2020年7月~12月

●2020.7.1(水)語源や由来

言葉の語源や由来についてアトランダムにいくつか書き記してみる。


くちはしに突き出ている部分を「くちばし」(嘴)と言うが古文では「はし」だけで「くちばし」を意味する。

カラスにくちばしが細い種類と太い種類がいてそれぞれ「ハシボソガラス」「ハシブトガラス」と呼ぶのは有名だ。

土を掘り返す道具「ツルハシ」は形が鶴のくちばしに似ているところからの名称。

重いものを吊り上げるクレーンは「crane」(鶴)そのままだ。


私が子供の頃は4輪自動車は超高価でその代わりバイクが多く走っていた。

バイクの横(サイド)に人一人が乗れる座席を取り付けたものがあってサイドカーと呼ばれていた。

これを真似て自転車も横に荷台を取り付けた。

しかし横(サイド)よりも後ろ(リア・リヤ)に付けた方が便利だということで自転車の後ろに荷台を取り付けるようになった。

これがリヤカーである。

リヤカーのフレームは金属、車輪はゴム製のタイヤだが、リヤカーの前身みたいな全て木製のものが江戸時代にあった。

大人が担ぐ8人分の荷物を運べる、大人8人の代わりになるということで「大八車だいはちぐるま」(代八車)と呼ばれていた。


次に地名の話に移るが私はずっと前から東京の「日暮里にっぽり」が気になっていた。

「にっぽり」という響きは古くからある地名のようには思えないからである。

調べてみて古くは「新堀にいぼり」だったということを知って納得した。

似たようなケースが私の住む長崎にもある。

「女の都」という地名があるのだが県外の人は「おんなのみやこ」としか読めず珍しく思うようだ。

これは「めのと」と読み古い文献には「乳母めのと」と表記されている地名である。

「女の都」行きのバスはけっこう多く長崎市内を走っている。

昭和40年代に開かれた古い住宅地だから字面にひかれてハーレム気分を味わえるのではと思って下車したら当てが外れるだろう。


バスの行き先表示に関しては頓珍漢な思い出もある。

子供の頃、行き先表示板に「回送」と表示されたバスが多く走っているのを見て私はこう思っていた。

「回送という町はどこにあるのだろう。こんなにひっきりなしに回送行きのバスが走るからにはよっぽど賑やかな町に違いない」



●2020.7.4(土)人体楽器

人体が発する音について思いを巡らしてみよう。

オナラやあくびはしゃべるのと同じく自分の意志で体内から体外へ気体を放出する作業である。

そしてオナラの語源が「お鳴らし」であるごとく、おしゃべりもオナラもあくびも体内と体外の接点で音が出るのが通常だ。

ところが体内のみでしかも自分の意志とも無関係に音が発生することがある。

「お腹が鳴る」というのがそれである。

たとえば空腹の時に胃の辺りが「ぐうっ」とか「グルル」とか鳴る。

それは誰しも時々経験することだろうから珍しくはない。

しかし空腹でもないのに多分腸だと思われるがまれに突然お腹が鳴ることがある。

それもびっくりするほど大きな音が。

人中ひとなかなら恥ずかしいことこの上ないが一人の時は自分の体が楽器のように感じられて面白い。

「鼓腹撃壌」という言葉もあるように満腹になればパンパンに張ったお腹で腹鼓を打ちたくなるのが人情だ。

ピアノが楽器の王様でバイオリンが楽器の女王などと言われる。

しかし人間の声はそれらを上回る最高の楽器だという。

人間の声と楽器を直接結びつければボイスパーカッションやヒューマンビートボックスなどは大したものだと思う。

人間の声だけで交響曲を演奏してはどうだろう。

そんな壮大な試みを夢想しながら私はビールで腹が膨れると胴体を揺らして胃の水面がタプタプと波打つのを体感して喜んだりしている。



●2020.7.9(木)文学と映画

一人の老婆が入口詰め所の守衛に礼をして刑務所を出た。

濃い茶色でいかにも老婆が着そうな何と言いようもない細かい模様の半袖ワンピース姿である。

老婆は刑務所の塀に沿った道を歩き出した。

道の片側は一面の田んぼに鮮やかな緑色の稲が育っている。

青い空と白い入道雲の下を老婆はアスファルト道と刑務所のコンクリート塀の照り返しを受けながら日傘もささずに歩いて行く。


以上は私が今思いつくままに書き記した文章である。

これを映画化すればどうなるか。

ほんの数秒の無言のカットで事足りるだろう。

逆にその映像を文章化すれば上記のようなくだくだしい描写になるというわけだ。

それでは映画が及ばない小説の得意技はないのかと言えばあるのである。

上記のシーンを服役中の一人息子に老婆が面会した帰りという設定にしてみよう。

そしてその息子は近日中に死刑が執行される予定だとする。

すると映画のスクリーンで炎天下のもとをうつむいて歩いている老婆は観る者にどんな印象を与えるか。

真夏の自然のみなぎる生命力と近々失われる老婆の息子の命との対比、そして迫りくる一人息子の死を老いた身で受け止めねばならない老婆の悲しみ、そういったものを観客はひしひしと感じることだろう。

しかし息子との面会時には涙をこぼした老婆だが刑務所を辞した後は夕食のおかずのことを考えたかもしれない。

小さなアジの開きの干物が4枚入った380円のパックが3割引になっていればありがたいが。

刑務所脇の道を老婆がそんな期待を抱いて歩いていることを映像で表現するのは不可能に近い。

それが小説なら簡単に心情描写という方法でできるのである。


文学と映画はどちらが優れているというよりもそれぞれの分野の特質を窮めるべきだ。

安直に助けを借りて妥協してほしくない。

映像作品にナレーションや「それから5年後」とかいった字幕を入れるのはずるいと思ってしまう。

小説にしても挿絵を入れるのは子供受けや大衆受けを狙う場合だろう。



●2020.7.11(土)気になる言葉あれこれ

・トイレが詰まったようで妻から声をかけられた。

「ねえ、トイレのスッポンスッポンどこにある?」

久しぶりに「トイレのスッポンスッポン」という言葉を聞いておかしくなった。

正式名称?は「ラバーカップ」とか「吸引カップ」とか言うようだが擬音語の分かりやすさの威力の前では影が薄い。

同じような例を挙げれば「レンジでチンする」だろう。

電子レンジを英語で「マイクロウエーブ」というのも驚きだがこの言葉は「電子レンジで温める」という意味の動詞としても使えるらしい。

ほかにも「電子レンジで温める」という英語表現は色々あるようだが「チンする」のように擬音語を使った言い方はしないのだろうかと気になっている。

・世界史でルターの宗教改革は必ず習う事項だ。

カトリックにプロテストした宗派だから「プロテスタント」と呼ぶのは分かる。

では「カトリック」とはどういう意味なのか気になって調べてみた。

ギリシア語で「普遍的」という意味の「カトリコス」が語源のようだ。

世界中のどこの誰にでも通用する正しい教え、それがカトリックだということなのだろう。

・以前「小耳にはさむ」「小首をかしげる」「小腹がすく」などの表現を取り上げて次のように説明した。(2019.8.3接頭語)

「小耳」や「小首」や「小腹」というものがあるわけではない。

これらの「小」は直後の名詞でなくその後にくる動詞に「ちょっと」という意味を付け加えるのである。

今回これと似たようなケースではないかと思われる表現があることに気づいた。

それは「後ろ指を指される」という言い方である。

上記の「小耳にはさむ」等と同じ形式で説明してみる。

「後ろ指」というものがあるわけではない。

この「後ろ」は直後の名詞でなくその後にくる動詞に「後ろから」という意味を付け加えるのである。

つまり「後ろ指を指される」とは「(あいつは駄目な奴だと)後ろから指を指される」という解釈だ。

「後ろ髪を引かれる」という表現も「後ろ髪」という名詞が辞書にあることはあるのだが私流に解釈した方が分かりやすくはないだろうか。

・日常何も考えずに使っている「買う」という言葉はどんな意味だろうと気になって調べてみた。

「買う」は昔の仮名遣いでは「買ふ」だがこの「かふ」に当てられる漢字は次のように幾つかあってそれらは語源的に同じらしい。

「交ふ」「替ふ」「代ふ」「換ふ」

つまり「買う」というのはお金を品物に「かえる」「交換する」、お金と品物が「かわる」「交代する」ことなのだ。

・「デジャブ」というフランス語はよく知られているがその反対語の「ジャメブ」という言葉はあまり知られていないのではないか。

「デジャブ」を「既視感」と訳すなら「ジャメブ」は「未視感」、つまり見慣れているものが未知のもののように新鮮に感じられることを言う。

・荷馬車の時代の「馬力」という言葉が現代も生き残っていて車などのエンジンの性能を「~馬力」と表現するのは面白い。

1馬力の定義は735.5W(ワット)だが簡単に言えば普通の馬1頭が普通に荷を引く時のパワーで日常会話でも使われる。

「新入社員の中でも特にあいつは馬力がある」

「君んところは奥さんとの2馬力だから羨ましい」

馬の力が「馬力」なら人間の力は「人力」で、先日話題にした「大八車」(代八車)は「8人力はちにんりき」ということになる。

頼りになる人間は「君がいれば百人力ひゃくにんりきだ」などと称賛されるが鉄腕アトムの10万馬力には及ばない。

この「10万馬力」という言葉が出てくる「鉄腕アトム」の有名な主題歌の作詞者が谷川俊太郎だということを私はごく最近知った。



●2020.7.19(日)古本屋と質屋

数年前のことだがコミック本を売りに行って非常に驚いた。

100巻を超える有名なグルメ漫画で全巻揃っていたのだが買取価格は1巻分の定価にも及ばなかった。

どうしてこうなってしまったのだろうか。

昔の古本屋は土地も店舗も自前でお爺さんが一人で店番をしていたようなイメージが強い。

それに対して現在の古本屋はテナント料やスタッフの人件費や光熱費がかなりかかりそうだ。

もっと根本的な問題は書籍の電子化が進んで紙の本が昔のようには売れなくなっているのだろう。

私が学生の頃、古本屋はありがたかった。

定価の4分の1前後、どうかすると3分の1近くで買い取ってくれたこともあったように覚えている。


ありがたいと言えば質屋もそうだ。

私が子供の頃、母親がよく利用していた。

借りたお金が払えなければ預けた品物が返ってこないだけのことであり消費者金融よりもよほど問題が少ないのではないか。

目の前の遊ぶ金ほしさに返済のことはろくに考えず借りまくって借金地獄にはまるなどは愚の骨頂である。

るを量ってずるを制す」とは二宮尊徳(金次郎)が提唱した経営再建の思想だが自分の収入の範囲内で生活するという当たり前のことさえできない人間が増えている。


かく言う私も偉そうなことは言えない。

宝くじで1千万円当たった場合の使い道は何年も前から決めている。

捕らぬ狸の皮算用もいいところで、未来を貪っているようなものである。

交通事故よりも宝くじに当たる確率の方が低いと知っていながら事故には遭わずに宝くじには当たるつもりでいるのだから愚かさも筋金入りだ。


※さて、この「ぽつりぽつりと」をまたしてもリニューアルしたい。

どちらかと言えば小説の方に気を取られてこちらにまとまった内容、分量の文章を掲載するのがおっくうになってきた。

そこで次回からは関連のない短い話を幾つかずつアップする寸感録ふうの体裁にもっていきたい。

文字通りの寸感や気づきの羅列になるだろうがそれを糸口として読者の方で深く掘り下げていただければ幸いである。



●2020.7.21(火)餃子・対人関係・酒飲み

・チャーハンを作る時フライパンに油を垂らす。

その油は米粒が吸って最終的には体内に入る。

ということはフライパンに入れた油をそのまま飲むのと同じことではないか。

そう考えると気持ちが悪いと以前に書いた。

同じことが餃子に関しても言えると気づいた。

箸でつまんだ餃子に小皿のポン酢をちょんちょんと付けて食べるのが普通だろうが私はちょっと違う。

小皿に餃子を置いて皮を1、2か所箸でつついて穴を開ける。

そうして中の具にまでポン酢をしみ込ませてから食べるのである。

これはしみ込ませた分のポン酢をごくごく飲むのと同じなのだと思えば少し控えたくなる。


・分け隔てなく誰とでも公平に接する人は好感が持てる。

そういう人と親しくなったらどんな気持ちになるだろう。

相変わらず誰とでも公平に接するのを見ているうちに自分にだけは特別な接し方をしてほしくなりはすまいか。

わがままな願いであるがそれが実現したとしよう。

自分だけに一途な関心を向けてくるようになったその人が今度は鬱陶しくなるかもしれない。

人間のわがままにはきりがない。


・あの人は酒癖が悪い。

あの人は酔ったら人が変わる。

そう言われる人はどの職場にもいて、酔った時の醜態が本性だと思われて昼間も敬遠されがちだ。

そんな人のために私は立ち上がりたい。

酔った時の見苦しい姿がその人の正体だと認めてもよい。

しかし昼間は仕事も人付き合いも無難にこなしているだろう。

それはどういうことを意味するか。

実質は低レベルの人間なのに努力を重ねて酒が入らなければ何ら問題のないレベルにまで到達したのではないか。

そんなふうに評価する視点を持てないものだろうか。

と書きながら酒飲みの自己弁護に過ぎないのではないかと私も薄々感じている。



●2020.7.23(木)大豪邸・順路・タオル

・ある有名女性歌手が外出自粛中ということで曲に合わせて踊っている動画を公開した。

話題になったのはダンスもさることながら背景として映っている自宅の豪邸ぶりだった。

豪邸ということで言えばアメリカはさらにスケールが大きい。

たとえば故マイケル・ジャクソンの自宅だったネバーランド。

広大な面積を表すのによく東京ドーム何個分と言う。

皇居の広さは東京ドーム約25個分だがネバーランドはそれどころではない。

皇居のある千代田区全体とほぼ同じ広さというのだから恐れ入る。

しかし私は気になることがある。

今述べた日本の有名女性歌手もマイケル・ジャクソンも幼少期は普通の人より恵まれない環境下で育った人物である。

それなのにあんな豪邸に住もうという感覚によくなれるものだと不思議に思う。

貧乏だった過去の反動でいい家に住みたいのは人情として分かる。

だからと言って超が幾つも付くような大豪邸まで建てたくなるものだろうか。

そこまでやりたくなる、あるいはそうせざるを得ない心理の内奥を思うとずっと貧乏な私は羨ましく思いながら少し気の毒な気にもなる。


・どんなにブランド物の服を持っていても一度に2着は着られない。

どんなにグルメであってもお腹いっぱいになればそれ以上は食べられない。

どんなに財産を残してもあの世には持っていけず相続争いの元になったりもする。

どんなに広い家に住んでも最後はベッドからの景色しか見られなくなる。

「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」とはよく言ったものだ。

ことさらに「終活」に励まなくても年を取るにつれて人はいろんなものを失っていく。

容貌、健康、貯え、体力などに加えて子供も親元を離れていく。

それは寂しくはあっても誰しもたどる旅立ちへの順路だ。

とすれば失うものが少ない人ほど未練や執着は少ないだろう。

  

・ディスカウントストアでタオルを買った時の話である。

肌触りが非常に滑らかなタオルを見つけた。

誇張して言えばベルベットのような滑らかさで値段は普通のタオルと変わらない。

喜んで買って風呂上がりに使ってみたのだが体を拭こうとしてもタオルが肌に吸い付いて滑らない。

肌に押し当てて水分を吸収させる使い方に適しているタオルだ。

そんな上品なタオルの使い方は私のしょうに合わない。

使い古して粗い繊維が表面に出ているタオルが私の好みだ。

風呂上りはそんな擦り切れかかったようなタオルで体をゴシゴシと拭き上げたい。



●2020.7.25(土)洗い方・ぬいぐるみ・水没

・今の若い人は洗濯板を使ったことはもちろん見たこともないだろう。

学校の拭き掃除も今はモップを使うようだから雑巾を扱えるかどうかも気になる。

昔は雑巾がけをした後にバケツの中で雑巾を両手で持ちクシュクシュとこすり合わせるようにして洗ったものだ。

その感覚が染みついているせいか私はあの洗い方でなければ汚れは落ちないように思う。

ところが洗濯機で洗う時女性は下着をネットに入れる。

それではネットの中で折りたたまれたまま洗濯槽の中をネットごとグルグル回転するだけだろう。

毛布を円筒状に巻いて洗濯槽に入れても同じ理屈でとても汚れが落ちそうには思えない。

そういったことを誰も不思議がらないのは私が知らないだけでちゃんと汚れが落ちる理由があるのだろう。


・ぬいぐるみの洗濯について面白いことを聞いた。

洗ったぬいぐるみを干すと外側が乾いているかどうかは触れば分かる。

では内部まで完全に乾いたかどうかはどうすれば知ることができるか?

