2024年7月~

●2024.7.1(月)

私が高校生のころ兄がクラシックギターを買い、私も時々借りて弾いていました。

ギターの弦は今はナイロン製が主流ですが本来は羊の腸(ガット)で作っていました。

それでクラシックギターをガットギターとも言うことは知っていました。

そのガット(gut)の複数形(guts)が「ガッツポーズ」とか「あいつはガッツがある」とかの「ガッツ」だということはごく最近知りました。

「腹がわる」という表現もあるようにガッツ(根性・気力)はガット(腸)が収まっているお腹に宿るのでしょうね。



●2024.7.2(火)

本を読む時のしおりがわりに付箋ふせん紙を使っています。

読みしのページにペタリと貼るのですが粘着力が弱まると交換しなければなりません。

面倒だし、もったいなくも思っていたところネット記事で格好の代用品が紹介されていました。

食パンの袋の口を縛るバッグクロージャーという小さなプラスチック製品です。

さっそく試してみると普通の栞と違ってずり落ちたりしないので便利です。



●2024.7.5(金)

先日、街なかに出て久しぶりにカラオケスナックに行きました。

私より二つくらい年上の顔なじみの客がいて歌っていました。

半年ぶりくらいに会ったので挨拶しましたが私ほど懐かしがってはくれませんでした。

歌が上手な人なので話のついでに1曲リクエストしましたがそんな歌はよく知らないとのこと。

「朝鮮半島出身の青年が日本の特攻隊員として鹿児島の知覧から飛び立つ内容の軍歌ですよ」

こう説明してもやはり知らないというのでおかしいなと思いました。

というのは、彼が以前に歌って聞かせてくれた歌だったからです。

その後、店に居合わせた客が交代で歌ううちに先ほどの彼が何回目かのターンで『知覧の母』を歌い出した時はびっくりしました。

この歌こそが私がリクエストした曲だったのです。

謎はママさんが彼に話しかけたことで解けました。

「〇〇ちゃんは元気?」

「〇〇ちゃんって誰?」

「糖尿病って聞いてたから心配で」

重ねてそう言われてもよく知らない人のようでした。

彼が店を出て帰った後で私はママさんに「〇〇ちゃん」のことを尋ねました。

すると驚いたことに彼の実の娘さんだと言うのです。

半年かそこら会わないうちに彼は認知症になっていたのでした。

それで最初に挨拶した時のそっけなさも分かりました。

たまにしか会わない客である私を思い出しはしないでしょうから。



●2024.7.7(日)

「冬瓜」について興味深いことが二つあります。

一つは「とうがん」と読むことです。

素直におん読みすれば「とうが」ですから「とうがん」はそれが少しなまったのでしょう。

もう一つの興味は夏野菜だということです。

炬燵で蜜柑を食べるのはいかにも冬らしい情景です。

俳句の季語にもなっているとおり蜜柑は冬のものです。

だから夏に採れる蜜柑は季節を冠して「夏ミカン」。

これと同じ名づけ方だと思って私は「冬瓜」は冬に収穫するものだと思っていました。

瓜は夏のものですから冬に採れる瓜を「冬瓜」と言うのだと思っていたのです。

そうではなくて丸のままで保存しておけば半年、つまり冬までつことから「冬瓜」なのですね。

「冬瓜」については余計なお世話かも知れませんがもう一つ気になることがあります。

大きくて重たいので収穫や運搬は大変でしょうに値段が安いのです。

コスパが悪いと思うのですがそれでも栽培するのは何か特別な理由があるのでしょうか。



●2024.7.9(火)

昨日のネットニュースですが海外で日本のラムネが人気だそうです。

和食が世界遺産に認定されたことなどが人気の背景としてあるようです。

ラムネとサイダーの違いがずっと気になっていたので調べてみました。

私の感覚ではラムネのほうがやや炭酸の度合が強いように思うのですが違いは容器のみでした。

ビー玉の入ったあの独特の形状の瓶に入ったものがラムネでそれ以外の容器の場合がサイダー。

さらに調べてみると初期は味にも違いがあったようでそれはネーミングに残っています。

ラムネはレモネードがなまった言い方でその名のとおり元来はレモン風味の味だったとのこと。

ブドウを発酵させるとワインができますがリンゴを発酵させて作った酒をシードルと言います。

サイダーはこのシードルが語源で味も当初はリンゴ風味だったようです。



●2024.7.12(金)

