2021年1月~6月
●2021.1.4(月)数え年
ニューイヤー駅伝に箱根駅伝、正月三が日はテレビの前で駅伝三昧だった。
我が家ではもうおせち料理も作らず新年を迎えても特別な思いはない。
昔は日本人全員がそろって年をとる感慨もあったろうに。
そう思うと数え年が気になって調べてみた。
すると「年齢のとなえ方に関する法律」というものがあった。
この法律によって昭和25年(1950)から公文書の年齢欄は満年齢で記入するよう義務付けられた。
それまでは書類の記載でも日常生活でも年齢を言う場合は「
数え年の特徴は二つある。
まず0歳という概念がなく生まれた時点で1歳とする。
そして誕生日でなく誰もが元日に年を取る、この二点だ。
従って極端な例を挙げれば大みそかに生まれた赤ん坊は翌日の元旦に2歳になる。
それではあんまりだということで年末に出産すると誕生日を年明けにして役所に届け出ることもあった。
そのため昔の人には1月1日生まれとか1月2日生まれの人がけっこういるようだ。
満年齢オンリーの現在からすれば数え年は不合理、不自然な気がする。
だが果たしてそうだろうか。
生まれて1年近くたつ我が子の年齢を聞かれて「0歳です」と答えるのも不自然に思える。(現実的には月数で答えるだろうが)
ともあれ数え年には0歳という概念がなく生まれるとすぐ1歳だから以下のような古典落語も存在する。
年齢を若く言われたら相手は気分がよくなり酒の1杯もおごってもらえるかもしれない。
町内のご隠居にそう教えられた八五郎が仲間の竹のところへ行くと最近生まれた赤ん坊がいた。
よしこの子をほめてただ酒にあずかろうと八五郎は考える。
以下はそんな筋書きの「子ほめ」という落語のオチの部分である。
「ときに竹さん。この子はいったいおいくつで?」
「生まれたばっかりだからひとつだよ」
「ひとつとはたいそうお若く見える」
「ひとつで若けりゃ一体いくつだ?」
「うーん。どうみてもタダだ」
大昔にインドで0(ゼロ)が発見されたというのは有名だ。
ゼロについて考えているうちに仏教の「
「
そう考えれば宇宙のビッグバン直前も「空」のように思えてくる。
比喩で言えば数学の座標軸の原点のようなものだ。
原点はプラス1にもマイナス1にも移行する可能性をはらんでいる。
ついでに雑学的なことを記せば「ゼロ」は英語である。
0を日本語で言うなら「零」という漢字の音読みを借りて「れい」。
ラテン語では0は「ニヒル」と言い「虚無的」という意味もそこから派生した。
●2021.1.6(水)履端・「ある」
・昨日届いた年賀状の末尾に「
初めて見たので調べてみると「元旦」を意味する言葉だった。
まだまだ知らない言葉があるものだ。
ついでに元日に限らず1月を意味する言葉をウイキペディアで確認すると有名な「
・前回述べた「
「歩く」「走る」など、動詞は文字どおり「動作」を表す言葉だ。
それに対し「赤い」「重い」など、形容詞は「状態」を表す。
動詞と形容詞は意味だけでなく終止形にも違いがある。
「aruku」「hashiru」など動詞は末尾がuで終わるのに対し形容詞は「akai」のようにiで終わる。
ここで問題にしたいのは「ある」だ。
「ある」は動詞だからuで終わっているが意味は「動作」でなく「状態」に近いのではないか。
昔高校で習った古典文法を思い出してみよう。
現在も「異議あり!」などと使われるように「ある」の終止形は昔は「あり」だった。
つまり古典の世界では終止形も形容詞と同じくiで終わる。
こんなふうに「ある」は動詞なのか形容詞なのか混沌としている言葉だ。
決着をつけたければ時間の概念から見ればよさそうに思われる。
「赤い」「重い」など、形容詞に時間性はない。
一方「歩く」「走る」など、動詞は動きを表すのだから時間と密接に関わっている。
「ある」は動作ではないにしてもかすかに時間の匂いがする。
それは形容詞のような純粋な「状態」というよりは「現在は動いておらずそこにある」という「存在」を表していると解釈するのが妥当だろう。
存在と時間は不可分であり「諸行無常」や「空」まで連想してしまう。
●2021.1.8(金)駄洒落・体の劣化・冬の母
・妻と買い物に出かけた時の話である。
ショッピングエリア内に「CoCo壱番屋」があった。
ここのカレーが好きな妻は私に空腹かどうかを聞いてきた。
妻が食べたそうにしているので私はこう言って妻と店内に入った。
「
この方言を標準語に直訳すれば「
意訳すれば「(適当に見つくろって)
それほど空腹でなかった私はメニューを見てナンとポークルーを注文した。
そして食べ終わった後に気づいたのである。
自分の言った言葉が結果としてダジャレになったことに。
「ナンなっと食おうか」(ナンでも食べることにするよ)
この短い文章を読み直すと冒頭部分にも期せずしてダジャレになっている部分があった。
・今年は1月5日が寒の入りで20日に寒さのピークの大寒を迎える。
起床すると私はすぐに靴下を履く。
素足でフローリングの床に立つと寒さがズーンと伝わってくるからだ。
手足がなかなか温もらない老人は足裏の皮膚感覚も鈍りそうなものだが。
さて年を取ると肌が乾燥し張りが失われるが爪や歯も同じだ。
爪切りを使うと足の親指などは欠けるような感じで切れていく。
歯も同様で詰め物をしている歯の縁が欠けて今年は年明け早々から歯医者通い。
・今朝布団から出て靴下を履きながら小学生の頃の冬を思い出した。
夜に布団に入ると体の輪郭に沿って母が掛布団をぽんぽんと押してくれたものだった。
寒くないようにと布団を体に密着させる心遣いが嬉しかった。
靴下の履き方についてもその頃の思い出がある。
私はつま先を少しずつ靴下に入れて履いていた。
この履き方では足と靴下がぴったり合わないことが多かった。
見かねた母が靴下を両手で手繰ってつま先が直に靴下の先っぽに入る履き方を教えてくれた。
大人の知恵は大したものだと子供心に感心した覚えがある。
●2021.1.11(月)生き方・五感・軌跡
・動物が喧嘩する時は相手を威嚇するため自分の体を大きく見せようとする。
人間も同じで肩をそびやかし肘を張って上体に力が入り伸びあがるような格好になる。
これを人生とリンクさせると「背伸びした」生き方ということになるだろう。
興奮した荒い息づかいを鎮めて「かかとを地に付けた」生き方をしたいものだ。
近頃見かけなくなって残念なのだが私のウォーキングルートにそれはそれは優雅なフォームで歩く女性がいた。
単に歩いているだけなのにずっと見ていたくなるような見事さだった。
歩くフォームでさえそうなら生きるスタイルが美しい人はどんなに魅力的だろう。
・沖縄で遊ぶ芸能人の親子をテレビで見て私も旅に出たくなった。
高いお金を払って旅行しなくてもテレビの紀行番組で十分だ。
これまでそう思っていたのだが今回考えを改めた。
というのはテレビの画面では五感のうち視覚のみしか刺激されないことに今さらながら気づいたからだ。
沖縄の海の匂いや風の感触は現地に行かなければ体感できない。
とは言っても貧乏な私が旅に出ることは多分ない。
ウォーキングしながら嗅覚や触覚も働かせて春の到来を待ち望むとしよう。
・人の一生はロケットの軌跡のようなものだ。
ノーベル賞を受賞するような科学者はふらふら飲みに出たり競馬場へ出かけたりせずに一途に研究に励むだろう。
その人生は打ち上げられたロケットが高く上昇し最後は打ち上げ地点付近に落下するような軌跡を描くだろう。
それに比べて大抵の人のロケットはほんの少し高度が上がったところで横向きに方向を変えそのうち失速して墜落する軌跡を描くだろう。
この両者は良し悪しの問題ではなくそれぞれの人生を文章化すれば前者は伝記、後者は小説になりそうだ。
そして私は思うのだがどちらの人生も打ち上げられて落下するまでの軌跡で縁どられる図形の面積はそう変わらないのではないか。
私のロケットはと言えば打ち上げ後まもなく爆発したのかもしれない。
●2021.1.13(水)スピード感・柔軟性・占い・歌詞
・寒い朝に車を運転すると暖房が効き始めるまで待ち遠しい。
現代人はせっかちで待つことが苦手だ。
なぜかと言えば何事もスピーディーに事が運ぶ時代だからだろう。
テレビのロケ番組を見ていると田舎の人は優しいとレポーターが異口同音に語る。
それは同じ現代でも都会と田舎のスピード感の違いに由来すると思われる。
都会の人間は目の前でドアが閉まると次の電車は数分後に来るのにイラつくのではないか。
・体が硬くなってしまって靴下を体育座りで履くことさえままならない。
老化による自然現象なのだろうが私に言わせれば少しずつ進行する難病のようなものだ。
フィギュアスケートや体操の女子選手の体の柔らかさを見るとあれは逆にやりすぎで体によくないのではないかと思えてくる。
・私が占いを信じない理由は二つある。
星座による性格診断を例に挙げれば私は蟹座だが占い師によって言うことが違う。
そして他の星座の説明も同じ程度に私に当てはまりまた同じ程度に外れているように思われる。
以上のように考えていながら今年の蟹座の運勢をネットで見てみた。
占い師によって違ったことが書かれてあっても自分に都合のいいところだけ心にとめようと思ったからである。
これはご都合主義ではなくポジティブ思考ととらえることにしよう。
・カラオケでさだまさしの歌を歌った時の話である。
さだまさしの歌は好きではないとママさんが言った。
理由を聞くとただ一言「言い過ぎ」。
だいぶ前のことなので覚えているのはそれだけだがママさんが言いたかったのはさだまさし批判でなくこんなことだったのではないか。
ニューミュージックやポップスの歌詞は言いたいことをそのまま書き連ねた散文のようだと。
もしそうだとするとその対極にあるのは演歌の歌詞だ。
昔の演歌はほぼ全て五七調か七五調の定型詩だった。
その伝統は今も息づいていて現代の演歌も五音と七音の組み合わせを基調とした歌詞が多い。
リズムだけでなく表現においても演歌は詩的なメタファーを多用する。
「人の情けにつかまりながら折れた情けの枝で死ぬ」(「浪花節だよ人生は」)
私の歌の好き嫌いはジャンルは問わないが歌詞に大きく左右される。
「情けながした加茂川に とけた淡雪はかなくて」(「加茂川ブルース」)のような七五調もいいがさだまさしの歌も立派な散文詩と言えるのではないか。
●2021.1.16(土)俳句・文芸のジャンル
・短歌と俳句の違いは季語の有無その他いろいろな言い方ができるだろう。
私は両者の違いを際立たせるために誤解を恐れずあえてこういう言い方をしてみよう。
短歌は「情」を詠み俳句は「物」を詠む。
もちろん「物」や「景」を題材にしても詠むにいたった思いはあるはずだから万葉集ふうに言えば短歌が「ただに思いを述ぶる歌」(心に思うことを直接述べる歌)、俳句が「物に寄せて思いを述ぶる歌」(物に託して思いを述べる歌)ということになろうか。
「物」を詠む俳句にどんな効用があるかと言えば桜は桜、菊は菊というふうにそのもの自体をくっきりと表現してくれることだろう。
例を挙げよう。
芸能人に俳句を詠ませて優劣を競うテレビ番組を数日前に見た。
番組内での芸能人の句が最近出版された歳時記にいくつか例句として採用されたという。
そのページが画面に映ったのだが私は芸能人の句の隣にあった句に惹きつけられた。
「青空に
読んだ瞬間、「これこれ! これが無花果だ、無花果とはこういうものだ」と感嘆した。
こういう句によって無花果というものがくっきりとした唯一無二の物に思えてくる。
近所の公園の土手の雑草を掘り取って小さな植木鉢に植える。
それを玄関の下足箱の上に置けば来客にはけっこうありがたい植物に見えて目を止めるのではなかろうか。
俳句にはそんな力があるように思う。
・長編小説→短編小説→詩→短歌→俳句
文芸作品の鑑賞は字数が短くなればなるほど行間を深く読み込まねばならない。
どのジャンルを好むかは作家も読者もそれぞれの資質だろうと思われる。
だから詩人として出発しながら長編小説作家になった島崎藤村は大したものだ。
小説の文体にも藤村らしい独自の味があるし『破戒』の「蓮華寺では下宿を兼ねた。」は小説の出だしとして最高の一文ではないかと思う。
と言いながら私は長編小説を読むのが苦手だ。
だいたい登場人物が多すぎる。
人物の関係図のページを途中でちらちらと覗きながら読み進めるのが煩わしい。
海外文学だと名前がカタカナだからなおさらだ。
ついでに言えば私は高校生の時に社会の入試科目は日本史を選択した。
世界史は「ボッティチェリ」とか「ヒポクラテス」とかカタカナの人名を覚えるのに難儀する気がしたからだ。
その点日本史の人名は漢字なのでイメージが湧いて頭に入りやすい。
ただし世界史と違って漢字で書かねばならないという負担には考えが及ばなかった。
●2021.1.18(月)誹謗中傷・プロサッカーリーグ
・飲み終えたジュースの空き缶を他人の玄関先に捨てて平気な人間がいる。
ネット上の誹謗中傷はこの行為に似ている。
相手の身になってみろと言っても聞く耳は持たないだろう。
次のように話を持って行ってはどうか。
「あなたがネットに(誹謗中傷を)書き込む時自分の実名を名乗らないのはなぜですか?」
その理由はおよそ想像がつくから返答がなくてもこう続ければいい。
「今あなたが考えた理由がそのまま他人を誹謗中傷してはいけない理由なのですよ」
あるいは「あなたは今ようやく被害者の気持ちを少し実感できましたね」
空き缶を平気で捨てる人間も自分の家に投げ込まれたら腹を立てるだろう。
・日本のプロサッカーの最高峰はJ1リーグだが他の国はどうなのだろう。
イギリスは「プレミアリーグ」で分かりやすい。
フランスは「リーグ・アン」、「アン」はフランス語で「1・2・3」を「アン・ドゥ・トロワ」と言うように数字の1。
イタリアは「セリエ・アー」で「アー」はA。
「1」も「A」も共にイギリスの「プレミア」(最高の)と同じニュアンスで使っているのだろう。
なお「セリエ」は英語の「シリーズ」にあたる。
今回こんなことを調べたのはドイツの「ブンデスリーガ」がよく分からなかったからである。
「ブンデス」は「連邦」、「リーガ」は「リーグ」で直訳すれば「連邦リーグ」ということのようだ。
ドイツの正式名称はドイツ連邦共和国だから「全国リーグ」という感じだろうか。
余談だがこれを調べるにあたって「ヤフー知恵袋」を見ると「ドイツ語でブンデスとはどう言う意味ですか?」という質問があった。
この文中の「どう言う」にもひっかかってしまった。
もちろん「どういう」と書くべきところだが語源があらわになっているので目が留まったのである。
「田中という人から電話がありました」「それは無理な注文というものです」などの「いう」も元来は「(世間の人々はそう)言う」という意味だろう。
●2021.1.20(水)無事是好日・文化の特質
・朝起きて胃が重かった。
昨日はなんともなかったのにと思った時次のようなことに気づいた。
何もないということは幸せなことであるのにそれが普通だと思っている。
本当は「無事
ところでこの言葉は「何事もない日は
まず、「是」には英語のbe動詞の使い方があるから「無事是好日」は「無事is好日」という構造になっている。
次に「無事」とは普通は事故などのよくない事が無い状態を言うが広辞苑に「②自然のままで何も人為を加えないこと」とある。
分かりやすく言えば、自分を抑圧したり他人に迎合したりして自分で自分を縛ることなくありのままの自分でいる、それが「無事」ということだろう。
「自分は何をなすべきか、どう生きるべきか」
そんなふうに生きる意味にとらわれがちなありかたに疑問を抱いている私にとっても意を強くしてくれる言葉だ。
と言いながら私はウオーキングに出かけると1週500mのコースを今日は何分のペースで歩こうかなどと自らにノルマを課したりする。
それはそれとしても歩いている途中で綺麗な夕焼けに心奪われて足を止めるようなゆとりは持ちたい。
・夏にクーラーや扇風機を使わずに団扇で過ごせと言われたら耐え難いだろう。
文明が進歩すると元には戻りたくない。
それに対して文化はどうか。
例えば太古の洞窟の壁画と現代作家の描く絵画はどちらが優れているかということは言えないのではないか。
カラオケで歌う歌も同じだ。
昭和歌謡は1番から3番までメロディーも歌詞の音数も同じでエンディングの伴奏は冗長な余韻を残さず「チャンチャン」と聞こえる切り上げ方をする。
現代のポップスは1番、2番という概念さえないようで、あったとしても1番と2番の歌詞の音数をきっちり合わせようとしないしメロディーも転調を多用する。
だからと言って良くないとかいいとかいうことではない。
時代が移るにつれて複雑になることはあっても進化とか退化とかいう見方にはなじまない、それが文化の特質だろう。
●2021.1.25(月)ドッペルゲンガーその他
ドッペルゲンガーを小説に仕立てられないかと考えて少し調べてみた。
ドッペルゲンガーというのは自分とそっくりの姿をした人間のことだ。
もし出会ったら本人が死んでしまうというのが有名な特徴である。
「ドッペルゲンガー(Doppelgänger)」というドイツ語の「ドッペル(Doppel)」は英語の「ダブル(double)」に当たる。
「ゲンガー(gänger)」は「歩く人」という意味で英語の「go」と関係がある言葉のようだ。