洗う前にぬいぐるみの重さを測っておけばよいとのことである。

なるほどと感心した。


・外出先で音楽を聴くのは今はスマホの時代だろう。

以前私はウォーキングしながらソニーの「ウォークマン」を使っていた。

ある時ウォークマンをポケットから出し忘れて洗濯機を回してしまった。

水没もいいところである。

乾かすために2日くらいほったらかした後スイッチを入れてみた。

うんともすんとも反応がない。

廃棄を覚悟した時ふとこう考えた。

ウォークマンの中には精密な極小部品がぎっしり詰まっていることだろう。

水に浸かったそれらの部品の隅々まではまだ乾いていないのではないか。

そこで閉め切った車のダッシュボードの上に半日ほどウォークマンを置いてみた。

季節は夏だった。

結果、ウォークマンは見事に復活した。



●2020.7.27(月)蛍光灯・手足の指・飽きない時間・ヒト

・細長い蛍光灯を天井にどんな向きに取り付けようが室内の明るさに変わりはない。

しかし客を迎える店となると工夫の余地がある。

コンビニなどの天井の蛍光管は入口のある壁面に並行した向きに取り付けてある。

なるほどその方が外から見た時に店内が明るく華やかに見える。


・実にどうでもいいことに気が付いた。

手の指は付け根から指先にいくにしたがって細くなる。

同じ指なのに足の方は逆に先にいくにつれて太くなっている。


・ドイツのベルリンの街並みを紹介するテレビ番組を見た。

ブランデンブルク門から見た西の方向の画像が特によかった。

広大なティーアガルテンの中を「6月17日通り」がまっすぐに伸びており遠くに戦勝記念塔が見える構図だ。

ベルリンの街を舞台にした森鴎外の『舞姫』を思い起こしながらずっと眺めていたくなるようなショットだった。

しかし映像はすぐに切り替わってしまった。

それを残念に思った時、こういう考えが浮かんだ。

景色をずっと見ていて飽きない時間は距離と比例するのではないか。

ブランデンブルグ門から戦勝記念塔までは歩けばかなりの時間がかかりそうだ。

けれども私はそれくらいの時間ずっと先ほどの映像を見ていたい。

その逆の例も想定してみた。

目の前の花壇の花がいくらきれいでも長時間は見ていられないように思う。


・車で遠出して人里離れたところを走ってもぽつりぽつりと人家が見える。

そんな経験を繰り返すとどんなところにでも人間は住んでいるのだなという感慨に打たれる。

さすがに地球上でネズミの次に多い哺乳類だけのことはある。

そういう辺鄙な所で生まれ育つ小学生と東京都心の小学生。

日々の過ごしようを比較しあえば互いに羨ましがるだろうかその逆だろうか。



●2020.7.29(水)梅雨明け・負けず嫌い・フラメンコ

・今日は朝から蝉が鳴いている。

梅雨明けなのだろう。

蝉が集団で鳴き始めると梅雨が明ける。

毎年こうで気象予報より確かだ。

蝉には梅雨明けが分かるセンサーが備わっているのだろうか。

我が家では生活苦で家族が泣いている。


・近所のグラウンドに時々ウォーキングに出向く。

500メートルくらいの外周を10周歩く。

今はそうでもないが自分より速く歩く人がいるとそれ以上に速く歩きたくなる。

そんなふうに私には負けず嫌いのところがある。

負けん気が強いとかプライドが高いとかいうのは対人関係における気質である。

そういう人が無人島で暮らせばどうなるだろう。

長年淡々と一人で暮らしていても他人が上陸してくると持ち前の気質がむくむくと頭をもたげて来るのではなかろうか。

自戒をこめて分析すると、大した取り柄もないのに負けん気が強くプライドが高い人は愚かで弱い人間に多い気がする。

こういう人間の態度は簡単には改まらない。

「弱い犬ほどよく吠える」「バカは死ななきゃ治らない」とはよく言ったものだ。

私の知人は「ツッパリは最低の真実である」と言った。

ちっぽけな人間が他人に伍して生きていくにはキャンキャン吠えるしかないのかもしれない。

蟷螂とうろうの斧」「ごまめの歯ぎしり」といった言葉も身につまされる。


・スペインのアンダルシア地方のある裏町を撮影したテレビ番組の話である。

戸外にテーブルとイスが置かれており近所の数名がくつろいでいる。

その中の一人の老婆がフラメンコを歌って踊っていた。

以下はその老婆の言葉である。

「フラメンコは教わるものではない。生活の中の苦労や感情が自然に歌になっていく。強い感情が生まれた時歌えば落ち着くのよ。辛い時でも楽しい時でも歌う」

フラメンコは華やかな民族舞踊というイメージが強かったので新鮮に響いた。

日常の生活の中に芸術が息づいているのは羨ましいことだ。

日本でも私の親の世代までは例えば結婚式では「高砂」を謡ったり「黒田節」を踊ったり、その他も詩吟や剣舞などを披露する芸達者がいたものだった。



●2020.7.31(金)愛想笑い・充電・羹

・愛想笑いは高度な技だ。

相手と自分との力関係やその場の雰囲気を読まねばならない。

年を取るにつれて物忘れが増える。

ガスコンロの消し忘れなどを指摘されて「うっかりしてた」と愛想笑いを浮かべるうちはまだ大丈夫。

指摘されても無表情で「そうか」と言う程度の反応になれば危険信号だ。


・物事はルーティン化すればその都度頭を使わなくてすむ。

だから私は電動シェーバーの充電は毎週1回土曜日と決めていた。

しかしルーティン化すると今度は自分が決めたにもかかわらず約束事に縛られている不自由さを感じる。

そこで現在はアバウトに回転の勢いが弱まったと感じた時に充電している。

その際私には小さなこだわりがあって自分が家にいる昼間に充電する。

だいぶ前のことで正確には記憶していないがコンセントに差していた何かの電化製品が発火したという報道があった。

それ以来、外出している時間帯や寝ている時間帯に8時間もの間シェーバーをコンセントに差しておくのが怖くなったのである。

この用心は「あつものりてなますを吹く」の類いであるとは思いながらも。

しかし火事は1回でも起こせばアウトなのだから「羹に懲りて膾を吹く」くらいでちょうどよいのではないか。


・上記の「羹に懲りて膾を吹く」に関して漢字についての雑学を幾つか記してみる。

羊は人間にとって毛、皮、肉、乳と全て役に立つ動物だ。

肉の味の好みを措けば大きい羊ほどよい。

だから「大」と「羊」を組み合わせた「美」は「よい・立派だ」という意味で、「美子」を「よしこ」と読むのも納得できるだろう。

あつもの」とは読み通りに「熱い物」で今ふうに言えば「温スープ」だ。

漢字に注目すれば下部の「美」は「よい・立派だ」、上部は「羊」、中間の点は部首名として「列火れっか」とか「連火れんが」とか呼ばれるように並んだ四つの炎である。(これをぎゅっとまとめて一つの文字にすれば「火」になる)

以上の三つの解釈を合わせれば「羹」は立派な羊の肉を入れて火で煮た吸い物ということになる。

今は和菓子の名称になっている「羊羹ようかん」も元は「羊のあつもの」という意味である。

この吸い物は冷えると羊肉のゼラチンの作用で煮凝にこごりのように固まる。

それに似せて小豆を使って作った菓子が現在の羊羹である。



●2020.8.2(日)かっちぇて・女々しさ

・子供の頃、友だちが遊んでいるところに出くわすと仲間に入れてほしくて「かっちぇて!」とよく言ったものだった。

この言葉の響きは実に方言くさい。

大人になって大阪に「かて飯」という食べ物があることを知った。

それで「かっちぇて」は「かてて」の音便形だろうと見当をつけた。

「かっちぇて」が長崎から大阪まで進出できたが「かて飯」もなにやら方言くさい。

最終的には「かてて加えて」という言葉に行き当たってようやく全国区になった思いがした。

てる」という言葉は「混ぜ合わせる」という意味で調べてみると万葉集の昔からある。

「かてる」には「かたす」「かたせる」という派生形もあるので「かたして!」という言い方もしていた。

今回以上のようなことを調べている途中、「かやくご飯」という言葉も目に入った。

漢字で書けば「火薬ご飯」と間違えそうなことで有名だ。

正しくは「加薬ご飯」と書き「かて飯」と同じようにいろんな具材を煮込む。

それは知っていたのだがなぜ「薬」を加えると書くのかが気になった。

調べてみると「薬」には「心身に滋養・利益を与えるもの」(広辞苑)という広い意味の使い方があるのである。

それで「加薬ご飯」の意味だけでなくネギなどを「薬味」というのも理解できた。

「毒にも薬にもならない」という慣用句も「poisonにも medicineにもならない」ではなく「害にも益にもならない」という程度の意味だろう。


・使い古して繊維がむき出しになったタオルが好きだと先日書いた。

それに合わせたわけでもないが垢すりも強くこすれば皮膚が傷つきそうな粗い肌触りのものにかえた。

これでガシガシ体をこすって風呂上りには使い古したタオルでゴシゴシ拭けばすっきりしそうだ。

とまあこんなふうに貧乏人はガサツで品がない。

ボディタオルと言わずに垢すりと言うところからして品がない。

けれどもこんな人間はえてして心根は女々しいのである。

私は思うのだが、女々しさは上品に言えば寂しさや悲しみへの繊細な感覚ということにならないだろうか。

借金を一種の財産ととらえる立場に立てば女々しさも捨てたものではないかもしれない。



●2020.8.6(木)街角インタビュー・特技

・バラエティー番組の街角インタビューを見ると世の中にはいろんな人間がいるものだと思う。

もちろんテレビのことだから数多くインタビューした中で特徴的な人を放映しているのだろう。

それにしても自己中心的な人、下品な人、知識や常識のない人等々、それぞれに信じられないくらいに度を越している人たちがいる。

そんな人々の姿を面白おかしくテレビで見ながら私は二つのことが気になる。

一つは彼らはどんな仕事をして生活しているのだろうかということだ。

それが気になるくらい普通の会社づとめはとてもできそうにない人たちである。

おバカさんタイプの若者に関して言えば中学はともかくよく高校を卒業できたものだということと運転免許試験は大丈夫だろうかということも気になる。

もう一つは彼らが実際に現在を生きている人間だという事実である。

彼らはテレビの中の虚構のキャラクターではないし東京のような大都会だけにいるタイプとは限るまい。

自分の感覚で作り上げた一定の枠内にほとんどの人間は収まると我々は無意識に思ってはいないだろうか。

その枠から外れるのは犯罪者とか精神を病んだ人とかいった少数の人間であると。

しかし冒頭にあげたような人たちは現実に自分の身近にもいる可能性がある。

テレビで見るぶんには面白いが現実に接するとなると迷惑を被ったり不快を覚えたりしそうだ。

もっと怖いのは自分も他人からそんな人間に見られているかもしれないという可能性である。


・晩酌はもっぱらビールか焼酎で日本酒を飲むことはほとんどない。

しかし宴会では日本酒が欠かせない。

お銚子とお猪口ちょこを持って回っての差しつ差されつが宴会の定番だ。

現役を退いて宴会に縁がなくなったが私にはちょっとした特技があった。

お銚子のふちすれすれまで酒が入っていても一滴もこぼさずにお猪口に注ぐのが得意だった。

特に練習したわけでなく若い時から何の造作もなくできたテクニックだった。

そんな私だが即席ラーメンを鍋から丼に移す時には必ずと言っていいほどスープが垂れてしまう。



●2020.8.7(金)言い間違い・つまみ・優先順位

・ヤフーニュースに面白い記事があった。

コンビニのレジで客が「ペイペイ使えますか?」と聞いた。

すると店員は「ぺいっ!」と答えたという。

ただそれだけの話だが思わず笑ってしまった。

店員はもちろん「はいっ!」と言いたかったのだろうが「ペイペイ」につられてしまったのだろう。

時代劇がかった「へいっ!」という返事のニュアンスも入り混じってなおさら面白い。


・晩酌しようと思って冷蔵庫を見てもつまみになりそうなものがない。

食糧庫の引き出しを開けるとツナ缶が一つあった。

これをどうやって食べようか。

ツナサラダその他幾つかのメニューが浮かぶがどれも面倒くさい。

ふとひらめいた。

ふたを開けて汁を捨ててポン酢を垂らすだけ。

絶品と言いたいくらいに美味だった。

ものぐさの私にはポン酢とめんつゆは応用範囲の広いアイテムだ。


・テレビのバラエティー番組で奥さんから見た家庭内のランク付けが次のように発表されたりする。

①観葉植物 ②ペット ③旦那

半ば冗談のように思われるが奥さんにしてみればもっともなランキングだと思われる。

水をやるのを忘れても観葉植物は文句ひとつ言わない。

飼い猫は腹を空かせるとニャアと甘えてすり寄ってくる。

ソファーで寝そべって「飯はまだか」と横柄に催促する旦那の可愛かろうはずはない。

①~③は奥さんに不快感を催させない順なのだ。

それにしても植物は偉い。

チンピラは行く手に野良猫や人間が突っ立っていたら凄んで道を空けさせるかもしれない。

しかし道に立っているのが木ならばチンピラでも素直に自分の方からよけるだろう。



●2020.8.9(日)古写真・西洋の建造物

・昭和初期あたりの長崎の古写真をテレビで見た。

私が生まれる前の長崎だが郷愁をそそられる感じがした。

道は舗装されておらず建物は木造家屋で人々の服装も特に女性は殆どが和服姿である。

それらに加えて今回改めて懐かしく思ったのは木製の電柱である。

私が子供の頃も木製の電柱はまだ残っていた。

思えば昔の写真に写っているものは全て自然由来のものだ。

土がむきだしの道、木と瓦で造られた家、切り出した木をそのまま立てたような電柱、道行く人が着ている服の素材も絹や木綿や麻が殆どだろう。

それに対して現代の街はどうか。

道路はアスファルトで覆われ、電柱もビルもコンクリート製、道行く人々の服も石油由来の化学繊維が多く使われている。


・東洋は木の文明で西洋は石の文明であると言われる。

石や煉瓦で自分の家を建てろと言われたらどうするか。

壁は問題ないし屋根も何とかできそうに思う。

床は簡単で石なり煉瓦なりを敷き詰めればよい。

ただし以上は平屋の狭小な個人住宅の話だ。

私が気になって仕方ないのが大邸宅や宮殿、その2階の大理石の床だ。

1階に大広間がある場合、その広い天井つまり2階の床がよくも自重で崩落しないものだと不思議でならない。

鉄筋コンクリートのない時代にどんな工法で造ったのだろうか。

西洋建築でもう一つ気になるのがドイツのノイシュヴァンシュタイン城など、山頂につくられた古城である。

敵に包囲されて籠城する場合、最も大切なのは飲み水だ。

平地の城なら井戸があるだろうが山上の城で水はどうしていたのだろうか。

調べてみるとやはり城を築く際に井戸を掘ったようだ。

当然深さは深くなり50mを超えたり中には100mを超えたケースもあったという。

機械のない昔、人力で掘るのだから日本でも西洋でも井戸にかける費用は築城の費用のけっこうな割合を占めていたようだ。

ついでにもう一つ付け加えると日本に比べて西洋の銅像は台座の高さがえらく高い。

台座が高いと壮麗に見えるし不届き者が銅像に上って悪戯をするのを防ぐねらいもあるのではなかろうか。



●2020.8.10(月)糞から紙まで

なんとかロップイヤーという種類のウサギを以前飼っていた。

ウサギは飼いやすい。

散歩させる必要がなく室内で飼えるし鳴かないから近所に気兼ねしなくていい。

エサもドッグフード状の市販のもので十分でエサ代も大してかからない。

ケージから出して室内に糞をしてもコロコロした粒状だからトイレのしつけをするまでもない。

それに対して犬の世話は大変だ。

やたらと吠える犬は近所迷惑だし毎日のように散歩に連れ出し糞の始末もしなければならない。

だから飼っている人はよほど犬が可愛いのだろうと感心する。


ところで持ち帰った犬の糞の処理はどうしているのだろう。

調べてみると可燃ゴミとして出すか水洗トイレに流すかが主流のようだ。

水洗トイレの普及のおかげで日本はずいぶん清潔になった。

私が子供の頃のトイレは汲み取り式で食事のたびにハエが食卓のまわりを飛んでいた。

道路も舗装していない道が多くそこここに犬の糞があった。

私の世代の人間はうっかり犬の糞を踏んでしまったことが何度もあるはずだ。

犬の糞どころか荷馬車が通ろうものなら大きな馬糞が道路の真ん中に湯気を立てて盛り上がったりもしていた。


馬糞で思い出したが図画工作の授業で馬糞紙ばふんしなるものを使っていた。

馬糞紙とはよくも名付けたものだ。

色はもちろん原材料のわらの繊維が見て取れるのも馬糞を彷彿とさせた。

馬糞紙は次第に紙質が向上して色も白くなり厚紙あつがみ、そしてもっとスマートにボール紙と呼ばれるようになっていった。


子供の頃に特に意識することのなかったボール紙という呼称について調べてみた。

厚紙は英語で「ペーパーボード(paperboard)」と言い、直訳すれば「板(board)」状の「紙(paper)」ということだろう。

これを日本語の語順に合わせてひっくり返せば「boardpaper」→「board紙」となる。

日本人は英単語の末尾の子音を聞き取るのが不得意だからdを脱落させ「boar紙」→「ボール紙」となったようで野球のボール(ball)とは何の関係もない言葉だった。

なおこのボール紙2枚の間に階段状のクッションを設けたものが「段ボール」である。



●2020.8.13(木)トイレ事情・百日紅・墓参り

・私の小さい頃トイレが汲み取り式だったと前回書いたが飛行機も船も汽車も以前は垂れ流しだった。

飛行機と汽車は飛行中、走行中の風圧で霧状に飛散させていた。

だから汽車は駅に停車している時間帯のトイレ使用は禁止だった。

子供の頃飛行機に乗ったことはないが汽車は走行中にトイレに入ると便器の底の小さな穴から走り過ぎる線路の敷石が見えていたことをうっすらと覚えている。

飛行機も船も電車も現在はもちろん衛生的な処置がなされている。 


・「百日紅」の読みをご存じだろうか。

「ひゃくじつこう」と読んでもいいが「さるすべり」が一般的だ。

「百日紅」は7~9月の約100日もの長い間赤い花を咲かせるところからの命名だろう。

先日ウォーキングに行く途中、見覚えのある形状の花を咲かせている木があった。

通り過ぎて暫くして百日紅だと思い当たった。

すぐに分からなかったのは花の色が白かったからである。

白い花なのに「百日紅」はおかしいということで「百日白」とか「白花百日紅」とか書くこともあるようだ。

ところで和名がなぜ「さるすべり」なのかと言えば樹皮がはがれやすく、はがれると幹がつるつるしているので木登り上手の猿も滑りそうだということからだろう。

本当に滑るかどうか試してみたいものだ。

「サルノコシカケ」という名のキノコもあるのでこちらも実際に猿を座らせてみると絵になるのではなかろうか。


・1日早いが昨日墓参りに行ってきた。

今回はお盆の墓参りに加えてもう一つ目的があった。

それは墓に彫られている文字の補修である。

墓石の側面には墓の中に入っている物故者の戒名が並んで彫られている。

その金文字が風雨にさらされて色があせたり落ちたりしているのが気になっていた。

そこで金色と赤色の油性サインペンを買って行って塗り直した。

赤色は俗名(生前の名前)の部分を塗るためである。

ところでサスペンスドラマには墓参りの場面が時々出てくる。

墓石の正面の「~家の墓」という文字が金色以外の色もあることをテレビ画面を通して気づいてはいた。

今回墓石を塗るにはどんな塗料を使えばいいのか等をネットで調べる中で次のような知識を得た。

墓石の文字色には地域差があり、関東は「黒」、関西は「白」、九州は「金」が主流ということである。

今後テレビドラマはその点にも留意して見ようと思う。



●2020.8.16(日)歌詞・三白眼

・j-popなどの最近の歌は歌うのが難しい。

メロディーやリズムが複雑なのが原因だが歌詞にも問題がある。

メロディーの切れ目と歌詞の意味の切れ目が一致していない、歌詞を詰め込み過ぎている、そんな箇所のある歌が多い。

その結果、日本語の歌なのに初めて聞いた時には意味が分からないこともしばしばだ。

その点、唱歌など昔の歌は歌詞を非常に大切にした。

英語の強弱と違って日本語は高低アクセントだ。

だから旋律を作る際には歌詞の言葉のアクセントを意識した。

歌詞の言葉のアクセントに忠実であろうとして1番と2番で部分的に旋律を変える、そんな歌もあるくらいだ。

たとえば「からたちの花」(作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰)

