ぽつりぽつりと

仲瀬 充

2018年8月~12月

●2018.8.25(土)オール電化の難点

オール電化の些細ながら重要な問題点に気付いた。

IHヒーターでは海苔をあぶれない。



●2018.8.26(日)記憶喪失者

記憶喪失者については記憶を取り戻すということ、つまり失われた過去の方に目が行きがちだ。

しかし本人は浦島太郎と同じで、未来へワープしたような感覚にもなるのではなかろうか。

だとすれば、毎日は新鮮な発見、感動の連続だろう。



●2018.8.27(月)真実は細部に宿る

下に掲げるのは木下夕爾(1914~1965)の「晩夏」という詩である。

うんと若い頃だったが、私はこの詩を初めて読んだ時大きな衝撃を受けた。

大げさに言えば人生の真実を垣間見た気がした。

「神は細部に宿る」という言葉になぞらえて言えば「真実は細部に宿る」、そんなことを感じた。

それはさておき、駅員が改札口でニッパーに似たハサミをカチカチと鳴らしていたのを最後に見たのはいつのことだったろう。


晩夏


停車場のプラットホームに

南瓜の蔓が葡いのぼる


閉ざれた花ののすきまから

てんとう虫が外を見ている


軽便車が来た

誰も乗らない

誰も下りない


柵のそばの黍の葉っぱに

若い切符きりがちょっと鋏を入れる



●2018.8.28(火)対照的な明かり

日が沈み夜が訪れる。

地上10階建ての総合病院に煌々と灯りがともる。

そのすぐ隣の猫の額ほどの土地に1軒の木造家屋が建っている。

この古びた家に灯る菜の花色の明かりは、しかし何と平和なことだろう。

病院のまばゆい灯火の下には明日の命の行方さえ知れない人もいる。



●2018.8.29(水)クローン人間を欲しがる親

子を亡くした母親が我が子のクローン人間を欲しがる。

「クローン人間は外見がそっくりなだけで人格は別の人間に育ちます。」

錯乱気味の母親をそんなふうに周囲が説得する。


こういうTVドラマでは、亡くなった子供はその死が惜しまれるかけがえのない子だ。

その逆のケースを考えてみた。

我が子の育て方を誤った親の方こそクローン人間を切実に欲するのではないか。 



●2018.8.30(木)日常を逃れても

毎日あくせく生活していてふと目を上げると、近郊の山が目に入る。

街の喧騒とは別天地の世界がそこにあるように感じられる。

で、休日にその山に登って下界を見下ろしてみる。

すると、自分が現実世界から遊離しているような疎外感を感じてしまう。

因果な性分と言うべきか。



●2018.8.31(金)普遍的な個性

エッセイともブログともつかない文をつづりながら思う。

独自の感性に裏打ちされたものを書こうと。

と同時に、他人に共感してもらうことも期待している。

独特でありながら共感してもらえる個性、普遍化が可能な個性とは?



●2018.9.1(土)遺影のいろいろ

誰かが亡くなると遺族が生前の写真から見繕って業者に渡す。

業者はその写真の顔の部分だけをトリミングして遺影に仕立てる。

遺影についてはそんなふうにする家が多いと思われる。


私の両親の遺影もそうで、どちらも旅行中のスナップ写真が基になっている。

旅先でカメラに向かって微笑んだ時、父も母もその写真がまさか遺影に使われるとは思わなかったろう。

そう思うと何だか切なくなる。

終活で遺言等を準備するならば、遺影用の写真も撮っておいてはどうだろうか。


写真と言えば、近頃は学校の卒業アルバムの個人写真が大きく様変わりしている。

昔は、証明用写真のように顔を引き締めて写ったものだった。

それが今や、笑顔はおろか、斜めを向いたり、手に小道具を持ったりと千差万別である。


時代のそんな変遷が近頃は遺影にも反映されているようだ。

日常のスナップ写真そのものを遺影として飾る葬儀も増えつつある。

アロハシャツを着てハワイでピースサインをしている、そんな遺影も微笑ましいかもしれない。

それこそ「イエーイ!」である。

変顔だけはさすがにまずいだろうが。



●2018.9.2(日)延命治療

欧米には寝たきり老人がほとんどいないという。

老齢や病気で終末期を迎えると寝たきりになる前に亡くなるのだ。

その理由は、延命治療を施さないことにある。

胃ろうや栄養点滴などで延命を図るのは老人虐待に当たるという考えさえあるようだ。

それに対し、日本では安らかな自然死をなかなか認めようとしない。

桜や松などの巨木の枝が折れないように人為的な支えが施されているのを見ることがある。

人間の延命治療に似ている。



●2018.9.3(月)外国人の区別

西洋人を見かけても私はどこの国の人か分からない。

「あ、外人がいる。」というふうな言い方ですませてしまう。

こういう場合、西洋人どうしは見分けがついて「ドイツ人がいる。」などと言うのだろうか。

それとも私と同じように「外(国)人」という言葉をつかうのだろうか。

あるいは、人種を区別する意識をそもそも持たないのだろうか。


正確な見分けはつかない私も、イギリス人、ドイツ人、フランス人など、それぞれに特徴的な顔立ちはありそうに思う。

しかし、アメリカは移民の国と言われるだけあって典型的なアメリカ人の顔は思い浮かばない。

人種の違いはあれ、アメリカに住んで米語を話し、星条旗の元に集う人々がアメリカ人なのだろう。

東京はアメリカに似ている。

いろんな県からやってきた人たちが標準語を話し、それぞれの夢を追っている。



●2018.9.4(火)みずみずしさ

みずみずしさが失われて枯れていく。

植物も人間の体も、そして人間の精神も。

ただし、精神が枯れるのは悲しむべきこととは限らない。



●2018.9.5(水)疑似旅行

旅に出たいがお金がない。

そこで私は旅の疑似体験を試みる。

テレビ番組を見ている時、背景に映りこんでいる街を自分が歩いているつもりになればいいのだ。

ロケ番組はもちろん、サスペンスものでも何でも番組の内容は半分そっちのけで背景に入り込もうと試みる。

その感覚が身に付けばマラソンの中継も退屈せずに楽しめる。


近郊の山間部を車で走っている時なども同乗している妻にこう言うことがある。

「ここは長野県だと思い込もう。」

夕暮れ時に坂を越える時が特にいい。

「あの坂の向こうは長野のひなびた温泉郷で、今日はそこで1泊だ。」


もっと安上がりな旅がある。

家の近所を散歩しながら旅をしている気分に浸ればいい。

酔ってタクシーに乗ってうとうとし、目を覚ますと自宅の近くなのにどこを走っているのか暫く分からないことがある。

あの感覚を自在に作り出せれば、家の近所も見知らぬ旅先に変貌する。

しかし、よく知っている土地を見知らぬ土地だと思い込むのは難しい。

「記憶にございません。」

国会で答弁する議員も、実際にあったことをなかったことにしようとするのはさぞ難儀なことだろう。



●2018.9.6(木)自然に関する素朴な驚き

「河はみな海に流れ入る 海はみつることなし」

旧約聖書の『伝道の書』の一節である。

高校生の頃、このフレーズを知り、その響きの美しさに魅せられた。

今回は調べではなく、意味を考えてみた。

と言っても宗教的な解釈でなく小学生レベルの自然科学的な感想である。

毎分毎秒、世界中の数えきれないほどの河川の水が常に海に注いでいる。

それなのに海面の水位が一定に保たれているのは驚くべきことだ。

海水の蒸発に始まる気象学的な循環から説明できるのだろうが、素朴な驚きも大切にしたい。


他にも素朴な驚きがある。

水は高いところから低いところに向かって流れ続けるということだ。

日本地図や世界地図を見ると、内陸部にも多くの湖がある。

それらの湖の水は川によって海に注がれる。

ということは、その川は道路にたとえるとずっと下りになっているということである。

このことに私は素朴に感動する。


長野県の人が海水浴に行くには幾つもの山や谷を越えなければならないイメージがある。

しかし、長野県のど真ん中の諏訪湖の水は天竜川によって太平洋に注がれる。

つまり、天竜川が道路ならアップダウンなく、すいすいと自転車で海まで下っていけるのだ。



●2018.9.7(金)簡単そうに見えても

ローカルテレビが私の地元のスポーツセンターを紹介したことがあった。

その番組でフィギュアスケートのインストラクターがジャンプを披露した。

1回転しただけだったが、インストラクターは着氷すると自慢げな顔をした。

地方の初心者相手の指導者とはいえ、1回転でドヤ顔をするほどにジャンプは難しいのだろうと逆に感心したことだった。


一流選手が3回転、4回転ジャンプを連発する大会でシングルジャンプは見向きもされないだろう。

しかし日常生活において私は何でもなさそうなことにも感心する。

たとえば、料理人が片手で卵を割る、客が手に取った後の服をショップ店員が上手にすばやく畳み直す等々。

家庭の主婦にとってはそれらは毎日のようにやっていることであり、主婦は家事の達人なのだと改めて気づかされる。

妻が入院し、家事の一切を私がやらなければならない時があった。

その時は洗濯を終えただけでも、大きな仕事をなしとげた気になった。

全自動洗濯機だから水道の栓をひねり洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押しただけなのだが。



●2018.9.8(土)何でもあり

テレビのバラエティー番組を見ていて気になることがある。

「笑いを足す」という演出である。

「ない」ものを「ある」ように見せるあざとさに不快感を覚える。


しかし、その逆のケースには気が付きにくい。

バリ島やセブ島などのリゾート地の紹介番組を見ていて、ふと気になった。

ハンモックに揺られたりして快適そうなのだが、虫が1匹も飛んでいない。

南洋の島々に虫がいないはずはない。

「ある」ものを「ない」ように見せる画面上の操作が行われているのではないかと気になる。


芸能人や政治家の発言にしても同じことである。

あったことをなかったように語ったり、なかったことをあったかのように話したりしている。

なんでもありの情けない世の中になったものだ。



●2018.9.9(日)3までで十分

コンピュータが2進法で全ての処理を行うように、物質と反物質、プラスとマイナス、男と女など、世の中は1と2で事足りるのではないか。

じゃんけんが2種類では面白くないというなら3までは認めてもいいだろう。

手の指にしても親指から中指までの3本があれば大抵の手作業は行える。

余分な4番目の薬指は5本の指の中で最も使用頻度が少ない。

そのため汚れにくく清潔なので薬を塗るのに都合がよいという利点はあるが。


せいぜい3まで、ということは数字の書体を見ても頷ける。

漢数字もローマ数字も「一、二、三」「Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」をこえて「四」「Ⅳ」となるとすっきりした統一性が失われる。

最も馴染み深いアラビア数字についても「1、2、3」は漢数字の「一、二、三」の崩し字のようなものだろうと勝手に解釈している。



●2018.9.10(月)次は我が身

日本には毎年台風が上陸し、そのたびに何人かの人が亡くなる。

その人たちは台風が接近中とのニュースを視聴していた時、まさか自分が死ぬとは思っていなかっただろう。

他人事のように言っているが、来年の台風では私が犠牲者になるかもしれないのだ。

台風銀座という言葉もあるように、沖縄には毎年必ずと言っていいほど台風がやってくる。

それなのに沖縄ではほとんど死者は出ない。

慣れから生まれた独特の知恵があるとすれば学びたいものだ。



●2018.9.11(火)災害に伴う人間模様

前回に続いて災害の話だが、今月、北海道で震度7の大地震が発生した。

災害と言えばまず私が思い出すのは1982年7月の長崎大水害だ。

当時私は長崎市内に住んでいたが、死者・行方不明者は299人を数えた。

この数字がすぐに口をついて出てくるのにはわけがある。

「あと一人でちょうど300という切りのいい数になるな」という思いが頭をかすめたからだ。

人間とは何と残酷で身勝手なものだろうと我がことながら空恐ろしくなったことを覚えている。

その一人が自分自身や自分の肉親ならどうするのか。


2011年の3月には東日本大震災が起きた。

学校から高台に避難した小学生の女の子をテレビが映し出していた。

その子は津波に襲われている我が家の方角を不安げな表情で見下ろしていた。

呟くように呼びかけるように「お母さん…、お母さん…」と震え声で繰り返していたのが忘れられない。


1995年1月の阪神淡路大震災の折にテレビで見た初老の父親も忘れ難い。

一人暮らしの娘さんが住んでいたあたりは一面の瓦礫に埋もれていた。

復旧作業を立ったまま見守っている父親の顔は、事情を知らずに見れば微笑んでいるようにも見えた。

泣きたいのを我慢していたのであろう。

1月だというのにコートは折りたたんで腕にかけていた。

瓦礫の下の娘はもっと寒かろうという思いからではなかったろうか。


2016年4月には熊本地震が発生した。

車に乗ったまま山間部の土砂崩れに巻き込まれた大学生の息子を探し続けた両親がいた。

執念にも似たその懸命さにボランティアの人たちも立ち上がり、県も打ち切っていた捜索を再開した。

とうとう遺体が発見されたのだが、その少し前に父親が息子の夢を見たという。

ネット上の記事から、父親の言葉を引用する。

「きょう明け方、夢を見てね。(息子が)ひょこっと家に帰ってきたんです。どこに行っとったかい、と聞いたら『へへへ』って笑ってたんですよ。(息子に)触れたんですよ。しっかり。」

涙なくしては読めない。

成仏した息子の霊魂が親を安心させるために夢に現れたとしか思えない。

子を思う親の心、親を思う子の心に打たれるばかりである。



●2018.9.12(水)愛と憎しみ

どんな悪人にも愛する人がいるだろう。

全ての人が愛する対象を徐々に広げていけば世界平和が実現できる理屈になる。

「ラブ&ピース」という言葉は「愛と平和」という意味だが、「愛から平和へ」という意味にも解釈したいものだ。


1958年、日本の南極観測隊が南極を離れる際、15頭の|樺太≪からふと≫犬が置き去りにされた。

そのうち兄弟犬のタロとジロだけが生き残り、翌年、観測隊員と感動的な再会を果たした。

タロとジロも隊員との再会は嬉しかっただろうが、置き去りにされた時の彼らの感情はどうだったのだろう。

私が思うに、寂しさはあっても隊員たちへの憎しみはなかったのではなかろうか。

そうだとすると、世界平和につながる博愛と同様に憎しみも人間特有の感情なのだろう。



●2018.9.13(木)アーティストとパトロン

金子みすずの『日の光』という詩には心打たれる。

「おてんと様のお使い」たちが地上へ向かう途中、自分の役目を語る。

花を咲かせる等、それぞれの役目を順番に語るのだが、最後の一人がさみしそうに言う。

自分は「影」を作りに行くのだと。


「光」が当たれば「影」ができる。

それは人間社会も同じだ。

舞台で歌う一人のアイドルを大勢のスタッフやファンが陰で支えている。

「お客様は神様です」とは言うが、実感的には不特定多数のファンやスタッフよりアーティストの方が偉く見える。

しかし、アートが商業ベースに乗っていなかった近代以前はそうではなかった。

ミケランジェロ、シェークスピア、モーツァルト、ベートーベンなど、多くは貴族や教会のパトロネージェを受けていた。

名だたるアーティストたちも、パトロンの前では頭が上がらなかっただろう。


そんな当時にあって最も自由だったのは、『即興詩人』(森鷗外)の主人公アントニオのような吟遊詩人ではなかっただろうか。

カップ麺を食べながらパソコンにこんな駄文を入力している私も現代の吟遊詩人みたいなものだ。

何を書こうが自由で読者も殆どいないと思えばいつ断筆するかも悩むことはない。



●2018.9.14(金)奇妙な追想

おかしな言い方だが、楽しいことが終わった後、私はとりかえしのつかないことをしたという思いに駆られる。

例えば、泊りがけでの身内の寄合の翌日、帰途につきながらこう思う。

12時間前は楽しい宴の最中だったな、昨日の今頃はいそいそと出かける準備をしていたな、などと。

因果な性分と言うべきか、女々しいと言うべきか。

ついでに一言付言すれば、女性は女々しくない。

女々しいのはむしろ男の|性≪さが≫だと思われる。



●2018.9.15(土)消えない記憶

「他人の不幸は蜜の味」というのは意地悪すぎる。

「他人の痛みは百年でも我慢できる」というのが妥当なところだろうか。

殺人事件、テロ、戦争などによって毎日多くの人間の命が絶たれているが、多くの人は普段そんなことには気を向けないだろう。

他人の痛みは我慢できるどころか、無関心なのが人間の常だ。

我々は毎日色々なことを経験するが、興味関心のない出来事は忘却の海に沈んでいく。

興味関心のないことがいつまでも記憶にとどまるはずはない。


ところが不思議なことに、嫌な経験は忘れたくても記憶から消えない。

それは、消えない外傷の|痕≪あと≫と同じようにその出来事に心を深く傷つけられたからだろう。

問題はここからである。

それでは、その出来事がなぜ自分にとってそれほどまでに重いのか。

逆に言えば、自分はどんなことで傷つく人間なのか。

その点を追究していけば自分という人間の正体が明らかになるだろう。

ただし、多くの人はその自己追究の辛さに耐えられないだろうとも思われる。



●2018.9.16(日)時間を忘れる時間

「あっという|間≪ま≫」の「間」を発音した時には、「あ」と言った瞬間は既に過去になっている。

孔子は川の流れを見て「く者はくの如きか、昼夜をかず」と言った。

何事も川の流れのように昼も夜も一瞬一瞬とどまることなく過ぎ去っていく。

「生くることにも心せき、感ずることも急がるる」(太宰治『懶惰の歌留多』)

