2020年1月~6月

●2020.1.2(木)今日はR2.1.2

年が明けて今日はR2.1.2だが、SやHと違ってなかなかRという略号に慣れない。

妻が大晦日の夜に年越しそば、元日の朝に雑煮を作ってくれた。

おかげで年末年始らしい気分を味わうことができた。


前回、伝統的な情緒ある光景が見られなくなりつつあると書いた。

正月に町を走る車もその一つだ。

ナンバープレートの上部に正月飾りを付けている車を殆ど見かけなくなった。


正月の車で思い出すエピソードがある。

あるスナックのママさんが車に乗って初詣でに出かけた。

お参りをすませて駐車場に戻ると車に傷が付いていたという。

恐らく駐車場所に出入りする他の車がこすったのだろう。

このママさんは若い頃は女性用下着の訪問販売をしていた。

九州で3位の売り上げを記録したこともあるやり手で気性も男まさりだ。

「初詣でになんか行かなければよかった」

「草の根を分けてでもで当て逃げした車を突き止めてやる」

そんなふうに落胆したり激高したりしたのではないか。

そう思って聞いてみたところママさんはこう言った。

「お参りに行ったからあの程度ですんだんです、行かなければいつかもっと大きな事故に遭ったかもしれません」

仕事で優秀な成績をあげる人はプライベートでもこんなにポジティブな捉え方をするのかと感心したことだった。

これなら後悔も恨みも生じない。


車の接触事故の話をもう一つ思い出した。

ある人が買ったばかりの車で神社に乗りつけた。

新車の安全祈願のお祓いをしてもらうためである。

ところが自宅に戻ってバックで車庫入れする時、車の後部を壁にぶつけてしまった。

私が聞いたのはそこまでだ。

先ほどのママさんなら「お祓いしてもらったからこの程度ですんだ」と考えそうな話である。

私なら神を呪ってやけ酒を飲むかもしれない。


「忘れてしまいたいことやどうしようもない寂しさに包まれた時に男は酒を飲むのでしょう」(河島英五『酒と泪と男と女』)

酒はストレスを麻痺させてくれる心の鎮痛剤だ。

祝い事は別として飲みたくなる原因の多くは愚痴や恨みではなかろうか。

しかし他人や自分を責めて飲んでも酒はうまくない。

自分の失敗も他人の裏切りも許したほうがよい。


ところで友人や身内の人間の不実、裏切りを許せるのは何度までだろう。

「三度目の正直」という言葉もあるように2回までなら許容範囲だ。

しかし「二度あることは三度ある」「仏の顔も三度まで」とも言うから3回までは覚悟しておかなければならないかもしれない。

自分の失敗については「七転び八起き」で何度でもOKだ。

私などは「七転八倒」で転びっぱなしだが。

そんな私でも「捨てる神あれば拾う神あり」で救われる可能性があると思えばありがたい。



●2020.1.4(土)初夢

元日は実業団のニューイヤー駅伝、2日・3日は箱根駅伝の中継を見て日を暮らし、今日は既に1月4日。

朝目覚めると夢を覚えていた。

関門海峡の一角「壇の浦」付近の陸地の夢だった。

褶曲しゅうきょくと言うのだろうか、露出した山肌が曲がりくねった地層をなしていた。

ただそれだけの夢だ。

実際にそうなっているのかどうか知りもしないし興味もない。

源平の「壇ノ浦の戦い」にも関係はないだろう。

そんな訳の分からない夢を見て「はて初夢はどうだったか」と思いをはせた。

初夢とはいつの夢のことか、以下の三つの説があるようだ。

大晦日の夜、元日の夜、2日の夜。

夢を見て目覚めた朝の日付けで言えば、元日、2日、3日ということになる。

いずれにしても私はそれらの3日間、何の夢も見なかった。(少なくとも覚えてはいない)

情けない気もするが変な初夢を見てそれが正夢になるよりは救われる。

昨年はよいことは何もなかったし、年末ジャンボ宝くじも外れた。

と言うのは悔しいので300円当たったと訂正しよう。


頼りない夢の話はさておき今日は4日だが「1年の計は元旦にあり」ということで今年の生活指針を策定しておこうと思う。

バブルの崩壊もあったのに我々はいまだに右肩上がりの生活の向上を信じているふしがある。

具体的に言えば社会的にも個人的にも今より将来のほうがよりよくなるという無意識裡の思い込みである。

年金問題一つとっても分かるように現実はそうなっていないのだから根拠のない右肩上がりの神話は捨てよう。

豊かだった過去にすがって現在のありようをおかしい、間違っていると不満に思うのは愚かなことであり、ストーカーの心理と同じだ。

過去の幸せだった時期はよい思い出としてありがたく懐かしむにとどめよう。

平凡な目標ではあるが今年は他人や過去と比較することなくフレッシュな感覚で一日一日を過ごしたい。

テレビで見たあるお婆さんの言葉を思い出す。

「ああ、今日も生きている」

朝目が覚めるたびにそのお婆さんは生きている喜びをかみしめるという。



●2019.1.6(月)生活感

爽々そうそうというイラストレーターがいる。

その名のとおり爽やかなイラストを描く人だ。

空(特に夕空)や逆光の描き方が特に素晴らしい。

彼の作品に次のような構図のイラストがある。

場所はヨーロッパの旧市街ふうの下町。

古びたアパートの2階、部屋の窓を開けて若い女性が外を眺めている。

夕焼け空に遠い視線を投げかけているその女性に私は妄想を膨らませた。

彼女にパトロンがつき優雅に着飾ってパラソルをさし目抜き通りを歩く。

あるいはジブリの『魔女の宅急便』ふうのファンタジー仕立てでふわりと空に浮かぶ。

しかしどちらも薄っぺらい想像だ。

夕焼けを眺めているこの女性は日が沈んだら窓を閉めカーテンをひくだろう。

そして明かりを灯して食事の支度にかかるだろう。

華やかさはないがこちらの現実的な想像が私の趣味に合う。

毎日家の中でくすぶってこんな駄文を書いたりチマチマした家事をこなしたりしている私の姿も第三者の目にはしみじみとした生活感をまとって見えるかもしれない。


何のCMかは忘れたがキッチンに立つお婆さんがテレビの画面に映った。

背景の流し台の周囲にいろんな台所用品が置かれていた。

生活感を感じさせるその画面を見て一人暮らしをしていた父親を思い出した。

母は亡くなり私たち子供もみな家を出ているのに家財道具は昔のまま。

余分なものは捨てればいいのにと訪問するたびに思ったものだ。

しかし、物は生活に結び付くと実在感を帯びるようだ。

父は亡くなり家も解体したが、家のあちこちに雑然と置かれてあった物の一つ一つが懐かしい。

白アリに食われた階段や畳や歩くとへこむ床さえも。



●2020.1.8(水)寸感を四つ

・新築の家の紹介やリフォーム関連のテレビ番組がよく放映される。

それらを見るとキッチンはアイランド型が人気だ。

アイランドキッチンは見た目は確かにオシャレだが気になることがある。

シンクで食器を洗う時やレンジで揚げ物をする時に水や油が前方の床にもね飛ぶのではないか。


・オーストラリアの平原をピョンピョンと飛び跳ねるカンガルーをテレビで見た。

時折痛風で歩くのにも難儀する私は羨ましく思いながらもふと気になった。

平原といってもきれいに整地されているわけではないのだからかなりの勢いで跳ね上がるカンガルーは着地する時に捻挫することはないのだろうか。


・正月に息子夫婦が幼い子を連れて遊びに来た。

ふと気になって聞いてみた。

赤ん坊には天使が見えるという件についてである。

すると思い当たることがあったという。

うんと小さい時、自分たち親でなく宙に向かって笑いかけたりしていたという。

老人のお迎えと同じで、どっぷりと人間界に浸かっている者には見えない世界が存在するのだろう。


・「2位じゃダメなんでしょうか?」

民主党政権時の2009年(平成21)、事業仕分けの会議で蓮舫議員が放った言葉である。

世界一のスーパーコンピューターを開発する事業に対する発言だった。

スパコンに限らず2位というのはどうも影が薄い。

気になっていろんな2位を思い起こそうとするが答えが出てこない。

富士山の次に高い山は?

琵琶湖の次に広い湖は?

レコード大賞も第1回は水原弘の「黒い花びら」と知っているが第2回の受賞曲は思い出せない。



●2020.1.10(金)店舗経営の難しさ

百円均一ショップの商品の仕入れ値は1個につき1円のものから100円を超えるものまで幅広い。

それらをならすと利益は1個につき30~40円だそうだ。

店員の時給が900円で1個の利益が30円、利益を全て人件費に充てるとしよう。

すると1時間に30個売れて一人の店員の時給になる。

店員が一人ということはないから「30×店員数」の個数が毎時間売れなければならない計算になる。

薄利多売もいいところだ。

実際には家賃や光熱費等もあるだろうから人件費に充てる金額はもっと少ないはずだ。

これで万引きされたら店側はたまったものではない。

私は万引きは殺人未遂だと常々思っている。


飲食店はどれくらいの利益があるのだろうか。

原価率…30%

人件費率…30%

家賃費率…10%

光熱比率…8%

その他経費…12%

利益…10%

この数値はネットからの引用である。

計算しやすいように店員の時給を900円、どの客も1000円の料理を食べるとしよう。

これでいくと1時間に3人の客が入店して店員一人に時給が払える。

ということは毎時間「3×店員数」の客が来店しなければやっていけない。

厨房、接客、レジ等合わせて5人雇うなら毎時間15人、4分に一人の割合で客が来なければ成り立たない。

けっこう厳しい。

そのために経営者は客の少ない時間帯に入るパートさんの数を減らすなどして対応しているのだろう。


店舗と土地が自分の所有で従業員も身内ならかなり楽になるだろうが、私のような小心者はとても商売はできない。

「客に向かってその態度は何だ!」

「客だからといって何をしても許されるのか!」

経済面だけでなく店員や客との人間関係にも悩まされそうだ。



●2020.1.12(日)辻占

字の中に「十」が入っていることから分かるように「つじ」というのは今ふうに言えば交差点のことである。

何か占いたいことがあれば昔の人は夕方に辻に立った。

そして道行く人が発する言葉を神のお告げと捉えて自分の占いたいことの答えに結びつくように解釈した。

これが「辻占つじうら」で、文字どおり「辻での占い」である。

辻占をする人はどんな思いで辻に立って道行く人の声に耳を澄ませたのだろうか。

たわいのない微笑ましい動機の娘さんもいれば切羽詰まった事情を抱えて物悲しい顔でたたずんでいたおかみさんもいたことだろう。


江戸時代になると辻で御神籤おみくじを売るようになり、これも「辻占」と呼ばれた。

さらにはその御神籤を中に入れた煎餅や和菓子も登場した。

これらの辻占菓子がやがてアメリカに渡り、御神籤ふうの紙片を中に入れたクッキーが作られるようになった。

これが「フォーチュンクッキー」で、この場合の「フォーチュン」は「幸運・資産」ではなく「運勢」の意味だろう。

辻占菓子やフォーチュンクッキーがどんな形のものか知りたければネットに画像がある。


テレビのワイドショーに必ずと言っていいほど占いのコーナーがある。

ということは占いには根強い人気があるのではないか。

それなら日本古来の辻占をやってみてはどうだろうか。

夢占いも昔からある。

正夢だけでなく逆夢さかゆめというものがあることを私は最近知った。



●2020.1.14(火)高校教育

クイズ番組を見ていると有名大学の学生でも分野によっては驚くほど無知である。

その原因は高校で学ぶ科目が少ないせいではないだろうか。

私の世代は高校入試の科目も多かった。

国英数理社に加えて美術・音楽・技術家庭・保健体育があった。

高校入試のための模擬試験ももちろんその9科目。

高校入学後も社会は日本史・世界史・地理、理科は物理・化学・生物・地学と全て習った。

おかげでクイズ番組を見ても不得意な分野はない。


高校で学ぶ内容は「広く浅く」がいいと思う。

しかし現在は大学入試との関連なのか、履修科目を絞って「狭く深く」学ぶ傾向にあるようだ。

生涯教育、ネット社会の今日、一般常識は各自で身に付ければよい。

そんな考えが背景にあるのかもしれないが、社会に出てしまえば興味のない分野の知識をわざわざ身につけようとする人は少ないだろう。

だから高校で広く学び、そのかわり大学の教養課程は廃止してもいいと私は思うがどうだろうか。


現在の高校教育は内容面においても私の世代とは違いがある。

それは「現代」の重視である。

例えば日本史は私が高校生の頃は大正時代までしか習わなかったように記憶している。

それが今は「現代社会」という科目まである。

国語についても「現代文」(以前の「現代国語」)に加えて「現代表現」なる科目もあるようだ。

このような現代重視の傾向については特に異論は唱えない。

歴史も国語も過去を知るだけでなく現代を生き抜くための知恵も身につけようということなのだろう。



●2020.1.16(木)笑顔の違い

どちらの笑い顔が多いのだろう。

誰かが面白いことを発言して他の人が笑う場合の話である。

私はたいてい目を宙にそらして笑う。

ところが発言者から目をそらさないで笑う人がいる。

仕事ができる人や社会的評価が高い人に多いように思う。

「目をそらさない」と言うよりも「目を離さないで」「見つめたまま」と言った方が正確かもしれない。

私はそんな笑い方をする人が怖い。

このタイプの人は普段の目の表情も特徴的だ。

困惑やおびえやためらい、一言で言うなら弱さというものが感じられない。

車を運転していると多くの対向車とすれ違う。

その時も運転者はタイプが分かれる。

私は前を見たままただすれ違うだけだ。

しかしすれ違うたびに対向車の運転手の顔を見る人がいるという。

この2種類のすれ違い方は上記の笑い方の違いとリンクすることはないだろうか。



●2020.1.18(土)よく分からないこと

答えが分からずに気になっていることをいくつか挙げてみる。


・初めてピカソやミロの絵を見た時、子供の落書きだと思う人もけっこういるのではないかと思う。

書道についてはどうだろうか。

外国人に書道の字の上手、下手は分かるのだろうか?


・道を歩けば多くの老人が歩いている。

杖を突いている人もいる。

私の住む町は坂が多く野良猫がけっこういる。

しかし年老いてよろぼい歩く猫はほとんど見かけない。

象の墓場ならぬ猫の墓場でもあるのだろうか。


・話しながら自分で時々頷く人がいる。

自信家なのだろうか、それとも自信がなくて相手に同意を促しているのだろうか。


・「あなた、お前」「私、俺」、相手や自分のことを指す代名詞を日本人はその場その場で変える。

それが英語ではyouとIだけで済む。

その理由をこんなふうに聞いたことがある。

youは「話を聞いている側の人間」、Iは「話している側の人間」というニュアンスの言葉だということであった。

非常にスッキリする説明だけに本当かどうか知りたいところだ。



●2020.1.20(月)似て非なるもの

「似て非なるもの」、このタイトルは以前も使った覚えがある。

「て」という助詞にはたくさんの用法がある。

「春が過ぎて夏が来た」

この文のような「~してそして~する」という意味での使い方が一般的だろう。

それでは次の文はどうだろう。

「見て見ぬふりをする」

上記と同じ意味に解釈しても不都合はない気もするが少しモヤモヤする。

実はこの「て」は「~のに」「~ても」という意味なのだ。

この用法で解釈すれば「似て非なるもの」も「似ていても違うもの」というふうにスッキリ納得できる。


前置きが長くなったが最近「似て非なるもの」の例を思いついた。

「ゾンビとバンビ」

我ながらけっこう面白いと思うが「月とすっぽん」には遠く及ばない。

同じサイト上の私の拙い小説「ビール・鯨津が『タベルナ やばい』にやって来た」の中で最近の若者はこの慣用句の意味を知らないと嘆く場面を描いた。

いい機会だからここでおさらいをしておこう。

月とすっぽんが似ているのはどちらも丸い形をしているというところである。

では異なるのはどんな点か。

月は天にあって美しく輝き、すっぽんは水底の汚い泥の中にもぐっている。

天と地、雅と俗、このように両者には大きな隔たりがある。

この慣用句が生まれた現場を私は次のように想像する。

池の水面みなもに美しい月が映っている、それを見た人がふと思う、この水面のすぐ下の泥の中には丸い甲羅のすっぽんが潜んでいるのではないか。


意味の奥深さもさることながら昔の人が「月」と「すっぽん」という自然の景物に目を付けたことも興味深い。

現代の私たちはすっかり自然から遠ざかってしまった。

すっぽんを目にするのはせいぜい料理屋の水槽にいるのを見るくらいのものだろう。

月は毎晩でも見ることができるが現代人はめったに月に目を向けない。

電気がなく従って外灯もなかった時代、夜道を歩く時に月の光はどんなにありがたかったことだろう。

月の位置や満ち欠けの具合によっておおよその日にちや時刻も分かる。

昔の人が陰暦を使っていたのはもっともなことだ。

太陽暦に移行するまえのふるい暦という意味で陰暦は旧暦とも呼ばれる。

ついでに言えば陰暦の正式名称は太陰暦であり「太陽」「太陰」と並べてみれば分かるように「太陰」とは月のことである。



●2020.1.22(水)似ていても違うもの

前回に引き続き「似て非なるもの」をもう一つ思いついた。

「サイレン」と「サイレント」である。

うるさい音の「サイレン」と音がしない意味の「サイレント」。

秀逸な取り合わせだと思ったがむしろ私の無学を証明する結果となった。

スペルを確認すると前者は「siren」で後者は「silent」だった。


しかし調べるうちに興味深いことがあった。

「サイレン」(siren)はギリシャ神話の魔女の名「セイレン」(Seiren)に由来するとのことだ。

この魔女は美しい歌声で船人を誘惑し船を難破させたという。

その歌声が聞こえたら要注意というところから警報音(サイレン)の意味になったのだろう。

ちなみにスターバックスのカップに描かれているロゴマークの女性がこの「セイレン」(Seiren)である。

船人ならぬ客を魅惑して引き寄せようとの意図があるのだろうか。



●2020.1.24(金)電気ポッドの水の補充

電気ポッドの水位窓を見て水を補充したくなる水位は人によって異なるのではないか。

ほんの少し減っただけで気になる人もいれば半分以下になって初めて気にする人もいるだろう。

これが二人きりの夫婦なら前者のタイプが結果として専属補充係になる。


前々回に陰暦の話をしたが月は約1か月周期で満ち欠けを繰り返す。

そこから「月(moon)」は1月、2月というような使い方の「月(month)」の意味にもなる。

英語のmonthもmoonからきておりどちらも1か月という意味を共有している。

「honeymoon」という言葉は直訳すると「蜜月みつげつ」となる。

「結婚したての蜜のように甘い1か月間」という意味で、この時に出かける旅行もhoneymoonと呼ばれるのは周知のとおりだ。

蜜月の間は休日に妻が「江の島に行きたいわ」と言えば夫も喜んで一緒に行くだろう。

夫が「高尾山に登ろうよ」と言えば妻も喜んで同道するだろう。

海だろうが山だろうが相手の意に沿って行動するのが楽しい、これが蜜月の特徴だ。


しかし満月が次第に欠けて見えなくなるように蜜月も1か月ほどで終わりを告げる。

「ディズニーランドに行かない?」

「いや、俺は家にいる」

「そんなこと言わないで一緒に行きましょうよ」

「駅伝の中継が見たいんだ。一人で楽しんでこいよ」

一緒に遊びに行くか行かないかは意見が割れてもいい。

しかし生活を営む上では結論を絞らなくてはならない問題が色々と出てくる。

例えば正月に帰省する時に実家に何泊するか、カーテンを買い替える時にどの色にするか等々。

そんな時はどちらかが歩み寄らねばならない。

どちらが妥協するかは問題ごとに異なるかもしれないが私はこんな推論もしてみる。

歩み寄るのはいつも電気ポッドの補充係のほうなのではないかと。



●2020.1.26(日)海馬

「海馬」はひらがな7文字で何と読む?

