第31話
岩の門をくぐったとき、ニカは暑さに耐えかねて服を脱いでしまった。誰かのシャボン玉が割れて焦げ付いた匂いがする。「いけねえ。服は着ていないと」壁の高熱の明るさがニカの肌の露出を焼く。
この街は火山の上にあった。家々は溶岩でできていて壁のひび割れはいまだ眩しい熱色を帯びている。下からも周りからも熱を帯びた光に晒されてニカは体が痛いほどだった。あるシャボン玉がニカの背で割れた。「旅人さん。これを着なさい。」そのシャボン玉を追いかけるようにして門番がニカに服を与えた。それは、無数の水の糸が編まれてできた服だった。それを着てみるとまるで海を纏っているみたいな潤いと涼しさがあった。しかし、ニカはその服を着た途端急に顔を青ざめさせる。壁の裂け目から火の粉が飛び散ってニカのシャボン玉を割る。
「ありがとう。でも、ぼくちょっと寒くなってきちゃった。」
とニカは水糸の服を脱いでそれを門番に返した。門番は目をぱちくりさせて不思議がる。門番のシャボン玉がコマのように回っている間もニカは海から上がった後みたいにぶるぶる震えている。
「寒い?寒いだって?ここは火口だぜ?やっぱりそうだ。7日前、酸味星の夜からおかしくなっちまった。あんた、水性だな?」
ニカは顎をガタガタさせながら頷いた。
門番のシャボン玉が溶岩の壁に触れて焼け切れる。
「7日前、角に住んでいる雫が急に寒いって言いだしたんだ。他の水性の奴らもみんなぶるぶる震えて寒い寒いって部屋に閉じこもってしまった。とうとう狂った水性の人魚がマグマのプールに飛び込んでそのまま焦げて死んでしまった。他の奴らも肉が氷みたいに固くなって今はあのざまさ。」
門番が指さす方向をニカは見た。寒さで震える視界が捉えたのはガラスの彫像だった。肩を押さえたまま震える人間の彫像・その人間を翼で包む天使の彫像・その天使の肩に乗って髪をついばむ妖精の彫像・そしてその背後に城のようにそびえる巨人の彫像がある。彫像たちはマグマの熱色をそのガラスの肌で照り返しながら輝いている。その輝きに近づくと暗い冷気に拒まれてニカは立ち止まった。
ニカのシャボン玉が凍って割れる。
「もしかして、これは像ではない?」
門番が大きく頷いた。
門番のシャボン玉が彫像に近づこうとして凍り付き地面に落ちる。
「そうさ。これは、我が町の水性の者たちだ。ほとんどが凍ってあんな姿に……」
その時だった。門の陰から人間の雫が現れて門番の足にしがみつく。門番はその子の頭を撫でながらシャボン玉を吹いた。そのシャボン玉は遅々として割れなかった。ニカはそれが割れるのをじっと待つ。すると、空に暗幕が下りたみたいにあたりが真っ暗になった。胃が急に空腹で苦しみだして胃液が腹の壁を溶かしていく。ふと、音鳴りがした。体が軽くなるような揚力のある音だった。今に足が地面から離れそうだというときに世界が明るさを取り戻した。空っぽの胃に門番の震える声が響く。
「この子は、わ、私の雫です。この街でたった一人の玉族です。この子が死ねば私も死んでしまう。どうか、どうかお助けください。」
門番はニカの足にしがみつくようにして突っ伏した。門番の背骨の峰が地震に晒された山みたいに震えているのをニカはじっと見ている。すると、人間の雫がニカの方に歩み寄ってきた。彼水は冷たい唇をニッとして微笑む。そのシャボン玉は生き生きと跳ねてニカの前で割れた。「あなたニカでしょ?」
ニカはうなづいた。
「ええ?」というニカのシャボン玉が割れるのを待てずに人間の雫が喋り出す。「わたし、エルパ。わたしたちを助けてよニカ。」
ニカはエルパの背の高さにしゃがみ込み彼水の手を握った。その時だけはお互いに手にぬくもりを感じる。