誰かを激しく憎んでいるような場合、霊魂が体を抜け出してその人に憑依する。
源氏物語では光源氏の愛人
こういうのを
憎悪などの執着と関係なく霊魂が分離してしかも実体化したものだ。
だから自分とそっくりの姿をして歩き回ったりもする。
しかし幽霊のように壁を通り抜けたりもするので完全に実体化した存在と言い切ることもできない。
ドッペルゲンガーにしても生霊にしても現実離れした話だから小説にするとなるとファンタジーということになりそうだ。
そこで「霊魂と本体」を「虚像と実像」に置き換えて登場人物を造形してはどうだろうか。
その虚像と実像を相反する形にすればさらに個性が際立つ。
例えば「笑っても笑わない人」、いわゆる「目が笑わない人」だ。
「謙虚なのに謙虚でない人」、これは「
「死んでも死なない人」はゾンビだがここまでくればファンタジーに戻ってしまう。
ドッペルゲンガーつながりで鏡像のことが頭に浮かんだ。
鏡に映る自分の顔を洗面のついでとかでなくじっと見つめたことが誰しも一度はあるだろう。
長時間見つめていると鏡像が実体であるかのような感覚が生じる。
自分とそっくりな人間が鏡の向こうに居て自分を見つめているように思えてくる。
見るという行為は見ているものに魂を奪われることに通じるのではないか。
見る側と見られる側という関係を小説で考えると視点の問題になる。
視点の問題もけっこう奥が深い。
『こころ』(夏目漱石)の「先生と遺書」の章は「先生」の視点で書かれているが先生の自殺した友人「K」の視点、視角を設定して読み解くと次のような情景描写までもが重要な意味を帯びてくるように思われる。
【ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛り付いたような心持がしました。】
これは「先生」と「K」が冬の上野公園で「お嬢さん」についての話を切り上げた直後の場面だがKの自殺の決意を暗示しているのではなかろうか。
●2021.1.27(水)「たむろ」と「買い食い」
「言うは
こんなふうに昔は「
特別の意味はなく言葉の響きをよくする「た」という接頭語がある。
これを「
すると「たやすい」「たなびく」「たばかる」という言葉になる。
小学校の頃に先生からよくこんな注意を受けたものだ。
「廊下にたむろしてはいけません」
当時は「たむろ」の意味が分からず蛇がとぐろを巻いているような感じがして面白く思っていた。
「たむろ」の「た」は接頭語で「むろ」は「
「たむろ」は漢字で「屯」と書くと知って「
「学校帰りに買い食いをしてはいけません」
「たむろ」に加えて「買い食い」という言葉も小学校時代が思い出されて懐かしい。
妻がドリンクのカップのアルミシールに太いストローを突き刺して飲んでいた。
その時は何とも思わなかったが後でストローの太さからしてタピオカ入りのドリンクだったのではないかと思った。
思えば私はタピオカドリンクなるものを一度も飲んだことがない。
そこで外出したついでにコンビニに寄ってタピオカミルクティー、ついでに美味しいと評判のシュークリームも2個買った。
私は一人で飲食物の買い物をすることはめったにないので小学生が「買い食い」するような後ろめたさを感じた。
肝心の味はと言えば初体験のタピオカもシュークリームも格別美味しいとは感じなかった。
味覚も加齢によって衰えるのだろうか。
それはともかくとして食べ終わった後で気になったことがある。
コンビニのレジの青年はどう思っただろうか。
タピオカミルクティーとシュークリームを買う年寄りを。
●2021.1.29(金)離合
常々不思議に思っていることがある。
感動した時や驚いた時は世界のどの民族も「ああ!」と言いそうなものではないか。
それが英語圏では「oh!(オー!)」と言う。
しゃべるのではなくて無意識に出るのだから最も自然な「アー!」という発声になりそうなものだ。
この問題を押し広げれば同じ国内の方言の違いにも通じるところがある。
困った問題が起きたことを聞かされて「それはまた(困ったことですね)」と応じる。
これが長崎では少し音韻変化を起こして「そらまた(困ったもんたい)」となる。
同じケースで語順を変えるだけでも方言っぽくなる。
「またどう(してそんな困ったことに)」を長崎人は「どうまた」と言い強調する時には「どういまた」と「い」が小さな発音で入る。
今回こんなことを話題にしたのは足を柱にぶつけて思わず方言で叫んだことを思い出したからである。
と言っても10年も20年も前のことだが私は「あいたーしこ!」と叫んでしまった。
妻に「久しぶりに聞いた」と言われたがその時以来私も含めてこの言葉を使う人に出会ったことがない。
痛い思いをした時「あいたー!」と声を上げるのはよくあることだ。
それに付け加えて私が発した「しこ」とは何なのか。
気になって調べたが分からなかった。
「もろたしこ(もらっただけ)持って来た」「どがしこ(どれくらい)あっとね」「いるしこ(必要なだけ)やる」
こんなふうな「~だけ・~くらい」の意味を表す「しこ」という言葉はあるのだが。
それやこれやで方言を調べていくうちにびっくりする発見があった。
それは「
「道が狭いからトラックが来たら離合できるだろうか」などと言ったり道路脇の看板に「この先幅員減少のため離合困難」と書いてあったりする。
それに「離合集散」という言葉は一般的に使うのだからまさか方言とは思わなかった。
しかし「車どうしがすれ違う」という意味で「離合」を使うのは主に九州及び中国四国地方の九州よりの地域なのだそうだ。
はたしてそうなのか、その他の地域の人に確かめてみたいものだ。
●2021.1.31(日)幽体離脱・ウォーキング
・霊魂とか魂とかは脳の内部にあるもののように捉えられがちだがどうなのだろう。
全身にくまなく行き渡っていると言おうか充満していると言おうか、つまり体そのままの形で体にぴったりと収まっているのではないか。
なぜ私がそう思うのかと言えば以下に述べるような体験をしたからである。
20年ほど前のことだが職場の上司が自宅に部下を数名招いて飲み会を開いた。
私も招かれた一人で畳の部屋に座っての宴会だった。
メンバーが酒豪ぞろいだったので次から次に日本酒をコップに注がれた。
飲み続けるうちに許容量を超えたのだろう、私の霊魂、魂としか思えないものが突然体の内部で10センチか20センチくらい下に沈み込んだ感覚が生じた。
座っている上体の形そのままでズン!と音を立てたかと思われるほどに一気に魂がずり下がった実感があった。
泥酔してはいても命の危険を感じて私は近くの自宅に這うようにして帰り一晩中嘔吐し続けた。
人が亡くなると魂が体から離脱するという話をよく聞く。
もしそれが本当ならば私の体験から言って魂は火の玉のような形でなく体そのままの形状で抜け出るのではなかろうか。
・高齢化社会の進展を反映するかのようにウォーキングをする老人が年々増えつつあるように思われる。
「リタイアしたとは言え年寄りはお気楽なものだ」
若い頃の私は出勤途上でウォーキングをしている老人を見かけるとそう思ったものだった。
しかし自分が年を取るとがらりと考えが変わった。
老人にとってウォーキングは暢気な気晴らしや単なる習慣ではない。
足腰が弱り長く寝付いて家族に迷惑をかける、それを回避することがノルマとして課されている仕事のようなものだ。
雪や雨の日でも歩いている老人を見かけると特にそう思う。
仕事なればこそ雪が降ろうと雨が降ろうとためらうことなく靴を履くのではないか。
●2021.2.2(火)オリオン座・梁塵秘抄
・星座は分かりにくい。
別の言い方をすれば星座を考え出した人間の想像力はすごい。
例えば
そんな私が唯一見つけることができるのがオリオン座だ。
そのオリオン座を構成する星の一つであるベテルギウスが近々超新星爆発を起こすのではないかということが昨年話題になった。
しかし最新の研究ではまだ当分先のことのようだ。
オリオン座は地球と同じ天の川銀河にあり距離は約640光年。
これは天文学的には至近距離でベテルギウスが爆発すると満月の約100倍の明るさで約3か月に渡って青く輝くという。
地球に害が及ばないなら見てみたいものだが天文学の数字はスケールが違う。
たった今爆発しても640年後にしか見ることができないのだ。
頑張って長生きしようと思えるレベルではない。
・平安時代の遊女たちは「
今様というのはニューミュージックという程度の意味だろう。
その歌詞を集めたのが『
有名な作品を一つ挙げてみる。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ」
遊びまわる子供たちの元気な声を聞いていると我が身も浮き立つ思いがするということだろう。
しかし遊女たちの身になれば「おもしろうてやがてかなしき
純真無垢な子供たちに比べて我が身はどうかと振り返る時「遊び」「戯れ」は遊女の
昨今の寒空の下で遊んでいる子供たちを見かけると私は浮き立つどころか逆に寒さに震える思いがする。
長崎弁で言えば私は「ひゅーなし」なのである。
●2021.2.4(木)介護
介護施設での職員による暴行が時々ニュースになる。
指示に従わない、勝手にうろつき回る等、職員の身になればイライラも募るだろうがそれは人間相手なればこそだ。
これが飼い猫なら言うことを聞かなくてもふらりと家を出て行っても腹は立つまい。
猫扱いするわけではないが認知症の老人の気ままに見える行動は周囲への配慮を欠いたわがままでなくそれが精一杯、ないしは自然な姿なのだろう。
明日は我が身である。
認知症の症状が現れたら私は我を張らず免許証の返納をはじめとして周囲からの忠告を全て受け入れようと思っている。
しかしそれは今だから言えることなのかもしれない。
「外出する時は電気やガスのチェック」などと玄関に貼り紙をしてもそれを見る意識がなくなるのが認知症だろう。
酔っ払いは認知症に似ている。
酔っているのに酔っていないとわめいたりあげくの果ては飲酒運転をしたり。
私は認知症の予防にまずは飲みに出かけてわめいたり絡んだりせず楽しく飲む訓練に励もうと思う。
それが習い性となればしめたものだ。
熊本にいる私の兄弟のところに父親を連れて行ったことがある。
フェリーに乗ったのだが父が船室から甲板に出るたびに付いて回った。
その時父は90歳を超えていて心配だったからである。
年寄りの世話は大変だ、そんなふうに思った。
これが若者どうしのカップルだったらどうだろう。
旅行中ずっと寄り添っているのはむしろ喜びだろう。
亡くなった父親や母親が今生きていてくれたらと思う。
旅行に行ったり飲みに出かけたりもいいが家に居てテレビで『水戸黄門』を一緒に見ているだけでもいい。
私もいつか誰かに介護される身になるだろう。
こんな人に介護されたいものだと思う人がいる。
「今日は晴天、ぼけ日和」というブログを書いていらっしゃる女性介護士だ。
このブログを多くの人に読んで欲しいと思う。
介護についての考えが深く胸に沁みてくるし何より文章がすばらしい。
技巧を凝らした文体の対極にある至高の名文だとさえ思う。
この人は漫画家でもあるので添えられた絵がまた味わい深い。
●2021.2.6(土)BGM・せっかち
・行政解剖を行う医者を監察医と言うのだそうだ。
女性監察医を主人公とするテレビ番組を妻が録画して毎週見ている。
私も見るともなく見ていたがこの番組にはBGMが殆ど流れないことに気づいた。
だから画面の静かな進行がリアルさを感じさせる。
それではBGMとはいったい何なのかと考えてみた。
BGMは目に見えない心情を分かりやすく聴覚で提示しているのではないか。
例えば登場人物が心霊スポットに向かっている場面で不気味なBGMが流れるとする。
それは登場人物の抱いている、そして視聴者にも抱いてほしい心情の表現だと考えられる。
この考えを推し進めればグルメ番組の大げさなリアクションもBGMみたいなものだ。
人生をドラマだと考えると私たちのリアルな日常は下手な役者ぞろいの演劇と言える。
美味しいものを食べて感動した時には我々もテレビタレントのように目を見開いて声を発してはどうか。
そうすれば人生がドラマチックになるのでは。
そんなことを考えていると目の前のテレビは監察医夫婦の感動的な場面にさしかかった。
夫が次のようなセリフを監察医の妻に言った。
「僕が君と結婚したのは楽しい時だけでなく悲しい時辛い時も一緒にいるためだよ」
私の妻が熱心に見入っている横で私はインスタントスープを「ずずっ!」と音を立ててすすってしまった。
ムードぶち壊しのBGMである。
ちなみにトーストも食べていたのだが妻は食パンが焼き上がると大きめの皿にのせる。
私は皿を洗う手間が省けるように鍋敷きにティッシュを敷いてのせる。
これも雰囲気のない事おびただしい。
・近頃は録画したサスペンスを見る時早送りで途中を飛ばすことがある。
犯人は決まっているのに無駄な回り道をしているように思えてくるのだ。
年を取るとこんなふうにせっかちになるがそれは言い換えれば過程を楽しめないということでもある。
老体に無理がきかないように頭の働きも粘り強さが失われるのだろう。
だから認知症予防のたいていの脳トレ本はああでもないこうでもないと多方面に粘り強く頭を働かせるクイズ形式になっている。
年を取るほど時間が早く過ぎるように感じられるという「ジャネーの法則」にはせっかちさも関係しているのではなかろうか。
●2021.2.10(水)アウトロー・悲喜劇・爪楊枝・ままごと
・もうすっかりおなじみになった「バリアフリー」「タックスフリー」、これらの言葉を最初目にした時、私は「障害物の置き放題」「消費税の掛け放題」と真逆の意味でとらえてしまった。
意味を誤解していた語は他にもある。
「無法者、おたずね者」という意味で西部劇などでよく出て来る「アウトロー」という言葉だ。
人間としてアウトで人間のレベルが低い、そんなニュアンスだろうと漠然と思っていた。
ところがこの場合の「ロー」は「低い(low)」ではなく「法律(law)」だった。
従って「アウトロー」は法律の外側にいる者ということになる。
・ギャグをひとつ作ってみた。
先生「どうして遅刻したんだ!」
生徒「遅刻の言い訳を考えていました」
ギャグとしては面白いかもしれないがこれは自分に自信がなく気の弱い人間の生き方に通じるのではないか。
気の弱い善人は人と相対する時最初から負ける準備をしているようなところがある。
これと似ているパターンに『男はつらいよ』の寅さんのような人間像がある。
「みなまで言うな、分かってる分かってる」と相手の辛さを先取りするが実は的外れだったと言う滑稽さ。
これも先ほどと同じく人生の愛すべき悲喜劇と言えるだろう。
・百円ショップで買った爪楊枝の表示を見ると850本入りだった。
機械を使って大量生産するにしても大したコスパだ。
原材料は間伐材や端材を使うのだろうが自分が手作業で850本削ることを想像すれば気が遠くなる。
そして爪楊枝を入れる薄いプラスチックの容器、これは私の独力では一生かかっても作れまい。
爪楊枝、容器、容器に貼ってあるラベル、これらの原料を用意する人がいて製品に加工する人がいてショップまで運ぶ人がいる。
さらにショップ内でも荷下ろしして陳列する人、レジを打つ人がいる。
これら多くの人の人件費も必要なのに100円なのである。
無駄にせず大事に使いたくなるがそれでは生産者は困るだろうと思えばいやはや。
・動物であれ魚類であれ多くの生物は生まれると子は親にぴったり寄り添って行動する。
そしてエサの取り方を学習して自分で生きていけるようになれば親離れをする。
人間の場合はどうなのだろう。
「ごっこ遊び」がそれに近いのではないか。
ごっこ遊びの一つの「ままごと」はそれぞれの家庭のありさまが垣間見えて面白い。
上品な家庭の娘さんと私の息子のままごとを想像してみた。
「あなたお帰りなさい」
「仕事んきつうしてきゃあなえたばい。焼酎ば飲むぞ」
「ワインしかないわ」
「そっでんよか。しゃーはあっとな」
幸か不幸か、近頃は近所の子供どうしが集まってままごとをすることは殆どないようだ。
●2021.2.12(金)使いづらい言葉・単独登山・漫画
・「独り言」を動詞化した「ひとりごちる」という語は小説の中で使いづらいと以前記事にした。
最近この動詞の活用がふと気になって考えてみた。
すると「ひとりごちて」「ひとりごちた」(共に連用形)以外の表現を目にしたおぼえがない。
意味のニュアンスだけでなく活用の面からもこの動詞は使いづらいのだろうと思われる。
使いづらい言葉がほかに二つ浮かんだ。
一つは女子高生が男子に言いそうな「変なの」。
もう一つは上流階級のマダムが言いそうな「何ですって?!」。
これらは余りに定番すぎて気恥ずかしい。
・年齢に比例して体力が衰えるのは自然の道理だ。
そして体力が低下すると活動への意欲も衰えるようだ。
気ままに山登りでもしようかと以前は思っていたがもうそんな気にはならない。
一人で山を歩く時に怖いのは足の怪我である。
ひどい捻挫や骨折をしたらどうすればよいのか。
またマムシに噛まれたらどうするか。
同伴者がいればいいが単独行は心配が尽きない。
しかし現代はスマホという心強い味方がいることに思い至った。
ただ山でスマホが使えるのかどうかが問題である。
ネットで検索するとやっぱり情報があった。
山で一番つながる携帯電話会社はどこか?
