2019年7月~12月

●2019.7.1(月)寝ぼけた猫

昔、我が家で飼っていた猫の話である。

寝ぼけていたのか、バスタオルの上で寝ていた猫がタオルをちゅうちゅう吸い出した。

子猫が母乳を吸う時のように両手(前足)でタオルを揉みしだきながら。

憐憫、戦慄、……それを見た時の私の気持ちは一言や二言では表現できない。

子猫なら可愛い仕草だが人間に換算すれば老人に相当する年齢の猫だったのだ。



●2019.7.2(火)似たもの親子

親子は顔だけでなく声も似ていることが多い。

赤ん坊は親の言葉を真似して言葉を覚える過程で声調も無意識に真似るのだろう。

オームや九官鳥と同じだ。

私は近頃靴下の履き方が亡くなった父親に似てきた。

椅子に座って片足の足首をもう片方の足の膝の上に乗せて履くのである。

しかしこれは意識的に真似をしているわけではない。

体が硬くなると体育座りの姿勢で履くのが困難になるのでそうせざるを得ないのだ。

父親もおそらくそうだったのだろう。



●2019.7.3(水)雑草の花

散歩の途次の道端に雑草の花があれこれと咲いている。

かわいらしい花なのに雑草というだけの理由で引き抜かれ刈り払われる。

この花は雑草だと誰が決めるのだろう。

雑草にも名前はある。

その名前で堂々と園芸店で売り出したらどうだろう。

私が好きなのは草野心平が「コバルトの盃」と表現したオオイヌノフグリだ。

じゃがいも、おくら、トマト……野菜の花も美しい。



●2019.7.4(木)ネット炎上

ネットやテレビで刺激的な発言をすればすぐに叩かれる。

うかつにものも言えないと思うがそれは当然かもしれない。

目の前に1本のボールペンがある。

それが私の手元に届くまでにどれくらい多くの人が携わっているだろうか。

原料を生産する人に始まって、工場で製造する人、商店へ運ぶ人、店頭で販売する人…等々、考えれば気が遠くなる。

SNSやマスメディアで発言する場合にも不特定多数の人の思惑に配慮する必要があるだろう。

「梅雨入りしていやになるね」

知人間では何の問題もないこんな会話も、田植えを控えている農家の人が聞けばいい気はしないだろう。



●2019.7.5(金)オリンピックとリニア新幹線

「お前はあほか、死ね」

そんなふうに、若い頃は平気で「死ぬ」という言葉を口にしていた。

しかし年と共に不吉なことを口にするのが憚られるようになった。

理由は簡単である。

年を取るにつれて、それだけ「死」がリアルになるからだ。

「次のオリンピックがオリンピックの見納めではなかろうか」

「リニア新幹線に乗れるだろうか」

そんな思いは若者の頭をかすめもしないだろう。



●2019.7.6(土)自由と束縛

やりたいことをやりたい時にやりたいだけやる、それが自由というものだ。

勉強や仕事が一般的に辛いと思われているのはノルマというものがあるからではないか。

ノルマとは自由を奪って拘束するかせだ。

結婚も長きにわたって家族を養わねばならないノルマだと言えないこともない。

結婚を避ける若者はそのことを無意識裡に感取しているのかもしれない。


ところで自由と束縛の価値が逆転することもあるのだろうか。

自由な境遇にある人が、しなければならないことがある人を羨むケースである。

定年退職後も精力的に活動している人を見ているとそんなことを考えてしまう。

朝に目覚めても好きなだけ二度寝できる、私などはそれが最高の贅沢だと思う。

ごくつぶしもここに極まれりという感もなきにしもあらずだが。



●2019.7.7(日)大人買いと掘り出し物

来日した海外のセレブが銀座のブティックを訪れて棚の1列の服を全て購入したというような話を時々耳にする。

本人はさぞかし爽快な気分だろう。

しかし喜びも悲しみも構造主義的で相対的なものだ。

大衆向けの洋品店で掘り出し物を見つけて目を輝かせる私の妻のほうがセレブよりも喜びは大きいかもしれない。

妻は高い値札の付いているコーナーの服は見ようともしない。

そんな妻に対して私は自分の甲斐性のなさを申し訳なく思って胸が痛む。

姉妹3人で喫茶店に入った時も妻は飲み物だけにしてショートケーキを注文しなかったそうだ。

私が働いて得るお金で昼間からケーキまで食べるのは申し訳ないと思ったという。



●2019.7.8(月)死の間際

自殺しようとして崖から飛び降りた男がいた。

ところが崖の途中の木に引っかかり「助けてくれ」と叫んだそうだ。


人はどんな思いで死んでいくのだろうか。

迫りくる死の恐怖に耐えられるのだろうか。

父親の最期に向き合ってその答えが出た。

死の間際には心肺機能が低下して酸素マスクを付けられたりする。

そういう段階に至ると冷静にものを考えることなどできず、意識は混濁するのだ。

前述の自殺未遂者も、木の枝にかかって錯乱から覚めるまで思考能力や恐れの感覚が麻痺していたのだろう。



●2019.7.9(火)他人の反論

人は自分のいうことに賛同してほしい生き物だ。

だから自分の意見にいちいち反論してくる人間には反感を覚える。

しかし人の考えは千差万別なのだから反論をぶつけてくる人は自分に正直なだけとも言える。

その線で類推すると次のようなことも考えられる。

自分の言うことを殆ど受け入れてくれる人はこちらを思いやってあえて反論を控えているのではないか。

他人の気持ちは分からないから、自分が他人の話を聞いている時の心情を点検してみたい。



●2019.7.10(水)体のサイン

人間の体はうまくできている。

妊娠を知らせる「つわり」というサインによって、妊婦はその後の体調管理に気を付けるようになる。

「白髪」その他の老化のサインも、もう若くはないことを自覚して生き方を考え直すきっかけになるだろう。

私は最近耳たぶに1本だけ2センチほどの長い毛が生えているのを見つけてゾッとした。

うまくできているはずの体が部分的にではあっても自らコントロール不能に陥りつつあるのだ。

こんなふうにして自分の意に沿わない癌細胞も発現するのだろう。



●2019.7.11(木)人生の岐路

中年の域を過ぎると自分の今後が見通せるようになる。

するとそこでジタバタ派とアキラメ派の二通りに分かれる。

「まだ元気な今のうちにやり残したことにチャレンジしよう」

「平凡な日常を楽しみながら穏やかに余生を送ろう」

私は若い時からずっと後者だ。

経済的に許される環境にあれば20代で隠遁生活に入りたかった。

人間以外に生まれ変わるとしたら海ならマンボウ、陸ならナマケモノを希望したい。



●2019.7.12(金)哲学者と私

日本の誇る哲学者西田幾多郎は冬の寒い部屋の中でも思索を凝らす時はランニングシャツ1枚だったという。

哲学するということは冬でも暑くなるほどのエネルギーを消費する頭脳の格闘技なのだ。

凡人の私は頭をフルにつかってもちょっとお腹が空く程度だ。



●2019.7.13(土)父子のすれ違い

殆どの家庭で女親と子供たちは屈託なく話ができるのではないか。

それに対して男親と子供の関係はどうもギクシャクするようだ。

私が学生の頃、帰省して父親の後ろ姿を見た時「小さくなったなあ」とかすかな憐憫を覚えたことがあった。

俗に言う「子供が親を超える瞬間」だったのかもしれない。

それでも、「これを食べてみろ、うまいぞ」などと父親が世話をやいてくるのは鬱陶しく、ろくに返事もしなかった。

今にして思えばそれは不器用な父親が示す愛情の形だったのだろうが、当時の私にはそれが分からなかった。

私が社会人になって家庭も持ち年を重ねてからは、私の方から父親にあれこれと話しかけるようにした。

しかしかなりの高齢になっていた父親に会話を楽しむ精神のハリはもうそれほど残ってはいなかった。

現在、昔の私がそうだったように私が話しかけるのを子供たちは鬱陶しく思うようだ。

世代間の不幸なすれ違いは避けようなく繰り返されるのだろうか。



●2019.7.14(日)人生の最前線

人は経験したことは分かっているがまだ経験していないことは推測するしかない。

中年にさしかかった人間は、若者の気持ちは分かるが老人の気持ちは分からない。

しかし若者であれ中年であれ老人であれ、人は皆それぞれの人生の最前線に立っている。

それぞれの「今」を手探りで生きているのであり、その不安は若者も老人も変わることはないだろう。

私が20代の頃は40代以上の人たちはどっしりと落ち着いて見えた。

ところが自分が年をとってみると、40歳どころか50になっても60になっても不安は消えない。

ずいぶん昔のことだが奄美大島に泉重千代しげちよさんという世界最高齢の男性がいた。

取材に行ったリポーターが好みの女性のタイプを尋ねると重千代さんはこう答えたという。

「自分は甘えん坊だから年上の人がいい」

これくらいおおらかでないと長生きはできないのだろう。



●2019.7.15(月)カラオケの声と生き方

カラオケを歌う人の中には声を「作って」歌う人がけっこういる。

自分の声で素直に歌うほうが聴く人も気持ちがいいのにと思う。

「シンプル・イズ・ベスト」という言葉もある。

しかしなにごとも「普通」こそが至難の業だ。

気負いなく普通に自分の身の丈に合った人生を生きていきたいものだ。

同時にまたそれができない人の労苦にも思いを致したい。

私もかつて蟷螂の斧に似て強がったり見栄を張ったりして過ごした時期があった。



●2019.7.16(火)卑劣な犯罪

被害者の未来を暗くする犯罪は許せない。

たとえば振り込め詐欺や性犯罪。

被害者本人はもちろんその家族の心情まで思うと更にやりきれない。

これらの犯罪をおかす者は身内が同種の被害に遭ったらどう思うのか。

そんな想像力は皆無なのだろう。

放火犯も同様だ。

警察関係の人から聞いたことがある。

放火犯は殺人犯以上に重い刑罰を受けることがあると。

厳しいなと思ったが考えてみれば当然である。

人家に火を放つのは他人の生命と財産の両方を同時に奪う凶悪な犯罪なのだ。



●2019.7.17(水)参拝

神社でお祓いをしてもらった。

参拝者の多い神社なので一度に10人ほど拝殿に座る。

神主が祝詞をあげる際に一人一人の住所や氏名をいちいち読み上げるから個人情報がだだ漏れだ。

お祓いをしてもらう当人の後ろの方には付き添いの人たちが並んで座っている。

その中の小さな子供がお祓いの最中じたばた足踏みをしてうるさい。

腹を立ててはならない、それも修行だと我慢する。

するとペチッという音がした。

察するにじっとしてない子供の頭を母親が叩いたと思われる。

ペチッという字面どおりの見事な音がしておかしくなった。

笑ってはいけない、これも修行だと我慢した。

初穂料は5000円なり。

しかし1万円払った人たちは一通りのお祓いが終わった後、さらに奥の院へと導かれる。

随神かんながらの世界も地獄の沙汰と同じく金次第なのだろう。

悪態ばかりついたようだが神社はいいものだ。

本殿の中はひんやりとした霊気のようなものを感じる。

別のある神社に行った時、樹齢数百年のクスノキがあったがその樹の周囲も霊気が漂っていた。



●2019.7.18(木)一寸先は闇

ハレンチな事件を起こす芸能人が後を絶たない。

マスコミで報道されると彼らの未来は暗く閉ざされるだろう。

露見した後の悲惨な状況を事を行う前に想像できないのだろうか。

芸能人だけでなく一般人でも定年間近で懲戒免職になれば手に入るはずだった多額の退職金が消えるのだ。

老後の人生設計や近所への体面など、家族はたまったものではない。

「一寸先は闇」「後悔先に立たず」、これらの言葉の意味するものは重い。



●2019.7.19(金)先生

「先生」と呼ばれるからには人々の師表とならねばなるまい。

学校の先生が事件を起こして重い処分を受けるのはその意味で理解できる。

同じ「先生」でも政治家先生の醜態には気分が悪くなる。

「井戸塀政治家」など望むべくもないどころか、問題を起こして言い逃れに終始する姿は見るに堪えない。

「先生」と呼ばれる職業で最も人格が高潔でなければならないのは、私は国会議員だと思う。

数百人規模の生徒たちの先生である教師と違って彼らは日本国民の師表でなければならない。

現在の政治家のイメージについてアンケート調査をすればどんな結果が出るだろうか。

「天知る、地知る、我ぞ知る」という言葉がある。

悪いことをすれば天地の神々が見ている、そして誰より自分自身が知っているはずだ。

ところが昨今は政治家から一般人まで、バレなければいいとしか思っていないようだ。

この風潮が続けば人はその場その場を切り抜けるだけの細分化された人格になっていくだろう。

会社では有能な社員でも家庭では妻に暴力をふるう夫、家庭では明るいよい子でも学校では陰湿ないじめを行う生徒。

全てこま切れの人格がなせるわざである。



●2019.7.20(土)飲酒事故

先日運転免許証の更新で警察署に行った。

ゴールド免許なので講習は30分程度のビデオ視聴のみ。

そのビデオの飲酒運転に関する部分を見ながら思った。

飲酒による事故は車の運転に限らないのではないかと。

たとえば宴席での失言や喧嘩。

その悲惨さも飲酒運転と同じだ。

被害者も加害者も長い間苦しむことになる。



●2019.7.21(日)社会的動物

子供が小さい頃時々ドライブに連れていくことがあった。

しかし子供は景色には関心を示さずいつも退屈そうにしていた。

大人になっても事情はあまり変わらない。

若者どうしのドライブでは景色よりも車内での会話が関心事だろう。

人間は社会的動物なのだとつくづく思う。

ところがそんな人間も晩年になると自然に還ろうとするのではないか。

老いた母を佐賀県の有田陶器市に車で連れて行ったことがある。

ゴールデンウイーク中だったので大渋滞にはまってしまった。

若かった私はイライラのしどおしだったが母は違った。

のろのろとしか進まない車からの代り映えしない景色に飽きることなく目を向けていた。



●2019.7.22(月)出る杭

「出る杭は打たれる」という諺に続けて松下幸之助がこう言ったそうだ。

「出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれない」

さすがに経営の神様松下幸之助だ。

ところが世の中にはアマノジャクがいるものでこう付け足した。

「しかし抜かれる」

私は人のやる気をそぐアマノジャクのさらに上をいこう。

松下幸之助流のポジティブな思考でこう続ければよい。

「抜かれるというのはヘッドハンティングのことである」



●2019.7.23(火)個人的な味覚

食費節約のためにカップ麺やレトルトカレーの安いのを買ってみることがあるが美味しくない。

「安かろう悪かろう」で当たり前の話だが、「安かろううまかろう」というものはないのだろうか。

あったとしても売れだすと需要と供給の関係で販売者が売り値を吊り上げるだろう。

そこで頭に浮かぶのが味覚の鋭さで芸能人を格付けするテレビ番組だ。

市販の安いワインと100万円のワインとの区別がつかない芸能人がいたりする。

しかし市販のワインを100万円のワインだと思って飲めるならもうけものではないか。

自分の味覚が満足すればいいのだからカップ麺であれ何であれ片っ端から安いものを試してみればいい。

その結果、安くても美味しいと思えるものがあればラッキーだ。

ただ、少し悩ましい気分が残りそうだ。

大多数の人がまずいと思うものを美味しいと感じる自分の味覚はいかがなものかと。



●2019.7.24(水)最後の晩餐

死ぬ前に何を食べたいかを芸能人がテレビ番組で言い合うことがある。

芸能人に限らず一般人も寿司だ焼肉だと意見は千差万別だろう。

その「最後の晩餐」のメニューに白米を選ぶ人は食通なのではあるまいか。

焼き魚に醤油をかけるように、炊き立てのご飯に醤油をかけて食べるとおいしいものである。

塩をふりかけるだけでも美味しい。

米はありふれていて高価でもないからありがたみが分からない。

雑草がありがたがられないのも逞しい繁殖力のせいではなかろうか。

世界でこの地域にしか咲かないということになれば誰も雑草とは呼ばないだろう。



●2019.7.25(木)人生の走り方

先日高速道路を走った。

時速80キロなら景色を見る余裕もあるし神経も疲れない。

100キロとなると前方に集中しなければ不安になる。

速くしかもある程度のんびりと走りたければ90キロがベストだろう。

ナビで目的地を設定すると距離と到着予定時刻が表示される。

その到着予定時刻も90キロくらいの速度で計算してあるようだ。

私は軽自動車だから謙虚に左の車線をゆっくり走行する。

当然後続車が追い越してゆく。

追い越した車もさらなる後続車に道を譲るため左の走行車線に入る。

そのせわしい繰り返しは競争に明け暮れる人生のようだ。


ところで人生にも目的地はあるのだろうか。

用意ドンとこの世に生まれ落ちた人間が等しくたどり着くゴールは死のみである。