テレビのクイズ番組で難読語として出題されていた。

答えは「たつのおとしご」である。

ケチをつけるつもりはないが「海馬」は医学用語としてそのまま「かいば」とも読む。

海馬かいばは耳の奥のほうに左右一つずつある脳の部位の名称である。

記憶をつかさどる領域であり認知症の人はこの海馬に委縮がみられるという。

「たつのおとしご」と「かいば」、ピンときて調べてみると案の定だった。

脳内の海馬かいばの形は「たつのおとしご」によく似ているのである。



●2020.1.28(火)他山の石

数日前のニュースである。

中国重慶市のテーマパークでバンジージャンプの施設が完成した。

問題になったのはそのお披露目のパフォーマンスだ。

豚がゴム紐で縛られ約70m下に突き落とされたという。

この件については中国国内でも非難轟々のようだ。

これが人間だったらどうかと考えた。

自分で望んでやるならいいが嫌がる人間にバンジージャンプを強要するのはいじめを通り越して虐待や犯罪なのではあるまいか。

私は高所恐怖症だから強くそう思う。


とここまで書いて我が子のことを思い出した。

子供たちが小さかった時、宮崎の「こどもの国」や佐賀の「どんぐり村」に連れて行きラクダやポニーにまたがらせたことがあった。

後年、息子はこう言った。

「乗りたくなかったのに」

よかれと思ってやったことだが小さい子供ではあっても意志を確認し尊重すべきだった。

当時の写真を見ると確かに子供たちは強張った表情で乗っている。

その時は子供たちが怖がるようすさえ可愛いと思っていたのだからひどいものだ。



●2020.1.30(木)あれは何だっけ?

数日前、昼食に冷凍ピザを食べようとした時の話である。

そのままオーブントースターで焼きたいのだが妻が嫌う。

チーズが溶けてトースターの電熱部や底に垂れることがあるからだ。

そこでいつものようにピザの下にあれを敷こうとした。

サランラップと同じような外箱に入ったアルミ製の薄いシート。

しかしその名前が出てこなかった。

「アルミホイール? いやそれは自動車の車輪にはめるやつだろう」

自問自答しながらネットで調べるとアルミホイルだった。

アルミホイールとアルミホイルは紛らわしいが全くの別物だ。

ホイールの綴りは「wheel」で「車輪」、ホイルは「foil」で「金属の薄片、箔」という意味である。

それならアルミホイルは「アルミフォイル」あるいは「アルミ箔」と改名してほしいものだが、これは自分のぼけを棚に上げた言いがかりだろう。


ついでにサランラップも話題に取り上げよう。

「サランラップかけて冷蔵庫に入れといて」

サランラップは一企業の商品名であるが他の会社のものを使っていてもそんなふうに言ってしまいがちだ。

同じように一般名称と思われがちな商品名をいくつか挙げてみる。

( )内は企業名、右側が一般名称である。

・ポリバケツ(積水化学)→ポリエチレン製バケツ

・ウオッシュレット(TOTO)→温水洗浄便座

・ドライアイス(ドライアイス社)→個体二酸化炭素

・エレクトーン(ヤマハ)→電子オルガン

・タッパー(タッパーウェア社)→プラスチック製密閉容器

・QRコード(デンソーウェーブ)→マトリックス型二次元コード

・マジック(内田洋行)→フェルトペン

・セロテープ(ニチバン)→セロハンテープ

・シーチキン(はごろもフーズ)→ツナ缶詰

これらはほんの一部であり商品名が一般名称と思われているものは驚くほど多い。

新しい分野においては最初に出た商品の名前が一般名称化するのはやむをえないところだろう。



●2020.2.1(土)肉食

今話題になっている病気の感染源がコウモリだ、ヘビだ、いやネズミだとあれこれ取りざたされた。

その特定もさることながら私はそれらの動物が食料として食べられていることに驚く。

若い女性が原形をそのまま保ったコウモリにかぶりついている画像はちょっとショックだった。

日常の食事風景であってゲテモノ食いではないのだからなおさらだ。

犬の肉もまだ食用に供されており「犬肉祭り」なるイベントさえ開催される町がある。

日本ならさしずめ「伊勢海老まつり」というような感覚だろうか。

この祭りのルポによると、犬が檻から1匹ずつ出されて食材として殺される。

順番を待ちながら仲間が目の前で殺されるのを見ている犬の様子が哀れを誘ったという。


肉食の歴史が浅い我々日本人がたじろいでしまうのはヨーロッパ人の肉食についても同じだ。

以下は『ビルマの竪琴』の著者として有名な竹山道雄がフランスに行った時の話である。

会食のテーブルに出された血だらけの豚の頭をフランス人の若い女性が美味しそうに食べ進めていく。

それを見て竹山が残酷だという感想をもらすと彼女は豚や牛は人間に食べられるために神様がつくったのだと微笑む。

日本人も小鳥を頭からかじる(雀の焼き鳥などのことか?)くらいはするがと竹山が言うと彼女は途端に顔を強張らせその方が残酷だと非難したそうである。

キリスト教では小鳥は愛玩用であって食用ではないということなのだろう。

食文化というものは長い間の習慣や宗教が絡まっており他の民族を軽々に批判することはできない。



●2020.2.3(月)意味が分かりにくい言葉

言葉が持つ尊卑のニュアンスは時の経過とともに「尊→卑」の道をたどる。

「貴様」などがいい例でもともとは文字どおりとうとい人を指す言葉だった。

そんな経年劣化だけでなく、言葉の価値は使い方によってもおとしめられる。

たとえば「あなたはどちら様ですか」と「あなたは何様ですか」、「源泉かけ流し」と「源泉たれ流し」。

どう違うのか、日本語を学ぶ外国人は面食らうだろう。

「ありがとうございます、この仕返しは必ず致します」

「仕返し」は「して返すこと」なのだから構わないようなものだがそうはいかない。

ここは「仕返し」でなく「お礼」だろうが、「お礼」が逆に「仕返し」の意味で使われることもある。 

「よくもやりやがったな、必ずお礼参りに行くからな」

「お礼参り」とは本来、神仏に祈って願いごとがかなったお礼にお参りに行くことである。


話は変わるが、テキスタイルデザイナーという職業があることを最近知った。

「テキスタイル」という言葉を初めて聞いた時、フーテンの寅さんのファッションが思い浮かんだ。

調べてみると「テキスタイル」はテキ屋の寅さんのようなスタイルという意味ではなかった。

あえて区切るなら「テキ・スタイル」でなく「テキスタ・イル(textile)」。

「text」(テキスト)の語源は「織られたもの」(言葉で織られたものが教科書テキスト)で、「~ile」は「~に関するもの」という程度の意味。

従って「テキスタイル」とは「織物、布地」ということになる。

それにしてもファッション関係の言葉はどうして分かりにくい横文字が多いのだろう。



●2020.2.5(水)体温計

ある男がティッシュペーパーの有効利用を考えた。

ハンカチがわりにまず汗を拭いてポケットにしまう。

次に鼻をかみ、それでも捨てずに持ち帰って最後はトイレでお尻の処理に使う。

ところがある日うっかりこの使用順序を逆にしてしまったという与太話がある。


話は変わるが、冬の戸外で冷えた手先を温めたい時にたいていの人は次のような行動をとるだろう。

・口で息を吹きかける。

・胸の前で腕を組む形で両腋の下に差し込む。

・両股で挟む。

手を温めるためのこの3か所付近、舌下ぜっか(口)、腋窩えきかわきの下)、直腸(肛門)は体温を測る部位でもある。

日本人は殆どが腋で測るがそれは世界共通ではない。

アメリカ人は口に体温計をくわえるのが一般的だし、乳幼児は肛門に挿入して測ったりする。

いろんな国の人間がシェアハウスに住む場合、そういったことも知っておかないと体温計の貸し借りでティッシュペーパーの件と同じような悲劇が起こる可能性がある。



●2020.2.7(金)移り気

独身の頃、トンカツにかけるものはトンカツソース、中濃ソース、ウスターソース、この三つしかないと思っていた。

ところが街なかの食堂で注文したトンカツに見たこともないソースがかけられていた。

白っぽくてピンクがかった色味のそのソースの美味しかったこと。

それからはスーパーに買い物に行くたびに色を頼りにそのソースを探した。

いくつか買って試してみたがみな違った。

その後姉の家で夕食にトンカツをごちそうになった時のことである。

食卓に置かれたガラスの小さな器になんと探し求めたあのソースが入っていた。

感激した私はさっそく姉に聞いてみた。

すると姉はこともなげにマヨネーズとケチャップを混ぜただけだと言う。

独身男の私が知らないだけでそれはオーロラソースと呼ばれるありふれたソースとのことであった。

以後トンカツはオーロラソースで食べるようにしたがそのうち最初に食べた時のような感動はなくなった。


次も独身時代の話だが通勤バスに揺られていると側に立っている女性からいい香りが漂ってきた。

何とも言えない官能的な香りだったがさすがにデパートの香水売り場で片っ端から嗅いで回るというわけにはいかない。

ところがひょんなことからその香りの正体が分かったのである。

風呂場のシャンプーが切れたのでスーパーで適当に1本買ってきた。

私がバスの中で心惹かれたのは香水ではなくそのシャンプーの香りだったのである。

そうと知ってからは髪を洗う時だけでなく洗濯する時にそのシャンプーを香りづけとして入れてみたりもした。

しかしオーロラソースと同じくこれもそのうちどうでもよくなってしまった。


以上の二つの例は恋愛のありように似ている。

自分が愛せる人は世界中でこの人しかいない、この人のいない人生は考えられない。

恋をした当初はそんなふうに恋い焦がれる。

それなのに失恋した後はどうだろう。

当分の間はショックを引きずるにしてもそのうち新たに好きな人ができる。

カラオケで歌う歌についても同じことが言える。

スナックで他人が歌うのを聞いていてぜひ覚えたいと思う歌に出くわすことがある。

自宅でインターネットを利用してその歌を繰り返し繰り返し聴く。

ところが何度か人前で歌うと練習していた時の熱意はどこへやらで他に好きな歌ができる。


原因が自分自身であれ周囲の人のせいであれ、生きていくのが辛くなることが人は誰しもある。

そんな時こそ上に述べたような飽きっぽい移り気な人間のさがが役に立つ。

止まない雨はないし、明けない夜もない。

今現在の苦しみもそのうち苦にならなくなる時がくると気を長く持てばいい。



●2020.2.9(日)毒を食らわば皿まで

前回とは異なる方向から生活の現状の捉え方を考えてみたい。

落ち行く最低の生活レベルを想定してみると現状はまだましだと思えるだろう。

しかし現実に生活が苦しくなっている流れの中にいればそんな楽天的な気分にはなれず憂鬱で不安も覚えるだろう。

ここで思い出すのが近頃の私のテレビの見方である。

ドラマであれマラソンの中継であれ私はしばしば背景の街並みを注視する。

できればグーグルマップのストリートビューの機能を使って私をポンとその町に置いてほしいくらいだ。


日本全国どこにでもあるようなごく普通の街並みになぜそんなに惹かれるのか、その理由に最近ようやく思い当たった。

そこが私の知らない町であるということ。

そして本当に自分がそこに放り出された場合、今夜の泊りをどうすればいいのかということ。

この二つの要素は不安感をもたらすのだがそれも含めて人生のありように酷似しているから私は見知らぬ街並みにたたずみたいと思うのだろう。


「われはもう帰んな(お前はもう帰れ)」(芥川龍之介『トロッコ』)

土工たちにそう言われて主人公の少年が途中から一人きりで家に帰らなければならなくなる、それも人生のありように似ている。

前回のように気を長く持てないなら心細さをとことん味わおうと腹をくくるのもいいのではないか。

さらに言えばこの「毒を食らわば皿まで」流の開き直りは最終的に楽天主義と合流しそうにも思われる。


ついでに付け足せば『トロッコ』は最後の数行の段落がキモである。

ところが小学校だったか中学校だったかこの作品を習った時、教科書でその部分はカットされていた。



●2020.2.12(水)あれから40年

アンティーク家具のバイヤーに密着したTV番組を見た。

アンティーク家具はそこにあるだけで安らぎを与えてくれるとその人は言う。

それを聞いて私はふと思った、老人は人間のアンティークなのだと。


「あれから40年!」というお決まりのセリフで夫婦関係の変貌を語る漫談家がいる。

結婚したての頃は初々しかった妻が40年も経つと亭主の前で平気でおならをするようになる等々。

そんな変わりようはマイナスイメージで受け取られがちだが逆の見方もできるのではないか。

見知らぬ他人の前ではとても平気でおならはできない。

ということは夫婦は40年の歳月をかけておならをしても気づまりでない関係を築いたのだ。


ほとんどの夫婦は年を取るとともに会話が少なくなっていく。

これもおなら同様に見知らぬ他人どうしなら無言で長時間一緒にいるのは苦痛だろう。

老夫婦の沈黙は安らぎの別名なのだ。



●2020.2.14(金)アンガーマネージメント

運動した後、喉が渇いてたまらず水をがぶ飲みしてお腹を下す、そんな経験は誰しもあるだろう。

その反面、こんな経験もあるのではないか。

喉が渇いているのに何らかの事情ですぐには水分がとれない。

こういう場合、耐え難いと思っていた喉の渇きがずいぶん治まっており飲みたい水の量もお腹を下すほどではない。

怒りを抑えるアンガーマネージメントが近年世に知られるようになった。

怒りは最初の6秒間がピークで、その6秒間をやり過ごせば怒りはおさまるという。

喉の渇きもそれと似たようなものだ。


亡くなった父はよく酒を飲む人だった。

胃が痛いとか胃にしみるとか言いながらも飲んでいた。

子供の頃はそんな父に呆れていたが私も同じような酒飲みになってしまった。

二日酔いで胃が重く今日は飲めないと思ってもアルコールで麻痺するのか、飲み始めるとけっこう飲めるのである。

父も同じ感覚で飲んでいたのだろう。

酒好きが問題なのではなく胃が痛かろうが飲まずにはいられない思いのほうが重要なのだ。

若い頃はそんなふうに気取っていたが晩酌などの飲酒癖は単なる習慣だ。

アンガーマネージメントを応用して酒が飲みたくなったら6秒間ほど他の事を考えて気を紛らわせばよい。

気を紛らわすこのやり方で私の禁煙はまる1年が過ぎてもまだ続いている。



●2020.2.17(月)カルーセル

当たり前のことだが言葉には意味がある。

言葉が単なる記号なら「おかずがおいしい」は「AがBだ」と言ってもよい理屈になる。

かず」はいくつかのかずの副食物、「しい」も「しい(よい・好ましい)」を丁寧に言った語である。


英単語も同様に一つ一つ意味があるだろうが自国語ではないのでその意識が薄れがちだ。

たとえばソフトボールの「ウインドミル投法」は記号的な専門用語のように思われるが「ウインドミル」は「風車」という意味の語だと知ればすとんと納得できる。


言葉の中で最も意味を意識しないのは固有名詞である人名だろう。

しかし「田中」や「山口」などの人名も普通名詞としてとらえれば意味はある。

「カルーセル〇〇」という芸能人がいる。

この芸名に使われている「カルーセル」が「メリーゴーラウンド」と同じく「回転木馬」という意味の言葉であることを私は最近知った。



●2020.2.19(水)方針変更

ふとした思いが頭に浮かぶごとにパソコンに入力する。

暇な時にそれらの断片の一つを取り上げて考察を加えたり、あるいは関連する内容の幾つかを結び付けたりして一編の記事をこしらえる。

そんなふうにしてこの「ぽつりぽつりと」にこれまで記事をアップしてきた。

しかしそういった簡単な作業さえ近頃は煩わしくなった。

最初は好きでやり始めたのにこれでは本末転倒である。

そこで方針の転換を図りたい。

下手な操作で無理にふくらませることなく次回からは断片的なメモを箇条書き的に書き連ねるだけにする。

これこそ掛け値なしの「ぽつりぽつりと」である。

千字前後の長さになったらアップし、アップする日付けをタイトルにしよう。



●2020.2.21(金)