同じ山田耕筰作曲の「夕焼け小焼けの赤とんぼ~」で始まる「赤とんぼ」の歌の話も有名だ。

「あかとんぼ」という言葉は今は「かと」の部分を高く発音するがこの曲が作られた昭和初期はメロディーどおりに「あ」を高く発音していたとのことである。


・長年にわたって誤解していたことがある。

ある時テレビをつけると「三白眼さんぱくがん」と呼ばれる目が話題に取り上げられていた。

その例としてある俳優の顔写真が画面に映し出され、解説者は三白眼は犯罪者に多く見られる特徴だと述べた。

例に挙げられた俳優も悪役を演じることが多く上まぶたが角張っていて目つきが鋭かった。

三白さんぱく」と「三角さんかく」は発音が似ている。

そのせいもあって私は「三白眼」というのはその俳優のように上まぶたに角があるために三角形に近い形の鋭い目だと思い込んでしまった。

後年になって三白眼の本当の意味を知り私の解釈は誤りだったことが分かった。

「三白眼」というのは文字通り目の三つの部分が白い目のことで、上まぶたの角は全く関係なかった。

目を鏡で見ると誰でも黒目の左右、二か所は白い。

では三白眼の残りの一か所はどこかと言えば黒目の上か下である。

このうち黒目の下の白目の部分が少し見えている下三白眼が多く上三白眼の人は少ない。

三白眼は40人に一人くらいの割合でごくまれに四白眼の人もいるという。

三白眼の人は目つきが悪いと言われることもある一方でミステリアスで魅力的だとも評される。

かのオードリーヘップバーンも三白眼である。

ところで三白眼が犯罪者に多く見られる特徴だというのはかつての学者の意見だが現在では否定されている。



●2020.8.18(火)ノルマ・白髪・ウォーキング・高齢者

・やらねばならない仕事がある場合、気持ち次第で仕事の意味合いが変わるのではないか。

普通は「責任」ととらえるだろうが消極的な人にとっては「ノルマ」となり、積極的に取り組む人は「やりがい」を覚えるだろう。

ちなみにノルマという言葉はロシア語。


・知人に連れられてある寿司屋に入った時の話である。

カウンター越しに大将の角刈り頭を見ると結構な年齢なのに黒々としている。

聞いてみるとやはり染めているとのことなのでこう言ってみた。

「女性じゃないんだし若作りせずに自然のままの白髪頭でいいんじゃない?」

返ってきた大将の言葉に感心した。

「うつむいて料理を盛り付けている時髪の毛が抜けて落ちる時があります。白髪だとそれに気づきにくいんです」


・ウォーキング中に小説の構想を練るとアイデアが浮かぶことがよくある。

現在も小説の構想を練っている最中なので昨日ウォーキングに出かけた。

この暑さなので散歩程度に歩くことにした。

すると頭の中に雑然とした思いが次から次に浮かんで消えていく。

エッセイを書くのならいいが小説には役立たないなと思った時に気づいた。

思考の内容は歩く速さと関連しているのだと。

誰よりも速く歩こうとしてスピードを上げると歩くこと自体に集中して他のことには殆ど頭が回らない。

反対に散歩程度にスピードを落とすと昨日のようにとりとめのないことばかり浮かんでくる。

精神をリラックスさせたいならそれが最適だが小説のストーリーの組み立てなど何らかの目的がある場合は少し歩みを速めるのがよさそうだ。


・「何歳からを高齢者と思うか」というアンケートを生命保険会社が行った。

結果は「70歳から」が圧倒的に多かった。

現在の日本はやはり高齢化社会なのだ。

私が小さい頃は60歳以上が老人という意識が強かったように覚えている。

テレビで毎週放送される『サザエさん』は最初は新聞の4コマ漫画だった。

それも何と終戦から1年も経たない1946年(昭和21年)4月に連載がスタートしている。

登場人物は年を取らない設定でサザエさんの父親磯野波平は54歳だ。

今の若い人たちは54歳の若さであの風貌はないだろうと思うのではなかろうか。

しかし私が小さい頃の感覚で言えば54歳はけっこうな年齢でそんなに違和感は覚えない。

ちなみにアナゴさんは27歳である。



●2020.8.22(土)音声合成・店名・彼我の開き

・最新のものはどうか知らないが私の車のカーナビは聞きづらい。

「300メートル・サキ・ミギホウコウ・デス」という具合に音が切れ切れになる。

場面場面で単語レベルの音声パーツをつなぎ合わせる仕組みなのだろう。

バスの停留所案内も似たようなものだ。

私が時々乗る路線に「園折そのおれ」というバス停がある。

「次は・その・おれ・です」という不自然なアナウンスが乗る度に耳にさわる。

ピンポーン!と降車ボタンを押して運転手さんの耳元ですらすらと「そのおれで降りるのはこの俺です」と言ってやりたい衝動に駆られる。


・「ナウい」は今ではダサい言葉に落ちぶれている。

流行りすたりは店の名前にもあるようだ。

地方に行けば「~堂」という看板をけっこう目にする。

「殿堂」という言葉があるように「堂」は大きく立派な建物という意味の漢字である。

現在の感覚からすれば「~堂」はダサいかもしれない。

しかし開店当時は「~屋」に比べるとゴージャスでナウい響きだったはずだ。

私が好きな響きの会社名は例えば「近江兄弟社おうみきょうだいしゃ」。

塗り薬の「メンソレータム」の販売で有名になった滋賀県の会社である。

ちなみに現在「メンソレータム」の販売権はロート製薬に移っており近江兄弟社は「メンターム」を販売している。


・オリンピックや世界選手権の映像を見るとアスリートの身体能力に感嘆する。

しかし実は大したことはないという見方もできる。

陸上競技を例にとってみよう。

一般人が100m走のタイムを測定する機会は殆どないから50m走で比較する。

50m走なら誰でも学校のスポーツテストでタイムを計るはずだからイメージ化しやすいだろう。

2018年の統計によると高校3年男子の平均は7秒16である。

どんなに速いアスリートでもこの半分のタイムで走ることはできまい。

つまり素質に恵まれた人間が努力しても一般人との身体能力の差は2倍にも開かないと言える。

それに対して知的能力はテストの点数の差のようにかなり大きな開きがある。

話は変わるが道を挟んで私の家の向かいの家が現在外壁の塗装工事に入っている。

外壁の塗り直しを行う目安は10年か15年に一度である。

私の家も向かいの家も同じ住宅団地だから築年数はともに約20年。

それなのに貧乏な私は一度も塗り直しができず向かいの家は二度目の塗装を行っている。

家々の懐具合も情けないほどに大きな開きがある。



●2020.8.27(木)秘すれば花

熱湯風呂に突き落とすバラエティー番組がかつてあった。

近ごろの類似の企画では無理やりバンジージャンプをさせたり激辛料理を食べさせたりするなどの演出がある。

いずれの企画も出演する芸人は被害者として大げさに嫌がってみせる。

それがリアクション芸だと知らずに(知っていても)面白がって同じことを現実の世界で行えばいじめや犯罪である。

実際にそんな事件が時々ニュースで取り上げられる。


バラエティー番組を中心にしてテレビは品がなくなった。

芸人に収入の額や嫌いな芸能人をストレートに尋ねたりもする。

昔なら困惑したりはぐらかしたりして答えなかった。

しかし週刊誌のヌード写真が奥ゆかしさを捨てて全裸に行き着いたように現在はどんな質問にもあけすけに答えるようになった。

正直なように見せて彼らなりに配慮を働かせて答えているのかもしれないがそれにしても嫌いな芸能人を口にするのは勇気がいると思う。

答え方次第では各方面に影響が出て芸能界で生きにくくなることだろう。

不要な波風を立てずに生きていくために肝要なのは「評価をしない」ということである。

職場であれ近所付き合いであれどんな話題も情報収集のつもりで聞き、賛成反対や好き嫌いの評価はなるべく控えたほうがよい。


今日はなぜこんな話題にしたのかと言えば今朝カラスの鳴き声を聞いたのがきっかけだ。

目覚めるとカラスが鳴いていた。

「ああカラスが鳴いている」

ただそう思っただけだったのだがそのことが嬉しかった。

「うるさいな」「今日は何か不吉なことが起こるのでは」

そんな思いは一切浮かばなかった。

起き抜けで単にぼーっとしていただけかもしれないが。

「プラス」と「マイナス」の間が「ゼロ」であるように「こうあらねばならない」と「こうあってはならない」のはざまに「安心立命」の境地があるのではないか、そんなことを考えたりもした。

起き抜けの頭で最後もイタチの最後っ屁みたいな締め方になった。



●2020.8.29(土)トイレットペーパーの補充・ヨーロッパの遺跡

・テレビのトーク番組で次のように述べた芸能人がいた。

家でトイレに入った時トイレットペーパーを自分が使っておしまいになることがよくある。

自分が補充しなければならないのが面倒で不満なあまり、前の家族は補充したくなくてあえて少し残したんじゃないかとまで思うと。

滑稽なようで切実なようで妙に印象に残る発言だった。

これが独身者ならそんな不満は感じないだろう。

この問題は結婚するのと独身を通すのとはどちらが幸せかということにも通じそうだ。

独身生活をプラスマイナスゼロと規定すると、結婚して家庭を持つことはプラスにもマイナスにもなりうる。

今回の話題に即して言えば自分が補充しなければならないことを不満に思うなら家庭を持ったことはマイナスだ。

それなら独身でいた方が気楽だったろう。

人が複数いれば「関係」が生じる。

家族内でも色んな問題が発生し時にぶつかり合う。

しかしその軋轢あつれきの中で成長することも可能だ。

切れたペーパーを自分が補充することで他の家族に補充させないですむと考えられるようになれば家庭を持ったかいがあるというものだ。

何事も「苦あれば楽あり」というところか。


・屋根や壁が復元されておらずほぼ支柱だけの神殿の遺跡がヨーロッパ各地に点在している。

ギリシャのパルテノン神殿は特に有名だが同じように紀元前に造られ世界遺産に登録されている神殿の遺跡は多い。

そういった世界遺産を紹介するテレビ番組を見ると心配になる。

人里離れた道路沿いに建っていて立ち入り禁止にもなっていない遺跡もあるからである。

世界遺産なのだから石柱のかけらの一つでも持ち帰ればいい記念になる。

そう考える旅行客もいるのではと心配になるのである。

ここまで考えてふと窓の外を見た。

長崎は三方を山に囲まれた狭い町である。

どこに住んでいても間近に山が見える。

それらの山は紀元前のはるか昔から存在しているだろう。

とすれば我が家の近辺の山の石ころもヨーロッパの遺跡の石も大して変わりはないと言える。

自然の石か人の手が加えられているかという違いはあるにしても。



●2020.9.3(木)女性の名前・六花・巻き寿司

・日本史の授業で遣隋使の小野妹子おののいもこを習った時誰しも最初は女性だと思ったのではなかろうか。

他に蘇我馬子そがのうまこという豪族もいたように古代においては「~子」という名前は男性にも見られた。

それが次第に奈良、平安と時代が下るにつれて女性の専売特許みたいになっていった。

それでも江戸時代までは「~子」を名乗れるのは上流階級の女性であった。

天皇家に生まれた女性(内親王ないしんのう)は現在にいたるまで「~子」を名乗っている。

明治以降は一般人も名乗るようになったが私が気になっている「~子」がある。

不自然と言おうか取って付けたようなと言おうか、そんなふうに響くのである。

あくまで私の個人的な感覚なので大目に見ていただきたいのだが「桜子さくらこ」「翠子みどりこ」「光子ひかるこ」「薫子かおるこ」など。

これらはそれぞれ「さくら」「みどり」「ひかる」「かおる」のほうがよほど自然ではないかと思ってしまう。

最近はキラキラネームが流行っているようだがそれに「~子」を付けたら案外似たような感じになって面白いかもしれない。


・上記に続き人名について。

ネットの投稿小説を読んでいたら登場人物の一人に「六花」という名前が付けられていた。

しゃれた名前だというくらいにしか思っていなかったが芸能人に同じ名前の女性が何人かいるのを知った。

ひょっとしたら普通名詞としての意味もあるのではないかと思って調べてみた。

すると雪のことを六花(りくか・りっか・ろっか)と言うと知って勉強になった。

雪の結晶が六角形だからそう呼ばれるとのことである。


・小学生が運動会で楽しみにしているのは何と言っても重箱に入った昼食だろう。

貧しかった我が家の重箱にはたいていおにぎりが詰められていた。

私の好きな順で言えば巻き寿司、いなり寿司、おにぎりである。

テレビを見ていたらある芸能人が巻き寿司の端っこが好きだと言っていた。

全く同感である。

具材のはみ出たお得感が何とも言えない。

巻き寿司1本は八つくらいに切り分ける。

通常の長さの三分の一くらいの巻き寿司を作ればどうだろう。

そうすれば三つに切り分ける短い1本ごとに二つの端っこができる。

ちなみに私は羊羹も端っこが好きだ。



●2020.9.5(土)栄冠は君に輝く・かるた

・今年は残念なことに中止になったが夏の甲子園大会の行進曲と言えば『栄冠は君に輝く』だ。

サブタイトルもそのものずばり「夏の全国高等学校野球選手権大会の歌」である。

古関裕而作曲のメロディーもいいが「雲は湧き 光あふれて…」で始まる詞もいい。

ただ、あくまで私の個人的な感想だが3番の「空を切る 球のいのちに かようもの 美しく匂える健康」が説明的な感じがして他の部分と齟齬をきたしているように思う。(「匂う」は本来は目で見た美しさを意味した。「生き生きとした美しさなどが溢れる」《広辞苑》)