車内が清潔で乗客が静か、時間が正確、インバウンド客の多くが日本の電車を称賛します。

駅のホームにおいて整然と列をなして待つことも感心されます。

これは日本人の国民性として説明されますが他の理由もあるとの指摘があります。

それは日本の電車の停車位置が正確だからという理由ですが確かにそうですね。

到着する電車ごとに停車位置がバラバラなら乗降口に合わせて並ぶ意味はありませんね。



●2024.7.16(火)

私が学生の頃、風呂付きのアパートに住めるのは経済的にゆとりのある学生でした。

自宅通学でなければ風呂は銭湯に通う時代だったのです。

その銭湯も節約のため毎日行くことはできません。

学内の図書館の閲覧コーナーでソファーに座って雑誌を読んでいた時のことです。

体臭が匂ってきたので辺りを見回して見当をつけました。

「こいつが風呂に入ってなくて匂うのだろう」

私は自分の近くに座っている男子学生に「お前、くさいぞ」と言わんばかりにちらちらと視線を送りました。

すると彼はいたたまれなくなったのか、席を立ちました。

私は留飲を下げたのですが彼が去った後もまだ匂います。

改めてクンクン嗅いだところ、匂いの元はなんと私なのでした。

そんな話を思い出したのは最近もまた間抜けな出来事が起こったからです。

先日、百円ショップに行くと私が好きな矢車草の種が売ってあったので2袋百円で買いました。

植木鉢に蒔いて水やりをしていると一斉にかわいらしく萌えだしました。

そこで植木鉢から庭の花壇に移植したのですがある程度大きくなったところで気づきました。

なんとすべて雑草だったのです。

鉢の土に潜んでいたのか種が風に運ばれてきたのか分かりませんが雑草のたくましいこと。

「悪貨は良貨を駆逐する」と言いますがそれにしても種を蒔いた矢車草はどうなったのでしょう。



●2024.7.20(土)

前回はどんな記事だったか読んでみると自分の体臭は棚に上げて他人を疑った話でした。

そう確認すると同時に「自分のことは棚に上げて~する」という表現が近ごろはあまり使われないなとも思いました。

理由は現代の家屋において板一枚からなる「棚」がほとんどないせいでしょう。

現物を目にすることが少なくなればそれに由来する言語表現もすたれます。

私が子供の頃、父は転勤で引っ越すとよく部屋の鴨居かもい長押なげしを利用して棚を作り付けたものでした。

というのも、昔の日本家屋においては押入れ以外に収納のための設備や家具はほとんどありませんでした。

なぜかと考えてみるとすぐに思い当たります。

かつては電化製品、食器、調理器具、洗剤等々、家の中にある「物」が現在と比較すると圧倒的に少なかったのです。



●2024.7.25(木)

文字が伝来して以降、日本語の表記は縦書きオンリーでした。

変化の端緒となったのは明治期になっての西洋文化の流入です。

それから150年ほどしかたっていないのに、現在、学校の教科書は国語以外はすべて横書き。

国語の教科書が縦書きなのは文学書が伝統的に縦書きを保っていることが背景としてあるのではないでしょうか。

しかし最近では横書きの小説も出版されていますから国語教科書の孤軍奮闘は継続できるでしょうか。

そんな心配をしていたところ文学書以外にも縦書きの伝統を守っているジャンルがあることに気づきました。

その心強い味方は漫画です。

漫画本は国語の教科書と同じ右綴じで、右のページから左のページへ、コマ割りも右から左へ読み進めます。

現在、日本の漫画が欧米でブームになっていますが欧米人は日本の漫画を読むときにとまどいを感じるようです。

というのは欧米のコミック本は日本の漫画とは逆に左綴じ本でページもコマも左から右へ読む流れです。

そんな違いがあるため日本の漫画の翻訳版を出版するにあたってはいろんな工夫がなされています。

興味があればネットで検索してみてください。



●2024.8.2(金)