「生き急ぐ」という表現はよく聞くが、「感ずることも急がるる」ほどに我々は時間に追われて生きている。


そんな気ぜわしい日常において、時間を忘れることができる時間が二種類ある。

一つは、何事かに集中している時間である。

私は絵を描いている時、時間を忘れる。

気が付けば5、6時間経っていたということがよくある。

もう一つは面白いことに上記と真逆で、ぼうっとしている時間である。

公園のベンチでぼうってしている老人は、時間から解放された至福の状態にあるのかもしれない。

ちょこんと座っている犬が遠くを見ながらぼうっとしている時がある。

何かしら遥かなものを見ているかのような、そんな犬の姿も好きだ。



●2018.9.17(月)盛り上がる人数

カウンター席に座って酒を飲む場合、二人で差しつ差されつもいいが、3人もいい。

しかし、4人となると話が遠くなる。


宴会の席で向かい合わせになる場合も同じで、3人ずつの計6人が話の盛り上がる限度だ。

引っ越しの挨拶に回る範囲の「向こう三軒両隣」も、まことに故あることだと思われる。


3人と4人の違いは、物理的距離のみならず心理的な質にも関わってくる。

三つの点をちょくで結ぶだけの三角形と違って四角形は対角線も存在し、関係がややこしくなる。



●2018.9.18(火)真実の感得

歌手が売れて晩年になると思想を歌いたがる。

思想がおおげさなら壮大な思いと言い換えてもいい。

私はむしろ日常の些事を歌う歌が好きだ。

真実は数式や理論で導き出せるものでなく、全身で感得するしかないのではないか。

たとえば水引草が風に揺れる、母がため息を漏らす、そんな時に真実は顔をのぞかせる。



●2018.9.19(水)似て非なるもの

子供の頃、祖母と風呂に入ったことがあった。

すると普段は垂れている薄くて長い乳房が水平に湯に浮いた。

浮力の働きなど知らなかったので、子供心には不思議でもあり不気味でもあった。

イカの一夜干しやカレーの付け合わせのナンを見ると、その祖母の乳房を思い出す。


他にも、婚活とトンカツ、脱帽と脱毛、サンタとサタン、ドラえもんと土左衛門など、似て非なるものは多くある。

全校集会を行う際、ざわつきを鎮めるために「黙想!」の号令で1分間の黙想を行う高校があった。

ある時、進行役の教師が誤って「黙祷もくとう!」と号令をかけた。

余計にざわついたそうである。

また、ある大学で部活動の大会前にOBたちが激励に訪れた。

決戦を前に「さいは投げられた」というカエサルの言葉を後輩に投げかけようとした。

しかし誤って「いいかお前たち、さじは投げられたぞ。」と言い放ったそうである。



●2018.9.20(木)大過

釈迦は仏法の衰退の過程を「正法→像法→末法」と説いたが、交通法規についても同じだ。

黄色はおろか、赤でも交差点に進入する車が増えてきた。

「黄色は注意して進め、赤は覚悟して進め」という末法の世になりつつある。

まだ救いがあるのは、赤信号で停まっている側が法規を守っている点である。

停まっている車が反対側の黄色信号でフライングするようになれば、事故が多発するだろう。


事故は二つの誤った判断が重なって生じることが多い。

私が車にはねられそうになった時もそうだった。

割と道幅のある道を酔って横断しようとした時のことだった。

車が走ってきているのは見えていたが、小走りで渡れば大丈夫だと判断した。

すると、私が走り出すと同時に車もスピードを上げた。

恐らく、私が横断を始める前に通り過ぎようと思ったのだろう。

車は私の上着の裾をかすって猛スピードで走り去った。

渡り終えるのが半歩でも遅れていたら私は今この世にいないだろう。


「お陰様で大過なく過ごさせて頂きました。」

定年退職等でのスピーチによく使われる表現で、儀礼的な決まり文句のように聞きなしがちだ。

しかし、交通事故であれ、職場での失敗であれ、「もう少しで大変なことになっていた」という経験は誰しもあることだろう。

とすれば、大過なく一生を終えることができるのは感謝すべき僥倖だ。

新聞やテレビで数限りなく報道されるよくないニュースは、みな「大過」である。



●2018.9.21(金)結婚観の移り変わり

「他人とずっと一緒にいるのが耐えられないので、結婚しても週に何回か会う程度にしたい。」

かなり有名な芸能人がトーク番組でそう発言した。

すると「そんなのは結婚ではない」と他の出演者から総スカンをくらったが、私は一考の余地があると思う。


「~家・~家 結婚披露宴」という案内表示に象徴されるように、結婚は家と家との結びつきという側面がある。

しかし、そんな伝統的な結婚観は大きく揺らぎつつあり、現代の結婚は実質的には個人どうしの結びつきになった。

それはいいのだが、今度はその個人どうしの自由と束縛が問題になってくる。

独身の時は毎日をどう過ごそうと自由だが、一方では寂しさがつきまとい、人のぬくもりが欲しくなる。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)

そこで恋人とのつきあいが始まるが、デートは「いいとこ取り」で相手の美点しか見えない。

それが、結婚して四六時中一緒にいれば、こんなはずではなかったと互いを疎ましく思うようにもなる。

冒頭の芸能人の言う結婚スタイルは、そんなジレンマを解消できるのではないか。

江戸時代以降の古い結婚観から脱却して、逆にさらに古い平安時代の貴族の通い婚に戻ると思えばいい。

濃厚すぎる人付き合いを敬遠する「君子くんしの交わり」にならって、「夫婦の交わりは、淡きこと水の如し」といけばいい。


古い結婚観からの脱却についてもう少し考えてみたい。

かつて『同棲時代』という暗い雰囲気の漫画がヒットしたが、伝統的な結婚観からすれば「同棲」にはネガティブなイメージがつきまとう。

しかし、デートを何度か重ねて結婚し相性の違いに幻滅して離婚するくらいなら、相性が分かるまで同居することには大きな意味があると思われる。

同棲と並んで古い結婚観からは忌避されがちな「できちゃった結婚」にも同じようなことが言える。

子供のいる家庭を築くことを何よりの楽しみに結婚した夫婦が、どちらかの体質で子供ができないと分かった時の落胆はどれほど大きいだろう。



●2018.9.22(土)後悔先に立たず

クイズ番組で優秀な成績を挙げる人は、複数の事柄を関連付けて覚えているそうだ。

複数の事象を関連付けるということは、その間に存在する法則性を発見することにつながる。

リンゴが木の枝から落ちるのを見て、リンゴと大地を関連付ければ万有引力の法則に行きつく。


「小人、閑居して不善をなす」というが、もったいないことだ。

「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い。」(中島敦『山月記』)

確かに、何事かをなそうと思えば時間がいくらあっても足りない。

万有引力を例にとれば、「リンゴが落ちる理屈は分かった。では、全ての物体が互いに引き合う力を持っているのはなぜか」と掘り下げて行けば、「なぜ」を1,2回繰り返すと凡人は行き詰まってしまうだろう。


遅ればせながら勉強をやり直そうかとも思うが、数学者や棋士のピークは20代だなどという話を聞けば意欲が薄れてしまう。

アンケートによれば「若い時にもっと勉強しておけばよかった」というのが後悔の最たるものだという。

まさしく「後悔先に立たず」である。



●2018.9.23(日)本来の自然の世界

「なつく」という言葉があって、「犬が飼い主になつく」などと遣う。

その「なつく」から派生した語が「懐かしい」で、「心が惹かれる」というのが基本的な意味である。


ジブりのアニメ『トトロ』を観た時、作中の田園風景に心を惹かれた。

私だけでなく、田園風景に「懐かしさ」を感じる人は多いだろう。

しかし、田園風景は半ば人工的な、人間に優しい自然である。


本来の自然は未開の地に行かなければ見られないが、夜中の雰囲気はそれに近い。

以前住んでいたアパートは、深夜に帰宅する時、人家も街灯もない暗闇の中を5分ほど歩かねばならなかった。

「闇に包まれる」という言葉どおり、月のない夜は闇そのものにも質感がある。

道路脇の林の木々がうねるように風に揺れると、酔いも吹き飛んでしまうほど怖かった。


「草木も眠る丑三つ時」というが、丑三つ時に草木は眠っていない。

草木の精霊やあらゆる魑魅魍魎ちみもうりょうが活動するのが丑三つ時である。

文明が闇を駆逐する前、夜中に家を出るのは悪霊の助けを借りようとする丑の刻参りの人間くらいだっただろう。



●2018.9.24(月)テストと人生

テストと人の生き方は似ている。

堕落して低い点を取るのが一番易しい。

何の努力もいらない。

いい点数を取るのは大変でも頑張れば少しずつ向上していく。

100点は難しいが、狙って平均点ちょうどを取るのはもっと難しいかもしれない。

理想的な生き方として孔子は中庸を説いたが、テストと同じようにあるべき生き方の平均点も固定してはいない。

テレビの街頭インタビューを受けて「普通に生きたい。」と答えた青年がいた。

すると「普通ってどういうことですか。」と重ねて問われた。

それに対して青年が「普通ってなんだろう」と考え込んだのは印象的だった。



●2018.9.25(火)新しい言葉

だいぶ前のことになるが小説を読んでいて「独りごちた。」という表現に初めて接した時、斬新に感じた。

それ以来、自分もつかってみようと思い続けているのだが難しい。

下手に使えば、奇をてらったような浅薄な感じになってしまい、文章の流れが妨げられてしまう。

「独り言」という名詞を無理やり動詞化したような強引な響きがあるせいだろうと思う。

黄昏たそがれ」を動詞化した「たそがれる」も同じ理由でやはり少々つかいにくい。


「新しい言葉を知った時、昔の人は書物や他の人の会話を参考にして自分も遣える自信が持てるようになって初めて遣ったものだが、最近の人はすぐに新しい言葉に飛びつく。」と、民俗学者の柳田国男はかつて苦言を呈した。

最新の流行語を知らないことが恥であるかのようにすぐに遣いたがる昨今の世相を柳田国男が知ったら、草葉の陰でどんな顔をするだろうか。



●2018.9.26(水)普通であるということ

一瞬の光景が強く印象に残ることがある。

それは特別に人の目を引く光景ではなく、むしろ何でもない場面のことが多い。

自分の目がカメラになってシャッターを押したかのように、カシャッと心に焼き付く。


ある日車を運転していると、黒いビジネススーツ姿の若い女性を道路沿いのコンビニの横で見かけた。

肩にバッグをかけ、両手で菓子パンの袋を持ってかじるように食べていた。

ほんの少し恥じらいながら、ほんの少しおどおどしているような、しかしごくごく普通の感じで食べていた。

その女性本人の見た目も特にこれと言った特徴はなく、要するに何もかもが普通だったのだ。

それなのに、車で通りすぎる一瞬のうちに見かけたそんな平凡な光景がいつまでも心に残った。


昼間にスーツ姿でいるからには仕事の途中なのだろう。

店の横で立ったまま食べているのは車で立ち寄ったのではないだろう。

これからどういう用件でどこへ向かうのか、また仕事はうまくいっているのか。

私はその女性の親ででもあるかのようにそんなことまで気になった。


上質な小説に異常な事件が描かれることはあまりない。

普通であるということ、それは案外人生の真実みたいなものにかかわっているのかも知れない。



●2018.9.27(木)いろいろな誘惑

ダイエットしている人の目の前にわざとショートケーキを置くのは酷というものだ。

似たようなことを自虐的に行う人もいる。

例えば、禁煙の意志の強固さを誇示するためにあえて煙草を身近に置いたりする。

そのくせ、結局、誘惑に負けて手を伸ばす人も出てくる。

しかし、核兵器は禁煙よりたちが悪い。

絶対に使わないという決意のもとに開発しているわけではない。



●2018.9.28(金)人生の選択

生まれ変わりをテーマにした映画やコミックが多々あるが、実際に生まれ変わることはありえない。

可愛い我が子を亡くした母親が我が子のクローン人間を望んでも、それは身体のコピーに過ぎない。

生まれ変わりたいと考える人は、今の自分の精神を保ったまま過去に戻りたいのだろう。

それが可能なら、カラオケボックスは煙草をふかし焼酎を飲みながら演歌を歌う幼稚園児であふれる。


生まれ変わりたいと思うのは、現在の不満な状況から脱却したい時だろう。

そして過去の分岐点に戻って、現在の後悔の元になっている選択を回避したいと夢想する。

しかしそれは不可能で、1回の人生で人は一つの人生しか生きることはできない。

ただ、生まれ変わりと似たような状況はしょっちゅう出現している。

人が悩む時がそうで、1回しか生きられない人生なのに複数の人生が提示され、しかも選択は自分に任されている。

禁煙している人が煙草を吸いたくなった時、なぜ悩むのか。

それは、禁煙を継続する人生と禁煙を中断する人生の選択が可能だからである。


人が悩む時、考えようによっては幾つもの人生が選択可能になる。

・現状をまだまだどん底ではないと考えて、這い上がる道を模索する。

・現状を社会や生育環境のせいととらえて、無差別殺傷などの犯罪に走る。

善悪は別にして、この二つはパワーが必要なので私には無理だ。

・現状を改善する意欲がなく、生まれ変わりたいとぼやきながら生きる。

・現状が客観的には恵まれていなくても、自分には過ぎた状況だと甘受する。

情けなくも私はこちらの方向を歩んでいる、しかも未練がましく時々宝くじを買いながら。



●2018.9.29(土)アンチ・アンチエイジング

アンチエイジングという言葉が流行っているが、老化はそんなに忌避すべきことなのだろうか。

アマノジャクの私は、無理をして若さを保つよりも自然に老いていきたいと一人意気込んでいる。

年を取れば「動」よりも「静」が似合う。

例えば、短距離を息せき切って走り、目をつぶってゆがんだ顔でゴールテープを切るのは若者にこそ相応しいと思うのは私だけだろうか。

私の友人にアマノジャクがいて、こういう場合必ず「そうだ。お前だけだ。」と言う。


プロエイジングとでも言えばいいのだろうか、ともかく私はアンチ・アンチエイジング派である。

断っておかねばならないが、世の中にはマスターズ陸上その他、いろんな分野で老いてなお盛んに活動している人も多い。

それらの人々を貶めるつもりは毛頭なく、私の妻もヨガに通ったりしてアンチエイジングに励んでいる。

しかし、そんな妻も私が肌の手入れやスポーツを始めたら、悪あがきだとか、年寄りの冷や水だとか言いそうな気がする。

私や友人に加えて、妻もアマノジャクなのである。



●2018.9.30(日)依存からの脱却

授乳中の母親と赤ん坊の幸福そうな姿を見ると彼我一如の感がある。

恋人どうしの関係もそれに近い。

相手のわがままさえ喜びになるというのは稀有の関係である。


どんな分野においても言えることだが、環境に依存すればするほど環境に左右されることになる。

例えば、全面的に依存し合っている恋人どうしは相手のちょっとした言動にも敏感に反応する。

恋人どうしは、それを新鮮な発見と受け取ることのできる幸福な関係である。

しかし、結婚して蜜月が過ぎると互いの差異を不快に感じるようにもなる。

互いに「我」にとらわれて、相手のわがままを許せなくなるのだ。


夫婦が不幸な末路をたどらないためには、相手は他人であるという当たり前のことを自覚すればいい。

甲斐性のないこんな自分のために食事の用意や洗濯をしてくれる人がいるとは何とありがたいことか。

私は最近、そういう目で妻を見るようにしている。

分かりやすく言えば、尻に敷かれているのである。



●2018.10.1(月)目を見張る話

仰向けになって脱力するとまぶたが自然に閉じる。

引力を加味すれば、垂直に立っている時はなおさらではなかろうか。

そこで、立っている状態でまぶたの力を抜いてみた。

するといともたやすくまぶたが下がって閉じる。

授業中の居眠りと同じ状況である。


我々は目を開けて何かを見ている状態を普通だと思っている。

しかし、それはまぶたが閉じないようにけっこう頑張って目を見張っているのだ。

まぶたに注意を集中してみると確かにそんなふうに感じられる。



●2018.10.2(火)懐かしい光景

落葉樹の並木の歩道を歩くと、風に吹かれて落ち葉が舞う。

よくある光景だと言いたいが、科学的に見れば全て異なる光景のはずである。

同じ場所であったとしても、その時々の気温、湿度、風向き、風速、さらには風に舞う落ち葉の数、近くを行き過ぎる人や車の状況なども考慮に入れれば、同じ光景はありえない。