作詞者加賀大介氏の生い立ちを調べてみると16歳の時に草野球中の怪我がもとで右足を切断する手術をしている。

野球少年だった氏の甲子園への道は絶たれてしまったのである。

そういう背景を知ればこの部分には氏自身の切実な思いがこめられているように思えてくる。

ともあれ健康は宝である。

年を取れば取るほどそう思う。

近所に高校があるが生徒たちの登下校の姿はまぶしい。

ニキビは青春のシンボルというのは確かである。

どんなにニキビに悩まされていようとも彼らは健康が匂っている。

それに対して我が身は惨憺たるありさまである。

朝起きる時からして「あいたた」と腰が痛む。

父親が簡単な健康体操の手順を紙に書いて壁に貼ったり、いろんな種類の健康茶を試していたがその気持ちが今ではよく分かる。

ポジティブな健康増進のためでなく故障しないためのメンテナンスだったのだろう。


・子供の頃正月によく「すごろく」をしたが「いろはかるた」もやった。

「い」は「犬も歩けば棒に当たる」、「ろ」は「論より証拠」、「は」は…。

「犬も歩けば棒に当たる」とはどんな意味かと言えばプラスとマイナスの二通りの意味がある。

今回はその件を掘り下げてみようと思ったのだが途中で面倒になった。

そもそも今どきの子供はトランプをすることはあってもいろはかるたをすることはあるまい、いやトランプもほとんどしないだろう。

トランプと言えばアメリカでトランプ大統領が誕生した時、花札みたいな変な名前だと思った人が多いのではなかろうか。

「かるた」は元々はポルトガル語である。

ポルトガル語のカルタ(carta)は英語で言えばカード(card)にあたる。

我々日本人が「トランプ」と呼んでいるゲームは英語では「カード」であり、「トランプ」という英語は「切り札」の意味だ。

それなのになぜ日本でカードゲームの意味になったかといういきさつはビンゴゲームと同じである。



●2020.9.7(月)地域猫・ロボット・アンチエイジング・バス停の母子

・今回の台風10号は大変な勢力だとの報道がしきりになされていた。

それに恐れをなして我が家でも初めて窓に養生テープを貼った。

昨日から今日に日付けが変わる頃から風が強くなりシャッター式雨戸のガタつく音でなかなか眠れなかった。

まだ吹き返しの風が吹いているがもう大丈夫だろう。

長崎に上陸する恐れもあったので昨夜は台風の進路予想を何度もチェックした。

チェックする度もっと左か右に大きくそれてほしいと願った。

そんな身勝手な私と対照的な優しさを持つ人の投稿記事をネットで読んだ。

台風10号による風雨が強まってきたので可哀そうに思って地域猫を家に入れてやったという記事だった。

優しさもさることながら「地域猫」という言葉があることを私は初めて知った。

地域猫の正確な定義はウイキペディア等を参照されたいが簡単に言えば飼い猫と野良猫の中間のような感じである。

私がふらふらと徘徊するようになったら「地域老人」とみなして世話をやいてもらえないだろうか。


・テレビ番組に時々登場するロボットを横から見るとだいたい次のようなフォルムだ。

背中はランドセルを背負っているように見え膝を少し曲げたような姿勢で立っている。

性能は日進月歩で向上しているのだろうが歩く姿はまだ動きがぎこちない。

やはり本物の人間にはかなわないな、そう思っていたのだがそのロボットの歩く姿は本物の人間である老人に似ていることに気が付いた。

前転をしたり障害物を飛び越えたりできる分、ロボットの方が老人より性能がいいかもしれない。


・アンチエイジングのサプリか何かのテレビCMでこういうナレーションが流れた。

「もうおばあちゃんとは呼ばせない」

年を取るのはそんなに忌避すべきことなのだろうか。


・コンビニの店頭で遠慮がちにパンを食べている若い女性がいた。

特にどうということのない光景だが心に1枚の写真として焼き付いた。

以前にそんなことを書いた記憶があるが最近また同じようなことがあった。

やはり車での通りすがりにちらっと見た光景である。

他に人はいないのどかなバス停に母子おやこ(と思われる)がいた。

長い丈のスカートの若い母親がバス停の標識の側に立ってスマホをいじっていた。

その足元に幼稚園児くらいの女の子がしゃがんでいる。

アリの行列でも見ているのか、女の子はじっと道路に視線を落としている。

ただそれだけなのだがその母子の構図を見て「ああ、いいなあ」と思ったことだった。



●2020.9.10(木)知識のつながり・食物連鎖・価値観の相克

・ルーマニアの首都ブカレストの街並みを紹介するテレビ番組を見た。

街角に一人の老人が立っていて自宅で取れたというニンニクを売っている。

ニンニクは薬にもなると言う老人にリポーターがどんな病気に効くのか尋ねると「高血圧とか」と答えた。

血圧の高い私は本当かどうか「ニンニク 高血圧」でネット検索をしてみた。

検索にかかったある医者のブログを読んでみると若干の効果はあるとのことだがこの医師が三重野慶という画家の絵に惚れ込んでいることにも興味をそそられた。

絵が好きな私はさっそくこの画家の絵をネット上で見てみた。

超写実主義とでも言えばいいのかまるで写真のような見事な人物画を描く画家だった。

知識はこうやって次々とつながっていくものだな。

そんな趣旨でこの文章を書き始めたのだが最後にブカレストはルーマニアの首都で間違いなかったかどうか広辞苑で「ルーマニア」をひいてみた。

すると「ルーマニア」という国名は「ローマ人の住む地」という意味だと知ってまた一つ知識が増えた。


・我が家の庭にはリビングから突き出す形でウッドデッキがしつらえてある。

天井にはプラスチック製の波板を張っている。

その半透明の天井に鳥と虫のシルエットが映った。

鳥は雀より大きいサイズだからツグミだろうか、虫の方は多分セミだ。

ツグミもセミも愛すべき鳥や昆虫であるが私は暫く見て目を背けた。

ツグミがセミをついばんでいるところだったのである。

残酷だと思う私の感傷とは無関係に小鳥や昆虫は自然界の食物連鎖の中で生きているのだ。


・性同一性障害の男性が意を決して父親にこれからは女性として生きていくと表明したが父親は納得できない、そんな内容のテレビ番組を見た。

男に生まれたからには男として生きろという父親と自分のジェンダー・アイデンティティに従い女として生きたいという子供。

両者ともに自分の価値観からすれば相手の考えは受け入れがたい。

自分が父親ならどうするだろうと考えているうちこう思った。

性同一性障害が特に難しい問題なのでなく正反対と言っていい価値観のぶつかり合いは日常的に起こっていると。

家庭でも学校でも職場でも社会でも。

例をいくつか挙げようとしてまた思った。

その例を考えること自体が非常に有意義であると。



●2020.9.17(木)ハラスメント・方言

・ハラスメントの一般的なイメージはどんなものだろう。

セクハラとパワハラがその代表格ではなかろうか。

テレビ番組でハラスメントの特集をやっていた。

モラハラまでは知っていたが他にも色々あるとのことだった。

中でも私が驚いたのは「ハラハラ」だ。

「ハラハラ」とは「ハラスメントハラスメント」の略である。

立場的に上の者が下の者に嫌がることをするのがハラスメントだと思っていたがハラハラは逆で部下が上司に行う。

上司の言うことなすことを「それはハラスメントです」と指弾するのである。

とんだ世の中になったもので上司はハラハラにイライラしどおしの毎日だろう。


・日本全国どこを旅しても言葉が通じないことはない。

それは明治期以降の標準語教育のおかげだろう。

逆に言えば江戸時代までの日本人はそれぞれの方言で考え語っていたのだ。

標準語がなかったのだから自分の土地の言葉を「方言」と認識もしていなかったろう。

明治維新から既に150数年、出版物もラジオ、テレビも殆どが標準語で書かれ話されている。

それなのに親しい仲での会話が方言でなされるというのは驚いていいことかもしれない。

歌謡曲の歌詞や語りに使われる方言は東北弁が多い。

寒いとか貧しいとかの地理的歴史的なマイナーイメージのせいだろうか。

大方の日本人は東北弁に哀愁や郷愁を感じるが現地の人にとっては有難迷惑かもしれない。

当たり前のことだが東北の人たちは東北弁で仕事の話もし冗談を言って笑い合ったりもしているのである。

私は九州に住んでいるが九州弁も地元の人間にしか伝わらない味がある。

ということは他の地方の人にどう響くか正確には知りようがないということでもあるが。

小学生の頃を思い出す。

学校から帰ると「母ちゃん腹へった。なんか?」が口癖だった。

なんかよ」と母が寂しそうに言う。

細かなことを言えば「なんかとよ」と一字入るとまたニュアンスが微妙に変わる。

そんな貧しかった頃の学校にいじめは蔓延してはいなかった。

今は大人の社会にもハラスメントという名のいじめがはびこっている。

「衣食足りて礼節を知る」というのは貧困から脱した状態での話であって飽食の時代には当てはまらないのだろう。

「日本人は親切だ」「日本は治安がいい」

外国人からのこんな日本評もいつまで続くことやら。



●2020.9.19(土)迷路・引力

・次から次にいろんなブームが生まれては消えていく。

タピオカブームは私が一度も食べないうちに終わりそうだ。

かつては迷路ブームというものもありあちこちに巨大迷路が作られた。

迷路は入口を入ると先がどうなっているのかワクワクして進む。

しかし時間が経つにつれてこれまでの道筋が間違っていなかったかどうか気になってくる。

そういった点は人生によく似ている。

若者と違って人生の道を長く歩いた老人はよく過去を振り返る。

否定したい過去は後悔を生み肯定できる過去は感謝を生む。


・私は今ぎっくり腰ぎみになっている。

ベッドから起き上がる時も一苦労だ。

地球の引力、重力がうらめしい。

ニュートンはリンゴの実が落ちるのを見て引力を発見したという。

この話を私は最初こう解釈していた。

「リンゴが落ちるのは地球に引きつけられるからだ」

しかしニュートンが発見したのは「万有引力」だ。

改めてニュートンはすごいと思う。

私の誤解のように地球が引っ張るからリンゴが落ちるというのは凡人も思いつく可能性がある。

しかし小さなリンゴの方も地球を引っ張っているという発想は非凡だ。

現実的には小さなリンゴの引力は無視できるにしても。

ともあれ私は地球に引っ張られて70キロ前後の体重がある。

筋肉の衰えに比例してこの体重が膝や腰にとって重い負担になっていく。

イメージ的には若者は洋室が老人は和室が似合う。

布団で寝起きし和室で宴会をやるのは老人に似合う図だろう。

ところが私の年老いた兄弟はみなベッドで寝起きし兄弟集まっての会食も椅子式になった。

全て膝と腰への負担が理由である。

浮力によってその負担から解放される風呂は極楽だ。



●2020.9.21(月)まぶた

老人どうしで老化を話題にすれば「俺も同じ」「私もそう」と話に花が咲く。

膝や腰の痛みはその代表例だが私が持ち出すまつげの話はあまり共感を得られない。

年を取るにつれて私はまつげが時々自然に抜けるようになった。

それはいいのだが困ったことに抜けたまつげは目の中に入ったり目の縁にくっついて眼球をチクチク刺激したりするのである。

この話をすると自分はそんなことはないという顔をされるのでレアな現象なのかもしれない。


ところで抜けたまつげがくっつく目の縁の正式な名称は何と言うのだろう。

調べてみると上の方が「上眼瞼じょうがんけん」、下の方が「下眼瞼かがんけん」という味もそっけもない名称だった。

それらは医学用語であり別名の方が親しみやすい。

「瞼」の訓読みが「まぶた」であることから推測できるように「上眼瞼」が「上まぶた」、「下眼瞼」が「下まぶた」である。


ここであまのじゃくの私は「下まぶた」を問題にしたい。

「~をの当たりにする」という慣用句があるように「目」は「め」以外に「ま」とも読む。

従って「まぶた」は目のふたという意味の言葉である。

眠くなると目の上の縁が垂れ下がってきて眼球を覆ってくれる。

しかし目の下の縁がせり上がって目の蓋をしてくれることはない。

だから上眼瞼を(上)まぶたと言うのは分かるが下眼瞼も(下)まぶたと呼ぶのはいかがなものか。


そんな偏屈な考えを今回提示するにあたって鏡で自分のまぶたをじっくり見たりいじったりしてみた。

すると本筋とは関係ないが衝撃的な発見があった。

私は子供の頃祖母の手の甲の皮膚をつまんで富士山を作って遊んだとかつて書いた。

老人のたるんだ皮膚をつまむと手を放しても暫くは元に戻らないのである。

今回自分のまぶたの皮膚を何気なくつまんでみた。

すると…



●2020.9.23(水)真逆・イージーリスニング・寝相

・有名タレントたちが街なかで気づかれないための工夫や苦労を面白おかしく語り合うTV番組を見てこんなにも真逆に変わるものかと思った。

デビュー当時、あるいは売れなかった期間の彼らは一日も早く有名になって注目され騒がれたかったはずだろうに。


・テレビの紀行番組にエーゲ海が映った時「エーゲ海の真珠」を思い出した。

私が若い頃は和洋を問わずいろんなジャンルの音楽が巷にあふれていた。

そんな中で「エーゲ海の真珠」のポールモーリア管弦楽団や「ムーンライトセレナーデ」のグレンミラーオーケストラなどが上品な洋楽を演奏していたことを懐かしく思い出した。