・数日前、車を運転していて右折車線で信号停止した。

青になって前のトラックが右折を始めたがそのスピードが遅い。

箱型の荷台に有名なパンのメーカー名が書いてある。

ゆっくりした曲がり具合からするとけっこうな量のパンを積んでいるのだろう。

これからあちこちのスーパーなどにおろして回るのだろうな。

パンがたくさん売れてこの運転手さんの稼ぎにもつながればいいな。

トラックに続いて右折しながらそう思ったのだが私は自分に感心してしまった。

「トロトロ走ってたら信号が黄色になるじゃないか」

前の車がのろい場合、私はそんなふうにイラつくことが多かったのだ。


・世界地図の話だが、日本と韓国と中国の東側の地図は見慣れている。

その他、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリアなどの地図もそれぞれ頭に浮かぶ。

しかしこれらの地域の横の位置関係となるとあやふやだ。

北半球を例にとるとニューヨークやパリが東京より北に位置していることは知っていてもマドリード(スペイン)が東京より北にあることを知らない人は多い。

以下のようなこともピンとこない人がいるのではないか。

カイロ(エジプト)やニューデリー(インド)より那覇(沖縄)が南にある、つまり赤道に近い。

ハワイよりもフィリピンやグアムが赤道に近い。


・職場にかかってきた電話を同僚が取ったとする。

「いつもお世話になっております」

「え、どういうことでしょう?」

「それではちょっと」

「その件については承知しています」

「と言われましても社長が…」

「はあ、まあそうですよね」

「分かります、分かります」

「ではこれで」

こんな場面はどの職場でもしょっちゅうあるはずだ。

電話の相手が誰かも分からず聞こえるのは同僚の受け答えだけ。

何の話なのかモヤモヤした感じで聞くともなく聞いている。

この感覚は人付き合い一般の感覚に似ている気がする。

他人だろうが身内だろうが相手のことは電話の受け答えを聞いている程度にしか分かっていないのではないか。


・上記の続きめいた話になる。

興味関心のある人を前にすると相手の全てを知りたく思う。

「腹蔵なく」「肝胆相照らす」「腹を割って」「一心同体」

親密な関係性を示すこれらの言葉も前向きなイメージがある。

だが果たしてそうだろうか。

ある芸能人夫婦がテレビ番組で自分たちのことを語っていた。

妻を愛するあまり夫が家の中でも外出先でも妻について回るという。

夫本人はできればトイレも一緒に入りたいとのことだった。

同じ程度に求め合っていればいいが少しでもバランスが崩れたら鬱陶しくなることだろう。

「不即不離(かず離れず)」くらいがいいのではないか。



●2020.2.23(日)

・美術展に出かけると私は彫刻よりも絵画を熱心に観る。

好みはさておき芸術として優れているのはどちらだろうかと考えてみた。

3次元の芸術である彫刻に比べて絵画は2次元だから彫刻が上だという考えもあろう。

逆に3次元の世界を2次元で表現できるからこそ絵画が上だとも言えそうだ。

食べ物で言えば「仙豆せんず」とフルコースはどちらが優れているだろうか。

仙豆とは人気漫画『ドラゴンボール』に登場する大豆くらいの大きさの豆で栄養価が高く1粒で10日間飢えをしのげる。

味はそれほどでもないという設定だがもし美味ならば勝負はどうなるだろう。

次はレジャーについて。

一人キャンプが密かなブームになっているようだが豪華客船での世界一周と比べるとどちらが価値あるレジャーだろう。

仙豆ほどの原始宇宙がビッグバン以来膨張し続けているところを見ると、何事も今のところは原点回帰、簡素化より展開性、多様性に軍配が上がるのだろうか。

そしてやがて宇宙が収縮に向かえばあらゆる価値観に影響が出てくるだろうか。


・刑事ドラマが好きでよく見るが、ドラマであれ現実の裁判であれ弁護士というのは難儀な仕事だと思う。

自分が弁護する容疑者が必死で無実を訴えるならやりがいがあるだろう。

だが無実を主張しながらも態度が不真面目で弁護士自身が容疑者を無実だと思えない場合、弁護する気にならないのではないか。

つねづねそう思っていたのだが次のような考え方があることを知った。

弁護人の仕事は何か、それは被告が犯人であることを立証するに足るだけの証拠を検察が十分に積み上げたかどうかを検証することである。

なるほどと合点がいった。


・小さな浮雲が青い空をゆっくり流れていく。

そんな清々しい情景にたとえるのはそぐわないのだが、透明な目やにみたいなものが眼球の表面をゆっくり流れるのが見えることがこれまでよくあった。

しかし私の目の老化はその程度では止まらなかった。

驚いたから2020.2.6と日付けもメモしている。

視界の端に小さな黒い虫が飛んでいるのが見えた。

小バエだろうかと思ってそちらに目を向けても何もいない。

そんなことを数回繰り返して覚った。

これが話に聞いていた飛蚊症なのだと。

肉体の劣化に関するこんな自覚が積み重なっていくことで死を受け入れる心づもりができていくのだろう。

先日バス停に向かって歩いている途中、もう長いこと走っていないなと思った。

そこで小走りに走ってみるとまだ大丈夫だった。

小学生の頃は廊下で走るなと叱られたが、そのうち老化で走れなくなる日が来るのだろう。

車でバックする時も首まわりが固くなっていて後ろを向くのに難儀する。

難儀すると言えばお金がないと自由に買い物もできず遊びにも行けない。

不自由という点で共通することを実感した人が「借金で首が回らない」という表現を編み出したのだろう。



●2020.2.25(火)

・かつて愛煙家の男どもは屋外だろうが室内だろうがところかまわず煙草をスパスパ吸っていた。

それが今や気の毒なほど毛嫌いされ片隅に追いやられている。

愛煙家に限らず世の亭主一般も同じだ。

かつては仕事から帰ると一番風呂に入りちゃぶ台の前にどっかと胡坐をかく。

そして子供が何と言おうとナイター中継にチャンネルを合わせてビールを飲む。

これも過ぎ去った過去の栄光だ。

現代のけなげな亭主は「亭主関白」のメンツをかなぐり捨てて皿洗いにチャレンジする。

たかが皿洗いされど皿洗い、「男子厨房に入らず」で育った亭主には海図なき航海への雄々しくも悲壮な船出である。

それを知ってか知らずか女房はつれなく「ウチの旦那ったら皿洗いくらいでドヤ顔をしてほめてもらいたがるの」と井戸端会議のネタにする。

亭主は事ここに至ってスパルタクスの反乱を起こすもすぐに鎮圧される。

「皿洗いぐらいで偉そうな顔しないでよ。主婦の仕事のほんの一部じゃない」



●2020.2.27(木)

・一昨日テレビで次のような雑学クイズをやっていた。

チャーハンをパラパラにするためには何を入れたらいいか。

選択肢はレモン、ゴマ、かつお節の三つ。

中華料理店と違ってガスの火力の弱い一般家庭で作るチャーハンの話である。

正解はゴマ。

ゴマは保存用食品として乾燥されているからチャーハンの米の水分をよく吸収するのだそうだ。

それにゴマは小さいから米粒と米粒の間に入り込む点も効果的だということであった。

しかし天邪鬼の私は異を唱えたくなる。

過ぎたるは及ばざるがごとしであまりにパラパラなチャーハンよりも少ししっとりしたチャーハンが私は好きだ。

袋麺の焼きそばを作る時も私は粉末ソースをふりかけた後、水分を完全には飛ばさない。

この問題は考えれば奥が深そうだ。

パリパリが命の煎餅でも近頃は濡れ煎餅なるものがある。

おにぎりの海苔もラッピングに工夫を凝らしたコンビニおにぎりのようにパリパリの状態で巻くのが好きな人もいるだろう。

その一方で遠足や運動会の時に母親が作るおにぎりのようにしっとりと貼り付いているのが好きな人もいるだろう。

次に天丼と天とじ丼が頭に浮かんだ。

なぜカラッと揚がった海老天を卵でとじて台無しにするのか。

天丼派の人はそう言うだろう。

続いてカツ丼はどうかと考えてみたが名前が浮かばない。

「天丼とカツ丼」に対するのは「天とじ丼と?」

息子に聞いてみた。

「カツ丼を卵でとじたやつは何と言うかな? カツとじ丼? 卵とじカツ丼?」

息子いわく「カツ丼はもともと卵でとじてるやろう」


・タワーマンションの高層階は一種のステータスシンボルになっている。

マンションでなくても事情は同じで、山の手、下町とはよく言ったものだ。

私などはマンションの低層階や下町に住むほうが生活面では便利だろうと思うがそれは貧乏人のひがみの裏返しかもしれない。

近ごろTV番組である女性芸能人が料理の盛り付けをしているところを見た。

その芸能人は東大卒の美女で夫も著名な音楽家である。

彼女が料理を盛り付けているところを見ているとセレブの日常が勝手に私の脳裏に浮かんできた。

高級スーパーで上質な食材を買い、おしゃれな料理を作って夫や子供の帰宅を待つ。

子供も有名私立校に通い上品に育っていることだろう。

セレブのそんな満ち足りた日常は羨ましいと思う一方でどこか物足りない。

私のその思いはトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文に通じるような気がする。

「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸の形がある」

たしかに貧乏人はさまざまな喜怒哀楽を生きている。

私も子供の頃は少ないおかずを多くの兄弟で奪い合って食事をしていた。



●2020.2.29(土)

・一昨日の朝に目覚めた時、夢の内容をはっきりと覚えていた。

忘れないうちにと寝床の中でスマホの音声レコーダーに吹き込んだ。

それをもとにして夢を再現してみる。


街角で若い女性が声をかけてきた。

夢の中の私もそれなりに若かった。

「ねえ、『星の王子様』ごっこしない?」

具体的にはどんなことをするのか問うと彼女は言った。

「道をはさんで座ってご飯を食べながらお話をするの」

『星の王子様』にそんな場面があったようには思われないがとりあえず承知した。

指定された2メートルほどの幅の道に私は少し早めに行った。

路面電車が走る大通りに並行する裏道なので人通りはけっこう多い。

その道の縁石に腰かけて私は一人で先に食べ始めた。

カツ丼か何かの丼物だったが食べているうちに中身がぜんざいにかわった。

彼女が遅れてやって来た。

「行かなくちゃならないの、ごめんなさいね」

そう言うと路面電車に乗ってどこかへ行ってしまった。

取り残された私は暫く空を見て時を過ごした。

そばを人々が次々と行き過ぎるが気にならない。

何人かは私と同じように道端に座って連れの人と話をしたりした。

やがて私は立ち上がって丼を洗うために近くの公衆トイレに入った。

トイレの洗面所は野外キャンプ場の炊事場ふうのつくりだった。

コンクリート製で蛇口が幾つか並んで付いている。

洗おうとするとぜんざいのカスが丼の内側にライン状に付いている。

その紫色のラインは洗ってもなかなか落ちなかった。

するとかつての職場の尊敬する先輩が通りかかり私に気づいた。

「どうしたの?」

「夢の後片付けです」

私はそう答えて微笑みながらも目に涙を滲ませて丼を洗い続けた。

その切なさだけがわずかに『星の王子様』ふうだった。


以上で終わりなのだがいかにも夢みたいな点がいくつかある。

私に声をかけてきた女性自体も得体が知れない。

某有名女優と高校の同級生とが合体したような存在だった。

その女優も同級生も実在する人物なのだが不思議なのは私がその両者に対して何の特別な思い入れもないという点だ。

ともあれ久しぶりにストーリー性の強い夢を見た。

夏目漱石の『夢十夜』も漱石自身のこんなふうな夢を収録したのではなかろうか。



●2020.3.2(月)

・朝の早い時間帯に家を出て車を走らせた時の話である。

濃い霧がかかっていて視界がよくなかったが何とも言えず幻想的でいい感じだった。

これが旅先ならば周囲の景色が見えないのは残念なことだろう。

この話は人間関係とリンクするように思われる。

他人と違って毎日顔を合わせる家族の顔を凝視することはない。

近しい人は多少ベールに包まれているほうがいい。


・江戸時代に走馬灯というものが娯楽として登場した。

どんなものか知らない人はウイキペディア等を参照されたい。

この走馬灯は比喩として「いろんな思いが走馬灯のように駆け巡る」などと使われる。

回転する影絵のデザインが馬だったことから「走馬灯」と呼ばれ、「駆け巡る」という表現も馬にちなんでのことだろう。

走馬灯の実物を見た人は殆どいないだろうが同じ仕組みのものが現代にもある。

お盆などの法事の時に仏壇の両脇に置く回転式の灯篭がそうである。


・私の住んでいる地域は20ほど前に造成された住宅団地である。

もともとこの地域に土地を持っていたと思われる人たちの家は敷地が広い。

道路に面した部分に自然石を積み上げて立派な石垣を組んでいる家もある。

しかし大半の建売住宅は石垣ではなくコンクリートの吹き付けである。

それでもちょっと見には石垣に見えるような模様になっている。

ある時じっくりとその石垣もどきのデザインを観察してみた。

すると数メートルおきに同じ模様が繰り返される仕組みになっている。

建売住宅だから当然だとは思いながらもちょっとがっかりしたことだった。


・殺人事件の中で最も悲惨なのは親子間での子殺し、親殺しだろう。

子供が乳幼児だった頃のそんな親子のありさまを想像してみた。

その子が将来自分を殺しに立ちはだかるとも知らず親が子供をあやしている。

あるいは自分が将来その子を手にかけることになるとも思わず親が子供をあやしている。

当初は愛情で結ばれていた親子が加害者と被害者の関係に変わるなんという悲惨さ。

人間関係は映画フイルムの初めと終わりをくっつけるように急転するものではないがそれにしても痛ましすぎる。


・プライドは自尊心と訳されるがプライドが高い人は自らの実体以上に自分を尊いと考えているのだろう。

その虚像に追いつくように努力するなら高いプライドも有意義だがそうでなければ単なるツッパリに過ぎない。

自然と人間が共存している里山がやすらぎを与えるように、身の丈に合った自然な成長を目指したいものだ。

山を切り拓き海を埋め立て地面をアスファルトで覆い高層ビルが林立する都会は華やかであってもどこか息苦しい。



●2020.3.4(水)

・「煮え湯を飲まされる」という慣用句の意味を正確に理解していない人がいる。

強引に口をこじ開けられて煮え湯を口内に注ぎ込まれる。

誤解する人はそんなふうにイメージ化しているのではないか。

「ひどい目にあう」という点では間違っていないのだが。

しかし煮えたぎる湯を拷問のように他人に無理やり飲ませる状況は考えにくい。

「煮え湯を飲まされる」といっても飲むのはあくまで自分自身である。

ではなぜ煮え湯を飲むのか。

煮え湯とは思わないからである。

なぜ思わないのかと言えば煮え湯を出す人が親しい人だからである。

具体的な場面をイメージ化しやすいように煮え湯を熱すぎるお茶だとしよう。

「粗茶ですがどうぞ」

「いただきます」

親しい人が出してくれたお茶だからまさかやけどするほど熱いとは思わない。

そこでガブリと飲んでアチチとのたうち回ることになる。

このように「煮え湯を飲まされる」とは「自分が信じていた人に裏切られてひどい目にあう」(広辞苑)という意味なのである。

自分が煮え湯を飲んだのであっても結果として被害を受けたのだから「煮え湯を飲まされた」と表現したくもなるだろう。

まさかと思っていた相手から害を受けるという点では「飼い犬に手を嚙まれる」という慣用句も同じだ。

私の姉夫婦がかつて犬を飼っていたが文字どおりその飼い犬に手を噛まれた。

すると姉はご亭主に命じて躊躇なく保健所送りにした。

私はその話を聞いた時、なんだか犬よりも姉のほうが怖い気がした。

私も現在女房殿の飼い犬同然の身である。

ご主人様のご機嫌を損なわないように懸命に尻尾を振る毎日である。


・「近くまで来たからちょっと寄ってみた」と言って友人宅を突然訪れたとする。

友人が独身ならまだしも家族持ちならアポなしの訪問は歓待されるとは思えない。

ビールなど出してくれたとしても一方では早く帰ってほしいという思いもひしひしと感じることだろう。

そこでおもむろに百万円の札束をポケットから取り出す。

宝くじに当たったおすそ分けだと言ってそれを進呈したらどうなるか。

手のひらをかえしたようなもてなしが始まるだろう。

私はそれは人間のあさましさではなく自然な姿だと思う。

逆のケースもまた然りである。

家庭で冷遇されている亭主が癒しを求めて居酒屋やスナックに通う。

するとママさんが親身になって話を聞いてくれる。

気心が通じたと思っていい気になって通いつめる。

しかし金の切れ目が縁の切れ目である。

金払いが悪くなった途端にママさんの恵比須顔は閻魔顔に変わって出禁となる。

同じ閻魔顔でも女房殿からは追い出されないだけありがたいと世の亭主は感謝すべきである。



●2020.3.6(金)