あちこちの山小屋に問い合わせた結果が%で記されている。
携帯電話会社によってけっこう大きな差があるのに驚いた。
街なかで使う分には大差なくても山男はそういった点も考慮してスマホを購入しているのだろうか。
次に海上ではどうかが気になったが今後釣りもやることはないだろうから調べなかった。
・漫画ばかり読んでいる人間が活字本を読むのは苦手だと言うのはよく分かる。
けれども活字本ばかり読んでいる人が漫画を読むのが苦手だと聞いた時には意外に思った。
テレビ番組でそんな発言をする文化人が時々いるのだが彼らに漫画を読ませてみると面白い。
活字本なら速読もできるのに漫画を読むのは非常に遅いのである。
単に漫画を読み慣れていないせいなのだろうか。
漫画の絵に話題を移すが絵の描き方、タッチは小説で言えば文体に当たるのではないか。
パラパラと少しページをめくっただけでタッチによって読みたいかどうかが瞬時に決まる。
どんなタッチであれ漫画家は美男、美女を複数登場させる場合描き分けるのに苦労するようだ。
美男、美女は顔立ちのバリエーションが少ないためヘアスタイルや服装などを差別化の助けに利用している。
それに対して美男、美女でないキャラクターの顔立ちはバリエーションが豊富だ。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文を思い出す。
「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸の形がある」
最近私は息子が持って来た『ウロボロス』という漫画、全24巻を読んだ。
●2021.2.14(日)#と♯・女性の外出
・ツイッターもインスタグラムもやっていない私だが「ハッシュタグ」という言葉はよく耳にする。
ハッシュマークと音楽のシャープ記号とは似ているが別物である。
そのことを私はごく最近知ったのだが混同している人は多いと思われる。
電話の音声案内でもあえて「右下のシャープのボタンを押してください」と言う。
その方が「ハッシュマークのボタンを」と正しく言うよりも伝わりやすいのだろう。
音楽のシャープに関しても調べたのだが最初の段階で得た知識だけ記しておこう。
音名は普通「ドレミファソラシ(ド)」と言うがこれはイタリア語である。
日本名は「ハニホヘトイロ」で英語名は「CDEFGAB」だ。
音楽の世界ではチューニング等の基準にする音は「ラ」である。
その「ラ」からスタートして音名を並べてみよう。
すると「ラシドレミファソ」=「イロハニホヘト」=「ABCDEFG」となる。
この相互関係からすれば例えば「ハ長調」とはド(=ハ)を主音とする長調のことで英語ではC(=ド)メジャーとなる。
この程度のことも私はこれまで漠然としか認識していなかった。
・サスペンスもののテレビ番組で探偵ごっこ好きの旅館の若女将が近所に出かけるシーンがあった。
その和服姿がいかにも「ちょっとそこまで」という感じだった。
なぜそう見えたかと言えば手ぶらだったからである。
和服での外出姿は何か手に持っていなければ様にならない。
さらに言えば洋服の場合も同じなのではないかと思った。
男と違って女性が道を歩く時の姿は手ぶらではどうもしっくりこない。
なぜだろう、ポケットの問題だろうかなどと考えているうちにテレビの場面は警察署に移った。
遺体を確認させてくれという人物を刑事が霊安室に連れて行く。
すると霊安室前にいた制服姿の警察官がドアを開けた。
警察官には一言のセリフもなかったが顔はちらりと映った。
その時私はふとこう思った。
この役者の家族はそのわずか数秒を何度も何度も録画した画面で見ることだろうと。
●2021.2.16(火)サイクル・比喩・カレンダー
・現役の頃は仕事や子育てをする上で小さいながらも日々いろんなドラマがあった。
リタイアすると仕事はもちろん子供も手を離れ毎日がただ粛々と過ぎていく。
始まりは終わりのスタートである。
朝になればやがて1日が終わる。
新しい年を迎えればそのうち1年が終わる。
カーテンを束ねる帯状の布はタッセルという名称なのだそうだ。
そのタッセルで今朝カーテンを留めながら感慨にふけった。
毎朝のこのルーティンもいつか終える時がくるのだなと。
20年前は新品だったカーテンもあちこちが毛玉みたいにほつれている。
・「綿のように疲れる」とか「泥のように眠る」という表現は面白い。
名詞をぽんと投げ出して「綿のように」「泥のように」とたとえられてもどんな疲れ方かどんな眠り方か分かりにくい。
最近ニュースの記事でこの「綿のように疲れた」という表現を目にした。
久しぶりだったので新鮮に響いたがこの言葉を知らない人は「ふんわりと心地よい疲れ」と誤解するのではないかと心配にもなった。
・現役の頃は分厚いメモ帳が必需品だったが今はカレンダーの余白で間に合う。
カレンダーは100円ショップで買えるがそれも節約して私はパソコンでダウンロードしたものを印刷している。
2月のカレンダーを見ると11日に「建国記念の日」、23日に「天皇誕生日」と書いてあるだけだ。
余りにもシンプルなので「立春」などの二十四節季や「大安」などの六曜が記載してあるものをダウンロードすればよかった。
そんなことを思いながら改めて見てみると祝日以外にもう一つ記載のある日があった。
14日の「バレンタインデー」である。
ということは…と思って3月を見ると14日に「ホワイトデー」とある。
さらには10月31日に「ハロウィン」の文字までも。
シンプルなカレンダーに横文字のイベントがやたらと記入されている。
これではまるで西洋のカレンダーではないか。
12月25日にはもちろん「クリスマス」の記載がある。
それに文句を言うつもりはないがそれなら4月8日も「花祭り」と書いてほしいものだ。
●2021.2.18(木)中庸・歴史
・昨日から冷え込み今朝起きてみたら雪が降り積もっていた。
こんなに寒いとウオーキングに出る気も起きない。
昨夜は炬燵に丸まって焼酎のお湯割りをチビチビと口に運んだ。
生ビールをジョッキで喉に流し込む夏が待ち遠しい。
しかし夏になればなったで暑さに辟易することだろう。
やはりぽかぽかと暖かい春が快適だ。
季節と同じで人間も冷たい人、暑苦しい人より温かい人がいい。
心の持ち方も中庸が肝要だが人はなかなか反省ということができない。
誹謗中傷はもちろんだが愚痴や我慢も自分は悪くないという思いが根底にある。
かと言って自己嫌悪に陥ったり自虐的になるのも「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。
他人を否定するのと自分を否定するのとは真逆に見えるが自分を甘やかすという点では同じことだろう。
ゲーテの有名な言葉がある。
「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の本当の味はわからない」
中庸の道を淡々と歩んでいる人には苦労と反省の裏打ちがあるのだろう。
・世界には200近い国があるのに世界史と日本史の教科書の厚さは同じ。
ということは世界史は広く薄く日本史は狭く深く学ぶことになるのだろう。
次に横の関係でなく縦の時間軸でみてみよう。
私が高校で歴史を学んだのは数十年前だがその頃も今も教科書の厚さは同じだ。
今後も同じことだろうから時代が進むにつれて学ぶ事項は間引きされていくのだろう。
今度は人生を1冊の歴史書にたとえてみよう。
すると老人は最終ページ近くまで読み進めていることになる。
小さい子供たちはまだ読み始めたばかりだ。
「頑張って読め、明るい未来が待っている」
私は自分の人生を振り返るととてもそんなふうに言い切ることはできない。
人類全体はどうなのだろう。
数百万年をかけて素晴らしい進歩を遂げたのだろうか。
皮肉を言えば歴史の教科書は権力者の交代劇の脚本のようにも思える。
●2021.2.20(土)経年変化・ステイホーム
・刑事もののドラマにこんなセリフがよく出てくる。
「君はまだ若いんだからいくらでもやり直しがきく」
ドラマの終盤で刑事が若い犯人を諭す場面である。
お決まりの文句だからこれまで何とも思わなかったが待てよと思った。
ということは年を取った人間はやり直しがきかないのだなと。
いささか侘しい気持ちになったが昨日のテレビ番組で勇気づけられた。
木造建築の魅力を再発見した建築家隈研吾氏がゲストだった。
いつまでもツルツル、ピカピカというのが工業化社会の美学だった。
しかしそれはすごいストレスになる。
その点木造建築はその年なりにいい味が出てくる。
氏はそのようなことを語っていたがこれは人間の生き方にも当てはまるのではなかろうか。
年を取ることは経年劣化でなく経年変化ととらえて楽しみたいものだ。
・鉢植えのゼラニウムを外に出したままにしておいてもいい頃となりました
誰の詩かも正確な表現も忘れたがそんな内容の詩句があったことを思い出した。
季節の変わり目は我々の日常に小さな変化をもたらす。
今朝起きてみるとそれほど寒くなく日射しもあった。
顔を洗った後ふと洗面台の横の窓を開けようかと思った。
それが春の訪れを実感した証のセレモニーになる気がしたのだがまだ風が冷たそうなのでやめた。
本格的な春の到来が待ち遠しい。
長崎市では外出自粛要請の特別警戒警報が明日で解除になる。
暇とお金を持て余している人はこれまで窮屈だったことだろう。
私は暇はあってもお金がないので自主的に年じゅう外出を自粛している。
こんな私だから用事でたまに近隣に出かける時は車を運転しながら県外を旅行しているのだと思い込む訓練をしている。
そのことは前にも記事にしたのだが今回その逆バージョンを考案した。
日帰り旅行はともかくとして人間とはわがままなもので数日旅していると家が恋しくなり帰宅すると「やっぱり我が家が一番」と口走る。
この感覚を利用してみようと思いついた。
目をつぶって「自分は今旅先の旅館で数週間連泊しているのだ」と思い込むのである。
実際どこかに長逗留した経験があればその時のことをつぶさに思い出してもいい。
思い込みに成功したら目を開けてみよう。
するとリビングでごろごろしている現在がたった今長旅から帰り着いたかのように価値あるものに思えてくるのではないか。
この目論見がうまくいけばステイホームも捨てたものではない。
●2021.2.24(水)分かりにくい字・科学のせわしさ
・数日前のクイズ番組で「やっと出題されたか」と思ったクイズがあった。
「柿」と「杮」である。
この二つの漢字は平仮名の「へ」とカタカナの「ヘ」と同じくらい見分けがつきにくい。
前者の「
ついでに漢字についての豆知識をいくつか記してみる。
「あ」の元は「安」、「い」の元は「以」というように平仮名は漢字の崩し字である。
私が面白いと思うのは「之」だ。
この漢字は「の」とか「これ」とか訓読みするが音読みは「し」である。
平仮名の「し」はこの漢字を縦に引っ張って伸ばしたものだ。
ゴシック体では分からないが明朝体で見れば「し」の上の部分は少しくねっている。
これが「之」の一画目の点の名残りである。
さて現在の平仮名はそれぞれ一つずつしかないが昔は「あ」でも「い」でも複数の漢字を崩して使っていた。
たとえば「か」は「加」を崩したものだが「可」を崩す場合もあった。
花札の赤い短冊が描かれた札にそれが見られる。
「あ可よろし」と書いてあるのだが崩し字なので「あのよろし」と誤読する人が多い。
他にもある。
食事に使う箸を上品に言えば「お手元」だ。
そう書けば分かりやすいのに箸袋にはよく「御手茂登」と書いてある。
しかも崩した書体なので読めない人が多い。
・朝の通勤時間帯にバス停に立っている人を見て時々思う。
交通機関が発達していなかった頃の生活はのどかだったろうと。
職場は自宅から歩いて行ける距離、買い物も近所の八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋だ。
それが今やマイカーで郊外の大型店舗に買い出しに行き冷蔵庫に保管する。
通勤もバスやマイカーどころか新幹線で県をまたぐ人さえいる時代だ。
科学の進歩によって生活全般が便利になるのと引き換えにせわしくなった。
さらにはIT化の進展によって古い世代の人間は置いてけぼりだ。
私などの世代が一生をかけて稼ぐ額をITに
私もIT化の流れにすがろうとして数日前マイナンバーカードを作成した。
確定申告をパソコンで済ますためだがこのカードを作るメリット、デメリットは色々あるようだ。
私はたとえ預貯金に紐づけられたとしても構わない。
ITを駆使する振り込め詐欺グループが私の預金残高をリサーチしたら気の毒がっていくらか振り込んでくれるかもしれない。
●2021.3.1(月)安らぎ・中治り
・小説の推敲にかかりっきりでこちらの更新の間が空いてしまった。
小説はようやく昨日サイトにアップしたのだが作中で夢のメカニズムに触れるくだりがある。
その部分を描いていて思ったのだが就寝というのは大きな安らぎなのではないか。
特に貧乏人にとっては。
車は長年乗っていればあちこちにガタがくる。
外回りは錆が浮いたり塗装が剥げたり、四隅の角をこすって傷がついたり。
内部もエンジン音が高くなったりエアコンの効きが悪くなったりと。
そういう不具合が重なれば買い替え時ということになる。
人間の体も同じではないかと最近つくづく思う。
体の外部も内部も年とともにガタついてくる。
そうなると車を廃車にするように生への執着が薄れる。
たとえば寝る時に明日の朝目覚めなくても別に構わないと思うようになる。
苦労続きだった私の母などは私以上にそう感じていたろうと今になって思う。
「
布団に入る時母は口癖みたいにそう言っていたように記憶している。
体の疲れだけでなくお金の苦労も寝ている間だけは忘れられるのだ。
母は晩年、足の骨折をきっかけに亡くなるまでの数年間寝たきりの生活を送った。
母の食事はもちろん
母は寝たきりになって体の自由は失われても全ての気苦労から解放されたのだった。
反対に富と権力の持ち主は寝る間も惜しいだろうし寝たきりの生活など最も忌避したい事態だろう。
秦の始皇帝は不老不死の薬までも探し求めた。
・亡くなる前に病状が回復したかのように元気を取り戻す期間があるという話はよく耳にするがそれを「
ところで猫にも「中治り」があり飼い主にすり寄って鳴いたり甘えたりするということだ。
飼い主は可愛くもいじらしくも感じて睦まじく最期のひと時を共にすることだろう。
私に死期が迫った時同じように家人にすり寄ったらどうだろう。
投げかけられそうな言葉の予想はつく。
「しぶとい」「きもい」「うざい」
●2021.3.3(水)御強・ナトリウム灯
・「御強」を読めない人が増えてきた。
「強張る」を参考にすれば「御強」が赤飯を意味する「おこわ」だと分かるだろう。
最近アップした小説中で「(顔が)こわばる」という表現を使用した。
「強張る」では読みづらいかもしれないと思って平仮名書きにした。
似たような言葉で「
「
つまり「凝る」「強る」「強張る」、これらは「固くなる」というイメージで共通している。(「強固」という言葉もある)
「御強」も蒸して作るので水で炊いたものより固い、つまり
「
・車の排気ガス規制が進んでいることを実感できる場所はトンネルだ。
昔はトンネル内の人道を歩けば手で鼻を覆いたくなるほどだった。
その排気ガスの煙や細かい塵が充満している中でも遠くまで光が届く照明がオレンジ色とのことである。
現在トンネル内は昼光色のLED照明が多いが昔は殆どオレンジ色のナトリウム灯だった。
ナトリウムランプが照らすトンネル内を車で走れば赤い車体が黒っぽく見えるのに最初は驚いた。
物には固有の色はないということをまざまざと実感させられた。
我々は昼間の晴れた戸外で見えるのが「本物の色」のように思いがちだがそれにしたって夏の海の色と冬の海の色は違う。
ついでに言えば完全に真っ暗な空間、完全に無音の空間は人工的にしか作れない。
ということはそれらは不自然な空間である。
無響室と呼ばれる無音の部屋は外部の音を遮断するのはもちろんだが室内の音の反射も可能な限り小さくする。
無響室では自分の心臓の鼓動や手足の関節の擦れる音などが聞こえ幻聴が出たり気分が悪くなったりすることもあるそうで45分以上耐えられた人はいないという。
●2021.3.6(土)文字の興味深い読み方や書き方
中学生の頃私は「know」「knife」などの英単語の綴りを恥ずかしながら「クノウ」「クナイフ」と口にして覚えた。
ところがこれらの言葉は大昔は私のように「k」も発音していたと大人になってから知った。
素朴に考えると最初から読まないなら「k」を入れる必要はなかったはずである。
古文も同じように素朴に考えてみよう。
ワ行は今は「わいうえを」だが昔は「わゐうゑを」と書いた。
この見慣れない「ゐ」と「ゑ」という平仮名を「i」「e」と読むのなら最初から今と同じように「い」「え」と書いたはずである。
この「ゐ」「ゑ」はワ行であるから昔の日本人は「wi(ウィ)」「we(ウェ)」と発音していた。
動物の「ゐのしし」(猪)は昔は単に「ゐ」と言った。
十二支の読み方にそれが残っている。(ね、うし……いぬ、ゐ)
なぜ猪を「ゐ」と言ったのかといえば鳴き声が「ウィ」とか「ヴィ」とか聞こえたからだろう。
