2019年1月~6月

●2019.1.1(火)老化の症状

これまで私が体験した老化の症状を列挙してみる。

「少年老いやすく」なのだから、若い方々も早晩同じ兆候が現れると思って恐れおののいてほしい。


・夜、寝ている時に足がつる。

・やたらと代名詞をつかう。「あれはどうした? それはあれしといて」

・マグカップや湯呑みを持ち回ると、どこに置いたか忘れる。

・植木やペットが欲しくなると自分の余命と相談する。

・体形が大名行列のように「下へ下へ」となり、下腹のダイエットが不可能になる。

・風邪をひいた時、自然治癒力で治そうとすると自然に悪化する。

・風呂から上がった時、体のどこかを拭き忘れる。

・お茶にむせる。時には飲み込んだ自分の唾にむせる。

・「蛙ぴょこぴょこぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこぴょこぴょこ」と言えなくなる。

・スナックに若者客が多いのを見て流行りの歌をチョイスし、歌い終わって周囲の反応を見た時、取り返しのつかないことをしたと思う。


以上は大方の賛同が得られたが、以下の二点はそれほどでもなく私個人の問題なのだろうか。

・爪によく垢がたまる。

・まつげが時々抜けて目に刺さる。


最近では耳の衰えも顕著だ。

蝉しぐれのような耳鳴りが四六時中かすかに聞こえている。

インターネットでモスキート音による耳年齢チェックをやってみると6000ヘルツから上は聞こえない。

それは計測可能な量的問題だが、質的にも耳の性能が衰えている。

テレビの音でも人との会話でも音量は届いているのだが、何を言っているのかが聞き取れない。

そこで会話中に聞き返すことがよくあるが、2回聞き直しても分からない時は聞こえたふりをする。

新年早々、情けない話からのスタートとなった。



●2019.1.2(水)人類絶滅までのカウントダウン

「グーグルアース」でパリやロンドンの街中を散歩するのが好きだ。

散歩に飽きたらマウスでスクロールする。

すると視点がどんどん上空へ上昇していく。

さっきまで街中を散歩していたのに、あっという間に宇宙から地球を見下ろしている。

まるで宇宙船に乗っているかのような錯覚に陥る。

グーグルアースふうに実際に宇宙船の乗組員が高度をどんどん下げていくことができるとすれば、自分の国、自分の住む街、自分の家、そして庭で遊ぶ我が子まで見えるだろう。

宇宙船から地球を見た乗組員たちは、地球を大切に守らなければならない気持ちになると異口同音に発言している。


私は時々夢想する。

中学や高校で習うレベルでいいから、理科の知識を持ってタイムマシンで過去に行きたいと。

すると私は幼いニュートンに引力を教え、ガリレオに地球の自転について解説してやることができる。

私は「天才だ!」とたたえられることだろう。

さらにさかのぼって太古の昔に行けば神として崇められるかもしれない。

そんな夢想が成り立つほど人類の文明は飛躍的に進歩したが、精神面の成長はどうなのだろうか。

皮肉な言い方をすれば、人類は誕生以来、数百万年をかけてボタン一つで地球を破滅させ、自らを滅ぼしうるところまで進化を遂げたと言える。

アメリカのある科学雑誌が世界終末時計というものを考案した。

核戦争などによる人類の絶滅を午前0時になぞらえ、それまでの残り時間を「あと何分」という形で象徴的に示すものだ。

その時計によると、2015年、2016年は3分前、2017年が2分30秒前、針はさらに進んで2018年は2分前になった。



●2019.1.3(木)青春のあがき

泳いでいる時にガバリと水を飲みこんで息が詰まり、呼吸困難に陥ることがある。

飲み物を一気に飲み下して同じような状態になる時もある。

短い窒息時間とはいえ、死ぬかと思うほどの苦悶の後にやっと息が通うようになる。

赤ん坊がこの世に産まれて初めて息をする瞬間も同じなのではないだろうか。

しかし仏教では「生老病死」を四苦と言う。

「老・病・死」はよく分かるが、「生」も「苦」とする思想は深い。

へその緒から酸素や栄養を母親に供給してもらい、羊水に包まれて安寧の世界にいた胎児が、出産を機に自力の肺呼吸へ移行する瞬間のうぶ声は、聞きようによっては「苦」を告げているようにも聞こえる。


ブラウニングの詩「春の朝」のように平和で心静かな世界に私は憧れる。

しかしそんな世界、そんな生き方に価値を見出すようになるまでにはジタバタする青春の「苦」の時間が必要なのだろう。

縁側でしみじみとお茶をすする姿は若者には似合わない。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉もある。

若者は好むと好まざるとにかかわらず、人生という名の遊園地においてジェットコースターに乗り、お化け屋敷に入らねばならないようだ。

お金を払ってわざわざ怖い思いをし、叫び声を上げるのが青春だというのは言い過ぎだろうか。



●2019.1.4(金)もったいない話

今日から仕事始めの方も多いだろうが、朝の通勤時の自家用車のラッシュが気になる。

「走っているこの多くの車の車庫は今、空き地の状態なのだ。日本中の今の空き車庫の総面積はどれくらいになるだろう」

そう考えるともったいない気持ちになる。

ついでにこんなことも考えてみた。

「A市からB市へ通勤するあなたは、B市からA市へ通勤する人を見つけて自宅の車庫を融通し合いませんか?」

さらには究極の妄想が思い浮かぶ。

「車庫ではなく、いっそお互いの勤め先を交代すればどうですか?」


もったいないつながりで言えば駅弁もそうだ。

だが、「幕の内弁当のふたを取った時に最初にすることは?」とクイズを出しても、答えはもう一致しない時代になったのではないだろうか。

昔と違って幕の内弁当のふたのイメージが透明なプラスチック製なら、このクイズ自体が成り立たない。


もったいないということについてちょっと毛色の変わった話を本で読んだ。

「食べ終えたご飯茶碗にこびりついているご飯粒がもったいない。それを集めたら日本では毎日、何トンもの米を無駄にしていることになる」

この話には続きがあって、「実際に日本中の人々の茶碗の米粒を集めて回ることは不可能であり、こんな統計は無意味である」というのが結論だった。

通勤に関する冒頭の私の提案ももちろん無意味である。



●2019.1.5(土)自己認識

水が半分入ったコップを見て「もう半分しかない」と思う人もいれば「まだ半分もある」と思う人もいる。

気の持ちようの例としてよく用いられる話だ。

コップのふちを基準として見れば「もう半分しかない」のであり、コップの底を基準とすれば「まだ半分もある」ということなのだろう。


自己認識についても似たようなところがある。

人間をたくさんの突起があるボールにたとえると、長短が不揃いな多くの突起を持つボールが人間一人ひとりの姿のイメージになる。

その突起の長短をならして平均化したボールの大きさが、一人一人の人間の器量ということになる。

ところが、一番長い突起のレベルを自分の器量だと過大視している人が多い。

突出している部分は数少ない自分の長所、取り柄なのに、それを自分という人間の器の総合的なレベルだと勘違いして生きていけば、周囲の無理解を嘆いたり腹を立てたりするという滑稽な生き方になる。

社会的な評価の高い職業に就いている人が陥りがちな陥穽かんせいだ。


自分のことは自分が一番よく分かっていると考えがちだが、あんがい他人の評価のほうが的を射ていることが多いものだ。

だから私は服やネクタイなどは妻に選んでもらおうと思う。

自分で選んだネクタイは誰も評価してくれない可能性があるが、妻が選べば少なくとも一人は似合うと思ってくれる人がいることになる。

「どのネクタイが似合うかな?」

「もったいないわ。もう働いてないんだから」

確かに他者の意見は恐ろしいほどに的確だ。



●2019.1.6(日)孔子と私

中学生の頃よく家の近くの海で泳いだ。

4種類の近代泳法の中で景色を見ながらのんびり泳ぐのには平泳ぎが一番だ。

沖へ向かって泳ぎながら見るのは青い海と空、そして入道雲。

爽快な気分なのだが、疲れてくると引き返さざるを得ない。

すると目に入るのはスタート地点の砂浜と背後の民家。

行きと帰りの景色のコントラストに当時は何とも表現しようのない違和感を抱いていた。

それは今にして思えば人生のありようそのものを感じ取っていたのではないかと思う。


未来の夢に向かって前へ前へと突き進む青春時代。

やがて疲れ始めてターニングポイントの40代にさしかかる。

もうお前は若くないのだと白髪や老眼が教えてくれる。

それまでの人生を点検し、よりよい後半生へと再スタートしなければならない。


この質的転換を図る戸惑いの時期が「厄年」であり、乗り切ることができれば「不惑」なのだろう。

孔子は40歳で惑わなくなり、50歳で天命を知り、60歳で人の言葉を素直に聞けるようになったと言う。

私は40歳以降も惑いっぱなしで、50歳になると自分には大した天命はなかったのだと諦めた。

ただ60歳の「耳順」だけは孔子なみだ。

かみさんという名の我が家の神様の言うことは、さからうことなく全て聞き入れている。



●2019.1.7(月)女性礼賛

明治以降に西洋医学が普及するまでのお産は「座産」といってしゃがみこんだような体位での出産が普通だった。

場合によっては産婆も間に合わず、自力で出産することもあっただろう。

腰がちぎれるかと思うような陣痛の中で文字どおり産み落とし、半ば血まみれの我が子を抱き上げる……男にとっては想像するだに壮絶な場面だ。

切腹も、武士より女のほうが潔くやってのけるかもしれない。


実家にる未婚の女を「処女」と言うが、出産を機に女性は処女から母へと劇的な変貌を遂げるように思う。

種の保存の法則に目覚めたかのように、何があっても子と共に生き続けるという一点にロックオンする。

父親はとかく理屈を構えて子供と接しがちだ。

それに対して、無条件の愛情を注いでくれる母親のありがたさを子も本能的に感知するのだろう。

太平洋戦争末期の特攻隊員が、最期は母親を呼びながら散華さんげしていったのももっともだ。


哀れなのは男親である。

子育ての疲れで旦那が帰宅しても起きてこない妻が、赤ん坊のぐずる声には敏感に反応する。

旦那の弁当は子供が必要な時にしか作ってもらえなくなる。

子供が大人になって帰省した時、父親が「お帰り」と出迎えても子供の第一声は「お母さんは?」だ。


そんなふうに、妻の出産後旦那は我が身の凋落ぶりを嘆くことになる。

さらには、定年退職を迎えて無職になると二幕目の悲劇が待っている。

女は本質的に男よりも強いから神様は女に腕力までは与えなかったという説がある。

神様のその慈悲が身に沁みるご同輩も多いことだろう。



●2019.1.8(火)量子力学と私

鉛筆の軸の塗装を削って1~6の数字を書いたものをサイコロがわりにし、テストの選択肢の答えが分からない時に転がしたという経験のある人も多いことだろう。

全能の神にはテストの答えは分かるはずだから、その鉛筆を貸し与えてもアインシュタインの言うとおり、神はサイコロを振らないだろう。

しかし、シュレーディンガーは丁半ばくちをやりそうだ。

彼は野良猫を見つけて箱の中に閉じ込め、通行人相手に猫が生きているか死んでいるかと賭けをもちかけるだろう。


「座右の銘は何か?」と問われたら、私はアインシュタインとシュレーディンガーの間に立って「揺れ動く信念」と答える。

一つ一つの仕事において「この問題はこう処理するべきだ」という確信を持って私は業務をこなしてきた。

そうしないと非効率的で仕事はなかなか前へ進まない。

一方また私は反対意見が出ると、それが最も若い部下の意見であったとしても検討し、自説を修正することに何のためらいもなかった。

「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」を気にする職場は、闊達に議論が行われなくなり硬直化していく。


と、こんな偉そうなことをパソコンに入力していても妻に掃除の邪魔だと追い立てられる私である。

反撃しようにも自衛のための戦力さえ既になく、交戦権は永久に放棄せざるを得ない。



●2019.1.9(水)ロックと西瓜  

30歳前後の青年または70歳前後の老人、最新のデザイナーズマンションまたは老朽化した木造家屋。

こういう選択肢を用意して「あなたは誰とどこで生活したいか?」と若い女性に尋ねたら、答えは青年とマンションの組み合わせになるだろう。

しかし、「絵に描きたい素材は?」となると、老人と木造家屋のほうになるかもしれない。


おしゃれなマンションでの生活は「機能的」「快適」というイメージを伴う。

こういう生活に無縁なのは「しみじみ」といった性質の風情だろう。

「しみじみ」という言葉の語源どおり、心に沁みる感覚が入り込む余地はなさそうだ。

それに対して、老人や古い木造家屋には経過してきた時間の重みというものが感じられる。

誇張して言えば、歴史のありがたみというものだろうか。


冒頭の選択肢の組み合わせによる2種類の生活を具体的に想像してみよう。

ガラス張りの高層ビルのエアコンが効いた部屋で、都会の夜の街を見下ろす若い男女。

「あなた、一緒に飲みましょう」とシャンパンクーラーに入った冷えたシャンパンを飲む。

軒先の縁台に腰かけて浴衣姿で団扇をつかう祖父と若い孫娘。

「おじいちゃん、一緒に飲もう」と井戸水で冷やしたビールを飲む。


この二つの情景を比較すると、井戸水ではそんなに冷えず暑い上に蚊もいるし、やはり軍配は前者に上がるのだろうか。

しかし、私は前者の「快適な生活」に憧れながら、後者の「しみじみとした暮らし」も捨てがたく思う。

オーディオから流れるロックもいいだろうが、井戸水で冷やした西瓜に包丁の切っ先を入れたときのパリッと皮が裂ける音もいいものだ。



●2019.1.10(木)輪廻転生

日々どんなに精進したとしてもその若さでこれほどの人格を練り上げられるはずはないと感心させられる若者を私は何人か知っている。

彼らと自分とを比べてみると、人間は輪廻転生を繰り返して成長していくという仏説を信じたくなる。

私自身の努力不足のせいだけでなく、生まれた時点での人間のレベルが違うとしか思えないのだ。

転生も終わりに近づいたのであろうそんな若者に比べて、私はあと幾度生まれ変わらねばならないのかと思うとため息が出る。

升田幸三氏が将棋史上初の三冠制覇を成し遂げた時、「たどり来ていまだ山麓」という言葉を残した。

名人にして山麓から山頂を仰ぎ見ているのなら、私などの見はるかす人生の目標は蜃気楼のようなものだろう。

買ってもいない宝くじが当たることを夢みているくらいなのだから。


職場の先輩にもすばらしい人がいた。

部下を叱る姿でさえ爽やかで微笑ましいのだ。

怒っている最中に「俺は怒っているんだぞ!」と自分で自分を解説したりしていた。

「罪を憎んで人を憎まず」という至難のわざが実践できていた人だった。

凡人が人を叱るときは、犯した罪よりも罪を犯した人を憎むことが多い。

そんな人が他人を叱る姿は、はた目にも見苦しい。

私自身もその部類だったのだが、滑稽なことに私は若い時ほど自分に自信があった。

しかし年をとるにつれて、謙遜でなく自分の愚かさを実感するようになった。

お釈迦様によれば「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、自分を賢いと思い上がっている者が本当の愚か者である」ということだから、遅きに失したとはいえ少しはましな人間になったのかもしれない。



●2019.1.11(金)情けない伊右衛門

合コンだの婚活だの、色恋ざたに気をとられている若者を見ると冷や水を浴びせたくなる。

「優しさが一番だなどと言ってるが、恋人が火傷を負って顔一面にケロイドが残っても愛し続けられるのか?」

翻って自分の妻がそうなったらと自問してみると、私はそれでも妻が愛しく思える。

私なら四谷怪談を四谷美談にできそうだ。

と、ここまで書き終えた時、「今日はゴミ出しの日よ!」とお岩が急き立てる。


閑話休題それはさておき、性愛を離れた愛は庇護の情なのではないだろうか。

しっかりした女性がダメ男に惹かれることがあるのもそういった面があるのではと思われる。

犬にしても、客観的には美的な顔立ちと思えない犬種も庇護の情をもってすれば十分に愛すべき対象になりうる。

まだまだ書き足りないのだが、ゴミを出しに行かねばならない。



●2019.1.12(土)きめつけと例外

「とかく男は~だ、女は~だ」というたぐいの話をすると、妻は「それってきめつけよ。そんな言い方したら人に嫌われるわよ。男・女でなく、その人は~って言うべきでしょ」と反撃の矢を放ってくる。

「70%以上当てはまりそうなら統計学上は『とかく~は』と一括りにして話していいんだよ」と言いたいが、二の矢、三の矢が飛んできそうなので黙り込むことにした。


で、妻に聞こえないように「とかく女は花が好きで、男はそうでもない」と小声で言うことにしよう。

職場の送別会等で転勤者に高価そうな花束が贈呈されているのを見ると、自分なら現金で頂きたいと思ってしまう。

しかし女性はどうもそうではないようだ。

お金に細かいママがスナックに飾る花には費用を惜しまないということはよくある。

気の強いママほどその傾向があるから、無意識のうちに精神のバランスをとっているのかもしれない。


女性に関するきめつけが外れることもある。

竹を割ったような気性で仕事もテキパキとこなす女性を見るともったいないと思う。

「日本の職場はまだまだ男性優先だから、この人が男だったらもっと活躍できるだろうに」

そう思って「来世は男、女のどちらに生まれたいか」と問うと、そういう女性はそれこそ70%以上の確率で「女」と答える。


男についても不思議なことがある。

剛毅な性格で体格もがっちりしている男性はいかにも大酒飲みに見えるが、実は一滴も飲めないという人が意外に多い。

これも小声で言うが、そんな人が酒を飲んで暴れたら手が付けられないだろうから神様がバランスを取ってくれているのかもしれない。

ちなみに、私の妻も酒が飲めない。

他意はないが。



●2019.1.13(日)簡単なこと

簡単だと思われることも案外簡単でなかったりする。

認知症の進行によって自分で服を着ることに苦労している人のようすをTVで見た。

袖に腕を通すということさえ、本来は難しい作業なのだと気づかされた。

年を取ると子供に似てくると言うが、確かに幼稚園の制服を着るのに手間取る子供と同じだ。


「白い犬がワンワン吠えている」

こんな簡単な文も養護学校の先生は教えるのに苦労すると聞いてなるほどと思った。

視覚障害者に「白い」という概念をどう教えたらいいのだろう。

聴覚障害者に「ワンワン」という鳴き声を理解させることはできるのだろうか。


いとも気楽に人に話しかける人間を、軽い、軽薄だなどと馬鹿にしてはならない。

話す必要のないことをあえて話しかけるには、相手への関心とエネルギーがいるはずである。

逆の例が倦怠期の夫婦だ。

話すことといえば生活上の用事のみで、返事さえしない夫婦もいることだろう。


夫婦関係の改善に立ち上がった夫を紹介しよう。

かつての私の上司だが、妻を「おい!」と呼んでいる横柄さを反省して名前で呼ぼうと思い立ったそうだ。

ある時、意を決して台所にいた奥さんに「みちこ!」と呼びかけた。

すると奥さんは振り向いて「お茶ですか?」と答えたそうだ。

初めて妻の名を呼ぶ緊張のあまり「みちゃこ!」と噛んでしまい、さらに最初の「み」と末尾の「こ」が微弱な音量になっていたものと推察される。

くじけた上司は飲みたくもないお茶を飲み、妻を名前で呼ぶことを永久に放棄したという。

名前ひとつ呼ぶのにも、事ほど左様に多大なエネルギーを必要とするのだ。



●2019.1.14(月)カルチャーショック

「ボランティアに行ったところ、色々と悟るところがあって逆に自分のほうが救われた」という話をよく聞くが、カルチャーショックについても同じような面がある。

たとえば海外旅行が珍しかった大昔の話だが、外国の家の玄関で靴を脱ごうとしてその必要はないと言われた人がいた。

その人は最初は外国の習慣を目新しく感じていたが、そのうち日本家屋で靴を脱ぐことの不便さや利点などについて思いを巡らせるようになったという。

自国の文化についてのこのような再発見こそ有意義なカルチャーショックだ。


「外国」対「日本」に準じて、「昔」対「今」についても同じことが言えないだろうか。

以下に列挙するほんの数十年前の「昔」の状況と比較すれば、「今」の当たり前の状況はどう見えてくるだろう。

・冷蔵庫がないため、残ったご飯は腐らないようにざるに入れて風通しのよい軒下に吊るす。

・臭いがして食べられなくなったご飯でも、捨てずに水につけて糊として使う。

・食品に賞味期限の表示などないので、自分の視覚、嗅覚、味覚で判断する。

・テレビのある家に行ってテレビを見せてもらうが、深夜はもちろん昼間でも何の番組も放送されない時間帯が何時間かある。

・テレビは真空管式のため、映りが乱れると軽くテレビを叩けばなおる。長い時間見ていると真空管式のためテレビの筺体きょうたい(外箱)がかなり熱くなる。

・電話のない家は電話のある近所の家にかけてもらい、その家の人に呼びにきてもらう。電話連絡網には「(呼)~」とか「(次)~」とかいう形式でその家の電話番号を記す。(「呼び出し」「取り次ぎ」という意味)

・鉛筆削りで鉛筆を削れば鉛筆の材質が粗悪なので削りたての芯が1、2センチほどスポッと抜ける。何度削り直しても抜けて新品の鉛筆が短くなることさえある。

・ノートに鉛筆で書いた字は、紙が粗悪なため消しゴムがなくても唾でこすって消せる。

・学校の生徒用机の表面は滑らかでないので、テストの時は必ず下敷きを用いる。

・台風が近づくと必ずと言っていいほど停電になるので、ロウソクや懐中電灯がどの家にもある。

・ガラスのコップが粗悪なので熱湯を注ぐと割れることがある。またステンレス?のシンクに熱湯を流すとベコン!と割に大きい音がする。


「今」の状況が「当たり前」になるまでには、「奇跡の復興」と言われるまでに戦後の日本人が経済の発展や科学技術の進歩に懸命に取り組んだことを忘れてはならない。

50年たとうが100年たとうが、貧しさから脱却できない国も多いのだから。



●2019.1.15(火)思いやり

年若い同僚が仕事で席を立つ時、数日続いた残業のせいで余りにも疲れているようすだったので、代替を申し出たことがあった。

「大丈夫です」と出かけて行ったものの、肩の落ちたその後ろ姿を見ながら私は心の中で「頑張れ」と声援を送った。

今にして思えば、1時間程度の仕事を代わってやってもらうよりも、自分のために声援を送ったり祈ったりしてくれる人がいることのほうが、人はありがたいのではないかと思う。

世の中は「捨てる神あれば拾う神あり」で、逆境にあって孤立無援だと落ち込んでいる時でも、目に見えない応援者は必ず周囲にいると思いたい。


話は変わるが、終戦間際は毎日がドラマのような激動の日々だったろう。

ラジオドラマの『君の名は』のように、米軍の空襲が激しく今日会えた人に明日も生きて会えるとは限らないのだ。

その当時に比べると、現代の我々の日常は平板きわまりないように見える。

しかし、掘り起こしてみれば現代もドラマはそこここに隠れているかもしれない。

反抗期の子供が登校する時、見送る親は玄関の内側で「今日もこの子が一日無事でありますように」と祈っているかもしれない。

そして玄関を出た子供のほうも「いつも弁当、ありがとう。素直になれずにごめん」と心の中で詫びているかもしれない。


「ブス」という嫌な響きを持つ言葉があるが、附子(ぶす・ぶし)とはトリカブトの根から作る毒薬のことで、これを飲むと神経が麻痺して無表情になるそうだ。

愛想も何もないその表情のイメージから「醜い」という意味になっていったようだが、これは興味深いことだ。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみでなく無関心です」と言い、自身が設立した「死を待つ人々の家」で瀕死の人たちに「あなたも望まれてこの世に生まれてきた大切な人なのですよ」「あなたは一人ではありませんよ」「アイラブユー」と声をかけ続けた。