レストランなどでの接客の際は遠まわしに言う婉曲えんきょく表現が多用されます。

「これはご注文のカレーライスです」でなく「こちらご注文のカレーライスになります」というように。

過去形を使って生々しい臨場感を消すのも婉曲表現の一種と考えられます。

「以上でよろしいでしょうか」よりも「以上でよろしかったでしょうか」のほうが丁寧な雰囲気をかもしだします。

私は詳しくありませんが英語においても同じなのではないかと思われます。

動詞の命令形をいきなり文頭に持ってくるよりWill youとかCan youから始めるとやわらかい依頼になります。

それを過去形にしてWould youやCould youにするのはさらに丁寧なニュアンスにするためなのではないでしょうか。



●2024.8.4(日)

ネット上に『正しい休日の過ごし方』というブログがあります。

長崎市在住の高齢の男性による長崎市近辺の各種店舗の紹介が主な内容です。

写真中心でタイトルの仰々しさにそぐわないくだけた語り口も好感が持てます。

仲睦まじく奥様同伴でほぼ毎日のように出かけておられるようです。

このブログを久しぶりに見てみたところブロガーの男性は数年前に間質性肺炎を患ったとのこと。

そのため外出時には酸素ボンベが手放せないようで痛ましいことです。

私のこの年になりますとかつて懇意にして頂いた方の訃報を聞くことが多くなりました。

人ごとでなく私も私の兄弟もほとんど何らかの病を抱えています。

「人は年を取ったら死ぬのだな」

若い頃はそんな漠然とした思いしかありませんでしたが自然死は少なく訃報の多くは病死です。

ところで病院で目にする書類は小難しい医学用語であふれています。

もっと分かりやすい言葉で表現できないものかと思いますが反対に安易すぎると感じる用語もあります。

たとえば「イタイイタイ病」とか「手足口病」

ついでに言えば警察関係の用語もおかしく感じるものがあります。

「殺人犯」「放火犯」「凶悪犯」などはよく分かるのですが「愉快犯」はどうでしょう。

さぞかし楽しく明るい犯人なのではと思ってしまいます。



●2024.8.9(金)

だいぶ前のことになりますが「どうも」という言葉の多用が非難された時期がありました。

「どうもありがとうございます」「どうもお久しぶりです」などと言うべきところを「どうも」だけですませてしまう粗雑さが問題視されたのです。

慣れというのは恐ろしいもので今となっては私もいろんな場面で「どうも」の一言ですませています。

その後「大丈夫」が槍玉に挙げられました。

この言葉の多用は私は少し抵抗がありながらもつい無意識に口にしてしまいます。

ただ現在はやっている「ヤバい」はむやみに使う気にはなれません。

「全然」という言葉を「全然いける」というように肯定文で使う言い方も私にはまだ抵抗が大きすぎます。

「すみません」に関しては「すいません」と言って気にならない人がだいぶ増えているようですね。



●2024.8.12(月)

今日は昨日8.11(日)「山の日」の振替休日です。

7月の祝日には「海の日」がありましたから何でもありだなという感じがします。

「山の日」とは「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日」だそうです。

それなら「山」を「川」に変えて「川の日」も作っては?

単にひねくれた思いつきに過ぎませんがエッジのいた文言をネット上で見かけました。

思わず笑ってしまいました。

「本を読んだら酒は体に悪いと書いてあったので読書をやめた」



●2024.8.21(水)