それまでは走るも歩くも寝そべるも自由だが、目標を設定すれば人生を走り続けることになる。

その目標が遠ければ遠いほど死までに間に合うよう速く走らねばならない。

はたして人生はすべからくそうあるべきなのだろうか、私の関心事はそこだ。

近くに目標を設定して景色を見ながらのんびり歩く、極端に言えば寝そべって景色を眺める。

そんな人生は怠惰のそしりを受けるしかないのだろうか。

『青い鳥』のチルチルとミチルにもこう言われそうだ。

身近な幸せを感受できるようになるには一度遠くへ旅立たねばならないと。



●2019.7.26(金)わが忘れなば

「これ誰だったかな」

喉まで出かかっているのだが思い出せない。

テレビの画面の俳優や女優の名前を妻に尋ねることがある。

「ああそうだった、そうだった」

俳優や女優なら人に教えてもらえば記憶が回復する。

ところが自分の個人的な体験の場合はそうはいかない。

自分が思い出せなくなればそれは存在しなかったことになってしまうのだ。

田中克己という詩人の短歌を思い出す。

このみちを泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれかしるらむ



●2019.7.27(土)家事

他人の家に出かけて冷蔵庫の中の食材で何品もの総菜を作る人がいる。

テレビ番組で見たその女性は「伝説の家政婦」なる呼び名まで奉られていた。

料理だけでなく現代は掃除の代行業者も多く、家の中を片付けるノウハウまで商売になる時代だ。

これらは昔の専業主婦なら誰でも一人でこなしていた。

そんな専業主婦の仕事がなぜ高く評価されなかったのか。

社会性、生産性がない、簡単に言えば仕事の対象がほぼ家族限定だったせいだろう。

炊事、洗濯、掃除を一手に引き受け、夫、子供以外の人間と接するのは近所づきあいと親戚づきあいくらい。

現代の女性なら忌避したくなる生き方だろう。

実際、女性の社会進出が目覚ましい昨今は前述のような家事代行が職業として成り立っている。


しかし私が子供の頃、家庭の主婦は殆どが専業主婦だった。

おかげで夫と子供は心置きなく職場、学校で働き学ぶことができた。

帰宅すれば心づくしの夕食で一家だんらんの癒しの世界が展開する。

当時の主婦は不幸だったのだろうか、夫や子供の犠牲になったのだろうか。

母親が存命中に聞いておけばよかったと思う。

夕方、学校から帰ればキッチンにエプロンをつけた「ママ」はいなかった。

台所に割烹着を着た「母ちゃん」がいた時代の話である。



●2019.7.28(日)供えられた花束

車を運転する時、私は早めの点灯を心掛けている。

ライトを点ける理由の半分は他人や他車に自分の存在を知らせるためである。

しかしかなり暗くなってもスモールライトさえ点けていない車を見かける。

自分はまだ見えるという判断からだろうが、なんという危機意識のなさか。

目の不自由な老人が自分の車の直前をいきなり横断し始めるような状況を想定できないのだろうか。

自分の都合だけでなく他者の身になって考えなければいけない。


と、偉そうなことを言っているが近頃反省していることがある。

道端に花束がぽつんと供えられているのを時折目にすることがある。

恐らく交通死亡事故の現場なのだろう。

都会では昨今、無差別殺人や無謀運転、過失運転で尊い命が犠牲になる事件が相次いでいる。

そういう現場に置かれる花束は一つや二つどころではない。

供えられた多くの花束を見ると奇特な人がいるものだと思う。

正直に言うと以前は「よくまあわざわざご苦労なことだ」という冷めた目でも見ていた。

流行りのラーメン店の行列と同じように見ていたのである。

そんな浅薄かつ不遜な見方を最近は反省している。

ラーメン店の行列も暇つぶしに並んでいるわけではあるまい。

自分にその気がないからといって行列をなす人たちの食にかける熱意を否定していいわけがない。

まして花束を買って事故現場に供える人たちについてはなおさらのことだ。

事件を起こす人間は常識では考えられないほどの愚か者である。

そして現場に花を供えるのはその対極にいる、他人の惨事を我がこととしてとらえる尊い人たちである。



●2019.7.29(月)父のお迎え

死が近づいた身内の奇妙な言動に接すると気味悪く思うのが普通だろう。

しかしそれを幻覚だと否定せずお迎えが来たと思えば親身な対応がとれる。

私はオカルト信者でも何でもないが「お迎え」という現象はあるのではないかと思っている。

というのは私の父がそれらしいふるまいを示したからである。

それなのに当時の私は父を強引に現世に引き戻そうとしてしまった。


「あそこを歩いているのは誰か」

病室のベッドに横たわる父が遠くを見ているような眼で言った。

黒い服を来た複数の人間が歩いていると言う。

言いながら傍らを指さす。

「そこはただの壁。誰もおらんよ」


兄が見舞いに行った時の話はこうだった。

ベッドに仰向けに寝ている父が両腕を天井に向けてさしのべた。

「まだ、逝くのは早い」

兄はそう言って父の腕を押さえて元に戻したという。


お迎えに関して次のような話をよく聞く。

意識が混濁している病人が死ぬ少し前、意識がはっきりすることがある。

しかしたいての家族はそれを病状の改善だと思い、食べたいものはないかなどと無用の世話をやくらしい。

もったいない話だ。

それは最期のお別れをすべき時間を与えられたと思うべきだ。

かく言う私も反省しきりである。

黒い服を着て歩いていた人たちは誰だったのか。

腕をさしのべてすがろうとした相手は誰だったのか。

私も兄も父に寄り添ってお迎えに来た人たちのことを語り合うべきだった。



●2019.7.30(火)徘徊と夢

前回の続きみたいな話になるが、徘徊する老人も現世ともう一つの世界を行き来しているのではないだろうか。

健常者であっても夢を見ている時は夢の中の世界だけが実体である。

現実の世界を離れてもう一つの世界にいる時の徘徊者も同様だろう。

そんな徘徊者に「しっかりしろ」と言っても頼りない反応しか示さないはずだ。

夢を見ている人間を無理に揺さぶり起こすようなものだろうから。



●2019.7.31(水)文化的な生活

昔母親は捌いた魚の頭や内臓を台所の外に放っていた。

すると野良猫が寄ってきて喜んで食べていた。

人間に対してそんなふうに食べ物を投げ与えたら人権問題だ。

では即席ラーメンなどを炊いて鍋のまま提供するのはどうだろう。

訪問客にはとてもそんなことはできない。

家族ならOKかもしれない。

自分なら何の問題もない。

私も独身時代は食事に限らず気楽なものだった。

布団は敷きっぱなし、掃除も何週間もしないというふうだった。


私は妻より早く逝くだろうが、何かの間違いで独り身にならないとも限らない。

そうなった場合、独身時代のようなぐうたらな生活には戻るまいとひそかに決意している。

むしろ今以上にきちんとした生活をしようと思う。

外出の予定がなくても朝起きたらパジャマを脱いで着替える。

掃除も洗濯もこまめにやる。

鍋やフライパンで調理したものは皿に盛りつける。

箸立てや調味料類も食事の都度食器棚から出し入れする。

とまあそんなふうに、24時間、カメラで撮影されても恥ずかしくない生活をしたい。

手間ひまがかかるということ、それが文化というものの本質なのだろう。

自堕落とはよくぞ言ったものだ、自ら堕落するのである。



●2019.8.1(木)年を取って分かること

私が若かった頃、父を見ていて気になることがあった。

寝る時に眼鏡を外すのだがそれを枕のすぐ横に置くのだ。

寝返りを打って自分の頭で眼鏡をつぶしたり夜中にトイレに立つ時に踏んだりしないかと不安に思ったものだ。

その私が今は時々同じことをしている。

年を取ると若い時のように枕から頭が離れるような寝相の悪さはなくなる。

そしてトイレに立つ時も枕のすぐ横を踏むことは現実的にはないのである。

リビングで寝そべってテレビを見る時もリモコンは体の脇に置いたままにする。

しかしこれはテーブルに置くなりしたほうがいい。

枕元の眼鏡と違って立ち上がる時に踏む恐れがある。

分かっててなぜしないのかと言えば年を取ると少しでも体を動かすのはおっくうなのである。

朝起きる時若い頃は無意識に腹筋だけですっと上半身を起こしていたが、今の自分からするとそれは驚異的なことである。



●2019.8.2(金)言葉の切れ目

「金の切れ目が縁の切れ目」と言うが、言葉に関しては「意味の切れ目が言葉の切れ目」である。

それは当たり前すぎることのようだが、では「言語道断」「五里霧中」などの切れ目はどこだろう。

「言語・道断」「五里・霧中」と思っている人も多いのではないだろうか。

正しくは「言語道・断」「五里霧・中」で、直訳的な意味は「言語道が断たれたみたいだ」「五里霧の中にいるようだ」。(「五里霧」については忍術めいた話があって面白いのでネット等で検索されたい)

『浦島太郎』に出てくる「玉手箱」も「玉手・箱」でなく「玉・手箱」と切れる。

「玉」は美しいという意味の接頭語だから「玉手箱」は美しい手箱という意味になる。



●2019.8.3(土)接頭語

前回「玉手箱」の「玉」が接頭語だという話をしたが「手箱」の「手」もそうである。

持ち運びや取扱いがしやすい小型のものであることを表す接頭語だ。

だから「手帳」も「持ち運び、取り扱いに便利な小型の帳面」という意味になる。(現代では「帳面」という言葉は「ノート」とルビを振らねばならないほど分かりづらくなった)

同じ接頭語でも「小耳にはさむ」「小首をかしげる」「小腹がすく」の「小」は分かりにくい。

「手帳」と違って「小耳」や「小首」や「小腹」というものがあるわけではない。

これらの「小」は直後の名詞でなくその後にくる動詞に「ちょっと」という意味を付け加えるのである。

「小腹がすく」は「腹がちょっとすく」というぐあいに。



●2019.8.4(日)分かりにくい表現

前々回、前回に引き続き分かりにくい表現を取りあげたい。

「友達と遊ぶ」のような「~と~する」のパターンは「誰々と一緒に~する」の意味だ。

ところが「~と」の部分に人間(や動物)以外のものが入ると「~のように~する」の意味になる。

例を挙げれば「優勝は夢と消えた」は「優勝は夢のように(はかなく)消えた」。

1965年の加山雄三の大ヒット曲「君といつまでも」の歌詞にも登場する。

「君の瞳は星と輝き 恋するこの胸は炎と燃えている」

当時の私は漠然と「星と一緒に輝き」「炎と一緒に燃えている」というような意味だろうと思っていた。

それも無理はなく、こういう「と」の用法は古典的表現であり現代会話ではまず使わない。

もう一つ例を挙げよう。

古文で花と言えば桜だから「花と散る」は「桜の花のように潔く散る」というニュアンスになる。



●2019.8.5(月)古文みたいな歌

1960年代までの歌謡曲は歌詞の随所に古語や古典文法が見られた。

久保浩の1964年のヒット曲「霧の中の少女」を取りあげてみよう。


涙はてなし雪より白い

花より白い君故かなし

あわれ少女よ霧の中の少女

消えて帰らぬあの夜の街角

いまも僕の心のうちに生きてる君よ


雪よりも白い君が「悲しい」というところは死者の肌の色や冷たさを連想させる。

その「哀れな」少女は今も僕の心の中で生きている。

私は当初この歌を若くして亡くなった恋人(少女)を追慕する歌だと思っていた。

ところがこの歌は単なる失恋の歌なのだった。

誤読したのは「かなし」と「あわれ」の古語としての意味を知らなかったからである。

この歌の「かなし」は漢字を当てるなら「悲し」でなく「愛し」で「いとしい」という意味。

「あわれ」は「哀れ」でなく感動詞で「ああ」という意味なのだ。


古語の意味が分からないために誤読する有名な例は童謡の「ふるさと」だろう。

「兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川」

この「追ひし」の意味を「おいし」という発音にひかれて「美味しい」と解釈する人が多かった。

「追ひし」「釣りし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形だから「~した~」という意味。

だから「追ひし」は「追った」、「釣りし」も「釣りをする」でなく「釣った」。

の」が「あの」という意味だということを知らずに「かの山」「かの川」という名前の山や川だと思う誤解もありうる。

さらに一歩踏み込んでなぜ兎を追いかけたり鮒を釣ったりしたのかと言えば食用にするためである。

上野公園の有名な西郷隆盛像も愛犬を連れて兎狩りをしている姿だと言われている。



●2019.8.6(火)人里の変貌

テレビの特撮ヒーローものにはおかしなことがよく起こる。

対決シーンが町なかから急に人里離れた廃工場にカメラがパンする。

はなはだしい場合は山中の砕石場などに移ったりする。

それらを奇異に感じるのは現代の人口が過密なまでに都市に集中しているからだろう。

昔の映画は特撮ヒーローものでなくても似たような展開があったが不自然には感じなかった。

というのは、町なかや近郊に自然があふれていたからだ。

町の中を川が流れ少し歩けば小高い丘があったりした。

当時の流行歌にもそういう事情は反映されている。

失恋して寂しくなり丘に登る、雑木林に入る、そういった歌詞がたくさんある。

自然と共生していたかのようなそんな時代は1960年代の高度経済成長で終わりを迎えた。

木造家屋は鉄筋コンクリートのビルになり、川は暗渠化して道路に変わり、丘は削られて宅地に造成された。

海辺も埋め立てが進み商業用地や工業用地になっている。

どの都市も海に近い平坦なエリアは人工の埋立地である。

内陸部に向けて歩けば不規則に曲がりくねった道に行き当たる。

そこが本来の海岸線であり昔にさかのぼるほど海は人里から近かった。



●2019.8.7(水)坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がある。

尊敬なら分かるが僧侶がなぜ憎まれねばならないのだろう。

その背景には江戸幕府による檀家制度の制定がありそうだ。

キリスト教禁制後のこの制度によって寺が種々の面で一般庶民に高圧的な態度を示すようになった。

堕落する僧侶も多く、女性を寺に宿泊させてはならないなどという決まりを幕府が作ったほどだ。

ところで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」は慣用句としては「ある人を憎むとその人に関する全てのことが憎く思えてしまう」という意味である。

ではその対義語はと思いを巡らせると「痘痕も靨」ではなかろうか。

かつてのロカビリー全盛時代のことだが多くの女性ファンがステージ上の歌手にハンカチを差し出す。

歌手はそのハンカチで額の汗を拭いてファンに返す、そんな録画を見たことがある。

当然、女性ファンは狂喜乱舞する。

汗の成分は似たようなものだろうが嫌いな男性の汗ではこうはいくまい。

狂喜乱舞の対義語は思いつかないが意気消沈どころではないだろう。



●2019.8.8(木)どっきりカメラ

前回「痘痕も靨」の例としてお気に入りの歌手の汗の話題を出した。

他人の排せつ物は気持ちが悪かろうにと私は思うのだが、熱狂的なファンは汗どころか鼻をかんだティッシュさえ欲しがるかもしれない。

そう言えば、有名女優がホテルに宿泊したらチェックアウト時にマネージャーがゴミ箱のゴミまで持ち帰るという話を聞いたことがある。

有名人はなにかと大変だ。

どっきり番組という名の盗撮までされてしまう。

私はどっきり番組に関して三つ気にかかることがある。

「どっきり」とうたっているからには当人に気づかれてはなるまい。

そんなに巧妙に隠しカメラを仕掛けることが可能なら、女性タレントなどは本当の盗撮も日常的にされているのではなかろうか。

二つ目は盗撮を予測しているケースである。

どっきり番組が流行っているのだから賢い芸人は普段からその心構えをしているはずである。

すると予期せぬことが起こった瞬間にテレビの収録だと察して派手なリアクションがとれる。

それを素のリアクションと思って面白がる視聴者こそいい面の皮である。

最後はどっきりだと気づかない中の最悪の場合である。

ハニートラップをしかけるとか失礼なことをして怒らせる、そんな仕掛けをしたとしよう。

番組制作者のねらいどおり、仕掛けられた側はどっきりだと気づかないまま事態が進行する。

しかし中にはネタばらしどころでなく、とても放映できない結末に至ったケースもあるのではないか。

どっきり番組に潜むそんな暗部について考えると気が重くなる。

そこで笑い話ですみそうないたずらを一つ考えてみた。

2種類のラーメンを食べてもらうとあらかじめ告げておく。

その実、同じラーメンを二つの丼に入れて出す。

試食後、どちらが美味しかったか、どういう違いを感じたかを問うのである。

家族相手でも仕掛けられそうなどっきりだ。



●2019.8.9(金)私もブロガー?