・これまでアルファポリス上に50作以上の小説をアップしてきた。

それらを時折読み返してみることがある。

するとどの作品の主人公であれ、作品完結後の暮らしぶりがそれぞれに想像できてしまう。

自分が虚構でつくりあげた人物とはいえ幸あれかしと声援を送りたい気持ちになる。

ああ なんて 街それぞれ美しいの

ああ なんて 人それぞれ生きているの (谷村新司『三都物語』)


・車を運転していて考え事をしたり歌を口ずさんだりすることがけっこうある。

慣れた道での運転ではあっても交通安全の観点からはよくないことである。

免許取り立ての頃はわき見運転や前方不注意などありえなかった。

バックミラーを見るゆとりさえなくハンドルを握り締めて前方を注視していたものだ。

初心忘るべからず。


・パソコンの最近のマウスは光学式が一般的だが当初はボール式センサーだった。

最近の若い人はボール式のマウスは見たこともないのではなかろうか。

私はマウスの裏側を開けてボールを支えている3個のローラーを掃除するのが好きだった。

それと同じ作業を昨日掃除機で経験した。

掃除機の滑りがなめらかでなくなったのでヘッドの裏側を見てみた。

すると掃除中に巻き込む糸くずやほこりがローラーの軸にこびりついていた。

これではなめらかに進むはずがない。

爪楊枝等を使って取り除いたのだが頑固にこびりついていたので結構な時間を要した。


・10円玉にタバスコを垂らしたらきれいになるという豆知識がかつて世の中に出回ったことがあった。

試してみると新品のようになったので感動したことだった。

10円玉については他に小学校の頃を思い出す。

理科の授業だったか、先生が10円玉の表面の緑色になっている部分を指で示して言った。

これは緑青ろくしょうというもので猛毒だから舐めたら死ぬとのことであった。

今ならば緑青はそんなに危険なものではないとネット等で調べられるが当時は怖かった。

子供を必要以上に怖がらせるのは罪である。

私は捨て子だったと小さい頃誰かに吹き込まれて長い間不安に思っていた。

そんな種類の冗談は緑青の話以上に悪質である。


・盗撮や痴漢を繰り返して免職になるというパターンのニュースをしょっちゅう耳にする。

なんと愚かなのだろうと思う。

愚か者だから自分が負うことになる代償の深刻さも事件が発覚するまで実感できない。

そういう輩は「小人閑居して不善をなす」で私が思うに暇なのである。

毎日ルーティンワークをこなすだけ、そのくせ生活に困らないくらいの給料はもらっている、そんな種類の人間なのではなかろうか。

創意工夫を凝らして仕事に打ち込む人間に盗撮などする暇はないしそんな気も起きない。

それは過剰なストレスを抱えている側の人間も同じだろう。

行き詰まって自殺や凶悪な犯罪に走っても盗撮などはするまい。



●2020.3.8(日)

・若い女性にどんな男性と結婚したいかと聞くと「優しい人」という答えが多い。

「生活の苦労も知らず甘っちょろいものだ、優しさだけで生きていけるものか」

これまでそんなふうに思っていたが甘っちょろくて優しさを求めるのは男の方かもしれない。

キャバ嬢にちやほやされて「携帯の番号を教えてもらった」と鼻の下を伸ばしている客をテレビで見た。

「それはあんたが店に落とすお金目当てのビジネスだ、目を覚ませ」

そう言ってやりたくなったが、喜んでインタビューを受けている客本人もそれは承知の上かもしれない。

私に言わせれば男は女よりも寂しがりやだ。

独居老人ともなるとそれはなおさらのように思われる。

老人男性が女に言い寄られ同棲なり結婚なりして一緒に暮らすようになる。

そうこうするうちに最後は高額な生命保険金を掛けられて不審な死を遂げる。

そんな事件が時折ニュースになるが私はこう思う。

キャバクラ通いの酔客と同じく騙されていることを承知の上で死を受け入れる老人男性もいるのではないか。

孤独死を待つだけの余生よりも優しさに包まれて命を終えたい、それが偽りの優しさであっても。

そんな選択をする老人はいないと言い切れるだろうか。


・定食屋に行くと「ご飯のお替りは自由です」と言われることがある。

ありがたいが年を取るとお替りするほどは食べない。

若者がお替りをする分、老人には割引をしてほしいものだ。

しかしこれは自分勝手な考えだろう。

映画館は老人割引がありバスや電車にはシルバーシートがあり、むしろ老人のほうが多くの恩恵を被っている。

行きつけの居酒屋などで顔なじみの客を見て「また会いましたね」と奇遇であるかのように驚くのも自分勝手な感覚である。

客観的に考えれば向こうが自分よりも頻繁に来店しているということだろう。


・うなぎ屋の換気扇の下で匂いを嗅ぎながらご飯を食べる話が落語などに出てくる。

それと似たようなことを思いついた。

熱燗の日本酒やお湯割りの焼酎の湯気をシンナー遊びみたいに吸って酔えないだろうか。

可能ならば安上がりだがさすがにみみっちい。

かつての同僚がバレンタインデーにチョコをもらって食べた時の話を思い出す。

食べているうちに体がポッポと温まってきたそうだ。

おかしいと思って箱を見るとウイスキー入りのチョコで、彼はアルコールが飲めない体質だった。

下戸の人はチョコでほろ酔いになれていいなと羨ましく思ったが本人は具合が悪くなったと言っていた。



●2020.3.11(水)

・「お前は十六魂だから、と言いかけて」(太宰治『葉』)

ずいぶん前にこの作品を読んだ時から「十六魂じゅうろくたまし」という言葉が気になっていて今回辞書を引いてみた。

すると「移り気。むら気。また、そのような人。落ち着かない人」とある。

16歳くらいの多感な年ごろの性情を言うのだろう、現代なら「中二病」というところか、それなら「中二病」は「十四魂」とも言える。

そんな感想を抱いたのだが違った。

辞書によれば語源は「魂を十六も持っている意から」ということだ。


・他県に出張し仕事を終えて夜の街に繰り出す。

見知らぬ土地だから興奮と緊張を覚える。

小中学生の頃そんな興奮と緊張を感じさせられたのは校区外に出る時だった。

友だちと連れだって隣の校区に足を踏み入れるのはちょっと勇気が必要だった。


・野良猫の侵入を防ぐためにペットボトルに水を入れて玄関先などに置いてある家がある。

この方法は1980年代に全国に広まったようだが大して効果はないらしい。

うちの近所を散歩しているとその上を行く対策をとっている家があった。

なんと家の周囲にずらりとサボテンの鉢を並べているのである。

もっとも、猫よけでなく単にサボテンの愛好家なのかもしれないのだが。


・眼鏡が汚れるのが不思議でならない。

眼鏡が何かに接触することはないし自分の指でレンズを触ることもないのに。

専用の布で拭いても汚れの成分によってはなかなか綺麗にならないこともある。

私はあれこれやってみて非常に簡便な方法を見出した。

食器洗い用の中性洗剤をレンズに1滴ずつ落として水で流すだけでOKだ。

こする必要はない。

眼鏡をかけている人はぜひお試しあれ。


・人はなぜ怒るのか。

怒ればその問題を何とかできると思うからだろう。

怒ってもどうにもならないと諦めた時は憂鬱や悲しみに襲われる。

長年しいたげられ怒ることを忘れた人々の心根が優しいというのもうなずける。

他人に怒りをぶつける人はもちろん、怒ることを我慢しているという人もまだまだ傲慢なのだろう。

恋愛の告白についても似たようなことが言える。

好きな人に好きと言えないのは相手のことよりもまだまだ自分を好きなのだろう。


・前日に録画しておいた番組を翌日に時間帯の早いものから順にみる。

以前はそんなふうにして全て見終わっていた。

今は逆の順序で見ることが多い。

経営が苦しくなった会社の自転車操業、借金をとりあえず利子だけ払う。

そんな場当たり的な感じになってしまい、録画したのを全部見る計画性がなくなってしまった。



●2020.3.13(金)

・耳があるから音が聞こえるように美味しいと感じるのは舌があるからだ。

しかし味覚は舌だけに全てを依存するものではない。


先日家人がケーキを作って失敗した。

見た目もシフォンケーキだかパウンドケーキだか分からない。

口に入れてもぼそぼそした感じで美味しくない。

けれども咀嚼しているうちに案外いけると思った。

玉子も砂糖もけちっていないから味が悪いはずがない。

問題はぼそぼそとした歯ごたえ、食感にあったのだ。


このように食感は味を大きく左右する。

私は刺身は通常の三分の二くらいの厚さに切ってほしい。

何なら半分の薄さでもいい。

それでは魚の味は分かるまいと笑う人も魚を3枚におろしてさくにかぶりつきはすまい。

同様にいくらナマコが好きな人でもナマコの丸かじりはしないだろう。


食感以外にも味を左右する要素がある。

風邪を引くとものを食べても美味しくないのは口から鼻に抜ける時の嗅覚が低下しているからだ。

つまり匂いも味の一部と言えよう。

すき焼きの牛肉を口に入れ炊き立てのご飯を頬張る。

よだれが出そうだが牛肉やご飯の匂いが苦手だと言う人もいる。

私はと言えば鶏肉が苦手だ。

なぜ嫌いなのか考えてみたがやはり鶏肉独特の匂いのせいのように思う。


鶏肉が苦手な人が等しく不満に思うことがある。

弁当類に鶏の唐揚げが入っていることである。

幕の内弁当だろうが海苔弁だろうが必ずと言っていいほど唐揚げが入っているのだ。

弁当以外にも不満がある。

とんこつだろうが塩だろうが醤油だろうがラーメンのスープには殆ど鶏も使われている。

妻と街に出た時、あごだしラーメンの店があったので喜んで入った。

あごだしとはトビウオで取った出汁だしである。

「魚介系の出汁は嬉しいねえ、僕は鶏が苦手だから」

食べながらマスターにそう言うとマスターは申し訳なさそうな顔をした。

「このスープにも鶏は入ってます」

私は逆上しそうになった。

私の周囲にも鶏が食べられない人はけっこういる。

なのになんで弁当だろうがラーメンだろうがやたらと鶏を入れるのか。


そこで独自のラーメンのレシピを作ってみた。

鶏だけでなく動物性の食材を一切使わないヘルシーラーメンである。

出汁は昆布とかつお節と干し椎茸の三つを使う。

グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸の三大旨味成分を重ねれば味がくどくなると言われるかもしれないがうどんと違ってラーメンなのだからくどいくらいでいい。

この出汁に醤油を適当に2種類ブレンドしてスープは完成。

麺は市販の棒ラーメンの乾麺を最初から入れる。

その方が麺の小麦粉の成分が溶け出しスープにコクが出てうどんとの差別化が図れる。

具材は厚揚げの揚げてある面を薄く切ってチャーシューがわりにする。

湯通しせずに使うので厚揚げの油がスープにコクをもたらす。

厚揚げの中心部の残った白い部分はサイコロ状に切りレタスその他の野菜に混ぜて豆腐サラダとしてラーメンの付け合わせにする。

以上が根幹となる部分でトッピングは他にもいろいろ工夫できる。

調べてみるとラーメンの定義はないということなので素人でも試行錯誤しながら自分だけのラーメンを作り出せばいいのではないか。



●2020.3.15(日)

・車を購入して年月が経つとあちこちガタがくる。

修理を繰り返してもいずれ廃車となる。

人間の体に似ている。

数年おきの車検は人間ドックといったところか。

先日車を運転していて道の両側に数軒の病院が目に入った。

病院の過当競争はないのだろうかと思ったが私個人も病院に何度も行ったのだからやっていけるのだろう。

ふと車との比較に思いが及んだ。

車検は別として車を修理するために整備工場に車を持ち込んだことはほとんどない。

それに対して病院へは何度も体を運んだということは車よりも人体のほうがはるかに故障しやすいのだろう。

しかし人体が車よりも優れている点がある。

自然治癒力である。

私は貧乏な上に病院嫌いだからなるべく病院へは行かないようにしている。

体に変調をきたしても何日か経てばたいてい快復する。

病院に行っていたら処方された薬が効いたからだと思うことだろう。


・鍋を一つ二つ洗って食洗機の乾燥機能を使って乾かすのは電気代がもったいない。

そこで私は洗った後ガスコンロで軽く空焚きして水分を飛ばすようにしている。

ガスを止めた後、熱が冷めたら流しの下にしまおうと思ってテレビを見たりする。

すると鍋をしまうことはすっかり忘れてしまう。

そんな種類の物忘れが増えるたびに年を取ったことを実感する。

四六時中神経をピリピリと張り巡らせておくことに脳が耐えられなくなったのだろう。

就寝前にベッドに入ってスマホを見ていると手先が冷たくなり持つ手を替える。

冷たくなった手を股に挟んで温めながら思う。

若い時と違ってもう心臓は体の隅々まで血液を巡らせることに疲れたのだろうと。

膀胱も張りがなくなったのだろう、トイレに立つ回数が増えた。

胸や下腹部に手を当てご苦労さんと臓器をいたわりたくなる。

私は晩酌が好きだが、この分では胃や肝臓もそろそろ勘弁してくれと思っているのではなかろうか。


・私はカラオケが得意なほうである。

ジャンルにとらわれず昔の歌から最近の歌まで幅広く歌う。

若い時の話だがなじみのスナックに迷惑な客が来ればカラオケで撃退した。

その客が演歌好きならこっちも演歌、ポップスならポップスというふうに相手の得意なジャンルをその客よりも上手に歌うのである。

相手が次第に盛り下がり早く帰りたくなるようにもっていく。

ところが中には私のそんな姑息な戦術にめげない猛者もいる。

私がその客の好みに合わせてムード歌謡でも歌おうものならそれを利用して店の女の子とダンスまで始めたりする。

何をか言わんやである。


・私もそうなのだが自宅ではクシャミやオナラを思いきりするという人がいる。

気兼ねがいらない自宅ではどんなに音が出ようがスッキリしたいものだ。

しかし別の考え方もあるのではないか。

普段大きなクシャミをしている人が人前だからと器用にクシャミを小さくするのは難しい。

失敗しても構わない自宅で上品なやり方を練習してはどうだろう。

それに老醜、老害という言葉もある、自宅とはいえ「親しき中にも礼儀あり」だ。



●2020.3.18(水)

・久しぶりに純文学を読んだ。

と言ってもパソコン上で青空文庫を利用してのことだが。

読んだのは高見順の『如何なる星のもとに』

「最後の文士」と呼ばれる作家が何人かいるが高見順もその一人だ。

風貌は政治家の鳩山由紀夫氏に似ている。

なぜ読んだのかと言えば高校生の頃に学校の図書館から借りたのだが途中で投げ出してしまったからだ。

それも無理からぬことで高校生には不向きな作品だ、今回読了してそう思った。

好きな作家がいる人なら分かると思うが、小説を読むということはその作家の「文体」を読むということである。

これは私が考えついたことではなく広く知られている読書論だ。

今回私が『如何なる星のもとに』を読んで思ったのは小説を読むということは文体もさることながら「時代」を読むことでもあるということだ。

この作品には昭和の10年代という時代が色濃く影を落としている。

ところで高校生の時に私がなぜこの作品を借り出したのかと言えば『如何なる星のもとに』というタイトルをカッコイイと思ったからである。

同じ高見順の『わが胸の底のここには』というタイトルも好きだ。

高橋和巳の『我が心は石にあらず』もタイトルに惹かれて読んだ。

この作品のラストは印象深かったが作品全体としては『悲の器』の方が面白かった。


・セレブなのにあえて家にテレビを置かない、あるいはあったとしても殆ど見ない。

それは「セレブなのに」でなく「セレブゆえ」だと解釈すべきかもしれない。

で、貧乏な我が家では朝起きるととりあえずテレビをつける。

それは措くとして寝る前にベッドの中で自分が何気なくスマホをいじっていることに気づいた。

しらずしらずのうちにスマホ依存症になっているのかもしれない。

化石人類の私でさえこうならば幼い時からスマホに慣れ親しんでいる若者がスマホを忘れてきたことに外出先で気づいたらどれほどの焦燥感に駆られることだろう。


・笑顔やユーモアはゆとりある精神から生まれる。

ゆとりある精神はゆとりある生活から生まれる。

だから総じて言えば私の親くらいの世代の人は笑顔が少なかったように記憶している。

今ならば親族が集えば笑顔の花が咲き談笑が始まることだろう。

昔は違った。

久しぶりに会っても真顔でお互いの近況や心配事を語り合っていたような印象がある。

写真も同じで昔の人の笑顔の写真はめったにない。

だいたいが当時はスナップ写真の概念はなく写真は全て何らかの記念写真のようなものだったのだろう。



●2020.3.20(金)