・ベッドでスマホを見ているうちに眠くなったのでひと眠りしようとして気づいた。

枕の横にスマホやメガネを置いて眠ることに何の不安も感じなくなっていると。

年を重ねるにつれて寝相はよくなるもののようだ。

もう寝ていて頭が枕から外れることがない。

若い頃は枕どころかベッドから落ちはしないかと気になっていた。

畳の上に布団を敷いていた昔は朝になると子供が寝かしつけた場所とは遠く離れたところで寝ているのを見て可愛く思ったものだ。

同じことを老人がやると寝ても徘徊するのかと眉をひそめられることだろう。

寝相を一種の行儀と考えると年を取るに従って行儀がよくなるのは喜ばしいことだ。

ところで寝相がよくなった私だが寝返りはけっこううつ。

かつての職場の若い女性の話だが一旦寝付くと朝までピクリとも動かないので死んでいるのではないかとよく家族に心配されたという。

それを聞いて私は何という潔さかと尊敬の念すら抱いた。

そう言えば私の妻も寝返りはあまりうたない。

女性は寝ている時も男より行儀がいいということならばそれもまた喜ばしい。



●2020.9.24(木)理解と共感

   学校遠望 丸山薫

学校をおえて歩いて来た十幾年

こうべをめぐらせば学校は思い出のはるかに

小さくメダルの浮彫のようにかがやいている

そこに教室の棟々が瓦をつらねている

ポプラは風に裏反って揺れている

先生はなにごとかを話しておられ

若い顔たちがいちようにそれに聴き入っている

とある窓辺で誰かがよそみして

あのときの僕のようにぼんやりこちらを眺めている

彼の瞳に 僕のいる所は映らないのだろうか

ああ 僕からはこんなにはっきり見えるのに


私はこの詩(原典の表記は旧仮名づかい)を読むと時間の不可逆性を感じる。

「よそみせずに授業に集中しろよ、後で後悔するぞ」

「自分にもあの生徒のような年頃の時があったのだなあ」

私がこの詩中の「僕」ならそんなことを思ったりしそうだ。

しかし生徒の方は私を見たとしても「自分も年を取ればあんなおじさんになるのかなあ」というような感慨を抱くことはないだろう。


時間の不可逆性は「後悔先に立たず」ということでもある。

親子関係にあてはめれば「親の心子知らず」というところか。

私も年を重ねてようやく親の心情に思いが及ぶようになった。

「自分の今の年頃の時、親はこうこういう気持ちでいたのではないか」

折に触れて思うがそれを話題にしようにも父と母は他界してもういない。


親にとって子供は幾つになっても気がかりなものである。

一方子供の方はそんな親心を頭では理解できても心で共感することは難しい。

二十歳をとっくに過ぎた人間が事件を起こしたというニュースを聞くたびにそのことを思う。

「こんなことをすれば親は悲しむだろう」

頭では分かってもその悲しみを実感するにはいたらないのだろう。

それができるならば絶対に犯行には及ぶまいと私は確信する。

特殊詐欺やあおり運転が後を絶たないのも相手の身になっての共感の難しさを示している。



●2020.9.26(土)ナウル共和国・太古のロマン

・「飛んで火に入る夏の虫」と言うように虫は焚火や外灯に向かって飛んで行く。

その理由はネット上にいくらでも解説があるがなぜ自殺行為にも似たそのような飛行をやめないのか。

それは人類が火や電気を発明したのは昆虫の長い歴史から見るとほんの最近のことなので危険と判断する学習がまだ遺伝子に組み込まれていないのだろう。

老人が特殊詐欺にひっかかるのも私は同じ理屈のように思う。

電話で話す相手は日常の生活圏の人に限られていたのがIT化の進展で世界中が情報網でつながってしまった。

それは老人の感覚からすればごく最近のことであり学習や対応が追いつかないのだろう。

かく言う私も世界中に張り巡らされたWWWという蜘蛛の巣にからめとられていることを実感した。

一昨日の夜遅く私のスマホが鳴ってすぐに切れた。

怪しい予感がしたので着信履歴に表示された電話番号をネットで検索した。

すると発信元はナウル共和国という聞いたこともない国だった。

地図帳で確認すると赤道直下の小さな島国である。

ワン切りだったということはこちらにかけ直させて高額の電話料金を請求するためだと思われる。


・科学的知識を持たなかった太古の人々は日食や月食に恐れおののいただろう。

日食や月食ほどでなくても周囲の景色が全て茜色に染まる夕焼けにも驚いたのではないだろうか。

さらに言えば昼が夜になり夜が昼になることも不思議だったのではないか。

「夜のとばりが下りる」というのは太古の人にとっては比喩でなく実感だったのではないかと私は想像する。

黒いカーテンが少しずつ天空の高みから下りてくる、それが夜になるということ。

空全体を覆った黒い布に小さなほころびが幾つもあってその穴から光がもれる、それが星。

私の憶測はまだ続く。

砂漠を行く旅人が毎夜寝転んで夜空を見上げる。

そして眠りにつくまで勝手気ままに想像の線で星々をつなぐ。

星座はそんなふうにして生み出されたのではなかろうか。

科学の発展はロマンという名の服を一枚一枚はぎ取って人間を裸にするようなものだ。

リアルではあっても貧弱な素っ裸を誰が見たいだろうか。



●2020.9.28(月)酒についてのあれこれ

私は長い間ほぼ毎日酒を飲んできた。

単純に考えても体によかろうはずはない。

血液検査の結果も年齢とともに思わしくなくなってきた。

そこで5年ほど前に月に10日くらいの休肝日を設けた。

それを今年の3月から倍の20日にした。

その経緯は次のとおりである。


血圧も高くなってきたし休肝日を倍に増やしてみよう。

しかし2日飲んで1日休む今のペースでもけっこう辛いのだから1日飲むと2日飲めないペースは耐えられそうにない。

そう思って悲観的になった時「多数決」という言葉が頭に浮かんだ。

習慣や惰性は多数決の原理に基づいているのではないかと考えたのである。

休肝日10日制は2:1で飲む日の方が多いから飲まない1日を作るのが辛かった。

休肝日20日制にすると2:1で飲まない2日の方がベースになるから飲める1日をそんなに待ち遠しく思うことはないのではないか。

実践してみるとはたしてそのとおりだった。


とは言っても長年の飲んべえの感覚は根強く残っている。

夕食のおかずが刺身や天ぷらだったりするとつい1杯やりたくなる。

しかしそこは理性でグッと押さえてご飯を頬張る。

酒のつまみでなく刺身定食、天ぷら定食だと思えばそれも豪勢ではないか。


ところで私は常々不思議に思っていることがある。

それはワサビ、辛子からし、一味、タバスコなどの香辛料についてである。

子供の頃は辛くて口にすることもできなかったのに今ではなければ物足りない。

香辛料には「毒を以て毒を制す」的な働きがあるのではなかろうか。

子供の体は健康そのものだから子供が生理的に受け付けないものは本質的には毒なのではないか。

しかし人間は大人になるにつれていろんな毒素が体内に蓄積していく。

香辛料はそれらの毒素と拮抗するパワーを持っているのではないかと思われる。


酒はどうなのだろう。

ビールなら1日あたりこれくらい、日本酒ならこれくらいという適量がある。

その範囲内での晩酌ならデータ上の根拠もあり「酒は百薬の長」ということになる。

ところが最近の研究ではその根拠も覆されて酒量はゼロが最も望ましいという流れになりつつあるようだ。

こうなれば酒は少量でも百薬の長どころか毒だということになってしまう。

私は余命もそんなに長くはないだろうから飲むときは飲む、飲まない時は飲まないでいく。

やじろべえがいい見本で世の中は何事もバランスがとれさえすればいい。


飲む時は適量を気にした行儀のいい飲み方では面白くない。

「酒」の語源は「栄える」だとする俗説もあるくらいだから飲むからにはパーッといきたいものだ。

ただし明るい酒でなければならない。

「酒は涙か溜息か 心の憂さの捨てどころ」では現実逃避のための覚せい剤になってしまう。


正体しょうたい」を辞書でひけば次のような意味がある。

①隠されているそのもの本来の姿。

②正常に意識が働いているときのようす。

これを酒に関連づければ次のようになる。

正体②を失くすほどに酔えば正体①が現れ出る。

これまでの人生を振り返れば私は数えきれないほどそんな飲み方をしてきた。

時間とお金の浪費だがそのおかげで正体①が少しは成長できたという自負がないこともない。


次に日本酒の飲み方に関してだが私の弟はグラスに氷を浮かべて飲む。

それも一理あると思う。

日本酒は長い歴史を持つ日本民族の酒である。

ということは日本人の大多数が畑や海に出て額に汗して働いていた、そんな時代にこそ日本酒は美味だったのではないか。

とすれば年じゅうエアコンのきいた室内で過ごす現代人には氷のひとかけらくらい入れる方がマッチするかもしれない。

ただし他人には勧めないほうがいいだろう。

八つぁん熊さんでも「酒を薄めて飲むほどおちぶれちゃいねぇや」と言うくらいだから。

しかし私はぜひともやってみたい。

私は酒を薄めて飲みたいほどにおちぶれている。



●2020.9.30(水)素うどん・悩ましさ・男のプライド

・子供の頃「素うどん」が読めなかった。

口頭では「スードン」と聞こえて丼物の一種のようにも思えた。

ともあれ素うどんの具は薄く切った数切れのかまぼこと刻みネギが定番だ。

それに加えて昔は少量のとろろ昆布が入っていることもあった。

子供の頃はその見た目も味も嫌いだったが前回の香辛料と同じく大人になってからは好きになった。

しかしあいにくなことに現在の素うどんにはもう入ってこない。


・希望があるから悩みが生まれ時には絶望したりもする。

何やらかっこよく響くが同じことを別の表現で言ってみよう。

欲があるからイライラが生じ時にはやけくそになったりもする。

日常の悩みごとの表現にはこちらがピッタリなのではないか。

もう少し旦那の給料が上がれば、もっとダイエットの効果が上がれば等々。

しかしそんな下世話な我欲でなくても気の持ちようは難しい。

生きる意味を求めること自体が達成できない時の辛さを内包しているのだ。

健康でさえあればいいと思ってもそれさえ全うできるとは限らない。


・ガンを飛ばしたと因縁をつけるチンピラから主君の恥をすすいだ赤穂浪士まで男はプライドを大事にする生き物だ。

女はプライドなど見向きもせず実利本位の王道を行く。

車の運転についても私と妻は異なる点が多い。

国道で渋滞にはまると私はすぐ脇道に入りたがるが妻はそのまま動かない。

国道沿いのコンビニを出て右折する場合道が混んでいると私は左折して右折しやすいところを探したりするが妻は車の切れ間をずっと待つ。

以上二つの例は臨機応変に運転する私の方が経済効率がよさそうだが実態は殆ど変わらず妻の方がうまくいくことも多い。

プライドが気になるというのは言い換えれば他人が気になるということだ。

他人のことが気になればついつい気弱になることも多い。

信号機のないところで右折しようとする時バックミラーで後続車が何台も見えると私は気が引けてやめようかと思ってしまう。

どうしても右折しなければならない時には後続車に早く知らせるためかなり手前からウインカーを出したりする。

妻はバックミラーを見ないか見ても気にしないと思う。



●2020.10.2(金)脳力の劣化・幼児の言葉・将棋の初心者

・老人は昔のことは覚えていても最近のことはすぐ忘れるものだ。

その事情は歌でも同じことで覚える労力からして昔とは大違いだ。

若い時は数度聴くだけで覚えたのに年を取ると数十回聴かないと覚えきれない。

それほどの苦労をして覚えても暫く歌わないでいるとあやふやになってしまう。

労せずして覚えた若い時の歌はずっと歌っていなくても完璧に歌えるというのに。


・言葉を覚えたての幼児はたいてい祖父母を「じいじ」「ばあば」と呼ぶようだ。

時には間違えて「じじい」「ばばあ」と呼ぶことはないのだろうか。

それを私はハラハラもし期待もして観察してきたがどこの幼児もそんなミスはおかさない。

なぜかと考えたが理由はたぶん簡単だ。

自分で口にすれば分かるが「じいじ」「ばあば」に比べて「じじい」「ばばあ」は発音するのが難しい。


・私は将棋に関しては駒の動かし方を知っている程度の初心者である。

対局の開始時点で自陣の最前列の歩の何枚かは無防備だ。

そこで①金や銀を上げて取られないように備える。

②並行して飛車や角の進む道を作って敵陣への攻撃も開始する。

それが一般的な始め方だろうが将棋の強い人なら次のようなことは可能だろうか。

敵への攻撃を放棄して①の状態のまま延々と敵の攻撃をただただ防ぎ続ける。

なぜこんなことを考えるのかと言えば私は局面が進むにつれて自陣が崩されてぐちゃぐちゃになっていくのが嫌なのである。

愛好家には申し訳ないがうがった見方をすると将棋も囲碁も相手の嫌がることをして勝利を収めようとする。

それはスポーツの世界も同じだ。

ただ個人競技はそうではない。

1964年の東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手などは「走る哲学者」と呼ばれた。

とは言うものの駅伝やマラソンも他のランナーとのけっこうな駆け引きがあると聞く。

将棋や囲碁であれスポーツであれ勝負事や競技であるからには技を競って勝ちか負けかを決するのは当然のことなのだろう。

そんな世界から逃れたければ釣り針を付けないで釣りを楽しむような境地を目指さなければなるまい。



●2020.10.4(日)W(ダブリュー)・誹謗中傷

・アルファベットの一つであるWについて豆知識を得た。

古い時代にはWという発音はあってもWという字がなかったそうだ。

そこでWの音を表すのにUを二つ並べてUUと表記した。

つまりダブルU、これがダブリューの語源ということだ。


・著名なミュージシャンがSNSに関して「多くの賛辞よりも一つのネガティブな書き込みに傷ついてしまう」旨を述べている。

最近ネット上での誹謗中傷がよく問題になるがSNSに限らず人は他人からの批判に傷つきやすい。

客観的な誹謗中傷については生活に不利益が生じるので争わねばならない。

例えば「あいつは賄賂を受け取った」「あいつは不正入学した」等。

主観的な事柄についてはどうだろうか。

「あいつは軽薄だ」「あいつは面白くない」等。

こういう場合は怒る側のプライドの問題だろう。

うがった見方をすれば言われた本人も全否定はできず気になるからではないか。

「軽薄」は見ようによっては「社交的」「明朗」ともとれるように主観的な評価はとかく物議をかもしがちだ。

客観的に当たっている事柄についてさえ人は腹を立てる。

「やいデブ!」

事実としては争いようがなくても「何でそんなことを言うの!」と矛先を変えて怒る。

ところが同じ中傷を受けて笑い飛ばす人もいる。

「そうだよ、あたしゃデブだよ。それがどうした、ガハハ」

笑い飛ばすだけでなく逆襲することさえできる。

「そんなにヒョロヒョロしてないであんたも太ってごらん」

主観的な評価に関してはなおさらである。

「そんなふうにしか人を見れないのは寂しいことですね」くらいの対応でいいのではないか。

唐突だがずっと昔に聞いた笑い話を思い出した。

小学生の男の子が太っている友達をからかいました。

「やいブタ!」

それを聞いた先生が男の子を叱りました。

「そんなことを言われたら誰だって傷つきます。人間にブタと言ってはいけません」

「じゃブタに人間って言うのはいいの?」

「え? それはまあ…」

すると男の子が友達に言いました。

「やい人間!」



●2020.10.8(木)ゴミ箱・SNS・和服

・ゴミ箱の蓋の裏側に貼るタイプの脱臭剤がある。

生ゴミの臭い消しのために妻がそれを貼り付けた。

その脱臭剤が生ゴミと同じくらい臭い。


・マンションの隣人と面識はないのにSNSでははるか遠くの人とつながっている。

これは現代の象徴ではなかろうか。

昔は転居すると「向こう三軒両隣り」に引っ越し蕎麦そばや蕎麦券を配って挨拶したと聞く。

私は住宅団地に住んでいるが数軒離れた家は名前さえ知らない。

「遠くの親戚よりも近くの他人」は死語になってしまった感がある。

SNSはもはや「遠くの親戚や近くの他人よりも遠くの他人」の世界か。


・近頃は丸洗いできる和服もあるようだが昔は洗い張りが一般的だった。

着物は1反の布地を大小8枚の長方形に裁って仕立てる。

洗い張りというのは着物の縫い糸を解いてこの8枚のパーツを洗い糊を付けて張り板に貼り付けることを言う。

張り板というのは2mくらいの縦長の板である。

乾くと再び元のように縫い合わせる。

洋服は人間の体型に合わせて作る。

従って型紙を見れば分かるとおり布地の切り方はカーブの多い曲線裁ちになる。

それに対して全てのパーツが直線裁ちの和服は人が着物に合わせて着るような感覚になる。

だから着こなすのが難しく「着付け」が商売になるくらいだ。

今回このようなことを記事にしようと思ったのは以下のようなことがきっかけである。

着物は全て長方形のパーツからできていると聞いた記憶があるが本当か。

和服の袖の端は丸くカーブしているではないか、情報を鵜呑みにしてはならない。

そんなきっかけから調べてみたのだが袖は布地の端を内側に折り込んで曲線になるように上手に縫うとのこと。

従ってやはり着物は縫い糸を解いて並べると1反の布地に戻るのである。

さて、機械化による大量生産が始まるまでは物資が少なく人々は物を大切にした。

服も例外でなく破れたりしても子供服や座布団に仕立てた。

さらに使い古すとその柔らかな肌触りを利用して赤ん坊のおむつにしたり小さく裂いてはたきにしたりしたものだった。

今の若い人は布のおむつやはたきは見たこともないのではなかろうか。



●2020.10.10(土)チューインガム・いつのまにか

・「あの人はスルメのようだ」

スルメは噛めば噛むほど味が出るというところからの評価だ。

逆の評価として「あの人はチューインガムのようだ」はどうだろう。

そんなことを考えていたらもう長いことチューインガムを噛んでいないことに気づいた。

調べてみるとチューインガムの売り上げのピークは2004年でそれ以降は下がり続けているようだ。

その原因についていくつかのネットの記事をアレンジして以下にまとめてみた。

駅の売店の風景を思い浮かべてほしい。

出勤だろうが旅行だろうがチューインガムを買うのはお腹が空いているからでなく口寂しい、極論すれば暇つぶしだろう。

そんな需要がなくなったのはスマホの普及によるという分析がある。

なるほど新聞や文庫本が売れなくなったのもそれで納得がいく。

駅の売店はモデルケースとして取り上げたが事情は街なかでも同じだろう。

街なかと言えばゴミ箱が減ったのも原因の一つだという。

噛んだ後の捨て場所がなく、かと言って包装紙にくるんでポケットに入れておきたくはない。

グミやタブレット菓子が売れていることはこの説の信ぴょう性を裏付ける。

ほかには若者の車離れとか職場での歯磨きの習慣の定着なども理由として挙げられている。

若い頃はチューインガムをよく買っていた団塊の世代も現在は噛まなくなっているようだ。

いろんな理由があるのだろうが糖尿病で甘いものがだめだからとか入れ歯にくっつくからだとか聞けば寂しい限りである。


・バレーボールをやっていた女性から次のような話を聞いた。

小学生の頃は男子部員よりもパスを遠くまで飛ばすことができたそうである。

小学生は女子が男子よりも体格や運動能力で勝っても不思議ではない。

その彼女が中学生になるといつの間にかパス力において男子にかなわなくなったという。

それも不思議なことではないが彼女の次の言葉が面白かった。

「男子に抜かれたのは正確にはいつなのか、その1日が知りたいんです」

私の場合はご飯を食べる速さがいつのまにか人に抜かれてしまった。

昔は速かった。

中学だったか高校だったか友達と競争して弁当を2分くらいで食べたりしていた。

その私が年とともに次第に遅くなった。

そのことを意識させられるのは会食の場だ。

私よりも先に食べ終える人の割合が少しずつ多くなってきた。

近ごろは卓上の皿に箸を伸ばす動きまでスローになっている。

これは晩年の父親と同じである。

歩き方まで父親に似てきて足の運びがすり足っぽくなってきた。

しかしこんな移ろいは嘆かわしいことではなく順調に老いている自然な姿だと捉えたい。

老人が若者より速くがつがつと食べ終わるほうがおかしいだろう。

歩き方にしてもすり足が省エネであり若い人はなぜわざわざ膝を上げて余分なエネルギーを…おっと、こんなことまで言い出すから年寄りは嫌われる。



●2020.10.12(月)チューインガムふたたび・内祝い

・前回チューインガムを噛む人間がかなり減っていることを記事にした。

そのことを如実に物語る事象があることに思い及んだので書いてみる。

それはガムの吐き捨てである。

昔は道路や歩道のあちこちに点々とこびりついていて嫌でも目に入った。

建物内部の廊下に吐き捨てられていることさえ珍しくなかった。

現在はどうかと言えば私はもう何年もガムの吐き捨てを目にした記憶がない。

私がボケて目に入らないだけなのか、今度道を歩く時に注意して見てみようと思う。


・先日身内の一人から出産の内祝いが届いた。

以前も話題にしたことがあったが冠婚葬祭や日常生活に関する老人の知識は昔は重宝された。

その価値がなくなった原因は生活様式の変化とインターネットの普及だろう。

薪の割り方や五右衛門風呂の沸かし方のコツは現代では不要な知恵である。

今回のような内祝いはどれくらいの金額のどんなものをいつ贈ればいいのか、それも老人に聞かずともネットで検索できる。

「おばあちゃんの知恵袋」の役割がごく近年開発されたインターネットテクノロジーに取って代わられたのは皮肉めいた話である。

私も内祝いについてネットで勉強してみた。

内祝いにはいろいろあるが家を建てた場合はお祝いを頂いた人たちを新居の披露宴に招いて贈り物に代えるのが基本だということであった。

この件に関して「披露宴」という言葉が結婚式の専売特許でないということもためになった。

ひらく」、「あらわす」の読みどおり「披露」は世間にオープンにするという意味だから当然と言えば当然なのだが。

話を戻すが情報というものはそれを知っている人間が少なければ少ないほど価値を持つ。

古来からの一子相伝の口伝や秘伝などはその典型だろう。

「企業秘密」なるものはその現代版で「特許」は漏れた場合の保険という位置づけになろうか。



●2020.10.14(水)IT音痴

テレビをつける時、リモコンのスイッチを押しながら腕を伸ばす人がいる。

リモコンから赤外線が飛ぶのだから腕を10センチそこら伸ばしても大した影響はないのにと思いながらそのアナログ的な感覚は私も共感できる。

と上から目線で言っているが私はIT音痴である。

そんな私が最近ふと気になったことがある。

例えばこの『ぽつりぽつりと』の原稿はノートパソコンに入力してサイトにアップする。

そしてちゃんとアップできたかどうかをスマホで確認することがある。

こういう場合のスマホとパソコンとのやり取りが気になったのである。


これまではテレビとリモコンの関係と似たようなものだろうという感じ方で特に意識したことはなかった。

そこで今回IT音痴なりに以下のように考えてみた。

パソコンからの情報はネット回線でプロバイダーのサーバーに行く。

パソコンとスマホはテレビとリモコンのように直でつながってはいない。

だからスマホで見る場合もネット回線でそのサーバーにアクセスする。

この両方のアクセスには通信衛星もからんでいるのではないか。

とすれば机に並べて置いてあるパソコンとスマホははるか上空の宇宙の人工衛星を介してやりとりをしているのだ。

以上の解釈は正しいだろうか。

正しいならば机に置かれたパソコンとスマホは会社内の人間関係に似ている。

平社員の席のすぐ近くに課長の席がある。

物理的には1メートルしか離れていなくても平社員がその席に座るまでには長い月日が必要なのである。


グリコのおまけみたいに私のIT音痴ぶりをもう一つ披露しよう。

会員登録者数の多いサイトについての素朴な疑問である。

記事だけならまだいいが画像や動画を膨大な数の会員が次から次へアップしてサーバーがよくダウンしないものだ。

私がそんな心配をするのはサイトのサーバーをパソコンの外付けハードディスクみたいなイメージでとらえているからだ。

恐らくその解釈自体が間違いで従って私の心配は杞憂なのだろう。

ここでギブアップしたくない私はない知恵を絞ってこう考えた。

サイトのサーバーはクラウドの概念で理解すべきなのではないか。

そう思いながら自分の言ったことの意味さえ分からない。



●2020.10.16(金)徘徊・駅名・食パン

・精神と肉体の関係を考えてみた。

中年になると精神はしっかりしているのに足腰をはじめとして肉体の衰えを感じ始める。

これはまずいと精神が対策に乗り出しウオーキングやジョギング等を肉体に命じる。

ここから先は私の思いつきに過ぎない珍説である。

老年になり精神と肉体の老化のバランスがとれているうちはいい。

しかし肉体の衰え以上に精神の老化が進行するケースが出てくる。

今度は中年期とは逆に肉体の出番である。

このままでは家に閉じこもりがちでボケる一方だ。

寝付いてしまえばボケるどころか無気力な生きた屍になってしまう。

そんな精神の危機を察知して健全な精神は健全な肉体に宿るとばかりに肉体が自主的に運動を開始する。

これが「徘徊」のメカニズムだというとらえ方はあんまりだろうか。


・和歌山県の県庁所在地は和歌山市だが愛知県は名古屋市である。

こんなふうに県名と県庁所在地名が一致している県とそうでない県がある。

一致しているのは明治維新に協力的だった忠勤藩で一致していないのは朝敵藩や態度がはっきりしなかった藩である。

廃藩置県に当たって明治政府がそのような色分けをしたという話は広く知られているが私は他にも気になることがある。

それは例えば福岡県の代表的な駅の名が博多駅であるということだ。

県名や県庁所在地名と駅名が一致していないケースはあまり話題にならないから余計に気になる。

とりあえず私の住む長崎は長崎県長崎市長崎駅とスッキリしている。


・わずかな好みの違いが夫婦間で大きな問題になることがある。

その例としてクーラーや風呂の温度、テレビの音量を以前記事にした。

我が家では食パンも好みが異なる。

妻は5枚切り、私は6枚切りを好む。

塗るマーガリンの量と食パンとのバランスや歯ごたえ、そういった点から5枚切りは私には厚すぎる。

ただしこの問題の解決は簡単で別々に買えばすむことだ。

ついでに言えばサンドイッチ用の10枚切りの食パンもいい。

固めに焼いてバターを塗り砂糖をまぶせば子供の頃に食べていたラスクを思い出す。



●2020.10.18(日)頭蓋骨・腕時計・頭と人

・頭蓋骨に粘土で肉付けして生前の顔を復元する。

そんな作業をする場面がサスペンスドラマに出てくる。

復顔という技術らしいがその逆をやっても面白い。

例えば目の縁を指でなぞると眼球が収まっている眼窩がんかの輪郭が分かる。

そんなふうに顔のあちこちに指を強めに押し当てていけば自分の頭蓋骨の形状がけっこう細かく分かる。


・カラーボックスの上にいつも置いている腕時計は寂しげに見える。

腕にはめることが殆どなくなったせいだろう。

外出すること自体がそんなに多くないしスマホでも時間は分かる。

思えば現役時代は毎日かかさず身に付けていたものだ。

大げさな言い方をすれば伴侶のような存在だった。

高級腕時計を収集する人も見栄や投資目的だけで集めているわけではないのかもしれない。


・親は子供が頭のいい人間に育ってほしいと願う。

うまく行けば一流大学、一流企業、豊かな暮らしという一連の流れに乗れそうだ。

ところで「頭がいい」と対になる「人がいい」、こちらは人気が薄いようだ。

いい人になっても豊かな暮らしができる保証はない。

いい人になろうという意欲に功利的な打算の入り込む余地はない。

人間としての純粋な向上心の発露だろう。

来し方を振り返ると私は人間としてまともに生きて来たつもりだ。

しかしいい人であったとはとても言えない。

人に後ろ指をさされずまっとうに生きる。

それはいい人へのスタート地点でしかなかったことにやっと気付いたレベルである。

さて、頭の良し悪しと人の良し悪しを組み合わせてみよう。

「人がよくて頭もいい」

「頭はよいが人が悪い」

「人はよいが頭が悪い」

「頭が悪くて人も悪い」

浮世の舞台では2番目と3番目のキャラクターが主にせめぎ合っている。



●2020.10.20(火)名言・恋愛歌

・「この世に起こることは全て必然で必要、そしてベストのタイミングで起こる」

松下幸之助のこの言葉を聞いて人はどんな感想を持つだろうか。

私のように感傷や理屈をごちゃまぜにして適当なことを言う人間ではない。

「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助が語ったということに注目すべきだ。

現実的にはとてもそんなふうに思えない。

そう否定するよりも事が起こるたびに「これは必然、必要、ベストだ」と思う方が「現実的」にもよりよい対処ができるのではないか。

自分にとって望ましくないことが起こった場合も落ち込まずに済み、力さえ湧いてきそうだ。


・カラオケで歌いたい歌をピックアップしてみて気付いた。

全部と言っていいほど恋愛の歌なのである。

これは私個人の好みに限るまいと思って調べてみると案の定だった。

カラオケで最近よく歌われている歌ベスト10はアニメの主題歌1曲を除いて全て恋愛の歌だった。

ついでに『アルファポリス』小説部門84313作品のランキングを見てみよう。(2020.10.20現在)