「ゐのしし」の「しし」は「肉」というのが基本的な意味でそこから肉が美味しい猪や鹿などの動物も「しし」と言うようになった。
和風庭園でシーソーのようにしつらえた竹筒に水を少しずつ注ぎ入れて「カコーン」と音を立てる装置を「
話が少しそれたが「ゐのしし」という言葉の分析的な意味は「ゐ(ウィ)と鳴く美味しい肉の獣」ということになるだろう。
今度は漢字の話に移るが「肉」を「ニク」と読むのは
音読みとはざっくり言えば中国語だ。
では「肉」の訓読み、言い換えれば日本語読みは何かと言えば先ほど話題にした「しし」である。
「
正確に言えば「宍」は「肉」の異体字、あるいは俗字である。
異体字とか俗字の多くは昔の筆記具が筆であったという点から考えれば分かりやすいと私は思っている。
例えば「肉」という字を筆で書くところを想像してほしい。
書道教室みたいに半紙に大きく一字書く分には問題ない。
しかし日常的に書き記す文章中の一字として小さく書く場合は字の中央部分が線が重なってグチャグチャになりそうではないか。
そこで似たような形で「宍」と書けば書きやすい。
「崎」も同じだ。
右上の「大」の部分を「立」と書けばつぶれることなく書ける。
「龍」の字も右下の3本の横線を筆で書くのはきつい。
そこで3本目は2本目の線の中央から縦にカタカナの「ノ」のようにチョンと書くだけにする。
●2021.3.8(月)大相撲・生活のメリハリ
・日本の国技と言われる大相撲に登場した初の外国人力士は高見山である。
テレビの中継に入る「高見山 ハワイ・マウイ島出身高砂部屋」という館内アナウンスは大相撲らしからぬ響きだった。
以来時が流れて来週の14日から始まる3月場所の番付表を見ると幕内力士40人のうち11人が外国人力士である。
モンゴル勢が圧倒的で「白鵬(モンゴル出身宮城野部屋)」以下8人。
他は「栃ノ心(ジョージア出身春日野部屋)」「碧山(ブルガリア出身春日野部屋)」「魁聖(ブラジル出身友綱部屋)」の3人である。
大相撲でさえそうなのだから他の分野はとっくにグローバル化している。
例えば私の家に現在ある食品をちょっと見ても鮭の切り身はチリ出身イオン九州部屋でサンマの缶詰はタイ出身日本水産部屋だ。
和風の幕の内弁当もおかずのラインナップの出身地は国際化が進んでいることだろう。
・数日前の夕方に車で近所の交差点を通過した時のことである。
数名の若い女性が信号待ちをしていた。
時間帯からして仕事を終えたばかりの同僚どうしに見えた。
春の夕陽に照らされて屈託なくにこやかに話をしている彼女たちを羨ましく思った。
男どうしならこれからちょっと一杯ひっかけようかというところだろう。
それは女性どうしでも同じかもしれないが、とにかく仕事を終えたばかりの心地よい解放感というものが感じられた光景だった。
生活におけるメリハリというのはいいものだ。
と言いながらメリハリなく昼間から飲むのも贅沢な気分がしていい。
昼からどころか私は福島県の民謡『会津磐梯山』に登場する「朝寝朝酒朝湯が大好き」な小原庄助さんのように朝からでも飲もうと思えば飲める。
しかも庄助さんと違って私には
●2021.3.10(水)節穴・サスペンスドラマ・要
・「お前の目は節穴か」という表現について次のようなことを考えた。
昔は家の塀も建物の外壁にも天然の木材が多く使われていた。
だから板材のあちこちに枝の名残りである節があるのは日常的に見かけた。
そしてその節が抜け落ちた穴、つまり節穴も板材のところどころにあった。
しかし現在はむき出しの板材を町なかで見ることは殆どない。
ということは「お前の目は節穴か」という意味は分かっても実物の「節穴」を見たことのない若者はかなり多いのではないだろうか。
かく言う私も長年見ていない。
・サスペンスドラマの末尾で関係者全員が集められるシーンがよくある。
そして主人公の刑事なり探偵なりが「真犯人はお前だ」と指をさして謎解きが始まる。
その長々と続く説明の間、犯行に関わりのない配役の役者はただ突っ立っているだけだ。
不自然でもあるし手持無沙汰に立っている役者を気の毒にも思う。
どうにかできないものだろうかといつも思う。
ドラマの最初の方に登場するいかにも怪しい人物、これはまず犯人ではない。
これもサスペンスドラマに必ずと言っていいほど見られる設定だ。
このパターンを逆手にとれば面白いのではなかろうかと私は思う。
早々と容疑者から外れたその人物がやっぱり犯人だったという展開にもっていくのである。
・扇子の根元を見ると骨がバラバラにならないように細いピンで止めてある。
このピンを
蟹の目、つまり
語源はともかく骨を留めている要を引き抜くと扇子として使い物にならない。
そこから扇子に限らず「
人間の体の「要」は「腰」であるが私は近年ずっと腰が痛い。
若い時から仕事は腰砕けで人間は腰抜けの私が体まで動けなくなったら「動物」でさえなくなる気がする。
●2021.3.16(火)トビウオ・転倒
・トビウオの飛距離は長い場合は200メートルに達することもあると聞いたことがある。
ずいぶん昔の記憶なので本当かどうか調べてみた。
するとトビウオの飛距離は100~300メートルで私の覚えていた200メートルは平均的な飛距離ということになる。
最長はと言うと飛距離が伸びる大型のトビウオは600メートルくらい飛ぶこともあるというから驚きだ。
・昨日ウォーキングの途中で転んでしまった。
アスファルトのわずかな段差に左足がつまづいたので素早く右足を前に出したまではよかったが膝も弱っているので右足1本では体重を支えきれなかった。
倒れこみながらもとっさに右ひざを内側に入れて補助的に手も付いた。
結果としてごろりと右側に1回転して立ち上がった。
「もんどりうって」と表現したくなるようなこんな大仰な転び方は久しぶりだった。
起き上がってまず辺りを見回したが幸い誰にも見られてはいなかった。
次に着ていたブルゾンと手のひらを見た。
こちらも破れたり傷ついたりはしていなかった。
ちょっとつまづいたくらいで転倒するのは情けないが運動神経の方はまだ大丈夫のようだ。
これがやがて体力も運動神経も衰えるとまっすぐ前方に倒れこんで膝を強打したり手で支えきれずに顔面まで負傷したりするようになるのだろう。
関連して述べれば精神と身体の姿勢は相似しているのではなかろうか。
カップルであれ同性どうしであれ若者の会話は上気しているかのように弾む。
うがった見方をすれば話の内容よりも会話を交わすこと自体に興奮しているのではないかと思われる。
そんな若者たちは背筋をピンと伸ばして歩きながら時には背を反らして笑ったりする。
対して老人は年と共にうつむきがちに歩くようになる。
ただこの姿勢にもメリットがあって転倒しても後頭部を打つことはない。
そして自然に足元の野花の美しさにも目が行く。
精神面でも若者のように夢を追うことはないかわりに日常のちょっとしたことに感動したり感謝したりするようになる。
ともあれ今日の私は昨日転んだ時に打った右足の付け根の痛みに悩まされている。
●2021.3.19(金)似たような名前・不可逆的
・サスペンスドラマにはしょっちゅう警察署が出て来る。
実在の警察署を舞台にするのが不都合な場合はちょっとだけ変えた警察署名にする。
最近見たサスペンスドラマに「五反野駅」という名の駅が登場した。
これも警察署と同じく何らかの都合で「五反田駅」をもじったのだろうと思った。
ところが調べてみると東京に住んでいる人なら周知のことなのだろうが足立区に「五反野」という駅は実在していた。
イメージで言えば「五反田」が有名なだけに「五反野」はちょっとやぼったい気がする。
言葉としては「五反田」も「五反の広さ(一反は300坪)の田んぼ」という田舎臭い意味なのだが東京の都市名となれば何やらゆかしく響く。
「六本木」についても同じことが言える。
長崎県島原市の町はずれには「千本木」という地名がある。
「六本木」よりもスケールがでかいがいかんせんネームバリューでは足元にも及ばない。
私の地元の長崎に「銀座」はないが「銅座町」と「銭座町」がある。
しかしカラオケで歌おうとしても「銅座の恋の物語」や「銭座の恋の物語」はない。
・腰の痛みが続いている。
人体に自然治癒力があるのは実にありがたいことだと常々思っているが現在の腰痛はなかなかよくならない。
悪くなる一方の不可逆的な病だったらどうしようかと最悪のケースを想定したりもする。
もしそうだったとしても貧乏な我が家ではお金は命に代えられないので手術などはせず甘受する覚悟はできているのだが。
ところで「不可逆的」は英語ではどう言うのだろう。
志賀直哉の『城崎にて』に出てくる「フェータル」という言葉を思い出したが少し違うように思う。
調べてみると「irreversible」という初めてみる言葉で発音さえよく分からない。
しかしこの単語の「reversible」の部分は「リバーシバブル」と読めそうだ。
ジャンパーなどで裏返しても着ることができるのを「リバーシブル」と言ったりする。
すると「ir」を否定の意味の接頭辞と考えると「irreversible」が「不可逆的」だと納得できる。
ふと「イレギュラー」という言葉が頭に浮かんだ。
綴りを調べるとやはり「irregular」で「レギュラー」の対義語だ。
●2021.3.21(日)覚醒
私が子供の頃に母が面白そうに話してくれたことがある。
山の中腹の知り合いの人の畑を手伝っていた時だとかのことで母は次のように語った。
半ば野原のような状態のその畑を横切ろうとして一人の男の人が歩いて来た。
するとその人の姿が急に見えなくなった。
肥え溜めに落ちたのだった。
「
糞尿まみれで肥え壺から這い上がった男の人はそう言って去って行ったとの話だった。
想像するに肥え壺の上端まで糞尿が溜まっておりしかも表面が乾燥していたと思われる。
そのため男の人には肥え溜めが地面の続きのように見えていわば落とし穴に落ちたような感覚だったろう。
私が子供の頃は生活圏の中に自由に遊べる畑や田んぼや空き地があちこちにあった。
鬼ごっこや戦争ごっこの時はそれらの遊び場のくぼみに身を潜めて隠れたりした。
わざわざ落とし穴のような穴を掘らなくてもそんなくぼみがちょこちょこあった。
現在の街なかはアスファルトに覆われ数少ない公園もきれいに整地されている。
こんな状況では「穴があったら入りたい」というような表現は生まれまい。
数回前の記事でとりあげた「節穴」と同様にむき出しの地面の穴も山歩きでもしなければ見られない時代になった。
話は変わるが私は昔を思い出せば恥ずかしくてそれこそ「穴があったら入りたい」気になる。
家庭人として職業人としてさらには人間としても反省することばかりである。
しかし私は過去のそれぞれの時点においては自分なりの信念に基づいて行動していた。
それは私に限らず誰でも同じことだろうし自分の過去を悔やむということは成長の証とも言えるのだろう。
ということは今は今なりの考えをよしとしているがこれも後に振り返ればベストではないはずだからますます精進しなければなるまい。
さらに話を広げてみよう。
夢から覚めたり酒の酔いが醒めたりした時我々は現実の世界のリアルさをもとにして「夢を見ていたのだ」「酔っていたのだ」と思う。
この件に関しても先ほどの過去を振り返る話と同じことが言えないだろうか。
今は夢を見ているのだから、酔っているのだから、これは現実の自分ではない。
夢を見たり酔ったりしている時にそんなことは思わずそれなりにリアルな感覚でいるはずだ。
ということは夢から覚め、酔いから醒めたリアルな世界にもまだ先があるのかもしれない。
●2021.3.25(木)睡眠
ひねくれているのかどうか、私は流行とかブームとかいうものにあえて乗らない性分である。
脳科学を例にとれば右脳と左脳とかレム睡眠とノンレム睡眠とかが話題になった時期があった。
私は無視していたのだが最近小説を書く必要上睡眠について調べる必要に迫られた。
2種類の睡眠を調べてみるとこれがけっこう面白かった。
これまでの私は入口から誤解していた。
「ノンレム睡眠」は否定の意味の「ノン」が付いていてマイナーなイメージだからこちらが「浅い睡眠」と思っていたが逆だった。
「レム睡眠」の「レム(REM)」とは「rapid eye movement」の略で「急速眼球運動」という意味である。(「rapid」は「速い、急な」の意)
つまりまぶたの内側で目がキョロキョロと動いている浅い眠りが「レム睡眠」なのだった。
ここで私は2種類の眠りを大胆な表現で定義してみたい。
「レム睡眠」=脳は起きていて(浅い眠り)体は眠っている。
「ノンレム睡眠」=脳は眠っていて(深い眠り)体は起きている。
こう定義すれば次のような現象も理解しやすいだろう。
夢を見たり金縛りになったりするのはレム睡眠の時で寝返りを打つのはノンレム睡眠の時。
私は小学生の時に肘を脱臼した。
ギブスがとれてもそれまで固定されていた肘は曲がったままだった。
医者が少しずつ真っすぐにしようとするのだが痛くてたまらない。
そこで私は母に自分が寝ている時に肘を伸ばしてくれるように頼んだ。
翌朝母に聞くと私が寝ていても嫌がったためにできなかったと言われた。
今にして思えば母は私が寝付いたのを見てリハビリにとりかかったのだろう。
だが人は寝付くとまずノンレム睡眠に入る。
だから無意識のうちにも私の体が反応して母のリハビリを拒否したのだろう。
起きる直前のレム睡眠の時にやってもらえば結果は違ったかもしれない。
ともあれ睡眠についても人間の体はうまくできていると感心する。
寝たければベッドに行けばいい。
考えごとをしようと思ってもベッドで横になれば自然に眠くなる。
一旦寝付くと睡眠が中断されないように寝ている間の尿の生成も抑えられるという。
ノンレム睡眠とレム睡眠が交互に繰り返されて脳と体が交代に休むというのもうまい仕組みだ。
野生動物のように我々が毎晩野原で寝なければならないとしたらそのありがたみが分かる。
横になって眠りに落ち脳も体も同時に活動を休止するとしたらどんなに不安で危険なことだろう。
●2021.3.28(日)9割ルール・小人の暇つぶし
・不要になったベルトを例に挙げてゴミの分別を考えてみよう。
もちろん金属製の
しかし外しにくいベルトは可燃物、不燃物のどちらのゴミとして出せばいいのか。
こういう場合の判断基準として9割ルールというものがある。
ベルトで言えばベルト本体が9割以上を占めるので可燃物として出してよいのだ。
この9割ルールを知ってから分別がずいぶん気楽になった。
もしも素材の細かな違いごとに分別しなければならないとしたらどうか。
ゴミを出すのが憂鬱になるだろうが単にそれだけではない。
生産者の側も分別の手間が省ける製品を作らねば売れなくなるだろう。
ゴミの区分要請が厳密になれば消費者も生産者も不自由を強いられる。
完璧を求めればストレスを感じるのは人間関係も同じだ。
何事もアバウトな方がいいのではないか。
夫婦で山登りに出かけたとしよう。
「あ、ふきのとうが出てるぞ。かわいいな」
ふきのとうを指さす夫に妻が言う。
「育ちすぎてるからもう食べられないわね」
こういう妻に「無風流なやつだ」と毒を吐くのでなく可愛いと思える夫でありたいものだ。
愛情の
燃焼装置の改良でダイオキシンが出なくなってカセットテープやCDも今は可燃物になっている。
・テレビに出て来る人物を見ると何と素晴らしい人かと感心したり生きてる価値もない人間だと憤慨したりすることがある。
ということは私はその中間にいるのだろうがそれはともかく私が憤慨する人間を運動会の駆けっこでイメージしてみよう。
ゴールに向かって走るレースなのにスタートの号砲でクルリと向きを変えて後ろに走り出すようなものだ。
さすがにそれは一握りの極悪人だろうがスタートした後途中で立ち止まったり後ろ向きに戻り始める人間は多いと思われる。
私も自戒しなければならない、遅々とした歩みでも真っ当に生きていこう。
と締めたいのだが最近の私は小人閑居して自分のオーラを見たりしている。
かなり前のことだが仕事で出張先のホテルに泊まった。
夜になってカーテンを引こうとすると広い窓ガラスに自分の全身が映っていた。
その自分の姿を暫く見ていると頭部の周囲を白く縁どるようなオーラが見えた。
しかしオーラはそんなに簡単に見えるものではあるまい。
おまけに私は近眼で乱視だからオーラでなく残像だろう。
その時の私はそんなふうに考えてそれきり忘れていた。
ところが近頃ユーチューブをあれこれ見ているとオーラは誰でも簡単に見えるという動画がけっこうある。
それで面白半分に自分の手を見つめたり洗面所の鏡の前に立ったりしているのである。
●2021.4.4(日)ランドセル・苦
・近頃のランドセルは色の種類が豊富だ。
私が子供の頃は赤と黒しかなかったように記憶している。
ところで最近は男女の差別をなくしていこうという動きが各方面で具体化している。
たとえば女子の制服がスカートだけでなくスラックスも選択できる高校が増えている。
「男はこうでなければならない、女はこうでなければならない」という既成概念が取り払われつつある。
こういうジェンダーに関する問題においては女性に対する束縛がよく取り上げられる。
しかし私は男性のほうこそ「男らしくあれ」という無言の圧力、決めつけから解放されていないように思う。
