第28話
りんごは丘から出て草原に一歩踏み出せば、足の裏が美人にキスをされているみたいな甘い味でほぐれていくみたいだ。草原自体がパンニア。まるで、恋をしているみたいなときめきで心が満たされてりんごは顔が真っ赤になった。「りんご!」少し先を走っていたかなたが後ろを振り返って大の字にジャンプした。
「ぼくたちは自由だよ」
かなたのその言葉は風のようにりんごの翼を空へと誘った。りんごは大きく羽を広げて草原から空へと羽ばたいた。足の裏が寂しそうに疼くのを空に引きずりながらりんごは自由に羽ばたいた。空は虹で鞭打たれたカラフルな傷みたいな線がいくつも引かれていて、りんごはそれを潜ったり躱したり巡ったりしながら空を遊んだ。
りんごは空高くへとぐんぐん昇っていった。雲一つない空だったけど、上へあがるたびに翼がぐっしょりと濡れて重たくなった。実は、空が汗をかいているみたいにあたりに透明な雫がたくさん浮かんでいるのだ。
ビーズみたいなシャボン玉が雫の群れを掻き分けながら登ってきてリンゴの鼻先ではじけた。
「おーい、りんごー。待ってくれえ」
それはまるでドングリが喋っているみたいな玉兎の声だった。
草原を見下ろせばいまやかなたが砂粒のように小さく草原の緑に埋もれている。そんな緑色に針穴が開いたみたいな点がだんだん大きくなって近づいてくる。それは、無数のシャボン玉を引き連れながらりんごの高さまでやってきた。それは、玉兎だった。玉兎は息をぜえぜえいわせながらつばを飲み込んだ。そのタイミングで玉兎が引きつれていたシャボン玉の一つが割れた。
「かなたが今日は森の向こうまで行ってみようってさ。」
わくわくを帯びたその声を吸ってりんごの肺も好奇心の味で満たされる。
「いいね。行ってみよう!」
りんごはそうシャボン玉を吐きながら、森の向こうを見晴るかした。森の向こうは少し霞んでいて見えないけど、地形が波のようにうごいている感じがした。もしかしたら、森の向こうは海なのかもしれない。森を越えて、答え合わせの瞬間を思うと今からりんごはワクワクしてたまらなかった。
ふと、大地からびりびりとした震動が伝わってきてりんごと玉兎は下を向いた。砂粒みたいになったかなたをぐるりと取り囲むみたいに草原がへこんでいる。まるで、透明な隕石にでも殴られているみたいに草原はべこべこと凹み続けている。
「どうしたんだろうか?」
りんごと玉兎は翼から力を抜いて自由落下に身を任せた。その翼で、汗っかきの空を拭きながら天使と妖精はかなたの元へと降りていく。はるか高い空に残されたのはりんごのさっきのシャボン玉だけだ。それは、雫をいくつか食って割れた。
「しめしめ。行かないほうがいいのにねえ」
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ニカが訪問しているのは家も門も壁もすべてが固まっていない泥でできた村だった。泥はまるでナメクジの群れみたいにお互いがお互いを乗り越えながら建物のこもった三角錐を維持している。そんな家の波のようにうねる泥のドア越しに呼び掛けようとしてニカはやめた。ぐちょぐちょの壁に今にも埋もれかかった文字で次のように書かれていたからだ。
”ニカお断り”
苦い表情ごと唾でのみ込みながらニカはある包みを家の前に置いた。不思議な泥壁はまるでその包みを食べるようにしてそれを壁の中へと運んだ。「誕生日おめでとう」ニカはシャボン玉を吹いた。そのシャボン玉は風に揉まれながら泥の柱の方へと飛んでいった。ニカは白い袋を肩に担いで門をくぐり村を後にしようとした。すると、あるしわくちゃのシャボン玉がニカの背を追いかけてきて割れた。
「お待ちを」
その声に肩を叩かれてニカは門を振り返る。すると、門の柱に片手でしがみつくように老人が立っていた。老人が枯れかけたのどで次のシャボン玉を結ぶ。
「あなたはなぜ、毎年のようにこの村を訪ねてこられるのですか?わしは、あなたにご足労をかけまいと村の者にあのような札を掛けさせているのですぞ。」
ニカは微笑みながらシャボン玉を吹いた。シャボン玉は老人の手のひらに載っている明るい玉に当たってはじけた。その玉はニカから老人への贈り物だった。「良かった。お会いできないかと思いました。お身体の方はもう癒えましたか?」
老人は腕が無い方の肩を掴んだ。三年前、老人は津波に腕を食われた。それからというもの、ずっと無くしたはずの腕に呪いのような痛みを感じ続けていたのだ。
老人は喉が壊れそうなぐらい大きなシャボン玉を吹いた。それは、泥の壁が少し硬くなるぐらい激しい声だった。
「な、なぜあなたはわしにこんなに良くしてくれるんじゃ?あんたとわしは喋ったことすらないだろう?」
ニカは首を横に振りながらシャボン玉を吹いた。横揺れするシャボン玉がいつまでも割れないのが老人はもどかしくて仕方がない。
世界が一瞬瞬きして真っ暗になった。凍ったような瞬間はすぐに終わり明るさが戻って来る。
ニカのシャボン玉が割れる。
「いいえ、あの日あなたはこの村で奥様にお誕生日を祝われていたでしょう?私はたまたまそこに通りがかったんですよ。そのあと、あなたの御伴侶があのおぞましい怪獣に襲われたんだ。」
老人はまるで溺れているみたいに取り乱し崩れたシャボン玉を吐いた。それはすぐに割れた。
「わ、わしはあの日、何もかもを失った。この村で、わしの伴侶だけが水性だったから津波に食われて死んだんだ。彼水を助けようとしたわしの腕ごと食われてしまった。あの日から、ずっと失ったはずの右腕に引っ張られるような痛みが消えない。はっそうだ。伴侶が津波に食われたとき、わしは心のどこかで安心したんだ。」
ニカは溺れたみたいになった老人を抱きしめシャボン玉を吐く。
「水性に生まれなくて良かった」という自分の声を聞いて老人は白目をむいて叫んだ。叫び声が収められたシャボン玉は爆弾みたいに膨らんで空へと上っていく。
「おじいさん。落ち着いて。わたしがいるから。わたしがいつもあなたを思っている。あなたの心を案じている。あなたの幸せを願っているから」
おじいさんはニカを突き飛ばしてシャボン玉を吐いた。そのシャボン玉はさっきの叫びよりも早く割れた。
「そんなことが信じられるか!この偽善者め。わしとすれ違っただけなのに。お前こそが悪だ。ニカ!もう二度とわしの前に現れるな。」
老人はそう喚きながら泥の中に飛び込んだ。泥は老人を咀嚼して満足そうに気泡をあげた。
ニカは白い袋を担いだまま村を背にした。空高く上がった老人のシャボン玉がいまさら破れて「ぎやぁぁぁぁ」という叫喚が降ってきた。ニカの心は暗く重たくなってその足取りは地面に沈んでしまいそうだった。
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