ログハウスという言葉に使われているように「ログ」というのは丸太のことである。

電子機器などなかった昔々、走っている船の速度は次のようにして計ったということだ。

船首から丸太を海面に投入する。

その丸太が船尾まで流れる時間(正確に言えば船が進んだ時間)を砂時計等で計測する。

そうやって船の長さと照らし合わせて速度を算出し記録したという。

このような経緯でログ(丸太)という言葉は「記録」という意味を持つに至った。

Web(ウエブ)上の記録(ログ)という意味のウエブログ、この省略形がブログなのだ。

ブログの定義は「自分の考えや思いを日記風に記してそれに対する感想などを閲覧者が自由にコメントできる形式のWebサイトのこと」らしいから、こんなエッセイもどきの駄文を発表している私もブロガーと自称していいのだろうか。



●2019.8.10(土)女性はミステリー

男はとかく女性に翻弄されがちだ。

宇宙のことなら何でも知っていそうな「車椅子の物理学者」ホーキング博士(2018年死去)も女性は全くの謎だと発言している。

作家の太宰治は『女類』という作品によれば女性を別種の生き物だと思っていたようだ。

動物学上の分類は男類、女類、猿類などとあるべきだと登場人物に言わせている。


このように男からすると女性はミステリーなのだが、その逆の声は聞こえてこない。

ということは、女性にとって男は分かりやすい生き物なのだろう。

単純で見栄っ張り、機嫌をそこねるとすぐに生きるの死ぬのと駄々をこねる。

子供をあやす要領で接すればいいそんな男どもは考察に値しないのだろう。

赤子の手をひねるように女性は男の手をひねるのである。



●2019.8.11(日)100円ショップは庶民の味方 

来日する外国人に人気の土産物の一つに扇子がある。

値段はピンからキリまでで高いものは数万円する。

私が持っている扇子はもちろんキリの方で、100円ショップで買ったものである。

涼をとるという実用性からすると値段は関係ない。

金箔などを使って高価な扇子を作るより100円でも利益が出る扇子を作るほうが難しいのではなかろうかと思ったりもする。

100円ショップは食器もありがたい。

以前は安っぽい見た目だったが最近のものは高級品と比べても遜色がない。

「遜色がない」という言葉を久しぶりにつかった。

「色」には「ようす」という意味があるから「遜色」は「遜るようす」という意味である。

「謙遜」という言葉にも使われているように「遜る」は「へりくだる」と読む。

食器のことに話を戻そう。

私が小さい頃の食器は粗悪品が多くよく欠けた。

ガラスのコップは熱湯を注げばピキッと音がしてヒビが入ったりした。

焼酎のお湯割りは最初にお湯を入れるのだろうが、私は逆にする。

今のコップが丈夫だと分かっていてもコップに熱湯はいまだに怖い。



●2019.8.12(月)うどん、カレー、ラーメン

私が飲食店を始めるならうどんとカレーだけの大衆食堂にする。

うどんの麺は小麦粉にこだわったり手打ちをしたりしない。

麺もつゆも市販のものを使う。

カレーもスパイスの調合などやらず市販のルーを2種類混ぜるだけ。

客に手作りでないことをことわって安価に提供すればいい。

こういうやり方なら修行の必要もなく明日からでも開店できる。

うどんとカレーが嫌いな人はまずいない。

それにこの二つは誰が作ってもそこそこの味になる。

言い方を変えればまずく作るほうが難しい。

以上の理由でうどんとカレーに特化すれば失敗はない。


これに対してつぶれる可能性のある店はラーメン屋である。

ラーメンは特殊な食べ物だ。

個人によってこんなに好みが別れる食べ物も珍しい。

大別してもとんこつ、醤油、塩、みそと4種類ある。

さらに店ごとに味が大きく異なる。

うどんを熱く語る人はあまりいないがラーメンは違う。

スープ、麺、トッピング、一人ひとり思い入れが強くそこそこの味では満足しない。

だから自分が好きな店であっても人に勧めるのはやめたほうがいい。



●2019.8.13(火)グリコのおまけ

ボディビルダーは理想的な体型を手に入れることを目的としている。

体操選手は鉄棒や床運動などの優れた演技を目指しているだけだ。

それなのに練習に励めば筋骨隆々とした体型がグリコのおまけみたいについてくる。

水泳選手も同じだ。

速く泳ぎたいだけなのに肩回りと腰の筋肉を使うため逆三角形の体型になる。

ただし体の成長期にトレーニングするからそうなるのであって大人になって水泳を始めても肩幅が広くなることはないそうだ。


水泳選手で気になる体の特徴があと二つある。

一つは反張膝はんちょうしつだ。

人間の脚は膝を少し曲げれば「く」の字になり伸ばせば真っすぐ180度になる。

反張膝というのは180度を超えて逆「く」の字になるのである。

水泳選手が立ってインタビューを受けている映像を見るとそうなっている選手が多い。

グリコのおまけ理論?で考えてみよう。

そんな構造になりがちなトレーニングを行うのはどんな分野か。

水泳以外に競歩、クラシックバレエ、ファッションモデルなどが考えられる。

これらの分野で反張膝はメリットになるが日常生活ではやや不便なようである。

ある水泳選手は陸上を歩くと疲れると語っていた。

反張膝で全体重を支えると膝の負担が大きいせいだろうと思われる。

水泳選手で反張膝以外にもう一つ気になる体の特徴は水かきである。

水泳をやっているうちに手の指の付け根にカッパみたいに水かきが発達してくるという。

これについては私は少々疑わしいと思っている。

ネットで検索すれば画像があれこれアップされてはいるのだが。



●2019.8.14(水)脂や油

前々回ラーメンを話題にしたが私は脂ぎった豚骨ラーメンは苦手である。

特に背脂は御免こうむりたい。

そもそも私は油一般が好きでない。

時々チャーハンを作ることがあるがフライパンに入れる油も気持ちが悪い。

その油はご飯粒と一緒に全て体内に摂取されることになる。

とすればフライパンに入れた油をそのまま飲むのと同じことだとイメージしてしまうのである。


しかしそれは贅沢な悩みと言えるかもしれない。

今は低カロリーの食品が好まれる時代だが昔は逆だった。

子供はいつもお腹を空かしており肥満の子は滅多にいなかった。

欠食児童という言葉があったくらいだ。

不足しがちな栄養やビタミンを補う肝油というドロップ状のものもあった。

文字どおり魚の肝臓から精製されたものである。

甘みをつけてあったが独特の臭気があった。

世の中が不景気になってもあの貧しい時代を知っている世代はそう驚かない。

しかし豊かな時代に生まれ育った世代は生活苦を嘆きながら一方では肥満にも怯えるのではなかろうか。



●2019.8.15(木)ダブル眼鏡

前回豚の背脂の話題を出したが自分の背脂も気になる。

風呂に入って体を洗う時、腹よりも背中の方が脂ぎっている感じがする。

人間の体の気になる特徴が他にもいくつかある。

最初に汗が浮かぶのはなぜ鼻の頭なのだろう。

体が凝る部位はお腹がわでなくなぜ背中がわに多いのだろう。

鼻の穴は二つあるがどうして約2時間半ごとに呼吸する穴が変わるのだろう。

いつか理由を調べてみたいものだ。


自分の体に関して言えば目が悪くなる一方だ。

近視、遠視、乱視と3拍子そろっており近頃はスマホの小さな字が見えづらくなった。

そこで眼鏡の上にさらにもう一つ眼鏡を重ねてかけて見ている。

眼鏡の上に眼鏡ということで屋上屋を架すという感じだが重ねる眼鏡は拡大鏡がわりなので無駄ではない。



●2019.8.16(金)車の汚れ

赤信号で停車した時、前の白い車の後部扉が気になった。

雨が垂れた跡だろうか、薄茶色の汚れが幾筋か付いていた。

白い車はきれいだが汚れが目立つのが難点で、しょっちゅう拭き取らねばならない。

しかし、車を人間の心に置き換えれば難点が長所になる。

きれいに生きている人は自分の心の汚れを敏感に察知してすぐに反省するだろう。

他人の汚れさえ他山の石として自分を磨く材料になる。


汚れと同じような色の車体では汚れに気づきにくい。

面白いことに白の対極の黒い車体も汚れが目立つ。

ただ白い車と違って黒い車体の汚れは白く見える。

腹黒い人間には白さはまぶしく不愉快だろう。

法定速度を守って走っている車をあおりたくなるように。



●2019.8.17(土)鯖折り

相撲に鯖折りという決まり手がある。

廻しを強く引き付け相手にのしかかるようにして膝を土俵に付かせる技である。

鯖は鮮度が命なので釣り上げるとすぐに首を折って血抜きし活け締めにする。

鯖折りという決まり手の名称は技を掛けられた力士の格好が首を折られた鯖に似ているところからきているようだ。

この技は怪力の力士が得意とするが相手は腰や膝を痛めることもあり危険な技である。

抱きしめて相手が傷つくというのは人間関係にも当てはまりそうだ。

強く抱きしめられれば身動きが取れない。

親子間であれ恋人間であれ過度な愛情は相手を拘束することになる。



●2019.8.18(日)四知

「天知る、地知る、我知る、人知る」

後漢の時代の楊震という政治家が賄賂を拒絶した時の言葉である。

二人だけの秘密といっても天地の神がお見通しだし私もあなたも知っている、そのうち世間にも知れるだろう、悪事は必ず発覚するものだという意味で使われる。

現代の政治家に肝に銘じてほしい言葉だ。

ところで芸能人や客商売の人は「人知る」で常に他人の目にさらされている。

そのため精神に張りがあり顔つきや姿勢も凛としている。

私は思うのだが一流の俳優や女優は家庭にあっても無意識のうちに演技をしているのではなかろうか。

小田剛一という人は自宅に一人いる時も高倉健であり続けたように思う。

「天知る、地知る、我知る、人知る」を深読みすれば天すなわち我ということにならないか。

老いさらばえて自炊するようになっても鍋から直接食べることはすまい。

私がそう思うのも懶惰を我のうちなる天に恥じる気持ちからかもしれない。



●2019.8.19(月)若い時の顔

テレビで芸能人の過去の姿をVTRで流すことがある。

それを見ていつも思うのだが、女は若いうちが花で男は年を重ねるほどいい顔になる。

男の若い時の顔はのっぺりしていて青臭く頼りない感じがする。

しかしこれは男である私の偏見で女性ならこう言うかも知れない。

男も若いうちがさっぱりとして清潔感があっていい、年を取ると脂ぎってしつこい感じになると。

一度女性の意見を聞いてみたいものだ。



●2019.8.20(火)考えることと思うこと

私たちは毎日いろんなことを考えて生活している。

それは自明のことのようだが間違いないだろうか。

「考える努力」とか「努力して考える」という表現に違和感はないが「思う努力」とか「努力して思う」という表現はない。

「考える」というのは努力を要する難しいことなのである。

他人との最近の会話を思い出してみよう。

「私はこう考えている」と発言した内容の多くは「こう思っている」ことだったのではないか。

とすればそれは個人的な好みに過ぎず、少なくとも他人に了解を強制してはならない。

「私たちは毎日いろんなことを考えて生活している」と私たちは思っている。



●2019.8.21(水)慣れ

最近冷蔵庫を買い替えた。

以前のものは冷蔵の引き出し(野菜室)が上で冷凍が下だった。

今度のはそれが逆になっているがついつい前の習慣で開けてしまう。

そんなふうに習慣の影響は大きい。

車の運転も初めての土地は緊張するが地元の道路は慣れたものだ。

穴ぼこの位置まで頭に入っているくらい熟知している。

しかし慣れは油断にもつながるので要注意だ。

普段ならブレーキをかける車がいないところでたまにブレーキを踏まれると追突しそうになる。

交通事故のかなりの件数は自宅からそう離れていないところで起きるというのもうなずける。

冷蔵庫の話に戻るが冷凍と冷蔵の引き出しの上下関係はどうして2種類あるのだろう。

単に使う人の好みの問題なのだろうか。



●2019.8.22(木)九州の方言

主に九州内だが妻と泊りがけの旅行によく出かけていた時期がある。

素泊まりでホテルを予約し、夕食は街なかの居酒屋に出かけてカウンターに座る。

地元の食べ物もさることながら店のマスターと話したり他の客の会話を聞いたりするのが楽しみだった。

というのはその土地の方言を聞きたいからである。


方言と言えば熊本に住んでいる姉を思い出す。

子供の頃は長崎の親元で一緒に住んでいたから、熊本に嫁いでも私は姉をずっと長崎の人間だと感じていた。

仕事にたとえて言えば熊本へ長い出張に出たような感覚でとらえていたのである。

その姉の家にある時遊びに行ったのだが、姉が「~したとだろうか」という言葉をつかった。

熊本弁でよくつかわれる表現である。

それを聞いた時「ああ、姉はすっかり熊本の人間になったのだ」と私は初めて実感した。


話は以上だが「~したとだろうか」を一字かえて「~したのだろうか」とすれば完全な書き言葉である。

そのせいか私には「~したとだろうか」という熊本弁は硬く響く。

あえて言えば朴訥で男らしい響きさえ感じる。

だから姉の娘がこの言い方をした時はよけいに耳に立った。

といっても不快だというのでなくむしろ熊本らしさが感じられていいものである。


私の地元の長崎弁はどんな特徴があるのだろう。

ある時大分県出身の人に聞いてみたことがある。

「~ばってん」あたりを指摘されるのだろうと予想した。

ところがその人はこう言った。

「長崎の人は語尾によく『さ』を付けますね」

なるほど言われてみれば思い当たる。

「私が注意したとさ、そしたら逆ギレされてさ、ほんなこて頭にきたとさ」

ところで「あんたがたどこさ」で始まる『肥後手まり唄』の歌詞にも「さ」は頻出する。

現代の日常会話では、熊本と長崎、どちらがより多く「さ」をつかうだろうか。



●2019.8.23(金)白秋の生家

福岡県柳川市にある北原白秋の生家は現在「北原白秋記念館」になっている。

以前訪れた時に2階の屋根裏部屋に上った。(建物の老朽化で現在は上れない)

幼い北原白秋が勉強していた部屋だと思えば感慨深かった。

明るい陽がさしこむ部屋に座り机が置いてあるだけだった。

そのシンプルなしつらえを見て「ああ、この部屋は雑念なく勉強や読書ができるな」と感じたことを今でも覚えている。


部屋がどんな状態かはその人の脳内とリンクしていると言われる。

成績がふるわない子供の勉強部屋は漫画本その他いろんなものが雑然と置かれている。

職場でも同じである。

机上に書類を山のように積み上げる人がいる。

そんなタイプの人の中には仕事ができる人もたまにはいるが。

作家みたいに自分一人の部屋ならどんなに散らかそうと構わない。

しかし複数の人が働く職場ではいかがなものか。

そんな人に「雪崩を起こさないでね」と言ってもエヘヘと笑うばかりで皮肉が通じない。

他人にどう思われているかを察することができないのである。

あるいはこんなことを考える私の偏屈さ、狭量さのほうが問題なのであろうか。



●2019.8.24(土)男らしさ、女らしさ

サルトルの伴侶としても知られる哲学者ボーヴォワールは『第二の性』の中で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と書いている。