①ファンタジー 24478作品

②恋愛 22482作品

③BL 7937作品

④キャラ文芸・ライト文芸 3713作品

⑤青春 3680作品

⑥ホラー 3040作品

⑦時代・現代文学・エッセイ 2953作品

⑧ミステリー 2032作品

⑨児童書・絵本 1490作品

これはジャンル別のランキングであり内容的には「BL」はもちろん「ファンタジー」や「青春」の多くも恋愛をテーマにしていると思われる。

現代は恋愛が歌の世界も小説の世界も席巻しているのだ。

人間の三大本能のうちやっかいな「食欲」と「性欲」を比べてみよう。

飢餓状態にあっては「食欲」が「性欲」に優先する。

まず人は働いて食べて生きなければならない、恋愛はその後の話である。

日本が経済的に豊かになる昭和40年代以前は恋愛以外の歌も多かった。

それらの歌は人が働いて生きていくことにまつわる事情や困難を歌っていた。

高度経済成長期以降はそういうテーマは影を潜め恋愛一色の感を呈している。

食欲が満たされると性欲が頭をもたげてくるようなものである。

人間は生物学上の「ヒト」として子孫を残さねばならない。

恋愛はそのための逃れられない本能に基づいている。

恋愛の歌に食傷したなら性欲とは無縁の世界に遊べばいい。

唱歌や童謡がそれである。



●2020.10.22(木)チャーハン・キンモクセイ・歌詞

・テレビのバラエティー番組である芸人が変わったチャーハンの作り方を公開した。

市販のカップ麺を使って簡単にでき味も最高だと言う。

自信満々なだけあって試食した他の出演者も絶賛した。

その作り方がユーチューブでアップされているので私も先日作ってみた。

カップ麺は本人によれば色々試したあげく「緑のた〇き」が最適とのこと。

まず麺と具の天ぷらをジップロックに入れてある程度細かく砕きカップに戻して水でふやけさせる。

その間フライパンで卵だけ使ってご飯を炒め始める。

そこへふやけた麺と具、さらに添付の粉末スープも投入して炒めて終了。

食べてみると確かに美味しくはあった。

ただものぐさな私にはこの程度のレシピでも面倒くさい。

そこで私は翌日超簡単なチャーハンにチャレンジした。

卵を割って入れるのさえ面倒だ。

ご飯だけでと思ったが高菜の漬物があったのでそれだけ使った。

麺つゆを適当にかけまわしながらご飯と高菜を炒めて完成。

これでも十分に美味だ。

物足りなければ振りかけをかけたりポン酢を垂らしたりすれば味がアップする。


・我が家の庭にキンモクセイが1本植えてある。

その「金木セイ」の「セイ」に当てる漢字がテレビでクイズになっていた。

きん(ゴールド)は大げさにしてもあの美しいオレンジ色の小さな花の形、それにロマンチックな香りもあいまって「金木星」だろうと想像した。

ところが正解は動物のサイの字を当てて「金木犀」と書くのだった。

樹皮がゴツゴツしていて犀の皮膚のようだからという興ざめな命名だった。


・歌の歌詞について次のような分析をしてみた。

歌詞の主人公が平凡な人間の場合、背伸びしていっぱしの何者かになろうとする、そんな内容の歌詞が多い。

その一方繊細すぎて自分の感受性に違和感を抱く人間の場合は凡庸に向かおうとする内容の歌詞が多い。

この傾向は歌を聴く人間の側にも当てはまるのではないか。

バランスとか中庸とかいうのは安心立命の別名なのだろう。



●2020.10.30(金)体温計

最近の体温計はデジタル式だが以前のアナログ式のものは目盛りが打ってあった。

極細の管の中の銀色の液体は水銀で、使った後は水銀柱を下げるために強く振らねばならなかった。

水銀は有毒ということでその後赤い液体に変わったがあれは灯油を赤く着色したものだ。

水銀でも灯油でもいいが棒状の液体の目盛りの上限は42度だ。

その理由は体温がそれ以上にはならないからである。

人間の体は水分を除けばほぼタンパク質でできているが42度を超えるとタンパク質が破壊されるため死んでしまう。


以上の知識は前から知ってはいたのだが体温が上がって死ぬというのを体が固まるようなイメージでこれまで捉えていた。

ネットで調べてみても人体は42度を超えるとゆで卵のようにタンパク質が凝固するから死ぬというような説明が結構幅を利かせている。

しかし真夏の車のボンネットに卵を割って落としてもそう簡単には目玉焼きにならない。

ということは42度くらいで人体のタンパク質が凝固し始めるはずはない。

もしそうなら42度の風呂に入るのは自殺行為ではないか。


改めて調べてみるとどうも「酵素」がキーワードのようだ。

酵素と聞くと私は発酵食品のイメージしか湧かないが人体にも酵素があり生命の維持のためのいろんな化学反応をつかさどっているという。

人体内の酵素がうまく働く37度が人間の平熱であるというのも納得の理屈だ。

酵素も主成分はタンパク質であり42度を超えるとこの酵素の働きが失われるから死に至るのである。


生命維持に不可欠なこの酵素の最適な温度は生物によって異なりそれが体温の違いにもなっている。

釣った魚をリリースして生かしてやりたければ素手で握ってはいけない。

人間の体温で魚の酵素が破壊され熱死させてしまうことになる。

その逆が体温の高い鳥類で、弱った雀を抱いてやるのは凍死させるようなものだ。


話は変わるが目玉焼きの話題を出したので卵を食べたくなって先ほど温玉丼を作った。

温泉卵の作り方はネット記事によると以下のとおり。

鍋で水を沸騰させ火を止めて卵を入れ蓋をして放置する。

時間は卵2個なら10~12分。

この時卵のとがっていないほうに爪楊枝や包丁の角でちょっと穴を開ける。

これは殻と白身の癒着を防ぐためで殻を割る前に5秒ほど強く振れば更にいいとのこと。



●2020.11.1(日)冬や夏の思い出・僥倖

・秋も深まり冬の到来が予感される気候になった。

ふと子供の頃の冬を思い出した。

道の水たまりに張った氷を踏み割りながら登校したものだった。

お寺の近くに住んでいた時は墓場も遊び場にした。

墓の水鉢の表面が薄く凍っているのを取り出して割って遊んだ。

罰が当たったのか墓場で転んで肘を脱臼したこともある。

そんな事故も含めて子供の頃が懐かしく思い出される。

夏休みは虫取り網を持って走り回った。

皆が狙うカブトムシやクワガタよりも私は玉虫が好きだった。

舗装道路を雨上がりの朝に歩けばくぼみが虹色に光っていることがある。

アスファルトの油分のせいだろうが玉虫やシャボン玉のように綺麗だった。

セミはアブラゼミが数も多く捕りやすかったが蛾のように思えて好きではなかった。

一番人気は透き通った羽が綺麗で形も大きいクマゼミだった。

方言でジャガラと呼んでいたがこのセミが関東以西にしか生息しないことは大人になってから知った。

冬休みも夏休みもエアコンのきいた部屋でゲームをする現代の子供よりも冬は凍え夏は汗をかこうとも戸外を遊び回った私たちの方が豊かな時間を過ごしていたように思う。


・「人を恨むな、許せ」とよく言われる。

それを一歩進めた「自分を許せ」という言葉を聞いた時には新鮮な感動を覚えたものだ。

しかし「許す」という発想は許す資格が自分にはあるという一種の上から目線を内包しているのではないか。

では自分の身辺に起きる出来事をどう捉えたらよいのか。

全ての出来事に感謝できるようになりたいものだが至難の業である。

せめては何が起こっても淡々と受け止めるくらいにはなりたいものだ。

それが仙人めいて浮世離れし過ぎるきらいがあるなら物事の明るい面に目を向けよう。

トラウマというほどではないにしろ取り返しのつかない過去を辛く思い出す折々が誰しもあるだろう。

私も公私ともに悔やまれる失敗を数多く重ねてきた。

しかしそれらの失敗以外の多くの日々は何とか無事に過ごせて今日まで来た。

そちらの事実に目を向けてありがたく思う方が精神衛生上はよい。

殺人をはじめとしてやるせない事件が毎日のように報道される。

それらの事件の加害者や被害者が自分の身内でないことだけでも僥倖と思いたい。



●2020.11.3(火)オリーブオイル・緊張と弛緩・ピッタリ

・オリーブオイルというものはハイカラと言おうかオシャレと言おうか、とにかく自分には縁が薄いもののような気がしている。

事実、これまでオリーブオイルを料理に使ったことは一度もない。

そこで今回チャーハンに利用してみようと思った。

ところがオリーブオイルは炒め物に使うものではないと家人は言う。

そんなことはあるまい、それならイタリア人はどうするのだ。

調べてみるとオリーブオイルには加熱用と非加熱用のものがあるらしい。

我が家にあるもののラベルを見るとそんな区別についての表示はないから調理開始。

フライパンに大さじ1杯分くらいの量を投入。

具はまたしても残り物の高菜の漬物。

今回は奮発して卵2個も使用。

味付けは例のごとく麺つゆをかけ回すだけ。

出来上がったので食べてみると普通に旨かった。

肝心のオリーブオイルについては特に言うことはない。

と言うか、私はオリーブオイルの味も香りも知らないのだった。


・「シェフの~」「~風~の~添え」などというたいそうな名前のついた高級料理はたまに食べる分にはいいが普段食べるには洋食屋の定食のほうがいい。

カレーも同じでスパイスを何種類も使った独特の味のものばかり食べていると市販のルーを使った母親のカレーが恋しくなるだろう。

人生のあり方自体がそうであるようにたいていの物事は緊張と弛緩のバランスが肝要だ。


・我が家の洗面所は引き戸でわりと滑りがいい。

閉める時に途中で手を放すのだが力加減が難しい。

閉まりきらなかったり逆に勢い余って音を立てたりすることも多い。

だからこそ寸分の狂いなくぴったりと閉まった時は気持ちがよい。

その快感を求めて子供の頃教室の戸を何度も開け閉めしていたことを懐かしく思い出す。

最近は車を運転する時に似たようなことを実験している。

赤信号で停車する時に同乗者が微動だにしないようにブレーキを踏みたい。

完璧を期そうとすると結構難しいがその分面白くもある。

と書きながらふとこう思った。

私が面白がるこの停車法は各界の要人を乗せる運転手にとっては緊張を伴う仕事なのだろう。



●2020.11.5(木)腰回り・味覚

・私は子供の頃漫画家になりたかった。

Gペンとかケント紙とかいう言葉が懐かしく思い出される。

漫画で難しいのは人の動きを描くことである。

関節が自由に動く木製のデッサン人形で練習すればよかったが当時はそんなものの存在さえ知らなかった。

テレビのサスペンスドラマで白骨化した人間の骨を並べる場面が時々ある。

それを見て腰回りの骨格はレゴブロックを使えば単純化できると思いついた。

上下に穴が三つずつあるレゴブロックを骨盤だとしよう。

下の三つの穴の両端に丸い棒を差し込めばそれが2本の脚。

上の真ん中の穴に棒を上向きに立てれば背骨ということになる。

だから若い女性のようにウエストが深くくびれるのが自然な肉付きである。

サッカー選手の太ももが若い女性のウエストと変わらないというのも不思議ではない。

ところが年を取ればどうなるか。

レゴブロックに背骨の棒を2本立てたかのように腋から腰までまっすぐなライン。

くびれがないからズボンのベルトは腰では止まらない。

後ろのお尻のでっぱりで滑り落ちるのを食い止めるというていたらくだ。


・私は物を食べて美味しさのあまり絶句したことが一度だけある。

何年も前のことだが長崎市内のある店でハヤシライスを食べた時のことだ。

それでもスプーンを持つ手が一瞬止まり、おっ!と思った程度の反応だった。

だからタレントが何か食べるたびに目を丸くしたり細めたりして美味しい!と言うのは信用していない。

あるコンビニチェーンのシュークリームが美味しいかどうかを一流パティシエたちが〇×で判定するテレビ番組を先日見た。

すると辛口のパティシエたちが全員絶賛した。

シュークリーム好きの私は早速買いに行った。

2、3軒回ったが売り切れ、日を置いて行っても売り切れでテレビの影響を実感した。

昨日コンビニに寄った時に思い出してそのシュークリームを買った。

食べてみて意外な気がした。

美味しくはあったがスーパーで何個かパックになっているものと大差ないように思えた。

タレントの営業用パフォーマンスでなく一流パティシエたちが全員〇を出したシュークリームである。

どういうことなのだろう。

絶対音感のある人は一般人が気にならない音も不快に感じたりするという。

味覚も同じで一流パティシエたちが感じる美味しさを私が感じきれなくなっているのかもしれない。

そう言えば耳の方もモスキート音が聞こえなくなって久しい。



●2020.11.7(土)比較・かたい

・「病気をしてみて健康が何より大事だと思った」

そんな話をよく聞くが果たしてそうだろうか、そう思ってこんな選択肢を設定してみた。

「健康に不安はないがお金に不自由している」

「お金に不自由はないが健康に不安がある」

自分ならどちらを選ぶだろうかと考えたがバカバカしくなってきた。

これとよく似た選択肢がある。

「仕事と私、どっちが大事なの?」

テレビドラマで妻が夫にもらしがちなセリフだ。

この「仕事と私」同様に「健康とお金」も同じはかりに載せるべきではない。

ちなみに私は「健康とお金」両方とも不安を抱えている。


・靴下を履く時、足の爪を切る時、車をバックさせようと体をねじって後ろを向く時、そういった時に共通して感じることは何か。

「自分の体が硬くなってしまったこと」と答える若者は皆無だろう。

子供の頃の夏休みに眠い目をこすってラジオ体操に行っていたことを思い出す。

行く先の広場や運動場には世話役の老人が待ち構えていてカードにハンコを押してくれた。

今にして思えばラジオ体操は日々体が硬くなるその世話役の老人にこそ必要なのではなかったか。

ラジオ体操は柔軟性の維持に役立ちきちんとやれば結構な運動量だと言われる。

そこでさきほど部屋の中でやってみたのだが最初の方しか覚えていなかった。

ここからは全く関係ない話だが小学校での地震発生時の訓練を思い描いてみよう。

子供たちは机の下にもぐりこんで手足を縮め首をすくめるだろう。

ところでその体勢のまま肋骨が扁平に肥大化したらどうなるか。

ファンタジックな想像だが亀そっくりになるだろう。

何が言いたいのかといえば亀の甲羅は肋骨が変形したものなのだ。

と物知り顔に書いたがネットからの受け売りである。

今回「体がかたい」はどんな漢字を使うのかをネットで調べていたらたまたま亀の甲羅の記事が目に入った次第である。

その記事には写真も掲載されていたが確かに甲羅の内側に背骨と肋骨の名残がくっきりと見て取れた。



●2020.11.12(木)言葉のニュアンス・ラングドシャ

・日常的な感覚からすれば違和感を覚える言葉があれこれある。

医療現場では発症から24時間以内の死は「突然死」と呼ばれる。

「若年性認知症」は65歳未満ということだから64歳でも「若年」。

冬山に行かなくても体温が35度以下の低体温症によって死ねば「凍死」である。

警察関係の言葉では「ひき逃げ」が気になる。

く」という言葉はタイヤが体の上を通過するニュアンスがあるが通行人をかすったり跳ね飛ばしたりしても「ひき逃げ」である。

それどころか他車にぶつけてその運転手を負傷させた場合も逃げれば「ひき逃げ」である。

以上は医療や交通事故に関する専門用語みたいなものだが日常語でも言葉のニュアンスや響きによって誤解されやすい言葉は多い。

私は火事のニュースでよく使われる「焼け出される」という言葉の意味を長い間誤解していた。

たとえば「火事でこの家に住む3人が焼け出されました」、これを私は3人が焼死体となって運び出されたという意味に受け取っていた。

それは私個人の無知に過ぎないが「確信犯」や「憮然ぶぜん」という言葉の誤用はクイズ番組でよく出題される。

言葉と言うものは誤用や慣用が多数派になれば「勝てば官軍」でそちらが正統派になってしまう。

「情緒」「消耗」などは「じょうちょ」「しょうもう」以外の読みがあることさえ意識にのぼらなくなっている。

ところで映画館や飲食店の「レディースデー」は腰の曲がった婆さんでも…おっとこの話題はモラハラになりそうだ。


・ビスケットに似た菓子でラングドシャというものがあるが私は菓子そのものよりもラングドシャという言葉の方が気になっていた。

そこへもってきて他の菓子の説明に「ラングドシャタイプの~」という表現が使われているのを知ってますます気になった。

調べてみると「ラング・ド・シャ」(langue de chat)というフランス語は直訳すれば「猫の舌」という意味のようだ。

ラングドシャという菓子は現在はいろんな形があるようだが本来は薄い楕円形のものだったらしい。

その形とそして表面がざらざらしている点があいまって「猫の舌」という名前になったという。

「ラング・ド・シャ」(langue de chat)を英語に対応させれば「langue」(ラング)が「tongue」(タング)、「chat」(シャ)が「cat」(キャット)に当たり、「de」は「~の」という意味で英語なら「of」というところだろうか。