しかし、近似値はありうるだろう。

印象深かった過去の一場面と条件的に限りなく近い光景に出くわした時、人は懐かしい過去を思い出すのではなかろうか。

そう考えれば次のようなロマンチックな歌詞も頷ける。

「こんな風が吹いていた日、私、恋をしてたみたい」(本田路津子るつこ『だれかを愛したい』)



●2018.10.3(水)よりよく生きるには

人は幸福な状態にある時、生きる意味を考えることは少ない。

とすれば、生きる意味を考える時はベストの状態ではないということになる。

生きる意味を考えるのは、さらなる高みを目指すためだろう。


よりよく生きるには二つの方法があるように思う。

一つは、目標を見出して動き続けることである。

もう一つの方法は、現状に満足することである。


私は若い時に小さな町工場でアルバイトをしていたことがある。

単純作業の繰り返しの毎日で日当も微々たるものだった。

しかし、その工場で長年働いている社員は皆いい人だった。

こういう人たちに囲まれて一生を生きていきたいものだと思った。

彼らには平凡な毎日に安住している人に特有の穏やかさや優しさがあった。


そういう人たちの対極にいるのは、例えばテレビの世界の人たちだろう。

彼らは華やかで生き生きとしている。

しかし、時としてあくせくと心身をすり減らしているようにも見える。



●2018.10.4(木)低体温症

箱根駅伝まであと3か月ほどだ。

毎年楽しみに見ているが、不思議に思うことがある。

全力で走っているのに低体温症になる選手が出ることである。


調べてみて納得した。

まず汗が蒸発すると体温が奪われる。

次に短パンにランニングという服装で風を切って走るという点だ。

それは冬の戸外に薄着で立って、吹いてくる冷たい風を受けているのと同じなのである。

そういう状況が運動による発熱を上回ると低体温症になり、心臓、肺、筋肉、神経が正常に機能しなくなる。


日常生活では冬に薄着で外出すれば似たような状況になる。

寒い戸外で体がブルブル震え、「歯の根が合わない」という言葉があるように顎まで震える。

それらは全て運動によって体温を上げようとする反応なのだ。

それでも低体温症になりそうな時は、赤提灯に寄って熱燗を一杯ということになる。



●2018.10.5(金)人間関係のバーチャル化

文化人類学に「パーソナルスペース」という概念がある。

欧米人は、空間的意味合いだけでなく対人関係においてもパーソナルスペースを大切にする。

それに対して「個」が確立されていない日本人は、どこまでも相手の世界に踏み込んでいこうとする。

例えば、居酒屋で隣り合った客が初対面であっても年齢や職業や住所を平気で尋ねたりする。

日本人の側に立てば、それは相手と親密な関係を結ぼうとする意欲の表れだと解釈できないこともない。


しかし、現代の若者はそんな濃厚な人間関係を敬遠する傾向にあるようだ。

職場の飲み会に参加したがらないどころか、人間関係全般を避けてSNSの世界に入り込む。

それは現実の人間関係からの逃避なのだろうか、それとも自分自身の「個」の尊重なのだろうか。

個人としてどれだけ自由でありうるかという点を判断基準にした場合、最善なのは自分の部屋にひきこもってバーチャルな世界で好き勝手に過ごすことだろう。

SNSの隆盛ぶりを見ると、実際にそうなりつつあるのではないかと思われる。

比ゆ的に言えば、一人一人がそれぞれ無人島で暮らしているようなものである。



●2018.10.6(土)体の自己防衛反応

尾籠な話だが、ひどい下痢が続いたことがあった。

病院に行かなかったので分からないが嘔吐下痢症だったのかもしれない。

長時間、短い間隔でトイレに駆け込むたびに水みたいな薄い便が出続けた。

苦しみながらも、これほどの水分を摂取したおぼえがないので不思議に思った。

漠然とウイルスのせいだろうと思っていたが、体の自己防衛機能なのではないかと考えてみた。

口から摂取した分だけでなく体内の水分を総動員して腸内の異物を排出しようとしているのではないかと。


風邪をひいた時も同じである。

熱が出るのはウイルスにやられたというのでなく、ウイルスと戦うために体自体が体温を上げているのだ。

臓器移植の際の拒絶反応も、移植された臓器を異物とみなして受け入れまいとする防衛反応だという。

人間の体はうまくできているとつくづく思う。

生きるために体がどれほど頑張っているかを思うと、安易に自殺することはできないのではないか。



●2018.10.7(日)気になっていること

ずっと気になっているが人に確かめるまでもないということがいくつかある。

例えば、トイレで用を足した後、前と後ろ、どちらからお尻を拭くかという問題だ。

ネットで検索すると奇特な人がいるもので、この件でアンケートをとった人がいる。

結果を紹介すると、「前から」派が4割で「後ろから」派が6割である。


他にも気になっていることがある。

意外な話を聞かされた場合に、「うそ!」と言う人と「ほんと?!」と言う人の割合である。

これはどちらが多いか、確かめていない。

前者は相手の言ったことを否定するような感じがするので、私は後者だ。

しかし、「ほんと?!」は相手の発言に不信感を抱いているような響きがあり、「うそ!」と否定するほうが「とても信じられない!」という素直な驚きを表現できるという考え方も成り立つかもしれない。



●2018.10.8(月)言葉の選手交代

芋粥いもがゆをネットで検索すれば、さつま芋を使った粥のレシピが出てくる。

平安時代を舞台にした芥川龍之介の『芋粥』も有名だが、この作品に登場する芋粥は山芋を使った料理である。

このように昔は「芋」と言えば山芋のことであり、里で栽培される芋は区別して「里芋」と呼ばれた。

しかし時が下り、さつま芋が日本に入って来て「芋」の代表の座を獲得すると、かつての「芋」は「山芋」と呼ばれるようになった。


「車」についても同じで、明治時代は人力車を意味した。

現在は「車」と言えば「自動車」を意味するので、明治時代の「車」のことは「人力車」と言わねば通じない。

」も、かつては「からうた」と訓読されたように漢詩かんしのことだった。

現代の我々が思い浮かべるが明治時代に登場すると「新体詩」と呼ばれた。

今では形勢が逆転し、「詩」は近現代詩を意味し、かつての「詩」は「漢詩」と呼ばれている。

他にも「御三家」とか「三種の神器」など、時代によって指すものが異なる言葉は色々ありそうだ。



●2018.10.9(火)素人の素朴な感動

「『白ける』は江戸時代の人も今と同じ意味で使っていて、『白ける』という言葉自体は奈良時代からあるんだよ。」

そんな話を延々と続けて、座を白けさせる人がいる。

蘊蓄うんちくを傾けたがる人は傍迷惑はためいわくなものだが、本人自体が一番不幸なのかもしれない。

というのは、知識が深い分野について人は素朴に感動することができないと思われるからだ。


例えば私は、電気をすごいと思う。

たった1本の線だけで映像も音声も光も熱も発生させることができるのだ。

電気に詳しい人なら、そんなことに感動するとは思えない。

スーパーに並んでいる食品についてもそうだ。

はるか遠くのノルウェー、オーストラリアから運んできた鮭や牛肉が、国内産のものより安く売られている。

生産コストや輸送コストに詳しい人なら、不思議でも何でもないのだろうが。


ジュースと同じくらいの値段のガソリン1リットルでかなりの距離を走る車もすばらしいが、人間自身もかなり感動的だ。

贅沢をしなければ一人の食費は1日千円でまかなえる。

千円のエネルギーで人間が1日にやってのける仕事の量や質を思うと、人間も大したものだと思う。

こんなふうに、素朴な感動を挙げればきりがない。

知識を得る喜びもあるが、ものを知らないということも案外幸せなことなのかもしれない。



●2018.10.10(水)体のあちこちが気になる

足の爪を切りながら、小指の爪の何とはかないことよと思う。

人類が四つん這いで地を掴んで走っていたのは遠い昔のことだから、足の爪は不要と思われるくらいに退化したのだろう。

人間の体は、長い時間をかけて環境に順応してきたと思われる。

体毛も、居住空間の快適化と衣服の改良に伴って薄くなっている。

従って、薄くならずにしっかりと残っている部位の毛は存在根拠がある。

体熱と湿気が籠りやすいわきの下と陰部の毛は、それらの発散のために必要なのだろう。

頭髪は自前のヘルメットのようなもので、大切な頭部を保護している。

眉毛は目にほこりや汗が入るのを防ぐ役割がある。


眉毛が長く伸びた老人をよく見かけるが、鬱陶しいだろうになぜ切らないのかと以前は思っていた。

しかし、ほこりなどの異物をシャットアウトするまばたきの反応が鈍った老人にとっては、長い眉毛が目の保護に役立つのかもしれない。

私が最も不思議に思うのはひげである。

毎朝ひげを剃りながら、頭髪と違って不必要なひげなど生えてこなければいいのにと思う。

ひげが退化しないのはなぜだろう。

頭髪が抜け落ちてひげが濃い人の無念さはいかばかりだろうか。



●2018.10.11(木)人体についてのたわいもないこと

昆布を水に漬けておくと出汁がとれる。

とすれば、風呂に入るのは自分の体で出汁をとることになるのではないか。

冬に布団の中に潜り込むのは、自分の体を炬燵こたつのヒーターがわりに使用するようなものだ。

赤ん坊の体重が何kg増えたという話をよく聞くが、マグロの養殖と比較すればどちらが効率がよいのだろう。

人体についてそんなたわいもないことを考えるが、以下もその続きである。


自分の意思ではなく自律神経によって動いている筋肉を不随意筋と言い、内臓などがこれに当たる。

だから、心臓や胃を自分の意思で休ませたり活動させたりすることはできない。

肺の活動を自分の意思で停止させる、つまり息を止めるということをやってみても数分が限界だ。

自分の意思を超えて人体は自己を健全に生かすようにできているのだろう。


不随意筋に対して、自分の意思で自由に動かすことのできる筋肉を随意筋と言い、骨格筋などがそうである。

自由に動かすことができるなら、随意筋は自分を傷つけることもできるのだろうか。

舌を噛むとかナイフを手に持って自分を刺すとかではなく、筋肉が筋肉自体を損なうことができるのだろうか。

例えば、横や後ろに首を傾け続ければ首を痛めるのかどうかというようなことである。

試してみるが、怖くて途中で止めてしまうので答は分からない。



●2018.10.12(金)借景と季語

個人宅の庭の背景に自然の山々などが見えれば庭の格が上がったように見える。

借景しゃっけいの効果である。

俳句の季語も借景ではないかと私は思う。

十七音の狭い世界に豊かな広がりを与えてくれるのが季語である。

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

正岡子規のこの名句の「柿」を季語でない言葉に置き換えてみよう。

パン食へば鐘が鳴るなり法隆寺

これでは、パンはうまくても俳句はうまくない。



●2018.10.13(土)多様性

およその数で言えば、動物が130万種類、植物が30万種類、細菌や菌類まで含めると500万種以上。

しかし、それらは命名されている生物の数であり、地球上の生物は2億種を超える可能性があるという。

それほどこの世は多様性に満ちているのである。


ある時、私は人の耳の形が気になりだした。

顔の他のパーツの目や鼻や口に比べて、耳は最も個人差が大きいように見える。

一旦気になって人の耳をじっくり見てみると、耳はけっこうグロテスクなものである。

若い女性のかわいらしい顔とその横に突き出ている耳が異常なアンバランスに見えることもある。

指紋や虹彩や静脈と並んで多様性に富む耳も認証に利用できるのではないだろうか。


人間自体も多様性に富むほうが楽しい。

東大生がレギュラーで出演しているクイズ番組がある。

彼らのような出演者ばかりだとスムーズに進行するだろうが面白みには欠ける気がする。

クイズ番組はおバカタレントがいるほうが盛り上がる。

子育ても同様である。

どの赤ん坊もすくすく育って手がかからないなら「育てがい」というものは生じないだろう。

「手のかかる子ほどかわいい」と言われるように、育てる過程にドラマがあるほうが人間らしい。



●2018.10.14(日)進化と生存

白人のデコボコした顔、良く言えば彫りの深い顔立ちはゴリラなどの類人猿に近く、アジア人の平たい顔のほうがより進化した形態であるいう説を聞いたことがある。

進化はシンプルな方向へ向かうと考えれば、うなずける説である。

進化の極限の最もシンプルなフォルムは、球体のはずである。

人間も究極のレベルまで進化すれば、精神のみが球状のエネルギー体として存在することになるのかもしれない。

そうなれば肉体的本能からも解放される。


人間の三大本能はどれをとっても、その行為を長時間に渡って継続すると苦痛なものである。

神様がしゅ及び個体の保存のために快楽を三大本能に付随させたのは、本来はそれらが面倒な作業だからなのだろう。

最もらくそうに見える「寝る」という行為も、あまりに疲れている時はなかなか寝つけない。

寝るにも体力を要するのである。

食欲に関しても、食べて排泄するということを私は時々恥ずかしく思うことがある。

できれば仙人みたいにかすみを食べて生きていたい。



●2018.10.15(月)大和言葉

漢字のおん読みは中国語の発音である。

だから「さん」とか「かい」とか言っても意味は通じない。

くん読みで「やま」「うみ」と言えば分かる。

「小説家」「歌手」を大和言葉で言えば「ものかき」「うたいて(うたうたい)」だ。

「紛争を処理する」は「もめ事を片付ける」となる。

大和言葉はスマートではないが心のひだに引っかかってくる。

母親の手料理や郷土料理に似ている。



●2018.10.16(火)生活の知恵

空き巣犯も使う手らしいが、幾つかある引き出しを全て点検する場合、下から順に開けるほうがいい。

自然な感覚としては上から順に開けたくなるが、このやり方では引き出しごとに開け閉めを繰り返さなければならない。

下から開けていけば、最後に全部の引き出しをまとめて閉めることができる。(空き巣は閉めないだろうが。)