ジェンダーのさきがけのような名文句だ。

社会的・文化的に作り出されたジェンダーの問題点が色々と指摘されるようになった。

それを反映するかのように女子の制服にスラックスを取り入れる高校も出てきた。

男性用の美容グッズや日傘も販売されている。


男らしさ、女らしさを強制するのはよくないが、自然に身に付いたしぐさはいいものだ。

たとえば椅子に座る時膝頭をそろえる女性の姿は美しい。

男の芸人がコントでスカート姿の女性を演じると膝が離れがちで見苦しい。

暑い時に女性が手のひらを内側に向けて顔を扇ぐのもいい。

そんなことをしても無駄なエネルギーを使うだけでかえって暑くなるぞと言うのは野暮である。

こんな話題を取り上げたのも昨日可愛らしい女子高生を見たからである。

その子は信号機のない横断歩道を渡り始めた。

そして2、3歩あるいた時点で車が自分のために停止しているのに気づいた。

すると軽やかに飛び跳ねるように小走りで車の前を渡って行った。

いかにも女の子らしい動きだった。

これを、格好つけずに全速力でとっとと走れと言うのはむごいだろう。



●2019.8.25(日)互譲運転

最近あおり運転がよくニュースになる。

あおり運転は非難されてしかるべきだが他人をいらだたせる自分ファーストの運転が増えているのも確かだ。

たとえば高速道路の追い越し車線を低速で走り続けるなど。

最近テレビでみた車どうしのいざこざは次のようなものだった。

2車線の一般道路で右側の車線を走っていた車の話である。

前方の車が右折の合図を出したため左の車線に入ろうとした。

よくあるケースで別に珍しくはない。

問題なのは左の車線も車が切れ目なく走っているのにウインカーを点けてすぐに入ろうとしたことである。

そのため危険を感じた左車線の車がクラクションを鳴らした。

すると鳴らされた方がそれに立腹していさかいになった。

腹を立てた男はいかにも問題を起こしそうなタイプというわけではない。

ごく普通の感じの若い男なのだが次のように主張して怒っていた。

この男の感覚が分かりやすいようにあえて誇張した表現にする。

「進路変更するウインカーを点けたのだからそれを見た左車線の車はすぐに速度を落として最優先で自分を入れるべきである」

自分ファーストもここまできたかと呆れてしまった。


私が通った自動車学校のモットーは「互譲運転」であった。

いいスローガンだと思う。

互いに譲り合うということについて思い出すことがある。

昔はダンプカーと言えば粗暴運転の代名詞のような響きがあった。

それがある時から目に見えて一般車に優しくなった。

たとえば国道に入ろうして脇道で停車している車を入れてくれたり。

確証はないが、トラック協会がそう打ち合わせたように記憶している。

私の記憶の当否はともかく結果はどうなったか。

一般車も脇道のトラックを気持ちよく入れてやるようになったのである。

まさに互譲を地で行くような例である。



●2019.8.26(月)人の一日と一生

人の一日と一生は相似形のように思われる。

日中せわしく活動して夜に眠りにつく一日。

青壮年期に一生懸命仕事をして晩年に眠りにつく一生。


夜にベッドで横になると自然に眠たくなる。

寝たきりになった老人の状態はそれと相似の関係にあるのではなかろうか。

「思考」の「考」が次第に希薄になり「思」の比重が大きくなる。

眠りに落ちるのが心地よいように寝たきりも案外快適なのかもしれない。

考えなければ悩みもないはずだから。


晩年の父を訪問した時はなるべく外に連れ出すように心がけていた。

老け込まないようにとの配慮のつもりだった。

しかしそれは散歩している人をジョギングに無理やり誘うようなものだったのかもしれない。

どこに出かけずとも父の側にいて一緒の時を過ごすだけでよかったのではないかと反省しきりである。



●2019.8.27(火)独り言

車を運転している時に景色とか行き交う人や車を見て独り言を言うことがある。

入道雲を見て「いかにも夏だなあ」、歩行者を見て「出勤ご苦労さまです」など、どうでもいい内容の幼稚な呟きである。

先日、妻が助手席に乗っている時にそんな呟きを口にしてしまった。

 中年や 独語おどろく 冬の坂 (西東三鬼)

どころではない、側に人がいるのに独語(独り言)を発してしまったのだ。

ああ、俺も年を取ったなあと嘆息した。

一方ではこの緊張感のなさも案外いいものかもしれないなどと思いつつ。



●2019.8.28(水)アンシャンレジーム

「やって来たのは、ガスコン兵」という言葉がひょいと口をついて出てきたと太宰治が『春の盗賊』に書いている。

それに続けて、自分でも意味が分からない妙な言葉が浮かぶのは泥棒が入る予兆だから気をつけるべしと読者に注意を促している。

私も最近似たような経験をした。

「アンシャンレジーム」という言葉がふと頭に浮かんだのである。

どんな意味かも忘れている言葉を何の脈絡もなく思い出したのだ。

多分高校生の頃に世界史の授業で習った言葉だろう。

思い出したというより言葉のほうから勝手に浮かんできたという感覚だった。

「あなたは私を長い間お使いになっていません。私はもうあなたが永遠に思い出すことのない忘却の世界へ参ります」

そんなふうに私に最後の別れを告げにきたように思われたことだった。

と、詩的な解釈をしたが単なるボケの症状の一つかもしれない。

とりあえず戸締りはボケずにしっかりとしよう。



●2019.8.29(木)コバエ退治

コバエに悩まされている。

ゴキブリホイホイ的な市販のものを買って置いているがパッとしない。

ネットでたまたま見かけた駆除法をさらに簡略化して試してみた。

すると簡単な上に効果抜群だったので紹介したい。

冷やしそうめんを食べる時の麺つゆがあればOK

麺つゆは何倍かに薄めて使う濃いものがいい。

この麺つゆを小皿に入れる。(食器を使うのが嫌ならどんな器でもよい)

そして食器洗い用洗剤を1、2滴たらして置いておくだけ。

久しぶりに人に教えたくなった生活の知恵である。

多少の解説を加えておこう。

コバエは麺つゆを好むらしい。

麺つゆのみではコバエに餌を与えるだけだから界面活性剤である洗剤をたらす。

これでコバエは逃げられなくなる。

アメンボは水面をスイスイ泳ぐが洗剤をたらせば溺れてしまう、それと同じ理屈のようだ。



●2019.8.30(金)泥棒その他

外出する時に2階の窓を施錠しないと空き巣に狙われる恐れがある。

昨今は玄関を施錠せずにゴミ出しに出た数分の間に入りこまれることさえある。

前々回の太宰治と違って私は泥棒のほうに言いたい。

怯えながらコソコソと悪事をはたらくより普通に仕事をするほうが気楽ではないか。

倫理観や罪悪感が欠如した人間にとって空き巣が工夫を凝らして侵入するスリルに満ちたゲームだとすれば情けないことである。


フランスの小説家モーリス・ルブランの『怪盗ルパン』、そのルパンの孫を主人公に設定した日本のアニメ『ルパン三世』、これらを我々は楽しんで読んだり見たりする。

しかしそれらの作品に描かれる事件が現実に発生すればそれは憎むべき犯罪である。

小説やアニメの世界と現実の世界を混同してはならない。

SNSを利用する時も要注意である。

SNSの世界を現実から遊離した世界だと思えば大変なことになる。

スマホの電波は時として通常の現実世界以上にドロドロとした生々しい悪意を引き寄せる。

スマホを使用しなければ起こり得なかった殺人事件だけでも数えきれないほどあるだろう。



●2019.8.31(土)自撮り

「インスタばえ」という言葉を聞いて「新種の蠅か?」と言った人がいるそうだ。

私も新しい文化や言葉についていけない。

「自撮り」と聞けば「地鶏」を思い浮かべ「自撮り棒」と聞けば「棒棒鶏バンバンジー」が浮かんでくる。

インスタグラムの世界は自撮りの展覧会だ。

もちろん他人に見てもらうのが目的だろうが自撮り写真は自分が見ても新鮮なのではなかろうか。


その辺を考察するために無茶苦茶な文を作ってみる。

私の寂しそうな背中を見て君は悲しくなった。

この文がでたらめな理由は描写の基礎を踏み外しているからだ。

小説において自分(正確には視点人物)の心理はいくらでも詳しく書けるが自分の姿や表情は描写できない。

自分以外の他人についてはその逆だ。

だから上記の文は「私」と「君」を入れ替えればすんなりと読める。

自撮りはこの辺の機微に関連があるように思われる。

私が道をただ歩いているところでもいい、動画に撮ってもらって見てみたいものだ。

そうすれば自分を他人のような感覚で観察できるのではないか。


さて今日で8月が終わる。

さかのぼってみたらこの「ぽつりぽつりと」は昨年2018年の8月25日にスタートしている。

ということは先週の8月24日で丸1年が経過したことになる。

駄文ながらよくもまあ連日アップできたものだ。

9月からは少し間を開けつつの連載にしよう。



●2019.9.4(水)匂い

自分の特徴にはなかなか気づかない。

口臭がいい例だ。

他人が息が詰まるほど臭くても本人は自覚さえしていない。


匂いに関して他には、西洋人の体臭がきついとか韓国人に部屋を貸せばキムチ臭くなるなどという。

それに対して日本人は清潔好きだからそんなことはないと思いがちだ。

ところが外国人に言わせると日本人が退去した後の部屋は魚くさいのだそうだ。

なるほどと思う。

私の理想の朝食は和風旅館の朝のメニューだ。

定番のおかずとしてアジの開き(最近は鮭が多くなった)、卵焼き、焼き海苔、漬物は外せない。

旅館のみならず一般家庭においても日本では日常的に魚を煮付けたり、干物を焼いたりする。

だから日本人は魚の匂いに無頓着なのだろうと思われる。

そんな食生活になじみのない肉食中心の外国人は魚の匂いを敏感に感じ取るはずだ。


自分の匂いに気づかないという点では加齢臭も同じである。

自分の加齢臭を嗅ぐ方法があれば知りたいものだがそんなに臭いのだろうか。

元気に遊ぶ小さい子供のいがぐり頭は日向の匂いがしていいものだ。

子供の日向くささと同じく加齢臭もいいものだと言う人はいないのだろうか。

死臭がすると言われないだけましなのかもしれないが。



●2019.9.6(金)お隣りさん

人間の価値を簡単に判別する視点がある。

その人はお隣りさんとして近所づきあいをしたい人かどうかである。


なじみのスナックに先日久しぶりに妻と出かけた。

私たちより後に男女の二人連れの客が入ってきた。

女性はけっこうな美人であったが私は気に入らなかった。

「私って美人でしょう? 敬意を払いなさいよ」

彼女の表情がそう語っているように思えたからだ。

美人であってもこんな人との近所づきあいはお断りだ。


それではこんな雰囲気を漂わせる人はどうか。

「俺は一流大学出で頭がいいんだ。敬意を払え」

外見的特徴の美人と違って能力に関する自負である。

この手の人との想定問答を記してみよう。

「頭がいいというのは勉強という名のゲームが得意なだけでしょう?」

「いいや、雑学クイズなんかと違って頭がいいというのは現在の状況を把握しさらにどうすれば現状を打破できるかを考察する優れた能力だ」

「それなら将棋の棋士もプロゴルファーも同じことでしょう?」

「違う。棋士やゴルファーのような単一の世界でなく人生のあらゆる局面で発揮できる問題発見、問題解決の能力だ」

「そんな普遍的能力の持ち主で嫌われたり犯罪に手を染めたりする人がいるのはどういうわけでしょう?」

頭がいいだけの人間は無学な老婆を特殊詐欺の標的にするかもしれない。

私が近所づきあいしたいのは人を疑うことを知らない老婆のほうだ。


蛇足ながら追記。

冒頭のスナックの件は作り話ではないのでついでに述べるが、美人と記した女性は70歳前後だろうと思われた。



●2019.9.8(日)法律と校則

法律は何のためにあるのか?

強者から弱者を守るというのも存在理由の一つだろう。

人を殴れば罪になるというのが分かりやすい例である。

屈強な若者に非力な老人が太刀打ちできるはずがない。


高校の校則が厳しいという話をよく聞く。

学校が権力を背景に生徒を縛り付けている。

世間の論調はそちらの方向に流れがちだ。

しかし大人と違って高校生は経済的、精神的自立がなされていない。

そういう弱者たる生徒を保護するために校則が法律よりも自由を制限するのはやむをえないことである。

不自由ではあっても校則を守れば自分の人生を狂わすような事態に巻き込まれないですむ。

それなのに高校生にも大人なみの自由を与えるべきだと主張する人は多い。


あまのじゃくの私は逆のケースを想定する。

校則を法律にしてはどうか?

たとえば夜間外出と外泊の禁止。

昔ながらの家庭だんらんの風景がよみがえり世の中はずいぶん健全になるのではないか。

眠らない街新宿、不夜城ラスベガス、繁栄を謳歌するかのような世界でどれほどの犯罪が連日発生していることだろう。



●2019.9.9(月)痛恨のミス

数か月前のことだが、ある若い芸能人の手相を見たところ、これまでに見た中で1、2を争う強運の持ち主だったということをある占い師がテレビで語っていた。

その芸能人の写真を携帯の待ち受けにするだけで福が舞い込むほどだという。

貧苦の海に溺れている私はその話を聞いて藁にもすがる思いですぐに実行した。

(これは私だけでなく全国的に現在も密かにはやっているようだ)

しかし現在にいたるまで一向に福は訪れない。

それどころか痛恨のミスをした。

前述の占い師はこんなことも言っていた。

暦の上で「天赦日」という強運の日があり、同じく強運の「一粒万倍日」とダブる日は最強の運の日であると。

2019年のその日は1月27日、6月26日、9月8日の3回だというので私はすぐにカレンダーにメモをした。

その放送を見たのは7月だったかと思うが私は首を長くして9月8日を待った。

もちろん宝くじを買うためである。

昨日の日曜日がその日だった。

前日の7日にカレンダーを見て「いよいよ明日だ」と意気込んだ。

ところが肝心の当日、雑事に紛れて宝くじを買うのを忘れてしまった。

痛恨のミスとはこのことである。

1日遅れの今日、さきほど宝くじを買いに出かけたがはてさて結果やいかに。



●2019.9.11(水)アンシャンレジーム2

今朝(なのか昨夜なのか)実に不思議な夢を見た。

忘れないうちに書き留めておこう。

居酒屋の前を通りかかると店先の暖簾のれんに「后たちの店」と書いてあった。

「后」は「皇后」という言葉があるように「きさき」と読む。

しかし「きさきたちの店」では意味不明だ。

考えこんでいるうち「きみたちの店」と読めることに気づいた。

我ながらよく思い出したものだと感心したところで目が覚めた。


起き上がって考え直してみると「后」の字は「きみ」と読めそうに思えない。

そこで漢和辞典を引いてみた。

するとちゃんと「きみ」という訓読みがあるのである。

起き抜けの私の頭は次第にはっきりしてきた。

常用漢字の使用のしばりがなかった頃の小説の表記で代名詞として「君」と同じように「后」の字も使われていたような記憶がある。

「君」も「后」も「きみ」と読めるということはどちらも「君主」という意味で共通しているので、代名詞としても同じように使われて不思議はない。

今回の夢も少し前に記した「アンシャンレジーム」と同じように言葉の側からの私へのアプローチなのかもしれない。


さてこの文章をサイトにアップしようと思って読み返すと「きさきたちの店」よりはましだが「きみたちの店」も店名としては不自然だ。

しょせん夢の話だからこれ以上頭を悩ますのはやめにしよう。



●2019.9.13(金)老いの転移

転移というのは嫌な言葉だ。

すぐに癌の転移が頭に浮かぶ。

比喩的に言えば老いも転移するのではなかろうか。

白髪は頭髪に始まり眉、鼻毛、腋毛、胸毛というふうに下へ下へと転移するように思われる。

中には同時多発テロ型の人もいるかもしれないが。

脂肪は腹からわき腹へ、ひどい場合は背中へも転移する。


外見的老化の最大の特徴は肌の張りの衰えだろう。

それが最も顕著に表れるのは手の甲ではなかろうか。

年齢を当てるクイズをテレビでやることがあるが出場者は必ずといっていいほど長い手袋をつけさせられる。

手のしわも手の甲から次第に二の腕方向へ転移する。

張り詰めた風船の空気が少しずつ抜けていくように。



●2019.9.15(日)ニワトリ語

長崎の人は鶏みたいだとからかわれることがある。

「この席空いてますか」

映画館などでそう尋ねられると

「とっとっと」

なるほど、確かに鶏だ。


九州の方言は「の」という助詞の代わりに「と」を使う。

「行くとだろうか」「行くとやろ(う)か」という具合である。

「この席は後から来る連れのために取っておるのです」

まず「取っておる」が短く詰まって「取っとる」となる。

「取っとるのです」

次に上記の「の」→「と」を適用すると

「取っとるとです」

そして「食べといて」が「食べとって」となるように最終形として「取っとっと(です)」というニワトリ語が完成する。



●2019.9.17(火)私を分かって下さい

アメリカはアメリカ、カナダはカナダなのにオランダの正式名称はネーデルランドだと聞けばなぜだろうと知的好奇心が刺激される。

面白いと思わなくても不愉快になる人はいないだろう。

そんな知的好奇心に関わる話題でなく、ものの考え方や人間の生き方となると事情が違ってくる。

自分と異なる意見は受け入れがたく口論になることもある。

反対に自分の考えに賛同してもらえると嬉しいものだ。

日常会話でもテレビの対談番組でも「それすごくよく分かります」という発言が出ることがある。

そんな時は、発言した人も言われた側の人も嬉しそうな顔をしている。


人は自分を分かってほしいと切に願う生き物のようだ。

犯罪常習者でさえその点は変わらないように思われる。

語弊があるかもしれないが他人との接触を避ける引きこもりの人も自分を理解してほしいと思っているのではないか。

そこで私の中の天邪鬼が頭をもたげる。

自分を分かってほしいというのはそんなに大事でそんなに必要なことなのだろうか。

そこに絶対の価値を置くからこそ引きこもりとか孤立とかいう言葉がマイナスのイメージを帯びるのではないか。

「これから淋しい秋です 時折手紙を書きます 涙で文字がにじんでいたならわかって下さい」(因幡晃『わかって下さい』)

