉の語源がはっきり分からないというのは面白いことだと思います。

さて、昔の歌謡曲の歌詞には「心」がちょくちょく出てきます。

二つほど例を挙げてみましょう。

★山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心 胸の痛みにたえかねて 昨日の夢と焚き捨てる 古い手紙のうすけむり(高峰三枝子『湖畔の宿』)

★都思えば日暮れの星も 胸にしみるよ眼にしみる ああ高原の旅に来て ひとりしみじみ ひとりしみじみ 君呼ぶ心(林伊佐緒いさお『高原の宿』)

これらの「心」という言葉の使い方はいかにも懐メロという感じですね。

意味としては「気持ち。心持」(広辞苑)というところで「心変わり」などの「心」も同じ意味でしょう。

私がずっと気になっていたのが「なぞかけ」の「心」です。

「~とかけて~と解く。その心は~」

この「心」の意味が子供の頃には分からなかったのですが「わけ。なぞ解きの根拠」(広辞苑)という意味のようです。

最後になぞかけの傑作を一つ。

★「好きな人」とかけて「嫌いな人」と解く。その心は「どちらもはなしたくないでしょう」



●2024.6.1(土)

健康的な食生活として「カタカナをひらがなに変える」よう推奨されています。

パンをご飯に、スープを味噌汁に、サラダを漬物に、チーズやヨーグルトは豆腐や納豆に等々。

炊き立てのご飯と煮物、味噌汁、漬物というのはいかにも日本的なほのぼのとする食事風景です。

しかし一方ではこれは塩分の多い見本のような食事であり避けるべき献立でもあるのです。

私が心筋梗塞で入院していた時に退院後の参考に「塩分コントロールのための1・2・3」と題するチラシを渡されました。

それによると「塩分過剰の悪玉」として「①食塩・醤油・ソース ②味噌汁 ③漬物・梅干 ④煮物 ⑤麺類」が槍玉に挙げられています。

日本の伝統的な調味料である味噌や醤油が塩分ゆえにこれほどまでに悪者にされているのは寂しいものです。

魚料理も煮付けて醤油をしみ込ませないように焼き魚にしたほうがいいと言われました。

塩分は体にとってな必要なものですが昔の日本人のように労働で汗をかかなくなった現代の暮らしぶりに問題があるのでしょう。

甘いものも私は好きなのですがこちらも糖尿病予備軍なので自制しなければなりません。

塩分も糖分も摂りすぎはダメで味気ない食事がいいというのも味気ない話ですね。

人間の体は少しお腹が空いている状態が一番健康的なのだそうです。



●2024.6.3(月)

都会で人がカラスを攻撃する事例が増えている。

そう伝える今朝のTVのワイドショーでカラスの知能の高さも紹介されていました。

水が真上に吹きあがるタイプの水飲み場がある公園の映像でした。

カラスは蛇口のハンドルをくちばしでつついて水を出して飲むのです。

飲み終わるとまたハンドルをつついて水の出る量を増やし今度は水浴びを始めました。

驚きましたが同時にカラスの賢さはせいぜいそこまでだなとも思いました。

というのは、カラスは水道を使い終わったあと蛇口を閉めることまではしないのです。

人間でいえば子供のレベルにとどまっています。

おもちゃで遊んだあと「片づけなさい」と親に叱られる子供と同じです。

逆に言えば花見やバーベキューをやったあとに後始末をせずに帰る人間はカラス並みなのでしょうね。



●2024.6.5(水)

「それくらいしてもらってもばちは当たらないわね」

テレビドラマで耳にしたセリフですが久しぶりに聞いた気がして懐かしく思いました。

昔は大人が子供に「そんなことをしたらばちが当たるぞ」とよく言ったものでした。

この表現が聞かれなくなったのは時代の流れとともに宗教心が薄れたせいでしょうか。

「青写真」という言葉も時代の移り変わりに伴って使われなくなりました。

昔は「人生の青写真を描く」などと言ったものですが今の若い人は本物の青写真はおそらく見たことがないでしょうね。



●2024.6.6(木)