同じように便利な生活の知恵を一つ仕入れた。

鍋のカレーやシチューをお玉で皿につぐ時、お玉の底のしずくがテーブルに垂れるのを防ぐ方法がある。

お玉ですくった直後にお玉の底をカレーやシチューの表面にちょっとだけ付けて、それから皿につげばよい。


どうしてもうまくいかないこともある。

鍋で炊いた即席ラーメンを丼に移す時、いつもスープが少しだけこぼれてしまう。

一気に鍋を傾けたり、麺だけ先に丼に移したりと色々やってみるのだが、スープがこぼれなかったためしがない。

麺を半分だけ移して後は一気に丼へ、というのが一番成功率が高い。



●2018.10.17(水)趣味の世界

かつて数年間、釣りに熱中して週末になると海に出かけた時期があった。

真冬の岩場で一晩中過ごしたり、雪が降っても防波堤に行って竿を出したりしていた。

ピクリとも動かない竿の上に雪が積もっていくのは、さながら柳宗元の「江雪」の世界である。

趣味をこえて酔狂の域と言うべきか。


釣りをしない人には「上げ七分しちぶ下げ三分さんぶ」という言葉の意味は分からないだろう。

釣りをする人は海辺をドライブすると干満の程度が気になる。

夜も月の満ち欠けに目が行き、天気予報は波の高さと風の向きに注目する。


趣味の種類は数えきれないほどあるだろう。

ちょっと考えてもスポーツの数だけ、動植物の数だけ、芸能人の数だけ、それらに熱中している人がいるはずだ。

釣りの場合の干満や月齢と同じように、どうでもよさそうなことでも、ある趣味の人にとってはそれが大切な情報であることを思えば、趣味の世界も奥が深い。



●2018.10.18(木)誘惑の断ち切り方

「人は二度死ぬ」とよく言われる。

一度目は現実に死亡した時、二度目はその人のことを誰も思い出さなくなった時である。 

これは認識論的に面白い。

他人は自分が意識した時にのみ立ち現れるのであり、それ以外の時は存在しないも同じということになる。

恋人のことを思う時の立ち現れ方が強烈であるのは誰しも覚えがあることだろう。

禁煙や断酒をしている時の煙草や酒の誘惑も同じように強烈である。

誘惑を防ぐには煙草や酒を頭に思い浮かべなければいい。

または、煙草や酒を想起する暇がないくらいに仕事や趣味に没頭すればいい。

しかし、禁煙に失敗した人なら分かるだろうが、煙草を吸いたい気持ちが一旦湧き起こると真夜中であっても煙草を買いに走りたくなるものである。

そんな時のとっておきの手段は、すぐに寝ることである。



●2018.10.19(金)普通は普通ではない

人は何のために生まれてくるのか、生きる目的は何なのかと問われて、ある学者は「進化」と答えていた。

向こう三軒両隣を偏屈な偉人に囲まれるよりも私は気のいい一般人と近所づきあいをしたい。

普通に仕事をして普通に家庭を持って普通に死んでいきたい、私は若い頃からずっとそう願っていた。

進化に逆行するような志の低さだが、しかしそんな普通の人生も案外普通ではないと最近は思う。

日本では普通の暮らしであっても、その生活が羨ましがられるレベルに位置する国は多い。


人間一人一人を見てみても普通でない人は多い。

働き盛りの30代、40代で無職の人間が犯罪に走ったり、長年連れ添った老夫婦間に殺人事件が起こったりという昨今だ。

人間は年を重ねるにつれて進化、進歩するとは限らない。

食品と同じく、熟成に向かうこともあれば腐敗していくこともある。



●2018.10.20(土)流行と伝統

万年筆やボールペンが登場するまで、筆記具は鉛筆と付けペンくらいしかなかった。

付けペンとはインク瓶にペン先を浸して使用するペンのことである。

鉛筆には変わったものがあった。

鉛筆の軸の端に消しゴムが付いているものや、赤鉛筆と青鉛筆が半分ずつで1本になっているもの。

それらは現在も販売されているようだが、それほど売れているようには見えない。

鉛筆の断面は六角形か丸が定番だが、三角形のものが流行ったこともあった。

総じて言えば、筆記具に限らず奇をてらったものは一時の流行にはなっても主流にはならない。

将棋の対局で盤面に駒を並べる時、ほとんどの棋士は大橋流というやりかたで並べていく。

「誰が決めたわけでもなく、自然にそうするというのが伝統というものでしょう。」

羽生善治名人がテレビでそう言ったのを聞いてなるほどと思った。

伝統とか王道とかいうものは、奥ゆかしくていいものだ。



●2018.10.21(日)高い方から低い方へ

風や水は気圧や水位の高い方から低い方へ流れる。

人の世も同じである。

指示、命令系統は地位の高い方から低い方へ流れる。

ところが夫婦の場合は少しく様子が異なる。

年月を経るにつれて世の旦那の地位は次第に地盤沈下を起こす。

そして女房の方から指示、命令が逆流してくるようになる。

これではならじと旦那は緊急避難を企てる。

すると女房は先回りしてダムのごとくに立ちはだかる。

かくして旦那は退路も断たれ、湖底に沈むのである。



●2018.10.22(月)もどかしさ

小学生の頃を思い出す。

夏休みの宿題の絵日記を8月の後半にまとめて書こうとする時、なまけていた期間の天気が分からない。

親兄弟に聞いても、何日も前の天気など誰も覚えておらず、もどかしい思いをしたものだ。

天気に限らず、のどまで出かかっているが思い出せないことは今ならネットですぐに検索できる。

便利になった現代はもどかしさというものがなくなった。

紙の辞書と電子辞書の関係に似ている。

電子辞書は目的の項目に一発でたどり着くが、紙の辞書はもどかしくページを繰らねばならない。

しかし、その途中でふと目に留まった項目に読みふけるのは、無駄なようで何とも贅沢な時間である。



●2018.10.23(火)置きっぱなしの爪楊枝

若い頃の私は、父親が使用済みの爪楊枝をそのまま食卓に置いておくのが嫌だった。

ところが今では自分もそうするようになり、妻に白い目で見られている。

因果は巡るという感がある。


非難する側の理由は次のようなことだろう。

不潔であり見たくない、すぐ捨てればいいのに怠惰でだらしがない、下に落ちたら気づかずに踏む恐れなどもある。

一方、置く側の理由としては、捨てるのが億劫だ、その爪楊枝はすぐまた使う可能性がある、などということが考えられる。

私は両方の心情が理解できるが、妻には置く側の心情はまだ分からないだろう。

そこで家庭平和のために私が折れて、使った爪楊枝はなるべくすぐに捨てるようにしている。

それに、公平に見ても非難する側にがありそうに思われる。


しかし、置きっぱなしにする側の事情にも理解ないし同情がほしいものだ。

一旦寝転がると、腹筋が弱って膝関節も痛む身で立ち上がるのは一苦労なのである。

すぐ側のゴミ箱までわが身を運ぶのが億劫なのは、精神的な怠惰というよりも肉体的に辛いのだ。

また、年を取るにつれて歯と歯の間に隙間ができるようになる。

すると何か食べるたびに必ずと言っていいほど歯に詰まる。

そのために爪楊枝は常に側に置いておきたいのである。

爪楊枝を使う子供を見かけないのは、彼らには使う必要がないからである。



●2018.10.24(水)赤ん坊

赤ん坊は興味深い。

まず、がに股で万歳しているような格好で寝るのが面白い。

万歳スタイルは大事な頭部を保護しているように見える。

がに股も排せつ物が内股に付着してかぶれるのを防ぐのに都合がよさそうだ。


馬や牛などが生まれてすぐに立ち上がったりするのを見ると、人間の赤ん坊の成長は何と遅いことかと思う。

他の動物に比べると人間は未熟な状態で生まれるのであって、その分、生まれた後の養育や教育が重要な役割を果たすと聞いたことがある。


それももっともだが私はこうも思う。

赤ん坊に手がかかるのは、親が親となるために必要なのではないかと。


人間以外の動物はわが子に対して育児放棄や虐待をすることはない。

「手塩にかけて育てる」という言葉もあるように、赤ん坊の世話をやきながら親は少しずつ親になっていくのだろう。

そう考えると親は赤ん坊に教育されているようなものだ。



●2018.10.25(木)子供の可愛さ

思春期を乗りこえることによって子供本人も親も人間的に成長していく。

理屈では分かっていても我が子が思春期に入ると厄介なものだろう。

ずっと幼いままでいてくれたらどんなに可愛いだろうと思ったりもするのではないか。


近所に乗り合いバスの車庫があってバスが何台も駐車している。

母親が子供を連れて時々車庫の側を通りかかる。

子供と言っても中年にさしかかる年齢の男性で知的障害者のようだ。

男性はバスと写真が好きらしく、車庫に来るたびに首から提げたカメラで撮影している。


その光景を見るたびに私は年老いた母親を同情の目で見ていた。

しかしその同情は見当違いではないかと思うようになった。

障害のある子の行く末に対する不安を母親はとっくに乗りこえているかもしれない。

そうだとすれば我が子がずっと可愛い盛りのままでいてくれるのだ。

そう考えると仲良く手をつないで歩くその親子の姿が微笑ましくも見えてくる。



●2018.10.26(金)ペースを守る

ラストスパートは別として、長距離の後半になってゴールを意識しすぎるとペースも息遣いも乱れる。

小学生の頃、トイレを我慢して学校を出て家に着く寸前で粗相をしたことがある。

あと少しで家に着くと思って焦ったためだろう。

常に今が新たなスタートだと思えば、結果を追い求める気負いから解放される。

夫婦間にいさかいが生じた時も、夫婦という二人三脚レースのゴールはまだ遠い先なのだと思えば破局的な事態には陥らない。

ペースを守るということは平常心を保つことにつながっている。



●2018.10.27(土)裸の本音

「あなたの正体が見たい。」と言った時、「分かりました。」と相手がいきなり全裸になったらどうだろう。

相手がたとえ妙齢の女性でも警戒心を抱いてしまいそうだ。

飲み会の席ではお互いが裸になるような状況がよく生まれる。

本音でのトークというやつだ。

これはしかし、裸の体を見せるのと同じように恥ずかしいことだ。

翌朝になればたいてい二日酔いと共に後悔に襲われ、昨夜の話し相手とは顔を合わせたくない。

自分の内面をさらけ出すには相手への配慮や慎みが必要なのだろう。

それは友人間に限らず、親子や夫婦という名の他人どうしにもおいても同じことだ。



●2018.10.28(日)偶然に見える必然

「今日もあの人が歩いている。もう少し行くとあの人が歩いているはずだ。」

自家用車で通勤しながら歩道を見ると、同じ地点を同じ人が歩いているを目にするのはよくあることだ。

徒歩通勤者も決まった時刻に家を出ているのだろうから不思議なことではない。

それに対して車はスピードも速く、行き交う車どうしは偶然すれ違っているような感覚がある。

しかし車のほうも同じなのではないかと思い直した。

お互いに決まった時刻に家を出ているならば、通勤時間帯にすれ違うのは偶然に見える必然なのだろう。



●2018.10.29(月)電化が進んで

昭和の高度経済成長期は電化の急激な進展の時期でもあった。

それまでは薪でご飯を炊き、風呂を沸かし、洗濯もたらいと洗濯板を使って手で洗っていた。

掃除もほうきはたきを使っていた。

ここまでパソコンに入力しながら思ったのだが、「盥」「箒」「叩き」などは早晩、死語と化するのではなかろうか。

ともあれ、高度経済成長期以前においては炊事、洗濯、掃除は大変な労力で時間もかかった。

従って家事をこなす女性は働きに出るゆとりはなく、働きに出る男性は家事を行うゆとりはなかった。

その両者の当然の帰結として、生活していくためには結婚せざるを得なかった。

結婚して男性が働き女性が家事を担うという以外の選択肢はなく、「専業主婦」という言葉すらなかった。

生活の苦しい家庭の主婦はわずかに手内職をするくらいが関の山だった。


そんな時代から数十年が経った現代は、経済の成長と電化の進展があいまって男性、女性ともに色々な生活スタイルを選択できるようになった。

そんな華やかな現代もいいが、時代遅れの私は『サザエさん』に描かれる生活にも惹かれる。

ただ、電化が進んだ現代でいいなと思う分野がある。

それはDIYである。

テレビでもリフォームの番組が人気を博している。

釘を金づちで真っ直ぐに打つ。

ドライバーを回してネジを真っ直ぐに締める。

ノコギリで板や角材を真っすぐに切る。

やってみた人は分かるだろうが、この程度の作業でも難しいし疲れもする。

それが現代は電気ドリルや電動ノコギリを使って簡単にできるし、実に楽しそうだ。



●2018.10.30(火)左利き

テレビドラマで左手に箸を持って食事をしている人を見ると、左利きの私でも違和感を覚える。

右利きの人が多いせいで、右手で箸を持つ姿を日常的に見慣れているせいだろうか。


世の中は右利きの人に便利なようにできている。

陸上競技のトラックを左回りに回るのも、右脚のキック力が強い右利きの人がカーブを曲がる時に有利に思える。

左利きの私が最も腹立たしいのはお茶を注ぐ時の急須だ。

うっかり左手で急須の取っ手を握ると万事休すとなる。

野球のピッチャーなど、スポーツは左利きが重宝される。

しかし、左手は心臓に近い手なので左手を激しく動かすことは心臓に負担をかけるとも聞く。


左利きの人に有利なことはないかと考えて一つ発見した。

縦書きの文章を書く時がそうだ。

縦書きは右のぎょうから左の行へと移っていくので、右利きの人のように手のひらの側面が鉛筆で汚れることがない。



●2018.10.31(水)感覚の鈍磨

私の小さい頃の写真はモノクロだ。

しかし、よみがえる思い出のリアルさは、白黒写真もカラー写真も違いはない。

あえて選ぶとすれば映画もそうだが、モノクロの方に私はよりリアルさを感じる。

それは思い出やリアルさの本質に深くかかわる問題かもしれない。


それはさておき、現代人の感覚の鈍磨が気になる。

夏の海水浴場にはけたたましいまでの音楽が流され、寄せては返す波の音をかき消す。

風鈴の涼やかに澄んだ音や線香花火のかそけくはかない光…風情という世界が消えつつある。

冬もクリスマスが近づくと、全国各地のイルミネーションの華やかさが競われる。

街にはネオンの光があふれ、店内のクリスマスソングが街路にまで響いてくる。

現代人は過剰な電飾や電子音楽の狂騒の海で溺れてもがいているように見える。

人間の手で作り出すものは風鈴や線香花火くらいでめておいたほうが人間らしいかもしれない。



●2018.11.1(木)病気の回復

「老人はどうしてああなのだろう?」と不思議に思っていたことが、自分が年を取ると納得できるようになる。

例えば、風邪ひとつ取ってもそうだ。

年を取ると治りが遅くなるのが確かに分かる。

若い頃は放っておいても自然治癒力で治った。

今は治りが遅いどころか、薬を飲まなければどんどん悪化する。

当然の帰結として次は薬を飲んでも治らなくなる時が来るのだろう。

なるほど人はそういう段階を経て死んでいくのだと納得できる。

若い頃は風邪をひいてぐったりしている自分に腹を立て、あえて激しい運動で汗を流したこともあった。

また、アルコール消毒と称して風邪をひいていることを忘れるまで飲み続けたこともあった。

そんな愚挙、暴挙に出ても必ず治ると思っていたことが今ではむしろ驚きである。



●2018.11.2(金)駄々をこねる子供

私の小さい頃はデパートの食堂で食事をすることが、夢と言ってもいいほどの大きな楽しみだった。

貧乏だったので玩具などは買ってもらえず、兄がデパートの踊り場で仰向けになって駄々をこねたことがあった。

時代が裕福になって駄々をこねる子供を殆ど見かけなくなったが、先日近所のスーパーでうつ伏せになって駄々をこねている子を見て懐かしく思った。

行列のできる飲食店がテレビ番組でよくとりあげられるが、食事に限らず私は行列に並ぶことはしない。

しかし、駄々をこねるにしても行列に並ぶにしても、自分の意志を実現しようとする強い意志の現れと捉えることもできる。

そういう人たちが仕事上や人生上の苦難にもたくましい行動力を発揮するとすれば、尊敬に値する。



●2018.11.3(土)孤独の味わい

人は一人で生まれ、一人で死んでいく。

そして生きている間も本質的には孤独なのではなかろうか。

孤独とは、生きているということを強く実感できる状態のように思われる。

とすれば、友人を求めたり飲みに出たりするなどして孤独を紛らわすのはもったいない。

人間は弱い生き物だから孤独の寂しさから逃れたくなる。

しかし、そこを踏みとどまって孤独を味わいつくそうと覚悟すれば、深い充実が待っているかもしれない。


 私は希望を唇に噛みつぶして

 私はギロギロする目で諦めていた……

 ああ、生きていた、私は生きていた!