既に別れた恋人にあえて手紙を書いてまで何を分かってほしいのだろう。

そんな情を未練と呼んでいいのなら、超然として一人あることに価値を見出す生き方も悪くないのではないか。



●2019.9.20(金)古いものの風情

カタカナ語の氾濫が止まない。

下着、上着をなぜわざわざインナー、アウターと呼ばねばならないのか。

そのインナー、もとい、下着についてはひがんでいることがある。

男性用の下着より女性ものの呼び名のほうが良さげに響くという点だ。

パンツ、ランニング、これに対してパンティ、スリップは艶めかしい。

昔の呼び名でも同じだ。

ズロース、シュミーズに対してふんどし、さるまた、ステテコ。


ひがみは措くとして昔の言葉は生活の匂いのようなものをまとっている。

クレヨンの色などもグレー、ピンクより灰色、桃色と言うほうが何やらゆかしい。

私が子供の頃は灰色を鼠色とも呼んでいた。

さらに微妙な色の世界に分け入れば利休鼠りきゅうねずみ浅葱あさぎはなだ蘇芳すおう……みやびとしか言いようのない響きである。


クレヨンのメーカーは「ぺんてる株式会社」が有名だ。

この社名は「ペン(Pen)」で「伝える(Tell)」というところから来ているとのことだ。

このしゃれた社名も当初は「大日本文具株式会社」。


言葉以外にも懐かしいものはあれこれある。

たとえば石鹸。

電車の車内販売でナイロンの赤いネットに数個入れた蜜柑をよく見かける。

レモンの形をした黄色い石鹸が昔はあの赤いネットに入れられて水道の蛇口に吊るしてあった。

家庭、学校、駅、いたるところで見られたその光景も今では記憶の世界にしか存在しない。



●2019.9.23(月)言挙げ

近頃腰が痛む。

特に腰を酷使した覚えもないので原因が分からず不安だ。

ふと「ことげ」が頭をよぎった。


古代日本では言挙げは慎まねばならなかった。

簡単に言えば、つまらぬことを口にすれば我が身に災いが降りかかると考えられていた。

このタブーを犯した有名な例が日本武尊やまとたけるのみことである。

東国征討の帰途、伊吹山の神を相手に不用意な言挙げをしたばかりに死につながる病を得てしまった。


私の場合、ある小説(このサイトの『プラトニック不倫』)に次のような文を書いた。

「癌による腰痛と分かった時は手遅れでした」

すい臓癌は発見が難しく、見つかった時は重症化していることが多いと聞く。

そこで登場人物の一人をそういう設定にしたのだった。

私自身にもそれが反映されはしないかと不安におののいている。

こういうことを書き記すことも新たな言挙げになるかもしれない。



●2019.9.25(水)秋のお彼岸

生死の海を隔てて二つの世界がある。

一つは我々が生きている此岸しがんの岸辺)の世界。

もう一つが彼岸ひがんの岸辺、向こう岸)の世界である。

だから彼岸とは分かりやすく言えば死後の世界のことである。

1年に2回くらいは墓参りに行って手を合わせ、亡くなって彼岸にいる先祖を偲びたい。

それが春と秋の彼岸で、それぞれ春分の日、秋分の日を中心とした7日間である。

そのため春分の日、秋分の日を「彼岸の中日ちゅうにち」とも呼ぶ。

お彼岸の頃は気候がいいのでその意味でも墓参りに適している。

「暑さ寒さも彼岸まで」

子供の頃は分からなかったこの言葉、「寒さは春の彼岸まで、暑さは秋の彼岸まで」という意味だ。

冬の寒さが耐え難いのは春の彼岸までで、その後は寒さがやわらいで過ごしやすくなる。

同様に夏の暑さの耐え難さも秋の彼岸までで、その後は暑さがやわらいで過ごしやすくなる。

古くからのこの言葉どおり朝夕はもう秋の気配だ。

今年の秋の彼岸は26日までなので昨日墓参りに行ってきた。

私の実家の墓は小高い山の中腹にあり車では行けない。

日本三大花街と言われた丸山、今でも芸者さんのお世話をする検番がある。

その長崎検番の真向かいに小さな酒店がある。

墓参りに行く時はそこに寄ってカップ酒を買ったりする。

このサイトに上げている拙作『初恋のゆくえ』という小説に出てくる小店はこの酒店をモデルにした。

昨日はその店でなくコンビニで買った小さな紙パックの日本酒を持って墓に行った。

そして墓の水盤に半分注ぎ、半分は自分が飲んで3年前に亡くなった父を偲んだ。

お参りをしながらふと思ったことがある。

母も同じ墓に眠っているのだ。

苦労の絶えなかったその母の冥福をこそ強く祈りたいのに父の印象のほうが強い。

母は父よりもだいぶ前に亡くなった。

「去る者は日日に疎し」とはこういうことなのだろう。

母が亡くなったのは私がまだ現役で仕事をしていた時だった。

仕事にかまけて十分な孝行ができなかったのが悔やまれる。

もっと母親に孝行をしてやりたかった、いや、孝行をさせてほしかった。



●2019.9.27(金)俯瞰

近郊の山に登って眼下を見下ろせばのんびりとしたいい気分になる。

道路を走る車のスピードものろく見える。

景色を俯瞰して眺めるようなゆとりを持って生きたいものだ。

しかし現実の人生はなかなかそうはいかない。

次の曲がり角までしか見えない雑踏の中を歩く、生きている実感はそんな歩き方に近い。

展望台から景色を眺めるのは人生を降りた人の生き方のようなものだ。


それにしても繁華街の雑踏の中を人々はぶつかりもせずに歩きすれ違う。

それを見ると人間もまだまだ捨てたものではないと感心する。

自分さえよければいいという人間だらけになったなら、世の中もスクランブル交差点も渡れなくなるだろう。



●2019.9.29(日)勝手な習性

水が美味しいのは長崎県では島原だろう。

雲仙山系の豊富な地下水が市内のあちこちで湧出しており「水の都島原」「水都島原」と呼ばれている。

その島原に私の姉が住んでいる。

「島原の人は毎日美味しい水が飲めて羨ましい」

だいぶ前のことになるがそんなふうに言ったことがある。

すると姉は次のような内容のことを言った。

島原の水を美味しいと普段意識してはいない、しかし長崎の実家に行けば長崎市の水はまずいと感じる。

これは興味深いことだ。

私はテレビの画面について同じことを感じる。

地デジに移行する前の昔の番組が放映されることがあるが、いつもこう思う。

こんな粗い画面を不満にも思わずよく平気で見ていたものだと。

そのくせ現在の精細な画面をありがたく思って見ているわけではない。

受けた恩は忘れても恨みは忘れない人間のさがに似ている。



●2019.10.1(火)昭和は遠くなりにけり

冷蔵庫が普及していなかった時代、食品は新鮮なものほど価値があった。

今でもそれは同じだが少し変わってきた点もある。

たとえば、新鮮な魚や肉でなく熟成させたものを使った料理のほうが高値で提供される。


熟成は度が過ぎると腐敗に移行する。

昔の主婦は匂いや見た目など五感を総動員して食べられるかどうかを判断した。

私の母は少し口にして腐敗していれば「これは舌を刺す」などと表現していた。

私の家がいくら貧しくてもさすがに腐ったものを食べさせられることはなかったが、最近ふと思った。

細菌は加熱処理で死滅する。

とすれば、味はともかくとして煮たり揚げたりすれば腐敗したものでも食べられたのではないかと。


子供の頃はいつもお腹を空かしていた記憶がある。

バナナと玉子の値段はその頃も今もあまり変わっていないと聞く。

ということはバナナと玉子は昔ほど高価なものだったということになる。

確かにそうで、私が小さかった頃は病気にでもならなければ玉子は食べさせてもらえなかった。

バナナも同じで、大げさに言えばお腹いっぱい食べられたら死んでもいいと思っていたくらいだ。


今は豊かな時代になってそんな昔のことは普段思い出すこともない。

昭和は遠くなりにけりである。

そんなことをつい最近実感させられた。

ある所へ書類を送る必要があって封筒を用意した時のことである。

封筒のフラップ(ふた)を糊づけしようとして困った。

スティック糊も液体の糊も切らしていたのである。

すると妻が言った。

「ご飯粒で貼れば?」

そうだった、昔は糊の代わりにご飯粒をしょっちゅう使ったものだ。

そんなことも思い出せなかったことに驚いてしまった次第である。



●2019.10.5(土)CM

テレビのCMを見ているといつもこう思う。

「富は集中する」

一生不自由しないで暮らせる財産を築いていそうな一流アスリートがCMに出演している。

さらに言えばスポーツ用品のCMならまだ分かるが、スポーツとは無縁の企業のCMにまで出ている。

芸能人も同様にレギュラー番組を何本も持っている人気者がCMに出ている。

アスリートも芸能人も並々ならぬ努力が必要だろうが一旦有名になってしまえばテレビの世界では次から次にお声がかかり、CMではその企業の製品を手に持ってにっこり笑うだけで莫大なお金が入ってくる。

個人に限らず企業にしてもパソコンのOSのウインドウズのように一旦世界基準になってしまえば後は放っておいても巨万の富が累加されていく。


富が集中し寡占化されていくと最終的にはどうなるのだろう。

理論的にはある誰かが全世界の富を一手に握り、残りの全人類は奴隷のように貧しくなりそうなものだ。

さすがにそこまではいかないだろうが似たようなことは起こりうる。

そして歴史的に見ると富の偏在への不満が高まれば均衡化させようとする強い力が働く。

たとえば一揆、打ちこわし、徳政令、革命など。

GHQによる戦後日本の農地解放、財閥解体もそうである。

現在の韓国はいくつかの企業だけで国家の富の何割かを保有する状態になっていると聞くが、富の寡占化はさらに進むのか別の動きが出てくるのか興味深い。



●2019.10.7(月)前回につづきCM

私の父親が生前テレビのコマーシャルを見て不満げに言ったことがある。

「コマーシャルは製品を見せてこれを買ってくださいと頭を下げればいいのだ」

父親の考えは現在の通販番組そのものである。

「これこれの機能を持ったこの商品がこれこれのお値段で手に入ります」

まさにコマーシャルの原点だ。


こんなクイズ番組を見たことがある。

海外のテレビCMを放映して回答者に何のCMかを当てさせる番組だった。

ということは現代のCMはそれほど分かりにくくなっているのだ。

この理由をアメリカでの日本車のCMを例にとって考えてみよう。

日本の車が優れていることをアメリカ国民はよく知っている。

だから他国のメーカーは自社の車が優れているところをどこか一点だけでもCMで訴えなければならない。

それでは性能を改めて説明する必要のない日本車はどんなCMを流すのか。

快適であるとか高級であるとか、イメージをオシャレな映像でアピールするだけでいいのである。


日本のテレビで好感度の高い有名人を企業側がCMに起用したがるのもイメージ戦略なのだろう。

それにしても、前回も書いたようにそういった有名人が製品を手にしてにっこり笑うだけで得られるギャラが時間をかけてセリフを覚え稽古して作り上げるドラマの出演料よりもはるかに高いのはどうも面白くない。



●2019.10.9(水)いくつかの私案

私案その1

現在、日本でワールドカップバレー大会が行われている。

テレビで見ていると民族による体格の差はいかんともしがたいことを痛感する。

平均身長で10センチ以上も開きがあるのは不公平だと思う。

手を伸ばした時の指高の違いは身長差以上なのでなおさらだ。

柔道、ボクシング、ウエイトリフティングなど階級制のあるスポーツも多いのだからバレーも延べ身長制を取り入れてはどうか。

例えば男子ならコート内のリベロ以外の5人の延べ身長が常に10m以内になるようにするとか。


私案その2

日本は各地にお城がある。

お城の堀の外側はたいてい車道になっている。

そこで堀の内側にテラス状に張り出す形で人道を作ってはどうか。

そうすれば車に用心する必要がなく、信号もないからノンストップで散策、ジョギング、ウォーキングができる。

お城の景観を多少損なうかもしれないが、観光客にも地元の人にもメリットのほうが大きいだろう。


私案その3

地方都市の商店街はどこも活気が感じられない。

シャッター通りと呼ばれるところもあるほどだ。

なぜそうなるのかと言えば大都市の商店街の模倣をするからだ。

昔ならいざ知らず、車社会の今日は華やかさを求めるなら皆都会の繁華街に出ていく。

地方の商店街はその逆の路線を目指せばいい。

具体的に言えば店内は近代的でもいいから後は全て明治時代とか江戸時代風とかにするのである。

江戸時代風なら店舗は藁ぶき屋根、店員は和服着用、通りは舗装をはがし水路を設けて脇に柳の木を植えたりする。

そんなふうにすれば観光客が押し寄せるだろう。

ドライブをしていても藁ぶき屋根のうどん屋などが目に入れば立ち寄りたくなるではないか。


余談だが長崎のハウステンボスも従業員は可能な限りオランダ人にしたほうがいい。

そして家族も含めて園内に住まわせるようにする。

せっかく高い入場料を払って入ったのに、どの施設の従業員も日本人、行き交う人々も日本人、聞こえてくる言葉も日本語というのではオランダを体験している気分にはなれまい。



●2019.10.11(金)オードリー・ヘップバーン

私の女性の好みを言えば好きな声はカレン・カーペンターの歌声で、顔だちならオードリー・ヘップバーンだ。

オードリー・ヘップバーンは相変わらずの人気で、現在私の地元の美術館で彼女の写真展が開催されており、テレビでも数日前に「ローマの休日」が放映された。

ところで「マッダァノゥに行きたい」と言えば意味が分かるだろうか。

「マクドナルド」を英語の発音に寄せて表記すれば「マッダァノゥ」となる。

ヘップバーンについても同じことが言える。

「Hepburn」という英語表記を見れば「ヘップバーン」と読みたくなるが、発音に寄せれば「ヘッバン」あるいは「ヘッボン」となる。

ヘボン式と呼ばれるローマ字の表記法を考案したのは幕末に来日したジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)だが、彼は自分のことを発音に忠実に「私はヘボンです」と言ったり書いたりしていたので「ジェームス・カーティス・ヘップバーン」とはならなかった。