・年を取ると体のあちこちが柔軟性を失って硬くなる。

これを私は死後硬直になぞらえて生前硬直と呼んでいる。

我ながらうまいネーミングだと思う。

背中を掻く時にお爺さんやお婆さんは「孫の手」を使うが孫は「孫の手」は使わない。

なぜか? 孫は生前硬直がなく自分の手が痒いところに届くからである。

さてその生前硬直が私はどんどん進行している。

近ごろ気づいたのだがいつの間にか横座りが苦痛になっている。

左右のどちらに足を崩すかは利き腕と同じく得意、不得意がある。

不得意な方での横座りはずいぶん前からできない。

それに加えて最近は得意な方も体が硬くなってかなり辛い。

片手を床について支えればしどけない年増女のような格好になってしまう。


・同僚との飲み会の場で人間はいかに生きるべきかを熱心に語る。

合コンの席で趣味の話題になってガンプラの魅力を滔々と語る。

こういう人はめんどくさいと敬遠される羽目になるだろう。

しかし「めんどくさい人」というのは考えようによっては誉め言葉なのではないか。

人生論であれプラモデルであれ、その場の雰囲気を読めないほどにあるいはその場の雰囲気を変えてみせるとばかりに熱く語れるものを持っているということは評価に値する。

実際、ガンプラ作りにたけた人は同好の士から尊敬のまなざしを向けられる。

ただ、その価値が理解できない人には「オタク」というレッテルを貼られしまう。

私は高校生の頃、物理をめんどくさいと感じて敬遠していた。

だからと言って物理同好会の部員たちをオタクと揶揄したりはしなかった。


・腎臓の悪い姉が人工透析の関係で手首の血管のバイパス手術なるものをした。

手首の内側のその部分の血管に指を当ててみて驚いた。

トクットクッと脈を打つどころの話ではない。

音を立てているのではないかと思われるほどの速さで血液が流れているのが指を通して感じられた。

安静という言葉があるように寝ている時の人体は穏やかに横たわっているイメージがある。

しかし寝ている時でさえ血液は一時の休みもなく体中の血管をかなりの速さで巡っているのだろう。

大げさでなく人体の神秘というものを感じさせられる。

耳の穴に指を突っ込んで耳を塞げばゴオーッというような音が低く聞こえる。

それは内耳近辺の血管を血が流れている音だとかつて聞いたことがある。

ところが今回念のため調べてみると最近の学説はどうも以前とは違うようだ。

腕の筋肉が活動している音が指先を通して伝わっているとのことである。

姉の血管と同様これも人体の神秘を感じる話だ。



●2020.3.25(水)

・寝ころんでふと目に入った天井のシミが人の顔に見えたり、空に浮かぶちぎれ雲が何かの動物に見えたりするのは誰しも経験することだろう。

心理学用語ではそれをパレイドリア効果とか言うようだ。

有名なロールシャッハテストもその応用なのではなかろうか。

人間が持つこの関係づけの能力をあえて希薄化してみるのも面白いかもしれない。

親子や兄弟間は肉親ゆえのわがままのぶつかり合いでギスギスすることが多い。

家族という名前で呼ばれる関係性を解きほぐしてシェアハウスに住んでいる他人どうしだと思えばどうだろう。

そう仮定すれば家族という集団は捨てたものではないと再認識でき、より良い関係を構築しようという意欲も湧いてくるのでは。


・「うどんにコシはいらない」と言う人がいる。

ある種の卓見だ。

言い方をまねれば「人生に目的はいらない」。

現実的な形ある成果を求めずとも日々をただ誠実に生きればよい。

それがプラトンの言うイデアにもつながりはしないか。


・好き勝手に生きて行けば人は自分の性向の特徴がしだいに増幅されていびつな人間になっていくように思われる。

それを防いでくれるのが他人の存在だろう。

一人で道を歩く時はまっすぐに歩けるが人の行き交う商店街ではそうはいかない。

「年に一度、嫌いな人間にあえて会うようにしている」

芸能界のある著名な人物がそう言っていたが自己の慢心をいさめるねらいがあるのかもしれない。


・人間以外の動物には時間の概念がない。

従って動物には死というものが理解できない。

家族の1匹が死ぬと死骸の回りをうろつき、ある程度の時間が経つと諦めたかのように去っていく。

人間も幼い頃は死というものを意識できない。

だから花を踏みつけたり木の枝を折ったりはもちろん蝉やバッタの羽を平気でむしりとったりもする。

そんな無邪気に残酷な子供がどんなきっかけで何歳くらいから命や死を理解するようになるのだろうか。


・親がまだ存命だった頃、盆や正月には私を含めて兄弟が親の家に集まったものだった。

部下が上司のご機嫌伺いに行く、実家に行くことをそんなふうな感覚でとらえていた。

数年前、遠方に住む姉の家に遊びに行くと姉がこう言った。

「私はもう年だからあんたたちの方から来てくれるのはありがたい」

それを聞いて親を訪ねていた頃のことを思い出した。

実家を訪問するのは、年齢的身体的に動きづらい人間のところへ元気で身軽なほうが出かけて行くという意味合いもあるのだ。


・春らしい気候になってきた。

春眠暁を覚えず。

「wake up」から「get up」までの布団の中は母親の胎内にも似た至福の世界だ。



●2020.3.27(金)

・一千万円当たればずいぶん助かるのだがと宝くじを買い続けている。

しかしいっこうに当選せず心がふさがる一方だ。

そんな折からか知人のブログを思い出した。

もう6、7年も前の記事だが引用させてもらおう。

「俳句には万能破壊フレーズというものがあるらしく、どんな名句にも『それにつけても金の欲しさよ』をつけると、とたんに笑える歌になるそうです」

続けて知人は「ちょっとやってみましょうか」と例を挙げている。

「古池やかわず飛び込む水の音 それにつけても金の欲しさよ」

「菜の花や月は東に日は西に それにつけても金の欲しさよ」

「我と来て遊べや親のない雀 それにつけても金の欲しさよ」

「秋深き隣は何をする人ぞ それにつけても金の欲しさよ」

「やせ蛙負けるな一茶これにあり それにつけても金の欲しさよ」

なるほど確かに笑えもするが切実にお金が欲しい私は自分がぶつぶつと呟いているようで侘しい気分にもなる。

心理学の話だったか何だったか、思い続けると願いはかなうという話を聞いたことがある。

この説を私なりに考えてみた。

例えば「それにつけても金の欲しさよ」と思い続けている人間は常に意識がお金に集中しているはずだ。

そんな人はスーパーのレジ前で他人が財布を開ける時など横目で覗き込んだりしそうだ。

居酒屋のトイレやタクシー内などに財布の忘れ物があれば目ざとく気づくだろう。

そんなことが積もり積もるうち他人の財布を奪ったり猫ばばしたりという行動に出ないとも限らない。

結果として手段の良しあしは別にしてお金が手に入る確率は高くなると言えそうだ。

またこんな話も聞いたことがある。

「志望校を書いた紙を毎晩枕の下に敷いて寝ろ。そうすれば合格する」

先生に言われたとおりに実行した高校生が願いかなって実際に合格したという。

これも理屈で説明がつきそうだ。

「そんなおまじないで合格するなんてありえない」

先生の言葉を聞いた多くの生徒はそんなふうに否定したことだろう。

しかしくだんの生徒はこう考えたのではないか。

「面白いことを聞いた、とりあえずやってみよう」

物事を前向きにとらえる生徒は宿題にしても他人のノートを写してごまかしたりはすまい。

この生徒が合格できた真の原因は授業や家庭学習において努力を惜しまなかったからだろう。


・お金に困っている人は「ひんすればどんする」という傾向が強い。

「貧すれば鈍する」とは直訳ふうに言えば「貧しくなると頭の働きも愚鈍ぐどんになる」ということだ。

私にもぴったりと当てはまるが一昨日印象深いテレビ番組を見た。

他人にいている霊が見えるという若手芸人がいる。

その彼が何人かの芸能人を霊視した結果を番組内で発表していた。

私が感銘を受けたのは霊うんぬんの話ではなく彼が流れの中で語った次の言葉である。

「マイナス思考は物事を俯瞰ふかんで見る能力でもあるんです」

この考えによれば「小心翼々」「右顧左眄うこさべん」など、貧乏人の特徴であるかのようなそんな惨めったらしさも周囲への気配り、配慮につながると解釈できそうだ。

そして、自信にあふれて思いどおりに突き進むセレブは目の前の1本の道しか見えない狭い視界で生きているということにもなりはしないか。



●2020.3.29(日)

・「大は小を兼ねる」という言葉がある。

かつて「大きいことはいいことだ」という歌詞のCMソングもあった。

ところがIT革命と相まって世の中の価値観は重厚長大から軽薄短小へ舵を切った。

パソコンで言えばデスクトップ型よりもラップトップ型がもてはやされるような流れだ。

IT化の進展には好ましくない影響もあるように私は思う。

自分の働きをもとにして人は生活に必要なものを手に入れる。

その当たり前のことが最も強く感じられる経済活動は物々交換だろう。

私が働き始めた頃は現金で給料をもらっていた。

その頃が懐かしく想い出される。

給料を手渡しで貰う喜びもあったし袋に入っている金額内でひと月を過ごさねばならないという実感もあった。

そんな大切な感覚が給料の口座振り込みへの移行によって崩壊した。

給料は紙幣や硬貨でなく銀行口座へ送信される数字になった。

給与関係業務の省力化という意義は分かるが働くこととその対価としての給料とが実感的に結びつきにくくなった。

最近はスマホ決済等によってキャッシュレス化に拍車がかかる一方だ。

昔の洋画では折りたたんだ分厚い札束をポケットから出し何枚かを抜き取って飲食代や宿賃を支払う場面がよく出てくる。

あれはお金のありがたみが感じられていいものだ。

私も1万円札1枚よりは千円札が10枚財布に入っている方が豊かな気分になる。


・湿度の高い春の日は懐かしい思い出がよみがえる。

親の仕事の関係で私は転校を何度か経験した。

小学生の頃、春のある日学校の給食室の側を通りかかると給食を調理する匂いが湿気の中に漂っていた。

最近雨の日が続いている、菜種梅雨なのだろう。

この季節になるとあの時の給食の匂いが転校したての不安な気分と共に思い出される。

私の中では湿度と嗅覚と記憶は密接に結びついている。



●2020.4.1(水)

・釈迦は執着を離れよと説いた。

分かりやすく言えば自分ファーストをやめろということだろう。

極言すれば全ての文学作品のテーマも我執からの解放なのではなかろうか。

三浦綾子の『塩狩峠』は明治時代に北海道の塩狩峠で発生した鉄道事故を元に書かれた作品である。

この主人公の青年のように自分の命を他人のために投げ出すことは容易ではない。

私は時々次のようなことを考える。

車を運転していて対向車と正面衝突する事態になったらどうするか。

本能的に自分の頭部を腕で保護する動きをとるだろう。

それを我執と言って否定する必要はない。

ただ助手席の同乗者にとっさに片腕を差し延べる自分でありたいとは思う。

そんな極端なケースはともかく日常的な心掛けを大切にしたいものだ。

他人の悪口を言わないようにしている人を私は尊敬する。

さらに進んで、そもそも他人を悪く思うことがないという人もいるのではないか。

そんな人はもう尊敬どころの話ではない。


・ロケットを月に着陸させるより明日の天気を正確に予測するほうが難しい。

昔そんな話を聞いたことがある。

バタフライ効果という言葉も有名だ。

物理的運動を計算する際、宇宙の真空状態よりも地球上のほうが考慮すべきファクターがはるかに多いのだろう。

1枚の紙を持って立ち上がり手を離すと当たり前のことだが紙はひらひらと落ちる。

しかしその紙が床に落ちるまでの軌跡は最先端の数学をもってしても計算できない。

この話もずいぶん前に聞いたがいまだに印象深く覚えている。

風も興味深い。

強風だろうが弱風だろうが風に関して言えば吹いているか無風状態かのどちらかだ。

それが日常的な感覚だ。

ところがそう単純でないということはタバコの煙で分かる。

禁煙する前の話だが2階のベランダで煙草を吸いながら煙の行方に目を凝らしたことがある。

落ちる紙の軌跡どころでなくタバコの煙は実に複雑な流れ方を見せるのである。

タバコの煙自体の分子運動は別にして感覚的には無風状態に思えても風は常に舞っているのだ。


・藤原かんいちという人がいて職業は旅行家と自称している。

原付げんつきで世界中を旅して回っている。

興味のある人はネットで検索してほしい。

その藤原さんが奥さんと半年余り二人旅をした時は喧嘩の連続だったと言う。

原因は藤原さんによれば二人旅なのに自分が一人旅の感覚でいたからとのことだ。

たとえば今夜の宿をどうするか決めておらず日が暮れかかって奥さんが心配しているのに自分はどこまでも続く真っすぐな道路に感激して写真を撮りまくっていたなど。

喧嘩と言いながら微笑ましくも思える話だ。

決めつけてはいけないが男はロマン、女はまず生活といったところだろうか。



●2020.4.3(金)

・ケツメイシという音楽グループがいる。

私はこのグループの名前がずっと気にかかっていた。

トルコ石(ターコイズ)みたいにケツメ石という宝石でもあるのだろうかと漠然と考えていた。

調べてみると全く違った。

エビスグサという薬草の種子が「決明子けつめいし」で漢方の生薬しょうやくとして使われるらしい。

「決」という漢字はさんずい偏だから水に関係がある。

この字の意味は堤防が「決壊」するさまを想像すれば分かりやすい。

増水した川の水にえぐられて堤防が切れて水があふれ出す。

「堤防が切れる」というところに焦点を当てれば「決」は「決断する。決定する。決める」という意味になる。

「決明子」の場合はそうではなく「あふれ出す」というイメージで解釈する。

決明=めいけっする=明るさをあふれ出させる、つまり視力回復の効き目がある種子という意味だ。

効能はそれだけでなく胃腸、肝臓、腎臓関係の病から高血圧、神経痛、リウマチ、二日酔にいたるまで幅広い。

この決明子は珍しいものではなくハブ茶として売られているのがそれである。

ハブ茶は麦茶に似た味で私の親もよく飲んでいたがそんなに多くの効能があるとは知らなかった。

「ハブ茶」という名称は毒蛇である「ハブ」に噛まれた時に葉のもみ汁を塗ったところからそう言うらしい。

音楽グループの話に戻るが、ウイキペディアによればメンバー中の2名が薬科大学出身で薬学事典でたまたま目に入った「決明子」からグループ名を「ケツメイシ」にしたということだ。


・全国の市町村の数を調べてみると平成31年1月1日現在で市が792、町が743、村が183。

村は私が住んでいる日本の西の果て長崎県で0なので全国的にも激減しているだろうと思っていただけに183は意外だった。

なぜそんなことを調べたのかと言えば辺鄙な地域ほど排他性が強い傾向があるのではないかということを考えていたついでに調べたのである。

これまで転勤等でいろいろな地域に住んだが、狭い「町」だけでなくさびれた「市」でさえもそういう傾向が感じられた。

だからといってそんな地域に住む人々を悪く言うつもりは全くない。

私の感受性によるところが大きいのだろう。

排他性が強いと言うより溶け込みにくいと言った方が正確だ。

「田舎だけどいいところでしょう? 住みやすいでしょう?」

地元の人はにこやかにそんなふうに声をかけてくる。

確かにそのとおりで新参者を意識的に排除しようとすることはない。

しかし親しくなればなるほど入り込むことのできる限界を同時に感じてしまう。

日本人化した外国人が敬遠されがちな傾向と通じるところがあるように思われる。

梅干しや納豆が大好きで日本語もペラペラ、そうなる方が外国人は日本人に喜ばれると断言できるだろうか。



●2020.4.5(日)

・旧約聖書で人類の祖先とされているアダムとイブ。

この二人が初めて会って自己紹介し合う場面の作り話がある。

アダム「Madam, I'm Adam.」(マダム、私はアダムです)

イブ「Eve.」(イブです)