          (中原中也『少年時』)



●2018.11.4(日)老人と寒さ

そろそろ寒くなってきた。

短パン姿の小学生たちを見ると何と元気なことよと思う。

私の祖母は冬になると火鉢に手をかざして手の甲をさすりながら温めていた。

そんな老人を『枕草子』では「にくきもの」の一つとして挙げているが、それは酷だと思う。

心肺機能の低下によって、末端の手先、足先まで血液が順調に循環しないのだろう。

私も他人ごとではなく、真冬には靴下を履いて寝る。

心肺機能が心配だ、自嘲気味にそんなダジャレを呟いたりしている。


俳句の季語にもなっている「寝正月」というのは、家でゆっくり休息して正月を過ごすことだが、病気で寝たまま正月を迎えるという意味もある。

私の昨年の正月は病気による寝正月だった。

病院に行かなかったので風邪かインフルエンザか分からないが、元旦を挟んで1週間ほど寝て過ごした。

加齢による免疫機能低下のせいだろうが、年をとれば病気にかかりやすくなるのは確かだ。

社会の高齢化の進展に伴い、「無病息災」をもじって「一病息災」という造語がかつて出現した。

その後「多病息災」という言葉まで生まれ、その凄まじいまでの生への執着に私はたじろぐ。

妻と違って男親である私の長生きを子供たちが喜ぶとはとても思えない。

「多病息災」などもってのほかで、「無病即死」が歓迎されそうだ。



●2018.11.5(月)日常の経済学

人が生きていく上でのハード面を追究するのが理系の学問であり、ソフト面が文系の学問だろう。

文系の中で人がどうやって生計を立てていくかに直接かかわる分野は「経済」だろうが、これはなかなか興味深い学問だろうと思う。

よりよい暮らしをするために商品を買う方は1円でも安く買おうとし、売る側は1円でも高く売ろうとする。

需要と供給は奥の深い問題なのだろうが、経済に疎い私は生きるって切ないなと感傷に浸ることしかできない。


そんな私でも最近考えを改めたことがある。

スーパーで食品を購入する時、多くの主婦と同じように私も陳列棚の奥の賞味期限が長いものを選んでいた。

しかし全ての客がそうすれば、売れ残る手前の品はやがて賞味期限が切れて廃棄せざるを得なくなる。

そこで私は自分がその食品をいつまでに食べるかを考え、その範囲での賞味期限のものを手に取るようにした。

ささやかな行いながら少しでも生産者の助けになればと願って。



●2018.11.6(火)個性と独りよがり

人は自分の考えに共感してもらえば嬉しくなる。

なぜかと言えば「社会的承認の欲求」という言葉もあるように、その考えが自分の独りよがりではないということが確認できるからだと思われる。

他の人にはないその人独特の個性というのはそれに反しているようにも思われるが、個性というものは価値あるものと認められる範囲でのアバンギャルドなのだろう。



●2018.11.7(水)日常生活におけるドラマ

日常生活にドラマはいらない。

テレビや劇画の世界のドラマを我々は面白がって見るが、それが自分に現実に起こったならば心労の日々が続くことは明白だろう。

学園ドラマでの喧嘩のシーン一つ取ってもそうだ。

本人は学校や警察の事情聴取を受け、親は学校に呼び出され、殴った相手やその親への謝罪に出向き、さらには治療費の支払い等々、多くの現実的対処の必要性が待っている。

現実の生活でのドラマは、誕生日のサプライズ演出程度に留めておく方がいい。


家族をはじめとして職場や地域の人々との人間関係、将来の生活設計、社会的体面など、大人は多くのものを背負っている。

これらの制約は煩わしくはあるが、平穏な日常を営む上では大切なものである。

従って、しがらみの少ない若者と違って大人はうかつに動けず、ドラマが発生する余地はない。

しかし、思考や行動のそんなルーティン化が蔓延して社会全体が閉塞感に覆われると、ドラマチックな激動の時代が訪れる。

坂本龍馬であれ、ジャンヌダルクであれ、若者が大きく歴史を動かすのは、ある意味、必然なのかもしれない。



●2018.11.8(木)若気の至り

長いスパンで見ると、若い時期の生き方は短距離、それ以降は長距離走にたとえられそうだ。

わき目もふらず駆け抜けた青春時代を自嘲気味に振り返ると「若気の至り」ということになるのだろう。

長いスパンでなく、普段の生活でも同じようなことがある。

何かの拍子に激高して後で後悔するのがそれに当たる。


若気の至りも激高も、本人としてはその時々の正義感で動いている。

しかし、その正義感が普遍性を持たない場合は後悔にさいなまれることになる。

ついでに言えば、「激高」というのは注がれた水がコップからあふれ出すようなものだ。

あふれ出す前に既にかなりの水が注がれている。

そのことを考慮に入れないと、「あの人はどうしてあの程度のことで怒るのだろう」というふうに見える。



●2018.11.9(金)世代交代

地球内部のマントルの対流によって大陸プレートが少しずつ動くように、世代間交代もゆっくりとではあるが確実に進行する。

我が子が成長していくにつれ、反比例して自分の親が衰弱していく。

やがて我が子が大人になると我が親が亡くなる。

世代交代のバトンを渡されたかのように次は自分の番だということを否応なく実感させられる。

そして、ぽつぽつ舞い込む同級生の訃報が追い打ちをかける。



●2018.11.10(土)身長の高低による違い

私は妻よりも20センチくらい身長が高い。

「このホットプレートを収納棚の上の段に入れて。」

私が楽に届くところに妻は背伸びしても届かない。

日常生活において身長差は案外おおきな問題かもしれない。

広い店に買い物に行った時に妻とはぐれると、見つけるのが大変だ。

店内を1周するはめになったりする。

私の身長は普通の陳列棚よりは高いので、妻のほうは私を探すのに苦労しない。


車を運転する時、妻が座席の角度を後ろの方に倒すのがずっと気になっていた。

ただでさえ身長が低いのに座席を倒せばさらに目の位置が低くなって運転しづらいだろうにと思う。

妻の身になって考えてみてその理由が分かった。

身長が低い人間はブレーキやペダルに足が届くように座席を前にスライドさせる必要がある。

そうすると今度は、腕とハンドルが密着するかっこうになるので運転しづらい。

そのために座席を倒してハンドルとの間に距離をとらねばならないのだ。


以上の例のように身長の高いほうが苦労は少ないようだが、逆のケースもある。

私の息子は飲食店の厨房で働いているが、息子の身長にしてはシンクが低いらしく、腰が痛いといつも言っている。



●2018.11.11(日)まっすぐ

まっすぐな道でさびしい (山頭火)

この句にはいろいろな解釈があるようだが、とりあえず、単調な道ならば退屈するのは確かだ。

ところで、本当に単調な道や人生というものがあるのだろうか。

まっすぐな道にもでこぼこはあるだろうし、地球は丸いのだから湾曲もしているだろう。

しかしまた、完璧を求めてそんな微細な点をほじくっていけば息も詰まる。

物事を突き詰めて行く際、どのあたりから息苦しくなるかは人によって千差万別だ。

対人関係のいさかいは全てそこから起こると言っていいかもしれない。



●2018.11.12(月)人種や性別による違い

飲食店のカウンター席でもフロア席でも、欧米人は中央の席に座るのに対して日本人は隅に座りたがる。

大胆に推論すれば、日本人は遠慮しなければ生きて行けず、欧米人は遠慮していては生きて行けないのだろう。

男女にも違いがある。

財布に千円程度しか入っていない状態でウインドウショッピングを楽しめるかどうかを話題にした時、女性は平気だということであった。

また、女性が一人でも街へ出かけるのに対し、男は一人で街をぶらつく気にはなれない。

思うに、男は寂しがり屋なのだろう。

そのくせ男どうしで外出するのは気疲れがして嫌だというのだから、男という生き物は面倒なものだ。



●2018.11.13(火)駅伝やマラソン

駅伝やマラソンの中継をよく見る。

都道府県対抗駅伝で地元の選手が順位を上げていく展開になれば嬉しいのだが、抜かれる選手のほうは可哀そうだ。

県民やチーム関係者も辛いだろうが、全国的に注目されている大会で自分の子供が抜かれるのを見る親はもっと辛いだろう。

これが格闘技ともなればなおさらだ。

日本人のボクシング選手が外国人選手をノックアウトで倒せばスカッとするが、倒された選手の親はどうだろうか。

強烈なパンチをくらってマットに沈み、体を痙攣させながら虚ろな目をしている我が子の姿はとても見ていられないだろう。

他人事として見ている分には楽しいが、本人やその肉親にとってはスポーツは残酷な面もあるのだなと思う。


駅伝やマラソンの話に戻るが、見ているうちに居眠りをしてしまって肝心の終盤を見逃して悔しい思いをすることがある。

そこで、録画して早送りで見たり、スポーツ番組のダイジェスト版を見たりするが、何か物足りない。

自分の人生を編集して、過去も未来も楽しい時間だけをつなぐことができればいいなと思うことがあるが、それもやはり人生を味わうことにはならないのだろう。



●2018.11.14(水)政治と宗教の話

それほど親しくない人と話をする場合は、宗教と政治の話題は避けたほうがよいと言われる。

確かに、宗教の話をすれば疎まれ、政治の話をすれば喧嘩になる傾向がある。

その理由を考えてみた。

宗教を語る人を前にすると、その人自身の存在が希薄に感じられて不安になる。

逆に政治を熱く語る人を前にすると、その人の主義主張を押し付けられているようで反発したくなる。

この両方とも人は嫌悪するのだろう。

孔子ならずとも中庸というのはまことに難しい。

我々は花を見てきれいだなと思うが、花自身は美しく咲こうとは思っていないだろう。

より正しく生きよう、そう思う自分の心さえ煩わしくなる時がある。



●2018.11.15(木)一発屋

「一発屋」と呼ばれている芸人が言っていた。

「自分たちは一発でも当たったから幸せだ。」

確かにそうだ。

挫折があったにしても「結果よければすべてよし」なのだ。


どんな分野であれ、結果を残した人物のドキュメントは偉人伝になる。

そうでない人物のドキュメントはおそらく小説に近いだろう。

どちらかと言えば、私は後者に惹かれる。

一度もスポットライトを浴びずに消えて行った多くの芸人たちのその後が思われる。



●2018.11.16(金)相手の身になってみれば

かつての職場の気の置けない同僚にズバリ聞いたことがある。

「頭がハゲてて困ることは何か?」

かまいたちや寒暑の耐え難さといった類いの答えを予期していたのだが、彼の返答に唸った。

「どこまで顔を洗ったらいいか、分からない。」

余人には言えない言葉だ。

前髪の生え際に指先が触れるのを感知しながら手のひらを往復させて我々は顔を洗うが、なるほど頭髪がなければそうはいかない。

手首が柔軟なら一気に後頭部まで洗うことも可能だ。


このように、相手の身になって物事を考えることはなかなかに難しい。

幼児を「高い高い!」と抱え上げるが、幼児との身長差を当てはめて計算すると、我々大人が「高い高い」をされる側にまわるとしたら抱え上げられる高さは建物の2階部分に相当する。

従って、信頼関係のない他人の子供に「高い高い」をするのは、恐怖を与えるだけかも知れない。


相手の身になってということに関連して思い出したことがある。

ずいぶん昔のことだが、京都か奈良のお寺のパンフレットに次のような歌が記されていたと記憶する。

拝まるる仏のさがをみな持つと拝みています勢至せいし菩薩は

合掌している姿の菩薩像の尊さに打たれて参拝者は手を合わせるが、実は参拝者一人一人も尊い仏性ぶっしょうを本質的には持っているのであり、私たちが合掌して拝んでいるのと同じように菩薩のほうも合掌して私たちを拝んでいるという意味の歌だろう。



●2018.11.17(土)真の強さとは

ピアニストのフジコ・ヘミングウェイがこう言っている。

「優しさは強さから生まれる。弱い人間は他人にも自分にも優しくできない。」

なるほどど思う。

弱さから生まれるものは同情や自己憐憫の域に留まりそうだ。

では優しさを生む強さとはどういうものか。

肩を怒らして俺が、俺がと力む強さは「傲慢」という名のものだろう。

そんな自分の我を捨て去ったところから真の強さは生まれるように思う。



●2018.11.18(日)個人や集団の免疫機能

自分に合わないと判断した人とは一緒にいたくないし話もしたくない。

これは免疫機能と言うべきものであって、異物を排除して自分を守ろうとする働きなのだろう。

誰にとっても他人は本来「異物」であり、受け入れることはできないはずである。

恋愛はそれを麻痺させる麻酔である。

「恋は盲目」という言葉はその間の消息を言いえて妙である。

しかしやがて麻酔は切れ、恋愛によって結ばれた夫婦に痛みが訪れる。

しっくりいかなくなった関係にいらつき、離婚に至るケースも出てくる。

元々の他人どうしに戻ったのだと割り切って新しい関係をどう作り上げていくかを考えるべきだ。

恋愛という魔法にかかっていた蜜月状態に戻ろうとあがくからギクシャクするのである。


人間個々人と同じように集団も弱い。

黒澤明監督の『七人の侍』という映画がある。

ならず者のような7人の侍たちが暴れ回る映画というイメージがあるが、本質はそうではあるまい。

無力な村人たちが住む小さな集落を一人の弱い人間だと想定してみよう。

すると、7人の侍たちは侵入してくる異物たちを排除しようと奮闘する免疫機能そのものである。

「村八分」という言葉は陰湿な響きがあるが、それも本来は村の免疫機能だったのかもしれない。

だとすると、当初は横暴というよりもむしろ村の弱さから生まれた自己防衛策だったのだろう。

それに、八分(8割)は排斥しても残りの二分、火事と葬儀の時には手を貸していたという。



●2018.11.19(月)親の背中が見えてくる

親子や兄弟は何年たっても年の差が縮まらず、親は親、兄は兄のままだ。

それは当たり前だが、年齢差でなく比率に注目すると事情が違ってくる。

30歳でできた子が10歳になったとする。

親はその時40歳で、子供の4倍長く人生を生きている計算になる。

この比率が子供の成長につれて徐々に小さくなっていく。

子供が15歳の時、親は45歳でまだ3倍の長さを生きている。

ところが子供が30の時には親は60で2倍に縮まる。

さらに子供が60の時、親は90で1.5倍。

こうして、人生というマラソンで離されていた親の背中が少しずつ見えてくる。



●2018.11.20(火)下品なのは私だけ?