制服の選択の幅が広がって女子高生がスラックスを着用することはあっても男子がスカートをはくことはまずないだろう。
ランドセルが現在も赤と黒の2色しかないとすると女の子が黒のランドセルを背負うことはあってもその逆は想像しがたいのではないか。
・仏教で「生・老・病・死」を四苦と言う。
「老・病・死」は分かるが「生」がなぜ「苦」なのか。
生まれてきたからには「老・病・死」が避けられないからだろう。
これまでは単純にそんなふうに思っていたがもっと深い意味があるのではないか。
「老・病・死」のみならず精神面の「苦」も殆どは肉体をもって生まれてきたことに由来するように思える。
目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる。
自分の身にそんな事態が起こるとしたらより不幸なのはどちらか。
前者だと答える人が圧倒的に多いだろう。
人間の五感の中でも我々は視覚によって得られる情報が最も多い。
人と話していて考え事をする時に無意識に天井を見上げることが多いがそれはなぜか。
天井には何もないから視野に入っても余計なことを考えずにすむからである。
さて生きる上で最も大切なこの視覚が失われたらどうなるか。
生活の質の変化に注目すれば生きることが虚飾を離れて実質本位になると思われる。
服は見た目の色や柄でなく着心地や肌触りで選ぶようになるだろう。
異性との交際もイケメンとか美人とかいうことは意味をなさず人柄が決め手になるだろう。
●2021.4.6(火)イヤホン・類は友を呼ぶ
・イヤホンを耳から外しスマホ(あるいはパソコン)につないだジャックを引き抜いてその辺に放っておく。
それをまた接続しようとして手に取ると毎回のように絡まっていてうんざりする。
この件についてはかなり昔に調べたことがあるが絡まるにはちゃんとした理由があるという結論しか覚えていない。
今回ネットの記事を検索してみると絡まるのはイヤホンの「ケーブル」なのか「コード」なのか両方の表記がありそれがまず気になってしまった。
そこでケーブルとコードの違いを調べたのだが結局どちらで呼べばよいのかよく分からない。
次に本題の絡まる理由だが結び目理論がどうのとかエントロピーがどうのとかの説明があったが読んでいるうちに面倒になって理解しようという意欲が薄れてしまった。
何の収穫もなかった私はイヤホンをその辺に放り投げて結び目ができそうになるイメージを頭に描いてみた。
するとイヤホンのケーブルなりコードなりが絡まない簡単な方法が思い浮かんだ。
耳に差し込む二つのパーツとスマホに差し込むジャック、端っこに当たるこの三点を一緒につまんでから置けば絡まる可能性はほぼなくなくなるのではないかと思う。
頭に描いた絡まる時のイメージではこの三点はてんでんばらばらの位置にあった。
・人はいろんな考えを持っているものだな。
ネットニュースへの書き込みを読むごとにこれまでは漠然とそう感じていた。
しかし最近は怖くなってきた。
歌の好き嫌いなど好みの問題と違って結論がどうあるべきかという話になれば人によって考えが真逆なことも多いからである。
東京五輪は開催すべきかというような大きな問題から不祥事を起こした芸能人を復帰させるべきかというような話題まで賛成の人と反対の人がいる。
そういう両極端の人たちの意見をじっくり読んでみるとどうも根本的なところでのものの考え方が大きく異なっている。
人間とはこうも違うものかということに改めて驚かされる。
この問題を自分に引き寄せてみた。
周囲の人と会話をしていて考えが食い違うことはよくある。
それでも言い争いにまでならないのは見知った者どうしだからお互いが暗黙の妥協に至るのだろう。
そう考えると自分の好き勝手な意見を一方的に力説することは自重しなければならない。
とりあえずそんなふうに思うのだがもう少し掘り下げてみよう。
私の周囲にはものの考え方や生き方が私と大きく違う人は殆どいない。
そしてそれは私に限ることではないのではないか。
ということは人付き合いは「類は友を呼ぶ」ということなのだろう。
この慣用句から人間の弱さを読み取ることもできそうに思える。
誰とでも分け隔てなくフランクに付き合えるほど一般の人間は強くない。
●2021.4.8(木)寝たきり筋肉鍛錬法
生前の父親は畳に座っていて立ち上がる時はテーブルに手をついていた。
近頃の私も同じ立ち上がり方をするようになり年を取ったことを実感している。
しかしこれは由々しき事態であり感慨にふけっている場合ではない。
テーブルに手をついたり柱につかまったりしなければ立ち上がれないとすれば要介護間近ではないか。
そこで私はスクワットをやり始めた。
加齢のため膝や腰の軟骨がすり減って関節が痛むのは仕方がない。
ならば対策は関節まわりの筋肉を強化するしかない。
腰も痛むので腹筋や背筋も鍛えなければならないのだが面倒だ。
そこでこう考えた。
腹筋運動は寝た状態から脚や上体を起こすというやり方が普通だろう。
それがなぜ腹筋の鍛錬になるのか。
腹筋に負荷がかかって引き締まるからだろう。
ならば脚を上げたりしなくても自分の意志で筋肉を収縮させればいいのではないか。
そう考えて寝る時にベッドに入って腹筋を毎日引き締めるようにした。
腹筋だけではもったいないので上体のあらゆる筋肉、さらには脚や腕の筋肉も引き締めて脱力する繰り返しを寝たまま行っている。
これをやり出してちょっとした発見があった。
当たり前と言えば当たり前なのだが脇腹にも筋肉があるのである。
左脇腹、次は右脇腹というふうに引き締めるのだがこれがけっこう難しくボディビルダーになったかのような気分になる。
それはともかく強制的な負荷をかけない私の寝たきり筋肉鍛錬法を今後も続けていこうと思っている。
効果があるのかどうかはまだ分からないが。
と書きながらさっきベッドに寝て腹筋だけで上体を起こしてみた。
すると不安だった腰の関節に痛みが走ることなくうまく起き上がることができた。
認知症の薬は進行を遅らせるだけで症状を改善することはできないという。
老人の運動も似たようなものだ。
中高校生が運動すれば日々身体能力が向上していく。
我々が毎日ウオーキングやジョギングをしても身体能力の衰えを遅らせることしかできないのだろう。
しかしそれもやがて訪れる要介護の時を思えば大事なことだ。
目指すは「ぴんぴんころり」
●2021.4.10(土)宇宙、地球、日本、そして私
壮大な話からスタートしよう。
宇宙が膨張し続けているというのは常識だがそのスピードを検索してみた。
地球が属する天の川銀河は秒速600㎞で宇宙空間を疾走しているということだ。
600㎞は東京から島根県松江市までの直線距離(602㎞)にほぼ等しい。
それを1秒間で駆け抜けるのだから想像を絶する速さだ。
ところで宇宙が膨張するということは星と星の距離が遠ざかることを意味する。
たとえて言えば提灯を1個ずつ持って集まっているおおぜいの人々が四方八方に歩き出して離れて行くようなものだ。
ということは宇宙の年齢は現在138億年だが時をさかのぼれば先ほどの例で言うと提灯どうしが接近することになる。
つまり夜空は昔ほど星がひしめき合ってさぞ明るく美しかったのではないか。
果たして私の想像どおりなのかネットを検索するのだがこの件についての記事が見当たらないのは不思議なことだ。
ここでスケールの小さな話に移ろう。
我々の住む現実世界は広いようで狭いという話である。
都道府県の県庁所在地を◎で示した日本地図があるが昔から情けなく思っていることがある。
私は長崎県に住んでいるのだが小さい日本地図だと長崎市全体が◎印で覆われてしまう。
世界地図や地球儀になればなおさらだ。
首都の東京の◎は東京都を覆いつくし近隣の県にまでかぶさってくる。
次はそんなちっぽけな日本に暮らす我々の生きざまについて考えてみた。
ユーチューブでこんな意見を述べている人がいる。
「どうにもならないことを考え続けるのは頭が悪い証拠です」
小さなことをうじうじと悩みがちな私には耳の痛い言葉だ。
だが一方では「はたしてそうか?」とも思う。
人間のトータルな幸不幸はそれほど単純ではあるまい。
封建社会を舞台とすれば権力と財力を持つ人間にどうにもならないことはあまりないだろう。
対して底辺の人間は食べることさえままならず願いがあれば神に祈ることしかできない。
経済的には前者が豊かで後者が貧しいことは確かだ。
だが精神面においてはどうだろうか。
豊かであることが当たり前な人間の心の中は願い通りにならないいくつかのことへの不満で常に占められているのではないか。
貧乏が常態の人間は貧しさを嘆くことはなくたまに願いがかなう喜びに心がふるえるだろう。
私はもちろん後者に属する人間で、ちなみに好きな言葉は「無料」「半額」である。
●2021.4.12(月)まん防・所変われば品変わる・ぼけとつっこみ
・まん延防止等重点措置が大阪、兵庫、宮城に続いて本日から東京、京都、沖縄でも適用されることになった。
5月のGW期間中の旅行も延期してほしいとの要請に対する不満の声が今朝のワイドショーで紹介されていた。
「もう2年も旅行できてないのに」
これは私が前回述べたことの格好の例と言える。
いつでも旅行に行ける余裕のある人は行けない事態が生じると心は不満で占められるのだ。
私のような貧乏人は旅行に行けないことが普通なのだから特にどうということはない。
ましてや次のような意見には笑うしかなかった。
「GWに旅行に行くなと言うのならGWをずらしてほしい」
・長崎は坂の町である。
関東から来た人は山肌にびっしり家が建ち並んでいるのを見て驚く。
長崎に住んでいる私の感覚は逆だ。
広々とした佐賀平野を車で走ると青空を背景として電線がくっきりと見えるのに驚く。
長崎は山に囲まれた町なので電柱の高さの遠景が青空ということはまずないのである。
・漫才には「ぼけ」と「つっこみ」という役割がある。
この役割は現実生活の例えば職場の飲み会等においても見られるのではないか。
そんな観点から振り返れば私は「ぼけ」担当だった。
元は「とぼけ」と言われていたように「ぼけ」役の人間が口にするのは現実的にはとぼけている、ふざけているとしか思えないことである。
まともなことをまともに話しても面白くはない。
「
しかし宴会等の席で「ぼけ」役を演じるのは漫才と違って現実的なリスクを伴う。
皆を楽しませたい一心で発言がエスカレートしてつい余計なことまで口走ってしまうのだ。
過剰なサービル精神が裏目に出て冗談が冗談ですまなくなり、本当にふざけた奴、ひねくれた奴と思われてしまう。
今にして思えば人の話に「そんなばかな」などと応じてまともな常識人である「つっこみ」側に回るほうがよかった。
●2021.4.15(木)トースト・新約聖書
・チンと鳴ったのでオーブントースターを開けた。
「トーストがいい加減に焼き上がったな」
そう思ったとたん二つ気になった。
「トーストが焼き上がる」とはおかしくないか?
広辞苑によればトーストとは「薄く切った食パンを軽く焼いたもの」とある。
だから正確には「食パンが焼き上がった」と言うべきなのだろう。
しかし「お湯が沸いた」と同様に「トーストが焼けた」も許容範囲としよう。
もう一つ気になったのは「いい加減に焼き上がった」である。
先ほどと逆に正しいはずなのに間違っているかのようにも響く。
「いい加減」とは「加減がいい」、つまりプラス(加)とマイナス(減)のバランスがうまくとれている状態を意味する。
ところがこの言葉は「お前はいい加減なやつだな」のようにマイナスのイメージで使われることが多い。
同じ意味なのに「いい
・聖書に「求めよ、さらば与えられん」という言葉があるのは知っていたが「与えよ、さらば与えられん」という言葉も聖書由来とは知らなかった。
買い物をはじめとして我々の日常はギブアンドテイクで成り立っている。
これに当てはまらないケースが二つ考えられる。
こちらから対価を与えることなく他人から得る、もう一つは対価を受け取ることなく他人に与えるケースである。
物理の世界には「質量保存の法則」や「エネルギー保存の法則」がある。
同じように生活面の「ギブアンドテイク」も因果律が成り立つ「法則」と考えられないだろうか。
先ほどの二つのケースの前者は盗みとして逮捕され罰を受けることでギブアンドテイクが成立すると解釈できる。
とすれば後者も見返りを期待しないで与えるからこそ得られる報酬があるのではないか。
心のやすらぎや高揚感、ひいては人格の向上など。
今回こんなことを話題に取り上げたのはある大衆食堂のロケをテレビで見たからである。
老夫婦二人で営むその食堂は慈善事業みたいにどのメニューも大盛でしかも安い。
80歳過ぎの店主が笑顔でさりげなく言った。
「近頃仕事が楽しくなってきてね」
客が多いほど赤字がふくらむのではと心配になるくらいなのにそう言うのである。
店主の何の
●2021.4.17(土)ハイライト
1960年(昭和35)に「ハイライト」という銘柄のタバコが発売された。
従来のタバコは両切り(タバコの両端を切りそろえただけの形)だったがハイライトはフィルター付きだった。
デザインもしゃれていてブルーの地に「hi-lite」という文字が白抜きで入っていた。
料理研究家平野レミの夫のイラストレーター和田誠(2019年没) がデザインしたものだった。
フィルターに加えてハイライトがもう一つ画期的だったのはフィルムパッケージが施されていたことである。
キャラメルの箱と同じで上部の赤くて細い帯状の部分を横に引っ張ってセロハン包装の上の部分だけを捨てるという開け方になる。
「赤い腰巻きハラリと解いて」などと艶っぽい文句を口にしながら開ける人もいた。
このセロハン包装に関して懐かしい思い出がある。
私が20代だった頃、職場の50代の先輩が面白そうにこう私に語った。
「この間、新品のハイライトのセロハンをピーッと引っ張った後、本体のタバコの方をゴミ箱に捨てちゃったよ」
私は現在この時の先輩の年齢はとっくに超えているので似たようなポカを時々やっている。
数日前はスマホにイヤホンをつなごうとしてスマホに差し込むジャックを耳の穴に突っ込んでしまった。
さらにその数日前は2階から階段を降りる最後のところで誤って2段を1段の感覚で降りてあやうく捻挫するところだった。
こんな小さなボケを記録していけば運転免許返納の潮時の資料になるかもしれない。
この『ぽつりぽつり』の記事も老いの嘆きが増えつつあるように時は不可逆的に過ぎる一方だ。
タバコの世界も「ハイライト」の後は「セブンスター」、ついで「マイルドセブン」がブームとなった。
その後は色んな銘柄が続々と発売され外国産タバコも好まれるようになりそして今や電子タバコの時代である。
かつて世界一の売上高を誇ったこともあった「ハイライト」は現在やぼったいタバコとして細々と命脈を保っている状況である。
●2021.4.21(水)のす・利き顔
・前回、ハイライトの
積水ハウスという会社などはその例ではなかろうか。
この会社はセロハンテープを開発した積水化学工業の一部門としてスタートした。
一人の人間にたとえるとセロハンテープを作っていた人が家を造るようになったのである。
話は変わるが即席ラーメンを作る程度の小さな鍋の中に炭火を入れたらどんな用途が考えられるだろうか。
アイロンとして使えるのは想像に難くあるまい。
実際に「火のし」という名称で平安時代からある。
冒頭の文に「のしてきた」という表現を使った。
この「
従って「火のし」は「炭火の熱で服のしわを伸ばす物」と解釈できる。
「のし袋」の「のし」もビーフジャーキーのようにアワビの肉を薄く切って伸ばして乾燥させた食べ物のことだ。
複合動詞の「のし上がる」に比べて単独の「のす」は意味が分かりにくく次第に使われなくなりつつある。
長崎弁でも私の親の世代は「今日は暑うしてのさん」などと言っていたが近頃はあまり聞かなくなった。
「のさん」とは体力や気力が伸びていかない、たえがたいというニュアンスである。
・手のひらで利き腕が分かる。
指の内側や親指の付け根を見ると左利きの私は右手より左手の肉づきがよい。
当然握力も左手が強く右手より5程度数値が高い。
このように人には利き腕や利き脚や利き目があるが利き顔というのもあるのではないか。
最近ある女優の顔をテレビで見て非常に気になった。
にこりと笑う時の右の口角の上がり方が半端ではなかった。
ある毒舌タレントがこの女優の口元をナイキのマークと揶揄したのもなるほどと思われた。
この女優に限らず殆どの人はどちらかの口角がもう片方に比べてつり上がっている。
意識的に片方ずつ口角を上げてみると私は左側がたやすくできる。
利き腕と同じく表情筋も左の方が発達しているのだろう。
意識したことはないが食事の時も左側の歯で咀嚼する回数が多いのではなかろうか。
テレビを見ていると右の口角が上がっている人が多いのはやはり右利きが多いせいなのだろう。
●2021.4.23(金)人中・草
・鼻と上唇の間にある溝状のくぼみを人中(じんちゅう・にんちゅう)と呼ぶのはなぜだろう。
左半身と右半身の中心線上にあるからという説明は分かりやすい。
しかし人体を左右でなく上下に分けるもう一つの説の方が面白い。
その場合へそを人体の真ん中と言うのなら分かるが鼻の下が人中とは?