余談であるが英語がペラペラのフィリピン人に尋ねてみたことがある。

「日本人が話す英語の発音で分かりにくいのはどんな言葉か?」

すると数字の「7」だという返事に驚いた。

「セブン」と言われても分からないと言う。

私は英語が得意でないので自信がないが「セヴァン」とでも発音すればよいのだろうか。



●2019.10.13(日)生活の中の音

食パンはガスレンジで焼けばカラッとフワッと焼き上がる。

そんな情報を仕入れたのでやってみたところ確かに美味しい。

しかし普段はオーブントースターで焼いている。

そのオーブントースターを最近買い替えた。

もう何台目になるだろう。

若い頃はポップアップ式のトースターを使っていた。

食パンを2枚入れてレバーを押し下げる。

焼き上がると自動的に食パンが跳ね上がるのだが「ガシャン!」というような音がする。

パンをセットして何かほかのことをやっている時、その音がするとドキッとしたものだ。

毎日驚かされて腹が立つので、「今日は驚かないぞ」とトースターをじっと見ていたことがある。

それでもやはりドキッとしてしまったものだった。


そんな微笑ましい音と違って本当に不愉快な音は車のクラクションである。

鳴らされた側が怒ってトラブルになることがあるが音響学的には無理もない。

というのは、ドミソなどのきれいな響きの協和音と違ってわざと耳障りな不協和音にしてあるからだ。

鳴らされてうっとりするならクラクションの役目は果たせない。

最後に豆知識を一つ。

ホッチキスは商品名で本当はステープラーだというのは有名な話だ。

それと同じで、クラクションは製品名、本来はホーンである。



●2019.10.15(火)痘痕も靨

私は目が悪い。

近視、遠視、乱視の三重苦だ。

夜の街で眼鏡を外せば外灯や車のライトの一つ一つが打ち上げ花火のように見える。

近視について言えば長い間0.1で止まっていたが、パソコンのモニター(液晶化する前のブラウン管)を見続ける仕事が続いた時期に視力の低下が進んだ。

一気に0.04とか0.03あたりまで落ちてしまった。

これは定期預金の金利と同じレベルでほぼゼロではないか。

普通預金の0.001%に比べればまだましだが。

金利ついでに江戸時代の話をすれば現在の銀行に当たるのは両替商である。

江戸時代の金持ちは身の安全のために財産を両替商に預けた。

盗賊が侵入して奪われたり殺されたりする恐れがあったからである。

そのため預ける側が両替商にお金を支払っていたようだ。


視力の話に戻るが、目覚めて床の中で目を開けた時、空中に浮遊している細かいチリがたまに見えることがある。

北国のダイヤモンドダストのようだと見とれることもある。

その珍しい光景は窓からほぼ平行に差し込む朝日の光のかげんによるものだろう。

ひょっとしたら視力がものすごくいい人は普段でも空中のチリが見えているということはないだろうか。

これはありえないことだが、さらに目が良くて浮遊する細菌やウイルスまで見えるとしたらどうだろう。

過ぎたるは及ばざるがごとしで目が良すぎるのも考えものだ。

あばたをえくぼと誤認するくらいがかえって幸せなのかもしれない。



●2019.10.17(木)浮世離れ

在宅ホスピス医をとりあげたテレビ番組を見た。

在宅ホスピス医というのは家庭で患者の最期を看取る医者である。

亡くなる数日前の老人が画面に映っていたが生気がなかった。

私の父も亡くなる前はそうだった。

周囲の人間とのごく日常的な会話が成立しにくい。

たとえて言えば、起き抜けで寝ぼけている時に話しかけられた人に似ている。

しかし、こういう人たちをボケていると思うのは現世的な観点からの判断である。

彼らは文字どおり「浮世離れ」しているのではないだろうか。

この世に半分、あの世に半分住んでいる。

そう捉えれば、思い煩うことをやめ遠くに目を向けている彼らの表情は崇高にさえ見えてくる。



●2019.10.19(土)電話機の移り変わり

慣れというのは恐ろしいものだ。

この私が今ではスマホを何気なく使っている。

固定電話しかなかった時代の黒電話は色も形もいかにも電話機という感じだった。

受話器は人間の顔のサイズに合わせて作られていた。

受話部を耳に押し当てると送話部は口の真横にきた。

携帯の時代になっても二つ折りのガラケーは開けばある程度の長さがあった。

ところがスマホを使い始めた時は不安だった。

耳に押し当てると送話部が離れる。

最初の頃は自分が話す時はスマホを口元の方へずらしたりしていたものだ。


固定電話は現在も昔の電話機の形を保っている。

しかしダイヤルはプッシュボタンになった。


ダイヤル回して手を止めた

I'm just a woman

Fall in love (小林明子『恋におちて』)


電話BOXの外は雨

かけなれたダイアル回しかけて

ふと指を止める (徳永英明『レイニーブルー』)


若い人たちはこんな歌詞にも時代を感じるだろうか。



●2019.10.22(火)類似性と独自性

以前も書いた記憶があるがテレビの中継番組を見ると私は背景に映りこんでいる街並みや風景に惹かれる。

車を運転していても同じだ。

どこにでもあるような街並みや風景、車を停めて暫くその場所に身を置いてみたい衝動に駆られる。

何の変哲もない場所でも確固としてそこに存在しているという実在感みたいなものを感じるのだ。

私のこの感覚にマッチする絵は例えば岸田劉生の有名な切通しの絵だ。

単なる坂道の絵に過ぎないのだがいつまでも観ていられる。

岸田劉生自身もこう言っている。

「驚く可きは実在の力 自分は猶これを探り進めたい」

自分でも不思議に思う感覚がもう一つある。

人の顔を見るとこの人は誰々に似ていると思う。

それは意識して考える結果なのではなく瞬間的に浮かぶのだ。

異なるものの類似性を感得するこの感覚と先ほどの独自性に惹かれる感覚とは矛盾するように思われるがどう解釈すればいいのだろう。



●2019.10.24(木)グーグルカー

「貧すれば鈍す」とはよくも言ったものだと実感している。

軽自動車に乗っている私は3ナンバーの車を見ると「この人は自分よりもお金持ちなんだろうな」などと思ってしまう。

ましてや東京ドーム、石油タンカー、高層ビル、これらを造る人がどれくらいの資産を持っているのか、想像もつかない。


ところでグーグルカーというのをご存じだろうか。

ネットで検索すれば見れるが、サッカーボールのような全方位カメラが車体の上に設置されている。

もちろんグーグルマップのストリートビュー用の画像を撮影する車だ。

幹線道路は言うに及ばず全世界の路地路地をあの車が走ったのだ。

今もあちこちを走り続けていることだろう。

それに要する費用はいかばかりかと思うと気が遠くなる。



●2019.10.26(土)アイスクリームの天ぷら

女は若いに限る、男は年を重ねるほどよい。

昔の映画の銀幕スターたちを見るとそう思う。

以前にそんなことを書き記したことがあった。

ごく最近、女性たち(と言ってもわずか二人だが)にその意見をぶつけてみた。

すると男性スターも若い頃のほうがいいと言うのである。

男は年齢と共に魅力が増すという私の意見は見事に否定された。

一生駄々っ子の子供のようで成長がなく年を取るほど扱いにくい。

男はそんな生き物だと女性は思っているのかもしれない。

才能ある女性の多くが来世も女性がいいと言うのもそれと符合する。

幼稚で粗雑な男なんかに生まれ変わるのは真っ平ごめんなのだろう。


しかし、と私は思う。

大人には思いも寄らない独特の発想が子供には浮かぶことがある。

子供みたいな男と違って女性は大人だからむやみに冒険をしようとしない。

だからアイスクリームを天ぷらにしてみようという発想などは女性からは生まれないだろう。

そんなふうに胸を張っても私はすぐ気弱になる。

男の手前、感心しては見せても「アイスの天ぷら? それがどうした」程度にしか思っていないのではないか。



●2019.10.28(月)貧しい話3題

一面の菜の花畑は見た目にきれいで観光地になっているところも多い。

しかし江戸時代の人々が菜の花を植えたのは観賞用でなく油を採取するためだ。

菜種油は食用以外に行灯あんどん灯油ともしあぶらにもなるが、長屋の熊さん、八つぁんなどの家では魚油ぎょゆを使った。

化け猫がぺろぺろと行灯の油を舐めるのもイワシなどを絞って作られた魚油だからである。

この魚油、菜種油よりも安いのはいいが煙と臭いが出るのが欠点だったようだ。


「爪に火を灯すような暮らし」

こんな表現の意味は若い人にはもう分からないのではないか。

上記の魚油にしても無料ただではない。

「油がもったいないから早く寝ろ」などという台詞が時代劇に出てきたりもする。

魚油よりもっとお金のかからない明かりはないか?