即席ラーメンを作って食べる時、スープは半分ほどしか飲まない。

麺を手繰って食べているうちに最後のほうはスープが邪魔になってくる。

そこで立ち上がってキッチンに行き、コーナーにスープをこぼす。

そしてそのままシンクの前で丼の底に残っている麺を食べて終了となる。

ぶざまな立ち食いに恥じ入りながら待てよと思った。

案外、同じようなことを誰でもやっているのではないか。


真冬にズボンの下に防寒用の薄いタイツを履く。

その時、最後は力士がしこを踏むような格好に膝を曲げてタイツを股下にフィットさせる。

ある時、ふと思った。

タイツであれパンティストッキングであれ、女性も同じことをやっているのではないかと。

花も恥じらう妙齢の女性がどすこいとばかりに腰を落としている格好を想像すると可笑しい。


しかしまた、こうも考える。

私は休みの日はパジャマを着替えもしないし髭も剃らない。

ところが上品な女性は客の訪問や自分の外出の予定がなくても服を着替え化粧もするという。

私のラーメンの食べ方やタイツの履き方を万人共通だろうと決めつけることはできそうにない。



●2018.11.21(水)雑草と園芸種

猫の額ほどの庭を手入れしながら思うことがある。

まず雑草が憎い。

植えた覚えもないのに芝生の間から勝手に生えてくる。

しかもしっかりと根を張り、繁殖力も強い。

それに対して買ってきて植えた園芸種の何と頼りないことか。

綺麗な花を咲かせたかと思えば少しの風で傾いたり倒れたりする。

しっかり自分で起ち上がれ!とどやしつけたくなる。

どちらも一長一短だが、我が子は雑草であってほしいと願う。

親の亡き後、吹きさらしの世の中を自力で生き抜いていく、それだけでいい。



●2018.11.22(木)電話がかかってくると

家に電話がかかってきた時の心理的反応は次の3タイプに分類できるように思う。

①特に何も思わずに受話器をとる。

②どちらかと言えば、誰からだろう?と楽しみに思いながら電話に向かう。

③どちらかと言えば、良くない知らせかもしれないという可能性のほうが気になる。

この違いは、その人が置かれている個人的状況や社会的状況も影響するだろう。

たとえば、借金に追われている、特殊詐欺が頻発している、こういった状況のもとでは③の反応になりそうだ。

しかし、同じ状況のもとでも①や②の反応を示す人もいるはずだから、結局はその人の性格によるところが大きいのだろう。

私は③のタイプだから①や②の人を羨ましく思う。



●2018.11.23(金)ぶらぶらする贅沢

今日は勤労感謝の日だが、私は土日祝祭日だろうが平日だろうが毎日ぶらぶらしている。

そんな私が定年退職によって念願の「何もしなくていい生活」を手に入れた頃の話である。

会う人、会う人、皆が「毎日何をして過ごしていますか」と聞いてきた。

何かしていないと生きている意味がないと言わんばかりだ。

私は実に閉口した。

ついでに言うが、ゴールデンウイークの一番贅沢な過ごし方は家でゴロゴロしていることではなかろうか。


かつて飛行機の墜落事故が続いた頃、その原因として機体の「金属疲労」という言葉がよく使われた。

それをもじれば、定年退職の原因は「勤続疲労」である。

それなのに、再就職だのウオーキングやジム通いだのと周囲はやたらに活動させたがる。

「ピンピンコロリ」が理想だと言われるが、蝋燭が徐々に燃え尽きていくような老い方も許してほしいものだ。


若い時分はバイタリティーにあふれている。

何もない部屋に3日間閉じ込められたら若者は苦痛を感じるだろうが、老人は平気で過ごせるだろう。

うまくしたもので、勤続疲労によって働く意欲が減退すると遊びにでかける意欲も薄れていく。

だから私が老親に接していた経験から言っても、親孝行をするのは早いほどいい。

年を取りすぎると、遠方の温泉も自宅の風呂もありがたみに大差がないどころか、遠出すること自体が苦になるようである。



●2018.11.24(土)禁煙と禁酒

もう何度目になるのか数えきれないが、現在禁煙を実行中である。

今度は長続きしそうな予感がしている。

禁煙の成功度は意志の強さに比例する。

「やるだけやってみよう」「なるべく長く続けよう」

この程度の心構えではもたない。

絶対に喫わないと強く決意しなければならない。


今回私は新たな方法を取り入れている。

それは「タバコに気を向けない」ということである。

禁煙していても四六時中タバコを吸いたいと思っているわけではない。

しかし時々タバコが頭に浮かぶ。

大げさに言えば魔が差すのである。

この時、タバコについてあれこれ考え出すともう我慢できなくなる。

だからタバコが思い浮かんだ時、すぐに他のことに思いを向ければ誘惑の魔は雲散霧消する。

この方法は、飲酒や不倫など他の分野についても有効だろうと思う。


飲酒の話が出たついでにタバコとの関連について述べてみよう。

これまでの私の禁煙がことごとく失敗したのは殆ど酒の場においてであった。

1年どころか数年続いた禁煙さえ酒のせいで破れてしまった。

酒はそれほどまでに人の判断能力を破壊する。

だから飲酒運転は絶対にしてはいけない。

飲酒運転をしていいなどと普段は考えていないのに酒が入るとハンドルを握る人間が出てくる。

ということは、酒を飲んだらまともな判断ができなくなるのである。

飲酒運転をする人間は普段通りに運転できると思うのだろうが、そんなことは理屈上ありえない。

酔っぱらっている人間が俺は酔っていないと言い張るのと同じである。



●2018.11.25(日)懐かしい皿うどんや遊び

長崎名物の料理と言えば、ちゃんぽんと皿うどんだ。

我々長崎人は「皿うどん」という言葉に何の違和感もないが、他県の人に「うどん」よりは「焼きそば」に近いと言われると、それもそうだなと思う。

長崎人は皿うどんにウスターソースをかけて食べる。

それも、「金蝶ソース」という長崎独特のソースが有名だ。

出前で皿うどんをとると、昔はソースがリポビタンDの空き瓶に入ってきた。

瓶から直接皿うどんにかけると瓶を伝ってソースがこぼれてしまう。

そこで箸を皿うどんに突き刺してからソースの瓶の口を箸にくっつけ、箸を通してソースを垂らしたものだった。

今では透明なプラスチック製の容器に入ったソースが添えられてくるが、瓶入りのソースが懐かしい。


昔が懐かしいと言えば遊びもそうだ。

私が子供だった頃は休日に遠出することはめったになく、家の近所で遊んだものだった。

雨が降れば家の中でごろごろするしかない。

そんな時親子や兄弟でいろんなゲームをやったが、それは現代の家族の休日の過ごし方より幸せだったかもしれない。

七並べ、神経衰弱、ダイヤモンドゲーム、すごろく、はさみ将棋、五目並べ…そういった言葉の響きさえ懐かしい。



●2018.11.26(月)死のデジタル化

ネイティブアメリカンの人たちは死にゆく人に次のように語りかけるという話を聞いた。

「あなたが泣きながら生まれてきた時、あなたの周りの人はみな笑っていた。今は、みなが泣いているのだからあなたは笑って旅立ちなさい。」

人間味を感じる話だが、現代の死はどうなっているのだろう。

義父が逝った時のことを思い出す。

病院のベッドの脇で私たち親族は、テレビみたいな機器の画面を見続けていた。

心拍数や呼吸数の数値が減少してゼロになったかと思うと持ち直し、また次第に減少する。

そんな経過が数値とグラフで表示される画面を見続けながら、現代は死でさえもデジタル化したのだとつくづく思ったことだった。



●2018.11.27(火)安心する話

気象庁の梅雨入り宣言と同じように、人は具合が悪くなった時、病院で病名を付けてもらうと安心する。

それに類する話を聞いたことがある。

病院に、大した症状でもないのに「風邪で死にそうだ」とやって来た人がいた。

医者は小麦粉を薬包に包み、「よく効く薬を調合しました。」と言って渡した。

その患者は翌日、ケロッと治ったそうだ。

「病は気から」を証明するような実話である。



●2018.11.28(水)父親の威厳

「人は皆最終的にはその土地の顔になって死んでいく」と水上勉は言った。

年を取ると親に似てくるというのも一種の原点回帰なのだろうか。

あくびの仕方やその時に発する声など、ちょっとしたしぐさやものの言い方が亡くなった父親に似てきた。

さらには家庭内における物理的位置、精神的地位も次第に似てくる。

簡単に言えば、居場所がなくなるということなのだが。



●2018.11.29(木)九州弁

九州の方言に「よそわしい」という言葉がある。

「きたならしい」という意味だが、この語の最上級が「ひっちょちょわしい」である。

この言葉を方言だと認識していなかった九州人が東京の大学に進学し、さる飲み会の場で言い放った。

「君、それはひっちょちょわしいと思わないかい?」

本人でなく同席していた同郷人が赤面したそうである。


「ひっちょちょわしい」を方言と思わない言語感覚はさすがにいかがなものかと思うが、うっかり方言を交えてしまった以下のような発言は、標準語圏の人にはどう響くのだろうか。

「衣替えの時期だからこの服はなおしておいて。」

「運転手さん、次の角を左にまぎって。」

「ゴミを出す時はゴミ袋の口をきびるのよ。」

「眠いなら僕になんかかっていいよ。」



●2018.11.30(金)実利的な結婚

結婚する際には性格面の相性が重要だろうが、食べ物の嗜好も考慮に入れてはどうだろうか。

サンマなどの焼き魚で尻尾のほうが好きな人は、頭のほうを好む人と一緒になれば理想的だ。

白菜の漬物で言えば、茎の部分が好きか、葉のほうが好きか等々、あれこれ考えると楽しい。



●2018.12.1(土)足のゆび

久しぶりに持病の痛風が出て足が腫れた。

痛風の定番は親指だが、私の場合は足の甲が腫れる。

今回は足の指も腫れたのだが、親指ではなく人差し指が腫れた。

と、ここまで書いて足の指の呼び方が気になった。

人を指さしたり薬を塗ったりするのは手の指の動作だから、足の指を人差し指、薬指とは呼ばないだろうと思って調べてみた。

すると「手へん」の「指」という漢字自体も厳密に言えば足の指の呼び名にはつかわないとのことだ。

足の指には「足へん」の「」という字を用いて、第1趾~第5趾と呼ぶ。

ただし、第1趾と第5趾についてはそれぞれ母趾ぼし小趾しょうしと呼ぶこともあるようだ。

それで「外反母趾がいはんぼし」の意味が納得できた。

英語でも手の指と足の指は区別して、それぞれ「finger」、「toe」と呼ぶ。



●2018.12.2(日)夕暮れ時の寂しさ

休みの日にどこかへ出かけようと思う。

しかし、行き先を思い浮かべるとそこで過ごす自分の姿が想像できて行く気がしなくなる。

別のところに方針変更してもまた同じように既に行った気になってしまう。

なかなか行先が決まらずだらだらしているうちに「もうどこへ行くにも遅い」と自分で不機嫌になる。

やがて夕方になり、「汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる」(中原中也)という感じで1日が終わる。


このように私は優柔不断な人間なのだが、夕方という時間帯の持つ寂しさには心がひかれる。

この「寂しい」という感覚に関して、欧米人と日本人は異なるという話を聞いたことがある。

lonelyロンリー」は「(友達や仲間がいなくて)寂しい」という意味であって、夕日が沈むような自然の景色を見て寂しくなる感覚は欧米人にはないというのだ。

私などは、寂しさを噛みしめながら夕焼け雲をどこまでも追いかけて行きたいくらいなのだが。



●2018.12.3(月)婦唱夫随

「夫唱婦随」という言葉がある。

直訳的に言うと「夫の言うことに妻が従う」という意味だ。

夫婦仲のよいことを表現する言葉だが、我が家では見果てぬ夢だ。

私の座右の銘は「婦唱夫随」である。

「このバンドは安い」と私が言うと「ベルトと言いなさい」となじられる。

「カバン」と言えば「バッグでしょ」と訂正される。


それにしても物の呼び名が知らないうちに変化している。

「チョッキ」は論外で、「ベスト」も最近は「ジレ」と言うらしい。

「カットソー」とは何なのかもよく分からない。

じれったくて、かっとしそうだ。



●2018.12.4(火)新しいニュース番組の提案

5分程度でいいから、全国47都道府県のニュースを週に1度ずつでも全国ネットで放送したらどうだろう。

この提案のミソは、その県の方言で読み上げるというところだ。

「故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く」(石川啄木)

ふるさとを離れて他県で暮らす人は、誰でもこの歌のような気持ちを抱いているのではないだろうか。

自分のふるさとの出来事をふるさとの言葉で聞ける……魅力的な番組になると思われるのだが。


ついでにもう一つ提案させてもらうなら、「善行ニュース」はどうだろう。

日々のニュースは殺人事件その他、暗い内容のものが目立つ。

それらの報道は必要だとは思うが、人間の暗部ばかり見せつけられては気が滅入る。

「今日はこんな心温まることがありました」

小さな出来事でいいから、そんな感動を伝えてくれる番組もみてみたいものだ。


●2018.12.5(水)水を溝に捨てた老婆

東京の佃島あたりの裏通りだっただろうか。

よれよれの普段着を着た老婆がバケツを持って古びた民家から出てきた。

家の中の掃除を終えたようすでバケツの水を玄関先の溝に流して家の中に戻った。

見たのはただそれだけだった。

下町探訪みたいなテレビ番組だったかと思う。

テレビをつけたらたまたま目に入った映像である。

その短いシーンを見た私は路地裏に住むそのお婆さんの日常に思いをはせた。

簡素な朝食をつくって食べ、掃除や洗濯をすませる。

午後になると昼寝をしたりテレビを見たりした後、近所の店に夕食の買い物に出かける。

夕食の後は風呂に入ってゆっくりして早めに床に就く。


判で押したようなそんな平凡な毎日の繰り返しを想像しながら私は不思議な感動をおぼえた。

人が生きるというのはこういうことなのだと。

目標や夢に向かって努力しなければ生きる意味がないということはないのだ。

現代人は生きる意味にとらわれすぎて自縄自縛に陥っているのではないか。

目の前を流れる時間を淡々と生き過ごしていくのも十分に尊い生き方である。

おおげさに言えば天啓に打たれたかのように、そんな思いにしばし浸ったことだった。



●2018.12.6(木)中止された駆け落ち

だいぶ前に聞いた次のような話を忘れられずにいる。

若い男女が駆け落ちし、1日目の夜にビジネスホテルに泊まった。

女性が夜中にトイレに立った。

女性のオシッコの音がベッドの男に聞こえた。

男は駆け落ちをやめた。

ただそれだけの話なのだが妙に気に入っている。

駆け落ちは浮ついた、よく言えば高揚した精神のなせるわざである。

それに対してオシッコの音が象徴するのは「現実」とか「生活」とかいうものであろう。



●2018.12.7(金)いい人はいいね

『伊豆の踊子』(川端康成)の一節に、踊子が旅の道ずれになった青年のことを「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」と仲間の女性たちに話す場面がある。

「いい人はいいね」この表現は人の評価として最高の賛辞ではないだろうか。


私は以前、前の車が遅い速度で走っているのを見ると「前後の車の流れを見て走れよ」と心の中で毒づいていた。

ある時ふと次のように想像してみた。

とろとろと走る前の車の運転手がもしも免許取り立ての自分の娘だったとしたら。

するとイライラするどころか、「事故を起こさないようにゆっくり行けよ」という気持ちにさえなった。


これは自慢話ではなく、むしろ私が勝手な人間であることの証明である。

私は「いい人」になったわけではなく、娘を道具に使って怒りを押さえ込んだに過ぎない。

「流れを見て走れよ」と憤る根本のところが変わらなければ「いい人」にはなれない。



●2018.12.8(土)