地球は太陽系の中で絶妙な位置にあるとよく言われます。

そのことは「水」を基準にして考えれば分かりやすいでしょう。

地球上の生命は海から生まれたと言われます。

また人間は水がないと生きていけず人の体も約60%は水分です。

ところで私が住んでいる九州の地で夏と冬の寒暖差は約40度。

地球上の同じ地点でもそれくらいの開きがあるのです。

まして太陽系の中で地球を今よりほんの少し内側あるいは外側に移動させたらどうなるでしょう。

海をはじめ地上の水分は沸騰して蒸発するか凍りつくかのどちらかで、生命は存在できません。

ところで人体の水分量を約60%と上に記しましたがネットで確認すると詳しくは以下のとおり。

新生児75%、4~5歳児70%、成人女性50%、成人男性60%、老人50%。

成人女性は成人男性より10%すくないですが脂肪分が男性より10%多いので水分と脂肪分を合わせるとほぼ同じです。

それはともかく新生児の75%に比べて老人は50%。

精神だけでなく体も枯れているのですね。



●2024.8.26(月)

家事の中で私は掃除を担当しています。

近年の住宅はバリアフリー化が進んでいます。

バリアフリーというのは水平方向の問題ですが縦方向のバリアフリー化も進めてほしいものです。

部屋の床と壁が交わる部分を見てみると壁の最下部に化粧用の横板が取り付けられています。

巾木はばきと言うらしいですがこれが壁よりも数ミリ内側に出ているのでホコリがつもるのです。

全ての部屋の巾木のそのホコリを拭いて回るのは結構な手間です。

調べてみると巾木は装飾以外に実用面で大事な役割があり取り付けないわけにはいかないようです。

それなら壁面との数ミリの段差をなだらかな曲面にするなどして準バリアフリー化を図ってほしいものです。

クローゼットや押入れの枠組みの上部についても同じことが言えます。



●2024.8.30(金)

8.4(日)の記事で間質性肺炎を患った人のブログを紹介しました。

ほぼ毎日そのブログを読んでいますが最近印象深い記述がありました。

外出時には酸素ボンベを使用するので火気の2メートル以内には近づけないとのことです。

そのためラーメン店には入店せず、その他の飲食店でも厨房からなるべく離れて座るようにしているとのこと。

調べてみると酸素ボンベの使用は医療保険の対象になっていますがけっこう費用がかかります。

火気厳禁に関しては家庭にあってもガスコンロには近づけず仏壇に線香をあげる際も注意が必要とのことで大変そうです。



●2024.9.2(月)

6月に記事にしましたが病院での身長測定の際、測定器の支柱に背中全面をぴったり付けるのを辛く感じました。

背中が老人らしく丸まって猫背になりかかっているのでしょう。

対策としてパソコンに向かったりウオーキングに出たりする時には意識して背筋を伸ばし顎を引くようにしています。

もう一つ老化防止策として最近「しゃがむ」ということを始めました。

ここ数年、床に座る時は浅く膝を曲げた後、手を補助として床に突いてストンと腰を落とすようにしていました。

膝を深く曲げると膝の関節が痛むからなのですが、これは膝を甘やかし過ぎているのではないか。

そう反省して床に落ちているゴミを拾う時など、完全に脚を折ってしゃがむようにしたのです。

やってみるとやはり膝の曲げ伸ばしに使う太ももの前面の筋肉の筋力が落ちていることを実感しました。



●2024.9.5(木)

知人のブログを見てみると数十年ぶりに高校時代の友だち数人と飲んだという記事がありました。

すぐに打ち解けて高校時代に戻った気分になったとのこと。

同窓会ってそういうものだよなと思った時、それは当たり前なのだと気づきました。

中学の同級生との関係は中学卒業時に、高校の同級生との関係は高校卒業時に切れたままです。

ですから同窓会は若かった頃に戻ると言うよりは在学時の関係性で話をするしかないのです。

知人のブログにはもうひとつ興味深い点がありました。

昨夜何を食べたか分からない時があるとの記事です。

私より若い彼でもそうなのかと安心しました。

何を食べたか忘れるのは健忘症で食べたかどうかを忘れるのが認知症。

面白おかしくそんなふうに言われますが健忘症も年と共に笑ってすませるわけにはいかなくなります。

私自身、昨夜食べたものは思い出せますが一昨日は少しあやしくなり、3日前となるともうあやふやなのです。

そこで最近は夕食時に「今〇〇を食っている」と自分に言い聞かせ、寝る時には2、3日前までの献立を思い出す訓練をしています。



●2024.9.8(日)