自分の爪の先に火を点ければいい。

そうすれば行灯の油皿の灯芯やロウソクに火を点けるのと同じことだ。

もちろん実行する者はいないだろうが発想としては面白い。

「爪に火を灯す」という言葉を理解するには爪が燃えるということを知っていなければならない。

小さかった頃、冬に火鉢にあたっていると家族が火鉢の上で爪を切ることがよくあった。

切った爪が灰の上に落ちるのはいいのだが時々炭火にはねて燃えることがあった。

その臭いには閉口したものだ。


貧しい話ついでにチーズのことも記しておこう。

初めてチーズを食べた時、石鹸のような味だと思ったことを覚えている。

これを人に話すと「石鹸を食べたことはないくせに」と笑われる。

理屈ではそうなので私もずっともやもやしていたが、ある時こういう結論に達した。

「私は石鹸を食べたことがある」

以下は想像を交えた再現ドラマである。

子供の頃の石鹸と言えばすぐ脳裏に浮かぶのは洗濯石鹸である。

直方体の割と大きめのものだった。

これで顔を洗うと肌がピリピリと突っ張ったものだ。

ある日我が家の洗面所につるんとした玉子型のオシャレな石鹸が置かれた。

貧しい我が家にそんなものを買う余裕はないので恐らく貰い物だったのだろう。

子供はただでさえ好奇心が旺盛だ。

おまけに私はいつもお腹を空かせていた。

だから私は美味しそうに見えるその物体に歯を当てたはずだ。

石鹸だと分かってはいるのでさすがに噛みちぎって飲みこみはしなかっただろうが。

そんな次第で私は石鹸の味を知っているのだ。



●2019.10.30(水)旦那解放運動

平塚らいてうは「原始、女性は実に太陽であった」と述べた。

それが今や男性の光に照らされて青白く輝く月になってしまっていると嘆いて女性解放運動を推し進めた。

100年余を経た現在、世の多くの夫婦を見ると平塚の主張は十二分に達成されていると思われる。

むしろ「新婚時、私は実に太陽であった」と叫びたい夫が多いのではないか。

しかし無駄なあがきはやめたほうがいい。

日本神話の頂点に位する天照大神は女神で、弟の月読命は男神である。

ドイツ語でも太陽は女性名詞、月は男性名詞だ。



●2019.11.2(土)髭剃り

臆病な私はT字カミソリで顔を剃ることはない。

角度や力の入れ具合によってザクッ!と肌を傷つけそうで怖い。

T字カミソリが世に出る前は安全カミソリだった。

私に言わせればあれは危険カミソリである。


現代は電動シェーバーがあるので助かる。

高級なものはヘッドの部分の形状が凝っている。

細い円筒状の外刃が二つ、あるいは丸い小さな外刃が三つなど。

いろいろ試してみても私は丸い外刃が一つだけのありふれた安物が一番使いやすい。

8時間充電のものと1時間で急速充電できるものもあるので違いをネットで調べてみたがよく分からない。

8時間の普通充電のほうがバッテリーが長持ちする、いやどちらも大して変わりないとか情報が錯綜している。


シェーバーは掃除が面倒だ。

掃除をさぼって内部に髭の剃りくずの粉末が多くたまるとどんな不都合があるだろうか。

すぐに考えつくのは剃りくずの抵抗で内刃の回転が鈍ることだ。

そうなれば内刃を回すモーターにも負担がかかるだろう。

それ以外にも問題点がある。

適切な表現が浮かばないので近似値的な言葉で言えば、剃りくずの逆流、逆噴射。

内刃の回転によって外刃の穴から剃りくずが外部に舞い出す。

私は実際に見たから言えるのである。

こんなふうに、指摘されれば当たり前のことでも体験しなければ気づかないということがある。

強引にこじつければ「後悔先に立たず」という人生問題に通じるようにも思われる。



●2019.11.4(月)占い

ある時雑誌の占いコーナーで自分の星座の欄を見た。

おおむね頷けることが書いてあって感心した。

ところがふと気づくと読んだ欄が一つずれていて他の星座だった。

そこで全ての欄を読んでみるとどれも同じ程度に自分に当てはまる。

私が占いをありがたがらなくなったのはその時からだ。

有名な血液型別性格も同じだ。

どの血液型の説明も同じ程度に自分に当てはまる、また同じ程度に外れている。



●2019.11.6(水)唱歌

私がたまに行くカラオケスナックでは伝票みたいな紙と鉛筆が渡される。

伝票は歌いたい曲の申し込み表で、曲名・歌手名・キーの上げ下げの欄がある。

それを店のお姉ちゃんに渡せばお客さんどうし平等になるような順番で曲をかけてくれるのである。

ある時『故郷の廃家』を歌おうと思った。

幾年いくとせふるさと来てみれば咲く花鳴く鳥そよぐ風」で始まる唱歌である。

「故郷の廃家・唱歌・+2」と書いて30代のお姉ちゃんに渡した。

するとその歌は見つからないということだった。

それはいいのだが彼女の言葉に驚いた。

歌手名でも検索したが唱歌という歌手はいないと言う。

冗談かと思ったが彼女は真顔だった。

絢香あやか杏里あんりなどと同じく唱歌を歌手名だと思ったのである。

小学校で唱歌を教えなくなって久しいが、平成の30年間を挟んでついに「唱歌」という言葉も死語になったのかと思ったことだった。



●2019.11.8(金)人類の平均点

同じ親から生まれた子供であっても性格はそれぞれに異なる。

二人兄弟の場合、よく言われる言葉がある。

「足して2で割ればちょうどいいのに」

カレーのルーも2種類混ぜて使えば美味しくなるのは主婦の常識だ。

そこで昨日、安いが不味い焼きそば(袋麺)にこの法則を応用した。

添付の粉末ソースと自宅のとんかつソースを半々の割合で炒めてみたのである。

結果は美味しかったと言いたいところだが微妙だった。

冒頭の兄弟の話に戻るが人間を平均化するというのは面白い発想だと思う。

地球上の全人類を足して人数で割ればどんな性格になるのだろう。

それが人類の正体だと思えば興味深い。



●2019.11.10(日)世代交代

昨日は孫の2歳の誕生祝いだった。

「世代交代」という言葉があるが一世代は年数で言えば約30年である。

自分と親、自分と子の年齢の隔たりについては特に思うことはない。

しかし孫の成長を見ると世代交代が実感として身に迫る。

孫の成長は確実に自分の生命力の衰えと連動している。

おむつをはめたり這い這いをしたりと、赤ん坊と老人の類似点が面白おかしく語られるが明らかに違う点がある。

幼児は元気いっぱいである。

まさに「動物」で一時の間もじっとしていない。

動き回って飽くことのない生命力の発露は羨ましい限りだ。

風呂上がりにキャッキャと笑い声をあげて走り回る、それだけで家庭が明るくなる。

同じことを老人がやれば家族の心胆を寒からしめるだろう。

とかく年寄りは情けない。

次のような言葉も若夫婦なら単なる愚痴に思えるが老夫婦では異なる響きを帯びる。

「ウチの主人、冷たくなったの」



●2019.11.12(火)フロントガラスの霜取り

これから冬に向かうが早朝に車で出かける時に手間取るのがフロントガラスの凍結である。

熱湯をかけるのはガラスのひび割れにつながるのでまずい。

そこで私はポットのお湯をやかんに入れて水を足しぬるま湯にしてかけていた。

面倒なので近年は玄関先の散水栓のホースで水道水をかけている。

しかし、どちらのやり方にも同じ問題点が残る。

フロントガラスにかけた水やぬるま湯がまたすぐに凍り付くのだ。

ごく最近耳寄りな情報を手に入れた。

雑巾にお湯を含ませて一拭きするだけでいいというのだ。

このやり方なら再度凍り付くことはないし、サイドウインドウは水やぬるま湯をかけにくいので助かる。

ぜひこの冬に試してみたい。



●2019.11.14(木)漬物あれこれ

冷蔵庫の麦茶が残り少なくなった。

そこで麦茶を沸かしたのだが、なんという季節感のなさだろう。

この時期なら本来は急須で緑茶だ。

居酒屋でもそろそろ熱燗といきたいが今では年じゅう生ビールがある。


スーパーに行っても青果売り場はいつも同じ品ぞろえだ。

今の若者は野菜や果物の旬の時期は知らないのではないか。

以前なら11月になると白菜が店頭に並び始め、そろそろ鍋の季節だなと思ったものだった。

それが今は栽培技術の進歩や品種改良によって1年中買えるようになった。


そんな流れが止められないのならキャベツみたいに葉の部分が大半を占める白菜ができないものだろうか。

というのは、白菜の漬物の白い茎の部分よりも私は葉のほうが好きなのだ。

白菜の漬物についてはほかにもこだわりがある。

漬物は「香の物」とも呼ばれるくらいだから食べる分量だけをその都度切って食卓に出してほしい。

しかし妻はそんなことは気にしない。

スーパーで袋入りの白菜の漬物を買うと袋から出して一度に切ってしまう。

最初はいいが2、3日目になると新鮮さがなくなり食欲がわかない。

そこで折衷案?としてたくあんを買うことが多くなる。

たくあんを輪切りにした後さらに短冊状に細く切る。

それに削り節をかけるとお茶漬けの友にもなる。


現代の漬物は浅漬けが主流だが私は古漬け、特に胡瓜の古漬けが好きだ。

胡瓜を糠に長く漬けておくと飴色になり味もかなり酸っぱくなる。

数切れでご飯一膳が食べられるほどでお茶漬けの友にもうってつけだ。

しかしこの古漬けは売ってあるのを見たことがない。

だいぶ前に京都の錦市場で見たことがあるきりだ。

自分で糠床を用意して漬けるしかないが、そこまでの熱意はない。



●2019.11.16(土)寸感を六つ

・車が何かに衝突した時に衝撃を和らげるのがバンパーである。

子供の頃よく車の絵を描いていたから覚えているが、昔の車のバンパーは車体の外に独立して取り付けられていた。

あの外付けのバンパーはいつなくなったのだろう。


・こたつの下に敷くカーペットはこたつよりも面積が広くないとお尻を床に付けて座ることになる。

ところが近頃のテレビCMを見て感心した。

こたつとカーペットを45度ずらせば同じサイズでも三角形の座る場所が確保できるのだ。


・サザエさんの実家の姓の「磯野」は「磯の」という意味をかけているのだろうが「海野」のほうがよかったのではないか。

「磯のワカメ」はありだが「磯のカツオ」は無理がある。


・芥川賞を獲った芸人がテレビで言った。

「私は隠し事をするようになりました」

よく聞いたら「書く仕事」だった。


・CMが終わった後のテレビ画面はCM直前の部分を少しなぞってからスタートする。

もう数十年はたつと思われるが急にそんな形式になったように覚えている。

それ以前はCMの後はCMの前の続きが始まり、内容が重複する編集はなかった。


・「偉い人」「立派な人」と呼ばれたい人は多いことだろう。

私は「いい人」と思われたい。

ちょっぴり贅沢を言わせてもらえれば「会いたい人」。



●2019.11.18(月)ソイソース

空港で外国人に来日理由などを尋ねるテレビ番組がある。

最近の放送でマイクを向けられたのはイタリアの有名デザイナーだった。

そこでスタッフが密着取材の一環として和食の店に招待した。

ところがそのデザイナーは料理に手を付けない。

理由を聞くと醤油が苦手とのこと。

付け合わせの生のキャベツをポリポリかじっているのが気の毒だった。

醤油を使わない料理を臨機応変に出せばいいのにと憤ったが、はたと思い悩んでしまった。

自分なら何を提供するかと考えると醤油を使わない和食がなかなか思い浮かばない。

料理そのものに醤油を使わなくても刺身は醤油をつけて食べるし天ぷらの天つゆも醤油を使う。


フランス料理はソースが命、対して和食はダシが命と言われる。

さらに掘り下げれば和食の根本は万能調味料である醤油なのではないか。

TKGなどと称して玉子かけご飯がブームになっているが、炊き立てのご飯に醤油をかけるだけでもうまい。



●2019.11.20(水)財布

若者は長財布にチェーンを付けてジーンズのポケットに突っ込んだりする。

そんなふうに長財布はファッションのアイテムにもなるのだろうが実用的観点からは折りたたみにくい枚数のお札を入れる人が使うものではないか。

だから私は長財布を持ったことはこれまで一度もない。

数枚の千円札を長財布に入れて持ち歩いても侘しいだけだろう。

お金がないことに加えて長財布自体がかさばるのも持つ気になれない理由である。

亡くなった父はポケットに直接現金を入れていた。

時にはポケットが破れていて硬貨を落としたりもしていた。

いくらシンプルイズベストとは言え「最低限度の文明生活」はしてほしい。

多くの人が触れたお金をそのままポケットに入れるのは手づかみで食事をしたりはだしで歩いたりするような感覚が私にはある。


と言っても民族の風習として手づかみで食べる文化をおとしめるつもりはない。

日本でも寿司やおにぎりなどは手に持って食べる習慣がある。

そのことについて面白い解説を聞いたことを思い出した。

寿司やおにぎりのように素手で作る料理は食べる側も手で食べるのだということであった。



●2019.11.22(金)お手軽チャーハンとつまみ

寿司屋の玉子焼きと同様、パスタ屋の実力を知りたかったらペペロンチーノを注文すればいいと言われる。

シンプルなものほどごまかしがきかないからだろう。

そこで昨日シンプルなチャーハンを作ってみた。

きっかけは冷奴だった。

いつもは削り節をかけて醤油を垂らすのだが食卓のふりかけが目にとまった。

色んな味のふりかけの小袋がある。

それを一つ取って冷奴に直接かけて食べてみると美味しかった。

そこでチャーハンへの応用を思いついた次第である。

いつもなら玉子やらソーセージやらを使う。

作るのも手間暇がかかる上に包丁やまな板も洗わねばならない。

今回は冷ご飯をマーガリンで炒め風味づけに醤油をかけまわすだけ。

これにふりかけをかけて食べてみたところ結構いける。

今後私の定番料理になりそうだ。


ついでにお手軽な酒のつまみも紹介しよう。

ピザにトッピングするような細かい短冊状のチーズを常備しておく。

トマトまたはソーセージを切ってフライパンに並べ、そのチーズを入れて火を通すだけ。

簡単にできる上にこれもまた旨い。

茄子やジャガイモでもいいのだが下茹でする手間が面倒だ。



●2019.11.24(日)五体満足

有名なミロのビーナス像は両手が欠けている。

どんな手で何をしていたのだろう、観る人は想像力が掻き立てられる。

ネットで画像を検索すると復元案が幾つも提示されている。


戦時中の日本を舞台にした『この世界の片隅で』というアニメ映画を見た。

主人公のうら若い女性が投下された爆弾によって片手の手首から先を失う。

包帯で巻かれた腕を主人公が動かすたびに私は切ない気持ちになった。

腕が動くということは手が何かをしたがっているのだ。

それなのに何もできないもどかしさが哀れを誘う。


私の知人に片足に義足を装着している人がいる。

彼は高校卒業後、漁船員の父親の勧めで遠洋漁業の船に乗った。

そして事故で機械に足を巻き込まれ膝から下を切断した。

義足を付けた息子の足を見て父親は泣いたという。

親の愛情とはそういうものだ。

私も自分の子供が産まれた時のことを思い出す。

五体満足に産まれてきただけでありがたかった。


産院には常に数人の新生児がいる。

どの子が整った顔立ちをしているか、見比べれば客観的に判断できる。

しかし自分の子となるとどの親も見方が主観的になる。

他のどの子より我が子が可愛く思えるのである。

「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というのは封建社会にとって都合のいい解釈であり、本当の順序は逆なのかもしれない。



●2019.11.26(火)ものは考えよう

一昨日の11月24日(日)、38年ぶりにローマ法王が長崎を訪れた。

38年前は大雪で今回は雨、二度とも天候がすぐれなかった。

前回も今回も訪問日の前後の天気は悪くなかったのに。

天皇陛下の即位やパレードの日は逆だった。

それまでの悪天候が両日ともに回復してよい天気になった。

しかし、この違いをローマ法王に比べて天皇陛下の御稜威みいつは大したものだなどと解釈するのは適当ではあるまい。

あえて天候と関連付けたければ、天皇陛下の即位に関しては湧きたつ歓喜に天が感応し、ローマ法王の場合は被爆地の嘆きを大雪や雨が浄化してくれたのだと思えばよい。


このように物事の意味は考えしだいである。

私は近頃、愚痴は言うまいと自分に言い聞かせている。

愚痴の根底には一番悪いのは自分ではないという言い訳がある。

何か辛いことが起きた時も耐え忍ぶべき試練でなく未知の経験ととらえて対処すればよい。

時を遡る切符チケットがあれば

欲しくなる時がある

あそこの別れ道で選びなおせるならって

これは『主人公』(さだまさし)という歌の一節であるが、実人生はもっとポジティブにこう考えてはどうだろう。

「人生に分岐点はない」

若い頃あそこで道を間違えた、こんなふうに思えばそれ以降の人生が色あせる。

人はやり直しのきかない一度きりの人生を生きるしかないのである。

この当たり前のことを比喩で言えば、分岐点のない一本道が人生だ。

自然にできた道に直線道路がないように幸福ばかりが続く人生もない。

道があちことで曲がりくねるように人生にも失敗や不幸はつきものだ。

それでもゴールは明るいと信じて道なりに歩けばいい。

カーブを避けて真っすぐ進もうと道を外れるほうが苦難は増すだろう。



●2019.11.28(木)免許

車を運転していて一時停止違反で検挙されたことがある。

徐行はしたが完全に停止しなかったためである。

ゴールド免許の資格が途切れ免許更新時に講習を受けねばならなかった。

15年ほど前のその時の講師の言葉を今も覚えている。

「車を運転するのは人の命を奪う恐れのある危険な行為です。だからできればしないほうがいいんです。免許という字で分かるように皆さんは特別に許されて運転という危険な行為を行うのだということを忘れないでください」

老人の暴走がしょっちゅうニュースになる昨今、心したい言葉である。

しかし運転免許証の返納を勧めると「おれの勝手だ」と憤慨する老人も多い。

このように免許に関しては権利という側面でしかとらえていない人がほとんどだろう。

医師免許や教員免許ともなれば社会的ステータスのイメージさえ付与される。

こういう職種の人たちこそ先ほどの講話を胸に刻むべきだ。

医師や教師は人の生死や一生を左右する仕事を特別に許可されているのである。

そのことに特権意識を持って傲慢になるか、身を引き締めて謙虚になるかは本人の人間しだいだ。

医者的な人間でなく人間的な医者、教員的な人間でなく人間的な教員になってほしい。



●2019.11.30(土)スケール

地球の断面図を描けと言われたら難しいと思う人が多いだろう。

地球は完全な球でなく北極と南極に力を入れて押しつぶしたように少しいびつな形をしている。

そして地表面には8千メートルを超えるエベレスト山脈をはじめ数えきれない山々が隆起している。

ところがこれらは大した問題ではない。

ノートにコンパスで円を描けばそれが地球の正確な断面図になる。

南北方向のひずみも高い山々も円を描いた鉛筆の線の幅に収まってしまうのである。

次に地球の断面図とは逆のケースを考えてみよう。

きれいに整地された分譲宅地は買い手がつかないまま数か月たつと雨水が流れる筋道ができる。

浅い溝がたくさんできたその宅地を地球規模に拡大すればどうなるか?

アリゾナのグランドキャニオンのような雄大な峡谷地になるだろう。

以上の例は縮小にしても拡大にしてもスケールの問題である。

スケールという英語自体がもともとは目盛りとか物差しとかいう意味だ。


今度は別のスケールの話を紹介しよう。

ある著名人が中国に住んでいた頃のことを講演会で次のように語っていた。

知り合いの中国人の新築パーティーに招かれた時のエピソードだった。

ある招待客の小さな子供が鉛筆で壁に落書きをしたそうである。

「申し訳ありません、うちの子が壁を汚してしまいました。新築で真っ白だったのに」

主人に謝罪した父親は子供をこっぴどく叱り子供は泣き出した。

「そんなに叱らなくて大丈夫ですよ」

主人は子供の父親を少し離れたところに連れて行ってさらにこう言ったそうである。

「ほら、ここから壁を見てごらんなさい。だいたい白いでしょう?」

この話が物語るのは人間のスケールというものだろう。



●2019.12.2(月)マラソンコース

昨日テレビで福岡国際マラソン大会の中継を見た。

残念ながら東京オリンピックの出場資格である日本新記録は出なかった。

そこでいい記録が出るコース設定を考えてみた。

答えは簡単だ。

全て下りになるコースにすればいい。

しかしそんなことは現実的には許されないだろう。

今度は逆に各コース間で道路の高低による不公平がないようにするにはどうすればよいかを考えてみた。

スタート地点とゴール地点の標高を同じにすればいいのではないか。

この考えがあまりにもすぐに浮かんだので自信が持てない。

ウイキペディアの「マラソン」の項で「公認コースの主な条件」を見ると私の考えは正解だった。

高低差だけでなくずっと追い風で走ることがないような条件も書いてあり、なるほどと感心した。


さて自分でマラソンコースを設計してみよう。

スタートとゴールが同じ標高という条件のもとでどんなコースが考えられるだろう。

・最初に一度だけ急こう配の坂を上って後はずっと下っていく。

・逆にずっとゆるい坂を下って最後に一気に駆け上がる。

・何か所もアップダウンが連続する。

・初めから終わりまでずっと平坦なまま。

こうやって書き出してみると何やら人生に似ている。



●2019.12.5(木)例えば鉛筆

前々回コンパスの鉛筆の話や鉛筆で落書きした子供を話題にした。

今回は鉛筆についての思い出を記してみよう。

調べてみて驚いたがシャープペンシルは明治時代から使用されている。

しかし普及するのはずっと後で私が小さい頃も筆記具はもっぱら鉛筆だった。

芯がちびると母や姉に削ってもらったものだった。

肥後守と呼ばれる小刀や安全カミソリを使って母や姉が上手に削るのをほれぼれとして見ていたものだ。

やがて鉛筆削り器が出回ると子供でも簡単に削れるようになった。

そのかわり人それぞれの削りかたの個性は失われてしまった。


削った後は芯が折れないようにキャップをはめた。

初めは金属製のものだったがしだいにプラスチック製のカラフルなキャップが一般的になった。

キャップは鉛筆の先端にはめるものだが鉛筆の尻にはめるものもあった。

ペンシルホルダーとか補助軸とか呼ばれるもので、鉛筆が短くなって手で持ちづらくなった時に重宝した。


ここまで書き記しながらふと思った。

鉛筆ひとつ取り上げてもこんなふうにあれこれと書ける。

ところが世の中には何を書いていいか分かりません、何を話していいか分かりませんという人がいる。

そういう人は話題に乏しいのではなく文字通り「分からない」だけなのだろう。

「分かる」と「分ける」は親戚みたいな言葉である。

話題であれ悩みごとであれ、小さな要素に「分ける」と対策が「分かる」ようになる。

文房具について何か語れと言われた場合、冒頭の鉛筆の例のように数多くの文房具の中から何か一つを取り上げれば語ることは出てくるはずだ。

トイレについて語れと言われた場合もトイレットペーパーに的を絞れば二枚重ねが好きだ、いやシングルがお得だなどなど。


話すことと書くことを比べれば書くのが苦手だと言う人が圧倒的に多い。

「今日もいっぱいしゃべったね」

よくこんなに話すことがあるものだと友人と会うたびに感心する人も多いだろう。

ところが相手が友人でなく初対面の人だとそうはいかない。

書くことが苦手な人はそのケースと同じだと思われる。

緊張して身構えてしまい書く話題が浮かんでこなくなるのだろう。

それならばこういう方法はどうだろうか。

『広辞苑』をパラパラとめくって適当に指をさす。

指さした言葉を話題としてとらえれば、それに対する自分の考えや思い出はすぐにでも出てくるだろう。



●2019.12.9(月)ご飯最強説

もともと面倒くさがりの私だが年を取るにつれてますます不精になっていく。

このブログ?を更新するのもおっくうになりつつあるが、まずは掃除機を取り上げてみよう。

邪魔になるコードを避けながらゴロゴロと本体を引きずって掃除機をかけるのは実に面倒だ。

そこで最近コードレスのスティック型掃除機を買った。

すると以前とは雲泥の差と言いたいほど掃除機がけが苦にならない。


妻は料理を面倒に思うようで味噌汁を作りたがらない。

そこで味噌汁が飲みたい時はインスタント味噌汁の出番となる。

しかし私は生みそを袋から絞り出すのさえ面倒で最終的には粉末タイプのインスタント味噌汁に行き着いた。

ある日の我が家の夕食を紹介してみよう。

ご飯とインスタント味噌汁、おかずは煮込みハンバーグとサラダと餃子。

みすぼらしいということ以外は特に取り立ててどうこう言うこともないメニューだろう。

実はそこが大事なのである。


話は変わるが近頃日本のあちこちで鯖サンドなるものが販売されている。

テレビでも時々紹介され食べる人は「意外と美味しい」などと言う。

しかし私は鯖はパンには合わないと思う。

「意外と美味しい」というのは「思っていたほど不味くはない」という意味ではなかろうか。

刺身をおかずにして食パンを食べる人はまずいない。

鯖もサンドイッチでなくご飯のおかずにするのがベストだと思う。

和風のおかずはパンに合わない、少なくともベストではないとしたら逆のケースはどうか?