怒りや憎しみでさえ相手を見すえている。

無表情、無関心の裏にあるのはなんと冷たい心だろう。

私は毎日のように妻に声をかけられる。

「ガス代がもったいないからはやく風呂に入って」

ぶすっとしてはなるまい。



●2019.1.16(水)野狐禅やこぜん

道路のアスファルトの裂け目や歩道の敷石の継ぎ目にも雑草は生える。

種の落ちた場所に不平を言わず精いっぱい生きようとする、そのたくましさに頭の下がる思いがする。

何かの本で読んだ次のような一節も忘れがたい。

「そよ風に吹かれて人間が気持ちいいと感じるのなら、同じ風に吹かれて枝をそよがせている樹々も快さを感じていないと誰が言えようか」


植物と会話を交わせるようになりたいというのが私の究極の目標だが、それに近いことが一度だけあった。

ひと月ほど全く雨の降らない日が続いた夏のことだった。

職場の庭園に目をやると草木が水を欲しがっているように感じられて、犬柘植いぬつげ一叢ひとむらにホースで水をいた。

すると犬柘植たちの喜びが感覚として私に伝わってきた。

思いがけない不思議な感覚だった。


これは別の日のことだが、職場の中庭の溝に泥が数センチの厚さでたまっているのに気が付いた。

そこで、スコップですくうことにした。

すくうごとに泥を溝に沿って植えられている木々の根もとにかけるのだが、その作業を続けながら思った。

「すくい上げたこの泥は雨が降ればまた溝の中に流れこむだろうから、むなしい作業だな」

しかし、その思いが私には生活上の一種の悟りのようにも感じられた。

「それでもいいのだ。徒労にも似た凡事の繰り返しが我々の日々の営みのありようなのだ」


食事の時、昔はよく蠅が食卓の周りを飛び回っていた。

自分の皿に蠅が止まりそうになると軽く手を振って蠅を追い払う。

すると蠅は別の皿へ行き、家族がまた同じように追い払う。

それが食事の間中、繰り返される。

溝さらいと同様、これも大衆の生きる姿そのものだ。

「おのれ蠅め!」と立ち上がり、蠅たたきを手にしてどこまでも蠅を追いかけていく人は、大物か大馬鹿者かのどちらかだろう。



●2019.1.17(木)人の最期

文藝春秋社刊の『死にゆく者からの言葉』という本を紹介したい。

筆者はホスピスに長年勤めた女性である、

人が亡くなる前のいわゆる「お迎え」について見聞することがあるが、この本は筆者の体験の数々を収録したものである。

中でも私が最も心を揺さぶられたのは、小児ガンを患うみつぐ君という小学校2年生の男の子の話だ。


効果のない治療に残された日々を過ごすより、少しでも子供らしい時間を過ごさせたいと思って両親は貢君を家に連れ帰った。

友だちも学校帰りに立ち寄ってくれたりするので貢君は喜んだ。

夜は貢君を真ん中にして家族中が一緒の部屋に寝るのだが、連れ帰って2週間たった真夜中に貢君がそっと起き出した。

両親は不思議に思ったが、二人とも眠っているふりをした。

以下はそれに続く部分の同書からの引用である。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

貢君は、まず、一番小さい弟のところへ行きました。

そして、眠っている弟の頭にそっと両手を置きました。

そのままじっとしているのです。


しばらくたつと、彼は、静かに妹のところに移りました。

そして今度は、妹の右手を自分の手で包み、ゆっくりと妹の手をさすり始めました。


それから彼は母親の脇に座りました。

そっとそっと母の胸に右手を差し入れ、母の乳房の上に掌を置いて、小さい声で「お母さん」と呼びました。

貢君のお母さんは、涙が出そうになるのをこらえ、じっと体を動かさずにいるのがやっとでした。


最後に貢君は、父親の側へよりました。

父と並んで横になり、父の頬に自分の頬を寄せて、頬擦りをしました。

そして、思わず、大きな声で、「わぁ、お父さんの髭、痛い」と、叫んだのでした。


父も母も胸がいっぱいでした。

朝まで貢君の静かな寝息を聞きながらも、身動きひとつしませんでした。

貢君は、その朝8時に息を引き取りました。

彼なりの別れをきちんとすませた貢君でした。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

フィクションではなく、実話なのだ。

私は涙なくしては読めなかった。



●2019.1.18(金)時代の流れ

今では考えられないことだが、以前は家庭、職場、路上、いたるところで喫煙者はタバコを吸っていた。

私が高校生の頃は職員室へ行けばタバコの煙がたちこめていた。

会社でも仕事中はもちろん、会議中もお茶を飲む感覚でタバコを吸っていた。

そういう時代を知っている私でさえ、今は歩きタバコをしている人を見ると違和感を覚える。

バスが停留所に近づくと「バスが停まってからお立ちください」というアナウンスが流れる。

妊婦や足腰の弱った老人には特にありがたい配慮だ。


タバコやバスの問題に限らず、弱者への配慮はけっこうなことだと思う。

しかし、配慮がルール化すると自発的な気づかいがなくなっていく。

バスに乗った時は降車するバス停が近づくまでに少しずつ前に進んで両替も済ませておく、路上で横断歩道を渡る時は一旦停止して待っている車のために早歩きで渡る、などということを以前は自然な配慮としてやっていた。


社会学では「~である」ことを本質とする集団(例:家族)を自然集団と呼び、「~する」ことを追求する集団(例:会社)を機能集団と呼ぶが、どうも日本全体が機能集団寄りにシフトしつつあるように思える。

終身雇用に象徴されるように、昔は会社も自然集団の性格を持っていた。

学校は両者の性質を併せ持つべきだろうが、機能集団の側面が強くなりつつあるように思える。

そして現代は家族さえも契約を結びあっているような様相を呈してはいないだろうか。

子が成人したら家族契約は終了し、子は家を出て自活、親は家を売却して施設に入所という家族が増えていきそうに思われる。


ペットもレンタルできる時代になった。

職場の同僚で週末だけ犬を子供のためにレンタルする人がいた。

その家の子は、日曜ごとにペットショップに犬を返す時、どんな気持ちだったのだろう。

「この犬、ずっとうちで飼おうよ」と共働きの親に言い出せずに、泣く泣く別れたのだろうか。

それとも「また来週ね。バイバイ」と外連味けれんみなく手を振ったのだろうか。



●2019.1.19(土)レコーディング節酒

車をバックさせようとして運転席から後ろを振り向く時、首が回らなくなった。(貧乏のせいかもしれないが)

首に限らず、体のあちこちの柔軟性が失われつつある。

あの世には手が届きそうなのに、床には手が届かない。

「人間の体も車と同じで、年数がたてばあちこちガタがくるね」

妻いわく「そろそろ買い替えか廃車かしら」


血液検査の結果も惨憺たるものだ。

基準値の上限が150mg/dlの中性脂肪は毎年その数倍の数値が出る。

粗食を強いられて肉類はほとんど食べないのに不思議なことだ。

考えられる原因はアルコールしかないとねらいをつけた。

いきなり「禁酒」では立派すぎるので「節酒」に取り組んだ。

「週に2日は休肝日を」とよく耳にするので、1か月を4週とすれば月に8日だ。

飲酒しなかった日はカレンダーの日付けを○で囲み、月ごとにその日数を記録していくことにした。

開始1年後には最低限の日数を月8日から10日にアップした。

設定した日数をクリアしなければ自分がダメ人間のように思えてもう4年も続いている。

眉唾ものと思っていたレコーディングダイエットの意義を実感している。


私の妻はアルコールは飲めない体質だが甘いものは好きだ。

スーパーに行くたび、バラ売りの大福などを1、2個買い物籠に入れる。

「太るよ」と私は9ポイント活字程度の小さな声で注意する。

すると妻は「もう太ってるもん」と言う。

まるで居直り強盗だ。



●2019.1.20(日)案件の処理

極論すれば、メモは忘れるためにするものだ。

メモしないといろんな用件をずっと覚えておかなければならない。

翌日持って出かけねばならない重要な物がある時は、私はメモするだけでなくそのメモを靴の中に入れる。

そうすれば、寝ている間に忘れたとしても靴を履こうとする時に必ず目に入る。


メモは一か所に集約することが大切だ。

あちこちにメモすれば、その複数箇所のどこかのメモを見落としていないかを点検する煩わしさが生じる。

処理すべき順番に時系列でメモすることも有益だ。

一つの案件を処理した後次はどれに取りかかるかをその都度考えるという必要がなくなる。


仕事は質的に「より良く」仕上げねばならないが、案外軽視しがちなのは「より速く」というスピード感だ。

「いつまでですか?」「~までにやって頂けると助かるんですが」というやりとりは仕事にはつきものだが、依頼はなるべく早く処理したいものだ。

手元のメモの量がどんどん減少していくのは一種の快感だ。

こういうタイプの人はメモが空白になると、次の仕事を待つのではなく自ら探そうとする。


逆のタイプの人間もいる。

締め切りは英語ではdeadlineと言うが、その日までに終えないと自分の信用が地に落ちて死んでしまう。

そんな緊迫感を持たず、期限いっぱいまでにやればいいとゆったり構える人がいる。

仕事の効率の面からも相手への思いやりという面からも、私はそういう人の神経が理解できない。

このタイプの人は仕事がたまって忙しくなるはずなのに、そうはならない。

しだいに仕事を依頼されなくなり、逆に暇になる。

「急ぎの仕事は忙しい人に頼め」というのは、けだし名言だ。


なお、仕事を頼んできた相手によって処理速度を変えてはならない。

上司からの依頼はすぐに実行するが同僚や部下からの依頼にはなかなか手を付けないというのでは、仕事以前に人間性が疑われる。



●2019.1.21(月)腹ふくるるわざ

思い出は言葉によって定着し固定されるように思う。

思い出を人に話す時、毎回同じような表現で語ってはいないだろうか。


もともと「こと」と「こと」は同義である。

「言=事」に基づく言霊ことだま信仰は、現代においても結婚式での忌み言葉のような形で残っている。

不吉な言葉をつかえば不吉な事が起こるという心理だ。

反対にめでたいことを言って福を呼び込もうとするのが萬歳(漫才)のルーツの「言祝ことほぎ」(「寿ことぶき」の語源)である。


人と話す時は不吉な言葉は避けてほめ言葉をつかうように心がけるのが賢明だが、逆に中高年の客に毒舌を浴びせて笑いをとる芸人がいる。

不吉なことを言って福を呼び込む見事な話術である。

その中高年の客は、毒舌で指摘される自らの弱点を笑うことによって凝り固まっていた引け目がほぐされていくのだろう。


内に秘めている個人的な思いは自分の死とともに消滅する。

それを耐え難く思う人は日記や小説などを書いて形あるものにしようとするのだろう。

日記や小説で留まっているうちはいいが、喜怒哀楽の情動が受容の限界を超えることがある。

「哀」や「怒」が一気に噴出すると暴力や殺人へとエスカレートしてしまう。

昔の人が「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言ったようにガス抜きが必要だ。

「竹林の七賢」の清談も、その内容は憂さ晴らしのようなものだったという。


ふと傍らを見ると妻がポテトチップスを食べながらテレビを見ている。

「物食うは腹ふくるるわざなり」とぼそりと呟いてみた。

すると市川団十郎ばりの眼でにらまれてしまった。

「よっ、成田屋!」と思わず声をかけるところだった。



●2019.1.22(火)言葉のズレ

「私は嘘つきです」

この発言者が嘘つきか正直者かを論理的に判定できないのは面白い。


問われたことに対してピントをずらして答えるのも面白そうだ。

「無人島に置き去りにされることになって、何か一つ持って行けるとしたら何か?」

「モーターボート」


「今から電気椅子で死刑を執行する。神父に懺悔ざんげすることはあるか?」

「最後ぐらいは良いことをしたいので、この席をお年寄りに譲りたい」


ズレと言えば、直接の対話と違ってメールやネットの書き込みは誤解を生じやすいということが問題になる。

しかし、私に言わせればそれは誤解ではない。

声の抑揚も分からず表情やしぐさなどのボディランゲージもつかえないのだから、書きこんだ言葉の意味する表面的な内容がすべてなのである。

笑って肩を叩きながら「お前はアホか」と言うのと「お前はアホか」というメールを送るのは、同じノリの発言であったとしても相手の受け取り方はズレる可能性がある。


ネット上のズレでもっと深刻なのは優しい言葉を投げかけられる場合だ。

悪意をもって意図的にそうする場合があることも想定しなければならない。

相手が見えないネットの世界は実に恐ろしい。

私のようなむくつけきオヤジがキュートな女子高生を装うことも十分に可能なのだ。

胸を張って呼ばわることではないが。


イエスまたはノーで答えるべきところをはぐらかす人がいる。

国会の言い逃れの答弁などは実に腹が立つ。

しかし正反対のケースもある。

職場の先輩が大規模なプロジェクトの長に任命され、1年間、職務に忙殺されたことがあった。

プロジェクト終了後の飲み会で聞いてみた。

「毎日3時間くらいしか寝られなかったんじゃないですか?」

返ってきた言葉はイエス、ノーではなかった。

「あまり寝れませんでしたね」

笑顔でそう言う先輩の奥ゆかしさに私は感動した。



●2019.1.23(水)天邪鬼

たいていの人間は天邪鬼あまのじゃくだ。

「君、かわいいね」と言えば顔を赤らめて「そんなことないですよ」と打ち消すだろう。

だからと言ってその女性に「君、あんまりかわいくないね」と言えばにらまれるだろう。


その心理を利用して自分の意見に賛同してほしい時は逆の問いかけ方をすればよい。

これはビジネスでも使える知恵だ。

「この仕事を頼みたいんだ。君、ひまだろう?」

「この仕事を頼みたいんだけど、君、忙しそうだから無理かな?」

どちらが気持ちよく引き受けてもらえるかは明白だろう。


簡単なテクニックだが世の中には手強い天邪鬼もいる。

うちの妻などその最たるものだ。

どっちに転んでもいいように「夕食は肉でも刺身でもいいよ」と言ったとしても、「畑の肉の刺身」と称して豆腐のスライスを出してきそうな気がする。

私は「唯々諾々いいだくだく」を家庭力学の第一法則としているが、時折は神を恨みたくなる。

「神よ、私はバベルの塔など建てたこともないのに妻と言葉が通じなくなってしまいました」

仏像を安置する寺院で天邪鬼は四天王に踏みつけられているが、家庭で天邪鬼に踏みつけられている私はいったい何なのだろう。



●2019.1.24(木)今昔物語

印象深かった漫画のストーリーを紹介したい。

ずいぶん前に読んだので本筋以外は私の脚色が多分に入っている。


江戸時代の末期、飢饉ききんで食べるものがなくなった農民の田吾作が納屋の梁に縄をかけて首をくくった。

しかし、縄が切れて田吾作は落下し、土間で頭を打って気を失う。

失神している間、田吾作は現代へタイムスリップする。

以下は田吾作が見た夏の夕食時の光景である。


母親がキッチンから子供に声をかける。

「ダイニングルームのエアコンと電気を付けて。テーブルもセットしてね」

家族そろっての食事が始まる。

「ママ、ボクもう食べたくない」

「お菓子ばっかり食べるからよ。あら、また人参とピーマンを残して!」

夕食が終わり母親は子供の食べ残しをシンクの三角コーナーに捨てて皿洗いを始める。


ここで田吾作は息を吹き返した。

たまたま通りかかった隣家の権兵衛が、気絶している田吾作を見つけて介抱したのだった。

「おお、権兵衛か。おらは不思議な家を見てきた。その家は夏なのに暑くなく春のように爽やかで、夜なのに昼のように明るくまぶしくて、食べ物は食べたくないくらいあって捨てたりしていた」

それを聞いた権兵衛が言う。

「おめえは頭を打って悪い夢さ見たんだべ。そんなことがこの世にあるわけなかんべ」


わずか150年ちょっと前の田吾作たちが見れば、私たちはこの世のものとは思えない暮らしをしているのだ。

スーパーで安く手に入るノルウェー産の鮭やオーストラリア産の牛肉も、江戸時代なら将軍でさえ食べられなかったものだ。

江戸時代とまでいかなくても身のまわりを見渡せば今昔の感に堪えない。

箱入りのティッシュペーパーが発売された当初は高価で、我が家では買えなかった。

それが今は家のあちこちに無造作に置かれている。

トイレットペーパーも昔はなく、落とし紙(この言葉自体が世界遺産みたいだ)を使っていた。

貧乏だった私の家では落とし紙どころか新聞紙を……、ひんを落とす話はやめておこう。



●2019.1.25(金)持ち越し苦労と取り越し苦労

仏教は「執着を離れよ」と教える。

「物事にとらわれるな、そうすれば自由になれる」ということなのだろう。


つまらない例だが、タバコをやめたら身軽になる。

男性は女性みたいにハンドバッグを持たないのでタバコ、ライター、簡易吸い殻入れはわりとかさばる。

外出の際にはその3点セットを忘れていないかに気を配らねばならない。

車を降りて磯の遠い釣り場まで歩き、まず一服と思った時にタバコを忘れていたことに気づいた知人がいた。

どうしてもタバコを吸うことに執着して知人は長い時間をかけて取りに戻った。


未開部族の人々にカメラを向けると魂を抜かれるからという理由で撮影を拒否されることがあるという。

私は思うのだが、はたしてその拒否は未開がゆえだろうか。

霊能力者は心霊写真や行方不明者の顔写真を見てあれこれと情報を読み取ることができるようだ。

そのことは、写真になにがしかの魂が投影されていることの証左と言えるかもしれない。


写真でさえそうならビデオはその比ではないだろう。

私はビデオカメラを買ったことがない。

我が子が自分より先に死んだ場合、魂云々はおくとしても、幼い我が子が生きて動いている動画を見るたびに執着心が強まるように思う。

それは亡き子のクローン人間を望む親の心理と同じであり、結果、死んだ子もやがて死ぬ親も往生できないような気がしてならない。


執着とは具体的に言えば「持ち越し苦労」と「取り越し苦労」なのだろう。

過去の悩みを引きずり、持ち越して悩むのは意味のないことだ。

同様に、未来のことを取り越して起こってもいない不幸を気に病むのも愚かなことだ。

余計なことは考えずに1日1日を充実させて生きたいものだ。

学生時代のクラスメートに、「私、いつ死んでも悔いはないわ」と言った女性がいた。

確かにそうだろうと感じさせるような、生き生きと輝いていた人だった。



●2019.1.26(土)神もカントもないものか

ある父子家庭の話である。

小学生の男の子が「お腹が空いた」と何度も言うものだから、父親は町なかの食堂へ連れて行った。

「好きなものを注文しろ」

「お父さんは?」

「お父さんはお腹が空いてないんだよ」

子供が食べ終えると、父親は子供に先に帰るように促した。

店を出た子供は一つ先の角で父親を待っていた。

すると、店の主人が父親を外へたたき出し、踏んだり蹴ったりし始めた。

そのわけを悟った子供は、「貧乏ってこんなに辛く情けないものなのか」と涙を流したという。


この親子の無銭飲食にしても、イタリア映画の『自転車泥棒』にしても、昔の犯罪は「貧しさゆえに切羽詰まって」という側面があったように思う。

それに比べて、現代の犯罪はどう考えればいいのだろうか。

いくら感嘆しても感嘆しきれないものは「天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」だとカントは言った。

しかし、振り込め詐欺や被災地の空き巣犯の心の内にそんな道徳律があるとはとても思えない。


せめて星の輝きだけは永遠であれと祈りたいが、それもあやしいようだ。

「我々の銀河とアンドロメダ銀河が衝突して60億年後には一つになるってさ」

テレビで仕入れた知識を妻に披露してみた。

「フーン」

「でもね、銀河内の星の密度は広い太平洋に西瓜が2個浮かんでいる程度だから、銀河どうしが衝突しても心配ないみたいだよ」

「フーン」

妻が気乗りしないので私は少し意地悪なことを言ってみたくなった。

「でもね、その時には太陽は燃えつきていて人間はとっくに滅びているんだよ」

妻はもっと意地悪だった。

「もっとずっと前にあなたが燃えつきるわよ」



●2019.1.27(日)さもしい平次

何もせずに家でじっとしているだけでもお金は出ていく。

家賃もしくは固定資産税、電気・ガス・水道の基本料金等々。

空気は無料なのがしみじみありがたい。


「待てよ、富士山頂の空気の缶詰めなんてものがあったな。○○高原の水とかも売ってるな」

突然、金儲けのアイディアが閃いた。


地方に行けば、犬小屋程度の大きさの無人販売所を道路ばたに見かける。

ビニール袋に入った1袋100円程度の野菜や果物が置いてあるのだが、ドライブ中の人たちに水を販売したらどうだろう。


自宅の水道水をペットボトルに詰め、超安値で提供するのだ。

ネーミングを「~県~町の水」とすればご当地土産にもなりそうだ。


このアイディアを私が小さい頃に思いついていたなら、「なんて恐ろしい子!」と驚愕の目を向けられたかもしれない。

しかし、今さら言い出しても「なんてさもしいオヤジ!」と罵倒されるのがオチだろう。


オヤジでなく貧乏学生だった頃、私は畳と畳の間の隙間を爪楊枝でまさぐって10円玉の1枚でも挟まっていないかと探したものだった。

私の根性はその頃からさもしかった。


そんな私が銭形平次なら、勿論お金は投げない。

平次の投げる寛永通宝の実物を見ると、投げつけられてもそんなに痛いとは思えない。

現在のお金に換算すれば1枚が25円ないし100円に相当するようだから、投げるほうの懐が痛むだろう。



●2019.1.28(月)小百合と鬼百合

懐かしいダジャレがふと口をついて出てきた。

「ドキがムネムネする」

妻いわく、「心筋梗塞じゃない?」

「このダジャレ、知ってた?」

「モチのロンよ」

妻もけっこう古い。


妻の側で寝そべったままオナラをすることがある。

「この緊張感のなさ、これが夫婦なのだ」としみじみ思う。

ドキがムネムネする恋人の前では、こうはいかない。


恋人どうしでいれば楽しくはあるが緊張もする。

夫婦になれば緊張感がなく気楽である。

恋人から夫婦への移行は単なる延長ではなく、人間関係の質の転換だ。


「人生は旅だ」とよく言うが、確かに色々な面で似ている。

薄紫色に霞む山並みも、たどり着いて分け入ってみると近所の山と同じだ。

馬や牛が放牧されている草原も、歩いてみるといたるところに馬糞や牛糞が転がっている。

それと同じで、幻想をまとった恋人も結婚してみれば、現実の生身の男であり女に過ぎない。


ずいぶん前のことになるが、ゴールデンウイーク中に車で遠出したことがあった。

ところがひどい渋滞にはまり、妻も幼い子供たちも車内でぐったりしていた。

ふと窓の外を見ると、民家の庭先で女の児たちが楽しそうにゴムとびをしている。

それを見たとたん、メーテルリンクの『青い鳥』を思い出したことだった。


身近な幸せに気づくには諦観ていかんし、諦観たいかんする必要がありそうだ。

「この妻がもし吉永小百合だったら、気楽にオナラもできないだろう」

妻を見ながら自分にそう言い聞かせる。


「自分がオナラしといて何で私を見るのよ!」

身近な幸せを噛みしめるには時間がかかりそうだが、鬼百合も嫌いではない。



●2019.1.29(火)スローなラストスパート

人間は年を取るにつれて情報のフィードバックが円滑にいかなくなり、思考が単線型になっていくようだ。

『水戸黄門』などの分かりやすい勧善懲悪型のストーリーを好むのもそのせいだろう。


物事の判断や処理も、本人にとってベストと思われる考え方一本でいくので周囲には頑固一徹に映る。

残された時間が少ないことを本能的に察知するからかもしれないが、年を取ったら単純なだけでなくせっかちにもなるようだ。


読書というのはマイペースの世界で、読むスピードを思いどおりに変えることができる。

しかし、テレビはそうはいかない。

「まだるっこしいから、もっとはやく話を進めろ!」

こんなわがままは通らないのでせっかちな人は録画して早送りで見たりする。


知人に格闘技系の種目でオリンピックに出場した人がいるがキックボクシング系のTV番組は見ないという。

意外に思って理由を聞いてみた。

「あの人たちは生活をかけて殴り合いをしているんです。それを思うと面白がって見る気にはなれません」

私もいつからか警察官に密着して犯罪現場をルポするような種類の番組は見る気がしなくなった。

リアルな生臭い場面は自分の実人生でもできれば避けて通りたい。


音楽も激しいロックなどはもう感覚が受け付けない。

生きる時間感覚とリンクしているのか、クラシックとまではいかなくてもゆったりとした音楽に癒される。

上に述べたせっかちさとは矛盾しているようだが、結局、我々年配の者はスローなラストスパートを必死にやっているのだろう。



●2019.1.30(水)Time goes by

シューマンの「トロイメライ」を聴いて題名通りの夢見心地に誘われつつ、「ずっと聴いていたくてもこの美しい旋律は一瞬もとどまることなく消えていくのだな」という感慨に耽った。

音楽は時間芸術だから時間的に停滞しないのは当然だが、音階的にも移ろい続ける。

電子ピアノで「ド」なら「ド」の音をずっと響かせ続けて演奏会を終わらせるわけにはいくまい。


「諸行無常」を持ち出すまでもなく、あらゆるものは時間とともに変化していく。

平らにならした造成地も放置すれば、草が生え、雨水の流れる道筋ができ、大げさに言えば山あり谷ありの地形になっていく。

アダムとイブは知恵の実のリンゴを食べて恥じらいを知ったというが、もっと大切なのは時間の概念を知ったことだと考えられないだろうか。

時間の概念の認識こそ知恵の根源であり、動物と人間とを峻別する特徴と言えそうだ。

時間というものを知れば存在と時間が不可分であることを悟り、時間の不可逆性からして物事の進行には順序があることを知るだろう。

こうしてアダムとイブは、神ならぬ身の自分たちの存在の時間進行には終わりが、つまり死が訪れることをも悟ったはずだ。

人間以外の動物は死という事態が理解できず、我が子が死んでも死骸の傍をある程度の時間うろつきまわる。


私に残された時間もそんなに長くはないだろう。

さだまさしの「関白宣言」を気取って臨終間際に妻に「涙のしずく、二つ以上こぼせ」とでも言おうものなら「どの口が言ってるのよ!」とつねられそうなので黙って逝く覚悟だ。