ついでに言えば「牛タン」の「タン」は「タング」からきているのは有名だが焼き鳥の「ハツ」が「heart」(心臓)からきていることは案外知られていない。



●2020.11.15(日)墓参り・電報

・今年に入って墓の敷地内にプラスチック製の道具箱を置いた。

中に入れたものは線香、ロウソク、ライターなどである。

墓参りに行くたびにそれらを持参しなくてすむようにとの考えからだ。

ところが梅雨が明けて行ってみると箱の中に水が少したまっていて線香なども濡れていた。

きちんと蓋も閉まっているのに不思議なことだった。

それで数日前その手当てに墓に行ってきた。

墓に行くたびに父母の冥福だけでなく我が家族の安寧も祈る。

あまりお願い事ばかりしてもなあ、そんな思いがきざした。

そこで今回は何も願わず何も思わず手を合わせて暫くただ秋風に吹かれていた。

そんな自分を少し風流だとも思いながら。


・一人一人がスマホを持つ現代、祝電や弔電以外に電報を打つ人はいるのだろうか。

調べた限りでは慶弔電報以外の一般電報のピークは昭和38年度の8130万通。

それに対して平成23年度は35万通である。

スマホの加速度的な普及からして現在はもっと減っていることだろう。

電報に関して次の電文はあまりにも有名だ。

「カネオクレタノム」

「金送れ。頼む」と息子が電報で窮状を訴えたのだ。

ところが受け取った親はこう解釈した。

「金をくれた。飲む」

いい上司に恵まれたか何かして息子は楽しく日を送っているようだ。

そんなふうに思って喜んだという。

面白いこともあるものだと思っていたがこれは作り話に違いない。

自分が電報をどんな時に打っていたかに思いをはせてそう確信した。

料金が高いこともあり電報は緊急事態が生じた時にのみ利用するものである。

「金をもらったからこれから飲みに出かける」

そんなことをわざわざ電報で知らせることは現実にはあるまい。

従って上記の電文を親が「金をくれた。飲む」と解することもあり得ない話だ。



●2020.11.18(水)千日回峰雑感

最近見たドラマの中の本筋とは関係ないエピソードが妙に心に残っている。

ある男がネットに「悩み相談受け付けます」という広告を出した。

すると料金が安いこともあって何名かが連絡をしてきた。

男は依頼者と喫茶店で会って悩みを聞くのだが適切なアドバイスができないどころかつまらないダジャレを言うばかり。

客は当然呆れたり怒ったりして帰る。

ところが後日それらの客は肩の力が抜けて気が楽になったと感謝を口にするのだ。


このドラマを見て千日回峰行を成し遂げたお坊さんの話を思い出した。

そのお坊さんも人々の悩みの相談に乗っていた。

「実は会社の上司から肩を叩かれたんです」

ある相談者が暗い顔でそう打ち明けた。

「肩叩き」とはもちろん退職勧奨のことだ。

だが千日回峰行で何年間も山にいたお坊さんはそんな世俗の隠語は知らない。

「ありがたいではありませんか。本来なら部下のあなたが上司の肩を叩いてあげるべきところです」

頓珍漢な応対だが相談者は案外上記のドラマと同じく自分の悩みが小さく思えて肩が軽くなったかもしれない。


千日回峰行に関してはもっと印象に残っていることがある。

数年間にわたる行の途中に「堂入り」という壮絶なプログラムが組み込まれている。

9日間にわたって(実質は7日半)断食し眠りもせずにお堂に籠って経を唱え続けるのである。

その間毎日一度堂内の不動明王に供える水を汲みに外に出る。

その水を汲む時のことだったか堂入りを終えた後のことだったかは忘れたがお坊さんが次のようなことを回想して語っていた。

水の入った桶に手を浸したところ皮膚が水を吸い込む感触があったと。

食べ物だけでなく水まで絶つのは1週間が限度と言われるから私はさもあらんと納得し感動した。


それと関連付けるのは失礼な話だが禁煙に失敗した時のことを思い出した。

誘惑に負けるのは情けないがしかし久しぶりに吸うタバコはうまいものである。

私はタバコはもう吸っていないが晩酌は続けているのでこんな考えも浮かんだ。

禁煙と同じように晩酌も次に飲むまでの間を空ければ空けるほど酒が旨く感じられるのではなかろうか。

体と家計のためだけでなく美味しく飲めるとなれば一石三鳥である。

若い頃は毎日タバコを吸いほぼ毎日酒も飲んでいた。

今にして思えばそれは半ば惰性による習慣であり1服、1杯を感動して味わっていたわけではなかった。



●2020.11.22(日)燭光・重力

・今日「クイーンズ駅伝」が宮城県で開催された。

最初からテレビ中継を見ていたがスタート地点のすぐ近くに「ホテル壮観」という看板が映っていた。

ずいぶん大仰な名前だ、私なら謙虚な名前にしたい。

例えば「ホテル燭光しょっこう」などはどうだろうと考えた。

というのは「二燭光にしょっこう」という言葉を久しぶりに思い出したからである。

私が子供の頃、親が時々「にしょっこうが切れた」と言っていた。

「にしょっこう」がトイレの小さな裸電球のことだとは分かっていたがどんな漢字を書くのかは知らなかった。

「燭光」とは「ともしび・ともしびの光」という意味だが光度の単位でもある。

1燭光は文字どおり1本の蝋燭ろうそくの光の明るさで科学的には1.0067カンデラだ。

昔のトイレの2燭光の電球はとにかく暗かったが今となっては懐かしい。


・壁に向かって逆立ちをしたままでいると頭に血が上ってすぐに耐え難くなる。

だから昔はキリシタンの弾圧に逆さづりが拷問として行われた。

その際すぐに死んでしまわないように耳に小さな穴を空けて少しずつ出血させるようにしたという。

逆立ちも逆さづりも辛いのは地球の重力のせいである。

我々は普段立って動き回っている分には特に重力を意識することはない。

しかしその際も地球の重力は働いており普通に立っているだけでも体に負担がかかっている。

そのため先生が生徒を廊下に立たせることは体罰になる。

年を取れば体を支える腰や膝が特に重力の影響を受けて辛い。

この辛さから解放されるのが寝る時だ。

横になれば頭部から足に向かっての縦の重力の影響から解放される。

その分、翌朝起きて立ち上がる時は腰や膝がひとしきり痛む。



●2020.11.24(火)誤変換・着心地・十字路・喜怒哀楽・ジグソーパズル

・パソコンやスマホに入力した語句を誤った漢字に変換して気づかずに送信する。

そんな誤送信が面白おかしく話題になるが私も今日面白い変換を経験した。

小説の一節として「ハグしたい」と打ち込んでキーを押したらこう変換された。

「剥ぐ死体」


・姉から旦那さんの衣類をもらうことが時々ある。

そのおさがりのポロシャツを着た時に驚いた。

市販の既製品だが生地に伸縮性があって着心地がいいのである。

高くても1980円どまりの我が家のポロシャツとは明らかに違う。

私は一流ブランドの服がバカ高いのは単なるネームバリュー代だろうと常々思っていたが素材も着心地もきっと素晴らしいのだろう。

ひがみ根性に凝り固まったこれまでの私の馬鹿さ加減を打開しなければならない。

この一文はその直前の「ばかだかい」を変換しようとしてキーを押したら「馬鹿打開」と出たから付け足した。


・私が住んでいる住宅団地は結構広くてあちこちに十字路がある。

その全ての十字路は四つの角がカットされている。

つまり上空から見ると八角形になっているのである。

車を運転していると分かるがこれは事故防止の観点からは実にありがたい配慮である。


・「喜怒哀楽」の順序を変えて「怒・哀・楽・喜」としてみよう。

この序列は「怒(-2)→哀(-1)→楽(+1)→喜(+2)」と数値化できそうだ。

「哀(-1)」と「楽(+1)」の間がプラスマイナス0で人間の平静な心の状態と言える。

しかし完全なゼロは希少価値でたいていの人の普段の立ち位置はマイナスかプラスかどちらかに寄っていてそれがその人の個性だと言えるのではないか。

私は「-0.5」のような気がする。


・ジグソーパズルのピースは1000とか2000とか膨大な数だが同じ形のものはない。

従って2枚のピースを上下に重ねると一致せずに微妙に異なる。

これは人間どうしの関係に似ている。

相手の飛び出しているところを個性と見るか、重なり合わないことにイラついて切り落とそうとするかでカップルや夫婦のありようが決まる。



●2020.11.27(金)不安・ユーチューブ・基地づくり

・3、4歳くらいの幼児を何の理由もなく大声で怒鳴り続けたらどんなに恐怖することだろう。

もっと可哀そうな仕打ちがある。

見知らぬ土地に置き去りにするのである。

幼児の心中を想像すると心細さの極致だろう。

それは大人も同じなのではないかと私は思う。

人はいくつになっても見知らぬ地に置き去りにされているような不安を抱えて生きているのではなかろうか。


・漫才やコントのお笑い番組があれば録画して好きな芸人の出演部分だけを見る。

私は年も年だからツイッターとかインスタグラムとかは面倒で何やら恐ろしくもあるから手を出さない。

かろうじてユーチューブだけは見るようになった。

ユーチューブでお気に入りの芸人の漫才を見ると画面をスクロールして次々にその芸人の漫才を見ることができる。

なんと効率的なことかと感動した。

歌番組についても同様で好きな歌手の歌を次々に聴くことができる。

なるほどテレビ離れが進行するはずだと得心が行った。

テレビと言えば漫才やコントに比べて落語がいつの間にか民放ではほとんど放映されなくなっている。

民謡や浪曲と同じく教育テレビで扱う芸能に移行するのだろうか。


・宮崎県の高千穂温泉郷にかつて職場の小旅行で行ったことがある。

高千穂の中心部から少し離れたところに宿泊した。

その時のペンションが気に入ったので後日妻と二人で出かけた。

山あいでしかも冬だったので見るべきものは何もない。

冬枯れた周囲の山を見渡しながら客寄せのプランがひらめいた。

ペンションが山を所有しているならば子供連れの宿泊客に自由に基地づくりをさせてはどうだろう。

子供の頃に基地づくりをした楽しさは忘れがたい。

兄は「肥後守ひごのかみ」と呼ばれる折りたたみ式のナイフで上手に竹や木の枝を切っていた。

最近は一人でのキャンプや焚火が流行っている。

自分の住まいをつくること、焚火を見つめること、これらは人類の原始時代のはるかな記憶につながっていて子供のみならず大人をも引きつけるのではなかろうか。



●2020.11.29(日)アシストグリップ・新宿のマリア・クラクション

・車に乗るとドアの内部のすぐ上に手で握る取っ手がある。

「アシストグリップ」という名前のようだがネットの記事によると車から降りる時に握ってはいけないという。

あれは座席に座っている状態で車が揺れる時につかまるものだそうだ。

降りる時に座席から腰を浮かせて握ると体重がグリップにかかることになり、それを支えるだけの強度はなく外れたりして危険なのだそうだ。

ハンガーにかけたスーツや礼服をアシストグリップに引っかけることもよくあるが側面にエアバッグが装着されている車はそれも危険とのことだ。


・東京新宿のゴールデン街のバーに「新宿のマリア」と呼ばれる伝説のママがいる。

彼女に密着したドキュメント番組を見た。

ある時中国人の半グレの若者がやってきたがママは彼の素性に関して何の詮索もせずに普通に接し続けた。

撮影時には更生していた彼がこう言っていた。

「(この店での)失いたくない思い出ができれば(半グレの世界には)戻りたくない」

我が子がおかしな方向にそれた時の親の対処の仕方にも通ずる話だ。

「この親を悲しませたくない」

説教や詮索は置いて子供がそう思うような接し方を心がける方がよいのではないか。


・交差点の左折車線で停止していた時「左折可」の緑色の矢印が出た。

私は3台目だったのだが先頭車両が矢印に気づかずに2台目の車からクラクションを鳴らされた。

すると先頭車両は普通よりも少し早い速度で走り出した。

時々見る光景だが後ろの車に「すみませんでした」と言っているようで微笑ましくもある。

クラクションを鳴らされて猛スピードで走り出す車もいるがこれはいただけない。

「よくもクラクションを鳴らしやがったな。見てろ、俺はトロい人間じゃねえぜ」

そんなふうに意気がっているように思える反応である。

ともあれ以上の二つのケースは日常における小さなドラマと言える。

だから今回話題としてここに取り上げもした。

クラクションを鳴らされた車がごく普通に走り出していたならどうだったろう。

その場合は1分も経てば私の意識から零れ落ちていっただろう。

そう考えると記憶に留まらない普通の事柄が少し愛しく思えてくる。

何の変哲もない街角でふと立ち止まることがあるように。



●2020.12.2(水)レインボー・おおくりします

・LGBTの啓発パレードで参加者が多様性の象徴としてレインボーカラーの旗を掲げるのはすっかり定着した光景だ。

最近見たテレビ番組でその旗が画面に大写しになったのだが6色の横縞よこじまだったので驚いた。

小さい頃に「セキトウオウリョクセイラン」とおん読みで虹の7色なないろを覚えさせられた。

そのため「レインボーカラー」は7色だろうとこれまで思い込んでいた。

困った時のネット頼み、さっそく調べてみた。

すると虹が何色なんしょくあるかというのは国や民族によって異なるという。

私がテレビで見たのは7色のうち藍色あいいろが抜けた6色で、これはアメリカのレインボーカラーだった。

6色のほかも国や民族によって虹を幾つの色として認識しているかは2色から8色までまちまちだということである。

不思議な気もするが本物の虹はLGBTの縞模様の旗のようにくっきりとした境界線はないのだから何色なんしょくであるかをきめつけることはできない。

先入観を持たない小さな子供に虹の写真を見せて何色なんしょくに見えるか問うのも面白そうだ。

ところで科学的知識のない原始時代の人類は虹を初めて見た時どう思っただろう。

知らない現象に対しては美しいと思うよりもまず驚きが先にくるのではなかろうか。

昭和天皇が夜に水道橋方面の空が明るくなっていることに驚いて興味を示されたのは有名な話だ。

お付きの人が後楽園球場でプロ野球のナイターが行われていることをお教えした。

プロ野球の初の天覧試合(1959年)はそれがきっかけとなって実現した。


・「世界遺産」というテレビ番組の冒頭に「キヤノン プレゼンツ(Canon presents)」 というコールが入る。

それを聞いてハッとした。

「この番組は~の提供でおおくりします」というよく聞くフレーズは「お送りします」と思っていたがスポンサーが視聴者にプレゼントするという意味なら「お贈りします」なのではないか。

ネットを見ると私のような疑問は誰も抱かないらしく「この番組は~の提供でお送りします」という表記しか見当たらない。

「~の提供で」という部分にプレゼントする意味が入っていると考えればまあ「お送りします」でいいか。



●2020.12.7(月)新商品・姿勢・ウサギ小屋

・ポテトチップス等の菓子を含め食料品の世界では一旦ヒット商品が出るとその新バージョン、ご当地バージョンなどが続々と発売される。

私は思うのだが一番最初に出たものが一番美味しいのではなかろうか。

最初のヒット作は既存の同類商品のシェアを奪って地位を獲得したのである。

その初代に肩を並べるほどの商品がそうそう簡単に作れるはずはない。


・人が寝る時の自然な体位は仰向けだろう。

うつぶせで寝ている人は窮屈そうで寝苦しく見える。

これがペットとなると逆だ。

犬や猫がまるで人間のようにまっすぐに体を伸ばして仰向けに寝ている写真がSNS上でもてはやされる。

確かに可愛くもあるが私の目にはリラックスしすぎてだらしなくも見える。

手足をたたんで背中を丸めて目を閉じている姿がいかにも犬や猫らしく自然だ。

犬や猫のそんな姿を人間が真似れば土下座みたいで窮屈極まりない。

ところが喘息の発作が起きた時にはこの土下座ふうの姿勢が一番呼吸が楽なのだから面白いものだ。

話は変わるがクシャミというのはけっこうなパワーがある。

老人はクシャミして肋骨が折れる場合もある。

私も腰の調子が悪い時にはクシャミすると腰回りの筋肉がズキッと痛む。

だからクシャミをする時には先ほどの土下座ふうの姿勢をとるようにしている。

そうすればクシャミで腰回りの筋肉がダメージを受けることはほぼない。


・近所のスーパーに夕方妻と買い物に行き私が先に店を出て駐車場で妻を待っていた。

すると眼下の住宅団地の家々にぽつりぽつりと明かりが点き始めた。

一つ一つの明かりの下でこれから一家団らんの夕餉ゆうげが始まるのだ。

そんなふうにほのぼのとした気分で眺めていたのだが相反するような思いも湧いてきた。

整然と軒を並べて建っているのは外国人からウサギ小屋と揶揄やゆされそうな家々である。

そんな小さな家でも数十年のローンを組んであくせくと働き続けねば手に入らないのだと思うと侘しくなった。

団地の家々をスイートホームと見るかウサギ小屋と見るか、相異なる思いを抱きながら我が家に戻った。

私の家ももちろんウサギ小屋同然だがかつて実際にウサギを飼っていたことを思い出しておかしくなった。



●2020.12.11(金)菜の花

「バックシャン」という言葉がある。

「バック」は英語で「後ろ」、「シャン」はドイツ語で「美しい」。

従って「バックシャン」は直訳すれば「後ろが美しい」となる。

この言葉が最近は背中側が凝ったデザインになっている服のことを言うと知って驚いた。

昔はファッション用語でなく後ろ姿が美しい女性のことを言った。

「彼女はバックシャンでスタイルはいいんだけどね」

「天は二物を与えず」で前から見ると残念だというニュアンスをこめて使われた言葉だった。

「二物を与えず」と言えば美人で口臭のきつい女性も残念で、植物なら菜の花がそうだ。

花は美しいのにどうしてあんなに強烈な匂いなのだろう。

調べてみると口臭の強い人間と同じく害虫を寄せ付けないメリットがあるようだ。

菜の花はおひたしにすれば酒のさかなになる。

話を転じるが「菜の花のおひたし」が「さかな」ということは「さかな」は「fish」の意味ではないことの証明になる。

酒の「さかな」は「さかな」と書くが直訳的な漢字を当てれば「酒菜さかな」である。

「菜」の音読みは「サイ」、訓読みは「な」だがどちらで読んでも「副食物・おかず」という意味だ。

おかずのことを「おさい」とか「惣菜そうざい」とか言うように。(「惣菜」は近頃「総菜」とも書くが「惣」も「総」も「すべて」と読むから細かい事を言えば「そうざい」は「いろんなおかず」というニュアンスになる)