メーテルリンクの『青い鳥』は実にいい話だ。

スタート地点と思っていたところが実はゴールだったということが人生には多々あるのではないだろうか。

人間関係全般、たとえば夫婦生活一つを取り上げてもそうだ。

世の夫婦の多くは結婚した時点が幸せの絶頂期なのではなかろうか。

その後は下降線をたどる一方だ。

そしてこれではならじと変革を企てる時がくる。

その時に自分の我を押し通せば破局が訪れる。

変革が伴侶を含む他人への感謝の方向に向かう時、青い鳥は再び姿を現すのだろう。



●2018.12.9(日)ことわざを科学する

俚諺りげんと言うのだろうか、民間で言い伝えられてきたことわざのような文句がけっこうある。

たとえば「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」

これは「夜に爪を切るな。」ということを言いたいのだろう。

なぜ夜に爪を切ってはいけないかというと、電灯も爪切りもなかった昔は油皿の灯心のわずかな光をたよりに和ばさみで爪を切らねばならなかった。

手元がよく見えずに指を傷つけてしまい、細菌に感染する恐れもあったから夜に爪を切ることを戒めたのだろう。


このように、昔の言葉を解釈するには時代状況を考慮に入れることも必要だ。

もう一つは昔の人々の言語感覚。

「その手は桑名の焼き蛤だ」「そうは問屋がおろさない」など、昔は八つぁん、熊さんのような庶民でも言葉を楽しむセンスは現代人以上にしゃれていた。

だから「夜には爪を切らないほうがいい」という味も素っ気もない言い方でなく、「親の死に目にあえない」という人生の一大事を持ってきて印象付けるのだ。

「目からうろこが落ちたようだ」というのは新約聖書が出典のようだが、魚のうろこを包丁でこそぐ時にうろこがとびはねてコンタクトレンズのように目に張り付いた経験のある人なら、実感として理解できるのではないだろうか。

現代は、魚は調理済みの切り身のパックを買う人が多く、夜でも明るい照明の下で難なく爪を切ることができる。

生活状況の変化によって実感できなくなった表現は使われなくなり消えていく。



●2018.12.10(月)分からないこと

子供が中、高校生の年頃になると親子の口喧嘩が多くなるが、言い合いの結果親が黙ってしまうことがある。そんな時、子供は自分の理屈がまさったと思いがちだ。

親の心子知らずである。

「大人になれば分かる、今はいくら言ってもこの子には分からないだろう」

そう思って親が不毛な口論を切り上げていることを子供は理解できない。


これと似たようなことは大人の世界にもありそうだ。

たとえば、公園のベンチでひなたぼっこをしている老人だ。

「話し相手もなくかわいそうに。さぞ寂しいことだろう」

しかし、その老人は小鳥や草花と交感できる物心一如の状態にあり、我々にはうかがい知れない至福の時を過ごしているのかも知れない。


私のような凡人はとてもそんな境地には至れない。

この年になってやっと思春期を脱しつつあるようなレベルだ。

今まで分かったつもりでいたことが分からなくなっていく。



●2018.12.11(火)男もつらいよ

「男って情けないよなあ」と男どうしで嘆き合っても問題視されないが、「女はやっぱりだめだね」とでも言おうものなら、セクハラという糾弾の言葉が十字砲火のように飛んでくるだろう。

それは当然と言えば当然なのかもしれないが、逆の場合はそこまでシビアではないのではないか。

「男っていやよねえ」と女性が言っても許されがちな気がするのは私のひが目だろうか。

男子トイレに女性の清掃員が入ってくることはあってもその逆はないだろう。


離婚した場合、日本では女性のほうが子供を引き取るケースが多いようだ。

この件について以前はこう考えていた。

「女性は大変だ、再婚するにもこぶ付きとか言われるだろうし。それに比べて男は得だ、のびのびと好き勝手に羽を伸ばせる」

ところが実態はどうも逆のようだ。

女性のほうが子供の成長を楽しみに生き生きと暮らしている。

男性は、若いうちこそ気楽に過ごせても年をとっての一人暮らしは想像するだに哀れだ。

寅さんではないが、「男はつらいよ」と言いたくなる。

これを今回のタイトルにしようと思ったが、「セクハラだわ。経済面その他、女もつらいのよ」とお叱りを受けそうなのでタイトルを少し修正した。



●2018.12.12(水)going my way

若者と老人は共に周囲にかまわず、我が道を行く。

しかし老人のほうは、孔子の言う「七十にして心の欲するところに従いてのりをこえず」という感じがある。

生き方のみならず、実際に道を歩く場合もそうだ。

混雑した道を真っすぐ歩けば、若者は人にぶつかって喧嘩になったりもするが、老人は相手がよけてくれる。



●2018.12.13(木)風呂上がりの匂い

スーパーに行って野菜や生花を見てみると、私の子供の頃にはなかった横文字のものがたくさんある。

パンやケーキ、さらには犬や猫についても事情は同じだ。

現代人の好みがこれほど多様化していれば、今の子供たちが大人になった時、幼時のお気に入りのお菓子やテレビ番組などを共通の話題として語り合うことはできるのだろうか。


それは余計なお世話かも知れないが、もっと気になるのは、人と人との間で共有されてきた感覚もバラバラになりつつあるのではないかという点だ。

私の妻が職場の同僚の女性に「風呂上がりみたいな匂いがするね」と声をかけたところ、相手は小声で「くさいって言われたみたい」とつぶやいて不機嫌そうだったとのこと。

その人は「風呂上がりの匂い」を「爽やかでさっぱりとした清潔感のある香り」とは受け取らなかったのだ。

他人の批難は極力避けるべきだが、ほめる時にも他人の受け止め方を考慮しなければならない時代になったのだろうか。



●2018.12.14(金)教えることと学ぶこと

ある生徒が職員室にやってきて物理の先生に質問をした。

先生が解説している途中で生徒が自分の考えを述べようとした。

すると先生は「うるさい。黙って聞け」とさえぎって解説を続けたという。

その先生はいつもそんな指導をすると聞いてずいぶん傲慢な先生だなあと感じたが、それは効率的な教え方だと考えることもできそうだ。

生徒の疑問を解きほぐしながら正解へ導くのが一般的な教え方だろう。

しかし、未熟な生徒が進もうとする曲がりくねった道がなぜダメなのかを諭すよりも、最善、最短の道はこれなのだと指し示すほうが生徒もスッキリと納得できるかもしれない。


文化というものは先達が権威をもって押し付けるものであるという考えを聞いたことがある。

武士が年端としはもいかぬ子に漢文の素読をさせたのもその伝だろう。

私などの世代では、小学校で唱歌を習ったのがそれに当たりそうだ。

歌詞の意味はよく分からないままに歌っていた。

「兎追ひし」を「兎が美味しい」と誤解する話は有名だが、私は長い間「夏はぬ」を「来は来ない」という意味だと思っていた。

高校で古典文法を習うようになると、それらの誤解は氷解しかえって印象深く定着した。


最近の小学校の音楽の教科書には人気歌手のポップスも載っているが、歌詞を見てみると感情のストレートな表出が主になっている気がする。

それに対して、唱歌の多くには日本の豊かな自然が詠みこまれている。

俳句に季語が必須なように、四季の中で生まれ育つ日本人の喜怒哀楽は、折々の景物と結びついて深められていくように思う。

唱歌を歌えば、そのことを実感させられる。



●2018.12.15(土)お金と幸せ

バラエティー番組である女医が言っていたことだが、小さい頃から母親に次のような教育を受けてきたという。

「世の中はお金がすべて。お金で解決できないことはない」

極端な拝金主義のようで反発を覚える人も多いだろうが、冷静に考えればけっこう頷ける考えだと思う。

外国の小話だが、ペットショップで売られている子犬のケージにこう貼り紙がしてあったという。

「幸せがお金で買えないとどうして言えるでしょう」

立身出世はともすれば罪悪視されがちだが、私は志ある人にはどんどん偉く裕福になってほしい。

家族の面倒をみるのが精いっぱいの私に比べて、大会社の社長は従業員とその家族を合わせた多くの人々を幸せにし、感謝される働きが可能なのだ。


ところで、絶大な権力や莫大な資産を持っている人には、自分に近寄ってくる人間はどう見えるのだろうか。

はたして真の友人はできるのだろうか。

全てが思い通りになるじれったさというものもありそうだ。

しかし、それは貧乏人のひがみなのかもしれない。

大きなペットボトル入りの安い焼酎を飲みながら、せめては空想の世界に遊ぼう。

セーヌ川の枯葉散る川岸を私はトレンチコートの襟を立ててそぞろ歩く。

『パリのアメリカ人』ならぬパリの日本人だ。

しかし、セーヌ河畔の私は妻によってすぐに現実の世界に連れ戻される。

「またこんなに飲んで!」



●2018.12.16(日)セピア色の魅力

若いころに住んでいたアパートは、窓ガラスのすぐ内側に引き戸の障子がある造りだった。

数か所破れていたので障子紙を全て剥ぎ取って、さんで仕切られたマス目ごとに色とりどりのセロハン紙を貼ってみた。

ステンドグラスみたいな赤や緑や青のマス目から外の風景を透かして見るのが面白かった。

マス目のそれぞれの色調に合った独特の景色になるのだが、一番気に入ったのは黄色だった。

白黒写真が古ぼけるとセピア色に変色するが、黄色いセロハン紙を通すと外の風景がちょうどそれと同じように見える。

目の前の現実の風景が思い出の中の風景のように見えて魅力的だった。


映画と原作の関係もそれと似ているように思う。

原作の小説を読んで私たちは主人公の風貌などのイメージを自分の想像でつくりあげる。

しかし映画を見ると、スクリーンに映る主人公はテレビのバラエティー番組などでおなじみの有名タレントだったりする。

実在の生々しいタレントよりも、自分の想像でつくりあげた像のほうが逆にリアルに感じられるのは不思議だ。

同じような意味で私は、カラーの映画よりも小津安二郎監督作品のような白黒映画の画面のほうに魅力を感じる。



●2018.12.17(月)物の見え方

なかなか会う機会のない山の向こうの人に会いたい場合、大昔の人は居ながらにしてその人を見ることができたという話を聞いたことがある。

しかし、文明の進展に伴い、交通手段が発達するなどして実際に簡単に会えるようになると、そういった超能力は薄れていったというのだ。

超能力どころか、私は視力が0.1未満で乱視も入っている。

メガネのない時代の武士の家に生まれて、合戦の場に出なければならない場面を想像するとぞっとする。


有名な話だが、赤なら赤と同じ色を見ても、どんな赤に見えているのかは人によって違う。

これは意味深長な話だと思う。

色の見え方と同じように、同一の物事に関する認識も人によって違うのだろう。

犬を散歩させている人は、うちの犬はかわいいでしょうと言わんばかりの笑顔を向けてくる。

レストランやバス・電車の中で幼児を遊ばせている親も同じだ。

しかし、犬や幼児が苦手な人もいることを認識すべきではないだろうか。

他人のいる場で赤ん坊が泣きだしたら、以前は外へ出て泣き止むまであやしたものだ。


と、あれこれ書き連ねてきたが、こんな心の声も聞こえてくる。

「何をどう思うかは確かに人それぞれだが、どちらかと言えば、幼児や犬をかわいいと思うほうが人の心性としてはまともじゃないかね?」



●2018.12.18(火)素朴な疑問

心身に起こる生理的反応は人がよりよく生きていくための合理性を持っているはずだ。

たとえば、大声で脅かされた時に人はびくついて身構える。

それは、逃げるなり闘うなりの次の動きに移るための反応だろう。

しかし、よく分からないケースもある。

「あなたを思うとどうしてこんなに苦しいの?」

演歌的とも言える疑問だが、恋人に思いをはせる時に血管が収縮して狭心症的な苦痛を覚えるのはどんな合理性があるのだろうか。


幼い頃、欲しいものを買ってもらえずに悔しい思いをしたという回顧談で盛り上がることがある。

微笑ましくもあるが、別の視点から考えると、幼い頃の悔しさを長い間忘れずにいるということはなんという物欲、あるいは執着の凄まじさだろう。

それとは逆に、愛する人は生涯この人だけと心に誓った人と結ばれずに嘆き悲しんでも、ほどなくして別の異性に恋慕するというのはどうしたことだろう。


こんなような素朴な疑問や思いが私にはいろいろとある。

虫メガネを使うと物が大きく見えるが、レンズを少しずつ対象物から離していくとぼやけて何も見えなくなり、もっと離すと逆さまに見えるようになる。

この、倒立像が現れるまでのぼやけている世界が、私には神のみぞ知る神秘的な世界に思えたりもする。



●2018.12.19(水)ジョーク

ネット上で拾った面白い話を紹介しよう。

・真面目な執事「旦那様、旦那様、起きて下さいませ。日課の睡眠薬を飲む時間です」

・孫の日記「昨日、おじいちゃんがボケ防止の本を買ってきた。今日も買ってきた」

・店員「この新型パソコンを使えば、仕事の量が今までの半分に減りますよ」 客「素晴らしい! 二台くれ」

・書店で客が店員にたずねた。「『男が女を支配する方法』という本はどこにあるかね?」 店員「〝ファンタジー〟のコーナーにございます」

・訪問者「こちらの会社のジョン・スミスに面会したいのですが。私は彼の祖母です」 受付嬢「あいにく今日は欠勤です。あなたのお葬式に出ています。」

・算数の授業で先生が言った。「スージー、あなたはリンゴを三つ持っています。私がひとつちょうだいと言ったら、あなたの手にリンゴはいくつありますか?」 スージー「三つです」


これらの話はなぜ面白いのだろう。

梅原猛によれば、笑いは「異なった意味または価値領域に属する二つのもののコントラストにより起こる価値低下の現象」から生じるのだそうだ。

なるほど、そう解釈すれば納得がいく。

以下の私の場合もそれに当てはまるだろうか。


スナックや居酒屋の客は、先に帰った客を話の種にする傾向がある。

どんな飲み方をして帰っても大抵は悪く言われる。

「つまらない話をよくまあべらべらしゃべってたね」

しゃべらずに帰れば「あんなに無口なら家で飲めばいいのに」と言われる。

カラオケについても同じだ。

「歌が上手いからって天狗になってたね」

うまくなければ「下手なのによく堂々と歌えるもんだ」という具合だ。

そして最後は、「ママ、あの人、どこの人?」と身元調査が始まる。

これが嫌なので私は看板まで居残ることもあるが、最後はママに見送られて泥酔状態でタクシーに押し込まれる。

で、運転手が、「ママ、この人、どこの人?」



●2018.12.20(木)祈るということ

寺社や教会でお祈りをしている人の姿は美しい。

我欲というものを捨てきることは至難の業だが、誰かのために、何かのために祈っている間はその我欲から離れているので美しく見えるのだろう。

人間と他の動物との大きな違いはこの「祈る」という点にあるのではないか。


運動会での校長先生のお決まりの挨拶がある。

「皆さんの気持ちが天に通じたのでしょうか、今日は快晴です。」

私は、それは本当であってほしいと思う。


来月はセンター試験だ。

気象上の特異日でもないのにセンター試験の日は不思議と冷え込むことが多い。

受験者とその家族、学校や塾の関係者、合わせて数百万人の人が身も心も引き締まる思いで当日を迎える。

その人々の思いに感応して大気も凛と引き締まるのではないだろうか。



●2018.12.21(金)発想の転換

「丸い玉子も切りようで四角」と言うが、発想を転換させると同じ出来事でも新鮮に見えてくる。

雪山で遭難した人が凍傷にかかると、ひどい場合は手や脚を切断せざるをえないことさえある。

イメージとしては、自然の過酷さが人間に被害を与えるという感じだが、実はそうではないらしい。

極寒のため普段どおりに全身に血液をめぐらせることができないので、人間の体みずからが末端の手足を犠牲にして生命維持のために心臓の周囲に重点的に血液を循環させようとするのだそうだ。