「お前のおかげでいい人生だった」と言えるように自己暗示に励んでおこう。



●2019.1.31(木)失楽園

同窓会に出席するとまざまざと時間の経過を感じさせられる。

中には恩師より恩師らしい風貌の級友もいる。

そんな面々を見て天邪鬼の私はつい口にしたくなる。

「変わりはてたねえ」

あるいは「変わりばえしないねえ」

しかし、本音は人を傷つけるので大人の対応をしなければならない。

「変わったねえ、見ちがえたよ」

「変わらないねえ、羨ましいよ」


「過去に戻れるなら、いつがいい?」

これも時々話題にのぼる。

私の答えは小学校3、4年のころだ。

前話でアダムとイブが時間を知ったという考えを述べたが、その説は我々個人の歴史についても言えそうだ。

小学校高学年の年頃から思春期に入るが、性への目覚めは種の保存の意識への目覚めと直結する。

人間がなぜ種の保存を意識するのかといえば、時間を知ってしまった自らに死が訪れることを察知するからだろうと考えられる。

そして子供は中学、高校と進むにつれて、高橋和巳言うところの「いかんともしがたい性の噴出」をはじめ、諸々の懊悩、不安に巻き込まれていく。

私はそんな青春時代に戻りたいとは思わない。

照りつける太陽の下、時を忘れて川中で藻をかき分けながらメダカを追った小学校3、4年生の頃が私にとってはエデンの園だった。


スマホの着信音が鳴る。

街に出かけたイブからの電話だ。

「遅くなるから、あるもので適当に食べといて」

失楽園の悲しみはアダムだけが負わねばならないのだろうか。



●2019.2.1(金)特殊な能力

TV番組で知ったが、脳の損傷によって目に映るもの全てが数学的な図形として見える人がいるという。

事故によって発現した特殊な能力だそうだが、一流の芸術家についても同じようなことが言えそうに思う。


音楽家は、自分の心に生起する情動を音階として感じ取るのではないだろうか。

画家もそれぞれ独特の感覚を持っていると考えられる。

ゴッホの描く、陽炎のようにうねる空気感は誇張ではなく、彼の眼にそのように映ったのではないか。

彫刻家ジャコメッティが制作する細い人物像もデフォルメでなく、対象を見つめ続ければあのようにしか見えないと本人が語っている。


私たち一般人も案外独自の感覚を持っているかもしれない。

私の場合は大げさに言えば、世界の座標軸のどこに自分が位置しているのか、自分が出会う人や自分に起こる出来事はどんな意味を持っているのか、そんな感覚で周囲を見ているように思う。


そういう私が衝撃を受けたのは、ピカソが「二十世紀最後の巨匠」と評したフランスの画家バルテュスの「街路」という絵だ。

街なかを行き交う人々はにこやかに笑みを浮かべているにもかかわらず、人間は本来互いに没交渉なのだということを感じさせる。

笑顔すら無表情に感じられてくる。

画面には中年男が少女を襲っている(ように見える)部分もあるが、その両者は完全に無表情だ。


妻が掃除機を手にして無表情で私の側に立つことがある。

私は特殊な能力で「邪魔だ、どけ」という声を聞き取り、無表情で移動する。

家庭内の座標軸における位置関係や力関係を私はしっかりと把握できている。



●2019.2.2(土)三大本能

生きるためには他の生命を食べなければならない。

一見生命など意識させない小麦粉にしても、もとは命ある小麦だ。

私は生命をリアルに感じさせる食べ物が苦手だ。

たこ焼きに入っているタコの吸盤が大きかったら、ちょっと気味が悪い。

焼き鳥のレバーの断面にある、血管か何かの痕跡と思われる穴を見ると食欲がなくなる。

モツ類は論外で、生きるための器官そのものが持つ生々しさに圧倒される。

食べ物の中で他の生命を原料にすることなく完全に人工的に作られている食品はないものだろうか。


現代は本能がむき出しの時代で、そしておかしな方向へ向かっている気がする。

食欲の面ではグルメ番組が花盛りだが、どうかと思うのは、大食い選手権やどれくらい辛いものを食べられるかというような企画だ。

食べることの苦痛を競い合い、視聴者はそれを面白がっている。

飢餓に苦しんでいる人たちが見たらどう思うだろう。

性欲についてもアダルト向けの低劣な動画や画像が溢れている。

本能もここまでくれば煩悩と言うべきだろう。

池波正太郎の『剣客商売』などを読むと、江戸時代の一般庶民の食べ物の描写に健康な食欲が刺激される。

性欲の描写も、吉行淳之介ほどの達人になれば俗性を離れる。


食欲と性欲について述べてきたが、人間の三大本能の残る一つは何か。

この答えが分からない人がいるくらい、睡眠欲は軽視されているように思える。

ベッドに縛り付けた人間のまぶたを閉じられないようにしておいて、水滴を一定間隔で落とし続けるという拷問がある。

その眠れない拷問を受ける人が同時に食べ物も与えられていないと仮定してみよう。

睡眠欲と食欲を極限まで奪われた人が解放された時、どちらをまず満たそうとするかは想像に難くない。

この重要な睡眠欲にターゲットを絞った事業をいろいろと企画してはどうだろうか。

安眠できる枕や快適なベッドなどとは異なる方面の展開も考えられそうだ。



●2019.2.3(日)つましい生活

「なくて七癖、あって四十八癖」というが、私は字を書く時にペンを持つ手と反対側に首を傾ける癖がある。

私の母は、スーパーで食料品を見て回る時、手を口もとに当てたり軽く頬に添えたりしていた。


夕食前のスーパーの食料品売り場は生活感にあふれている。

食べたいものをためらいもなく選ぶデパ地下の客と違って、少しでも安く美味しいものをとめつすがめつ見て回っている。

母と同じポーズで品定めをしている主婦を目にすることもある。

ご主人に刺身を食べさせたいのだろうが、値札を見て立ち去る主婦を見かけたりすると身につまされる。

私が大金持ちなら「お好きなものをお買いなさい」とお金を配って回るのだが、そんなことを思ったりする。


かなり前のことだが、鈍行の夜汽車の窓ごしに、窓を開け放した沿線の家の夕食風景が見えたことがあった。

裸電球の下で家族がちゃぶ台を囲んでいた。

お父さんはランニングシャツ姿でビールを飲み、いがぐり頭の子供たちは母親にご飯をよそってもらって食べていた。

「人の世の幸せはここにある」

私はその団らんの輪に入りたい衝動にかられた。


町はずれのバス停で下車する清楚な装いのOLの後をついて行きたくなる時もある。

アパートに帰り着いた後は質素な食事を済ませて風呂に入り明日の仕事に備えて早めに床に就くのだろう。

そんな生活の様が目に浮かび、その女性の幸せを祈りたくなる。

流行のファッションに身を包み、街なかのマンションに帰宅する女性には興味を惹かれない。


どうも私は、慎ましやかな生活に目が行く傾向があるようだ。

甲斐性のない私に嫁いだばかりに、ショッピングに出かけても安い服ばかりを見て回る妻のことも不憫に思う。



●2019.2.4(月)外見と内実

すりや引ったくりなど、現代の犯罪者が路上で狙うのは殆どお金である。

昔は「追いはぎ」という言葉があるように着ている服もはぎ取られた。

時をさかのぼれば服は貴重品だったのだ。

古典文学では、「かづけもの」として衣服(あるいは生地)を目下の者や部下に与える場面がよく出てくる。


それにしても時代の変遷には驚かされる。

私が子供だった頃は現代の家庭にある高価なものは殆どなく、あるのは生活必需品ばかりだった。

服を買ってもらえるのは年に1、2度あるかないかだった。


最近は「Gパン」と言ったら笑われるのかもしれないが、学生だった頃、乏しい所持金を割いてGパンを買ったことがある。

貴重品のそのGパンをはいて初めて街へ出た時、すれ違う人が皆私に注目しているように思えた。

この無用な緊張感からくる窮屈さに歩きながら腹を立てたことを覚えている。

人間的価値とは無関係な外見にとらわれている自分を嫌悪したのだ。


休日の繁華街に行くと、若い男女が装いを凝らして歩いている。

乾坤一擲けんこんいってきのオシャレをして出てきたのだろうが、すれちがう人のファッションなど人はそんなに見はしない。

しかしそれは気安く服を買えない青春時代を送った私の僻目ひがめなのだろう。

大量消費時代の今、「どの服にしようか、どの靴にしようか」と若者が心を弾ませるのは微笑ましくもある。


いい筆記具が欲しくなり、思い切って3000円のボールペンを買った時のことを思い出す。

芯を買い替える段になって、ボールペンの価値は芯の品質によるという当たり前のことに気づいた。

替え芯の値段は100円のボールペン用でも3000円用のものでも大差はない。

それなのに私は3000円のボールペンは100円のペンの30倍も書き心地がいいような錯覚に陥っていた。


みてくれに惑わされてはならない。

たまに会う恋人は化粧の効果で美しく見える。

さらに「恋は盲目」というマジックによって「あばたもえくぼ」だ。

ところが、結婚するとアナログから地デジへ移行する。

結婚して半年も経つと4K、8Kの世界に突入し素顔の毛穴まで見えるようになる。


しかし、話を覆すようだが「みてくれ」に惑わされるのは当たり前と言えば当たり前だ。

「これはいいものなんだ、見てくれ!」と見せびらかすところから出来たのが「みてくれ」という言葉なのだから。

しかし、しかし、再度強調するが「みてくれ・外見」より大切なのは「中身・心」のほうだ。

「中身・心」を「見てくれ!」と言いたいものである。

しかし、しかし、しかし、不幸な夫婦はその「中身・心」も「見せないでくれ!」と言いたい時がある。



●2019.2.5(火)真の豊かさ

テレビでスポーツ観戦をしていると、地味に印象的な場面に出くわすことがある。

ある大学スポーツの優勝チームの主将は「優勝して当然の練習を重ねてきた」と言って、とくに嬉しそうでもなく淡々とインタビューに答えていた。

連覇を重ねている高校生チームの優勝時のコメントで「自分たちの代で連覇が途切れなくてほっとした」というのもあった。

それらとは対照的に弱小チームが1回戦に勝利してはしゃいでいる姿を見ると、どちらが幸せなのだろうかと複雑な気持ちになる。


極限を求めれば一般の人間には無理がくる。

スポーツに限らず、現代の社会は他人を出し抜く生存競争に疲れ果てているように見える。

商売の世界では、正月の初売りは1月2日からという不文律が長い間続いていた。

それが近頃は正月用の福袋も年末から売り出す始末で、それを異常だとは誰も思っていないようだ。

せめて元日だけは国民全てが仕事を休むというコンセンサスが欲しい。

そうすれば、年始回り以外はどこに出かけようもなく、昔のような家庭団らんの正月風景がよみがえるだろう。


ヨーロッパの学術調査団がアフリカのある狩猟部族と接触し、彼らが1日に3時間しか狩りをしないことを知った。

「どうしてもっと働かないのだ?」

「もっと働いてどうなるんだ?」

「我々のように豊かな暮らしができるぞ」

「豊かな暮らしとは何だ?」

「楽ができて余り働かなくてすむんだ」

「それなら今の俺たちと同じじゃないか」

笑い話のようだが、考えさせられる。



●2019.2.6(水)リスクとリターン

バブルの頃、私の同僚が東京に出張した時、為替かわせディーラーをやっている友人の誘いで高級料理店に入ったそうだ。

食事を終えて「ワリカンにしよう」と申し出ると、「お前に払える額じゃない。」と言われておごってもらったという。

またこんな話も為替ディーラーが書いた本で読んだ。

株取引の相場を読み誤って株価が急落し、パソコンの画面上で巨額の損失が次から次に計上されていく。

「サーッ」というかすかな音が聞こえたので周囲を見渡すが、他の社員はいない。

それは自分の血の気が引く音だったという。

小遣いのアップを狙って妻にすり寄るハイリスク・ローリターンの私と違って、為替ディーラーはハイリスク・ハイリターンの世界だ。

為替ディーラーとは「さまざまな通貨を客の要望に応じて売買する人」だが、無知な私にはそもそもお金を売り買いするというのがどうも不自然に思えて理解できない。


しかし、パソコン1台でお金をやりとりすることに私がいくら違和感を覚えようと為替ディーラーは合法的で立派な職業だ。

一方、電話1本でお金を稼ぐ非合法な特殊詐欺をはたらく輩に対しては違和感どころか激しい怒りを覚える。

悪事をはたらいて得たお金で贅沢をして楽しいのだろうか。

哀れなことに、人間性をなくした彼らは恐らく楽しいのだろう。

妙好人みょうこうにんの爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。

妙好人とは、貧しく学もない浄土系在家信者でありながら悟りを開いたかのような境地に至った人のことである。

以下、ネットで拾った江戸時代の妙好人の言葉を現代語に訳していくつか紹介しよう。

( )は私の感想。


・やどかりが自分の殻を自分だと言ったらおかしいが、人間は自分の殻を自分だと思っている。

(私に偉そうな肩書きがなかったのは幸いだった)


・暗闇の中に宝があっても、つまずくだけである。

(酔っぱらって帰宅し廊下で寝ている私のことではないようだ)


・「はい」は漢字で「拝」と書く。

(妻に対する私の返事は「敗」と書く)


・目をあけて眠っている人を起こすのは難しい。

(うちの息子は薄目をあけて寝るくせがあるが、ここは勿論そんな意味ではない)


もう一つ、妙好人の話を紹介しよう。

とんでもない悪妻なのに誠心誠意つくす夫がいた。

見かねた周囲の人がわけを聞くと、「妻は救われずに地獄へ行くでしょうから、せめてこの世にいる間だけでも楽をさせてやりたいのです」と答えた。

この夫の言葉を人づてに聞いた悪妻はその後態度を改めたという。

私は妻への尽くしかたが足りないようだ。



●2019.2.7(木)言葉の意味

古いビルのトイレに入った時のことだが、和式の水洗便器のそばに「用がすんだらペダルを動かして水を流してください」との注意書きがあった。

低い位置にあるペダルなのにどうして「ペダルを踏んで」と書かないのだろうと思い、いろいろと試してみて納得した。

足で踏み下げるだけでなく、手で握って上でも手前でも奥へでも、とにかくペダルを動かしさえすれば水は流れた。


私が時々行くスナックのトイレには個室が二つあり、男性の姿のトイレマークプレートが付いた個室には立ち小便用の便器があり、女性の姿のマークプレートが付いた方には普通の洋式便器がある。

ある時、トイレへ行くと男性用トイレのドアにママさんの字で注意書きが貼ってあった。

殿方とのがたへ。大は女性用トイレでお願いします」

意味が分からず、はてなと思ったが、一瞬のちに笑いがこみあげてきた。

男は男性マークの個室にしか入ってはいけないと思い込み、小便器で大の用をたした客がいたのだろう。

まさに「墨守ぼくしゅ」である。

小便器で大きいほうの用をたしている姿を想像したら、おかしさが倍増した。


以前はよく使っていた言葉でも、新しい世代の人には意味が分からなくなりつつあるようだ。

しつけの行き届いていないわがままな児童がいるので、先生が面談で「お母さん、『かわいい子には旅をさせよ』ですよ」と示唆しさしたところ、若い母親は「わかりました!」と言って夏休みに子供と一緒に旅行を楽しんだそうだ。


「おととい来い」という言葉もあまり聞かれなくなった。

昔は台所によくネズミが出没した。

各家庭では「ネズミ取り」と呼ぶ金網製のカゴでネズミを捕えて、カゴごと海や川に沈めて駆除したものだ。

私の同僚が小学生だった頃の話だが、父親からネズミの入ったカゴを渡され、「『おととい来い』と言って沈めてこい」と言われたそうだ。

小学生だった同僚は「おととい来い」の意味がよく分からず、「また来いよ」とか「さようなら」とかいうような意味だろうと思って、紐を付けたカゴを川に沈める時、「おととい来~い」とネズミに優しくささやきかけたという。

「おととい」は過ぎ去った日だから、その日に来ることは不可能だ。

従って「おととい来い!」とか「おととい来やがれ!」というのは「二度と来るな!」という怒気を含んだ言葉であり、優しくささやく言葉ではない。


最近、妻と医療保険の話をした。

「僕がガンになったら、手術代の負担はどれくらいだろう?」

「手術するの?」

寸鉄すんてつ人を刺す」という言葉は妻のためにあるようなものだ。



●2019.2.8(金)真逆

このエッセイのコンセプトと言えば大げさだが、見落としがちな日常の些事を拾い上げたり、物事を違う角度から見たりしてみようと心がけている。

違う角度という点に関して言えば、思い切って真逆から物事を観察してみるのは頭のトレーニングに最適だ。

以下、「真逆」という観点からいくつかの話をアトランダムに並べてみよう。


頭がハゲかかった人の負け惜しみ。

「髪の生え際が後退しているんじゃない。額がせり出してきたんだ」

かつての同僚に頭がハゲていてあごヒゲの濃い男がいたが、奥さんに次のように言われたという。

「クルッと上下さかさまに回転しないかしら」


歩いている時につまずくことがある。

これも加齢による足の衰えではなく、若々しくはやっている気持ちに足が付いて来れないのかもしれない。

またある時、楽をしたいと思って両手を腰の後ろに当てて腰をグイッ、グイッと前へ押し出すようにしながら歩いてみた。

物理的には作用・反作用の法則がはたらくから無意味なのだろうが、気分的には得をする感じがした。

ただし、この実験は誰も見ていないところでやるほうがいい。


コンビニの駐車場にバックで車を停めようとした時のこと。

バックし終えてブレーキを踏んだが車が止まらずにバックし続け、「店に突入する!」とヒヤッとしたことがあった。

それは錯覚で、私が停め終えると同時に隣の車が前進し始めたために、停止した私の車がまだバックし続けている感覚に陥ったのだった。


自転車にまたがると「動く歩道みたいに道路のほうが動いてくれれば楽なのに」と思うことがあるが、そんなゲーム台が子供の頃にあった。

台に取り付けてあるハンドルでガラス箱の中のジープを操縦するゲームで、道路の方がベルトコンベア式にスクロールされていく仕組みだ。

しかしプレイするほうにとっては、曲がりくねった道を自分がハンドルをきって右へ左へと進めているように感じられたものだった。

現在、我が家では、私がジープになり、ハンドルは妻が握っている。

しかも運転が荒い。



●2019.2.9(土)無視できない虫

「夏と冬とどちらが嫌いか」と問うと、たいていの人は夏の暑さが耐えがたいと言う。

暑いだけでなく、夏はお化けをはじめとして嫌なものがいろいろと出没する。

私は蛇が嫌いだ。

たいていの人が本能的に蛇を怖がるのは、蛇には足が1本もなく人間と余りにかけ離れた姿だからだと聞いたことがある。

蛇とは反対に足が多すぎるムカデもたまらない。

寝ている人の耳の穴に入ることもあると聞いた時は総毛だった。


ゴキブリも大敵だ。

退治しようとした時に逆にこちらに向かって飛んでこられたらこの世の終わりかと思う。

そのゴキブリについて耳寄りな話を仕入れた。

ゴキブリは狭い隙間にしか住まないそうだ。

壁と家具の間など、とにかく全ての隙間を5㎝以上にするとゴキブリはいなくなるという。


夏になると路上で干からびているミミズの死骸を見かける。

路肩の土からアスファルトの部分に這い出した時に「アチチ!」と感知して引き返せばよさそうなものだと思う。

しかし一方では、敢然と進み続けて遂に熱死する、そのドン・キホーテのような悲壮なチャレンジ精神に打たれる。

私も見習って巨大な風車のような妻にチャレンジした。

「冷蔵庫の<濃いめのカルピス>飲んでいい?」

「ダメ!」

やはりドン・キホーテはほこを収めて撤退するしかない。



●2019.2.10(日)人づきあい

何か言った後、すぐに自分で笑いだす人がいる。

そんな人を過去に二人知っていた。

一人は仕事上の付き合い、もう一人は行きつけの居酒屋の常連客である。

別に面白い話でもないのに自分から笑いだすのだ。

今にして思えば彼らは人生の達人、少なくとも生活の知恵の持ち主であると評価できるが、当時の私には「なんて軽薄なのだろう、自分に自信が持てないのだろうか」としか思えなかった。