人間の体の穴は目のように2個がセットになっているものと口のように1個しかないものがある。
その境い目だから人中だというのである。
この説を記してあった記事にもう一つ興味深いことが書いてあった。
人中は60歳ころから年と共にくぼみが浅くなりやがては消えてしまうのだそうだ。
加齢によってしわが増えるのとは真逆の話だ。
この件について私はこう解釈してみた。
年を取ると表情筋が緩んでくるので顔面の張りがなくなる。
そのため長崎弁で言えば顔の表面が「のんべんだらあ」となるのではなかろうか。
年を取っていなくても美人に見とれている時などは同じように「のんべんだらあ」と脱力状態になる。
これがいわゆる「鼻の下が長くなる」「鼻の下を伸ばす」ということなのだろう。
ともあれ高齢者は現在の自分と若い頃の写真の人中を見比べてはどうか。
さて加齢を代表するのは何と言っても「ほうれい線」だろう。
漢字で書けば「頬齢線」「豊齢線」あたりかと思っていたがなんと正解は「法令線」だった。
法律と何の関係があるのかと突っ込みたくなるが中国の人相学の用語らしい。
その法令線の真下、唇の両端から下方に伸びる深いしわの名前を「マリオネットライン」と知った時は言い得て妙だと笑ってしまった。
・SNS上の文面だけでのやり取りでは相手の表情や声のトーンが分からない。
だから(笑)というのはすごい発明だと思う。
「あなたにはあきれました」
「あなたにはあきれました(笑)」
何という表現の落差か。
ところが何事も暴走しがちなのが現代の風潮でこの素晴らしい表現法も「~ました笑」とまず( )が外れた。
次にwaraiの頭文字を使って「~ましたw」「~ましたww」となった。
更にはこのwの形が草が生えているさまに似ていることから「~ました草」となった。
最近は笑いのレベルを草の量に換算して「~草」→「~大草原」→「~森」→「~ジャングル」とエスカレートしている。
そんな風潮を嘆きながら私は今の時期庭の草むしりに精を出している。
それにしても大事なお金は次から次に出て行くのに不要な草は次から次に生えてくる草
●2021.4.27(火)雑学
テレビの番組欄を見るとクイズ番組が隆盛を極めている感がある。
実生活の役に立たない雑学には批判の目が向けられることもあるが文化や教養は役立たないからこそ文化であり教養であるという面もある。
世の中には金儲けにつながるかどうかということにしか興味がない人がいる。
そんな人と話していると足元だけを見て歩くよりも景色を見ながら歩いた方が楽しいだろうにと思う。
ここまでは価値ある植物、ここからは雑草という線引きがはたしてできるのか。
同様にこれは雑学、これは雑学でないという境界もあるまい。
吉田拓郎の『元気です』という歌に次のような一節がある。
「道行く人々は日々を追いかけ今日一日でも確かであれと願う」
雑学はあわただしい日常の潤滑油になると共にふわふわした頼りない日常を確かなものにもしてくれる。
我々の日常の情報は少し掘り下げれば不確かさを露呈する。
「この健康食品は青魚に多く含まれるオメガスリー系のドコサヘキサエン酸配合なので子供さんに与えれば頭がよくなります」
意味も分からないままそんな宣伝文句をありがたがって買う人もいる。
私は不確かな情報に踊らされたくない。
言葉の意味や語源にこだわるのもそのためである。
たとえば「原発から放射能が漏れている」
こう聞いてヤバいと思うのは不確かさのレベルにおいて先ほどの健康食品の場合と大差ない。
だいいち「放射能が漏れる」という表現自体がおかしい。
放射能とは呼んで字のごとく放射線を出す「能力」のことで「放射線が漏れている」と言うなら分かる。
さらに言えばその放射線も何を放射していてどれくらい放射されればどう危険なのか。
何も知らないまま何となくヤバいと思っている。
そんな不確かさから迷惑な風評被害も生じる。
「雑学」は深掘りすると「学問」に近づく。
それが面倒だと敬遠される場では次のように雑談のレベルで留めておくほうがよい。
英語の「spring」の意味は?
「春」「泉」というところが一般的な答えだろう。
「spring」の語源は「はじける・はねる」である。
「泉」は地中から水が「はじけ出る」場所であり「温泉」は「hot spring」だ。
「春」も木々の芽が「はじける」季節を意味する。
日本語の語源で言えば木々の芽がふっくらと「張る」から「春」なのである。
「spring」と聞いてベッドなどのばねを思い浮かべる人もいるだろうが「ばね」の語源はもちろん「はねる」。
●2021.5.1(土)ワード便利機能・花粉症
・アインシュタインの特殊相対性理論の関係式「E=mc²」は世界一有名な数式ではなかろうか。
最も美しく最も恐ろしい数式と言う人もいる。
かつて書いた小説にこの式を登場させたのだがその時は二乗を表す小さな2の入力方法が分からなかった。
今回あれこれやってみたが何のことはない。
全角で2を入力して変換キーを押せば変換候補の中にこの小さな2もあるのだった。
ワードではほかに字数のカウントの機能も重宝している。
やり方は簡単だ。
マウスを左クリックしたまま字数を数えたい部分に滑らせて範囲指定する。
次に「Shift」と「Ctrl」を押したまま「G」のキーを押せば指定した範囲の字数が表示される。
・日中の陽気は夏の到来を予感させるが昨日の朝ゴミ出しに行った時空気がひんやりとしていた。
ふと夏の終わりから秋へ向かう時のような気配を感じた。
朝日と夕日を間違えるようなものか。
ところで春と秋はどちらが好きかと聞かれたらどうだろう。
私は4:6で秋だが春が好きな人の方が多い気がする。
そう思った時、花粉症のことが頭をよぎった。
純粋な季節感でなく花粉のために嫌がる人がいるとすれば春が気の毒だ。
ところで私が子供の頃は花粉症という言葉を聞いた記憶がない。
昔は花粉症になる人はごく少なかったのではないかと調べてみると案の定だった。
なぜ増えたかについては詳述しないが文明の発達とかかわりがある。
興味がある人はネットで検索されたい。
そうすれば森林のない都会の人々が花粉症で苦しみ自然の中ではたとえ杉林であろうと症状はそれほど出ないという一見矛盾するような事実にも納得がいくだろう。
花粉症と同じくアレルギーについても昔は現在のように神経質になることはなかったがこれも文明がからんでいるのではなかろうか。
●2021.5.4(火)呼吸法・結婚適齢期
・高血圧の改善につながるという呼吸法がユーチューブで紹介されていた。
8秒息を吐いて5秒吸って2秒止める、これを繰り返すという簡単なものだ。
やってみて面白いことに気付いた。
最初のセットで5秒かけて息を吸う時に必ずと言っていいほどあくびをしたくなるのである。
かつて次のような話を聞いたことがある。
人が普通に呼吸をしている時は大体浅い呼吸しかしていない、そのため肺の底の方にはいつも濁った空気がよどんでいると。
今回紹介した呼吸法は普段の呼吸が浅いことを教えてくれるのではないか。
調べてみるとあくびには酸欠状態になっている時に酸素を取り入れる働きがあるようだ。
高血圧との因果関係までは分からないがあくびを誘発する呼吸法が健康によいことは確かなように思われる。
・サトーハチロー作詞の「うれしいひなまつり」の2番の歌詞を記してみる。
お
二人ならんですまし顔
お嫁にいらした姉様に
よく似た官女の白い顔
この「お嫁にいらした姉様」は10代だろうと思われる。
まだまだ活発に遊びたい年頃だろうに嫁入りすれば夫や義父母に
となるとおひな様と同じく「お嫁にいらした姉様」も子供っぽい無邪気さは封印してすまし顔で毎日を過ごさなければならないだろう。
短調のメロディーとあいまってそんな一抹の寂しさを私は感じる。
ところで「お嫁にいらした姉様」を私がなぜ10代と想像するのかと言えば昔の女性は結婚が早かったからである。
作詞者サトーハチローの姉も嫁入り直前の18歳の時に結核で亡くなっている。
「うれしいひなまつり」のレコードが発売されたのは1936年(昭和11年)だ。
この童謡よりさらに後の1955年(昭和30年)にリリースされた春日八郎のヒット曲「別れの一本杉」にもこんな歌詞(3番)がある。
呼んで呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの
とうに
現代なら「とうに
●2021.5.6(木)GW・会話文・人生道中
・ゴールデンウイークが終わったが私は期間中ほとんど家にいた。
しかもスマホをいじったりしてベッドで横になっている時間も多かった。
最近ボーリング場の支配人がテレビで語っていたことを思い出した。
営業自粛の要請がきたというのだが常連客の老人たちが心配だと言う。
老人こそ家でじっとしていればよさそうなものをと思いながら聞いていると事態は深刻だった。
昨年も営業自粛をしたそうなのだがその期間来れなかった常連客で車椅子生活になった人が出たというのである。
他人ごとではない。
ベッドの上でゴロゴロ、ウトウトしてばかりでは病院への入院と同じく加速度的に体が衰えるのだ。
・今構想中の小説に次のような趣向を取り入れようと思っている。
「私」を主人公として他者の会話をカタカナで表記してみたい。
その方がリアルで小説世界が立体化するのではないかと思うからだ。
現実生活において他人の会話は音として耳から入ってくる。
だから意味が分からなくて聞き返したりすることもある。
それを漢字平仮名まじり文で記すと目からスッと意味が入ってくる。
これは実態にそぐわないのではないかと考えたのである。
しかし現実には他動的に聞こえてくる会話を小説では意識的に目で読まねばならないというのがそもそも不自然なのだ。
それをカタカナ表記にすれば読者は意味が取りづらい分いよいよ意識的にならざるをえないかもしれない。
そこで折衷案として今回は漢字カタカナまじり文にしようかと思っている。
・考えない人は全く考えないだろうが大抵の人は自分の死について考える。
年を取って死が近づけばなおさらだ。
亡くなった父母に会えるのだろうかなどと死後の世界に思いを巡らせる人も多いだろう。
なぜそんなことを考えるのかと言えば「死」がどういうものか分からないから気になるのだろう。
それならば過去はどうか。
生まれたのは事実でありながら死にゆく時と同じく生まれ出た時のことは知らない。
死後のことをあれこれと考えるのならば同じくらいに不確かな前世のことも考えてよさそうなものだ。
ひょっとすると人生道中はスタートもゴールもない周回路かもしれない。
●2021.5.9(日)目・諏訪
・子供たちが赤いリンゴの絵を描いて周りと見比べると皆が赤のクレヨンで塗っている。
すると子供たちはリンゴは誰でも同じ赤い色に見えているのだと無意識のうちに思い込む。
しかし実はリンゴやクレヨンの赤は人によって微妙に異なっているのである。
それは科学的に証明されているのだがどう違って見えているのかを実感することはできない。
これが視力となると他人との違いを実感するのは簡単だ。
たとえばバスを待っていてまだ遠くにいるバスの行き先表示を妻が読めると私は驚きもし羨ましくも思う。
そんなふうに日常生活ではよく見えるにこしたことはないが対人関係となると話は別だ。
結婚生活についてよく次のように言われる。
「結婚するまでは両目を見開いてしっかり見ろ、しかし結婚したら片目をつぶれ」
なるほどと思って私も気をつけているが妻は両目をつぶっているかもしれない。
・「
答は「諏訪さくら」である。
博とさくら、映画『男はつらいよ』で前田吟と倍賞千恵子が演じた夫婦だ。
さくらは渥美清演じる車寅次郎の妹だが最近たまたま『男はつらいよ』の登場人物の相関図を見て知ったことがある。
これまでは漠然と寅次郎とさくらは同じ両親から生まれた
「諏訪」で思い出したが「すわ」という感嘆詞がある。
広辞苑によると「②突然の出来事に驚いたり、あらためて気づいたりした時、発する声。あっ。」という意味があり「すわ一大事」という例文が挙げられている。
「すわ一大事」は現代風に言うと「あっ!一大事だ!」というところだろう。
発音上「すわ」は「うわ」に似ている。
これを使うと先ほどの例文は「うわっ!一大事だ!」となって分かりやすい。
ところで全国には「諏訪」という地名があちこちにある。
この「諏訪」と名の付く所は急に視界が開ける所だという説を聞いたことがある。
あえぎながら視線を落として狭い道を歩いてきた旅人がふと目を上げる。
するといきなり広々とした眺望が開けているので「うわーっ!」と叫ぶ。
「諏訪」というのはそんな地形の所だという説であった。
●2021.5.13(木)ブルーオーシャン・失敗
・医療関係のテレビドラマの脚本家は大したものだと思う。
医学に関する豊富な知識がなければ書けない。
そしてそれはグルメ漫画やグルメ小説の作者も同じことだ。
料理の専門的知識に加えて読者を惹きつける独創的な調理法まで考案しなければならない。
ところが作品をファンタジー仕立てにすると話は違ってくる。
ごく普通の料理を提供しても異世界の住人が感動する設定にすればよい。
これは現実世界における海外への出店に似ている。
飲食店の海外進出は大変そうに思えるが案外逆かもしれない。
一定水準の味ならば日本食はなじみのない国では当たりそうに思う。
ラーメン店などは市販の袋麺に具材を足すだけでいけるのではないかとさえ思ってしまう。
しかしブルーオーシャンは同業店が続々と開店すればすぐにレッドオーシャン化するだろう。
・うまく事が運ばなかった場合にそれを「失敗」と捉えて落ち込んでしまう人が多い。
発明王エジソンは「失敗したのではなくうまくいかない方法を見つけた」と考えた。
「失敗」ではなく一つの「経験」と捉えれば有意義に後につながるのではないか。
山歩きの途中で分岐点にさしかかったとする。
こちらだと判断して行き止まりだったら引き返せば済む話でそれを失敗したと嘆いても益はない。
さてうまく行かなかった経験を今後に生かすためには綿密な分析と対策が必要になる。
仕事ならそうすべきだが生き方となるとアバウトでもいいのではないだろうか。
私は近年特にそう思うようになった。
「ぶざまな生き方をしてきたから今後はちゃんとしよう」
それくらいで許してもらえないかと思うのである。
過去の反省点を借金にたとえると数多くの借金先が新たに判明しても年寄りはもう働いて返すことができない。
●2021.5.21(金)標準語と方言
犯罪を犯した人間を世間は糾弾するが親だけは見捨てない。
あどけなかった子供の頃から生活感を共有してきたがゆえの愛情だろう。
生活感あふれる場に似合う言葉は方言だ。
ほとんどの情報が標準語でやり取りされる現代であっても方言はなかなか廃れない。
方言を普段着にたとえると標準語はよそ行きの服だ。
私みたいな田舎者は家族相手に自分が標準語で話す場面を想像するとこそばゆくなってしまう。
それは家の中で自分だけがスーツを着てネクタイを締めて過ごすようなものだ。
数日前ウオーキングしていると若い父親と小さな男の子が砂場で遊んでいた。
別の所に移ろうとしたのか、ブリキのバケツや小さなスコップを持っている子供に父親が声をかけた。
「荷物はここに置いていこうな」
すると子供がこう言った。
「お父さんも荷物」
「お父さんが荷物ってどういうことだよ」
子供としては「お父さんも荷物を片付けるの手伝って」とでも言おうとしたのかもしれないが父親は子供の言葉尻をとらえて笑った。
歩きながら目にしたこの光景を私は映画のワンシーンみたいだと思った。
大げさに言えば東京からロケに来た俳優と子役の演技のように感じた。
それは父子のやり取りがユーモラスだったことに加えて言葉が標準語だったせいだろう。
近辺の地元の父子なら私は若い父親にこう茶々を入れたいところだ。
「
しかしそれは「
私が見かけた若い父親は他県から長崎にやってきた転勤族の可能性がある。
現に近所のアパートの駐車場には他府県のナンバーの車がけっこう停めてある。
住民票は移しても車のナンバーはそのままなのだ。
たまに北海道のナンバーの車を見ると日本を股にかけての転勤は親も子も大変だろうと同情してしまう。
今回の文章中に「小さなスコップ」と書いた。
この部分、「スコップ」とするか「シャベル」とするか迷った。
調べてみるとこの両者の違いは実に面倒くさい。
シャベルとショベルもまた微妙に違う。
●2021.5.23(日)花と実・手の甲・遠慮
