第22話

 シャボン玉同士の衝突で動きを乱されながらもリラのシャボン玉は天井へと上っていった。物質を構成する微細な粒子が鈴のように一斉に揺れ出したみたいな音がした。それは、世界の全ての場所で同時に起こるさざ波の幽霊だった。

 天音が止むとニカが一歩踏み出してリラの手を取ろうと手を伸ばした。すると、さっきのシャボン玉が割れてリラの声が遅れて届く。

 「さわらないで!あんたは悪人だ!わたしはみたぞ。あんたがかなたを傷つけているところをね!」

 「うん、私は悪人だ。ヒーローなんかじゃない。それでも、僕は君が大事なんだ。」

 ニカの言葉が遅れなく届いたからリラは少しびっくりした。ずっと遠くを飛んでいた鳥が瞬きの間に目の前まで迫ってきたみたいなそんな驚きだった。

 「大事ってどういうこと?私とあなたはそこまで親しくないでしょう?」

 リラはシャボン玉を吐き出した。それは、出来損ないのシャボン玉で歪みながらすぐに割れた。

 「大事ってどういうこと?私とあなたはそこまで親しくはないでしょう?」

 ニカは光のようなまっすぐな眼差しでリラを見つめた。

 「君は死のうとしているね?」

 リラは顔を青ざめさせながら後ずさりした。

 「産まれて来るんじゃなかったって君は後悔している。それはとても辛いことだ」

 ニカが歩み寄って来るだけリラは後ずさりする。リラのお尻が机にぶつかる。リラは手を後ろにして机の上をまさぐる。

 「君に、幸せでいてほしいんだ。リラ。心から」

 「嘘つけよ」

 そうリラの口から絶望と呆れの声がシャボン玉に包まれて漏れ出した。

 机の上には黒いカラーパが泥のように横たわっていてそこにナイフが隠されている。リラは後ろに回した手で机の上をまさぐってナイフを掴みそれで自分の喉を掻き切ろうとした。

 「だめだ!」

 かなたはリラにつかみかかり彼水を押し倒した。リラの手からナイフが離れて壁に突き刺さる。リラとニカは机にぶつかった後そのまま床の上で激しくもみ合う形になった。ニカがリラに馬乗りの姿勢になってリラの動きを完全に封じた時、リラは下を噛みちぎろうと力んだ。ニカはリラの口に空いたわずかな隙間から左手を突っ込んでそれを阻止する。リラはニカの指ごと舌を噛みちぎる覚悟だった。リラの鋭利な歯でずたずたにされたニカの指から血の味が湧き出してきてリラの口内を満たした。

 「リラ、死んでほしくない!」

 ニカの叫びはリラには届かない。リラはもう何も信じることができなかった。

 リラの口内を満たす血がゆっくりと喉奥を通って胃に落ちていく。その時だった。リラの口内を満たす血の暗い味の中にひときわ美しい味の点が閃いた。それは、潤いがあって明るい美味だ。リラはまるで口や喉や胃の底に目が開いたみたいにその美味の明るさを感じた。明るい温もりが胃から全身を巡りだし絶望で冷え切った心を温め始める。

 リラがようやく歯の力を緩めた。リラの瞳から暗い希死念慮がいなくなったのを見て取ってニカはリラの口から手を引っこ抜く。リラの口は寂しそうにうずいて例の不思議な味に関する感想をシャボン玉に乗せた。

 「リラ、な、直してくれないかな?」

 そう、力なくいうニカの左手は指が皮一枚で繋がりぶら下がっている状態だった。リラは慌ててかなたの左手首を掴んで傷ついた指に癒しのまなざしを送った。人魚の眼差しは不思議な力で生き物の傷を治すことができるのだ。ニカの左手は明るい温もりに包まれてまるでそこだけ時が戻っているみたいに指が元の通りにくっついていく。

 「ごめんなさい。ごめんなさい」

 リラはうつむきがちにそう謝り続ける。

 「いいんだよ。」

 ニカはにっこり微笑んでリラに顔をあげさせた。すると、さっきのシャボン玉が日の光に貫かれて割れた。

 「月灯りのスープ」

 二人はなんだか力が抜けてお互い笑いあった。


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 一方、玉兎とりんごは相変わらず仕事をさぼっておしゃべりに花を咲かせていた。お互いに言葉をやり取りすればするほどお腹の中が暖かく満たされてやめるにやめられないんだ。二人の話題は今まで見つけた変な形のカラーパだった。

 玉兎のシャボン玉が割れる。

 「おれがみた中で一番変な形のカラーパはね、森にあったやつかな。木に石を投げて遊んでいたんだけどさ一つだけ石が跳ね返ってこない木があったんだ。おかしいなって思って見に行ってみたらその木は触れもしない。まるで木の幽霊だ。幹の湿った暗い質感とか苔で汚れた感じとか本物そっくりだけどそれはそういうカラーパだったんだよ。すごいだろ?カラーパっていえばだいたい幾何的な形をしているモノじゃん?」

 玉兎の話を聞いているとお腹の中で明るい温もりがぱっと閃く感覚がしてりんごはシャボン玉を結んだ。その中身は次のものだった。

 「そういえばわたしも、そういうカラーパ見たことあるよ。図書室でね、無題の本があってさ不思議に思ってその本を取ろうと手を伸ばしたんだ。そしたら、そのなんも書かれていない灰色の背表紙に私の指が埋もれていったんだよ。うわってびっくりしたけど、よく見るとそれは灰色の四角いカラーパだったんだ。こういうのってたまにあるよね」

 りんごのシャボン玉がゆらゆら揺れながら石樽の上の空へと上っていく。その時、天音がした。物質を構成する微細な粒子が鈴のように一斉に揺れ出したみたいな音だ。それは、世界の全ての場所で同時に起こるさざ波の幽霊だった。

 天音が終わるとさっきのシャボン玉が割れた。

 「そういえばわたしもさ、そういうカラーパを見たことがあるんだよ。図書館でよ、無題の本があってさ不思議に思ってその本を取ろうと手を伸ばしたんだよ。そしたらね、そのなにも書かれていない灰色の背表紙に私の指が埋もれていったんだ。うわってびっくりしたけど、よくよく見るとそれは灰色の四角いカラーパだったの。こういうのってたまーにあるよね」

 りんごは自分の声を改めて聞いて何か変だなと思って耳たぶを引っ張った。玉兎もリンゴのしぐさに似せて耳を触った後シャボン玉を吐き出した。

 「あのさ、昨日からなんだけど。何か変じゃない?」

 りんごが耳を触るのをやめた時、玉兎のシャボン玉が割れた。

 「あーのさー、昨日からなんだけどさあ。何かが変じゃなーい?」

 自分の言葉を聞いて玉兎のドングリの顔は暗く青ざめた。玉兎はぞっとして全身がぶるぶると震えあがって羽ばたきが乱れた。玉兎の背後の空がだんだん暗くなっていく。

 りんごもつばを飲み込んだ後、短くシャボン玉を吐いた。

 「改竄されてる。言葉が。」

 その時だった。ピカッと眩い稲妻がして遅れて空が破壊されたみたいな音がした。雷は龍のように暗い空を蛇行しながら星水の丘の方へと迫って来る。丘の上に膨らんだ子籠りの空間が不安そうに震えている。怪獣が現れたんだ。

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