人は誰しも自分の意見に賛同してもらいたがるが、味方ができるということは同時に敵をもつくることになる。

不思議なもので、相手が笑いだすとついこちらも条件反射的に顔がほころぶ。

笑いは病気の治癒に役立つというくらいだから、少なくとも笑顔が人を不愉快にさせることはない。

従って上記の二人は敵をつくることはなく、それだけでも大したものだ。

宮澤賢治が『雨ニモマケズ』で「褒められもせず苦にもされず さういふものに私はなりたい」と詠った存在に近いとさえ思われる。


私の子供が小学生だった頃のことだが、同級生の母親たちが仲間内でPTA活動への不満をよく口にしていた。

それを耳にしてもっともだと思った妻が正義感に燃えた。

そこで妻はPTAの会議の席上、その不満を紹介して改善策まで提示した。

するとどうなったか。

妻は、不満を述べていた母親たちも含めた周囲から煙たがられるようになった。

「出る杭は打たれる」、いい意見だからといってすんなり通るとは限らない。

PTAに限らず公的な場で発言せずに陰でぶつぶつ言うのは一種の生活の知恵なのだ。

波風を起こして問題を解決することよりも不平を共有して連帯感を強めることの方が大切なのだろう。


上記と同じ頃、父親の跡を継いで30代で社長になったばかりの人と話をする機会があった。

土木関係のわりと大きな建設会社だった。

現場で汗を流す年上の荒くれ男たちになめられているのではないかと思って聞いてみた。

「年上の多くの部下からいろいろと無理難題をふっかけられたりしませんか?」

若社長の答えはさりげなく、そして素敵なものだった。

「そんなことを言ってくる人たちが裏で抱えている悲しみについて考えますね」



●2019.2.11(月)エッセイの勧め

たとえば禁煙のようにやめるのが難しいこともあれば、逆に続けるのが難しいこともある。

私は長い間、リルケの『マルテの手記』(大山定一訳)を読み通すことがどうしてもできなかった。

超難解な埴谷雄高の『死霊』よりも骨が折れた。

散文詩のような印象深い出だしに惹かれて読み進めるのだがいつも途中で挫折した。

ある時そんな自分に腹を立てて一念発起し、ようやく読了することができた。

この作品は主人公マルテの傷つきやすい繊細な魂の記録とでも言うべきものだが、誰にでも意識が過敏になる時期があるのではないかと思う。

私は若かった頃、パチンコをするたびに打ち出す玉の1個1個が人生を暗示しているように思えた時期があった。

「ねらいどおりのところに打てたのに穴に入らなかった。人生にはこんなこともあるのだ」

「ねらいとは違ったところに球がはねたのに結果オーライだった。こんな人生もあるのだ」

考えまいと思ってもそんな思いが次から次へ湧き上がってきた。


寝ようとして目を閉じると頭の中を様々な思いが駆け巡る時期もあった。

何も考えずに眠ろうとしても、自分は今何も考えまいとしているということにまつわる考えがあれこれと湧いてくるのだ。

その当時は安眠するための呪文めいた文句をあれこれと考えてみた。

「無念夢想!」とか「くう!」とか唱えてみたが、それらの言葉自体の意味についての考えが浮かんでしまう。

「羊が一匹、羊が二匹……」などはもってのほかで、突っ込みどころが多すぎる。

どんな言葉にも意味があるのだという当たり前のことを思い知らされたものだった。

「無意味」という言葉にさえも意味がある。

試行錯誤を重ねたあげくにたどり着いた呪文は、最も自然な音で、意味も希薄な「あ」だった。

頭の中で「あー」と唱える感覚を保つと、雑念がそれほど湧かずに眠れるようになった。

これは密教系の仏教の瞑想法と同じだということを後で知った。

「阿字観」とか「阿息観」とかいうそうだ。


以上述べたような傾向を「不眠症」などと呼んでしまえば治療を要する病でしかないが、特殊な才能として生かすことはできないだろうか。

壁紙のシミや天井の木目などが何かしらの形に見えて気になってしかたがないというようなことは、誰しも経験があると思われる。

次から次へ浮かんでくる想念を文字にしていけば、『マルテの手記』ふうの作品になるかもしれない。

昔はどの家庭にもマッチ箱があったが、それを利用して日記を書き続けた人の話を聞いたことがある。

マッチ箱にちょうどおさまる小さなサイズに紙を切っておいて、1日1枚、その日の出来事を記してマッチ箱に入れていったということだった。

現代はパソコンの時代だから、小さな思いつきをその都度パソコンに入力していけばいい。

それを時折読み返して、関連がありそうな幾つかの断片を組み合わせれば、短いエッセイが幾つもすぐにできあがりそうだ。



●2019.2.12(火)オノマトペ

子供のころ、私は「月夜ばかりじゃないんだぜ」という言葉の意味を取り違えていた。

「人生は月夜ばかりではなく、日がさす時もそのうちきっと来る」というふうな意味だと思っていた。

「月夜ばかりじゃねえんだぜ」とチンピラに凄まれたら、当時の私なら「おじちゃんありがとう。ボクがんばるよ!」とお礼を言っただろう。

なぜ私が誤解していたのかと言えば、江戸時代と違って外灯やビルの灯りがあるために月夜が明るいものだとは思えなかったからだろう。


高校生のころ、受験勉強の合間に外の空気を吸おうと玄関を出た時、満月の明るさに驚いたことがあった。

本を持ち出してみると文庫本の小さな字でも読めた。

ある離島で見た蛍の光も忘れられない。

町なかを流れる川の上流の蛍がきれいだと聞いて見に行ったのだが、文字通りの群舞に息を飲んだ。

後にも先にも蛍のあんな群生は見たことがない。

その時もたまたま文庫本を持っていたのだが、やはり字が読めた。

「窓の雪」は試していないが「蛍の光」で「文読む」ことは可能なのだ。


言葉の意味が分かりづらくなったのは自然環境の問題以外にも表現の奥をくみ取る感覚が希薄になったせいも大きいと思われる。

良く言えば「思いやり」、悪く言えば「探り合い」、これを暗黙の了解事項として日本人はストレートな表現を避ける。

京都の人の「そろそろお茶漬けでもいかがですか」というような物言いなどはそのよい例だろう。

現代ではその真意が伝わらず「ちょうど小腹が空いていたんです」と喜ぶ人もいそうだ。


言葉の奥を読むのがおっくうならいっそ擬音語や擬態語を多用すればどうだろう。

分かりやすい上に短くてすむ。

「ご飯にしてくれ」

「炊いてないのよ」

「ガーン!」

「チッ!」

「寿司でもとれば?」

「イラッ!」

「ビクッ!」



●2019.2.13(水)車と人生

「旅は人生に似ている」とは人口に膾炙した文句だが、車の運転も人生に似ている。

ゆっくり走れば周囲の景色を楽しめるが目的地に着くのが遅くなる。

スピードを上げれば視野が狭くなり景色を楽しむゆとりはないが目的地に早く着ける。

こういう違いが生き方にそのまま当てはまりそうだ。


交通量と信号機の数が比例していることも人生を連想させる。

地方は信号機が少なくスムーズに走れるように生き方もシンプルだ。

それに対して都会では何度も赤信号にかかるように生き方も人間関係が入り組んで複雑になる。

通行人も見かけず信号機もない高速道路が一番スムーズに走れるが、そんな走行に似た人生とはどんなものかを考えるのも面白い。


昔読んだ漫画に印象的な話があった。

ある若者が東京のにぎやかな街中を歩いているのだが、一人の老人が先ほどから自分の前を歩いている。

たまたま同じ方向へ行くのだろうと思って歩くうちに若者は驚くべきことに気づいた。

老人が交差点にさしかかるたびに歩行者用信号が青になっていくのだ。

漫画らしい荒唐無稽な話だが、そのような融通無碍な生き方も人生の達人になれば可能なように思われる。

達人でなくても毎日同じ道を車で通勤している人はどのくらいのスピードで走れば次の信号が青になるかを考えて運転しているのではないか。

その感覚を生き方にも応用したいものだ。


車つながりでカーナビの画面表示の話に移るが、女性は画面の上部を進行方向に設定する人が多い。

私もそうしているが画面上部が常に北を指す設定でもOKだ。

女性は地図を読めないと言われるように、男女の空間認識には違いがあるそうだ。

カーナビが北を指す設定で知らない街中を走り回る場合、女性は左折や右折を何度か繰り返すと自分の位置が分からなくなるという。

男性は上空から俯瞰するような感覚で運転しているので右左折を繰り返しても現在位置を把握できる。


これを人生になぞらえると、男性は大局的に先を見通し女性は目の前の出来事にそのつど右往左往するというふうに考えられる。

しかし男性の見通しが正しいかと言えば机上の空論に過ぎないかもしれず、右往左往している女性のほうがその時々を生き生きとリアルに過ごしているとも解釈できる。

さらに言えば、将来の見通しにしても女性はジタバタ主義に見えて実は結果として正しい判断を本能的に選択しているのかもしれないと私は最近思い始めている。



●2019.2.14(木)向き合うということ

本音とは何だろう。

本音が真実で建前が嘘という単純なことではないようだ。

それほど親しくない人の集まりで本音を言うと敬遠される。

そんな場面では当たり障りのない話をするのが一番だ。

ということは、本音は何かに当たったり障ったりするのだろう。

その結果、それまでの人間関係に変更が生じたり誰かが何かのために動かざるを得なくなったりする。

つまり、本音は何らかの現実的な利害関係を発生させると言えそうだ。


物事に過度に向き合うのが「むき」になるということで、ひたすらに向き合えば「ひたむき」ということになる。

そんなに親しくない相手なら、むきになって本音を言わずにのほほんとしているのがいいのかもしれない。

しかし目の前の患者に向き合わずにパソコンの画面ばかり見て診断する医者がいるというが、これはいかがなものだろうか。

一方、親しい家族や親戚と顔を合わせた時も互いにまともに目を合わせようとしない。

近しい関係の人を見つめるのに気おくれが生じるというのは不思議なことだ。


前日の残りのカレーに火を入れた。

放っておくと焦げつくのでつきっきりでカレーと向き合ってかき混ぜなければならない。

激しい炎でせわしくかき混ぜるのがいいのか、とろ火でゆっくりとかき混ぜるのがいいのか、火加減も大切だ。

こんな簡単な家事に照らし合わせても、愛とは対象と向き合って見つめ続けることだと知らされる。

その証拠に、色気づいた頃は誰しも好きな異性を目で追い続けたはずだ。

そして、カレーの場合と同じく恋愛も火加減を調節しなければならない。



●2019.2.15(金)いわれなき虐待

「お魚くわえたドラ猫追っかけてハダシで駆けてく陽気なサザエさん」がドラ猫を捕まえて頭をぶったとする。

同様に、おやつを盗み食いした弟のカツオの頭をサザエさんがぶったとする。

ドラ猫とカツオ、どちらがかわいそうだろうか。

私はドラ猫のほうだと思う。

カツオはぶたれる理由が理解できるので自業自得だ。

しかしドラ猫は追われてぶたれる理由が分からず、ドラ猫にしてみれば理不尽な暴力だ。


年を取ると物をよく取り落とすようになる。

それを自覚している私は、食事の時も自分の取り皿を大皿に近づけてからおかずを取るようにしている。

それでも時には箸でつまんだものをポロリと取り落とすことがある。

横目で妻をうかがうと顔で舌打ちしている。

この反応は自分なりに用心している私にとってむごいのではないだろうか。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるではないか。

里芋をつかむ時は命がけだ。


知人に次のような質問をしたことがある。

「ホームレスは正確にはハウスレスと言うべきじゃないだろうか?」

ややあって印象深い答えが返ってきた。

「彼らにはハウスもホームもないだろう」

どうも私はハウスに住むホームレスのようである。


次のような含蓄に富む言葉がある。

「仏壇の前はなんでこんなに嫌なのか?」

「鬼が仏を見りゃ恐いだろう」


「仏壇の前はなんでこんなに窮屈なのか?」

「高い頭が押さえつけられるから」


妻と二人きりの我が家に仏壇はないが、家自体を仏壇だと思えば私にも当てはまりそうだ。

ただし我が家の場合は本尊が不動明王みたいなのだが。



●2019.2.16(土)ノスタルジックな暮らし

末尾に「こ」の付く言葉が多くある。

「こ」は「~もの」という程度の軽い意味を表す接尾語である。

幼児に「ウ~ンしなさい」と言って出てくるものが「う○こ」で、「シ~しなさい」と言って出てくるものが「しっ○」だ。

ヒマさえあれば寝ている動物がいる。

この動物は「よく寝るもの」ということで「ねこ」と呼ばれる。


猫と言えば、我が家には猫の額ほどの庭がある。

夏がくれば庭の木でクマゼミが鳴く。

蝉が鳴き始めると小学生の頃を思い出す。

うるさいほどの蝉の鳴き声に包まれた午前中、座り机に向かってランニングシャツに半ズボン姿で『夏休みの友』を解いたものだ。

机の脇では豚の形の器で蚊取り線香がくゆっていたりした。

そんな光景が夏休みらしい情景として思い起こされる。


子供のころ木造の古い家に住んでいたのだが縁の下をのぞいて驚いたことがあった。

大きめの石かと思ったらヒキガエルで、棒でちょっとつついたくらいでは動かない。

笹も1本生えていた。

床下で陽が射さないので葉がモヤシのように白っぽく、子供心に不気味に感じられた。

この笹はその後、真上の押入れの床の隙間から葉をのぞかせた。


都会のど真ん中の高層マンションでは蝉の鳴き声も聞こえず、蚊や蠅も飛んでこないだろう。

都会のコンクリートジャングルでは土の地面を踏んで歩くことはない。

文字通り足が地に付かなくなったのである。

文明は生活を快適にしたが人間を自然から遠ざけた。

仕事の面でも足が地に付かなくなっているようだ。

文明の進展に伴って地に足を付けて立ち働く第1~2次産業従事者の割合は減少し、第3~5次産業へと日本の産業構造はシフトしつつある。

広大なビル内に全職場を設けるとしたら、仕事の性質上第1次産業から第5次産業の順に下から上の階へ向けて配置されるのではないかと想像される。


古代の採集生活は地面を足で踏みしめて歩き自然の恵みを直接受け取る暮らしだった。

今や為替ディーラーが小さなパソコンの画面上で一歩も動くことなく巨額のマネーを右から左へ動かしている。

額に汗して働き5時に仕事を切り上げて帰宅し、銭湯に行った後は団扇で涼をとりながらビールを飲む。

そして、子供が何と言おうとテレビは親父の特権でプロ野球のナイターを見る。

そんな暮らしさえノスタルジックな世界になった。

「降る雪や明治は遠くなりにけり」と中村草田男が明治をしのんだのは昭和6年のことだった。

その昭和も既に遠く、まもなく平成も終わろうとしている。



●2019.2.17(日)ならぬことはならぬものです

タバコの吸い殻や空き缶を平気で捨てる人たちがいる。

彼らも小学校で道徳を教わり、遠足に行けばゴミ拾いもしただろう。

どこで人間が変わったのだろうか。

しかし、こうも考えられそうだ。

そもそも人間には固定した恒常的な性格などないのではないかと。

空き巣やひったくりをする人間も、自分を悪人だと反省しながら罪を犯し続けているとは思えない。

経験を積むということは性格を形成するわけではなく、利益を生む成功経験であったか、損失を被る失敗経験であったかを学習し続けることだと考えてはどうだろうか。

「良いことをしよう、悪いことは止めよう」ではなく「利益があるからやろう、ないから止めよう」という基準で多くの人は動くのではないか。

空き缶を捨てる人は、身軽になれる利益があるから捨てるのだろう。

空き缶を捨てない人は、自分の人間的価値を下げる損失を重要視していると考えられる。

ある店で買い物をして5千円札を出したところ、店員が1万円札と勘違いしたことがあった。

私はお釣りを5千円多くもらい、「しめた」と思ったが結局返金した。

これも私が正直な人間だからというより、ごまかしたことを自覚し続ける重苦しさと返金して得られる安心感とをはかりにかけたという解釈が当たるかもしれない。


損得について言えば、弁護士数名が世間で起こりがちな法律問題についてジャッジするTV番組がある。

皮肉を言えば、その番組は弁護士が頼りにならないことを自ら証明しているようにも思える。

ある一つの案件に対して、「賠償金は請求できない」「いや取れる」と正反対の意見が毎回のように出されるのだから。

損得勘定がそんなに複雑なら、原点に戻ってシンプルに生きるほうが安寧に生きられて得かもしれない。

私はどんな迷路でも抜けられる方法を知っている。

入り口のどちらかの壁に手を当ててその手を壁から離さずに進んで行けば必ず出口に出られる。

この抜け方を知っている安心感は、真っ当な生き方を貫いている人の平常心と同じ性質のものかもしれない。

不正なことをしている人間は、その事案に関係する話題は雑談の中でも避けようとするはずだ。

雑談さえ気楽にできない生き方は、さぞかし不自由なものだろう。

自ら迷路を作っているようなものだ。

江戸時代の会津藩士の子供たちは、大人に強制されることなく自発的に「ならぬことはならぬものです」と互いに戒めあっていたという。

なんとシンプルで潔い生き方だろう。



●2019.2.18(月)にゃー

立位体前屈という測定がある。

膝を伸ばしたまま腰を前に曲げて手を下におろす。

体の柔らかい人は指先どころか手のひらをぺたんと床につけることもできる。

私はすねの半ば程度のところが限界だ。

テレビ番組でやっていたが、そこで「にゃー」と声を出せば更に手が下がる。

私も試してみた。

体が硬直しないように手を下げながら息をゆっくり全て吐き出す。

そこが限界のはずだ。

ところが手が止まったところで「にゃー」と言うと更に手が下がるのだ。

それもほんの少しでなく5センチほどは下がる。

不思議なことがあるものだ。

ひとしきり感心した後、へそ曲がりの私は「にゃー」の代わりに「ワン」と言ってみた。

皆さんにもやっていただきたく、結果はあえて記さない。



●2019.2.19(火)アジ、イワシ、サバ

アジ、イワシ、サバは安くて美味しい庶民の味方だ。

異なる調理法で食べるとした場合、アジはフライ、イワシは焼き魚、サバは煮魚にするのがベストではなかろうか。

この考えに異論が出るのは予想できるし、私自身も固執するつもりはない。

焼く、煮る、揚げる、どう調理しても美味しい。

この3種の魚に何とか違いを見つけようと考えて一つ思いついた。

イワシとサバの缶詰はあるがアジの缶詰は見かけない。

どうしてだろう。

さっそくパソコンを開くとネットさまさまだ。

私と同じ疑問を持った人がおり、アジが缶詰に向かない理由まで説明してくれている。



●2019.2.20(水)個人独善主義

狩猟や採集で生きるアフリカの部族の生活が時々テレビで放映される。

余計なお世話だろうが、早く文明化すればいいのにと思ってしまう。

彼らのことを「遅れている」という差別的な目で見てしまいがちだ。

しかし、そういう部族で生まれた赤ん坊を欧米で育てれば「文明人」として成長するだろう。

彼らも欧米人も個々人の潜在能力に差異はないと思われる。

ならば、違いがあるのは個人が属する集団の性質や性格ということになる。

それでは、文明的に遅れている集団で育てば人間的にも遅れ、劣るのだろうか。

とてもそんなことは言えまい。

バイトテロなる幼稚な行いを動画撮影する若者から巧妙に不正を働く政治家まで、その愚かさや醜さには辟易する。

祖霊や精霊の存在を信じ、収穫に感謝して踊る人々のほうが人間としてよほど健全なのではないか。


文明社会が苦労して築いた民主主義が今や個人主義、更には個人独善主義の方向へと堕落しつつある。

個性、自由、平等といった概念を恣意的、独善的に解釈すると大変なことになる。

法のもとの平等はスタート地点での保障であって、結果の平等までも要求するわけにはいくまい。

「オレの人生が思いどおりにいかないのは、周囲の人間や社会が悪いのだ」

こういう錯誤が昨今の犯罪の根底にあるような気がしてならない。

愛し合って結婚しても「俺は~」「私は~」というミーイズムで過ごせば衝突の連続だ。

夫婦の歴史など築き上げるひまもなく別れてしまう結果になりかねない。



●2019.2.21(木)十能と五徳

無人島を芸能人が開拓するテレビ番組がある。

人気の理由は、生活の原点を見る思いがするからだろう。


我々の家の中には物があふれている。

私が子供の頃に比べてさえ10倍くらいは増えているように思う。

そのため各種の道具に特に注意を払うことはない。

しかし自分が素手で無人島や原野に放り出されたらどうだろう。

そんな状況下では「道具」の有難みが実感できるはずだ。


私が小さい頃はまだ昔ながらの生活が残っていた。

たとえば冬の火鉢の準備もそうだ。

藁を焼いて灰を作り、その灰を十能ですくって火鉢に入れる。

その後に火鉢の真ん中に五徳を置く。

「十能」「五徳」、これらの名前には道具への有難みが籠っている。

「三徳包丁」もそうだし「十徳ナイフ」というものも一時はやった。



●2019.2.22(金)煙

昨今は立ち上る煙を目にすることが少なくなった。

かつては自宅の庭や近くの野原でゴミを燃やしていた。

薪で焚く風呂の煙突からも煙が出ていた。

焚火の時はサツマイモを落ち葉の中に入れるのが楽しみだった。

七厘で秋刀魚や鰯を焼く時の煙も匂いと共に思い出される。


ドライブの途中、田畑で枯れ草を焼く煙を目にすると私は窓を開けて煙の匂いを嗅ぐ。

煙の匂いは私にとっては郷愁そのものである。


学校からいつの間にか二宮金次郎の像や土俵が消えた。

環境保全が叫ばれるようになって焼却炉も撤去された。

毎日の掃除時間、今の生徒たちはゴミ箱のゴミをどう処理しているのだろう。



●2019.2.23(土)色々なこと

「色々」という言葉は、本来は文字どおり「いろいろな色」という意味だ。

プラスチック製品が世に出回る前までは、セルロイド製の玩具を除けば派手な原色の物はあまりなかった。

そんな時代にあって蚊帳の本体の鮮やかな緑色とふち取りの布の真っ赤な色は印象深かった。

蚊帳を吊るのは子供にはけっこう難しい作業だった。

蚊帳に入る時も蚊が入らないように上手にもぐりこまねばならない。

たるんだ蚊帳の上に軟式テニスのゴムボールを載せ、寝たまま足でボールを蹴って遊んだりしたものだった。


寿司の出前を頼むと寿司おけの中に緑色のハラン(バラン)が仕切りとして入ってくる。

子供が小学生だった頃、妻が弁当箱に小さな家の形をしたプラスチック製のピンクのハランを入れたのを見て驚いた。

「ハラン」は元々は「葉蘭」という植物の葉で、それを包丁で四角に切り、上部にギザギザの切り込みを入れたりして仕切りとして使うものだ。

プラスチック製のものを使うようになっても、長い間その形と色は受け継がれていた。

妻が使ったハランに私が驚いたのは、仕切りとしての機能のみが残り、元となった天然素材の葉蘭の存在が遂に忘れ去られたという感慨に打たれたからだった。

そういえば、孔雀石(マラカイト)を原料とする染料でマラカイトグリーンと呼ばれる深い緑色に染められていた蚊帳も、その後、水色や白などいろんな色のものが作られるようになった。


いろんな色と言えばクレヨンを思い出す。

初めてクレヨンを手にした時の高揚感は誰しも懐かしく思い出すのではないだろうか。

私は中でも紫色がお気に入りだった。

スケッチする時にその色を使いたくて仕方なかったが、自然界には一部の花を除けば紫色のものはほとんどなく、悔しい思いをしたものだった。

バスの紫色に光る降車ボタンも好きなのだが、お気に入りの色というものは幼時の深層心理と何か関係があるのかもしれない。



●2019.2.24(日)幸福の条件

何か問題が起きると男は合理的かつ性急に解決しようとするのに対し、女はなかなか結論を出そうとしないように思われる。

心理学者によれば、器の大きい人物ほど結論を先のばしにできるのだそうだ。

どうりで世の夫の多くは知らず知らずのうちに妻の尻に敷かれるようになっていくわけだ。


上に述べた男女の違いは個人差の問題かもしれないが、夫婦間で考え方の違いが表面化することはよくある。

例えば、私は不要な物はすぐに処分したい性分だが妻は何でも保存しておきたがる。

それぞれの性向を極端に推し進めると、私はガランとした空き家に住むことになり、妻は物に溢れたゴミ屋敷に住むことになるだろう。

共にまともな暮らしとは言えない。


仕事と違って日常生活上の問題はどちらが正しいか決着をつけようとしてはならない。

それぞれの考え方をすり合わせる中で相手の価値観が分かってくる。

そうすれば自分が引いて相手の主張を取り入れようとする思いやりも湧いてくる。

側に人がいて言葉を交わす、この二つの条件が相まって幸福というものは形づくられる。

「コンビニ弁当も食べたし、さて風呂に入ろうかな」などと独り言をいう独身者。

同じコタツに入っていながら全く会話のない夫婦。

この両者は前述のどちらかの条件が欠けている。


幸い私には妻がいて会話も保たれている。

「久しぶりに一緒に飲みに出ようか?」

「そんなお金がどこにあるの!」

……これも幸福の一つの形なのだろう。

ゆめ疑ってはなるまい。



●2019.2.25(月)生物

「かゆみ」は小さな「苦痛」だという話を生物の専門家に聞いたことがある。

蚊に刺された場合、「かゆい」と感じる小さな苦痛を人は「掻く」という大きな苦痛によって解消するというのだ。

この理屈でいけば頭痛がする時はお腹を強く殴ればいいのだろうか。


蚊と言えば、あの細い脚も気になる。

骨折しやすいのではないかと心配になるが、専門家によれば蚊の脚や蠅の脚に骨はないのだそうだ。


生物の中で面白いと思うのは甲殻類だ。

たいていの生き物は骨の外側に肉が付いているが、甲殻類の蟹などは肉の外側を骨が覆っているようなものだ。

節分の豆まきふうに言うと、人間は「肉は外、骨は内」、蟹は「骨は外、肉は内」だ。

甲殻類の構造は柔らかい肉が傷つかないという利点がある。

そういえば、人間も大切な脳と脊髄だけは甲殻類のようにそれぞれ頭蓋骨と背骨の中にあって保護されている。

しかし、自分が蟹になった場合を考えると、恋人と抱擁し合っても硬い殻が邪魔して気分が盛り上がりそうにない。


私は蟹座の生まれで蟹も好きなのだが最近よけいな知識を仕入れてしまった。

がん」を英語で「キャンサー」と言うのは医療ドラマ等からの知識で知っていたが、「蟹座」も「キャンサー」なのだそうだ。

悪性腫瘍とその周囲の血管からなる形が蟹に似ているのでそう言うらしいが食欲の失せる話だ。


あれこれと生物の話をしてきたが、高校時代、教科書のタイトルの「生物」を「なまもの」と読んだ友がいた。

我が家の今夜のおかずは蟹ではなく、なまものの刺身だ。

刺身というと聞こえはいいが、閉店間近のスーパーで買った30%引きのアジのたたきである。



●2019.2.26(火)ギャップとバランス

若い女性の黒々とした長い髪を見ると、私は何かしらモヤモヤした感じを抱く。

断っておくが、ムラムラではなくモヤモヤである。

その理由に思い当たった。

若い女性の豊かな黒髪は毛むくじゃらな男のハゲ頭と同じなのだ。

毛深い男のモジャモジャした頭髪は自然であり目をひかない。

毛深いのに頭だけがツルツルしているとつい目がいく。

若い女性はその裏返しだ。

顔や手足が白くスベスベしているのに髪だけが黒々と垂れている。

それは目をひくギャップなのだ。


私の個人的な感覚に基づくささやかなギャップからスケールアップしよう。

地上最大のギャップは、ヒマラヤ山脈ではないだろうか。

造山運動で理屈は簡単に説明できるにしても、地球で最も高い山が昔は海の底であったというのは神秘的だ。


次は宇宙に話を飛ばそう。

私の散歩コースの道の土手でシルバー人材センターの人らしき老人たちが時々草刈りをしている。

せっかく草刈り機で薙ぎ払ってもしばらくするとまた伸びてくる。

そのため数か月おきに草刈りをしている。

私は、その作業を見ていると空しくなる。

「この老人たちが亡くなっても雑草は次から次に生えてくるだろう」

いっそ除草剤を撒けばいいのにと思ったりもする。

しかし、ある時、まったく逆の発想が生まれた。

「この土手がもしも火星だとしたらどうだろう」

火星探査機から送られてきた映像に密生した雑草が写っていたとしたら、それは生命の輝きに満ちた光景に見えることだろう。


次は、ギャップからバランスの話に移ろう。

太陽系の他の惑星と違って、地球には豊かな自然があり多様な生命体が存在する。

天文学者によれば、これは奇跡に近いバランスによる結果なのだそうだ。

地球の大きさや公転の軌道その他、多くの要素がほんの少しでも異なっていたらこんなに豊かな星にはなれなかったという。


最後は我が家に戻ろう。

我が家も地球と同じく奇跡に近いバランスによって夫婦仲が保たれている。

たとえば、妻が身支度をする。

「ちょっと出かけてくるわね」

私はにこやかな表情をつくって必死にバランスをとる。

「昼ご飯は適当に食べとくからゆっくりしてくれば。掃除もしとこうか?」

こういったバランスが少しでも崩れると、私は赤色巨星になった太陽のような妻の怒りに焼かれるか、夫婦という軌道から放り出されてしまうかのどちらかだろう。



●2019.2.27(水)唯我独尊

いろんな物事が同時に起こり得ると物事の因果関係が成立しなくなる。

だから宇宙には「時間」というものがあるのだという考えがある。


自分に嘘をつけないというのも同じ理屈ではないだろうか。

自分の嘘を信じ得るなら人格の統一は保てないだろう。


デカルトも言うように、物事を考え判断する自分自身を人は誰でも最も頼りにしている。

それはいいのだが、自分自身の考えや判断が一番正しいと思い込みたがるのはいかがなものか。


ネットサイトの投稿欄が炎上したり荒れたりするという話をよく耳にする。

誰かのある意見はその人個人の意見に過ぎない。

しかし、自分がその意見に反対したとしてもそれもまた一個人の意見に過ぎない。

実生活においても同じだ。

個人の感覚がいかに人さまざまであるかということに私は年々新鮮な驚きを覚えるようになった。


ただ、ネットの投稿欄であれ実生活であれ、自分の意見をむきになって述べる人を評価できる視点もある。

そういう人は、人間どうしは分かりあえるものだという感覚が認識のベースにあるのだろう。

「この人には何を言っても無駄だ」と虚無的になればむきにはならないはずだから。



●2019.2.28(木)食事とセシルカット

私の知人に、スナックで出されるおつまみ類に手を付けない人がいる。

それらは目を楽しませる彩りであって、スナックやクラブでものを食べるのは野暮なことなのだそうだ。

私はおかまいなく食べるが、おつまみのおかわりをする人を見るとさすがに引いてしまう。


ものを食べるという行為についてはあれこれと考えさせられる。

家が貧しかった中学生の頃、私の弁当は麦ごはんに漬物が少々という程度だった。

他人の弁当を覗いて回る奴がいるので、弁当箱のふたを立てて食べたりしていた。

「弁当と人間の価値には何の関係もなく、恥じる必要はないのだ」

ある時そんな考えが浮かび、それ以来卑屈に弁当を隠すことはしなくなった。


食べ物を恥じるという点に関連して言えば、物を食べる行為自体を恥ずかしいと思う感覚が私にはある。

しとめた獲物にライオンがかぶりついて噛みちぎる。

人間の食事も基本的にはそれと同じように感じられる。

さらに言えば、動物の歯や牙自体がふしぎだ。

歯や牙は、体の内部におさまっているはずの骨が肉を突き破って体の外へニョキッと突き出てきたようなものだ。

ニッと笑う人間の歯さえ不気味に感じられる時がある。

小遣いアップを申し出た時の妻の笑顔などがそうだ。


話を食事のことに戻せば、日本で暮らすうちにナイフとフォークを野蛮な道具だと感じるようになった外国人がいるそうだ。

片手で優雅に全ての所作を行う箸に比べて、ナイフで切り刻みフォークで突き刺すという動作に違和感を覚え始めたという。

日本人としては嬉しい話だ。

箸を片手に一本ずつ持って焼き魚を割いたりする私に偉そうなことは言えないが。


食事のマナーに関して言えば、子供みたいに肘を張ったりくちゃくちゃと口を開けて食べる大人を見ると、家族が指摘すればいいのにと思う。

長い髪の女性がうどんやそばを食べる時、長い髪が垂れないように片手でおさえるのも気になる。

デスクで仕事をする時や本を読む時なども、垂れた髪で顔の両サイドの視野がさえぎられるのが不安にならないのだろうか。

戦国時代なら真横から槍で突かれて一巻の終わりだ。

私が女性ならサガンの『悲しみよこんにちは』の主人公セシルのような短髪にするだろう。

最後はマナーでもなんでもなく、ただの余計なお世話になってしまった。



●2019.3.1(金)たま

「たまのこしにのる」という慣用句をサーカスの玉乗りのようなイメージでとらえている人がいる。

かと思えば「玉の腰に乗る」という誤った漢字を当てて意味の解釈に苦しむ人もいる。

「こし」は、昔の貴人の乗り物の「輿こし」で、おおざっぱに言えば「神輿みこし」みたいなものだ。


「玉」のほうも問題で、現代では何かしらの球体のイメージが強い。

宝玉ほうぎょく」という言葉があるように、「玉(たま・ギョク)」は本来は宝石の意味である。

汁粉に入れる「白玉しらたま」も本来は白い宝石、つまり「真珠しんじゅ」のことだ。


宝石を意味する「玉」は、やがて美しいもの一般を言う言葉になっていった。

したがって、「玉の輿」とは偉い人が乗る立派な輿という意味であり、それに乗るということは高い身分の男性と結婚するということを意味する。


「玉の肌」という言葉もある。

しかし、生まれたての赤ん坊の玉の肌も転んだりぶつかったりするうちに傷がついてくる。

電子レンジを買ってもぬぐえない汚れがこびりつき、新車もエンジン音がしだいに大きくなり、家の外壁も色あせていく。

経年変化と言うと聞こえがいいが、すべてのものは劣化していく。


妻を見ても若いころとは違う。

顔にはくっきりとほうれい線が、体にはふっくらとほうまん線が……。

「何をジロジロ見てるのよ!」

これは「劣化」なのか、「強化」なのか?