・ふと武者小路実篤の言葉を思い出した。
「花も実もあるこの世かな」
例の実篤らしい絵とともに色紙に書かれてあった言葉のように記憶している。
確かに花も実も両方あれば言うことなしだが植物としての大事なゴールは結実のはずだ。
しかし人はとかく実を結ぶための手段である花の方に目を奪われがちだ。
ファッションに凝りがちな若い人たちを見ているとそんなことを考えてしまう。
私は若い頃お金がなく服を買うことはめったになかった。
そのせいもありはするのだが私はそもそも「着飾る」ということに抵抗があった。
ファッションを否定するつもりはないが当時の私は自分に関してはいい服を着ることを「虚飾」のように感じていた。
裏返して言えばいい服に見合うだけの内面の充実がなかったのだろう。
私の青春時代は花も実もなかったのだがそれは今も変わりない。
・子供の頃に祖母の手の甲をつまんで遊んでいたことを以前記事にした。
張りのない皮膚をつまんで引っ張り上げると暫くその形を保つので「富士山だ、富士山だ!」と喜んでいたのである。
それが今や自分の手でもできるのだが富士山どころではない。
手の甲の中指の付け根から手首付近まで縦につんつんと摘まんでいくと手の甲を縦断する山脈ができた。
これを私はアパラチア山脈と名付けた。
縦ができるなら横もと思ってやってみるとできた。
こちらはピレネー山脈と名付けよう。
・遠慮の行ったり来たりということがちょくちょく起こる。
たとえば身内であれ友人であれ客を招いての食事会。
醤油をかける料理とソースをかける料理が同じ取り皿でいいわけはない。
そこでホスト側は新たな取り皿を使うように勧める。
しかしゲスト側は遠慮して1枚の皿ですまそうとする。
どちらの気持ちも分かるが私がゲストならホストの善意を素直に受けようと思う。
自分がホストになった場合の心理を想像してみるとよい。
「洗い物が増えるのは嫌だが礼儀として取り皿を一応勧めてみよう」
そんなけちくさい気持ちではなく快適に食事をしてもらいたい一心のはずだ。
●2021.5.25(火)時代や地域による文化の違い
私が社会人になってからリタイアするまでのほんの数10年間の間でも文明は急速に進展した。
書類を作成するツールを例にとってみよう。
勤め始めの頃はガリ版の上にロウ原紙を載せて
書き損じた時にロウ原紙の上に塗っていた茶色の修正液が懐かしい。
やがて紙に鉛筆やボールペンで書いたものを自動的に製版して印刷できる輪転機ができると書類作成は非常に楽になった。
この時代は白い修正液や修正テープが懐かしい。
次なる進歩の余地は手書きの文字を活字化することである。
そこで和文タイプライターが開発されたがこれはほんの一時期使われただけだった。
というのはほどなくワープロが商品化されたからだ。
私はシャープの「書院」という機種を愛用していた。
ワープロの時代はけっこう続いたがパソコンの登場によって終焉を迎えた。
計算するためのツールも移り変わった。
私が就職したての頃はソロバンだった。
小学校のソロバンの授業が社会人になってからの仕事に役立った。
今の小学生もソロバンは習うようだが文化の継承という意味合いが強いらしい。
やがて手でハンドルをくるくる回す手動式加算機というものが出てきたが私は一度も使ったことはない。
というのは扱いが面倒そうだったし電子卓上計算機(電卓)が登場したからである。
しかし初期の電卓は真空管式で電子レンジ程度の大きさがあり重さも10キロは軽く超えていた。
値段もバカ高くて安い車と同じくらいではなかったろうか。
電卓がやがて百均で売られるほどに安く小さくなろうとはその頃は想像もできなかった。
そんなふうに加速度的に手軽で便利になった電卓ではあるが複雑な計算になるとパソコンの表計算ソフトにはかなわない。
表計算ソフトの代表は現在は「エクセル」だろうが以前は「ロータス
ロータスの真っ黒な画面のセルに初めて黄色い数字を入力した時は感激したものだった。
文化に関する体験は環境に大きく左右される。
私がネパールやチベットの山岳民族として生まれ育っていたら上に述べたような目まぐるしさは経験しないまま年を取っただろう。
逆にネパールやチベットの子でも日本で育てたら文明の変転の渦中で生きねばならなくなる。
それは日本国内においても同じことだ。
均一化されているかのように思われがちな日本でも地域による文化の格差がある。
たとえば音楽や演劇やお笑いなどを楽しもうと思えば東京では高校生でも学校帰りに劇場やライブハウスに寄って気楽に楽しめる。
それどころか町を歩いているだけで芸能界にスカウトされることもある。
東京の人間がひょいとハードルをまたぐように芸能界に入るとすると長崎の人間が芸能人を目指すのは棒高跳びかバンジージャンプに挑むようなものだ。
●2021.5.29(土)体と頭の衰え
健康器具というものは勇んで買ってもそのうち使わなくなるというのが通り相場のようだ。
一番有名なのはぶら下がり健康器だろう。
他にも足踏み型器具、開脚型器具、自転車型器具、腹筋台、スライダーローラー、ダンベル等々。
私が若い頃はブルワーカーなる筋トレ器具が流行った。
結局人は切実な目的でもない限り運動したくないのだ。
だからこそ他力本願に走り健康器具を購入すれば楽しく運動ができると思うのだろう。
安易なダイエット法と似たようなものだ。
私も腰痛体操やスクワットのやり方をユーチューブで熱心に見たが現状はやったりやらなかったりだ。
部屋の隅に置いているプラスチック製の「竹踏み」に乗るのさえ面倒に思う。
腰痛や膝痛に加えて体の柔軟性も失われつつあるので気まぐれにラジオ体操をやろうとした。
すると深呼吸に始まって最初のいくつかは覚えているのだが後の方は思い出せずに愕然とした。
長年やっていないと忘れるのは頭の働きも同じなのではないかと思って九九を暗唱してみた。
するとやはりスラスラと口から出てこなくなっている。
心身が仲良く歩調を合わせるのは自然の理なのだろうが体の衰えは受け入れても頭の働きの衰えは恐ろしく感じてしまう。
ついでながら九九を思い出す時にふとこんな省エネ学習法を思いついた。
九九の暗唱は同じ数字を掛け合わせるところから上だけにする。
1の段は全部覚えねばならないが2の段は「
こうすれば暗唱する量が半分になる。
暗唱していない部分はひっくり返せばすむことだ。
たとえば
「
それにしても九九さえおぼつかないとは認知症テストが思いやられる。
「今日は何年何月何日何曜日ですか」
認知症のテストはそんな質問に始まって簡単な計算問題も口頭で答えさせられるようだ。
たとえば「100からずっと7を次々に引いていってください」というように。
そんなテストを受けねばならなくなった時はたして暗算で「93、86、79、72…」とスラスラ言えるだろうか。
●2021.6.1(火)理解のずれ
理解のしかたがちょっとずれている、そんなふうなことがけっこうあるように思う。
たとえばサドンデスという言葉がある。
スポーツの延長戦等において先に得点した時点で勝者になる、これが一般的なイメージだろう。
だが「サドンデス」は「sudden death」で「突然死」という意味だ。
だからスポーツにおけるサドンデスも勝者目線でなく相手の得点によって突然敗者になってしまうというニュアンスなのではなかろうか。
次にあくびはどうだろう。
眠くなった時に出るからあくびは眠気を催す作用があるように思われがちだ。
テレビドラマでも俳優があくびをして「さあもう寝ようか」などと言ったりする。
だがあくびは体が酸欠状態に傾いた時に酸素を補給する深呼吸みたいなものだ。
だからあくびは眠気を誘うのでなく逆に眠気を覚まそうとする反応なのである。
古典の授業で「過去の助動詞」と教えられる「けり」は「気づきの『けり』」と説明されることもある。
あることに気づいた時の「そうだったのか!」「~だったのだ!」という感じだ。
この「けり」は「け」という助詞として生き残っていて「そんなこともあったっけ」などと使われる。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」という有名な俳句がある。
この句は明治が大昔の時代であることを淡々と詠んでいるように思われていないだろうか。
これは昭和6年に中村草田男が20年ぶりに母校の小学校を訪ねた時の句である。
自分が通っていた頃と違って児童たちが
昭和6年の20年前は明治時代である。
つまり「明治はもう遠くなってしまったのだ!」という気づきは明治を身近に感じていたからこそ出てきた感慨なのだ。
客観的にも心理的にも遠い時代なら「降る雪や縄文は遠くなりにけり」などと詠むことはありえない。
「突然リストラされてしまった。一寸先は闇だ」などと言ったりする。
この「一寸先は闇」という慣用句は「思いがけず突然悪いことが起きる」というニュアンスでとらえられているのではないか。
だが「一寸」は長さの単位で約3センチだから「一寸先は闇」を直訳ふうに説明すればこうなる。
「辺りが真っ暗闇でほんの3センチほど先でも何も見えない」
これを比喩的に解釈すれば「ちょっと先のことも全く予知できないことのたとえ」(広辞苑)となる。
つまり「一寸先は闇」は「一寸先は崖っぷち」ということでなくあくまで予知できないということにすぎない。
米国ネバダ州の砂漠を夜に車で走っているとラスベガスの巨大イルミネーション街が突如視界に入ってくるという。
「いきなりラスベガスが目に飛び込んできた、一寸先は闇だ!」
あるいは「1枚しか買わなかった宝くじが当たった、一寸先は闇だ!」
しかしこれらは屁理屈というものでいくら予知できなかったとはいえ「闇」という言葉のニュアンス上、明るいことや良いことが起こった場合に使うのは不適当だ。
●2021.6.3(木)卓袱料理
「
和・洋・中華を取り合わせた長崎独特の料理を
もとは家庭で客をもてなす時の料理だったようだが今では料亭や割烹店の高級料理になっている。
卓袱料理での宴会は
「御鰭」というのは吸い物のことだが言葉に厳密に即して言うと鯛の胸鰭が入った吸い物で「お客様お一人お一人に鯛一尾を使用しました」という贅沢な意味あいがこめられている。
宴会はこの「御鰭」を飲んでから乾杯に移る。
話は変わるがスポーツの試合後のインタビューで勝利者がよく次のように言う。
「私が勝てたのは周囲の人たちが支えてくれたおかげです。感謝にたえません」
勝利は自分一人の力でもぎとったものではないということだろう。
ところが体のこととなると私たちは自分の体は自分のものだと信じて疑わない。
勝利者インタビューと同じようにこう考えるべきではないか。
「私が健康でいられるのは内臓たちが支えてくれるおかげです。感謝にたえません」
ある医師の言葉が忘れがたい。
「人間の体を研究すればするほど臓器にも意志があるのではないかと思えてくるのです」
含蓄の深いこの言葉を私レベルに落とし込んでみる。
肉親が亡くなって悲嘆に暮れている人のお腹がグウッと鳴ったとする。
それは「このままでは病気になってしまう。何か食べたほうがいい」という胃や腸からのメッセージととらえられないだろうか。
ここで卓袱料理の話に戻る。
卓袱料理での宴会は現役の頃私も何度も経験したが若干の生理的抵抗があった。
それは宴会のスタートに関してなのだが熱い吸い物を飲んだ後に冷たいビールで乾杯するのである。
胃袋の身になればたまったものではないだろう。
熱いお湯のシャワーを使っていたら急に冷水が出てきたようなものである。
と言っても卓袱料理の伝統的な作法を否定するつもりは全くない。
そもそも卓袱料理が生まれた江戸時代に冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールはなかった。
思い起こせば現役の頃の宴会は胃腸に多大な負担を強いたものだ。
しばらく食事をした後は座が入り乱れての酒の応酬が始まる。
ある人は熱燗のお銚子をつまんで注ぎにくる。
またある人は冷たいビール瓶を握って注ぎにくる。
それが延々と繰り返される。
胃袋に口があれば「ひと思いに殺してくれ!」と叫びたかっただろう。
●2021.6.5(土)タバコと酒と人体
前回は胃袋の身になって考えようという話だったが今回は肺を取り上げる。
タバコを一服吸い込んだ時の肺の中を家の部屋だと想定してみよう。
煙がもうもうと立ちこめたそんな部屋にはわずかな時間でもいたくはないだろう。
しかも手足の皮膚と違って肺壁は肺胞と呼ばれるむき出しの生々しい組織でできている。
それがタバコの一服ごとにもうもうとした煙にさらされるのだ。
肺胞の身になれば顔に煙を吹きかけられるよりも辛いのではないか。
私がタバコを吸っていた頃次のような話を聞いたことがある。
タバコの煙を詳しく分析するとアスベストのような微細な針状の物質が無数に含まれている。
一服するごとにそれらの針が肺胞に突き刺さって肺胞を損傷させ肺がんの原因ともなる。
真偽のほどは確かでないがそんな怖い話だった。
次は酒の話だがこれもだいぶ前に見たテレビの画像の話である。
アルコールが人体に及ぼす影響を解説する番組だったかと思う。
胃カメラを挿入しているのかどうか被験者の喉から食道にかけてが画面に映し出されていた。
その状態で被験者に日本酒を飲んでもらったのだが衝撃的な映像だった。
日本酒が通過した数秒後にそのルートがすうっと内出血したように赤くなった。
なぜそうなるのか、それはよくないことなのかといった肝心な点は忘れてしまったがアルコール度数の高い洋酒をストレートで飲めばどうなるのかと想像すればこれも怖い話である。
宴会の前には牛乳を飲んで胃に膜を張っておけばいいと言う人が昔はよくいた。
冗談かと思っていたら一定の効果があるという話も聞いたことがある。
ともあれ飲んべえの喉や胃は大変だ。
若い女性タレントが健康面で気を付けていることを聞かれてこう答えていた。
「何もしていません。朝から
これは胃の身になればなんと優しくありがたいことだろうか。
私は朝からコーヒーを飲むがこの話を聞いてから起き抜けにはまず白湯を飲むように心がけている。
●2021.6.7(月)習慣と節約
習慣は多数決の原理に基づく。
酒やタバコは単なる嗜好品の域を超えて依存性を有する。
しかしそんな酒やタバコでもやめられないのは半分は習慣のせいのように思う。
私は完全禁煙に入ってから2年半近くになる。
酒は毎日飲んでいたが6年ほど前から月に10日程度休肝日を設けている。
さらに1年ほど前にその休肝日を倍の20日に増やした。
以前も記事にしたがこの休肝日の設定が習慣というものの本質を教えてくれた。
休肝日が10日ということは3日に1回は飲まないということである。
それまで毎日飲んでいた身にとってこれはかなりきつかった。
だから休肝日を20日に増やせばもっと辛いのではないかと思ったが逆だった。
3日のうち1日しか飲まないのだから飲もうとする習慣の力が弱まるのだ。
さて、こんなふうに禁煙、節酒をしていればいいことづくめだ。
健康にいいのはもちろんだが経済的にも助かる。
特にタバコがそうだ。
500円のタバコを毎日1箱吸えば500円×365日で毎年18万2500円が煙になって消えていく。
3日に1回しか酒を飲まないように食事も3食を1食に減らせばどうだろう。
たぶん実行はしないだろうが最近私はそんなことを考えた。
というのはけっこう有名な男性芸能人が1日1食で過ごしているとテレビで話していたからである。
1日1食を実践しているのは彼に限らず「1日1食 有名人」とネットで検索すれば国内外の有名人がズラリと出てくる。
自分の食生活を点検してみた。
朝はトースト1枚とコーヒーですましている。
しかしそれは習慣であって空腹でたまらないから食べているわけではないことに気づいた。
日本人の食生活が1日3食になったのは江戸時代の中頃でそれまでは2食だった。
とすれば1日1食の習慣化もそれほど苦にならないのかもしれない。
それに、食べようと思えば好きなものを好きなだけ食べられるセレブたちに比べれば貧乏人の私の方が1日1食にチャレンジするハードルは低いはずだ。
●2021.6.9(水)平・お寺の名言・聖徳太子
・長崎市は海以外の三方から山が迫っている地形である。
従って江戸時代以降に埋め立てられた海岸部を除けば平たい土地はまずない。
それなのに
これらの町は内陸部の傾斜地である。
不思議に思って調べてみた。