子供の頃に「手袋を逆さまに言ってみろ」といういたずらが流行った。

素直に「ろくぶて」と答えると頭を6回ぶたれるという遊びだ。

それとはちょっと違うが「山本山」という海苔のメーカーのCMにも有名なフレーズがあった。

「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」

これは逆さ言葉とか回文かいぶんとか呼ばれるものである。

「山本山」は漢字での回文だが回文は発音によるものが主流だ。

「新聞紙」「竹やぶ焼けた」「私負けましたわ」

誰しも聞いた覚えがあるだろう。

しかしこれらも厳密に言えば「発音」によるものではない。

「山本山」が漢字による回文なら「しんぶんし」は平仮名による回文だ。

それでは純粋に発音に基づいた回文とはどんなものか。

分かりやすく言えばテープに録音して逆回しに再生しても同じになる語句や文だ。

たとえば「赤坂」という地名などはそれに当たる。

「akasaka」とアルファベットで表記すると納得できるだろう。

冒頭に挙げたアダムとイブのそれぞれの発言も回文である。


・飲食店でメニューを見て料理を注文する。

すると運ばれてきた料理を見てガッカリすることがある。

メニューに載っている写真よりも実物が貧弱だからだ。

商売のコツは「損して得取れ」である。

写真よりも実物を豪華にしたほうが絶対に客は増えると思う。

「損して得取れ」とか「負けるが勝ち」とかいう言葉は奥が深い。

私は車を運転する時に似たようなことを心がけている。

脇道から広い道路に左折や右折で入る場合、一時停止しないですむように進入する手前から「すきあらば行くぞ」と広い道路の車の流れに目を配る。

2車線の道を走っていて隣の車線の車が割り込んでくる気配を察知すると「入れてなるものか」と車間距離を詰める。

以前ならそんな自分ファーストの傾向がなきにしもあらずだった。

近頃の私の運転はガラリと変わり「止まる気満々」「譲る気満々」である。

これなら事故を起こす気遣いはない。


・生活形態と舞踊とは密接に結びついているという考えがある。

騎馬民族や狩猟民族は野山を走り飛び回る。

その動きが反映されているのがたとえば西洋のバレエだ。

対して田畑を耕す農耕民族の動きは緩やかな水平移動だ。

だから盆踊りとか能、狂言は基本的にはすり足で動く。

縦方向の動的な動きに対して日本では横方向の静的な動きが好まれる。

「はねあがり者」は嫌われるのである。

しかし世界がグローバル化した現在、そんなことは言っていられない。

学校の授業でもダンスがカリキュラムに組み込まれている。

できれば私も習いたいくらいだ。

老人にこそダンスは必要だと思う。

心身の硬直化を防ぐために。



●2020.4.10(金)再度方針変更

・掃除しようとして下足箱を開けてみると妻の靴類が40足くらいあった。

安いものばかりだが下足箱の半分以上を占める量だ。

妻は浪費家ではないが靴とバッグはよく買いたがる。

その傾向は女性ならば妻に限るまい。

靴やバッグは私が思うに多く所有しているというだけで女性の気分を豊かにしてくれるアイテムなのではなかろうか。


とまあ、こんなたわいもない短い文章を一つアップするだけでは物足りないと思って2月19日に「方針変更」を言明した。

ところがその後書いてみると短すぎる文章はほとんどなかった。

それに後日自分で読み返す際にタイトルがあったほうが何かと便利だ。

そこで次回からはタイトル付きの1回1話に戻すことにする。



●2020.4.11(土)無用

「通り抜け無用で通り抜けが知れ」という川柳を初めて聞いた時意味がよく分からなかった。

広辞苑を引くと「無用」は「①役に立たないこと。必要でないこと。②してはならないこと。③用事がないこと。」とある。

「無用」はレ点を打って漢文として読めば「用無し」と読めるから③はよく分かる。

③からの類推で①も理解できる。

「心配ご無用」「問答無用!」などの時代劇のセリフはこの①の意味だろう。

しかし「無用」がどうして②の意味になるのかは分かりづらい。

そこで漢和辞典で「用」を引くと「もちいる」の細かい意味の一つとして「行う」というのがある。

これを使えば「無用」は漢文として「用いる無かれ」と読め「おこなってはならない」という意味になる。

これでやっと冒頭の川柳が次のように解釈できる。

「通り抜け(は)無用」(通り抜けをしてはならないという注意書き)で「通り抜けが知れ(てしまった)」という意味だ。

「この道は通り抜けられるのか、知らなかった、ここを通ろう」という人が増えて注意書きが逆効果になったということを言いたいのだろう。


禁止の意味を表す「無用」は他に「天地無用」などと使われる。

引っ越しの際の段ボール箱や宅配の荷物などに書かれているのを時々目にする。

「天地」が荷物の「上下」という意味なのは分かる。

しかし「無用」を使い慣れている「必要でないこと」という意味に解釈すれば大変なことになる。

これでは「荷物の上下は(どちらが上でも下でも)どうでもいいですよ」と受け取られかねない。

そんな意味ならわざわざ書かないだろう。

この言葉は運送業界の言葉のようだが「天地混同無用」「天地入替無用」などとすべきところを省略して簡潔な四字熟語にしたのだろう。

「逆さま厳禁」と書けば誤解の恐れは皆無だろうに。



●2020.4.13(月)高血圧なう

人間はそして男はこうあらねばならない、誰も自分のことを分かってくれない。

そんなふうに意気がったり泣きごとを並べたりする人間は自分で自分の生き方を窮屈にしてしまう。

その結果、仕事を終えて夕方になると自業自得の窮屈さから逃れるために酒を飲みたくなる。

私はそんな愚かさを自覚するまでに多くの時間とお金を酒に費やしてきた。

そのつけとして貧困と体調不良が現在重くのしかかっている。


体と心は親と子の関係に似ている。

不肖の息子のごとく毎晩酒に溺れる私の弱い心を親である体は物も言わず見守ってくれていたのではないか。

しかし親もそろそろ限界なのだろう、声を上げ始めた。

太ってもおらず贅沢もしていないのに血液検査で中性脂肪、血圧、尿酸などの数値が異状を示す。


今度は心が体に親孝行する番だ。

タバコは昨年の正月にきっぱりやめた。

酒の方も月に10日前後晩酌をしない日をここ数年設けている。

さらにこの1か月は休肝日を20日以上に増やしてみた。

断酒すれば血圧が下がるらしいので先週の月曜日に血圧を測ってみた。

結果は…自己最高記録を大幅に更新。

楽しみにしていただけに二重の衝撃だった。


赤貧洗うがごとき我が家ではお金は健康には代えられない。

病院にかからずにすませる方策をあれこれと考えた。

まず先日このブログで紹介したハブ茶を飲み始めた。

次にネットで見つけた非常に簡単な降圧体操というものを始めた。

数年間中断していたウォーキングも散歩程度にして復活させた。

そんなささやかな生活改善をしているのだが数日前に見たテレビはショックだった。

子供づれの母親が公園でインタビューを受けていた。

休校中の子供にたまには外の空気も吸わせたくて連れ出したという。

私がショックを受けたのはそれに続く母親の言葉だ。

「体力も落ちている気がするし」


元気盛りの小学生がほんの1、2か月外出しないだけでこうなのだ。

ましてやこんなブログを書きながら年じゅう家でごろごろしている私の体力の低下はいかほどだろう。

運動不足は高血圧に限らずあらゆる病いを引き寄せるのではないかと空恐ろしい。

少しオーバーに書きすぎた。

今の私は「最低90歳までは」という以前のような執着はない。

「長生きしてほしいか?」と周囲に尋ねる勇気は更にない。


前回の測定からちょうど1週間経った今日、血圧を測った。

結果は雀の涙ほど下がっただけ。

1週間の摂生だから大きな期待はしていなかったがそれにしても寂しい。

多少の無茶をしても「死にゃせん」と笑い飛ばしていた若い頃が懐かしい。

この分では「死にゃせんかも」→「死ぬかも」→「死んだ」と進行しそうだ。

長生きへの執着はないものの今少しの猶予はほしい。

藤村の小説中の一文を思い出す。

ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい(島崎藤村『春』)



●2020.4.16(木)リタイア

定年退職して年賀状の数が激減したことを嘆く人がいる。

社会から見捨てられたように感じるのだろう。

寂しがるなら分かるが不満に思う人がいてこういう人はたちが悪い。

職場でそれなりの地位にいた人も退職して肩書が外れればただの老人である。

なのに居酒屋やスナックで他の客と同じ扱いをされると不満に思い偉そうに振るまう。

私などはなるべく早く隠遁生活に入りたかったから年賀状が減ったのは逆にすがすがしかった。


社会人であるからには職場で果たすべき役割や責任がある。

言い換えればノルマが課されている。

できそうもないことやしたくないことでもやらねばならない。

そのため家に帰ればありがちなフレーズが口をついて出てくる。

「俺が会社で家族のためにどんなに我慢して苦労してるか分かるか」

こういう夫は定年退職後、妻の態度の変化を嘆くことになる。

それは妻の視点で見れば当然のことだ。

上記のように偉そうな愚痴をこぼしても給料を稼いでくる旦那と毎日家でごろごろしているだけの旦那とでは妻の受け取りようは違ってくるだろう。

それでも諦めの悪い夫は言う。

「俺が長年働いたから年金で食っていけるんだろうが」

過去の肩書を捨てきれないで嫌われる飲み屋の客と同じことだ。


リタイアして社会とのつながりが切れるついでに夫婦のつながりも切ってはどうか。

夫であることをやめるのである。

と言っても離婚するのではなく、妻を善意の第三者、善意の同居人だと考えるのだ。

もともとは赤の他人だったのだから心の中で他人行儀にまず「奥さん」と呼びかけてから話し始める習慣をつけてもいい。

そうすれば食事を提供してくれるだけでもありがたく思えるだろう。


さて、できそうにないことやしたくない仕事を課されていた人間がリタイア後に何をするか。

言うまでもなくやりたくてしかも簡単にできることから始めるだろう。

私の家の近所も朝、昼、夕方、ウォーキングやジョギングをする老人であふれている。

あまのじゃくの私はついこうも考えてしまう。

「せっかく歩いたり走ったりするならばついでに新聞を配達してはどうか」

スポーツジムで自転車こぎをしている人を見かければこう思う。

「バッテリーをつないで発電すればいいのに」

しかしいらぬお世話でそんなことをすれば現役時代の仕事のノルマと大差ない。

対価を得ようとするところに苦が生まれる。

「健康のため」と思うと散歩さえ仕事に近くなる。



●2020.4.18(土)おっ!

「わあ、きれい!」

「くそっ、おぼえてろ!」

これらの文の「わあ」と「くそっ」は文法的にはどちらも感動詞である。

だから私は感動とは事の性質によらず読んで字のごとく心が何かに感じて動くことだと勝手に解釈している。

この理屈で言えば「おっ!」と思うのは全て感動と言っていいことになる。

車を運転していると感動することが多い。

たとえば弁当屋さんの前の路上に車が停まっていると「おっ!」と思う。

手紙をポストに入れるだけとかの停車ではない。

弁当ができあがるまで1車線をふさいでしまうのだ。

気の弱い私は後続車がいれば信号機のないところで右折する時も気が引けてしまう。


次は先日交差点で停車していた時のこと。

信号が青になったので走り出したのだが前の車がスピードを上げた。

当然私の車は離されて車間距離が広がっていく。

前の車がカーブにさしかかりブレーキランプが点灯した。

私はスピードを出していないので減速せずブレーキも踏まないでカーブを曲がった。

すると離されていた車間距離が縮まりほぼ追いつく。

カーブにさしかかって同じことを繰り返すうちに「おっ!」と思った。

人の生き方に似ていると思ったのもさることながら、物理の等速度運動という言葉を久しぶりに思い出したのである。


最後にたわいもない話を。

墨染めの法衣を着たお坊さんがヘルメットを被ってスクーターに乗っているのを見かけると私はいつも「おっ!」と思う。

スピードを出して法衣をはためかせながら風を切って走っていればなおさらに。



●2020.4.20(月)情けは人の為ならず

テレビを見ていたら数日前のクイズ番組と昨日の『サザエさん』で「情けは人のためならず」ということわざが取り上げられていた。

意味を誤解しやすいという点で有名なことわざだ。

「情けは人のためにならない」という意味でなく「情けは巡り巡って自分に返ってくる」という意味です。

両番組ともお決まりのこのような説明であった。


しかしなぜそんな結論になるのか、たいていの人はもやもやが残るのではなかろうか。

私なら以下のように説明する。

①情けは人の為なり。→「なり」は「~である」という意味の助動詞

②情けは人の為になる。→「なる」は「~になる」という意味の動詞

これらの文に「ず」を付けて否定文にしてみよう。

①情けは人の為ならず。→情けをかけることはその人の為ではない。(じゃ誰の為かと言えば自分の為である)

②情けは人の為にならず。→情けをかけることはその人の為にならない。(だから甘やかしてはいけない)

①の解釈が正解なのに間違える人は②のような意味にとってしまうのだ。


「猫が魚を食う」は古文では「猫魚食ふ」となる。

このように現代文に比べて古文は「~は」「~が」「~を」という助詞は省略されることがしょっちゅうある。

しかし「おたまじゃくしは蛙になる」とか「子供はやがて大人になる」を古文に直しても「~に」を省略することはできない。

だから問題のことわざも「~為ならず」を「~為にならず」の意味で訳するのは誤りなのだ。



●2020.4.22(水)老人記念日

家の近所を散歩しているとウオーキングしている老人を多く見かける。

私は自分のことは棚に上げて「まるで年寄りの放牧場じゃないか」などと思ったりする。

今「自分のことは棚に上げて」と書いたとおり私には自分が老人だという自覚が希薄だ。

問題が何であれ「あの人は自分のことは棚に上げて人のことを非難してばかりいる」と陰口をたたかれる人がいる。

そんな人は私と同類で、意識的に「自分のことを棚に上げて」いるわけではなく自覚がないのだろう。(だから余計にたちが悪くもあるが)

「なくて七癖」という言葉もあるように人は自分のことには案外無頓着だ。

特に仕事や生き方については自分の流儀を日々反省するという人はあまりいないだろう。

そのまま年を重ねていけば「職人かたぎ」と評される人もいるが大抵は「頑固じじい」と呼ばれるようになる。


「近頃の若者は困ったものだ」

いつの時代も若者は年長者から小言を言われる。

昨今の世相を見ていると「近頃の年寄りは困ったものだ」とも言いたくなる。

若者と老人、どちらが困り者だろうか。

しかしそんな不毛な議論は避けて「近頃の若者はしっかりしている」「近頃の老人は物分かりがいい」などと言われるように心がけたいものだ。


ところで私はバスに乗って立っていて席を譲られたことがまだ一度もない。

初めて席を譲られる日はいつ来るのだろう。

その日が来たらありがたく座らせてもらおう。

そして私が老人であるということを自他ともに認めた記念日としよう。



●2020.4.29(水)ノートルダム聖堂

1年ほど前にフランスのノートルダム聖堂で大規模な火災が起き、現在も修復工事が行われている。

私は長い間この「ノートルダム(大)聖堂」という名称は固有名詞だとばかり思っていた。

そうではなく「ノートルダム」という言葉には普通名詞としての意味があるのだった。

従ってノートルダム聖堂は世界のあちこちにありセーヌ川のシテ島にあるこの聖堂の正式名称は「Cathédrale Notre-Dame de Paris」(パリのノートルダム聖堂)なのである。

さらには教会に限らず学校の名前などにも使われ例えば京都にはノートルダム女子大学がある。


では「ノートルダム」とはどんな意味か、ネットで検索した情報を分かりやすくまとめてみる。

ラテン語に「私の女主人」という意味の「mea Domina」(メア ドミナ)という言葉がある。

これがイタリア語に入ると「Madonna」(マドンナ)になる。

「メア ドミナ」も「マドンナ」も直訳の「私の女主人」から発展して「私の敬う憧れの貴婦人」という意味を持つようになり、キリスト教の世界では「聖母マリア」を指すことになる。

ラテン語の「mea Domina」(メア ドミナ)の話に戻るが、「mea」(私の)を「nostra」(私たちの)に変えると「nostra Domina」(ノストラ ドミナ)となる。

これがフランス語に入って「Notre-Dame」(ノートルダム)となった。

直訳は「私たちの女主人」、キリスト教では「聖母マリア」を指すことはイタリア語の「マドンナ」と同じである。

従って「ノートルダム聖堂」は「聖母マリア教会」というニュアンスの言葉なのだ。


ついでにイタリア語関係の話を付け加えると「フレスコ画」と呼ばれるものがある。

バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の壁面に描かれた『最後の審判』(ミケランジェロ作)などが有名だ。

この「フレスコ」というイタリア語が英語の「フレッシュ」に当たるということも最近知った。

フレスコ画は壁に塗った漆喰しっくいの上に絵を描く技法である。

塗った漆喰が乾かない、つまりフレッシュな状態のうちに描き上げねばならないところからフレスコ画と言うそうだ。



●2020.5.1(金)単位にまつわる言葉

りょうこう」とは長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)のことだがその単位の変遷によって使われなくなった言葉は多い。