1個、2本、3台の「個」「本」「台」など、ものを数えるときに数字の後に添える語を助数詞と言います。

ネットで見たのですが生き物の場合は死んだ後に何が残るか、それを助数詞として使うという説がありました。

魚は尾っぽを食べずに残すから1尾、2尾と数える。

鳥は羽をむしって残すから1羽、2羽と数える。

動物は頭の骨が残るから1頭、2頭と数える。

人間は「人は死して名を残す」から1名、2名。

言葉の民間語源説に似てこじつけのような気もしますがそれにしても感心してしまいました。



●2024.9.10(火)

「寝過ごした!」と飛び起きて急いで着替えて駆け出していく。

若者の日常にありふれた光景ですが老人にはまねのできないことです。

全速力で駆けたのは思い出せないほど遠い昔のこと。

ベッドから体を起こすのも「よっこいしょ」と一苦労、着替えるにしても体が硬く靴下を履くにも難儀します。

こんなふうに体が意のままに動かないようになると我が体を客観視し、感謝の念さえ生まれます。

対人関係も同じで若い時ほど他人が自分の思い通りに動かないことに不満を抱きがちです。



●2024.9.13(金)

「上は大富豪や大統領から下は私のような名もない貧乏人にいたるまで人はみな毎日イライラしているのではないか」

昨日ウオーキングしていてそんな考えが浮かびました。

「イライラしている」は「思い通りにならず不満を抱いている」「幸福を求めて得られずにいる」とも言い換えられます。

不平不満の主な対象は物質面と精神面、具体的にはお金と人間関係でしょう。

事業を始めて裕福になっても現状に慣れると満足できずさらなる発展を求めたくなります。

倒産でもしようものなら事業が軌道に乗っていたころを思って憤懣やるかたないことでしょう。

人間関係も同じです。

愛する人と付き合えて天にも昇る気持ちだったのに新鮮味が薄れて満足できず不倫に走ったりします。

まして恋人に振られた場合は逆恨みしたりうまくいっていたころに戻ろうとしてストーカー行為を働く人もいます。

現状に安住できない人間の悲しいさがですが、ではどうすればいいのか。

言い古されたことですがやはり知足ちそくるを知ることでしょう。

具体的には現状に感謝するということではないでしょうか。

それでは進歩、発展が望めないという反論も出そうです。

もちろん向上心は大いに結構なことです。

ただし富や名声への打算が絡んでいなければの話ですが。

ウオーキングができる、テレビが見れる、夕食が食べられる等々、感謝の種は尽きません。

当たり前すぎると思われるかも知れませんが歩けない人、目や耳が不自由な人、毎日の食事がままならない人も世の中には多いのです。

私などは空気にも感謝したいくらいです。

喘息ぜんそくがひどかったころは発作が起こると1秒1秒が苦しみの連続でした。



●2024.9.15(日)

最近ネット上にアップした拙作の中に一瞥体験を話題として入れ込みました。

森羅万象を貫く真理とは具体的にはどういうことか。

それは言葉の本質が弁別であることからすると百万言を費やしても足りないでしょう。

かと言って抽象的に「真」とか「くう」とかの一語で表しても大して役に立ちません。

まさに禅宗の言う「不立文字ふりゅうもんじ」で、真理は理屈で理解するものでなく感得するもののように思われます。

前回、幸福は考え方しだいだと述べましたが、言葉を使って考えている限り真理と同様に幸福にも到達できないかもしれません。

他の動物と違って人間は言葉という便利な道具を手にしましたがそれは不自由の始まりだったとも言えるのではないでしょうか。



●2024.9.17(火)

先日、ウオーキングしていると1メートルほど左斜め前方にバッタが1匹いました。

私が歩いている線上に跳ねてくるとタイミングしだいでは踏みつぶす可能性があります。

そこで「あっちへ行け」と左側の草むらを指さしました。

長崎は坂の町で猫が多くいます。

私は路上で猫に出会うと時々声をかけたりするので今回もそんな感覚です。

ところが「あっちへ行け」とバッタに声をかけたときに私の脇をジョギングしている人が通り過ぎました。

その人に聞こえていて自分に言われたと勘違いしたら大変なことです。

だからといって「あなたじゃなくバッタに言ったんです」と言うのも変なので困ってしまいました。

口はわざわいの元。



●2024.9.19(木)