●2019.3.2(土)貧乏性

日の当たらない人々の暮らしぶりが気になる。

奈良の法隆寺へ行った時、周囲の田園風景の中を散策し、小さな寺を見つけて石段をのぼった。

「世界遺産の法隆寺の近くにありながら、観光客の姿を見かけないこの寺の住職の毎日はどんなふうに過ぎていくのだろう」

参拝しながらそんなことを思ったりした。

東京の浅草でも賑やかな仲見世を避けて裏通りを歩いた。

そして、通りが1本違うだけで収入に雲泥の差があるであろう商店主の生活に思いを馳せた。

テレビを見ても「有名タレントの背後にいる若いアシスタントたちは、この後どこで何をして一日を終えるのだろう」と思う。

カラオケで歌っても画面に映る無名の俳優たちの日常が気になるという具合だ。

このような性癖は強迫神経症が疑われるかもしれないが、本人の私に言わせれば単なる貧乏性だと思われる。


地元の名所に群がる観光客を見て、「なんでこんな所にわざわざ遠くから来るのだろう」と思うことはないだろうか。

京都の清水寺の近くに住んでいる人が清水寺にワクワクして出かけるとは思えない。

旅先は「未知」であるがゆえに、「新鮮」という名の刺激が旅人を興奮させるのだろう。

それを逆手に取ると旅の疑似体験ができそうだ。

私は地元の町を歩く時、「ここは初めて来た旅行先なのだ」と自分に言い聞かせることがある。

そうすると、見慣れた街並みでも隅々まで知り尽くしているわけではないのでけっこう新鮮な気分で歩くことができる。

人間関係についても似たようなことが言えるかもしれない。

「ジョハリの窓」に照らして考えてみても、家族や友人について分かっていない部分は多くあるはずだから。



●2019.3.3(日)生きる気力

話をしている時に自分ばかりしゃべりたがる人がいる。

そんな人が目立つということは、普段私たちは話すことと聞くことのバランスをうまく取っているということなのだろう。

電話を切る時も同じだ。

お客様や目上の人と話し終えた時は相手が切るのを確認するというのがマナーだが、友人、知人との電話では何気なく電話を切っている。

そんな時相手の切る音が聞こえないのは、こちらが早いというよりは多分ほぼ同時に切っているのだろう。

「この人、いやに早く切るな」と感じさせる人は稀にしかいない。

会話であれ電話であれ、会話のキャッチボールは絶妙のバランス感覚の上になりたっていると言える。


会話において「自分の意見を述べたい」とか「相手の話を聞きたい」とか思うのは生きることへの好奇心に基づいている。

この好奇心は年を取るにつれて薄れてくるようだ。

好奇心は生きることへの気力なのだろう。

私の父も年を重ねるにつれて、会話のキャッチボールは父からの投げかけが少なくなっていった。


外で飲みすぎてタクシー代がない時、歩いて帰宅することがある。

終バスもなくなった時間に妻に電話して「車で迎えに来い」とは口が裂けても言えない。

言えば口を裂かれるだろう。

「自分が帰る場所はどこなのか、そもそもどこかへ帰らねばならないのか」

阿部公房の『赤い繭』の主人公のようにそんなことを考えながらとぼとぼ歩く時の思いは、心弱い男性にしか分かってもらえないように思われる。

私もしだいに生きる気力が衰えつつあるのかもしれない。


そしてようやく自宅に帰り着いた私は忍びの者に変身する。

寝ている妻を起こさないように忍び歩きをしなければならない。

そんな時に限って足の小指を柱にぶつける。

たまらない激痛が走っても忍の一字で忍び泣きだ。



●2019.3.4(月)浮気予防法

人間とはつくづく自分勝手な生き物だ。

独身者は結婚に憧れ、既婚者は気楽な独身時代に戻りたがる。

子のない夫婦は子供を欲しがり、子持ちは子供がぐれると「産むんじゃなかった」と愚痴をこぼす。

家にいれば旅に出たくなり、いざ旅に出ると家が恋しくなって帰宅した時の言葉は「やっぱり我が家が一番!」


夫が病気になると妻は「神様、夫の病さえ治れば何もいりません!」と願い、快復すると「旦那の給料がアップしますように」「私の体重がダウンしますように」と追加願いのオンパレード。

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」だ。

しかし、だからこそ人は生きていけるのだろう。

過去のピンチにこだわりすぎると「あつものに懲りてなますを吹く」ような滑稽な生き方になると思われる。

夫の身勝手の最たるものは浮気だ。

恋人に「あれ買ってきて」と頼まれると10キロ先のコンビニへでも車を飛ばす。

こういう男性の心理を私は「好意の譲歩」と名づけている。

その恋人と結婚して数年たち、「それ取って」と妻に言われると10センチ先のリモコンでも面倒くさそうに手渡す。

こういう男性の心理を私は「悪意の妥協」と呼んでいる。


浮気はさらに次の段階の「悪意の暴走」である。

恋人から夫婦への移行は点と点がつながって直線になるようなもので、具体的に言えば「生活が始まる」ということだ。

浮気も交際が長く深くなるほどその側面が大きくなる。

浮気相手の詳細な来歴のみならず親兄弟や親戚の情報まで入ってきて、知らず知らずのうちに相手の人生を背負う感覚が生じる。

それはもはや夫婦生活の苦から逃れる「アバンチュール」ではなく、新たな「生活」のスタートであり新たな苦の始まりだ。


そこで世の男性たちに浮気予防法として浮気旅行のシミュレーションを勧めたい。

過去に奥さんと行った中で最も楽しかった旅行の全行程を、浮気したい相手と二人きりでたどる想像をしてみればよい。

「ここで車窓からの景色を見て妻ははしゃいでいたな」

「この旅館の夕食を妻は美味しそうに食べていたな」

浮気相手を横に奥さんとの思い出がよみがえるバーチャル旅行をしてみるのだ。

そうすれば、奥さん、愛人との二重生活の虚しさと煩わしさを実感するのではないだろうか。

私にそんな経験はないが似たような話を『プラトニック不倫』という作品に仕上げた。ご一読を乞う。



●2019.3.5(火)哀れな我が家

「する」と「合わせる」をくっつけた「仕合わせる」という語がある。

「二つのものがバッタリ行き合わせる、出合う、めぐり合う。」という意味だ。

この名詞形が「仕合わせ」だ。

古典では「仕合せが悪い」という使い方もあるが次第によい意味で使うことが多くなり、現在の「幸せ」に至っている。


私と妻とのめぐり合いは、よい「仕合わせ」だったのだろうか、よくない「仕合わせ」だったのだろうか。

これまでの書きぶりからすると、妻が悪妻のように受け取られるかもしれないが、そうでもない。

話にアクセントをつけるため、針小棒大に誇張して書いているだけである。(「棒大針小」かもしれない……)


ともあれ、二人の男女が仕合わせて結婚するとさまざまなドラマが生まれる。

独身ならば、風呂に入って「湯の中でひる屁の玉はあごへ浮き」という経験をしても笑い合う相手がなく、「屁をひっておかしくもなし独り者」で終わってしまう。


私には子供が3人いるが、これは結婚当初から決めていた。

二人なら勝ち負けの世界だが、3人ならじゃんけんと同じで複雑な関係性が生じる。

大げさに言えば社会ができる。


妻と私は持ちつ持たれつでいきたいのだが、餅でもたれる胃のように重苦しく連戦連敗である。

そこに3人の子まで妻の側について連合軍を結成するものだから私は孤軍奮闘の戦況に追い込まれる。

決戦の時がいたればバンザイ突撃して玉砕するしかなく、「世が世ならば…」と訳の分からないことを呟いている。



●2019.3.6(水)時間

若者と老人の人生を「時間」という観点から対決させてみよう。

これから生きていく未来に目を向けると、老人は老い先が短く、若者の勝ちだ。

生きている現時点を見つめると、若者も老人も毎日毎日、自分の人生の最前線に立っているのであり、引き分けになる。


これまで生きてきた過去に目を向けると、老人の勝ちだ。

オリンピックのモットーの「より速く、より高く、より強く」にならえば、老人はより遠くから現在へやって来たのだから。

私の祖母は明治8年生まれで、93歳まで生きた。

存命中にあれこれ聞いておけばよかったと残念に思う。

第二次世界大戦どころか、日露戦争、第一次世界大戦などもリアルタイムで見聞していたはずだから。


以上、若者VS老人は共に1勝1敗1分けだが、私は「老人」という言葉の響きが気に入らない。

「先に生まれた人」、「後に生まれた人」という意味の「先生せんせい」、「後生こうせい」という語がある。

「先生」と呼ばれれば、老人も胸を張って生きていけそうに思う。 


盆や正月に親戚の子供を久しぶりに見ると「大きくなったなあ」と驚かされる。

しかし我が子に関しては、しょっちゅう見ているので時の流れを実感することはない。

「ジャネーの法則」によれば、年をとるほど時間がたつのがはやく感じられるという。

例えば、50歳の人間は5歳の子供に比べて10倍も時間がはやく過ぎていくように感じるのだそうだ。

5歳からいきなり50歳になることはできないので実感するのは難しいが。


時間と言えば、私たちが立っている地球そのものが音速よりも速い秒速465m(時速1600km)で自転し、太陽の周りを秒速30kmで公転している。

さらに、太陽系は銀河系の中心の周りを秒速220kmの速さで回っている。

日常的な感覚を超えた速度だ。

そして物理学の世界では、「時間」そのものが存在するかどうかということさえ問題になっているのだから、もう何が何やらお手上げである。

私は、物理学者が何と言おうと自分の実感を大切にしたい。

コペルニクスが地動説を唱えても、私の世界では日が昇り日が沈む。



●2019.3.7(木)老いるショック

「老いる」ということについて述べてみたい。

飲み方ひとつ取っても、若い時の私はカウンターに陣取り、ママさんやマスターと話すのが好きだった。

隣りあった客にも積極的に話しかけた。

どんな職業の客でもその職業について聞き出したいことがたくさんあったし、その人の人生観にも興味があった。

思えばそれが若さというものだったのだろう。

今は、見知らぬ人と話すのはおっくうになった。


この「おっくうになる」というのが老化の特徴ではなかろうか。

一人暮らしの父親を見ていて分かったのだが、年を取るにつれて食卓の上を片付けなくなる。

手が届かないところのものは、「孫の手」で引き寄せたりする。

外出する時も服装にかまわなくなる。

見方を変えればそれは実質本位の生き方だと言えなくもない。

食事のたびに食卓に醤油や箸立てや急須などを出したり片付けたりするのは無駄な労力だ。

若い女性が毎日違う服装で出勤できるほどに服を買い揃えるのも無駄な出費だし、化粧は無駄の最たるものとも言える。

しかし思いをかえせば、その無駄こそが若さであり、生活に張りと潤いを与えるのだろう。


年老いての暮らしにそんな張りと潤いはないが気楽ではある。

父と伯母を車に乗せた時のこと、耳の遠いどうしの二人が話を始めたが、話がかみ合わなかったりかみ合ったりの珍妙な会話だった。

それでも当人どうしは楽しく話し続けていた。

介護ヘルパーをしている知人がいるが、担当している利用者さんにそろって認知症の夫婦がいるという。

夫婦二人とも忘れっぽいなら同じ話題でも毎日新鮮に会話ができるのではないだろうか。

かく言う私も似たようなものだ。

テレビでサスペンスものの再放送をよく見るが、以前見た作品であってもけっこう楽しめる程度にストーリーを忘れてしまっている。


そんなことを思いながら食事をしていると、まだ食べ終えていないのに妻が食卓を片付け始めた。

サスペンスの見すぎかもしれないが、そのうち私も片付けられそうな気がする。

「人間は生まれてくる時は自分が泣き、死んでいく時は人が泣く」という。

私が逝ったら妻は泣いてくれるだろうか。

万歳三唱まではしないだろうが。



●2019.3.8(金)技術が進歩しない分野

技術の進歩には目を見張るものが多いが、ほとんど進歩の見られない分野もある。

たとえば雨具がそうである。

レインコートは昔のみのと原理的には同じだ。

傘のほうも、日本最古の漫画『鳥獣戯画』を見ると蛙や兎がハスの葉を傘として利用しており、アイヌの伝承のコロボックルはフキの葉を用いている。

科学の力を使って雨を寄せ付けないバリアーで体の表面を覆うようにでもできないものだろうか。


カーテンについても思うところがある。

陽ざしの具合によってレンズの色の濃淡が変化するメガネがある。

あれを一歩進めて濃淡を自在に変化させることのできる窓ガラスを普及させてほしいものだ。

そうすればレースのカーテンも厚手のカーテンも不要になるのだが。



●2019.3.9(土)立ち食い

私もそうだったが、一般的に独身男性は掃除をしたがらない。

服は脱ぎっぱなし、ゴミ箱はあふれたままというのが常態だ。

かと思えば潔癖症の人もいる。

散らかしっぱなしと潔癖症、その間の常識的な線はどのあたりなのだろう。


しかし、常識的な線はどうも時代によって変化するようだ。

私の小さいころは「立ち食い」は厳禁だった。

その時代を知っている私も観光地へ行くと妻と一緒にソフトクリームなどを買って「立ち食い」するようになった。

さすがに公道を歩きながら食べることまではしないが。



●2019.3.10(日)頭のよさ

我々と知能程度が同じで、全く異なる文化を持つ宇宙人が地球にやってきたと仮定しよう。

すると、本を読んでいる地球人の姿は、彼らにはかなり異様に見えるだろう。

紙を束ねた小さな物体をめくりながら、頷いたり、微笑んだり、涙を流したりしているのだから。

視覚をとおして文字という記号を脳内に取り込み、知識や情操を豊かにするには高度な能力が必要だ。

私が出会った人で「この人は頭がいいな」と思った人は、例外なくと言っていいほどよく本を読む人だった。


次に私が考える頭のいい人は、感情的に激しない人だ。

人と人とが話し合う場において感情的になるということは、その時点で正当な手続きによる解決を放棄することにほかならない。

親や先生に「うるせえよ!」などと子供が反抗的な物言いをすることがあるが、そんな時に「うるさいとはなんだ!」などと感情的に向き合ってはいけない。

あえてそんな言葉づかいをするのは「今はあなたと話す気はありません」という対話拒否モードに入るサインなのだから。


ポピュラーな考えも提示してみよう。

「頭のいい人とは東大合格者である。」

東大の中でも、文系では弁護士等を目指す文Ⅰ(法学部)、理系では医者等を目指す理Ⅲ(医学部)の合格者が特に頭のいい人だと思われている。

弁護士になるには司法試験に備えて分厚い六法全書を暗記しなければならない。

医者になるには、医療関係者から聞いた話だが、人間の体にどこでもいいから片手を当てたら、その面積だけでも覚えなければならない知識が千個ほどあるそうだ。

膨大な知識をストックするには機械的な丸暗記では無理だから、確かに彼らは頭がいいのだろう。

しかし、本当の頭の良し悪しは、その知識をどう使うかにかかっている。

有名大学を出て社会的評価の高い職業につきながら、不正な手段で自己の利益獲得に奔走する者たちの姿は哀れですらある。


最後に軽い話題をひとつ。

ある町に、競い合っている2軒のラーメン店があった。

A店が「日本一うまいラーメン屋」と看板に書いたものだから、B店は「世界一うまいラーメン屋」とした。

するとA店は「宇宙一うまいラーメン屋」と書き直した。

A店に負けたくないB店は、しばらく考えた末、次のように看板を書き直したという。

「町内一うまいラーメン屋」

なんという洒脱な頭のよさだろう。



●2019.3.11(月)変わり者の視点

テレビのコマーシャルを見る時、へそ曲がりの私は製作者側の意図に誘導されるのが癪なのであえて画面の背景を見たりする。

テレビドラマでヨーロッパの昔の貴族の大邸宅が映ると、ストーリーそっちのけで掃除の心配をする。

もちろん多くの使用人を雇っているのだろうが、あんなに広い屋敷の床を掃いたり拭いたりするだけでも大変だろうし、高い天井はホコリだらけだろうと思ってしまう。

さらに庭の草むしりまで想像すると気が遠くなる。



●2019.3.12(火)言葉通りの意味

ある時、ふと気になった。

「紫外線」とか「赤外線」とかいう言葉はどんな意味なのだろうと。

調べてみると文字どおりの意味であった。

「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」

理科の授業で教わったように、虹の七色は外側から順に「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」である。

ただし、これらは可視光線である。

それ以外に、目には見えないが赤の外側に「赤外線」が、紫の外側(虹のアーチで言えば内側)に「紫外線」が存在しているのだ。

ついでに言えば、北朝鮮の正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」だ。

北朝鮮は民主主義国家なのである。



●2019.3.13(水)講師の身じろぎ

ある講演会で講師が話しているのを見ていて気づいたことがある。

話の中で思い切った意見を述べるたびに講師が少し身じろぎをするのである。

それ以降、実際の講演会であれテレビであれ講師の姿勢に気を付けて見るようになった。

すると、どの講師も大胆なことを言った直後は必ずと言っていいほど身じろぎする。

人はものごとを断定する重みに耐えられないのだろうか。



●2019.3.14(木)主婦の1日

「親思ふ心にまさる親心」というとおり、子供に対する親の愛情は深い。

子供が就職すると、たいていの親はこっそりと子供の働きぶりを見に行くものだ。

そういう親子関係と同じように夫は妻の1日をこっそりと観察してみたらどうだろう。

妻のけなげさ、寂しさに気づくかも知れないし、妻だけの喜びがあるのかもしれない。

世の夫は仕事にかまけて妻を思いやるという気働きをほとんどしていないように思われる。



●2019.3.15(金)手

以前は妻と同伴でよく行きつけのスナックに出かけた。

妻はだいぶ年下なので他の客から愛人と見られることも多かった。

連れの女性が愛人か妻かは会計の時に分かる。

愛人関係の場合はいいところを見せたい男のほうが支払う。

夫婦の場合は財布の紐はたいてい奥さんが握っている。


夫婦は年月を重ねるうちに必要な会話しか交わさないようになりがちだ。

そんなマンネリ化した夫婦には、連れ立って居酒屋やスナックに行くことを勧めたい。

ママに話しかけると、ママが中継基地の役割をはたして夫婦どうしも自然に会話するようになる。


高校の美術教師をしている人にかつて尋ねたことがある。

「女子高生を前にすると体のどこに目が行きますか?」

中年の男性教師相手に意地悪な質問をしかけたつもりだったが、意外な答えが返ってきた。

「手」だということであった。

若かった当時の私は嘘だろうと思ったのだが、今では納得できる。

スナックに行くと、私は時々カウンター内の女の子の手を握る。

単なる握手だから妻も公認である。

肌理きめが細かく張りのある若い女性の手の甲は確かに「美」であり、ほれぼれとする。

自分の乾燥した手と見比べると、握手が「生」のバトンタッチに思えてくる。

なかには手のひらが荒れている子もいる。

華やかな接客の陰の日常が垣間見えて、それもまたしみじみといいものだ。


「手」といえば子供の頃を思い出す。

祖母の手の甲の皮をつまんで引っ張り上げると、手を離してもなかなか元へ戻らなかった。

それを見て「富士山だ!」と喜んでいたものだった。

そんな私も、自分でつまんでみるとすぐには戻らなくなりつつある。

しわも増えて丹後ちりめんのようだ。

これに点々とシミまで加われば鹿の子絞りだ。



●2019.3.16(土)演技

テレビのバラエティー番組を見ていると、たいていの若いタレントはカメラ映りを気にして笑顔をつくっている。

意地悪な私はそういう子を目で追い続け、素顔に移る瞬間を見つけてはほくそ笑む。

こんな視聴者もいるのだから、プロであるからには気を抜いてはいけない。


学生時代に初めて生の舞台演劇を見た時、私は逆カルチャーショックを受けた。

というのは、普段見なれているテレビの特質をまざまざと思い知らされたのだ。

テレビは、カット割りやズームアップやBGMを駆使する。

「今はここを見て、こんなふうに感じて、余計なことは考えるな」と言わんばかりだ。

私の知人で、テレビの故障を機にラジオに移行した人がいる。

すると、テレビ番組の多くがいかに人の思考能力を奪うものだったかということを実感したそうだ。


同じように目で見るドラマでありながら、テレビと舞台は違う。

舞台はどこを見るかはテレビのように指定されず、観客の自由である。

だから、初めて舞台を見た時はとまどった。

とりあえずその場面、場面でセリフをしゃべっている俳優に注目していた。

そのうち、しゃべり終わった俳優がどうするのかが気になりだした。

そこで、スポットライトから外れた俳優に注目すると主演の俳優だけはさすがだった。

セリフをしゃべっている時はもちろん、舞台の端にただ立っているだけの時も役になりきっていた。


演技といえば、私もいろいろと実生活で演じてきた。

職場における自分のキャラに満足がいかない場合、いきなり翌日から言動を変えるわけにはいかない。

そこで私は、転勤のたびに新しい職場で理想のキャラに近づけるような振る舞いをこころがけた。

そんな努力を続けながら悟ったことは「努力しても人間はたいして変わらないものだな」ということだ。

しかし、こう考えるべきなのかもしれない。

「努力すればいくらかは変えることができるものだ」



●2019.3.17(日)学歴と資格

平均寿命からすると40代が人生の折り返し点になる。

仕事が半分終わると残り半分の処理のめどが立つように、40歳を過ぎると人は「終活」を無意識のうちに開始する。

人生のゴール地点から逆算するような感覚が生まれる。

折り返し点さえも遠い若者には、人生は有限であるという感覚がなく、何事もやりっぱなしで気にならない。

だから、「そんなにぐうたらして将来どうやって生きていくんだ」と説教しても響かない。

彼らには「将来」は、感覚的には本当にずっと遠い「将来」なのだから。


私がベンチャー企業の経営者なら、採用試験の面接は居酒屋で行う。

何時間か差し向かいで飲めば、応募者の正体は的確に知れる。

しかし、そんな会社はまずないだろうから就職のとっかかりに物を言うのは学歴や資格だ。

生き方について抽象的な説教をするよりも、親は子供自身が学歴や資格を取得しようとする意欲を持つように導くほうがいい。

こういう話を聞いた。

「誰もが憧れるスポーツや芸術や芸能の分野で死に物狂いの努力をしても、飯を食えるのは才能のある一握りの人間だけだ。しかし、中学、高校と毎日たったの3時間でいいから勉強を続ければ、誰でもそれなりの大学に入り、それなりの職に就いて飯が食えるようになる」