昨日YouTubeで見たおもしろい話を紹介します。

同居している母親と娘夫婦の会話です。

娘が母親にこう言いました。

「お母さん、もう80になるんだから寝たきりにならないようにウオーキングの時間を増やせば?」

「そうしたいけど膝と腰が痛くてね」

「じゃ水泳教室に通えばいいよ。水の中なら泳いだり歩いたりしても膝や腰に負担がかからないから」

母親と娘はさっそく水泳教室の申し込みに出かけました。

「母は泳げないんですけどいいですか?」

「コーチの私が初歩からお教えします。すぐに泳げるようになりますよ」

それを聞いた母親が喜びました。

「それなら安心。あの世に行くときも三途さんずの川の向こう岸まで溺れずに泳いで行ける」

娘はコーチにだけ聞こえるように小声で言いました。

「あの、ターンのしかたは教えないでけっこうですから」



●2024.6.9(日)

孫がいる人はお分かりでしょうが幼児はひと時もじっとしていません。

言い方を変えるならば子供は退屈に耐えられないのです。

手っ取り早い子守りの方法は画用紙を与えることです。

子供はすぐに家やら樹木やら草花やら、いろいろなものを描き始めます。

2次元の絵に飽きたら粘土を与えたいものです。

街並みや山や海など立体的なジオラマを造り電車を走らせたりもしそうです。

電車だけでなく点々と配置してある人間や犬や猫の人形も動き出せばもっと楽しいことでしょう。

神もそんなふうに思って宇宙を創造したのではないでしょうか。

全知全能の神は幼児と同じくさぞ退屈だったのでしょう。

白い画用紙のような「くう」の状態にあって神がある時なにかを描いてみたい、創造してみたいと思った。

神の意識のそういった揺らぎ、波動がいわゆる「ビッグバン」だったのではないか。

孫が遊んでいるのを見ているとそんな妄想的宇宙論が湧いてきます。



●2024.6.16(日)

YouTubeで1960年代の日本の日常生活の動画を見ました。

畳敷きの部屋に座ってちゃぶ台で夕食を食べているようすを懐かしく思いました。

我が家でも母親はたいてい和服で過ごし父親も帰宅すると和服に着替えていた時代です。

服装に限らず生活のあらゆる面が高度経済成長期以降、急速に変化しました。

若い女性が身軽に海外旅行に行けるようになるなど当時の誰が想像できたでしょう。

恋人が地方から東京に働きに出るのを永遠の別れであるかのごとく嘆く。

反対に東京に出てきた人間が故郷を思って涙する。

そんな情景を歌う昭和歌謡がたくさんありました。

カラオケで現在そんな歌を歌うと複雑な気分になります。

地方と東京は新幹線や飛行機で今や日帰りもできる時代なのですから。

電化製品も扇風機は家庭に1台というのが昔は普通でした。

それが今は各部屋にエアコンが設置され電話も各人がスマホを所持しています。

私もウオーキングにはスマホを持って出かけます。

具合が悪くなればすぐ家族と連絡がとれるので安心です。

昨日も近くのグラウンドに出かけましたが元気な人もいるものだと感心しました。

梅雨入り間近の蒸し暑い中、帽子に長そでシャツ、手袋まではめた中年女性を見かけました。

日焼け対策の服装だけならまだしも、その女性は日傘をさしてジョギングしていたのです。



●2024.6.24(月)

「三界は安きこと無し なお火宅の如し」

法華経の経典にある言葉です。

火宅、つまり燃えさかる家の中にあって家が炎に包まれていることを知らずに遊び暮らしている。

それが私たちの人生の姿ということなのでしょう。

私も人生の比喩を思いつきました。

流れの速い川に流されているところを想像してみたのです。

流れにあらがうことはできず露出している岩にぶつからないようわずかに体の向きを変える程度のことしかできず流されていく。

それが私の人生のありようのように思われます。



●2024.6.27(木)

先日、病院で身長を測ってもらいました。

「踵、お尻、背中、後頭部を測定器の支柱に付けて顎を引いてください」

きちんと直立するための決まりきった指示ですが驚きました。

この姿勢をとったら背中の上部がつらく感じられたのです。

今まで何度も身長を測ってきましたが初めての感覚でした。

いつの間にか猫背になっていたのでしょう。

床に仰向けに寝てみたところ体がまっすぐ伸びるのでやはりつらく感じました。

普段は枕をしていて軽い猫背の状態になっているので気づきませんでした。

背筋が衰えると体の構造上、前かがみの姿勢になりがちです。

これからは意識して胸を反らしぎみにして歩こうと思います。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る