普段なにげなく使っている言葉が急に気になる、そんなことが時々あります。

最近「同窓会」という言葉にひっかかりを覚えました。

同じ学級、学年、学校の卒業生の集まりを同級会とか同校会とか表現するなら疑問の余地はありません。

なぜ同じ「窓」と言うのかが気になったのです。

調べてみると『蛍の光』の「蛍の光、窓の雪、ふみ読む月日重ねつつ」という歌詞の元にもなった中国の故事に関係があるようです。

その故事は、灯火の油を買えない苦学生の一人が夏の夜に蛍の光、またある一人は冬の夜に窓から差し込む雪明りで本を読み勉学に励んだという話です。

どうやらそこから「窓」が共に勉学に励んだ場を意味するニュアンスを持つに至ったようです。



●2024.7.22(日)

テレビの通販番組で宣伝されている商品でいいなと思うものがあります。

立ったまま手を使わずにスパっと履けるというシューズです。

膝が悪いのでウオーキングに出かけるときにしゃがんで踵に指を入れるのが辛い私にはうってつけです。

運動シューズに関してはほかにもう一つ欲しい機能があります。

歩いていると踵から砂やごくごく細かな石粒が入るのですがそれが防げるシューズはないのでしょうか。

近所のグラウンドに出かけてアスファルトの外周を歩きますがたびたび立ち止まってシューズ内の砂や小石を出さねばなりません。

膝への負担を考慮してグラウンド内の土の部分を歩きたいのですがそれだと余計に砂や石が入りそうで躊躇してしまいます。

マラソンや駅伝の選手は途中で立ち止まるわけにはいかないでしょうから特殊なシューズを履いているのでしょうか?



●2024.9.24(火)

例年はお盆が過ぎると秋の気配を感じるのに今年は9月の半ばでも猛暑。

こんなことは今までなかったと思っていたところ、昨日初めて秋を感じ夜にはクーラーも使用しませんでした。

9月22日が秋分の日だったので「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだと改めて思いました。

しかし同時に思ったことは、東北や北海道ではもっと早く暑さは和らぐでしょうからこの言葉は使わないのでは?

日本列島は縦に細長いので季節感は緯度いどに左右されることも多いのではないでしょうか。

一つ例を挙げると入学式です。

満開の桜を背景にピカピカの新入生が小学校の校門をくぐる、これが一般的な風情ふぜいでしょう。

しかし長崎では桜の満開は3月末から4月初めで小学校の入学式が行われる4月8日や10日ころにはかなり散っています。



●2024.9.26(木)

インスタグラムで国内外のいろんな街並みの画像を見るのが好きです。

先日は東京の下町の商店街の画像に目が止まりました。

その商店街のある店舗の「勉強堂」という名前に懐かしさを感じました。

「勉強」は現在は学問を学ぶという意味がメインなので店名としては違和感を覚える人も多いのでは。

つといる」と読むように「勉強」の元来の意味は「精を出してつとめること」(広辞苑)です。

「せいぜい勉強させていただきます」などと、以前は商人が頑張って安く売るという意味でも日常的に使われていました。



●2024.9.29(日)

JRの駅が空撮で画面に映し出され「次は〇〇です」という車内放送ふうのナレーションが日本語と英語で流れる。

そんな動画がいくつもインスタグラムにアップされています。

動画は駅だけでなく町の主要な部分を次々に俯瞰ふかんで映していきます。

ジグソーパズルのピースのように隙間なく立ち並んでいる小さな家々。

その一軒一軒から働きアリのように毎朝人が出ていき夕方には戻ってくる。

住人のそんな暮らしぶりを想像するとわびしくも尊くも思えてきます。

世界がどんなに広くても安らぐことのできる場所はそれぞれの家しかないでしょうから。





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ぽつりぽつりと 仲瀬 充 @imutake73

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