重さを例にとると現在は「グラム」が基本的な単位だが江戸時代はもんめという単位があった。

1匁は3.75gで「花いちもんめ」というわらべ歌は誰しも知っているだろう。

この1匁の千倍、つまり1000匁が1かん(3.75kg)である。

私が子供の頃には太った人を「百貫デブ」とからかったものだった。


お金に関しては江戸時代の通貨単位は「もん」で、「文無し」とは貧乏人のことである。

面白いことにこのお金の単位の「文」は履き物のサイズを言うのにも使われた。

1文銭(寛永通宝)の直径(2.4cm)を1文として測るのだ。

私が中学、高校生の頃までは通用していたように思う。

24cmちょうどなら10文、細かく刻む場合には10文3分ともんさんぶ10文半ともんはん10文7分ともんしちぶという具合であった。

私のサイズは「としち」(10文7分の略)か11文だった。


現代の通貨単位は「円」であるが貨幣価値の変遷が言葉に影響を与えることもある。

「億万長者」とは裕福な人のことであるが以前は「百万長者」と言っていた。

今は百万円持っていてもお金持ちではないのだ。

私が小さかった頃は百円でも結構な額だった。

百円札があったことも懐かしく思い出す。

肖像画の人物は板垣退助で茶色っぽい色調のお札だった。

時代は移り千円未満のお金は「小銭こぜに」の感覚の時代になった。

そのため百円札や五百円札は姿を消し硬貨になってしまっている。



●2020.5.3(日)時の流れ

私が住んでいる町には住宅団地がいくつもある。

それらの団地の家々の駐車スペースを比較すると時の流れを実感する。

私が住む団地ができたのは20年ほど前だがどの家も2台分の駐車スペースがあった。

それより15年くらい前に造成された団地の駐車スペースは1台分だった。

ところがごく近年に造成された団地内を見て回って驚いた。

3台分が標準で確保されており4台分の家もある。

1軒1軒の敷地面積はほとんど変わらないのに40年の間に駐車スペースが1台分から3台分に増えたのである。

その背景には生活スタイルのどんな移り変わりが考えられるだろう。


ともあれ我が家も20年間の時の流れはいたるところに見られる。

庭のもみじの苗木は2階に届く高さに成長した。

劣化も激しく外壁はチョーキングだらけで撫でれば手が真っ白になる。

住んでいる私の体も家とともに確実に劣化している。

せめては心までざらざらにならないよう留意したい。


時の流れはいろいろな思いを人に抱かせる。

「もう10年もたったのか」

「あと10年もあるのか」

では時の流れを測る時計というものがなければどうだろう。

そのほうが1日1日の生活は充実するのではなかろうか。

思えば現役の頃は毎日しょっちゅう腕時計に目をやっていた。

そして針やデジタル表示が「秒」まで正確に合っていなければ落ち着かなかった。

時間に縛られていたことに今さらながら驚く。

今は「秒」どころか「日」さえ間違えても気にならない。


ロビンソン・クルーソーのように無人島に漂着した場合を想像してみよう。

日が昇る度に木の幹に印を付けるなどして月日の経過を記録するだろうか。

数年間は記録を続けるかもしれないがそのうちどうでもよくなっていきそうだ。

そうなると老いて死を迎える時、自分は何歳で死んでいくことになるのかが分からない。

それは案外幸せなことかもしれない。



●2020.5.5(火)移動探索

私は20年近く前に建売住宅に入居したのだが最初の1週間ほどは感覚がおかしかった。

1階と2階の全ての部屋からしょっちゅう窓の外の景色を見ていた。

住宅団地の一角にあるのだから美しい風景が見えるわけではない。

似たような家々が並んでいるだけである。

それなのに何度も何度も各部屋を回って窓の外を見たくなる。

見たくなるというよりは確認せずにはいられないという感覚だった。

家を買って嬉しくてたまらないというのではない。

さっき見たばかりではないかと自分に言い聞かせてもまた見ずにはいられない。

自分でも異様に思う落ち着きのなさだった。


このおかしな感覚の謎が『ゴルゴ13』という漫画によって氷解した。

次のような内容の一話(『破局点』)だった。

ゴルゴがある犯罪心理学者に行動パターンを全て解析されてしまう。

その学者は任務遂行の地に到着したばかりのゴルゴの行動についてこう解説した。

「彼は心理学でいうところの移動探索をしているはずだ。新しい場所におかれた動物があたりを動きまわったり、かぎまわったりする反応だ」



●2020.5.7(木)貧乏ゆすり 

前回話題にした「落ち着きのなさ」に関連して貧乏ゆすりをとりあげよう。

貧乏人の私がまず気になるのはネーミングだ。

どうして「裕福ゆすり」や「リッチゆすり」でなく「貧乏ゆすり」なのか。

調べてみると悔しいながら認めざるをえない。

いろんな説がある中で最も腑に落ちたのは貧乏人が寒さや飢えで震えているイメージからきているとの解釈だ。


次になぜ人は貧乏ゆすりをするのかを調べてみたがやはり諸説ある。

合理的に納得できた二つの説を引用する。

・ずっと座っていると下半身の血流が滞ってしまうのでそれを解消するために反射的に貧乏揺すりをする。

・取りすぎたカロリーを本能的に消費しようとするため。

二つ目の説をネーミングに生かせば「リッチゆすり」になると思うがそれはともかく貧乏ゆすりのメリットが近年注目されている。

ウオーキングと同じ効果があり免疫力もアップするというのだ。

それなら貧乏人であれ金持ちであれ貧乏ゆすりに励むのも悪くない。


どうでもいいことだが、スキップやウインクができない人がいるように貧乏ゆすりができない人もいるのではなかろうか。

私は若い頃によくやっていたので今でもできる。

反対に若い頃は吹けていた口笛が吹けなくなった。



●2020.5.9(土)掃除機がけ

5月の今頃は微妙な気候だ。

晴れた日中に車のドアを開けて乗り込めばムッとして夏が近いと感じる。

朝夕に涼しい風が吹くとこれから秋に向かうのではないかと思ったりする。

しかしまあこれから順当に少しずつ夏日が増えていくのだろう。

我が家でもこたつ布団をしまい扇風機を出した。

室内の家事で掃除機がけだけは私がやっている。

だから妻がこたつの布団を外した時「掃除機をかけるのが楽になるな」と嬉しくなった。

掃除機がけ一つでもこうだから家庭の主婦はもっとたくさん知っているのだろう。

季節の移ろいが家事にもたらすささやかな影響の数々を。

それらは生きている実感そのものだし小説を書く時には作品に色どりを添えるディテールとなる。

うらやましいことだ。


掃除機をかけるのを自分の日課にしてみて面白いことに気づいた。

どこをどう掃除してもよいのにこの部屋からあの部屋へと掃除機をかける順序が次第に定まっていく。

さらには一つの部屋の中でもどこから初めてどこで終わるかのルートが固定化されていく。

仕事に似ていると思ったがそれは当然のことだ。

会社の業務であれ自宅の掃除機がけであれ場所が異なるだけで両方とも仕事には違いないのだから。

仕事のやり方は個人であれ組織であれ次第にルーティン化、マニュアル化していく。

なぜそうなるかと言えば習慣は効率化に結び付くからだ。

そのため「これまでのやり方をこんなふうに変えてみたら?」というアドバイスはなかなか受け入れられない。



●2020.5.10(日)踊り食い

不要不急の外出の自粛が要請され花見もその対象になったのは記憶に新しい。

ところが花見は急ぎの用事だと言う意見が出た。

急がなければ散ってしまうというのである。

もちろん冗談だろうが考える視点が面白い。


子供は平気でバッタや蝉の羽をむしり取ったりする。

長じて生と死を意識し出すと残酷なことだと理解できるようになる。

ところが食べるという行為に関してはちょっと事情が異なる。

たとえば魚介類の踊り食いである。

生きた車エビの頭を引きちぎって殻をむき、尻尾をつまんでしゃぶりつく。

その命をたった今自分の手で断ち切ったことは意識せずに舌つづみを打つ。

新鮮な魚介類が手に入る日本ならではの食文化だが欧米では禁止している地域もあるという。

なるほど指摘されなければ我々日本人は「残酷」という視点に立つことは殆どない。

しかしそれはお互いさまで日本人も欧米人の肉食の思想についていけない部分がある。

そんな趣旨のことを以前書いたことを思い出した。(2020.2.1肉食)



●2020.5.12(火)コード式掃除機

スマホからイヤホンを外して無造作に放り出しておく。

次に使う時に手に取るとコードが絡まって結ばれているということがよくある。

ただ置いておいただけなのになぜそうなるのか不思議でならない。

不思議と言えばほこりもそうだ。

毎日掃除機をかけてもダストケースにほこりが吸い込まれて丸まっていく。

大掃除ならともかくわずか24時間のうちにどこからそれだけのほこりがやってくるのだろう。


コードと掃除機を強引に結びつけて話を展開してみよう。

コードレスにかえてから掃除機がけが格段に楽になったと以前に書いた。

コードレス掃除機を人間にたとえるなら独身時代に戻ったような気楽さである。

現在の私を掃除機にたとえるなら家族のきずなという名の長いコードを引きずっている。

絆は「離れがたい結びつき」と解釈されるが元来は馬などをつなぎとめておく綱のことだ。

家族は掃除機のコードのように私の自由を束縛してきた。

しかし同時に私の暴走を食い止めてくれていた存在でもあった。

「家族さえいなければ」という思いと「家族がいてくれたから」という思い。

私の場合は後者のありがたさの比率が圧倒的に高い。

「家族」を「夫」や「父」に置き換えたらどうなるだろう。

答えは明らかである。

休日に家族が外出する時、私はたいてい家に取り残される。



●2020.5.13(水)宝くじ

現在パチンコ店の営業自粛が要請されている地域でも開けている店がある。

店側の言い分としては自粛すると毎日巨額の赤字が積み重なるとのことだ。

だとすれば営業して収益が上がるということはそれ以上の額のお金が客から店に流れるという理屈になる。

居酒屋で美味しい酒や料理を楽しんだ後には代金を支払わねばならない。

同様にパチンコにつぎ込むお金も楽しく遊んだ対価だと思えば問題はない。

しかし投資した以上に儲けようというのは上記の理屈に合わない。

それなのになぜ通い続ける人が多くいるのか。

競馬や競輪と違ってパチンコは自分で機器を操作する。

そのため腕次第で自分だけは勝てそうに思うのではないか。

さらには時々大勝ちするとトータルでも得をしているように錯覚しがちだ。

パチンコをしていた頃の一時期、使ったお金と得られたお金を記録してみたことがあった。

結果は言わずもがなであった。

私が現在やっているギャンブルは宝くじのみである。

運営元に収益金が出るということはパチンコ同様買う側に損失が発生する。

しかも当選するかどうかは完全に運まかせ。

そこで私は月に1回買っていたのをたまにしか買わないようにした。

定期的に買い続ければパチンコに通い詰めるのと同じで損失がどんどん膨らんでいく。

当選が100%運だのみならたまにしか買わなくても当たる時は当たるだろう、確率論を無視してそんな気でいる。



●2020.5.15(金)負けるが勝ち

勉強ではあいつにかなわないからスポーツを頑張ろう。

よくあるパターンだがこの種の発想は案外奥が深い。

職場で人に叱責された場合のありがちななりゆきを想像してみよう。

原因が自分のミスであっても叱責された不満はくすぶる。

そのうち口実を見つけて叱責した人間をやりこめ留飲を下げる。

こんなふうに事の理非はおいて心情的に対等な位置に自分を置きたがる。

それが人情というものだろう。


その点からすると「負けるが勝ち」というのは洞察に富む知恵だ。

対等なレベルから自分が一歩引いて相手を優位に立たせる。

すると相手は気をよくして色々とこちらに便宜を図ってくれるかもしれない。

「急がば回れ」、直情径行は避けて一歩下がるゆとりを持ちたい。

「金持ち喧嘩せず」とも言うようにゆとりある金持ちは損な喧嘩はしない。

そのためますます豊かになるという好循環に入って行く。

その一方「貧乏暇なし」で貧乏人はせわしい暮らしの中でいつもカリカリしている。

あげくになけなしの金まで「宵越しの銭は持たねえ」と飲んでしまい人につっかかっていく気力もうせる。

こうなれば金持ちと紙一重で「極貧ごくひん喧嘩せず」である。

ちなみに私は近年ひじょうに大人しい。



●2020.5.17(日)いろんな事情

戦隊ヒーローや怪獣が登場する物語は子供の娯楽としてはうってつけだろう。

しかし現実の世界は冒険活劇ではない。

身辺に次々と大事件が起これば心の休まる暇がない。

詩に叙事詩、抒情詩という分類があるが実人生では「事」と「情」は不可分の関係にある。

「事」に「情」が絡んでいろんな「事情」が生まれる。

それを描くのが小説だろうが述べたように大多数の人間の人生は冒険活劇ではない。

だから大した「事」も「情」もない日々を描けばリアルな文学になる。


例を挙げてみよう。

口を開けっ放しにして歯を磨く夫がいるとする。

飛沫が洗面所の鏡に付着するし磨きながら歩き回れば床にも落ちる。

耐え難く思った妻がそれをさも不潔そうに非難する。

夫は心情的には面白くないが指摘されたことはもっともな内容である。

翌日夫は洗面所から離れず口もなるべく閉じて歯を磨いた。

磨き終わると飛沫が鏡に飛んでいないか確認した。

次の日夫はあることに気づいた。

磨こうとして洗面所に立つと鏡にかすかな飛沫がいくつか付着している。

自分が飛ばしていたような大きめの飛沫ではない。

これは妻の飛沫だと夫は確信した。

細かい飛沫は以降も毎日のように鏡に見られた。

この「事」を妻に告げた場合、妻の「情」はどう動いてどんな「事」を起こすか。

さらにそれを受けて夫の「情」は…。

こんなやるせないスパイラルが市井の日常の姿だろう。



●2020.5.20(水)声喩

習慣というものが持っている力は強い。

私が子供の頃の我が家にはバスタオルなどというしゃれたものはなかった。

そのため今でも風呂に入ると私はフェイスタオル1本で事が足りる。

マフラーもそうだ。

中学、高校と校則で禁止されていたせいか今でもマフラーをしない。

しかしこれは他にも理由がある。

昔の安物の毛糸で編んだマフラーを首に巻くと肌触りが不快だった。

その肌触りは「ヂガヂガする」と表現していた。

その影響でハイネックやタートルネックのセーターも着たくない。


ところでオノマトペ(擬音語・擬態語)が国によって違うというのは周知のことだ。

有名なところでは鶏や犬の鳴き声の「コケコッコー」と「コッカドゥドゥルドゥー」、「ワンワン」と「バウバウ」。

こういう違いは方言という形で日本国内においても存在する。

ただ自分たちが使っているオノマトペが果たして地元だけの方言なのか全国共通のものなのかは判断しづらい。

出身地が異なる者どうしでオノマトペを出し合えば面白いのではないか。

私の住む長崎だけのものかどうか分からないオノマトペを「ヂガヂガ」以外にも挙げてみよう。

「この焼き芋はまだ焼けてない。かじればガシガシする」

「昨日の雨で道がジュカジュカだ」(未舗装道路)

「この靴はサイズが大きくてカパカパだ」


漫画はオノマトペにあふれている。

私が秀逸だと思ったものを二つ挙げてみる。

一つは『北斗の拳』で悪役キャラが断末魔に発した「ひでぶっ!」。

「痛え」が下敷きにある言葉のようだが非常に個性的だ。

もう一つは出典は分からないが割と広く使われる「ていてい」。

たとえば猫が他の猫を軽く2、3回ぶつ時などに使えば可愛い。

逆の例も考えてみよう。

ありふれている平凡なオノマトペにも陳腐すぎるが故の味わいがあるのではないか。

たとえば「ジャジャジャジャーン!」



●2020.5.23(土)都合のいい解釈

長崎県は現在感染者はいないのだがスーパーに行くと殆どの人がマスクをしている。

白い目で見られたくないばかりにめんどくさがり屋の私も入店する時はマスクを着用する。

このあいだは前を行く人が入口に置いてある除菌スプレーを使ったので私もつられて使った。

ともあれ自分の手が消毒できたので私は我が身を守れたような安心感を覚えた。

ところがそれは子供でも分かる勘違いだ。

自分の手をきれいにすることが他人からの感染を防ぐ役に立つはずはない。

入店時の除菌は他人に自分の菌を移さない、つまり自分が加害者にならないためだ。

いつか記事にした自動車の早めの点灯の問題と同じで人は自分の利益を中心に考えがちだ。

ということで以下も私が自分に都合のいいように解釈した話である。


情報化社会においては一つの意見を鵜呑みにしてはならないとよく言われる。

高血圧についての考え方にもそれが当てはまる。

私の最高血圧は去年は150前後だった。

家の割と近くに大きな病院があり待合室に血圧測定器が置いてある。

今年4月にその測定器でほぼ1年ぶりに測ってみたらなんと199。

驚くと同時に惜しいと思った。

あと1で200の大台なのだ。

何かの間違いだろうと思ってその後1週間おきに3回測りに行った。

結果はほぼ190台だった。

血圧以外の幾つかの自覚症状と照らし合わせて腎臓が悪くなっているのではないかと恐れた。

コロリと逝くのは構わないが透析をしなければならなくなったら大変だ。

めんどくさがり屋の私もさすがに病院に行って血液検査をした。

結果は腎臓も肝臓もほとんど問題はない数値が出て安心した。


残るは血圧だがこれがくせ者である。

「最高血圧/最低血圧」の目標値は「135/85」でこれ以上は高血圧として治療対象になる。

昔の最高血圧の基準値は「年齢+90~100」だった。

それが現在は135と大幅に引き下げられている。

どちらに従うべきか、私は自分に都合よく「年齢+90~100」説を採る。

「自分に都合よく」と言ったがネット記事によるとそちらの説の根拠が合理的だと思われるし降圧剤によるリスクの説明も納得できる。

それなのに権威ある日本高血圧協会がなぜ基準値を大幅に引き下げたのか、それもネット記事にあれこれ書いてあるので興味があれば参照されたい。

現在私は医者の勧めを振り切って降圧剤は飲んでいない。

ただ家庭用血圧測定器を買って朝晩記録を付けている。

夜よりも朝が高いがそれでもおおむね160台なのでこのまま薬は飲まないつもりだ。

ついでに言うと私は喘息もちで尿酸値も高かったので以前は喘息治療と痛風予防の薬を飲んでいたがそれもやめた。

やめて5年になるが何ら問題はなくかえって以前より快調だ。


話はそれるが東京の銀座に文壇人が集まるバーがある。

そこのママさんが長引く休業要請のため経営が行き詰まりストレスで大腸がんを患ったという。

このネット記事の「大腸がん」という部分に私は引っかかった。

精神的ストレスから十二指腸潰瘍や胃がんになった話は聞くが大腸がんは初耳だった。

ストレスがいかに健康を損なうかということを実感した次第である。

私も高血圧を摂生と気の持ちようで乗り切ろうと思う。



●2020.5.25(月)回遊魚と根魚

マグロが死ぬまで泳ぎ続けるという話は有名だ。

ということはずっと寝ないのだろうか。

気になって調べてみるとやはり寝ないということだ。


現役のサラリーマンは休むことなく泳ぎ続けるマグロみたいなものだ。

仕事が終わっても会社から赤ちょうちんへと回遊する。

休日くらい自宅で骨休めすればいいのにソワソワと出かけたくなる。

しかしいずれ引退、退職の時がくる。

そうなれば今度は動き回るのが億劫になる。

リタイアしたらあれもしようこれもしようと現役の時に計画していたことなど忘れてしまう。

回遊魚が根付きの魚になったようなものである。


別のたとえ方をすると現役時代はマラソン選手のように走り続けている状態だ。

速く走ることが目的であり次々に目の前に展開する景色などまともに見てはいないだろう。

それに比べてリタイア後は近所の公園のベンチに座っているようなものである。

見える景色に変化はないが疲れはしないしやすらぎがある。

ところで小学生の頃は家と学校との間を中心とした狭い世界しか知らなかった。

それでも退屈しなかったのはなぜだろう。



●2020.5.29(金)のほほんとしたヒラス

地方によって呼び名が異なる魚は多い。

「メジナ」は私の住む九州地方では「クロ」、「ヒラマサ」は「ヒラス」である。

先日船釣りを楽しむ親子の写真をネットで見た。

小学生の男の子が1m近いヒラスを釣り上げ、釣り糸を握ってヒラスを体の前でぶら下げていた。

その写真の少年の顔とヒラスの顔?の対比が面白かった。

少年は満面の笑顔である。

一方ヒラスは丸い目をして口をぽかんと開け、他人事みたいにのほほんとしている。

もちろんそれは私の思い入れで魚に表情があるわけはない。


改めて人間は表情が豊かだと思う。

赤ん坊でも言葉をしゃべれないうちから声を上げて笑う。

ひょっとしたら笑うのは人間だけなのではないか?