洋風のおかずでご飯に合わないものはないだろうか。

考えてみたが思いつかない。


ここで先ほど紹介した我が家の夕食に話を戻そう。

ご飯・味噌汁(和食)、ハンバーグ・サラダ(洋食)、餃子(中華)

こう分類してみると貧乏くさい献立も豪華に思えてくる。

日本人は特に意識することなく各国の料理を献立に取り入れている。

和食が世界遺産になってもてはやされているが出汁がどうの料理の見た目がどうのという前に和食の中核はご飯なのではなかろうか。

茶碗にご飯をよそって箸を持てば世界のどの家庭の食事時にお邪魔してもOKだ。

現実的には気味悪がって誰も家に入れてはくれないだろうが。



●2019.12.11(水)タピオカ 

2019年の流行語大賞に「タピる」がノミネートされたが、タピオカのブームも長くは続かないだろう。

長く続かないからこそ「ブーム」なのだろうが。

スイーツの世界では近年だけでもクレープ、ティラミス、ワッフル、マカロン、パンケーキなどがブームになりいつのまにか下火になっていった。


とは言うもののブームになれば一度は口にしてみたいのが人情である。

どうも日本人は他人と歩調を合わせたがる傾向があるようだ。

訪問販売員は「ご近所のみなさん既に~です」という言葉で客をあおる。

「自分だけ取り残されてはいけない」

「周りの動きに乗り遅れてはならない」

このような焦燥感や不安感は稲作民族のDNAに由来するのではなかろうか。

誰かが田植えを始めると遅れてはならじと皆田植えにかかる。

稲刈りの時も同じだ。

そして農作業で人手が足りないとお互いに助け合う。


狩猟採取民族ではこうはいくまい。

むしろ逆の行動をとりそうだ。

山であれ海であれ、良い猟場りょうば漁場りょうばは秘密にして単独で行動するのではないか。


「飛んで火にいる夏の虫」と同じく、長い時間をかけて刷り込まれた民族の行動原理は数世代で変わるものではない。

タピオカ店に行列を作るギャルたちは貫頭衣を着て田畑を耕していた弥生人の末裔なのだ。



●2019.12.13(金)怠け者の自己弁護

武道の強豪校を取材したテレビ番組を見た。

武道場の壁に貼られていた檄文が印象的だった。

「死に物狂いは一生懸命にまさる」

それを見て高度経済成長期のテレビCMを思い出した。

「24時間戦えますか」

両方ともすさまじい文言である。


過去を振り返ってみると昭和30年代が一番生きやすかった。

私が生活の苦労など知らない子供だったせいもあろうが、日本全体が貧しくはあってもほのぼのとしていたように思う。

そんな暮らしが高度経済成長期に入ると激変した。

学校も職場も含めて生まれ故郷の近辺で一生が完結していた時代は終わった。

進学や就職の場が全国に広がり終身雇用制も崩れて競争社会に突入した。

走り続けて疲れ果てた現在の日本を象徴するのが「過労死」「働き方改革」などの問題であろう。


もうそろそろ休んでもいいのではないか。

しかし親心はそうはいかない。

我が子が競争社会を勝ち抜けるよう発破をかける。

「一流大学に進学して一流企業を目指せ」

発破とはダイナマイトのことである。

過度に発破をかけられた子供は砕け散る。

そして親はようやく蛙の子は蛙だったことに気づいて言う。

「せめて自分の力で生活できるようになれ」

これも親心のつもりなのだろうが子供はたまったものではない。

期待に添えなかった自分への捨て台詞のように聞こえるだろう。

私は子育てを終えたので手遅れだがこう言いたいものだ。

「誰にも迷惑をかけず自分の働きで飯を食って生きていく、それは最低限の生き方ではない。それで十分なのだ」

余力があればできる範囲で人の手助けをしろと付け加えたいが、現代の日本は豊かに見えてその実、若者が経済的に自立するだけでも大変な社会だ。


人生はよくマラソンにたとえられるがへそ曲がりの私はこう思う。

走り続けること自体、不自然で無理をしている状態である。

人生は競技ではないのだから走らずに歩いてもいいではないか。

私などはできれば歩きもせずに寝ていたい。

最後は怠け者の自己弁護になってしまった。



●2019.12.16(月)文化と様式

「文化」とは何か。

誤解を恐れずに言えば「様式」と言い換えられるのではないか。

サラリーマンが朝起きてパジャマ姿で出勤するわけにはいかない。

スーツ姿という「様式」が社会的に無言裡に要請されている。

高校生なら制服がそれに当たる。

制服の強制に反抗しても事情は同じだ。

制服を改造するとか着崩すとかの新たな「様式」をまとうだろう。


服装だけでなく人間関係も暗黙のうちに様式が生まれる。

居酒屋で隣り合った初対面の客と男どうし意気投合したとする。

フランクに話をしているうちに相手の素性が分かったらどうなるか。

例えば相手が暴力団員、大会社の社長、お坊さん、警察官、あるいは同じ出身校の後輩だった等々。

その後の会話の様式に変化が生じるはずだ。


今回このような話題を持ち出したのは私と妻との会話が少なくなっているからだ。

これは望ましくないのではないかと思ったが考え直してみた。

夫婦関係にも年齢に応じた様式の変化が生じるのではないか。

夫が帰宅した後、夫婦がお互いの今日一日の出来事を語り合うのは若い夫婦に似合う様式だ。

それに対して老夫婦がほとんど会話を交わさずお茶を注いだり食事をしたりするとしても、それはそれで老夫婦に似つかわしい様式なのだろう。

夫婦といっても厳密には他人どうしである。

他人どうしが話らしい話もせず毎日一緒にいて過不足を感じないというのは稀有な人間関係だ。

それを寂しいととるか尊いととるかはその人の属する国や家庭の文化によるだろう。



●2019.12.18(水)外来語

師走も押し迫れば昔なら商店街に多数ののぼりが立ったものだ。

幟には「大廉売だいれんばい」などの文字が染め抜かれていた。

子供の頃はそれを「だいれんばい」と読めもせず「廉」が「安い」という意味だとも知らなかった。

それはともかく現代では幟を見かけることはほとんどなく、ポップ広告が主流である。

しかも「大廉売」「五割引」「売尽し」ではなく外来語で「SALE」「50%OFF」「CLEARANCE」と書かれている。

外来語は見た目の表記や口にした時の響きがオシャレで軽やかな感じがする。

だからファッション関係の店は多用するのだろう。

「新装開店」よりは「リニューアルオープン」、「新入荷」よりは「ニューアライバル」のほうがオシャレに感じられる。

ということは重々しい雰囲気を大事にする場に外来語はそぐわないということになる。

例えば葬式がそうである。

「フェアウェル・サービス」「フューネラル・ホール」「ファミリー・ルーム」「キャスケット・コーチ」よりも「告別式」「斎場」「家族控室」「霊柩車」の方がしっくりくる。



●2019.12.20(金)ティーバッグ

前回外来語を話題にしたので今回もティーバッグという外来語をとりあげよう。

麦茶を作る時、私は薬缶で湯を沸かして火を止めてから麦茶のティーバッグを入れている。

果たしてそれでいいのか、煮出したほうがいいのではないか、気になってネットで調べてみると案の定、いろんなことが書いてある。

面倒なので今までどおりでいこうと思う。

次に「ティーバッグ」という言葉に話を移そう。

最近書いたネット小説(貧乏食堂『タベルナ やばい』)の中で似て非なるものとしてTバックとティーバッグを作中でとりあげた。

すると最近、実際にこの二つを混同した例を我が家で発見した。

紅茶のティーバッグが10個入ったパッケージに「ティーバック 10袋入り」と書かれていたのである。

ティーバッグをティーパックと言う人もいるからその影響でこんな間違いが起きるのかもしれない。

なお、英語としてはティーパックでなくティーバッグのほうが正しいようだ。


ここで終わるのは短い気がするので、これまでの話題とは関係ないが最近聞いた笑い話を二つ忘れないうちに書き留めておこう。


マジックショーでマジシャンが客に呼びかけた。

「どなたか一万円札をお持ちの方、ちょっと拝借したいのですが」

最前列の客が財布から一万円札を取り出して差し出した。

舞台上からそれを受け取ったマジシャンはこう言った。

「ありがとうございます。月末までにはお返しいたします」


飲み会の席上、死ぬ前に最後の晩餐として何を食べたいかという話題になった。

寿司だ、いや焼肉だといろいろな意見が出て盛り上がった。

そんな中、ある者がぼそりと言った。

「死ぬ前に食欲はなかろう」



●2019.12.23(月)余命宣告

前回、最後の晩餐を話題にしたが、あれは笑い話ではないのではないかという気がしてきた。

自分が末期の癌で余命宣告を受けたらどうするだろう。

寿司や焼肉を腹いっぱい食べようが世界一周旅行に出ようが、それは最後の思い出作りという名のあがきだと思えば心は弾まないのではないか。

ある大学生の実話を思い出す。

その学生は余命宣告を受けた後もそれまでと同じように大学に通い、数か月後親に看取られて亡くなったそうだ。

短い命なのだから勉強しても無駄だと思う考え方もあるだろう。

では何をするか?

遊んで回ったり趣味に打ち込んだりするのが有意義なのか?

それは先ほど述べた、好きなものを食べたり旅行に出たりするのと同じあがきに過ぎないのではないか。


余命宣告を受けるというのは特殊なケースのように思われるかもしれない。

しかし人間は誰でも平均寿命という名の余命宣告を受けているようなものだ。

2018年の日本人の平均寿命は女性が87.32歳、男性が81.25歳。

80歳の男性はあと1年ちょっとの命、70歳の男性なら10年ちょっと。

自分の余命をそんなふうにとらえて今後の生き方を考えてはどうだろう。

と提言しても大半の人は毎日毎日を昨日と変わりなく過ごして一生を終えるのだろう。

私自身、それでいいのだと思う。

残された月日を淡々と過ごして短い人生を終えた学生も見事な覚悟の持ち主だったと言える。

その学生は最期は膝枕をしてもらい母親の膝の上で息を引き取ったという。



●2019.12.25(水)人付き合い

私はどうも気が若すぎるようだ。

人と話をするとつい相手のものの考え方や生き方に切り込んでいってしまう。

酒を飲むとなおさらその傾向が強くなる。

反省を重ねて近頃はだいぶましになったが。


日常のありふれた人付き合いのさまを想像してみよう。

仲のいい者どうしが同僚の悪口で盛り上がるのはよくあることだ。

では悪口の対象の同僚と職場でどう接しているかというと睨みつけたり避けたりしているわけではない。

ごく普通に挨拶もし、当たり障りのない世間話もする。

こういったありかたを私は若い頃は偽善のように感じていた。

しかしそれでいいのだと今は思う。


芭蕉も「言ひおほせて何かある」(『去来抄』)と言っている。

全てを表現し尽くしてしまうと大切な余韻、余情が欠けた句になるという意味だろう。

この指摘は対人関係においても示唆的だ。

相手の全てを知り尽くそうとする私のようなタイプの人間は特に肝に銘じなければならない。

話を掘り下げて相手の本質に迫れば迫るほどお互いにとって有意義だ。

以前はそう思っていたのだが相手はさぞ鬱陶しかったことだろう。


配慮しているつもりでもとかく自分中心に考えがちなのが人間というものだ。

お見合いをしても自分に合わない人だったらどう断ろうかと悩む。

自分が断られることは想像しない。



●2019.12.27(金)鉄道唱歌と桃太郎

明治時代に作られた「鉄道唱歌」の歌詞は399番まであり日本一長い歌だった。(近年になってこれをはるかにしのぐ長さの歌が作られたようだ)

最後まで歌うと1時間半以上かかるらしいが軽快なメロディーに七五調の文語体の歌詞が乗って歌いやすい。

「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり愛宕の山に入り残る月を旅路の友として」

最も有名なこの歌詞は「第1集東海道編」の1番の歌詞である。

「鉄道唱歌」の歌詞は日本全国の鉄道沿線の町を紹介するような内容なので興味がある方はご自分の県の歌詞を検索されたい。

私の地元の長崎県は「第2集九州編」に計7個ありその中には町なかを紹介する歌詞まである。

「汽車より降りて旅人のまづ見にゆくは諏訪の山寺町すぎて居留地に入れば昔ぞ忍ばるる」


「鉄道唱歌」と同じく明治時代に作られた童謡に「桃太郎」がある。

この歌の歌詞は6番までしかないが全て覚えている人はそう多くないだろう。

とりあえず誰でも歌える2番までの歌詞を書き出してみよう。

「1番 桃太郎さん桃太郎さんお腰につけた黍団子一つわたしに下さいな」

「2番 やりましょうやりましょうこれから鬼の征伐について行くならやりましょう」

ある漫才コンビがネタの中で上記のように歌っているのを聞いて私は違和感を覚えた。

というのは2番の出だしを私は「あげましょうあげましょう」と習った記憶があるからだ。

ネットで調べてみるとこの2種類の歌詞についてあれこれと説明がしてある。

私が面白いと思ったのはこの件から外れた次のような発言だ。

「『これから鬼の征伐について行くなら』という部分は『ついて来るなら』とあるべきだと思いませんか?」

こちらの方が「やりましょう」「あげましょう」よりも大きな問題だという指摘であった。



●2019.12.29(日)世界遺産

ふとジャコバン党という言葉が頭に浮かんだ。

高校の世界史で習った記憶がある。

しかしジャコバン党は左翼か右翼か、対立した党派は何だったか。

思い出せないので調べてみた。

ジャコバン党は急進派、革新派で、対立する穏健派、保守派はジロンド党だった。

フランス革命期の国民議会で議長席から見て左側にジャコバン党、右側にジロンド党が座っていた。

これが左翼、右翼という政治用語の由来であるというのは有名な話だ。


新入社員研修として自衛隊に体験入隊させる会社がある。

会社でなく高校が新入生を体験入隊させるとしたらどうだろう。

もちろん左翼系の政党や教師が猛反対するだろう。

しかし国内外への修学旅行で姫路城や万里の長城を見学することには異論が出ない。

ピラミッドをはじめ歴史的な建造物の多くは独裁権力者が人民を酷使して造り上げたものである。

専制権力の象徴とも言うべきそういう建造物の見学を忌避もせず世界遺産としてありがたがる。

私は左翼でも右翼でもないがこのことを素朴に不思議に思う。

地中から発見された人骨が古さによって文化財になるか警察の捜査の対象になるかに似ている。


世界遺産といえば世界三大墳墓の一つである仁徳天皇陵古墳が今年7月に登録された。

ヘリコプターで上空から撮影するテレビ番組を見た。

大阪府堺市の住宅密集地の中に仁徳天皇陵だけが緑の区画として色鮮やかに存在している。

ヘリコプターに乗っている女性リポーターがその光景を見て言った言葉が印象的だった。

「築造された時とは真逆ですね」

なるほど、言われてみればそうだ。

築造された当初、仁徳天皇陵は草木が1本も生えていない人工建造物であり、その周囲こそ草木の生い茂る緑一面の森や林だったのである。



●2019.12.31(火)消えゆく情緒

今日は令和元年の大晦日。

私が子供の頃の年越しの風景は毎年同じだった。

家族そろってNHKの「紅白歌合戦」、続いて「ゆく年くる年」を見た。

華やかで賑やかな「紅白歌合戦」が終了すると一転して暗く静かな「ゆく年くる年」が始まる。

男性アナウンサーの低いトーンの声も印象深かった。

そして母親が年越しそばを作ってくれたものだ。

「紅白歌合戦」の視聴率は最初の頃は80%を超えていたのだから我が家だけでなく日本中の多くの家庭が同じように年を越していただろう。


「紅白歌合戦」の視聴率は平成11年の第50回大会を最後に50%を超えず年によっては40%を切ったりもしている。

生活スタイルの多様化とともに年越しの風景も一様ではなくなった。

我が家でも近年は「紅白歌合戦」や「ゆく年くる年」は見たり見なかったり、年越しそばも食べたり食べなかったりで何の緊張感もなく新年を迎えている。


「ゆく年くる年」で全国各地のお寺の中継をするように大晦日と言えば除夜の鐘が付きものだ。

その除夜の鐘がうるさいというクレームを受けて取りやめにしたり昼間に撞いたりするお寺が増えているという。

この件に関してはクレームをつける人たちの不寛容さを非難する意見が多いが、現代の生活スタイルの多様化も考慮に入れる必要はないだろうか。


私の子供時代は大人も殆どが年末年始の数日は仕事が休みだった。

お寺の境内も広かった。

この二つの条件の変化だけでも除夜の鐘に対する受け止め方は違ってくるだろう。

人口の都市への集中化とあいまって経営難で敷地を切り売りする寺もある。

狭くなった寺の周囲にはマンションが次々に建設される。

その住人の中には大晦日も正月も関係なくダブルワーク、トリプルワークで働く人もいることだろう。

そんな人の身になってみよう。

心身ともに疲れ果てて夜遅く帰宅し翌日の元旦も朝早くから仕事に出なければならない、それなのにベッドに入ったとたんすぐ横の寺から長い時間に渡って鐘の音が108回聞こえてくるのだ。


そういった社会的背景の影響なのか個人的な問題なのかは措くとして不寛容な風潮が強まっているのは確かだ。

餅つきは不衛生だ、風鈴の音が耳障りだ、盆踊りがうるさい、こういったクレームで伝統的な光景が日本各地で少しずつ消えていっている。

心寂しい限りである。

少し前の回で文化は様式だと書いた。

もっと前には文化は手間ひまがかかるものだとも書いた。

門松の印刷物を玄関に貼るだけでもいいから新年を迎える準備をする。

大晦日は面倒でも年越しそばを作って食べる。

そんなふうに形から入れば情緒という名の心豊かな世界に浸れるのではないか。

さっき我が家の冷蔵庫を覗いてみるとそばの麺が入っていた。

ありがたいことだ。

ただ、ガスレンジにはカレーの鍋も載っている。

いつでも食べられる作り置きはカレーがおせち料理にとって代わったようだ。

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