「水平」という言葉もあるように「平」という漢字は「
ところが広辞苑で「
研究者によると全国にある「平」が付く地名のうち約半数は上記の長崎市の町と同じく傾斜地とのことである。
・お寺の門前を通りかかると掲示板に含蓄のある短い言葉が書かれていることがある。
テレビでそれらの幾つかが紹介されていた。
私が気に入ったものを二つ引用させてもらう。
一つは「お前も死ぬぞ(釈迦)」
「お前も死ぬぞ」だけでは単なる
もう一つは「欲深き人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う(高橋泥舟)」
これは説明の必要はないだろう。
「お寺 名言」で検索したところ他にもたくさん興味を引かれる言葉があった。
「サラリーマン川柳コンクール」ばりに「輝け!お寺の掲示板大賞」なるものまである。
・お札に描かれた歴史的人物で最も多いのは聖徳太子で戦前戦後合わせて7回。
しかもその時々の最高額の紙幣である。
なぜそこまで評価されるのか気になって「十七条(の)憲法」を読んでみた。
「和を以て
「憲法」と言っても現代の憲法と違って政治に携わる役人や貴族はこうあるべきだという内容の条文が多い。
読みながら私はこれを印刷して国会議員や官僚に配付したいと思った。
●2021.6.11(金)オカルト
最近自分のオーラを見ているという記事を少し前に書いた。
それに関係がありそうなことをふと思い出した。
四つ葉のクローバーを見つける女性のことである。
テレビで見たのだがその二十歳くらいの女性は野原でいとも簡単に四つ葉のクローバーを見つけるのだ。
どうやって分かるのかと問われた彼女は「感覚的に光って見えて吸い込まれるような感じ」と答えた。
これはクローバーのオーラが見えるということなのではないだろうか。
彼女のことを確認するためにネットを見たところ実際に見つけている場面の動画がアップされていた。
そしてまた彼女と同じように簡単に四つ葉のクローバーを見つける少女の記事もあった。
この少女は目で見つけるのではなくクローバーの声が聞こえると言う。
どんなふうに聞こえるかについてはまだ5歳だから説明できないようだ。
こちらは動画ではなく画像と説明記事がアップされている。
1970年代に中高生の間で「こっくりさん」が流行り生徒が病院に搬送されたりして一時期騒ぎになった。
その頃社会人に成りたてだった私も一度だけやってみたことがある。
5人集まって一人が椅子に座る。
残りの4人は両手の指を組んで人差し指だけを伸ばして合わせる。
俗に言う「
4人はしゃがんでその合わせた人差し指を椅子の座面の下の四隅にあてがう。
そして「こっくりさんこっくりさん、どうか椅子が上がりますように」などと祈った後に立ち上がりながら椅子を持ち上げる。
すると頼りない指で支えているだけなのに人一人の重さを感じることなくスーッと持ち上げることができたのである。
非常に面白いと思ったのだがそれ以来一度もやったことはない。
冒頭に述べたオーラも鏡をジーッと見ていると目が弱いせいかも知れないが目がチカチカするような感じで連続して凝視できない。
こっくりさんと同じであまり熱心にやるものではないのかもしれない。
『論語』に「
孔子でさえそうなのだから我々凡人はなおさら人知で説明できないような奇怪なものごとには深入りしない方がよさそうだ。
●2021.6.13(日)年をとると
私の親戚に80代の男性がいる。(以下Aさんとする)
最近電話であれこれと互いの近況を確かめ合った。
Aさんは軽い脳梗塞を患ってから車の運転免許を返納した。
病から回復してこれまでどおり車に乗るつもりだったが医者の助言があったからだ。
自動車学校に行って教官に運転をチェックしてもらうようにとのアドバイスである。
チェックの結果、教官の判定は「乗らないほうがいいでしょうね」
付き添いの家族の話でも危なっかしい運転ぶりだったとのこと。
ところが当の本人は自分の運転に何も問題はないと思ったと言う。
これが高齢者の運転感覚の怖いところだ。
結局Aさんは家族の強い願いを受け入れて運転免許を返納した。
車の運転に関して世の高齢者はAさんのように自分では自信があっても第三者の意見を尊重するべきだろう。
さて車に乗れないとなると何かと不便だということでAさんは電動自転車を購入した。
安定のよい3輪車タイプだったが今回聞いてみると1年ちょっと乗った後売り払ったと言う。
自動車が側を通る時怖くもあったし倒れたこともあると語った。
車に次いで自転車も手放したのは周囲の者にとっては事故に遭う恐れがなくなって喜ばしいことだろう。
それでも本人にしてみれば活動領域が狭まる一方で気がふさぐのではなかろうか。
そう思った私は電話口でパソコンの活用を勧めた。
Aさんはパソコン類の操作はもともと不得意だから簡単なやり方を伝えた。
歌いたい歌の曲名を入力して一つスペースを入れて「カラオケ」と入力するだけ。(スペースは挟まなくてもいいのではと後で思ったが)
そうすればその歌のカラオケの伴奏が流れる動画が見つかる。
Aさんはカラオケ好きなので自分のノートパソコンで歌えるようにと思って勧めたのである。
「いいことを聞いた、やってみる」との返事だったがうまくいっただろうか。
老人と幼児は似ているとよく言われるが決定的な違いがある。
生活面でどんなことができるか、現時点では同じでも幼児は1日1日できることが増え、老人は日に日にできることが少なくなっていく。
私もやがてパソコンのシャットダウンのやり方を無視していきなり電源ボタンを押すようになるかもしれない。
ところでこの件に関して私は老化は別にして日ごろから不思議に思っている。
というのはスマホは機能的にミニパソコンと言ってもいいようなものだ。
それなのにパソコンはどうしてスマホと同じように電源ボタンを切って終了させてはいけないのだろう。
逆に言えばスマホはどうして電源ボタンを押す前にシャットダウンの操作をしなくていいのだろうか。
●2021.6.15(火)片町
ネットニュースで福井市の繁華街が取り上げられていた。
客足が戻らないという内容だったが私が気を留めたのは街の名前が片町という点だ。
川中美幸の『金沢の雨』という演歌にも「あなたと出逢った片町あたり」という一節がある。
我が長崎県にも大村市や島原市に片町があるから全国に散在する町名なのだろう。
片町は片側町という意味で道の片側にだけ家が建ち並んでいる町だ。
ところで自分が広い新開地に町名を付ける担当者ならどうするか。
まず地域をいくつかのブロックに分ける町割りをしなければならない。
現代の感覚では道路を境界線にするだろう。
この区切り方は「街区方式」と呼ばれる。
しかし江戸時代はそうではなく「背割り」と呼ばれる区切り方をした。
道路を挟んで向かい合っている家並みを一つの町とするのである。
今の住宅団地もたいていそうだが2本の道路の間には家並みが2列ある。
この2列の家は玄関がそれぞれの道路に面しており玄関と反対側の背(後ろ)は別の列の家の背と接している。
この背と背の間のラインで町のエリアを区割りするのが背割り方式である。
江戸時代は家々の背と背の間は細い下水路になっていることが多かったため下水路が町の境界線になった。
地図を上から見る感覚では街区方式がスッキリするかもしれないが生活目線で考えると背割り方式が現実的ではなかろうか。
そのことがより実感できるのは離島である。
狭い海峡を挟む両側が同じ町名になっていることがよくある。
昔の人にとって海峡は海の生活道路だったのだ。
ろくに道も通じていないような同じ島の裏側よりも船ですぐの対岸が一体感があったのだろう。
ここで片町の話に戻る。
背割り方式の江戸時代は道を真ん中にして向かい合った家並みが一つの町で片町はその両側の一方だけに家が建ち並んでいる町だと述べた。
地勢的にそうなっている場合は分かりやすいがもう一方の側にも建物が建ち並んでいるケースがある。
この場合のもう一方の側に立ち並ぶのは武士の家々や寺や神社である。
町名というのはその名のとおり町人の住むエリアの名前なのだ。
だから通りの片側が寺社や武士の家だった場合は片町ということになる。
町名が付くのは江戸時代で言えば都市部に限られていた。
逆に言えば人口の少ない農漁村部に町名を付ける必要はなかったということだ。
そういう地域では通称で十分で現在でもあちこちに残っている。
たとえば「一本松」「寺の下」など数多くあり長崎市の外れには「上の
●2021.6.17(木)現代版徒然草・関西弁
・『徒然草』に「人の亡きあとばかりかなしきはなし」で始まる有名な段がある。
人が死んでからその人の墓さえ跡形もなくなってしまうまでの時の流れの無情さを描いている。
今年は私の母の27回忌の年である。
先週墓参りに行ったのだが途中に母が最期の時を迎えた個人病院がある。
跡継ぎがいないのかどうかかなり前に閉院していた。
今回通りかかるとその病院のビルが解体中だった。
現代版徒然草だと思ったことだった。
・江戸は武士の町だから「武士は食わねど高楊枝」などと格式を重んじる。
その気質が伝播して町人も「宵越しの銭は持たねぇ」と意気がる。
対して商人の町大阪はやせ我慢などしない。
テレビで見たのだが大阪では女性が合コンの場で男性に収入を尋ねるのは普通のことだという。
「初対面の男性によく平気で収入を聞けるね」
テレビのディレクターが問うと合コン参加者の女性たちはこう答えていた。
「だってそれが付き合う上で一番大事なことやん」
こんなふうに本音でぐいぐい迫るから関西の人間や言葉は品がないと思われがちだ。
しかし商人気質は実質本位であると同時に相手の機嫌を損ねないように気をつかう。
関西弁が否定表現を多用するのはその表れではないかと思われる。
例えば「(その考えは)分からんではないな」と他の意見も許容する余地を残す。
自分の意見を述べると「しらんけど」と付け足して自分の考えが絶対的でないことをアピールする。
相手の意向を確かめる場合も「~と違うんか?」(くだけた言い方だと「~ちゃうんか?」)と言う。
比較すると標準語の「~なのか?」は固く響く。
関東のあるバラエティー番組で若い男性アイドルがとんちんかんな発言をした。
すると横に座っていた年上の女性タレントが彼にこう言い放った。
「ねぇ、バカなの?」
見ている分には面白かったが男性アイドルはせめて「バカじゃないの?」と言ってほしかったろう。
●2021.6.20(日)ミラー効果・許すということ
・外国でのロケ番組を見ていると外国人は素敵だなと思うことがある。
テレビカメラが側を通る時笑顔で手を振ったり声に出して挨拶をしたりしてくれる。
それがいかにも自然なのだ。
日本人だとこうはいかない。
フランス在住の日本人が興味深いことを言っていた。
困ったことが起きてフランス人に相談する時の話である。
日本人は生真面目だから真剣な顔つきで相談しがちだがそれでは怖く見えて警戒されるという。
反対にニコニコして話すと「それは大変ですね」と相談に乗ってくれるとのことであった。
対人関係のこういう反応を心理学では「ミラー効果」と言うようだ。
・「人を許せ」とか「自分を許せ」とか言われるがどういう意味だろう。
「許す」という言葉は他人から被害なり迷惑なりをこうむった場合に使うもののように思われる。
だから「人を許せ」というのは他人に何かされても寛容であれというような意味に解釈できるが「自分を許せ」というのは意味が分からない。
また他人であっても自分と何の接点もない赤の他人なら許すも許さないもないだろう。
この点については以下のように考えてはどうだろう。
「許す」は語源的には「ゆるくする」という意味である。
ということは「人を許せ、自分を許せ」というのは他人にも自分にもゆるく構えて接するようにしろということなのではないか。
色々な
真面目大好きの日本ではこの「他人に厳しく自分にも厳しい」あり方は一定の評価を受ける。
けれども一般的により高い評価を受けるのは「他人に優しく自分に厳しい」タイプだろう。
「人を許せ、自分を許せ」はさらにその上をいって「他人に優しく自分にも優しくあれ」ということなのではないか。
真面目な人ほど自分に優しくすることを「自分に甘い」と罪悪視して「他人に優しく自分に厳しい」ラインにとどまりがちだ。
●2021.6.24(木)レトルトカレー・ドデカミン・炭酸水
・レトルトカレーの袋を小さな鍋で温める時に次のようなことが気になっていた。
湯が少なければ水面から出ている部分が加熱されないのではないか。
かといって袋が全部浸るほどの水位にするのは水がもったいない。
また袋の端の部分が高温の鍋の肌に押し付けられることにも色々と問題があるのではないか。
だがこれらの心配は一発で解消された。
カレーの袋がちょうど置けるくらいの小さめのフライパンを使えばいいだけのことである。
・サントリーフーズが「デカビタC」という栄養飲料を1992年に出した。
当時の同種の飲料は100ml前後が普通の容量だったが「デカビタC」は210mlだった。
「デカビタC」というのは「デッカイビタミンC」という意味の名前だった。
その後2004年にアサヒ飲料が「ドデカミン」を発売した。
これは容量が300mlもあるので「デカビタC」よりもさらに 「ドデカイ」という意味かと思っていたら違った。
ギリシァ語の数字はモノ(1)、ジ(2)、トリ(3)、テトラ(4)…と言う。
「ジメチルエーテル」など化学の授業で習った化合物の名前によく出てきた。
化学に限らずモノレール、ジレンマ、トリオ、テトラパックなど多くの日常語の中にも含まれている。
近ごろ話題になった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の「トリエンナーレ」も「3年に一度」という意味のようだ。
さてこのギリシャ語の数字で12を「ドデカ」と言い「ドデカミン」はそこからのネーミングとのことである。
容器のラベルを見ると確かに「12種類の元気成分」と書いてある。
・レモン味の焼酎と炭酸水でレモンサワーを作って飲んだが炭酸水が少し余った。
こういう場合は砂糖を入れるとサイダーみたいになると以前に記した。
今回はコーヒー牛乳に炭酸水を入れてみた。
何とも言えない味がした。
旨くも不味くもないのだがもう一度試してみたくなる不思議な味だった。
炭酸水で割ったということはコーヒー牛乳の甘味もコーヒー成分も薄められたことになる。
それでも
●2021.6.29(火)風情
仏壇の前に座ってマッチを擦り線香とロウソクに火を点ける。
この時、仏様にあげる線香の炎を人間の生臭い息で吹き消してはいけない。
手のひらを団扇のように振って消すのがならわしだ。
近ごろはライターやチャッカマンを使うことが多いが私は少し罰当たりな気がする。
仏壇専用であっても元来はタバコや料理のためのツールだからだろう。
チャッカマンについては百円ショップで働いていた若い女性からこんな話を聞いた。
「ガッチャマンはありますか?」
年配の客に多いらしいがそう尋ねられることが時々あるという。
女性は心得たもので「はいあります」とチャッカマンの売り場に案内すると言った。
話を戻すがライターやチャッカマンよりも味気ないのは電子ロウソクだ。
スイッチ一つで点けたり消したりできるのは便利だがありがたみがない気がする。
電化は人間を手間ひまから解放して簡便という恩恵を与えるが手間ひまから生まれる風情を駆逐する。
金づちと5寸釘で藁人形を木に打ち付けるのは力がいるし時間もかかる。
だからと言って電動釘打ち機を使っては丑の刻参りらしくないだろう。
愛を告白するのも電子メールの時代になりラブレターという言葉は殆ど聞かれなくなった。
涙で滲んだ便箋は風情があるが涙で濡れたスマホは故障の恐れがある。
ここまで書いて読み直したらロウソクに関する懐かしい光景を思い出した。
お盆に墓で花火をする時には花火に点火するためのロウソクを立てたものだ。
火の点いたロウソクを傾けてロウを垂らしその溶けたロウの上にロウソクを立てるのである。
線香花火程度ならともかく墓場でロケット花火を打ち上げたり爆竹を鳴らしたりするのは長崎ならではの風習だということは大人になって知った。
ちなみにロケット花火は長崎では「やびや」(矢火矢・箭火矢)と言う。
ビールの空き瓶に挿して点火した後はヒュ~~~、パン!
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