私の父親の晩年を見ていると、ハラハラ、イライラの連続だった。

ガスコンロに火を付けたまま鍋を焦がす、待ち合わせをしても忘れて来ないといったたぐいのことが度々だった。

しかしこれも凍傷と同じで、老化によって日々脳神経のネットワークが損傷を受けていくにつれて、限られた思考回路を「現在」の一点に集中させようとしているのではないだろうか。

「昨日」と「明日」を忘れて「今日」だけに集中し、それにも限界がくると「さっき」と「次」を忘れて目の前の「今」だけを認識するのが精一杯なのだろう。


父と一緒にレストランに入った時のことだが、父が通路にペッと痰を吐いたのには驚いた。

父は不道徳な人間ではない。

のどにせりあがってきた異物を排出しようとする「今」の一点以外の配慮や考慮が働かなかったのだろう。

「子供叱るな、来た道だもの。年寄り笑うな、行く道だもの」

父親のあれこれの行いを口やかましく指摘していたことが今となっては悔やまれる。


発想の転換の例をもう一つ。

思いがけない収入があって喜んでいると、すぐに何かしらお金が入り用になって臨時収入が飛んでいくということが何度か続いたことがあった。

そのたびに恨めしい思いをしていたが、考えを変えてみた。

我が家は不意にお金が必要になると、どこからかお金が入ってくる。

そう思うと恨めしさが感謝に変わり、ずいぶん気が楽になったことだった。



●2018.12.22(土)心の原風景

立原道造の詩に次のような一節がある。


夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

水引草に風が立ち

草ひばりのうたひやまない

しづまりかへつた午さがりの林道を


私も自分の好みの情景を想像してみた。


田園風景の中の一軒家。

春の縁側でまどろむ私。

畑中の道を歩く農家の人たち。

そののんびりとした会話が小さく聞こえる。

そよ風が菜の花の香りを運んでくる。

まどろみから覚めれば菜の花畑に蝶が舞っている。


とここまで書き記して気づいた。

菜の花畑に舞う蝶をずいぶん長い間見ていないことに。


誰しも心の中に自分だけの懐かしい原風景を抱いていることだろう。

童謡や唱歌はそんな風景の宝庫だ。


みどりのそよ風 いい日だね

ちょうちょもひらひら 豆のはな

七色畑に 妹の

つまみ菜摘む手が かわいいな

(童謡「みどりのそよ風」)



●2018.12.23(日)夫婦の車線減少

意見が対立した場合、どちらが正しいかを理屈で詰めていくとある地点で行き詰まる。

そこから先は価値観の違いになる。

たとえば、物を捨てずに取って置きたがるタイプの人となるべく捨ててすっきりしたいタイプの人がいる。

この両者が夫婦として一緒に暮らせば、毎日のようにストレスが蓄積するだろう。

どちらがいいのか、両者ともに理屈が立つから厄介だ。


そういう場合は、道路が2車線から1車線になるようにどちらかが一歩譲って相手の価値観を先に通してやることが肝要だ。

この一歩を踏み出す力が相手への思いやりだ。

ごり押しして自分の意見を通しても、相手の不機嫌な顔を見れば大して嬉しくもあるまい。

道に迷っている観光客に声をかけたくなるように、人を喜ばせたいのが人情というものだろう。

妻のショッピングに同行するのを嫌がる夫が多いと聞くが、私は苦にならない。

商品を見て回るのが妻の楽しみなら、その嬉々とした姿を見るのが私の楽しみになる。


まるで聖人君子のような考えを述べている私だが、店の通路の中央で立ち止まって話しこむ客や、横手から出てきて客を優先することなく、目の前を横切る従業員は腹立たしい。



●2018.12.24(月)神と霊と酒とタバコ

「神」は存在するか?

答は「分からない」というしかないだろう。

人知を超えた存在でないものは科学の対象となり、知的に理解できるものに対して信仰心は芽生えない。

私は特別な信仰心はないが、「神は存在する」と思って生きるほうが個人も社会も健全さが保たれるとは思う。


科学で解明できないものとしては「霊」もある。

神と比較すれば霊のほうは色んな切り口でテレビに取り上げられ、霊的体験をした人も多いことから、霊の存在は世間にある程度認知されているように思われる。


「人、酒を飲む。酒、酒を飲む。酒、人を飲む」

うまい言い回しだと感心する。

酒を飲む場には成仏できないでいる酒好きの浮遊霊が集まってくると聞いたことがある。

それが本当なら、酒を飲んで人格が豹変する人がいるということも以下のように説明がつきそうだ。

最初は普通に「人が酒を」飲んでいる。

そのうち「酒が酒を」要求しているかのようにグラスを手から離さなくなる。

最後は「酒が人を」飲む、いわゆる「酒に飲まれた」状態になる。

このような過程を経て酒好きの霊に憑依され、異常に興奮したり人にからんだりして別人格になったように見えるのだろう。


酒の話のついでにタバコについて言えば、私は禁煙のプロだ。

数えきれないくらい禁煙にチャレンジしてきたが、それが破たんするのは決まって酒が入った場だった。

酒の場にはタバコ好きの霊も浮遊しているのかもしれない。

「お前の意志の弱さを俺たちのせいにされちゃかなわない」と霊に叱られそうな気もするが。



●2018.12.25(火)簡単な幸せ

「幸せになるにはどうすればいいですか?」と問われたらこう答えればよい。

「簡単です。幸せであると思いなさい」

そう言われたらたいていの人は怒るか笑うかするだろうが、この考えは案外奥が深いのではなかろうか。

「終わり良ければ全て良し」という言葉もあるように、今現在が幸せなら過去の全てはそのために必要だったということになる。

だから、現在を幸せだと思えるような気の持ち方や生き方をすることが大切だ。


私には妻が一人と子供が3人いる。(逆がよかったがぜいたくは言えない)

私は若い頃にそれまでの生き方から大きくそれたことがある。

いろいろと苦労したが、方向転換を余儀なくされたその時の失敗がなければ妻にめぐり逢うことはなかった。

だからあの失敗も必要だったのだと妻の顔を見ながらしみじみ思う。


「なんで私を見てるのよ、気持ち悪い!」

私の人生は失敗の連続なのかもしれない……。



●2018.12.26(水)カラオケスナック

不況から脱しきれず閑古鳥が鳴いている店も多い歓楽街にあって、昼間のカラオケスナックは繁盛している。

千円ポッキリ(酒類は別料金)で食事が出てカラオケは何曲歌っても無料というのだから盛況も頷ける。

一般のスナックと違うのは話し相手になるなどの接客をしない点で、店としても余分なスタッフを置く必要がなく人件費が抑えられる。


客はほとんどが老人で、デイケアの様相を呈している。

私も老いた父親とよく出かけたが、客の多くは最近リリースされた新しい演歌をよく歌う。

そこで私は懐メロを歌ってみた。

お年寄りにとっては青春時代の歌なので懐かしがってもらえると思ったのだ。

しかし、客の反応はそれほど思わしくない。

過去を懐かしがるよりも新しいものを追い求める進取の気性の持ち主だからこそ、年をとっても連日やってくるのだろう。

浪曲や講談や民謡のTV番組が姿を消していく時勢にあって、演歌と相撲はどうなるのだろうと常々思っているが、カラオケスナックの繁盛を見ていると演歌はまだまだ大丈夫だと思われる。


ところで歌の歌詞について気づいたことがある。

たいていのジャンルの歌(ロックでさえ)は恋愛中の相手を「あなた」と表現する。

面白いことに、演歌以外の歌は愛する者どうしが結ばれた後の世界はあまり歌わない。

そして演歌においては結婚後の春秋を歌う段になると、「あなた」から一転して男が女を「おまえ」と呼ぶようになる。

添い遂げて山あり谷ありの人生を生き抜く人間の心の琴線に触れるのが演歌なのだろう。

演歌は歌詞もメロディーも似たり寄ったりだとの批判がある。

それもうがった見方をすれば、違っているようでどこか似ている、似ているようでどこか違う大衆の人生の姿そのものなのかも知れない。



●2018.12.27(木)われ関せず

非常識な行いを見聞きして「一体、何を考えているんだ!」と憤慨することがよくある。

しかし冷静に分析すれば、そんな人間は何も考えてはいないのだろう。

その上を行くケースもありそうだ。

万引きを繰り返す生徒を先生が指導する場面を想定してみた。

「将来家庭を持って自分の子供に万引きをしてはいけないと言えるのか!」

恐らく何の痛痒もなく言えるのではないか、あるいは子供の万引きを叱りもしないのではないか。


似たようなことは職場でもしょっちゅう起こっていると思われる。

たとえば仕事上問題のある同僚に苦言を呈するような場合だ。

「こう言えばショックが大きすぎるのではないか、どんな言い方をすればいいだろう」

何日も胃が痛くなるような思いをしたあげく、意を決して注意したとする。

しかし相手はあっさりと聞き流してその後も態度を改めようとしない。

まともな人間ほど生きづらい世の中になったものだ。

個性尊重の名のもとに、あってしかるべき常識や権威が失われつつある。


よく放映したものだと思う印象的なテレビ番組があった。

板場に立つまでに何年も要する寿司屋の厳しい修行がテーマの番組だった。

しかし、テレビが入っていることもあって大将が新入りの若者に寿司を握らせてみた。

案の定、新入りはまともに握れない。

それ見たことかと大将の顔が曇った。

それでもテレビカメラの手前、厳しい物言いは控えて指導に入る。

「そこはこうしたほうがいいんじゃないか?」

すると新入りは自信満々に答えた。

「大丈夫です」

その時のあっけにとられたような大将の表情が忘れられない。



●2018.12.28(金)目をつぶると

夜、ベッドに入って目をつぶると、真っ暗な中に微妙な曇り空のようなもわもわとした模様が見える。

私は長い間、それが普通だと思っていた。

ところが周囲の人に聞いてみると、均一に真っ暗な画面になるという人もいる。

もあもあ派と均一派、どちらが正統派あるいは多数派なのだろう。

不思議なことに、タバコを吸って目を閉じると、もあもあ派の私でも暫くの間均一派になる。


かつての同僚で均一派の若い夫婦がいたが、この夫婦のすごいところは、頭で思い描く像がそのまま目をつぶった画面に映るというのだ。

並んで座って目をつぶり「上空は青空で絶好のドライブ日和です。左手に黄色い菜の花畑が続いています。右手には…」という具合に仮想ドライブを楽しむことができると言っていた。

うらやましくて仕方がない。

私も寝床で目をつぶってやってみたが、カラーの風景を描くことは難しく、夜の星空くらいが関の山だ。

悔しまぎれに捨てゼリフを吐いて眠りに就く。

「青空は大気による太陽光の散乱によって青く見えているだけで、青空の後ろは真っ暗な星空の宇宙なのだ」



●2018.12.29(土)残念な話

公務員など、昨日の28日が御用納めで今日から休みという人も多いだろう。

しかし今日と明日は土日だから損をしたような気持になっているのではないだろうか。

それにつけて思い出した小噺がある。

先生と生徒がお互いを不思議に思う話だ。

「生徒たちは授業料を払っているのに授業が自習になったり学校が休みになったりするのをなぜ喜ぶのだろう」

「先生たちは給料が増えるわけでもないのにどうして終了のチャイムがなった後も時々授業を続けるのだろう」



●2018.12.30(日)言葉づかい

「間髪を入れず」「綺羅星のごとく」を「かんぱつをいれず」「きらぼしのごとく」と誤解している人がいる。

正しくは「かん、はつを~」「きら、ほしの~」だ。

こんなふうに、私は言葉にはいささかうるさい。

妻の言葉づかいの誤りを指摘すれば「うるさい!」と言われるほどだ。


ファミレスやコンビニなどでよく使われる「ファミコン言葉」で特徴的なのが「~になります」という表現だ。

「こちらグラタンになります」と店員が持ってくると、妻も面白がって「いつなるのかしら」と私にささやく。

妻の冗談と同じで「なる」の意味を「以前と違った状態・内容にかわる」と解釈して「~になります」は誤った表現だと言う人がいる。

しかし、「なる」には「あるものの用を果たす」という意味もある。

これに従えば「本来のグラタンはすばらしいものでしょうが、当店ではこの程度のものがグラタンの役割を果たします」という婉曲表現として解釈できる。

客商売では強く断定することを避けて遠回しに表現しようとする心理が働くのだろう。

「ご注文は以上でよろしかったですか」と完了形、過去形を使うのも、生々しい現在を回避しようとする心理だろう。


そんな婉曲表現以外に「何名様ですか?」という入店時の問いかけも私は気になる。

多人数の場合はともかくとして、店員が目にしたとおり「お二人様ですか?」と言ってほしい。

一人なのに「何名様ですか?」と言われると客なのに申し訳ない気持ちにもなる。

後から連れが来る場合を想定しているのかもしれないが、その場合は客が「いえ、後から二人来ます」と言うだろう。

(後日追記:この件の結論は保留。「お一人様ですか?」と言われるのも切ない)


マニュアルを墨守するからこうなるのではないか。

マニュアルは最低のラインであり、どれだけ臨機応変に対処できるかが肝要だ。

ファミレスならたとえば、注文の品を届けて戻るときに別のテーブルの空き皿をさげるとか、客の込み具合によって歩く速度を変えるとか、工夫の余地はいろいろあるはずだ。

マニュアルどおりの働きでよしとする人間とそこから一歩を踏み出す人間とでは後々大きな開きが生じるだろう。

店員の言葉づかいから働きようにまで話題が広がってしまった。

なるほど、妻が「うるさい!」と言うはずだ。



●2018.12.31(月)師弟

知人に紹介してもらった話で平成最後の大晦日を締めくくりたい。

表現面は手を加えたが骨子はそのままである。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


小学校のある女の先生が5年生の担任になった時、受け持ちのクラスに反抗的でだらしない少年がいました。

先生はその子が好きになれず、指導記録簿には少年の悪い所ばかりを記録していきました。


年度初めの忙しさが一段落した時、先生は少年の過去の記録簿に目を通しました。

するとそこに記されていたのは……


「朗らかで親切。勉強もできて将来が楽しみ」(1年)

「病気の母親の看病をするため時々遅刻をする」(2年)

「母親の病気が悪化し疲れていて教室で居眠りをする」(3年)

「母親が死亡。希望を失い悲しんでいる」(3年後半)

「父親が生きる意欲を失いアルコール依存症。子供に暴力をふるう」(4年)


先生の胸に激しい痛みが走りました。

ダメと決めつけていた少年が、深い悲しみの中で生きている生身の人間として目の前に立ち現れてきたのです。

放課後、先生は少年に声をかけました。

「先生は教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? わからないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せました。


それから少年は熱心に勉強をするようになりました。

授業で初めて少年が手を上げた時、先生は歯を食いしばって涙をこらえ指名しました。


「これ、プレゼント!」

クリスマスの午後、そう言って少年は小さな包みを先生の胸に押し付けて走り去りました。

開けてみると、半分ほどの量が残っている香水の瓶です。

亡くなったお母さんがふだん使っていたものなのでしょう。


先生はその香水を一滴つけて夕暮れに少年の家庭訪問をしました。

玄関先で出迎えた少年は、先生の胸に飛びこみ泣きじゃくりました。

「ああ、お母さんの匂いだ……」


6年生の時は、先生は少年の担任ではありませんでしたが、卒業式の日、少年から一枚のカードを渡されました。

「生は僕のお母さんのようです。そして素晴らしい先生でした」


6年後に手紙が届きました。

「今日は高校の卒業式です。僕は5年生の時、先生に担任をしてもらってとても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学できます」


さらに、大学を卒業し研修医の期間も終えた彼から手紙が届きました。

そこには先生に出会えた事への感謝と、父親に叩かれた経験があるから患者の痛みがわかる医者になりたいという目標が記されていました。


そうして、その1年後に届いたカードは結婚式の招待状でした。

招待状には次のような言葉が書き添えられていたということです。

「先生、母の席に座ってください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る