知人の高校教師も同じような話をしていた。

キャリア学習の一環とやらで、あいにくのひどい雨の日に生徒十数名を大学の研究施設に引率して行ったそうだ。

大学に着くと門衛の人に「あちらです」と研究施設の場所を教えられ、生徒と共に若い教授の講義を受けた。

教授はその大学が持つ海外の研究施設から昨日戻ったばかりだったとのこと。

後日、この知人は生徒たちに次のように話をしたという。

「この間の大学訪問で印象深い人たちが3人いた。まず僕の父親くらいの年齢の門衛のじいさん、次は僕自身、3人目が僕の息子と言ってもいいくらいの若さの大学教授だ。この3人の学歴の高さは、恐らく年齢と反比例している。で、この3人の仕事を見れば、門衛のじいさんは、どしゃ降りの雨の中、一日中立ちづくめで、出入りする車の誘導だ。僕も雨の中、君たちを引率して、傘をさしてても膝から下はずぶぬれで、新品の革靴の中までビチョビチョだ。で、一番若い大学教授は世界を股にかけて飛行機で飛び回ってるんだ」

新しい革靴を濡らしたことがよほど腹に据えかねたと見えるが、考えさせられる話ではある。



●2019.3.18(月)強き者、汝の名は女なり

妻は「CoCo壱番屋」のカレーが好きで、毎回「チキンカツカレー、ご飯は200gで辛さは普通」と迷わない。

私は家計を考えて最も安い「茄子カレー」にする。

すると、注文する段になって妻は「アイスカフェ・オレ」を追加したりするものだから、「茄子カレー」で我慢していた私は奈落の底へ突き落された気分になる。

カフェ・オレを横目でにらみながら、無料の福神漬けを多めに添えて無言で食べる私の悲痛に妻は一生気づくことはないだろう。


と、こんなふうに、男は自分の痛みを過大視する傾向がある。

それに対して、女は痛みを忘れるのだそうだ。

そうでなければ何度も出産はできないと妻は言う。

しかし、私に言わせれば、女は痛みを忘れ去るわけでなく、記憶の底に封印している。

その証拠に、夫婦喧嘩した時はまるでパンドラの箱を開けたかのように、過去の恨みつらみが噴き出してくる。


痛みを忘れることも含めて、女性は生きることにおいて男よりたくましい。

女性が精神的な痛みをも避けようとするのは、それが健康を害するものだと本能的に感知しているからではないだろうか。

妻が子供の頃に住んでいた借家を二人で見に行ったことがある。

小高い山の中腹にその家はあり、今は無人のあばら家になっていた。

外観だけでなく、家の中にまで土足で入り込んで私は写真を撮った。

ところが妻は家に近寄ろうとさえしない。

家から少しくだったところに立って寂しそうに見上げているばかりだ。


私は父の職業の関係で転々と引っ越しを繰り返した。

社会人になってから、ドライブがてら過去に住んだ懐かしい家々を見に行こうと思いたった。

母親を誘ったがどうしても同行しようとはしなかった。

今にして思えば、母親にとってそれらの家は、当時の耐えがたい貧乏生活を思い起こさせる辛い場所でしかなかったのだろう。

同様に妻も、少女期を過ごした家の朽ち果てたさまは見るに忍びなかったのだろうと思われる。



●2019.3.19(火)人間的な猫

人間の本能の中でも食欲は生活に彩りを添えてくれる。

必要な栄養素が全て入っている錠剤を毎日1粒飲めばOKということになったら、毎日の生活はどんなに味気ないだろう。


さて、食べた後は排泄ということになる。

どんな美女でもアイドルでもトイレに行かなければならない。

私にとってもトイレは憂鬱だ。

便座に座って用を足していると自分が下品な生き物になったような気がする。

「この世からトイレなんか消えてしまえばいいのに」と乙女チックなことを思ったりもする。


排泄と同じように性欲も必要悪の一種のように思える時がある。

「生きるためには何が必要か」と聞かれて「空気」と答える人が少ないのは、それが余りにも自明のことだからだろう。

空気と同様に私たちの生存は種の保存のための性欲に支えられているのだから性欲も否定すべきものではない。

しかし同じ本能でありながら、食欲に比べて性欲はどれほど多くの人たちの人生を狂わせてきたことだろうか。

人生を達観しているかのごとき『徒然草』にも第9段に性欲の恐るべき強さが記されている。


性愛の衝動に比べると、子に対する親の慈愛はしみじみと湧き出てくる人間的な情だと思われる。

「愛しい」は「いとしい」と読むが、「かなしい」とも読む。

「かなしい」は現在ではつらく切ない気持ちを表すが、古くはそれ以外に「切ないほどいとおしい、切ないほどかわいい」という意味もあった。

慈愛はかなしくなるほどかわいく思える我が子への愛なのだろう。


慈愛は人間特有の情かといえばそうでもないようだ。

姉が昔飼っていた猫は、子猫が食べ終えてからでないと自分は食べようとしなかったそうだ。

逆の話も聞いたことがある。

飼い主がえさを入れた皿を置くと、寄ってくる子猫の頭を片手(前足)で押さえつけながら自分が先に食べる親猫もいるということだった。



●2019.3.20(水)相性

人と人の相性について考えてみよう。

・ものの考え方がほとんど同じだが、たまに違う。

・ものの考え方が多く食い違うが、たまに一致する。

友人や配偶者には、このどちらのタイプがふさわしいのだろうか。


話は変わるが、今の時代は、子供が欲しがるものは何でも買い与える親が多い。

九つ買ってやって、あと一つ欲しいと言えば10個目も買い与える。

昔の子供は我慢を強いられた。

子供が欲しそうな顔をしても親はさっさと売り場を通り過ぎる。

10個中一つでも買ってもらえば御の字で、嬉しくてたまらなかった。

子供の育て方としてどちらがいいのだろうか。

そして、これは前記の相性の話とリンクするだろうか?



●2019.3.21(木)超文系

私はフリーセル(パソコン上のトランプゲーム)で100連勝したことが2度ある。

自分では大したものだと思うが、数学的才能のある人はたやすく連勝できるのではないかと思ったりもする。

私は超文系なので「周囲12mの池のまわりに2mおきに木を植えると何本必要か?」という程度の問題でもダメだ。

12÷2=6とスッキリ納得すればいいのにそれができない。

植えていくと最後の1本が重なったり足りなかったりするのではと気になり、図を描いて確かめなければ気が済まない。

あげくの果ては「木は現実的には池のふちから少し離れたところにしか植えられないから、植えるラインの総延長は12m+アルファではないか」と言いがかりにも似た考えが浮かんだりする。



●2019.3.22(金)オオカミ少年

「学校に爆弾をしかけた」という電話を受けて生徒を避難させたが単なるいたずらだった。

そんな事件が相次いだ時期があった。

『オオカミ少年』と同じことだから電話があっても避難させるまではないという意見が多くなった。

そんな時、私はある講演会で講師が次のように発言するのを聞いた。

「何度だまされてもいいじゃないですか。その都度、避難させましょうよ。そうすることで、先生たちはどんな時でも君たちを全力で守るんだという姿を見せましょうよ」

意見の内容もさることながら、けっこうな年齢の大学教授が上気した顔でひたむきに訴えかけるさまを見て、「いい人だな」と私は少し胸が熱くなった。



●2019.3.23(土)『相棒』ふうに

私には妻という「相棒」がいる。

私たちは「匿名とくめい係」なので実名は明かせない。

相棒どうし仲良くやりたいのだが妻は私を軽んじがちなので「軽視総監けいしそうかん」に任命したいくらいだ。

そんな次第で今回は女性に辛口の話題になるかもしれない。


女性は一般的に美醜に敏感で、化粧に多大な時間を費やす。

鏡の前で試行錯誤を重ねるうちに無我の境地に入り浮世離れした仕上がりになる人もいる。

それに対して私は髭を剃る時以外に自分の顔を鏡に映すことはない。

ところがある時、顔を洗った後で何気なく鏡に映った顔を見て杉下右京ばりに「はいぃ?」と驚いた。

無心の素顔なのに不機嫌で傲慢な表情に見えるのだ。

原因は口角が下がっているからだと気づいた。

これは肌の張りと地球の引力のせいだ。

これから人前では、引力に逆らって楽しくもないのに口角を上げて歩かねばならない。


我々は普段何気なく立ったり座ったり歩いたりしているが、地球の引力はばかにならない。

宇宙飛行士は地球に帰還した直後は自分の足で十分に立てないという。

無重力空間に順応した宇宙飛行士の筋力の低下は相当なものなのだろう。

年を取るにつれて脂肪がだんだん下におりて下腹にたまるのは引力の影響も大きいのはなかろうか。

宇宙からの帰還とは逆に、引力が地球の6分の1しかない月に行けばいいことだらけに思われる。

幅跳びや高跳びの世界新記録が簡単に出せるだろうし、老人も立ち上がる時に膝の痛みを感じないですむ。

女性も体重を計れば大幅減で垂れていたおっぱいも…、おやおや僕としたことが迂闊うかつでした、最後にもう一つだけ。

女性の加齢に関して私が観察するのはあごのラインだ。

顎からのどに移行する部分が引力に負けてたるんでイグアナみたいになっていないか…、失礼、細かいところまで気になるのが僕の悪いくせ



●2019.3.24(日)不器用な人間

人間はあまり器用にはできていない。

ある対象に興味を持ってじっと見つめている間は頭でほかのことを考えることはできない。

逆に何か考え事をしながら目の前のものを見つめることはできない。

体も不器用で面白い実験がある。

机の前に座って片足を宙に浮かせ、円を描くように丸く回し続ける。

その状態で机上の紙に手で四角を描くのは至難のわざである。

足で四角、手で丸を描こうとしても同じだ。

「茶わんと箸を持って走りながらでも飯を食えるぞ」などと思ったりもするが、これは負け惜しみというものだろう。



●2019.3.25(月)神輿

博多山笠に情熱をかける人々の特集番組を見た。

彼らは、1年に1度神輿みこしを担ぐことが毎日の生活の張り合いになっているという。

思うのだが世の旦那は、毎日、妻という名の神輿を担いでいるようなものではなかろうか。

それにしてもうちの神輿はやたらと重い。

重くても神輿だから放り出すわけにもいかない。



●2019.3.26(火)家族の呼び方

日本人は、「家」という集団を強く意識する傾向がある。

江戸時代ならいざしらず現代でも結婚式場の案内板に「○○家・□□家、披露宴」と書いたりする。

家族間の呼びかたも、家族内の最年少者から見た呼称を使う。

例えば、子供に話しかける時、自分のことを「お父さん」「お母さん」と言う。

私は子供の頃、自分の親を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼んでいた。

大人になると人前で親をそんなふうに呼ぶわけにはいかないが、だからと言って急に「父さん」「母さん」と呼べるものでもない。

だから、私の兄や姉に子供ができた時は救われた気がした。

自分の親を「じいちゃん」「ばあちゃん」と違和感なく呼べるのだ。

結婚して妻をどう呼ぶかにも苦労した。

最初は「おい」と呼びかけていたが、さすがに横柄な気がして妻の名で呼ぶようにした。

しかし、その呼び方は今でも少しお尻がムズムズする。



●2019.3.27(水)パターン認識

映画を見ても小説を読んでも、人は「パターン」で感動するのだそうだ。

テレビドラマの「水戸黄門」を見ている人は、「悪は滅んで最後は善が勝つ」というパターンに酔いしれるのだ。

だいぶ前にベストセラーになった『アルジャーノンに花束を』というSF小説がある。

知的障害を持つ主人公の青年は、脳の手術によって飛躍的にIQが上昇するがやがて低下に転じ元に戻ってしまう。

非常に感動したが、私はこの小説を「人間の誕生、成長、老化」というパターンとして読んで身につまされたのかもしれない。

余談だが、手に取って読むまではタイトルの「アルジャーノン」がまさかネズミの名前だとは思わなかった。



●2019.3.28(木)肥大化したプライド

以前は、学校においても社会においても序列というものを意識させられた。

私が高校生の頃は、実力テストのたびに成績順に名前入りの一覧表が廊下に貼りだされた。

成績順に席替えする先生もいたりした。

しかし、そんな風潮であったから「ぶん」というものをわきまえていたし、「恥」についても敏感だった。

現代の教育を否定するつもりはないが、今の若者は一律に大事にされすぎて肥大化したプライドを持て余しているのではないか。

無差別殺傷事件も増えているが、「誰でもよかった」と言いながら自分より弱い者しか襲わない。

いじめの構図に似ている。



●2019.3.29(金)平均寿命と家系

平均寿命は女性のほうが長いのに、私の親も妻の親も、女親の方が先に逝った。

男が長生きする家系なのだろうか。

一人で生きることにさほどの意味はなく、誰かのために生きたい。

私は若い頃からそんなふうに思っていた。

孤独に耐えきれない単なるさびしがり屋なのかもしれないが。

他人のために生きるといっても、何のとりえもない私は妻子のために生きることしかできない。

そして子供が一人立ちしてみな家庭を持てば、妻のために生きるということになる。

私はそれでも満足なのだが、頭をよぎるのがさきほどの家系の件だ。

妻が先に逝けば私は生きる張り合いをなくしそうでゾッとする。

逆の場合は心配なさそうである。

皆無と言っていいかもしれない。



●2019.3.30(土)柔軟性と硬直化

著名なバレリーナと結婚した男性が妻への不満として面白いことを言っていた。

床のゴミを妻が膝を曲げずに腰だけ折って拾うというのだ。

バレリーナの妻に言わせると、膝を曲げてしゃがむよりもその方が楽なのだそうだ。

なんという体の柔らかさだろう。

私は年々体が硬くなって体育座りの姿勢で靴下を履くことさえ辛くなった。

直角を通り越して鋭角に腰が曲がった状態で歩いている老人もいる。

「よくあんなに曲がるものだ」と思うが、見方を変えればそれ以上は曲がらないのだろう。



●2019.3.31(日)事実が全て

人間はわがままな生き物で、誰でも自分を正当化しがちだ。

だから、何を考えているかよりも何をしたかが自分の正体だと思ったほうがいい。

今日1日自分がやったことだけを書き留める、そんな日記をつければ反省に役立ちそうだ。

思いよりも行動、これは親子関係の見直しにも有意義な視点だと思う。

生まれてこのかた、親にしてもらったことと自分が親にしてやったことを書き出してみれば驚くことだろう。

極端な実験をしても面白い。

職場の嫌いな同僚に毎日、爽やかな挨拶をしてみる。

すると相手にとっては、それがこちらを判断する全てになるのだ。



●2019.4.1(月)校長の暴力

だいぶ前のことになるが、こんな報道があった。

ある荒れた中学校で、廊下にたくさん投げ捨てられているゴミを校長先生が掃き集めていた。

通りかかった生徒が「校長、ここにもあるよ」と言って、廊下のゴミを校長のほうへ向けて蹴った。

たまりかねた校長先生がその生徒を殴ったというニュースだった。

この件に関しての世間の反応は、おおむね次の2種類だろう。

・校長は大人げない。殴るのでなくほかの指導方法があるはずだ。

・この生徒はとんでもない生徒だ。毅然とした対応をすべきだ。

この事件に関して私は「校長」「生徒」という社会的役割を外して「年長者」対「年少者」、さらには同じ人間どうしに起こった問題としてとらえてみた。

しかし、どんなとらえかたをしても私は「やるせなさ」に気が重くなる一方だ。

当事者の二人以上に、私が成長しなければならないのかもしれない。



●2019.4.2(火)事故防止

車を運転していて赤信号で停まると、前に停車している車がスーッと少し前に詰めることがある。

最初から詰めておけばいいのにと思うのだが、同じことを何度か経験してこう思い直した。

私が後続車に追突された場合の玉突きを用心してのことかもしれないと。

私も停止する場合は用心する。

後続車に追突される恐れのある状況ではブレーキを2、3度踏んでブレーキランプを点滅させるようにしている。


事故防止には何といってもスピードを出さないことが一番だ。

全ての車が時速40キロくらいで走行すれば事故は大幅に減るだろう。

あとは無理をしないことだ。

「まだ行ける」は「もう危ない」と紙一重である。

「まだいける」という発想自体が危険性の自覚を内包している。

副詞を入れ替えて「まだ危ない」「もう行ける」という意識に変えたいものだ。


昨今は予測のできない交通事故が増えているので、歩いている時も油断ができない。

私は街中の交差点で信号待ちをする場合、なるべく車道から離れたり、信号機の支柱や電柱などの陰に立ったりするように心がけている。

車が暴走して歩道に乗り上げてくるかもしれないからだ。

私の弟は道路を歩くときは必ず右側を歩くようにしていると言う。

左側を歩いていれば後ろからの車の無謀な運転を察知できないというのがその理由だ。



●2019.4.3(水)横綱引退

対戦相手が全盛期の横綱の場合、負けを覚悟しているのか、覇気が感じられない力士が多い。

しかし横綱もいつまでも強いわけではなく、負けが込んでくると引退ということになる。

横綱の力に陰りが見え始めたとたん、それまでの対戦では元気のなかった下位力士が獲物を狙うハイエナのように精悍になる。

定年を迎える夫と妻の関係に似ている。



●2019.4.4(木)信頼

第二次大戦中、戦闘機どうしの空中戦で勝利するために日本軍はパイロットの技能の向上を目指した。

アメリカ軍は、未熟なパイロットでも勝てるように戦闘機の性能の向上に取り組んだという。


仕事に関しては、私はアメリカ軍と同じように自分も含めて人間というものを信用しない。

たとえば、仕事の引き継ぎの時がそうである。

口頭で説明すると漏れが生じるし、「あれはどうでしたっけ?」と後日再説明を求められることもしばしばだ。


そこで私は部署が変更になると、仕事の引き継ぎの書類を2種類作成した。

一つはオーソドックスなもの。

もう一つは時系列をもとにした私独自のマニュアルである。


そのマニュアルどおりに動けば、誰でもスムースに仕事ができるように作成する。

これを作るには現場での人間の動きを細かにシミュレーションする能力が必要だ。


仕事を現実的に進めるうえで大切なのは、実は数多くの些細なことである。

この些細な事項はオーソドックスな引き継ぎの書類には載らない。

だから、どの部署も年度初めの会議で毎年同じようなことを長い時間かけて話し合っている。



●2019.4.5(金)マジっす

額が勇猛果敢に前進して髪を置き去りにしている知人がいる。

簡単に言えば、ハゲているのである。

そのために実年齢よりずいぶん老けて見える。

彼が日課の散歩をしていたら近所の幼稚園児に声をかけられたという。

「おじいちゃんは何で毎日歩いてるの?」

知人は「おじいちゃん」と初めて呼ばれてショックを受け、報告を聞いた妻と娘は大笑いしたとのこと。

明日は我が身である。

体は日に日に老いて行くのに不思議なことがある。

気の持ちようは20代か30代あたりで止まったままなのである。

これだけは実際に年をとってみなければ分からない。

若者に言っても「マジっすか?」と言われるのがオチだろう。



●2019.4.6(土)恐いもの

「地震、雷、火事、オヤジ」が恐いもののベスト4だが、現代では「オヤジ」は除外しなければならないだろう。

多くの家が木造のボロ家だった昔は台風も恐かった。

台風が接近すれば必ず停電になった。

だからどの家にも懐中電灯や蝋燭があった。

父親は雨戸に×印に板材を釘づけにしたし、屋内では雨漏りもした。

そんな中、子供たちだけは無邪気に学校が休みになることを願っていた。

しかし、台風よりも恐いものは地震だろう。

熊本地震が発生してもうすぐ3年になる。

地震が一段落しても海外からの観光客数はなかなか回復しなかったようだ。

聞くところによると、地盤の関係で韓国はめったに地震がないとのこと。

そのため、韓国人の地震に対する怖がり方は日本人の比ではないという。



●2019.4.7(日)違いが分かる男

「あいつは何を考えているんだ!」と言いたいことがよくあるが、たぶんそんな人間は何も考えてはいないのだろう。

一発屋と呼ばれる芸人が絶頂期の巨額の収入をTVで発表することがある。

その大金を無計画につかってしまい、今はすっからかんになっている。

「いつまでも人気が持続するわけはないから貯金しておくべきじゃないか。何を考えているんだ!」と言いたくなる。

しかし、コツコツ貯金するような人間はそもそも芸人になろうなどとは思わないだろう。

ストーカーも同じだ。

「嫌われているのにつきまとったらますます嫌がられるのは当たり前じゃないか。何を考えているんだ!」

そんな当たり前とも言える理屈を実感できる人間ならストーカーにはなるまい。


以上のように「何を考えているんだ!」と言う側と言われる側は感覚がかけ離れている。

ところが、私個人においてもその時々で感覚に違いが生じることがある。

たとえば、体調による違いがある。

普段は女性の香水やリードディフューザーをいい香りだと思う私も、二日酔いの朝はそれらの匂いを受け付けず吐き気さえ催す。

普段はおいしいと思うコーラやビールにしても、スポーツで体を酷使した直後は普通の水のほうを体が欲する。

年齢によっても好みが変化する。

人参、ピーマン、ゴーヤ、わさび、唐辛子、タバスコなど、子供の頃に苦手だった野菜や香辛料を今ではけっこう好んで口にしている。

大人になるにつれて体内にいろんな毒素が蓄積されるから、それらの食品には毒は毒をもって制するというような働きがあるのかもしれないなどと勝手に解釈している。

経済状態に左右される違いもある。

裕福な人は1万円落としても翌日には忘れてしまうかもしれないが、私は、若いころに博多駅前の電話ボックスに小銭入れを置き忘れたことがいまだに忘れられない。


とまあ、こんなふうに昔のコーヒーのコマーシャルではないが、私は「違いが分かる男」である。

宝くじを毎月10枚買っては、当選番号と照らし合わせて「これも違う!これも違う!」と毎月叫んでいる。



●2019.4.8(月)サイン

子供が登校する時に腹痛や吐き気などを訴えたら不登校のSOSのサインだとよく言われる。

しかし実際に不登校を経験した人の話によると、そんな分かりやすいサインは既にギブアップのサインだという。

プロレスと同じで耐えられなくてギブアップのサインを出しているのに、「頑張って行ってみたら?」と技をかけ続けるのは酷だろう。

ではSOSのサインはどんなものかと尋ねると、そっと出しているということだった。

キャッチャーがピッチャーにサインを出すように、子供はまず母親にそっと気づいてもらいたいのかもしれない。


「へえ、2018年のサラリーマンの小遣いの平均月額は3万9836円だって」とニュースの話題を口にしてみた。

妻は「ふーん」と言ったきり、洗濯物をたたみ続けている。

私のサインは届きそうにない。



●2019.4.9(火)金持ち喧嘩せず

ストーカー殺人などの陰惨な事件が後を絶たない。

「恒産無ければ恒心無し」という言葉を思い出す。

国民すべてが経済的に裕福ならば、ちょっとしたことでいらついたりせず、犯罪は激減するのではないか。

そう思うと同時に、「まてよ」と貧乏でへそ曲がりの私は考える。

「金持ち喧嘩せず」もいいが、何事にも表と裏がある。

お金持ちのマイナス面は何だろう?