そんなことを考えていた時にタイムリーな内容のテレビ番組を見た。

犬好きの芸能人が愛犬を連れて登場し犬も笑うと力説した。

その番組には動物学者も出演しており次のように断言した。

「動物で笑うのは人間と類人猿だけです」

私の推測はそれほど間違ってはいなかったようだ。

ところで人間はなぜ笑うのだろう。

高度な能力があるからなのか、笑わねば生きていけないからなのか。



●2020.5.31(日)痛風なう

ことげというのはやはりあるのかもしれない。

通風の発作がほとんど出なくなったと1週間ほど前に書いたが一昨日その兆候がみられた。

それなら養生すればよいものを昨日昼間から飲みに出かけた。

案の定悪化して今日は酒の代わりにロキソニンを飲みながらこの記事を書いている。

ともあれ昨日は3か月ぶりの外飲みだった。

休業要請が解除になったとはいえ昨今のご時世である。

カウンターやボックス席のあちこちに透明なビニールシートが天井から下がっている。

まるで野戦病院のようだった。

マイクも1曲歌うごとに和紙製?のカバーを取り替えるという用心ぶりだ。

やり過ぎではないかと思ったが店は老人御用達のようなカラオケスナックである。

おまけに私は呼吸器系疾患の既往歴があり下手すると真っ先にお陀仏になっても不思議ではない。


それはともかくカウンターで隣り合わせた80歳過ぎのお婆さんの話を紹介しよう。

旦那さんが70歳くらいの時に軽い糖尿病で入院し亡くなったという。

死因は糖尿病ではなく誤嚥とのことだった。

誤嚥で亡くなったなら呼吸困難でもがき苦しんだのではないかと尋ねるとそんなことはなかったようだと言う。

「なかったようだ」というのは臨終の時病室にいたのは娘さんだけだったからだ。

軽い糖尿病だからまさかの事態になるとは思わず付き添いは娘さんにまかせてお婆さんは買い物に出ていたということだった。

娘さんもお見舞いがてら病室でゆっくりしていてふと気づいたら亡くなっていたという感じだったらしい。

私が興味深く思ったのはお婆さんの次の言葉だった。

「人間の体の機能で最後までしっかりしているのは耳なんですよ」

以下はお婆さんが娘さんから知らされた話である。

突然の死を医者に告げられた娘さんはうろたえて父親(お婆さんの夫)の耳元で「お父さん!」と呼びかけた。

すると父親は目を開けて娘さんを見たという。


その後再び目を開けることはなかったそうだが私は近親者の似たような話を思い出した。

脳卒中だったと思われるが私が若い頃伯母が自宅で入浴中に亡くなった。

近所に住んでいたもう一人の伯母が知らせを聞いてやって来た。

この伯母は亡くなった伯母の妹なのだが布団に横たえられた姉の遺体の耳元に口をつけてこう言った。

「姉さん目ば開けんね目を開けて

なんと感傷的で文学的な物言いだろう。

その場に居合わせていた私はそんな思いで伯母の言葉を聞いていた。

私自身のこの経験を昨日のお婆さんの話と照らし合わせてみよう。

殆どの人が病院で死ぬ現代は家族でさえ死に目に会えないことがある。

昔は逆で多くの人は自宅で死に葬式も自宅で行った。

死が身近だった昔の人はちょくちょく見聞していたのではなかろうか。

死者の耳元で話しかけると蘇生する可能性があるということを。

だとすれば私の伯母の言葉も感傷的というよりはむしろ実用的な言い回しだったということになる。


臨死体験というものがある。

お花畑を歩いていると前方に既に亡くなった身内が立っている。

懐かしく思って近寄ろうとすると「お前はまだ来るな」と言われる。

あるいは亡くなった身内が招くが後ろから引き留める力が働く。

いずれにせよ危篤の病人が死の淵から生還する。

臨死体験談は生き返ったという点に注目が集まりがちだ。

しかし死に臨んだ体験が共通して上記のようなパターンで語られるということはお迎えという現象があることを示してもいないだろうか。

多くの人は亡くなった身内に迎えられて引き返すことなくあちら側の世界へ行くのだろう。



●2020.6.2(火)心身の融通

結婚しても別々に住み、会うのは週に何度かにしたい。

ある芸能人がそう語ったことを以前記事にした。

常識的には受け入れがたい考えだが具体的に想像してみよう。

たとえばある日の夕食後の場面。

夫は自分の部屋に行って読みかけの本を読み終えたい。

一方妻はお互いの昼間の出来事を語り合いたい。

結果はどうなるか。

夫が自分の部屋に向かえば妻は寂しい。

妻が話しかけてくれば夫は鬱陶しい。

生活は毎日のディテールから成り立っている。

一緒に住んでいれば小さなすれ違いがしょっちゅう発生するだろう。

それをストレスに感じるのなら上記の芸能人の結婚スタイルを取り入れるか独身のままでいるかということになる。


身体的な相性も大きな問題である。

クーラーの温度やテレビの音量などは特に深刻だ。

寝室を別にしてクーラーを自分の好みの温度に設定していると言った芸能人夫婦がいた。

裕福であればこその解決法だ。

寝室として二部屋を使用できてクーラー2台分の電気代も気にならないのだろうから。

貧乏人のひがみ根性からすると冒頭の芸能人の結婚観もそうだ。

別々のマンションに住むことをもったいないと思わない人間の発想だ。

私の親の年代の夫婦に離婚が少ないのはその裏返しのようなものだ。

特に女性は自活するのが難しい時代だったから離婚という選択肢はないも同然だったろう。


話がそれたが次はテレビの音量設定の個人差をとりあげてみよう。

父の生前、実家を訪ねると家の外にまでテレビの音が漏れていた。

音量のデジタル表示を見ると90を超えていた。

あまりにもうるさいので70とか80くらいに落としたものだった。

それでもかなりうるさいのだが父にしてみれば不本意だったろう。

その父と同じ立場に私が今置かれている。

20前後の音量でテレビを見ていると妻が15前後に下げる。

この問題はどっちもどっちである。

耳の遠い人間は音量を下げられるとまともに聞こえずテレビを見る気が失せる。

一方耳が遠くない人間は音量を上げられると耳が生理的に耐え難い。

私はその両方を経験済みだからやるせない。

他に風呂の温度設定についてもテレビやクーラーと同じ問題が起きる。


夫婦といっても異なる人間どうしなのだから心の問題も体の問題もすんなりと相性よくいくはずはない。

思いやりという名のお互いの歩み寄りが必要になるゆえんである。

解決方法がもう一つある。

お互いが歩み寄らなくても片方が相手に合わせればいい。

これも「思いやりという名の歩み寄り」ととるか「卑屈な服従という名のすり寄り」ととるかはあなた次第です。



●2020.6.4(木)おとうさん

結婚当初、妻は私を「~さん」と名前で呼んでいたが今は「おとうさん」だ。

日本では家族の最年少の者から見た関係性を呼び名にする習慣がある。

私の兄弟に次々に子供が誕生すると私たち兄弟は父を「じいちゃん」と呼ぶようになった。


「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」

娘が連れて来た彼氏が気に入らない場合、テレビドラマでよく聞くセリフだ。

では男性はどう呼べばいいのだろう。

「そこを何とか、田中一郎さん」などとフルネームで呼ぶのもおかしいだろう。

やはりここはその場の最年少者であり交際相手でもある彼女から見た「お父さん」を使うしかない。

以上のような次第で私も子供はもちろん妻からも「おとうさん」と呼ばれ、結婚した長男の嫁からも「おとうさん」と呼ばれている。


ここまではいいのだが面白いのは長男の嫁の両親からも私は「おとうさん」と呼ばれるのである。

例に出したテレビドラマと同じで、嫁の両親にしたら私は最年少者の娘のお義父さんなのだからそう呼ぶしかないのだろう。

だから両家の会食の場などでは、私の妻、長男、その嫁、嫁の両親、居合わせた全員から私は「おとうさん」と呼ばれる。

現在私は「お父さん」をテーマにした小説に取り組んでいる。

そのせいもあってこの文章を書いた。



●2020.6.7(日)電気あれこれ 

広辞苑を初めて買った時はそれだけで文化人になったような気がした。

不謹慎な話だがタオルを巻けば枕としても使えるのではないかとも思った。

そんな分厚い広辞苑が薄い電子辞書になった時は科学の進歩に驚いた。

ただ一つ電池が残念だった。

発売当初の広辞苑の電子辞書は1か月も経たないうちに電池切れしていた記憶がある。


しかし科学の進歩はとどまるところを知らない。

現在私の持っている電子辞書は広辞苑を含めて10冊以上の辞書が収録されており電池も1年以上はもつ。

卓上型目覚まし時計やウオーキングの時に使うストップウォッチ(100円)は電池交換した覚えがないまま何年間も動き続けている。

ソーラー式の腕時計も性能が向上した。

当初のものは冬場に長袖の服の袖で覆われる時間が長いと止まったものだった。


家庭生活における電気代は相対的に昔ほど高かったように思う。

子供の頃は親に「部屋を出る時は電気を消せ」としょっちゅう言われていた。

それが習慣となって今でもこまめに電気をつけたり消したりしている。

余計なお世話だろうが、ショッピングセンター等の大規模商業施設に入ると照明やエアコンの電気代は1か月いくらくらいだろうと心配になる。


そんな貧乏性の私に忘れられない出来事がある。

学生の頃、冬休みの帰省を終えて下宿のアパートに戻った時のことである。

寒いので部屋に入ってすぐにコタツのスイッチを入れようとした。

するとコタツの中が暖かい。

コタツの電源を切らないまま2週間近く帰省していたのだ。

おそらくその時の私の顔は青ざめていたことだろう。

サーモスタット機能がついていたのがせめてもの救いだった。



●2020.6.16(火)もったいない

子供がスイカを食べ終わると昔の母親たちは残った白い部分を漬物にしていたものだ。

ただ私の家はあまりそういうことはしなかった。

裕福だったからではなくその逆である。

歯でこそげて食べ進め白い部分が殆ど残らなかったのだ。

メロンについても同様で中心部のどろりとした部分を捨てるなどという罰当たりなことはしない。

小さな粒々の種を飲みこまないように気を付けながらしゃぶりつくしたものだ。


ところで今の若い人たちは「瓜核顔」が読めるだろうか。

読める読めない以前に恐らく見たこともないだろう。

この言葉は「うりざねがお」と読み昔の小説にはわりとよく出てくる。

「核」(カク・さね)という漢字は中核という語もあるように中心という意味で果物関連で言えば種に当たる。

読みから類推できるように「さね」と「たね」はもともと同じ語源なのだろう。

さて「うり」は英語ではメロンだから「瓜核顔」とは分かりやすく言えばメロンの種のような顔ということになる。

具体的には色白で面長な顔のことを言い美人の形容として使われる。

以上は私が「瓜核顔」という言葉を初めて見た時に調べたことである。

昔からある言葉なのに自分は知らない。

それを私が恥ずかしく思ったのは伝統の継承が価値あるものとされていた時代だったからだろう。

現代は真逆である。

泡沫うたかたのように生まれては消えていく流行語やギャル語を知らないことが恥であるかのようにいい年をした大人まで追いかける。


言葉に限らず現代の人間は古いものを顧みず新しいものにばかり飛びつきたがる。

そういう風潮になったのは高度経済成長期以降の大量生産、大量消費という生活スタイルによるところが大きいのではないか。

百均はその使い捨て文化の象徴だ。

「安かろう悪かろう」を承知の上で買って満足が行かなければためらいなく捨ててしまう。

スマホ、ゲーム、家電製品、車、パソコン等々、新製品が発売されるたびに買い替えたくなる。

アメリカではあちこちぶつけて傷だらけの車でも平気で乗りパソコンもハードやOSがいくら古くなろうが使い続ける、そんな人たちが多いと聞いた。

もったいない精神は今や日本でなくアメリカで息づいているのかもしれない。



●2020.6.18(木)あとぜき

私が子供の頃は殆どの家が木造の和風建築で部屋も全て畳敷きだった。

ドアはなく部屋と部屋はふすまで仕切られていた。

部屋に出入りする際は「あとぜきをちゃんとしろ」とよく言われたものだった。

「あとぜき」に漢字を当てれば「後塞き」だろう。

「塞」という字は「ふさぐ」とも読むように「く」は「ふさぎ止める・せき止める」という意味だ。

通行する人々を一旦く所を「関所せきしょ」と言う。

以上のような次第で「後塞きをちゃんとしろ」は「出入りする時は襖を開けた後ちゃんと閉めろ」という意味なのだが「後塞き」が方言なのかどうかまでは知らない。


冒頭に昔の家は殆どが和風建築だったと書いたが面白い話を紹介しよう。

羊羹ようかんで有名な「とらや」という和菓子店の社長が家を建てた時の話である。

デザインが珍しかったのである人が社長宅の執事に聞いたそうだ。

「このお宅は和風建築なのですか洋風なのですか?」

執事いわく「洋館でございます」



●2020.6.23(火)天気

少しずつ進歩しているために気づきにくいが最近の天気予報は大したものだ。

私が子供の頃の天気予報は天気予想と言いたいほど精度が低かった。

晴雨の予報は1週間のうち少なくとも一度は必ず外れていたような印象がある。

予報では晴れだったのに遠足が雨天中止になった時などは特に恨めしかった。


原因を解明する科学的知識がなかった昔の人々も天気予報はやっていた。

身の回りの様々な事象が因果関係さえ確かなら天気予報になるのである。

「トンビが空高く輪をかくと晴れ」

「猫が顔を洗えば雨になる」

そんな素朴な天気予報は何気なく歌っている歌の中にも息づいている。

「…瀬戸は夕焼け 明日も晴れる 二人の門出 祝っているわ」(小柳ルミ子『瀬戸の花嫁』)


ところで気圧についての科学的知識がなかった大昔の人にとって風というのは非常に不思議な現象ではなかったろうか。

風の吹く戸外にただ立っているだけでくしゃみや熱が出る。

それは風が目に見えない邪悪なものを運んできたのだ、そう考えて風邪という言葉が生まれたのではないかなどと私は想像している。

人の命をロウソクの炎にたとえるとそれを吹き消すものは「無常の風」である。

浄土真宗の葬儀の場でよく聞く以下の経文も味わい深い。

「…すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つのまなこたちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば…」(蓮如上人・白骨の章)



●2020.6.25(木)どこからどこへ

人はどこから来てどこへ行くのだろう。

人生の晩年にさしかかるとそんなことが気にかかるようだ。

自分はどこから来たのか、ルーツを知りたがるのは歴史への興味という形で表れる。

郷土史に傾倒するのも圧倒的に老人が多い。

次にどこへ行くのかという点だが行き先はあの世に決まっている。

しかし自分が死ぬことをつきつめて考えるのは恐ろしい。

その恐怖は生への執着となって表れる。

学校が移転したり廃校になったりするのはよくある話だ。

何かの本に載っていた1枚の写真が忘れがたい。

かなり昔に廃校になったある学校の記念碑の除幕式の写真だった。

「~学校跡」と彫られた記念碑の建立の中心メンバーと思われる10数名の卒業生は皆かなりの高齢と見受けられた。

遠からずこの世を去ろうとする年齢なればこそ自分が生きたあかしを残したくもなるのだろう。

そんな感想を抱いたのでその写真を印象深く覚えているのである。

生への執着というよりはルーツ探訪に近いのかもしれないが。


自分はまだ走れるのだろうか。

ふとそんなことを思って先日ウオーキングの途中で4、500mほど走ってみた。

これも生への執着、老いゆえのあがきというものだろう。

ジョギング程度の走りだったが着地する1歩ごとに衝撃が背骨や腰骨にズンズンと直接響くような感じがした。

初めて経験する感覚だった。

加齢と運動不足で腰回りの腹筋や背筋が衰えてしまったせいだろう。

若い時は何とも思わなかったが走れるということはけっこう凄いことなのだ。


人はどこから来てどこへ行くのか。

かつての職場の先輩を思い出す。

福岡のある公園のベンチで座って煙草をふかしていたそうである。

一人の老人がやって来てどこから来たのかと尋ねた。

先輩は「あっち」と適当な方角を指さした。

すると今度はどこへ行くのかと聞いてきた。

先輩は先ほどとは反対の方角を指さした。

そういう話を私にしてくれたのだが、どうもホームレスの仲間に思われたようだと苦笑していた。

確かに風采の上がらない先輩ではあった。



●2020.6.28(日)九官鳥と赤ん坊

かつての職場のある部屋で九官鳥が飼われていた。

九官鳥は物真似の名人だ。

その部屋の住人の咳払いや来客が入室する時の引き戸の音などは絶品だった。

しかしいくらそっくりでもそれは音を再現しているだけだ。


それに対して赤ん坊でも人間は大したものだ。

いったいどうやって言葉を理解するようになるのだろう。

最初は九官鳥と同じく「ママ」という音を口真似するだけだろう。

「ママ」と発声してみたところママが振り向いた。

その経験を繰り返すうちに赤ん坊に劇的な瞬間が訪れるのではないかと私は想像する。

自分が口を動かしたから目の前の人間が反応したという因果関係に気づく。

それは、意味という名の力が言葉に宿っていることを認識する瞬間である。


言葉の力を知った赤ん坊は暫くの間は面白がって「ママ」「ママ」と用事もないのに呼ぶのではなかろうか。

「まんま」「抱っこ」など単語で要求を伝えるのを保育の世界では一語文というようだ。

そして「これちょうだい」などの二語文、さらには三語文へと年齢に応じて言語能力が向上していく。


年を取るとその逆のルートをたどることになる。

二語文の用事でも失語症ぎみの夫婦間では意味不明なやりとりの応酬になる。

そいばあれしてそれをああして

どいばどげんすると?どれをどうするの

しびれを切らして最後は自分で立ち上がる。

こいばこげんするとたいこれをこうするんだ!」

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