「ベントンシャー」と聞けば英語かと思う人もいるのではなかろうか。

九州の人間なら「弁当のしゃあ」という意味だとすぐ分かるだろう。

「しゃあ」、伸ばさずに「しゃ」とも言うがこの方言も「サイ」がなまった言葉だろうと思われる。

「菜」の訓読みに話を移すと「酒菜さかな」は酒を飲む時のおかず、つまみという意味だ。

古典文学には味噌や果物などをつまみにして酒を飲む場面が出てくる。

時代が下るにつれて新鮮な海産物の流通が盛んになると酒のつまみはfishが最高だということになる。

そういう次第でfishが「酒菜さかな」の代表となり「魚」という字も「さかな」と読まれるようになった。

それまでは「ギョ」という漢字の訓読みは「うお」(うんと古い時代は「いお」)だけだった。

話を菜の花に戻すが「菜の花」は直訳すれば「おかずとして食べられる花」となる。

菜の花のおひたしはまさにそうだ。

ついでに言えば植物の食べられる葉が「」で今は白菜の漬物が美味しい。

菜の花が咲くまでにはまだ間があり今咲いているのは山茶花や水仙だ。

山茶花や水仙については私は常々こんな疑問を抱いている。

他の花のように春か秋に咲けばいいのにどうしてわざわざ寒い冬を選ぶのだろうと。

しかし近ごろは山茶花や水仙どころではない。

熱帯地方原産のブーゲンビリアまでもが冬に咲いている。



●2020.12.12(土)男の料理あるある・猫ばば

・先ほど昼食に冷凍チャーハンを作って食べた。

電子レンジでもいいがフライパンで炒めることにした。

袋の記載を読むとまず「薄く油をひく」とある。

そこでごま油をフライパンにひいたのだが食べてみると油がくどかった。

どうやら入れ過ぎたらしい。

独身時代はもっとひどかったが炒め物に油をつい多く投入してしまうのは「男の手料理あるある」ではなかろうか。

使用したフライパンは放っておけば残った油が沁みこみそうに思われるので水を入れる。

最近テレビで知ったことだが熱いフライパンにすぐ水を注ぐのは厳禁なのだそうだ。

特にテフロン加工がしてあるフライパンの場合はその方面に詳しい人が見れば叫び声を上げたくなるほどの暴挙だという。

それを聞いてからは使った直後のフライパンにはポットの湯を入れるようにした。


・第二次大戦中の戦闘機に対する日米の考え方の違いをかつて記した。

日本軍はパイロットを信頼し操縦技術の錬磨を重要視した。

米軍はパイロットの腕前を信用せず機体の性能の向上に努めた。

そんな内容だったと思うが日本人はとにかく真面目である。

銀行員はお金の出入りが1円でも合わないと徹底的にその原因を突き止める。

行員は1円のために残業し銀行はそのための時間外手当てを支給することになる。

ところが上記の戦闘機のケースと同じでアメリカの銀行ではわずかなミスは人間に付き物として問題視しない。

とここまで記した内容は私が犯した以下の犯罪の言い訳のようなものだ。

数日前年末の墓掃除に行く途中で私は百円玉を拾ったが警察に届けなかった。

届け出たら警察官も書類作成が面倒だろう。

それに落とし主自身も届いていないかどうか警察に駆けこむとは思えない。

道で拾った物は神様からのプレゼントだと解釈する民族もいるという。

今回の百円玉は墓掃除に行く孝行者の私へのプレゼントということにさせてもらおう。

墓のことに話を移すが私の家の墓石が古くなってカビなのか何なのか白っぽいシミが目立ってきた。

サンドペーパーでこすってみたのだが全くと言っていいほど役に立たなかった。

この件に関して耳寄りな話を聞いたのでここに書き留めておこう。

漂白剤のハイターが有効とのことだ。

ハイターをかけて暫く放置した後で拭けばいいらしいから今度試してみよう。



●2020.12.14(月)音感・コメンテーター・中村草田男

・カップ麺を作る時にキッチンタイマーで時間を計る。

設定時間を過ぎるとタイマーが「ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ」というリズムで鳴る。

それを止める時に自分がいつも無意識に「ピピピッ」の直後の「ピ」のところで停止ボタンを押していることに気づいた。

リズミカルに鳴る音をリズムに合わせて区切りのいいところで止めているのだ。

私の音感も捨てたものではないと思ったが音感は年と共に衰えるようだ。

たとえばカラオケを歌っている途中でキーを変えた場合。

若い時はすぐに新しいキーに合わせて歌えたが今は対応にもたもたする。

音感と言えば絶対音感という言葉をよく聞くが絶対色感というものもあるようだ。

絶対音感も絶対色感もない私は絶対に鈍感だ。


・テレビのワイドショーを見ていて「コメンテーターあるある」と言えそうな現象を発見した。

「~だと思います。けれども~」

こういう発言をする場合に「~思います」と言い終わるとすぐに早口で「けれども」と続けるのである。

「けれども」に限らず「そして」「というのは」「たとえば」など次の発言の冒頭の言葉を間髪入れずに口にするコメンテーターが増えた。

他者に口を挟ませず自分が話し続けるためのテクニックだろうが聞き苦しい。


・「降る雪や明治は遠くなりにけり」

中村草田男がこの句を詠んだのは20年ぶりに母校の小学校を訪ねた昭和6年のこと。

自分が通っていた頃と違って子供たちがかすりの着物でなく洋服を着ていたことに驚いたという。

昭和6年(1931)の時点で明治時代は数字的にはどれくらい昔だったか。

計算してみると明治元年(1868)は63年前、明治末年(1912)は19年前。

現在の令和2年(2020)から昭和時代を振り返ると昭和元年(1926)は94年前、昭和末年(1989)でも31年前だ。

「降る雪や」の句ははるか昔の明治時代を懐かしんでいるようなニュアンスがあるが今の私たちから見た昭和時代の方がもっと「遠くなりにけり」なのである。

明治時代に二葉亭四迷ふたばていしめいという作家がいたがこのペンネームの由来が「くたばってしまえ」というのは有名だ。

中村草田男くさたお(本名は中村清一郎)の俳号の由来も面白い。

父親が亡くなった後も東京大学を神経衰弱で休学していたため親戚の者から「お前は腐った男だ」と罵られ、それで「草田男」と名乗るようになったという。



●2020.12.17(木)危険回避・もう一人の自分・人間らしさ

・老人の運転がよく問題視される。

私も年を取ると知らず知らずのうちに危険な運転をするようになるのではないか。

そう恐れていたが実態は逆だ。

脇道から広い道路に出る時は「右見て左見て」を2、3回繰り返している。

車間距離も若い時より長めにとるようになった。

運動神経の衰えを無意識裡に自覚しているからおのずと慎重になるのだろう。

その危険回避の感覚は車の運転以外の場面でも生じる。

たとえばテーブルや家具の尖った角が気になりだした。

幼児のいる家庭でテーブルの角にコーナーガードをはめるがあれは老人にも有用だ。

新婚家庭は子供が生まれた場合のことを考えて最初から角が丸いテーブルを買う方がいい。

タンスも取っ手が外に出ているものでなく引き出しをくりぬいた形のものが安全だ。


・上記の私の運転のように老人自身が自分を客観視できているうちはいい。

いいかえれば自分を見つめるもう一人の自分がいれば問題ない。

認知症というのはそのもう一人の自分がいなくなるのだろう。

自分を客観視できず目の前のことしか認知できなくなる。

認知症の老人でなくてもそんな状況に陥ることがある。

たとえば激高して喧嘩している時、酒を飲んで運転している時など。

さらに敷衍ふえんすれば青春時代は認知症に似ているように思う。

私は若かった頃仕事においても対人関係においても自分なりに配慮を重ね自信を持っていた。

ところが今振り返れば一本調子の独りよがりだったと穴があれば入りたい。

「若気の至り」というのはもう一人の自分も含めての未熟さを言うのだろう。


・寝つきのいい人間は羨ましいが物足りなくもある。

友だちどうしで旅行に行った時などがそうだ。

色々話そうと思うのに布団に入るや否な寝息が聞こえてきたら味気ない。

私の思い込みだろうが寝つきのいい人は仕事も淡々とこなすイメージがある。

そんなタイプの同僚と飲んでも話が弾みそうには思えない。

もっともそんな人は居酒屋に誘っても来ないだろうが。

ロボットやコンピューターと違って過不足があるというのが人間の特徴だ。

たとえばゴルフや釣りを明日に控えた前夜。

早く寝ればいいものをワクワクしてなかなか寝付けない。

そんな過剰な無駄が人間らしさなのだ。

結果が大叩きやボウズに終わってネチネチ、いじいじ落ち込むことも含めて。



●2020.12.21(月)関西

バラエティーや演芸の番組を見ているとテレビの世界で関西弁はもうすっかり市民権を獲得している感がある。

ワイドショーのコメンテーターにも言葉遣いは標準語だがイントネーションが関西弁という人が増えてきた。

そのことにさほどの違和感は覚えないが関西弁にはどうしても芸人のイメージがつきまとう。


明治維新に際して東京遷都が行われたが首都が京都のままだったらと考えてみた。

その場合標準語の制定に当たっては京都近辺の言葉をベースに据えるはずである。

平安時代の京都の発音、イントネーションを再現したカセットテープを聞いたことがあるがやはり関西弁寄りのイントネーションだった。

関西弁が標準語になっていたら現代の日常会話や文学はどうなっているか、ちょっと想像しがたい。

北朝鮮のテレビ画像としてよく使われる有名な映像がある。

女性スポークスマンが民族衣装を着て独特の口調でニュースを読む映像だ。

それと関連付けて想像をたくましくしてみよう。

日本のアナウンサーが全員関西弁で真面目な顔をしてニュースを読む。

それも結構なインパクトがあるのではなかろうか。


関西弁の「関西」という言葉だが「関西大学」は「かんさいだいがく」と読む。

ところが「関西学院大学」は「かんせいがくいんだいがく」と読むのである。

「西」を「さい」と読むか「せい」と読むかは定まったルールがなくややこしい。

同じ「西部」という言葉でも九州のガス会社の「西部ガス」は「さいぶガス」と読み「西部劇」は「せいぶげき」である。


ところで今どきの若い人は「西部劇」とは何なのか見当もつかないのではなかろうか。

西部劇は分かりやすく言えばアメリカの時代劇である。

私が子供の頃は漫画でもテレビでも西部劇物があったが今はもう目にすることがなくなった。

日本においても「水戸黄門」と大河ドラマを例外としてテレビから時代劇はほぼ消えてしまった。



●2020.12.23(水)丼物・果し合い

・改まった会食の場で丼物を注文して食べる人はいない。

ご飯もおかずも一緒くたにしたような丼物はざっかけない食べ物という位置づけだろう。

しかし上品な懐石料理であっても口内調味という言葉もあるようにご飯とおかずを一緒に口の中で咀嚼すれば丼物を食べるのと変わりはない。

前置きが長くなったが私が発明した丼物を紹介したい。

名付けて卵かけご飯ならぬ豆腐かけご飯である。

冷奴をおかずにしてご飯を食べていた時に考案したものだ。

冷奴とご飯を交互に口の中に入れるのが面倒になった。

そこで削り節のかかった冷奴を箸でつぶしてご飯に乗せ箸で掻きこむように食べてみた。

麻婆豆腐丼の和食版のようなものだが実に旨く感じられた。

しかしこの豆腐かけご飯よりも美味なメニューがある。

ご存じ猫まんまである。

ご飯に味噌汁をかけて掻きこむ、これが一番旨い。

この猫まんまに関して妻の感覚は独特だ。

食事の途中で猫まんまにしようと思った時のことである。

味噌汁のお椀を持ち上げてご飯茶碗にかけた。

すると妻が嫌がった。

その感覚は私にも分からないではない。

他人の目の前ではやらない方がいい下卑た食べ方だ。

ところが妻はその逆、つまり味噌汁のお椀にご飯を入れるのは気にならないと言う。

その感覚は私にはよく分からない。


・用事もないのに人からじっと見つめられるといい気持ちはしない。

「目は口ほどに物を言う」のであり何を考えて見つめているか口にしないだけ余計に気にかかる。

家庭内や身内の集まりにおいてもそれは同じことだ。

従ってお互い時折盗み見るようにチラッチラッと視線を走らせることになる。

まるで果し合いのようだ。

剣道や居合道を長年やっている知人が次のように教えてくれた。

江戸時代の真剣での果し合いは漫画のように派手に切り結ぶことはない。

わずかなスキを狙って浅く踏み込みちょっと相手の足やら手やらを傷つける。

それをお互いが長時間に渡って繰り返すうち出血の多い方が動けなくなるというふうなものだったという。

そう言えば有名なボクサーと有名なレスラーがリングで闘ったことがあった。

あの試合もレスラーが寝技に持ち込もうとして近寄っては寝転ぶという戦法を繰り返した。

勝負というものは真剣になればなるほど地味にならざるをえないのかもしれない。



●2020.12.25(金)ハイボール・トイレの故障・凄み・まばたき

・安い焼酎をレモン風味の炭酸水で割ってみた。

かなり旨いハイボールになった。

残った炭酸水は時間がたつと炭酸が抜けてしまう。

そこで砂糖を入れてみると今度は立派なサイダーになった。

もっと貧乏くさい話になるが数日前冷蔵庫に何も飲み物がなくコーヒーを作るのさえ面倒に思えてポットの白湯さゆを飲んでみた。

するとシンプルイズベストで結構旨く感じた。


・今朝ちょっと外出して帰宅するとトイレの水が出っぱなしになっていた。

トイレの止水栓を締めて貯水タンクを開けてみた。

水を流す時に「大」か「小」かを選ぶレバーがあるがそのレバーと連動する鎖が切れていた。

針金とペンチを使って修理したがこんな方面にうとい一人暮らしの老人は困るだろうと思ったことだった。

止水栓の締め方さえ知らなければ連絡した業者が来るまで水は流れっぱなしということになる。

私も人の水道代を心配している場合ではない。

今回の外出は20分程度だったからよかったのだ。

今度から外出する時はガスだけでなく水回りの点検もきちんとしなければならない。


・テレビを見ていたらある芸能人が後輩に「ふざけろよ」と怒っていた。

本来なら「ふざけるな!」と禁止表現を使うべきところだ。

そこを「ふざけろよ」と言うと一歩引いたゆとりが逆に凄みを感じさせる。

字面だけ見ると褒め言葉にも取れる次のような表現も同じ効果がある。

「お前も偉くなったもんだ」

「やってくれたな」

「面白いことを言うね」


・テレビを見ていてさすがにプロだと感心したことがある。

まばたきに関してである。

人間の普段のまばたきの回数は1分間に約20回だが役者の演技中のまばたきは非常に少ない。

確かめるつもりはないが一流の役者になればなるほど少ないのではないか。



●2020.12.28(月)門松・漫才師・ボディビルダー・電気敷き毛布・写す

・門松の材料は松、竹、梅、南天、葉ボタンなどである。

その中で一つだけ選んで門松を作るとすれば竹を使うことになるだろう。

竹の先端を削ぎ切りにして3本揃えれば門松らしく見える。

しかしそれでは門松でなく門竹だ。

調べてみると「門松」と言うだけあって最初は松がメインで後から竹も加わる形になったようだ。


・漫才にはいろんなスタイルがあるが大声や奇声を発したりドタバタ動き回るのは好きではない。

言葉のやりとりの面白みで勝負するスタイルが好みだが、それができるコンビは言葉のニュアンスに関する鋭敏な感覚の持ち主だと思われる。

だからテレビの俳句番組でお笑い芸人が優れた句を詠むのも納得だ。


・テレビでボディビルダーが胸の筋肉を動かすのをよく見る。

貧弱な体格の私もチャレンジしてみた。

手を胸に当ててやってみるとほんのわずかながら動くのである。

ちなみに私は小鼻は自由自在にヒクヒクと動かすことができる。

ただし耳たぶはできない。


・寒くなると布団に入っても手足の末端がなかなか温まらない。

父親は冬には電気敷き毛布を使っていたが私はどうしよう。

自助努力という言葉が頭をかすめる。

靴下を履いて寝るまではいいが電気の力まで借りるのはいかがなものか。

死期が迫っても栄養点滴や胃ろうは絶対にすまいと思っているのだが。


・猫の写真が展示されている。

可愛い猫だがそれ以外どうということはない写真だ。

見る人たちは特に注目することなく行き過ぎる。

ところがそれは写真ではなく色鉛筆画だと知らされたらどうか。

無関心が一転驚嘆に変わるだろう。

写真とそっくりならわざわざ長時間かけて描かず写真ですませればいいのにと天邪鬼な私は思ったりもするが感心する人は手書きという点に価値を見出すのだろう。

「写す」と「移す」は語源的に同じ言葉である。

「カメラで写す」「色鉛筆で描き写す」というのは本物の猫をフィルムやカンバスに「移す」ような作業なのだ。



●2020.12.30(水)倍音・職業・プレゼン・老いの繰り言

・ドの音で終わる歌があるとする。

それを二人で歌って一人がミかソの音で歌い終われば和音でハモることになり気持ちがいいだろう。

それを一人でやってみた。

歌い終わりの一音をドとミ、あるいはドとソの二つの音が出るような発声にチャレンジした。

結果はかすかに成功。

なぜこんなことをしたのかと言えばモンゴルのホーミーで有名な倍音ばいおんに興味をそそられたからである。


・原始時代の人類の活動を職業ととらえると全て第一次産業に当たるだろう。

それに対して現在はユーチューバーやゲームソフト開発が子供の憧れの職業になる時代だ。

それどころかゲームをプレイするゲーマーさえ職業として成立しつつある。

古い世代の考えからすれば理解しがたい時代の流れだが昔と変わらないことが一つありそうだ。

ユーチューバーやゲーマーも「仕事」となると農業や漁業と同じく楽しいことばかりではないと思われる。


・結論を先に言って後でその理由を話す。

仕事の会議において私はそんな説明のしかたをよくしていた。

自分が聞く側に立てばその方が理解しやすく能率的だと思うからである。

しかしこのやり方は逆効果になることもある。

それは先に話す結論が聞く側にとって望ましくない場合である。

受け入れたくない結論を先に聞くと次に話される理由を冷静な気持ちで聞けないという人はけっこう多い。

これはプライベートな会話でも同様である。

相手の反応をさぐりながら話せば結論を修正したり保留したりすることも可能になる。


・「老いのごと」という言葉がある。

老人が同じ話を何度も繰り返しそれを聞く側が辟易へきえきするというのはよくある構図だ。

だがこう考えてみてはどうだろう。

何度も繰り返したくなる話は当人にとっては大きな関心事であることを意味するのではないか。

ぼけてもなお忘れがたい過去だととらえれば老親の繰り言に耳を傾けたくなるだろう。

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