さらに「まてよ」と私は考える。

そんなことを考える根性を「貧すれば鈍す」と言うのではないのかと。



●2019.4.10(水)父親

私の子供の頃の視点で考えてみる。

生まれてずっと母親はそばにいてくれた。

学校から帰っても母親はいつも家にいた。

そんな我が家に一人変な人間がいた。

朝早く出て行って夜遅く帰り、時々話しかけてくる。

それが子供にとっての父親だ。

子供にとって父親が気詰まりな存在であるのは仕方がないことだ。

そしてそれは生涯変わらない。

父親にしてみれば不本意であっても。



●2019.4.11(木)男どうし

街を歩いていると、女どうしの二人連れはよく見かけるが男の二人連れはあまりいない。

男どうしは用事もなしに街をぶらつくような気楽な関係を作るのが苦手だ。

極端な言い方をすると、男どうしでいると真剣勝負をしているような気疲れがする。

私などは公衆トイレで小用をたそうとする時、横の便器に誰か来るとすぐにはオシッコが出ない。

女はそんな無用な緊張のむなしさを知っているのだろう。



●2019.4.12(金)手当

江戸時代、医者に診せる経済的余裕のない母親が苦しむ我が子をさすり続ける。

そんな場面が時代劇で時々出てくる。

「手当」という言葉どおり子供が痛がる部位に手を当てて一晩中さすり続ける。

そうするしかない母親の心中は察するにあまりある。

現代なら、我が子が体調不良を訴えれば自家用車ですぐに近所の病院へ連れて行くだろう。

今昔のそんな状況の違いが子に対する親の情愛の性質や深さに影響することはないのだろうか。



●2019.4.13(土)もったいない

一心不乱に集中して何かを成し遂げた後に人は充実感や幸福を実感する。

しかし、肝心の一心不乱に集中している最中は幸せも何も感じてはいない。

ただ集中しているというだけの無我の状態である。

理不尽なような、もったいないような。



●2019.4.14(日)単純作業

この駄文を書く時もそうだが、机の前に座って頭をひねるよりも散歩したり草むしりをしたりと何か単純作業をするほうがよい。

最近は製本機なる便利なものがあるが、以前はプリント冊子を作る際はテーブル上の各ページのプリントの山から1枚ずつ取っていった。

そんな単純な作業をしていると、効率的なプリントの取り方その他様々な思いが勝手に浮かんできたものだった。

自宅の近所の大学のグラウンドは、私にとっては西田幾多郎の哲学の小道のようなものだ。

その外周をウオーキングしていると小説のアイディアがあれこれと湧いてくる。



●2019.4.15(月)古代の音韻の復活

テレビを視聴していると出演者たちのイ段の発音が耳についてしかたがない。

たとえば、「私なりに頑張ってるし、」などと言う場合の「し」を、ドイツ語のウムラウトみたいに「し」と「せ」の中間の音で話す人が急に増えてきた気がする。

このようなイ段の発音に加えて、近頃はウ段の音も、ウ段とエ段の中間の発声になりつつあるように感じられる。

ひょっとしたら、現代の我々は『古事記』や『万葉集』に上代特殊仮名遣いによって記されている乙類の発音の復活の現場に立ち会っているのかもしれない。



●2019.4.16(火)含蓄

言葉は短ければ短いほど読む者の想像力を掻きたてる。

「今日は日曜日、これからふとんを干します。」

こんな何の変哲もない一文でもネット上に投げ出されると、目にした家族や知人はほのぼのとした思いに包まれるだろう。

想像をたくましくすれば、まだめぐり逢わぬ恋人に自分の存在を知らしめたいメッセージであるかのようにも響く。



●2019.4.17(水)男は甘い

スナックで飲みながらほろ酔い加減でカラオケを歌う。

歌う演歌の歌詞にも酔いしれる。

別れた男を想う切々とした女の情愛……。

ある時、ふと疑念が湧いてママさんに尋ねてみた。

というのは女性歌手の歌であっても作詞者の多くは男性だからだ。

「演歌の歌詞は女から見れば甘っちょろいって思わない?」

ママはにっこり笑ってうなずいた。

やはり女性は男が思うよりもはるかにたくましいのだ。

私は酔いが醒めるような思いがしたことだった。



●2019.4.18(木)江戸っ子と二世タレント

「俺が、俺が」としゃしゃり出ようとする姿はみっともない。

プライドはリンボーダンスのように努力して低くしたほうがよい。

しかし、それは自分一代でのし上がってきた成金には難しい。

代を重ねて気負いやてらいが薄れると品が良くなる。

江戸っ子三代とはつまりそういうことなのだろう。

二世タレントも江戸っ子と似たようなところがある。

有名芸能人の子供たちを集めたバラエティー番組を見た。

苦労知らずで幼稚な感じだったが嫌悪感を覚えはしなかった。

彼らのおおらかさ、それが育ちのよさというものなのだろう。


●2019.4.19(金)老いとの闘い

職場でお茶の入ったカップを自席以外のどこかに置き忘れるのは誰しも経験することだろう。

年をとるとその回数が増える。

私のかつての同僚はこんな工夫を語ってくれた。

「私はカップを置く時はその都度、今ここに置いたぞ、ここに置いたぞと心に言い聞かせるんです」

涙ぐましい努力である。


若いころは一晩寝て目覚めると、前日よりは身体能力がアップしている。

成長期には身長さえも毎日伸びる。

年をとるとその逆である。

のんきにウォーキングしているように見える老人は必死で老化の進行をくいとめているとも言える。


100歳で亡くなった私の父も80代まではプールで泳いでいた。

周囲に迷惑をかけずに死にたいという理由からだった。

体を鍛えておけば長く寝つくことなく、死ぬときはころりといくというのだ。

実際、最期の半年間に肺炎で入退院を数回繰り返したが、寝つくことはなく逝った。



●2019.4.20(土)赤信号

「あ、赤になったか」となぜ無心に思えないのだろう。

信号機は車の流れを平等にさばいているだけなのに。

「ちくしょう、赤にひっかかった!」

なんという我がまま。



●2019.4.21(日)規則の細分化

六法全書はなぜあんなに厚いのか。

法の網の目をかいくぐる者が後を絶たないからだろう。

そのためにあらゆる不正を裁こうとして規則の網の目は細かくなる一方だ。

法律はもちろん、各種契約書の約款から学校の校則にいたるまで。

どんな規則も最初はモーセの十戒のように簡素なものだったろうに。

人類は果たして進歩しているのかどうか、疑わしく思ってしまう。

あさましい人間が悪知恵の限りを尽くそうと「天網恢恢疎にして漏らさず」なのだと信じたい。



●2019.4.22(月)喜怒哀楽

「喜怒哀楽」のうち「怒」ほど人を傷つけるものはない。

他人だけでなく、知らず知らずのうちに自分自身さえむしばまれていく。

「哀」は悲しい。

辛いことが続く時期に過去の「楽」や「喜」を思い起こすのはどんな意味を持つだろう。

癒しになるだろうか、それとも辛さが増すだろうか。


嬉しかったことを思い出してみても当時ほど嬉しい気持ちにはなれない。

しかし辛かったことを思い出してみると当時の辛さが痛切によみがえる。

「病は気から」と言う。

辛い思い出はきっと体にもよくないのだろう。



●2019.4.23(火)シンプルイズベスト

「シンプル・イズ・ベスト」という言葉が好きだ。

人生についてあれこれと考えを巡らしても、結局は自己弁護になることが多い。

小人の小人たるゆえんである。

そんな自分に倦んだ時は自然に目を向けよう。

春は名のみの風の寒さの中でも木々はつぼみをふくらませる。

頭が下がる思いがする。



●2019.4.24(水)休日や深夜に働く人

休日に遊びに出かけようと思う。

そんな私を迎えるために働きに出る人たちがいる。

高速道路のサービスエリアや行楽地の各種施設。

遊びに行くのがなにやら気の毒になる。

深夜のコンビニに行けば若い子が働いている。

普通なら家で寝ている時間だ。

その若者が実家暮らしなら、親はどんな気持ちで先に眠りに就くだろう。



●2019.4.25(木)献立とアリバイ

昨日の夕食に何を食べたか思い出せない老人がいる。

それを笑う人は自分も思い出してみればいい。

3日前くらいからあやしくなるのではないか。

食事のメニューはそんなに何日も前まで覚えているものではない。

刑事ドラマでアリバイを聞かれてすぐに答えるのも嘘くさい。

1、2週間前の自分の行動を時間をかけずに思い出せるだろうか。



●2019.4.26(金)春秋に富む

学校帰りの小学生が何の屈託もなく歩いている。

「春秋に富む」という言葉の意味が実感として感じられる。

あの子らは、私に残された春秋の数倍もの年月をこれから生きるのだ。

その長い航路に幸多かれと祈らずにいられない。



●2019.4.27(土)老人のデジタル化

家を出て1、2歩歩いた時点で不安になり、戻って確かめることがある。

たった今、玄関のドアに鍵をかけたかどうか。

アナログが旧世代、デジタルが新世代の人間の比喩として使われるが、こと時間に関しては逆のようだ。

年をとるにつれて時間が連続したものではなくなり、瞬間瞬間がプツリプツリと分断されていく。

冒頭の例だけでなく、ガスの消し忘れ、ブレーキとアクセルの踏み間違い、老いの繰り言、徘徊、認知症……。

全てそれで説明がつきそうに思われる。



●2019.4.28(日)もう一人の自分

「うしろすがたのしぐれてゆくか」(種田山頭火)

「咳をしても一人」(尾崎放哉)

もう一人の自分がじっと自分を見つめている。



●2019.4.29(月)ダニ

テレビの画面一杯に映し出されたダニの拡大写真を見た。

自然は偉大だとつくづく思う。

最新の科学技術をもってしても、あんなに複雑なものをあんなに小さくは作れまい。

しかも生命が宿っているのだ。

くだらない人間をダニ呼ばわりすることがあるが、ダニも捨てたものではない。



●2019.4.30(火)ゴミとスリッパ

スナックで飲んでいた時のことだ。

カウンターの客一人一人の前に小さなゴミ箱がある。

新聞のチラシを折って作ったものである。

そのゴミ箱に隣の客が鼻をかんだティッシュを丸めて投げ入れた。

ほんの20センチほど先にあるゴミ箱だから「投げ入れた」と言うほどでもないのだが。

しかし、私はその動作を見て「この客は人間も同じように扱うのだろうな」と感じた。

各種の施設でスリッパを履く人を見ても同じようなことを感じる。

棚から取り出したスリッパをそっと床に置く人もいれば、放り投げるように床に落とす人もいる。



●2019.5.1(水)今日から令和

いよいよ「令和」の世となった。

私が新元号を決める会議の一員だったならこう感想を述べただろう。

「レイという響きがきりっと引き締まった感じで好感が持てます。ただ、令という文字を見て多くの人は命令という言葉を思い浮かべるでしょう。そうするとレイという響きまで冷たさを伴ってきます。そういった懸念を払拭するために令という漢字に『立派である、優れている』という意味があることを強調したほうがよいでしょう」

その説明のための例としては「ご令嬢」「ご令息」という言葉がふさわしいように思う。


令和の時代になって今後必ず出てくるだろうと私が予測していることがある。

それは双子で生まれた女の子につける名前だ。

「令子」と「和子」



●2019.5.2(木)視力

風呂場に置いているプラスチック製の腰掛けを買い替えたいと妻が言う。

カビがプラスチックの内部に入り込み、磨いても汚れが落ちなくなったとのこと。

メガネを外して風呂に入る私にはその小さな黒ずみは見えない。

視力のいい人とそうでない人はどちらが幸せなのだろう。

目がよくないと相手の顔のシミやしわはよく見えない。

ついでに相手の嫌な内面も見えなくなればいいのだが。



●2019.5.3(金)サザエさん

「遊びたいなら、まず宿題をすませなさい」

サザエさんがカツオを叱るのは正しい。

「アリとキリギリス」の例もある。

私もサザエさんに叱ってほしかった。

「老後に遊びたいなら、まず貯蓄をすませなさい」

若い時にしょっちゅう飲み歩いていたせいで今はささやかな晩酌もままならない。

ところで、サザエさんとカツオが親子にしか見えないのは私だけだろうか。

さらに言えばカツオまでは百歩譲るとしても、ワカメちゃんまでもが波平の孫でなく子供というのは……。



●2019.5.4(土)相対的な味

「おいしさ」の感覚は絶対的なものではなく、相対的な習慣で決まるのではなかろうか。

カップ麺類ばかり食べている人が高級料理を口にすると感激することだろう。

しかしその人が裕福になって高級料理を毎日食するようになると、かつてのおいしさは感じなくなるだろう。

逆に、久しぶりに食べるカップ麺をおいしいと思うかもしれない。

お抱え運転手が目抜き通りの三ツ星レストランの前で車を停める。

食事がすめばシェフが挨拶にくる。

「本日のお料理、いかがでしたでしょうか」

それもいいだろうが、路地裏の居酒屋で一杯やりながら食べる一品料理の味も捨てがたい。

飲食だけでなく生活のいろいろな面における満足感も同じように考えられないだろうか。

とすれば、セレブの生活を羨む必要はなくなる。



●2019.5.5(日)哲学者と占い師

頭のいい人でも悪いことをする人がいる。

それどころか、頭がよくなければできない悪事もある。

頭がいいことは必ずしも幸福にはつながらないようだ。


哲学者は頭のいい人だというイメージがある。

あらゆることについて考え、考え抜くことの意味はなんだろう。

はたして哲学者は幸せなのだろうか。

冬の夜の街角に寒そうに座っている占い師も気になる。

占い師は自分の運勢を占って自分の人生を好転させることができるのだろうか。

教えてチコちゃん、と言いたくなる。

「つまらんこと考えないでボーっと生きてりゃいいんだよ!」と叱られるだろうか。



●2019.5.6(月)三つ子の魂百まで

若い夫婦に子供が生まれたら考えてほしいことが二点ある。

親である自分たちを子供にどう呼ばせるかということと朝の挨拶である。

私は子供のころ、両親を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼んでいた。

大人になってそれではまずいと思っても、「父さん」「母さん」と急に改められるものではない。

朝の挨拶の習慣もそうである。

私はついに親に対して「おはよう」ということなく終わってしまった。

挨拶と親の呼び方、簡単なことほど難しい。



●2019.5.7(火)唯々諾々

サンドイッチが食べたくなったと恋人が言えば男はいそいそと車に乗ってコンビニに向かう。

女の方も同じで、お腹が空いたと彼氏が言えばいそいそとラーメンか何かを作り始める。

そんな二人でも、結婚して蜜月が過ぎるとお互いのがむくむくと頭をもたげ始める。

そうなると目の前の新聞を取ってくれと言われても動きたくなくなる。


そんな不毛な冷戦に陥らないために私は自分の我を捨てることにした。

簡単に言えば女房殿の尻に敷かれるのである。

何事も「あんたの言うとおり、私の聞くとおり」という姿勢に徹している。

それでは怪しげな宗教の洗脳と同じで自分というものがないではないかとお叱りを受けるかも知れない。

大丈夫である。

人間のの醜さ、強さは恐るべきものだ。

自分のを思うままに押し通そうとする「我がまま」が妻への服従くらいで消滅するのなら望むところだ。



●2019.5.8(水)余計な世話

「若者叱るな、来た道だもの。年寄り笑うな、行く道だもの。」

いい言葉だ。

しかし、待てよと思う。

目下にも目上にも何も文句を言ってはいけないなら一歩も動けないではないか。

そう、それでいいのだろう。

むやみに動かなくていいのだ。

自分の判断を唯一絶対の正解と思って口出しするところから余計なお世話が始まる。



●2019.5.9(木)ビューティフルサンデー

昔、「ビューティフルサンデー」という歌が流行った。

辛いことを乗り越えて明るく生きていこう。

苦労の末にやっと日が差して幸せをつかめた。

そんな内容の歌なら数多くあるが、「ビューティフルサンデー」は底抜けに明るい。

あんなに明るい歌詞の歌はほとんどないのではあるまいか。

ということは、明るいだけでは歌も文学も成り立ちにくいのかもしれない。

同じような意味で悪人が登場しない『サザエさん』も稀有な存在だ。

泥棒さえも微笑ましく描かれる。



●2019.5.10(金)話の受け止め方

ある漫談家のネタである。

若い夫婦の会話。

妻「私、とっても怖い夢をみたの」

夫「どんな夢だい?」

妻「あなたが死んじゃう夢」

夫婦の40年後の会話

妻「私、とっても怖い夢をみたの」

夫「どんな夢だい?」

妻「あなたが長生きする夢」


次は知人のブログから拝借する。

成長の段階に応じて呼ばれ方が変わる魚を出世魚と言うが、その一つであるブリを先生が教えようとした。

先生「ハマチが大きくなると何になるか知ってるか?」

生徒「刺身」


これらの話は第三者としては単純に面白い。

しかし自分が夫や先生だったらと仮定してみると受け止め方が現実味を帯びてくる。

それもまた面白い。



●2019.5.11(土)スローライフ

私が子供の頃に町を走っていた車の名前は今でも口をついて出てくる。

トヨペット・クラウン、ダイハツ・ミゼット、ダットサン・ブルーバード、日産・セドリック等々。

私の物覚えがいいのではなく、昔は車の種類が少なかったというだけのことだ。

その後日本が豊かになるにつれて車の種類は加速度的に増えて行った。


最近のことだが、信号で停車していると前の車の車種のロゴが目に入った。

「フィールダー」と読める英語のロゴだった。

そんな名前の車もあるのかと何気なく見ていると、その少し上に「Corolla」というロゴもあった。

ということは、私の小さい頃と違ってカローラは1種類ではないのかもしれない。

調べてみるとやはりあった。

ワゴンタイプのフィールダー以外にもセダンのカローラアクシオとコンパクトカーのカローラスポーツ、計3車種ある。

これでは昔と違って車の名前を覚えきれるはずはない。


車だけではない。

家の中をちょっと見まわしてみても物があふれている。

たとえば洗剤類。

キッチンや洗面所、風呂場にいったい何種類置いてあるだろう。


コマーシャルに踊らされてさほど必要のない物でも買い込んでしまう。

ことさらに「断捨離」などと叫ばねばならない不毛な過剰だ。

多くのものをすぐに買い替えるには身を粉にしてせわしく働かねばならない。

昔の当たり前の暮らしは「スローライフ」と呼ばねばならなくなった。



●2019.5.12(日)文学の利息

預金にたとえれば、短歌よりも俳句のほうが短い分だけ利息が高い。

この場合の利息とは、読者側の想像のふくらみ、あるいは想像の恣意性のことである。

だから、詩においても次のような短詩を味わい深いという人もいれば酷評する人もいる。

   雪  三好達治

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。



●2019.5.13(月)マタイ伝

若者は未来に夢を抱いて生きていく。

中年は未来に不安を抱えて生きていく。

老人はその日その日をただ生きていく。

最も幸せなのは老人なのかもしれない。

聖書に有名な文句がある。

「労苦はその日その日に十分ある。明日のことを思い煩うな。明日のことは明日が心配する」



●2019.5.14(火)生活スタイルの変化

昭和30年代の高度経済成長によって日本人の生活スタイルが大きく変わった。

たとえば車と冷蔵庫の普及によって買いだめが可能になった。

それ以前は車も冷蔵庫もなかったので毎日近所の店に歩いて行き、1日分だけの食料を買っていた。

だからどの町にも米屋、魚屋、肉屋、八百屋、乾物屋があった。

それら町なかのささやかな店は高度成長期以降、スーパーなどの大型店の出現で窮地に立たされた。

さらには大量生産、大量消費の象徴のような百円ショップの登場によって食料品店以外の個人商店も姿を消した。

買い物ひとつをとってみても生活のにおいというものが失われていく。



●2019.5.15(水)幸田露伴の臨終

文豪幸田露伴の臨終がうらやましい。

病床で家族と話を交わした後、「じゃあ、おれはもう死んじゃうよ」

そう言って2日後に大往生を遂げた。



●2019.5.16(木)ちぐはぐな老夫婦

私の先輩で、以前勤めていた職場に10年ぶりに再転勤になった人がいた。

かつての馴染みの居酒屋の暖簾をくぐり、「お久しぶりです」と挨拶した。

すると、店の主人は懐かしがるどころか、「今、客が多いから」と門前払いを食ったという。

そんな扱いをされても先輩は主人の性格を知っているので相変わらずだなと思ったそうだ。

常連客でも酒が進むと「もう、飲まないほうがいい」と半ば強制的に帰されるらしい。


その店に私は先輩に連れて行ってもらい、その後は一人でも行くようになった。

時間をかけて丁寧に焼いたイカゲソを私が「うまい!」と言うと、主人は「おいしいでしょう?」と嬉しそうな顔をする。

刺身を注文すると、切り終わった魚のさくをキッチンペーパーで大切そうにくるんで冷蔵庫に戻す。

白髪頭で細身の主人は愛想はよくないが、仕事に誇りを持ってつつましく生きてきた感じのする人だった。


通い出して暫くたったある日、店の奥から肥ったおばさんが出てきて私の近くの椅子にどっかと座った。

膝が悪いらしく別の椅子に片足を伸ばして乗せて、にこりともせず「あんた、どこの人?」と無遠慮に話しかけてきた。

(顔立ちも姿も性格もよくないこんな女とよくもまあ一緒になったものだ)