「もちろん、実はね。この街に来たのもあなたのためなんだよ」というニカのシャボン玉が弾けたとき、「騙されるな」という大声が降りてきた。その声の方を振り仰ぐと凍った巨人の肩に翼が開いてそれがこちらへ降りて来る。その翼のはためきが起こす風でニカとエルパの悪手は引き離された。そうしてできたニカとエルパの間にその翼の主は降りる。それは鳥人だった。その鳥人は嘴をカチカチ鳴らしてシャボン玉を吐く。そのシャボン玉は渦のような軌道を描きながら割れた。
「ニカ、君はとんでもない大ウソつきだ。君とその子はあったことがないはずだろう?」
ニカは立ち上がって鳥人をにらんだ。エルパは怯えた目で鳥人とニカを交互に見る。
ニカの腰を衛星のように回っていたシャボン玉が弾ける。「会ったことはあるよ。けど、あなたに話す義理はない。」
鳥人はふうとため息をつく。そのシャボン玉が壁のマグマに触れて破れる。
「エルパ、ニカは嘘つきだ。ニカはね、東に行けば永遠の愛を囁き、西に行けば終わりなき忠誠を誓い、北に行けば未来を保証し、南にいけば君にしたみたいに救いを示す。全部嘘つき、八方美人。君のことをずっと思っていた、君のために生きてきた、君のことがいつも心配だった。そんなことを星よりも多くの人間に言っている。大ウソつきだ!こいつがみんなに嫌われているのをお前も知っているだろう?」
エルパは肩を抱くようにして膝を突いた。急に寒気に襲われたのだ。まるで、幽霊に冷たく首を噛まれたみたいに全身の血が凍っていった。門番がエルパを保護するように抱き寄せるがそれすらも凍らせてしまうほどエルパは冷え切っている。突如、ニカが超人を押しのけ門番をエルパから引きはがしエルパに襲い掛かった。ニカに押し倒されたエルパは裏切られたショックで目が死んでいく。
鳥人が高らかに嘴を鳴らす。そのシャボン玉が破れる。
「やっぱりそうだ!本性を現したぞ!」
ニカが牙をむき出しにするとエルパは目を閉じた。ニカはそのままエルパの首元に噛みついた。「キイェェェェエエエエ」氷が死ぬときみたいな叫び声がしてエルパは溺れるみたいに暴れたあと気を失った。エルパが気絶した跡もその凍てつくような叫びは止まなかった。ニカが嚙みついたのはエルパの首ではなくその首の周りだった。ニカはこぶしで何度もエルパの首の横を殴る。殴られるたびに空間は冷たい金管みたいな音で鳴いた。
ニカが闘っているのは冷気そのものだった。ニカは冷気をエルパから脱がせる。すると、気絶していたエルパが大きく息を吹き返して胸を跳ねさせた。
ニカと冷気の戦いは互いに揉みあいながら彫像の方へと転がっていった。ニカの腕や拳はつららの様に固くなってうまく動かない。彫像たちの冷気も相まってニカは劣勢だった。その時だった。大きなシャボン玉が浮かんできてマグマのプールで割れた。それはエルパの声だった。「ニカ!がんばれ!」
ニカは冷気の首根っこを掴むとそのままそれを引き摺ってマグマのプールに落ちた。
「ギイェェェェェェエエエエ」地獄に落ちた幽霊みたいな凍てつく断末魔が耳をつんざく。冷気はマグマのプールに溺れて火のしぶきをあちこちまき散らす。そしてついに冷気は死んだ。ニカはそのまま冷気と一緒にマグマに沈んでしまった。エルパと門番がマグマの池の淵にやってきて中を覗き込んだ。するとマグマは暗く固形化し大きな窪みができている。そのくぼみの底にニカがいてこちらににっこりとほほ笑んでいる。
「やったー」エルパははしゃいだ。彫像になっていた人間や天使や妖精や巨人の氷が溶けて元通りに動き出す。巨人はマグマ池の窪みからニカを掬い上げる。ニカは街の人に迎えられ称賛された。「我らのヒーロー!ニカ万歳!」
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