主人の奥さんと思われるそのおばさんを私は嫌悪した。


後日、先輩から店の夫婦のなれそめを聞いた。

主人は若い頃滋賀県のあるホテルの板場で料理人をしており奥さんは同じホテルの仲居か何かをしていたらしいのだが、手に手を取って駆け落ちした仲だということであった。

そんな熱烈な恋愛をしていた過去があったとは。

人は見かけでは分からない。



●2019.5.17(金)水道とガスの不気味さ

サルトルの『嘔吐』の主人公はマロニエの木の根っこを見て吐き気を催すようになった。

そんな哲学的な深さはないのだが、私はキッチンの水道の蛇口やガスコンロを不気味に感じることがある。

栓をひねれば水が出る、ガスが出る。

全国約5千万所帯の家の中の膨大な数の蛇口やガス栓のすぐ先で水やガスが待機しているのだ。



●2019.5.18(土)多様性の尊重

日本文化は「恥の文化」だと言われる。

恥の文化は他人を意識する文化でもあり、「人に迷惑をかけないように」という道徳に結びつきやすい。

そのため私などの世代は言いたいことがあっても他人を慮って自由な物言いはなかなかできない。


現代は個性重視の価値観のもとで自由や多様性といったものが尊重される。

ところが皮肉なことに多様性や自由があるために発言が難しくなってきた。

ネットの炎上などがその例である。

「お前の意見で俺は傷ついた。よく考えてからものを言え!」

気軽に発言できない点は同じでも、昔は不自由さはあっても奥ゆかしさというものがあった。

自分の自由だけを押し出して他人の自由は認めない、あるいは他人への無関心……、真の意味での多様性の尊重は難しい。


しかし炎上にもめげずネット上では様々な発言が飛び交っている。

それなのに実生活において人々が自由に発言しないのはなぜだろう。

「うるさい。レストランで子供を走り回らせるな」

「電車のドア近くに座り込んだらじゃまだろうが。どけ」

言いたいことはあってもなかなか口にできない。

実利や実害がさほどなく匿名性にも守られているネット社会とリアルな現実世界との間には高い壁があるのだろう。



●2019.5.19(日)酔っ払いの見苦しさ

ハイテンションの酔っ払いは見苦しい。

相手にも同じテンションを要求して過激な物言いに走りがちだ。

高揚感を共有したいのだろうが、相手は絡まれているとしか思えない。

酔っている時に発信するメールも同種の愚を犯しがちだ。

かく言う私も飲み会の場を盛り上げるためかつては刺激的なトピックを次々と繰り出すことに腐心していた。

近ごろは宴席では日常の茶飯事を話題にするように心がけている。

凡事の汲めども尽きせぬ滋味というものに少しずつ惹かれるようになった。



●2019.5.20(月)脈

晩酌の盃を傾けながら床の間の柱を見てふと思った。

「この柱もかつては生きていたのだなあ」

そういう目で見回せば、木製のテーブルや椅子なども同じである。

さらには、目の前の酒のつまみのかつお節をかけた冷奴も、かつては生きていたカツオと大豆だ。


動物は心肺機能が停止すれば死ぬ。

簡単に言えば、血管の中を血が流れているかどうかが生死を分ける。

養豚場の豚も脈がなくなり血管に血が流れなくなれば「豚肉」になる。

脈は生きている証であり、男女間の交際も仕事上の交渉も「脈がある」うちは大丈夫だ。


そんなことを思いながら盃を重ねていた。

「いいかげんに切り上げてよ、片付かないから」

妻の一言でとたんに私の脈は飛び、不整脈になる。



●2019.5.21(火)野良猫の喧嘩

野良猫どうしが喧嘩をしていた。

もつれ合って転げ回るうちに、お互いが噛み合う格好になったまま動かなくなった。

片方の猫が噛みしだけば、相手の鼻づらを噛みつぶすことになる。

もう片方が噛みしだけば、相手の下あごを噛みつぶせる。

そんな形勢のまま唸り合っているのだ。


私は神の摂理を感じた。

獣どうしなのに、激昂の極みにあっても相手に致命傷を与えようとはしないのだ。

人間は、他人どころか親子でさえ殺し合う。



●2019.5.22(水)ダメージジーンズ

私の小さい頃はお金も物もなく、その分、物を非常に大事にした。

物を使い捨てることはなく徹底的に使いまわした。

服が破れてもズボンの膝、上着の肘、靴下の踵など母親が糸と針でつくろった。

新しい服を買ってもらえるのは年に1回あるかないかのものだった。

そんな時代に育ったのでダメージジーンズを見ると私の心がダメージを受ける。

「もったいない、なんという罰当たりなことを!」


半ば冗談めかしてここまで書いた後に思った。

若い人にとって鋏やカッターやサンドペーパーでジーンズを傷つけるのは楽しいことなのだ。

ダメージジーンズに加工する時、私が抱くようなもったいないとか胸が痛むとかいう感覚は皆無なのだ。

そんな当たり前のことが何とも言えない実感として迫って来た。

世代間で感覚が隔絶しているのである。

私よりも更に高齢の人はそもそもダメージジーンズをオシャレで履いていることさえ認識できていない。

よほど生活に困っている貧しい若者だと思っているようである。

喜劇と悲劇は確かに紙一重だ。



●2019.5.23(木)犬や猫の食事

犬や猫がエサを食べているようすを見ると、手(前足)を使えば食べやすいだろうにと思う。

しかし、動物学者によれば犬や猫は口だけを使って食べるほうが効率的だということだ。

自分の手をじゃんけんの「ぐう」の形に握ってみた。

すると犬や猫の手(前足)に似た形状になる。

なるほど、これなら私も手を使わずに口だけで食べるだろう。



●2019.5.24(金)星と人間の謎

毎日望遠鏡で星空を観測している天文学者でも家に帰れば妻や子供のことで頭を悩ませているかもしれない。

天文学者に限らず遥か彼方の星よりも目の前の妻子のほうが解き明かしがたい謎に思える人は多いだろう。

解決策が一つある。

「同じ人間だから」という感覚を過大解釈しないこと。

そうすれば「おれの言うことがなぜ分からないのか!」という一方通行のいらだちから解放される。

星も家族も神秘的な存在だと思えば尊崇の念も生まれよう。

ブラックホールはやがて解明されるだろうが、他人の心の深奥は永久に謎のままだろう。



●2019.5.25(土)人間の偏差値

「自然」の本質は過不足がないというところにある。

分かりやすく言えば偏差値50ちょうどなのである。

これには驚嘆せざるを得ない。

尊敬すべき蟻や松の木も存在しないかわりに軽蔑すべき蜂や杉の木も存在しない。

自然界の中で人間だけが自由意志というアイテムを持っている。

そのため出来不出来が生じ、聖人も出現すれば殺人鬼も出てくる。

犬や猫にも劣る人間は犬や猫を虐待したりする。

本来ならまず犬や猫を見習うべきである。



●2019.5.26(日)違いが分かるということ

視力と知力は似ている。

黒板にチョークで小さな点を二つ並べて書いて離れたところから見る。

その二点間の距離をどんどん縮めていく。

どれくらいくっつけて書いたところまで二つの点だと認識できるか、それが視力である。

そして視力と同じように知力も「違いが分かる」ということがその本質である。


子供はいろんな物を分解したがる。

分解した後はほったらかしなので母親に叱られるが、それは可哀そうなことだ。

ものを要素に分解するということは、知の発達への入口として推奨すべき訓練なのである。


これが大人になると事情は違ってくる。

子供は分解する一方でもいいのだが、大人は分解したものを再構築する必要がある。

バイクを分解して仕組みが分かっても組み立てなければ乗ることはできない。


一流大学に合格した人間が「違いが分かる」段階で止まってしまえばたちが悪い。

「おれとあいつは違う。おれのほうが上だ」

こんな皮相的な差別知で生きている人間の何と多いことか。

違いを見分けたのち、その奥の「一視同仁」とでも言うべきレベルを目指さない知力は生兵法であり、大怪我のもとだ。



●2019.5.27(月)恋人選び

何人かの男性を集めて着ている肌シャツをそれぞれビニール袋に入れてもらう。

その匂いを女性たちに嗅がせるというテレビ番組を見た。

どのシャツを臭いと感じるか、あるいは気にならないかが女性によって異なっていた。

その原因は遺伝子の相関関係にあるという説明に驚いた。

女性は自分とかけ離れた遺伝子を持つ配偶者を求めて優秀な子孫を残そうとする本能を持つ。

そのため、遺伝子の違いが大きければ大きいほどその男性の匂いを好ましく感じるというのだ。


この実験は恋人選びに大いに役立つと思われる。

しかしそれが有効なのは子づくりまでではないかと私は密かに危惧している。

その根拠は、夫を好ましく思って結婚したはずなのに世の多くの妻は子供が成長すると夫を臭いと言い出すからだ。

加齢臭の問題というよりもおそらく配偶者としての賞味期限が切れるのだろう。

中年以降の夫の悲劇はそれで終わらない。

生長の途中でオスとメスが入れ替わる魚類がいるという。

人間も同じで、年を取るにつれて夫が女に、妻が男になっていくのではなかろうか。

奥さんたちにヒゲが生え始めたら分かりやすいのだが。



●2019.5.28(火)もやし 

即席ラーメンにもやしを入れて食べると美味しい。

特に味噌ラーメンと相性がいい。

そのもやしがなぜ安く買えるのかというと特売品、目玉商品として利用されるかららしい。

客寄せパンダならぬ客寄せもやしである。

時には1袋が5円や1円で売られることもあるようだ。

そんな仕打ちを受けるもやしは店頭に並ぶまでも偉い。

人間の都合で薄暗い環境で栽培されながらも、その語源どおり必死に芽を「萌やし」て生きていく。



●2019.5.29(水)健康の損得

ジョギングを終えた人がコンビニの店頭でタバコを喫っていた。

プラス・マイナス・ゼロという感じがする。



●2019.5.30(木)みみずがのたくったような字

亡くなるほんの少し前まで父親は備忘録のようなものを書いていた。

ノート数十冊の量に達しており、特に秘密にしているようでもないので時折覗くこともあった。

内容は、お金を何にいくら遣ったかとか、今日はどこそこに出かけた、誰々が訪ねてきたとかいうようなものだ。

日々のそういう出来事が上手な字でメモ風に記されていた。

凛としていたその字が、晩年はいわゆる「みみずがのたくったような字」になっていった。

病院のベッドに横たわる親を見舞い、筆圧が落ちて弱々しくなったノートの字から生命力の衰えを見て取るのは辛いものである。



●2019.5.31(金)千差万別

スーパーに買い物に行けば、カップ麺ならこれ、菓子ならこれ、手に取る製品は大体決まっている。

しかし、カップ麺にしても菓子にして店内には実にたくさんの種類の製品が置いてある。

ということは、当たり前のことではあるが、私が美味しくないと思うカップ麺や菓子を買う人もいるのだ。

食料品に限らず何でも事情は同じである。

「よくこんなものを着るなあ。趣味が悪い」

私がそうとしか思えない衣料品でも好んで買う人がいるというのは重要な事実だ。


食料品や衣料品の好みの違いならまだいい。

ものの考え方も同じように千差万別であることを肝に銘じなければならない。

自分と全く考えや感性が合わず嫌でたまらない人にも、共感しあえる仲のいい友人や知人がいるのだ。

嗜好が人それぞれであるように、考えや感性も他人より自分のほうがまともであるという保証はない。



●2019.6.1(土)他人との食事

「物を食べるというのは純粋に個人的な行為であり、従って人前で食事をするのは恥ずかしい行為だ」

私の知人でそう言った人がいた。

言われてみれば、人前で口を開けて食べ物を放り込み、モグモグ噛むのは気が引ける感じもする。

その一方、好意を持った人と親しくなりたい場合は「今度、お食事でもご一緒に」と声をかけるのが定番のようだ。

この矛盾はどうすり合わせればいいのだろう。

相手をまだよく知らない者どうしが恥ずかしい行為を共有しあう。

そうすることによって一種の連帯感を覚えるようになるのだろうか。



●2019.6.2(日)人生の吹きだまり

居酒屋やスナックで初対面の客に「お住まいは?」「お仕事は?」などといきなり聞かれることがある。

相手の住所や職業が分からねば話の糸口が見いだせないのだろう。

そんな生々しい話題は避けてたまには次のようにぼんやりした話をしたい。


「冬と夏、どっちを御免こうむりたい?」

「夏だね。冬は重ね着をすればしのげるが夏は皮膚まで脱ぐわけにはいかない」

「人生と四季を『喜怒哀楽』に当てはめれば、冬は『哀』で夏は『怒』だね」

「うん。人の冷たいしうちをじっと耐え忍ぶのが冬で、夏は開き直って『さあ殺せ!』って感じだね」


こんな話を続けたあげく最後は次のように情けなく締めるのもいい。

「生きていくことに目標は必要だろうかな」

「どうなんだろう。高い目標を掲げて生きている人はいつも動き回っているね。悪い意味じゃないよ。ただ、人情の機微に触れて立ち止まる暇なんかはなさそうだね」

「しかし、こんな話ばかりしている我々は人生の機微に足を止めるというよりは、人生の吹きだまりでよどんでいる感じがなくもないね」



●2019.6.3(月)あのですね

「あのですね」という言葉を投げかけられると笑いをこらえるのに苦労する。

「あのー」という意味のない発語に「です」を付けて何を断定しようとしているのか?

更に「ね」を加えて念を押されても「はい」と一応返事はするがとまどってしまう。

恋人どうしがデートの終わりに手を振って「じゃあね」と言えば味が出る。

「じゃあ」ではなく「じゃあね」

添えられた「ね」という1字はまた会う日までの架け橋だ。



●2019.6.4(火)潤滑油

子供の頃、自転車のチェーンに時々、油をさしていた。

潤滑油とはよく言ったものだ。

油ではないが、母親は襖の滑りがよくなるように敷居の溝に蝋燭を塗りつけていた。


年をとると、自転車のチェーンと同じように人間の体も錆びついてくる。

特に膝の潤滑油が枯渇して立ち上がるのも一苦労だ。

これを私はひそかに「老いるショック」と呼んでいる。

また、柔軟性もなくなり体全体が硬くなっていく。

これを私はひそかに「生前硬直」と呼んでいる。

小学生がなんなくできる体育座りも私にとっては拷問である。



●2019.6.5(水)不自然な文明

昔からいろんな著名人が「自然界に直線はない」と言っている。

ところで、都会には高層ビル群をはじめとして人工物の直線があふれている。

都会は不自然な世界なのだろうか。

「不自然」を辞書で引けば「好ましくない、無理があるようす」とある。

都会はアスファルトで土を生き埋めにしていると言った人もいる。



●2019.6.6(木)中原中也

中原中也は「名辞以前の感情が本物であり、言葉で表現したとたんにだめになる」という意味のことを言っている。

さすがに詩人である。

私もこんなエッセイもどきなど書かず、「俺は制作しない芸術家だ」と気取っている方がいいのかもしれない。



●2019.6.7(金)アナログ

数字で時刻を表示するデジタル式時計よりも昔ながらのアナログ時計のほうが好きだ。

しかし、カチッ、カチッと1秒ごとに時を刻む秒針は完全な意味でのアナログではない。

秒針が滑らかにスーッと進み続ける掛け時計を初めてみた時は衝撃を受けた。

「時は休みなく常に流れ続けている」ということが実感できた。


録画した番組の途中でリモコンの停止ボタンを押した時、違和感を覚えることがある。

写真と違って我々は動画を現実さながらの世界のような感覚で見ている。

その動画が一時停止した静止画の状態は現実の世界ではありえないことだ。


この奇妙さを逆手にとった映画の手法がある。

映画が静止画の状態で終わって画面にエンドロールの字幕が流れ始める。

さて席を立とうかと思う頃に静止していた画面が再び動き始めるという手法だ。

適切なたとえではないかも知れないが、亡くなった人間が生き返ったような感覚に襲われる。



●2019.6.8(土)メダカと我が子

メダカが水槽の中でスイスイと気ままに泳ぎ回っている。

このランダムな自走性が生命のありようそのものではないのか。

精巧なロボットメダカを造ってもプログラミングどおりの泳ぎでは退屈だろう。

ところが我が子となると話が違ってくる。

親の言うことを聞く子は可愛く、思い通りに動かないと腹立たしい。



●2019.6.9(日)SNS炎上

自分は頭がいいと思っている人ほど問題解決への意欲が高い。

学歴や社会的地位で言えば高い人、性別でくくれば男性に多いタイプだ。

とにかく一直線に問題を解決したがる。

こういう人は、問題が起きてもそれを解決したい人ばかりではないということが実感できない。

だからSNSでむきになってよく炎上する。

問題解決にあたっても財力や権力や能力がある(と思っている)人は、解決法が単線的である。

ゲームの世界と違って仕事や商売で勝敗が見えても簡単に投げ出すわけにいかず人は生きていかねばならない。

そういう局面で劣勢に立たされた側がどういう決着を模索するか。

それはビジネスの域を超えて小説の世界に近づく。



●2019.6.10(月)詩作

詩を作るのはとりあえずは簡単だ。

言葉を非日常的につなげばよい。

「雨が降る」は日常的な表現だが「哀しみが降る」と言えば詩的になる。

それに加えて難しげな言葉を挿入するといかにもという感じになる。

  涙さえもたそがれる日暮れ時には 

  乖離した自己との邂逅へ旅立とう

しかしテクニックを使わずに味わいを出すのは簡単ではない。

  祖父の箸からご飯がこぼれ落ちる

  家族は黙々とご飯を口に運ぶ



●2019.6.11(火)言葉のニュアンス

「はい、あーんして」と言われて口を開けると、食べ物を差し出した人間が自分でパクリと食べる。

そんないじわるをされた若い女性リポーターが半ば甘えるような、半ばすねるような声で相手に言った。

「そんなことしてたら、ろくな死に方しませんよぉ」

その場面をテレビで見ていた私は思わず笑ってしまった。

「そんなことしてたら、お前、ろくな死に方しないぞ!」

このフレーズは、すねたり甘えたりするような口調で言う言葉ではないのである。


「お客様はどちら様でしょうか」

受付嬢がよく使うフレーズだ。

これを、意味が同じだからと言って次のように言うことはできまい。

「あなたは何様ですか」



●2019.6.12(水)たられば

当たり前のことだが、現在の感受性を保ったまま過去にワープすることはできない。

それはないものねだりである。

結婚を後悔しているとしても、結婚していなかったら現在幸せな自分になっていたかどうかは分からない。

同様に、独身で通したことを後悔しても、結婚していたら現在どんな自分になっていたかということは実感できない。


ないものねだりが可能だと仮定してみよう。

例えば今の私が小学生になれたとする。

するとどの授業においても私は神童の扱いを受けるだろう。

しかし小学生らしからぬ悪知恵を働かせることも可能だ。

そんな場面を具体的に想像するとおぞましい。

ところで逆のケースの希望者はいるだろうか。

逆のケースとは、若者が今の自分のまま老人になることである。



●2019.6.13(木)分かりにくいカタカナ

カタカナの「ヲ」を「フ」の次に横棒という筆順で二画で書く人がいる。

カタカナは漢字の一部を取ったものが多い。

たとえば「伊」の左側のへんを取ったのが「イ」である。

「ヲ」は「乎」の最初の三画を取ったものだ。

だから横棒二本(上部の「ノ」とその下の左右の点「ソ」の左側)の後に残った点を「ノ」の形で右側に書くのである。


ついでに言えばカタカナの中でよく似ているものが二つある。

「へ」と「り」である。

このうちひらがなの「り」とカタカナの「リ」は区別がつきやすい。

しかし「へ」(ひらがな)と「ヘ」(カタカナ)は見分けがつきにくい。

パソコンの画面上で拡大してみれば分かるが、違いは折れ曲がった部分にある。

ひらがなに比べてカタカナの方が丸みが少なく直線的で折れ曲がる角度も鋭角である。



●2019.6.14(金)感傷的人生論

眠たい時に仲の良い友人が訪ねてきた。

生きている実感はそれに近い。


「おう、よしよし」と親に頭を撫でてほしい。

「おう、よしよし」と我が子の頭を撫でてやりたい。

親は亡くなり子供は大きくなってしまったけれど。



●2019.6.15(土)どてらパン

今もあるのかどうか、直方体の奇妙なパンがあった。

いろんな種類のパンの切れ端を集めて成型したパンである。

圧縮してあるから普通のパンよりかなり重かった。

ミックスパンとかレンガパンとか呼ばれていたようだ。

レンガパンとはその形状と重さからのネーミングだろう。

見た目のやぼったさと重さから一部ではどてらパンとも呼ばれていたような。

値段の割にお得感があるので私が子供の頃はよく食べていた。

大人になった今は製法が気になる。

切れ端を集めて圧縮しただけであんなに絶妙にくっつくものだろうか。


家族や世の中もあのパンと同じく、崩れないようにうまくバランスを保っているのだろう。

そのバランスが近頃はおかしくなりつつあるような気がする。

戦中、戦後の犯罪の多くは生きるため、もっと言えば食べるためだった。

昨今の犯罪は自分のわがままを通すため、うっぷんを晴らすためのように思える。


テレビのトーク番組の話である。

ニュースキャスターの木村太郎氏に橋下徹弁護士が質問をした。

「日本の行く末について先輩方は私たちの世代に何を期待しますか」

木村氏の答えがふるっていた。

「特に注文はありません。私たちが若かった頃は、ご飯をお腹いっぱい食べられるような国にしたい、ただそれだけでした。ありがたいことにその願いは叶いました。だから私は満足しています。これから先の日本がどうあってほしいか、それはあなたたちが考えるべきことです」



●2019.6.16(日)私のプロフィール

履歴書を書くとなると私の職業欄は「無職」となる。

何と味気ないことか。

「悠々自適」と書いてはいけないのだろうか。

書いていいとしても私には当てはまらないが……


無職の人間は時々叫びたくなる。

関東弁なら「俺を何だと思ってるんだ!」

関西弁なら「わしを何や思うとんねん!」

九州弁なら「おいば何て思うとっとや!」

私が叫んだ場合、返ってくる答えはこうだろう。

「ごくつぶし」

女房殿からあてがいぶちとして月々わずかな小遣いを頂戴する身である。

「おありがとうござい」



●2019.6.17(月)創業と守成

けっこうな規模の企業グループが突然経営危機に陥ることがある。

一代で企業を順調な軌道に乗せることと次世代以降も存続させていくことはどちらが難しいのだろう。


私がラーメン屋を開店して行列のできる店になったとする。

しかしよく知りもしないおおぜいの他人を店長や従業員に雇って全国展開しようとは思わない。

できれば身内だけで一軒の店を繁盛させていきたい。

そうすればある程度豊かな暮らしもでき、手を広げすぎたための経営危機に陥ることもない。

と、分かったようなことを述べたがこんな話はあまり意味がない。

私のような小心翼々としたタイプの人間が起業者になることはまずないからである。



●2019.6.18(火)二択

地球上で自分ひとりが生き残り、もう一人の連れが許されるとしたら次のどちらを選ぶだろうか。

職場の最も嫌いな同僚とそばを通るたびに吠えかかる獰猛な犬。

この二者のうち、関係を修復して一生の道連れになれそうなのはどちらだろう。


犬を選ぶ人が多いかもしれないがじっくりと考えてみたい。

ある時、妻と待ち合わせをしてショッピングモールのベンチに腰かけていた。

妻がなかなか来ず、目の前を多くの人がひっきりなしに通るのが鬱陶しく思えてきた。

その時次のような考えが浮かんだ。

「この多くの人たちが犬や猫だったら気が休まるだろうか」

居酒屋で初対面の人と話を掘り下げていくと必ずと言っていいほど共通の知人の話に行き着く。

ということは、ベンチに座っている私の前を行き過ぎる全ての人も私と何らかの接点があるはずだ。

その接点をあれこれと想像してみれば鬱陶しく思えた他人に親しみがわいてくる。

人間にとっては犬や猫よりもやはり人間のほうがありがたい道連れなのではなかろうか。


しかしまた次の話も有名だ。

道沿いの塀に小さな穴が空いていて「この塀の中に地上で最も危険な動物がいます」と張り紙がしてある。

覗いてみると穴の向こうに鏡が置いてあり自分の顔が映るという仕組みだ。

この観点からすると犬よりも人間のほうがもっと獰猛なのかもしれない。



●2019.6.19(水)ペットとダンナ

「ペットを可愛がるのもいいが、俺にも少しは気をつかってくれ」

そう願っている世のダンナも多いのではなかろうか。

そんな日は永久に来ないと諦めたほうがいい。

ペットや赤ん坊は言葉をしゃべれないし体も小さい。

そのために育てる側は母性本能が刺激され加点方式で愛情を募らせていく。

「お腹が空いたの? 待ってね、美味しいマンマ作ってあげるから」

ダンナのほうは正反対で減点される一方である。

「お腹が空いた? 少しは自分で動きなさいよ、ラーメンくらい作れるでしょ」


「はい、アーンして」

スプーンでプリンを食べさせてもらった新婚当初を懐かしむなら早く寝たきりになることである。

そうすれば「はい、アーンして」とレンゲで玉子豆腐を食べさせてもらえる。

「はい、アーンして」のトーンは大きく異なるだろうが。



●2019.6.20(木)引っ越し

ある飲み会に参加した時のことだが人数のわりに会場が狭かった。

8畳の和室なのに20人前後が集まった。

私はそっと帰ろうかと思ったほどである。

それなのに詰め合うと全員が座れた、これには驚いた。

引っ越しの荷物の収納に似ている。

荷造りする時に段ボール箱に詰めていくと、我が家にこんなに荷物があったのかと驚く。

それらの荷物は当然引っ越し先の全ての部屋を占領し、寝るスペースの確保にも苦労する。

しかし片付けだすとそれらの荷物がまた魔法のように収納場所に収まっていく。

引っ越しに関して面白い話を耳にした。

住所が変わるだけの移動を「引っ越し」と言うのに対し、生き方や生活スタイルまで変化するのを「移住」と言うそうだ。



●2019.6.21(金)解氷

小学校の公開授業で、理科の先生が質問した。

「氷がとけると何になりますか?」

ある生徒が「春になります」と答えた。

「いかにも小学生らしい発想だ」

参観していた大人たちは微笑んだ。


有名な話だがそんなに感動的だろうか。

そもそも理科の授業で氷がとけることを問題にしているのだ。

問われた側は科学的な線で答えを探るべきであり、「春になる」と答えた生徒は思慮が浅いのではないか。

しかし、こうも考えられそうだ。

思考するのにあらかじめ縛りをかけるような窮屈な頭からは真に斬新な発想は生まれないのではないか。



●2019.6.22(土)自然淘汰と突然変異

ウサギなどの草食動物は目が顔の横についている。

周囲を広く見回して危険を察知する必要からだ。

対してライオンなどの肉食動物の目は獲物を狙う正面だけが見えればいい。

こんなふうに生物の進化は自然淘汰説で大体説明がつく。

説明がつかない時は突然変異説を持ち出せばいい。

だいぶ昔のことだが、気象庁が梅雨明け宣言をした後に再び雨が続いた年があった。

すると気象庁は「戻り梅雨」なる言葉を発明した。

突然変異説の一種だろう。



●2019.6.23(日)蚊

蚊は憎らしい。

実に的確に血を吸う。

気づいた時には既に吸われている。

その腕前は採血の下手な看護師以上だ。

気づかれないように背後に回ってふくらはぎあたりを狙ってくる。

血を吸うのはメスだけでしかも産卵期に限られているようだが、我が家には年中、妻がいる。

私が寝転がってテレビを見ていると、背後に回らず正面から掃除機をツンツンと向けてくる。

血どころか生気を吸われそうだ。



●2019.6.24(月)江戸弁

20代の一時期、東京に住んでいた。

新宿駅西口の思い出横丁の食堂に入った時のこと。

「だからさあ、そんなの、チャンチャラおかしいって言ってやったんだよ」

まかない場の年配の女性が伝法な口調で同僚の男性と話していた。

「これが江戸っ子の言葉なのか!」

田舎から上京したての私はテレビドラマの撮影を見ているかのような感動を覚えた。

「おばさん、こら、たいがい旨かですばい」などと話しかける勇気は出なかった。



●2019.6.25(火)リポビタンD

明治期に日本人が西洋医学を本格的に学び始めた時、お手本にしたのはドイツの医学だった。

そのため医療関係の言葉には今でもドイツ語が多い。

「リポビタンD」も指定医薬部外品だから「リポビタンディー」でなく「リポビタンデー」だ。

ドイツ語で「A、B、C、D」は「アー、ベー、ツェー、デー」と発音する。

気になるのはドイツの自動車メーカー「Volkswagen」だ。

ドイツ語のVは英語のF、Wは英語のVのような発音だから「フォルクスワーゲン」でなく「フォルクスヴァーゲン」となるはずなのだが。



●2019.6.26(水)ノスタルジー

生きることにおいて女性は男性よりも前向きなように思われる。

私の偏見かもしれないが車の運転中も女性はバックミラーやサイドミラーを余り見ない。

人生のバックミラーであるノスタルジーも女性には煩わしいだけかもしれない。

めめしい男である私はタイムスリップして昔の自分に会ってみたい。

貧乏学生の私が定食屋に入っていく。

煮魚と漬物と卵焼きをトレイに乗せ、財布を覗きこんで卵焼きを棚に戻す。

そんな私の横のテーブルに今の私が座り、「学生さん、よかったらこれ食べて」と玉子焼きの皿を差し出す。

昔の私は未来の自分を変なおじさんだと警戒するだろうか。

それとも、施しを受ける人間に特有の哀しげな眼をして「いただきます」と頭を下げるだろうか。



●2019.6.27(木)喜怒哀楽

「喜怒哀楽」の四つの感情の関係を考えてみよう。

「楽」のハイテンションが「喜」で、「哀」のハイテンションが「怒」だと言えそうだ。

そして「喜」と「怒」のテンションがさらに上がれば、人に抱きついたり、人に殴りかかったりという行動に出る。

それ以上のハイテンションとなればもはや人は耐えきれず、失神するしかない。

その危機を人は笑うことや泣くことで切り抜けるのではないだろうか。

人間以外の動物は過剰なハイテンションには至らず、げらげら笑ったりおいおい泣いたりはしない。



●2019.6.28(金)女性の言葉づかい

知人が東京三鷹の深大寺近辺で名物のそばを食べた時のこと。

そばも美味しかったが接客してくれた中年女性の「~ですのよ」という言葉づかいにいたく感銘を受けたと言う。

今では小説で読むしかない以下のような若い女性の言葉づかいに私は惹かれる。

「よくってよ、知らないから。そうやって私のこと、たんと馬鹿にしてらっしゃい」

昨今のギャル語とは隔世の感どころではない、異次元のゆかしさである。



●2019.6.29(土)女郎花

現代では胡蝶蘭やカサブランカなど大ぶりの花も好まれるが、奈良、平安の女性は萩や女郎花などの小さな花を愛した。

清少納言も「何も何も小さきものはみなうつくし」と言っている。

「女郎花」という字面は江戸時代の吉原の遊女などを連想させるが、ここでの「女郎」は単に「女」という意味。

「おんな」は古くは「をみな」と表記し、「若い女・美女」という意味だった。

「をみなへし」(現代表記では「おみなえし」)の「へし」は「す」という動詞(の連用形)で、「へこませる・圧倒する・押しつぶす」という意味。

したがって「女郎花」は「若い美人の女性をも圧倒するほどに美しい花」ということになる。

ついでに言えば女郎花は黄色い花だが白いものもあり、黄色い女郎花おもなえしと区別するために男郎花おとこえしと呼ぶ。



●2019.6.30(日)奇数好きの日本人

交通安全の標語などで分かるように日本人には七五調、五七調のリズムが染みついている。

明治時代に口語自由詩が登場するまで韻文は五音と七音が調べの基調だった。

歌謡曲の歌詞も昭和の前半まではそうだったし、俳句や短歌はいまだに厳密に守っている。

ところで五も七も奇数である。

だから「マクドナルド」「ドンキホーテ」「トリコロール」「プエルトリコ」、こういった外来語も奇数大好きの日本人は「三・三」に区切って「ドンキに行こう」とか「マクド食べよう」とか言ったりする。

正しくは「マク・ドナルド」「ドン・キホーテ」と区切るのは周知のことだろう。

残り二つも「トリコ・ロール」「プエル・トリコ」ではなく、「トリ・コロール」「プエルト・リコ」である。

フランスの国旗のことをトリコロール(tricolore)と言うが、フランスの国旗は三色旗なので英語に置き換えればtriがthree、coloreがcolorに当たる。

プエルトリコ(Puerto Rico)はカリブ海の島国だが、英語で言えばpuertoはport、ricoはrichで、「豊かな港」という意味だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る