第19話

 かなたたちは森に入った。森の深い空気を吸ったときなんだか目に違和感がしてリラは目をごしごしと擦った。りんごの口から小石を投げられた水たまりみたいに小さな泡沫が昇っていく。リラは目を擦るのをやめた。

 神経というのは糸や紐のイメージがある。今、リラの目玉から透明な神経の糸が枝葉のように伸びて森をまさぐっている。そんな感じだ。木の湿ったごつごつとした厚みだったり、苔むした岩の滑り気だったり、森の冷たい呼吸だったりが視界による触覚として感じられる。

 しかもそれだけではない。まるで見えるものすべてが自分の肌になったみたいなそんな感じもした。

 足を一歩踏み出せば足の裏の三日月型の圧力が湿った大地に判を押すじわっとした感覚をリラは視界に感じた。見えているものすべてを触りそして同時に触られている。この経験はまるで自分の腹の中を歩いているみたいだった。

 「な、なにこれ?」

 りんごがさっき吐き出したシャボン玉が破れて彼水の困惑した声が森の暗がりに吸われていった。りんごもリラと同じような視界による触覚を感じているらしい。玉兎が何か閃いたみたいにビーズ状のシャボン玉を吹いた。

 リラは胃の底に小さな凹みでもできたみたいな湿った違和感を感じてふと後ろを振り返った。すると、土に靴型のくぼみができていてそのくぼみにぴったり嵌る宝石みたいなカラーパが赤くてきれいだ。

 リラはそれを指さしてシャボン玉を吐いた。胃液が湧いてきて胃にできた窪みを鎮めるみたいなそんな感覚をリラは感じた。すると、土に出来た靴型のくぼみに水がじわっと湧いてきて赤い宝石みたいなカラーパに暗く満ちた。

 「森がパンニアなのか!」「隠れカラーパ見っけ!」

 さっき玉兎が吐き出したシャボン玉とリラが吐き出したシャボン玉が同時に割れて二人の声が重なった。リラは人指し指をピンと突き立てて自分のポイントを加算した。リラと玉兎のほうにシャボン玉が一つ浮かんできて割れた。シャボン玉が流れてきた方を見るとりんごが老木の洞を指さしている。その洞の中には雪の精霊みたいな魂状のカラーパが籠っている。

 「どこにあるんだよ?」

 かなたが眉間にしわを寄せて目を眇めた。

 りんごはシャボン玉を吐きながら木の洞の淵を翼の先で撫でた。

 リラと玉兎はおなかを内側からくすぐられているような感覚がして笑いが止まらなくなってしまった。リラと玉兎の口から笑いで崩れたシャボン玉が吐き出される。

 「ここだよ、木の洞」

 りんごのシャボン玉が割れた。かなたは涙をぽろぽろ流した。いきなりかなたが泣きだしたからリラと玉兎はぎょっとした。いまさらさっきのシャボン玉が割れて「あひゃひゃ、りんご。くすぐったいよ」という笑い声が森の静かさを壊した。


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 まるで世界から音だけが死んだみたいだった。そんな数秒の間に、妊娠した星空が傷ついていく。まるで、ブドウの房から腐った実だけを間引くみたいにある星のふくらみだけが次々と破れていく。星空は風船の束で、それに向かって透明な吹き矢で割っていくみたいに割れていく。

 ニカはずっと丸焦げたあかんぼうを抱いていた。彼水に戦う力は残っていなかった。いまはただ、滝のように汗を流しながら目の前で起こっている残酷な出来事を見続けることしかできない。

 星の一つ一つを核としてカエルの卵みたいに肉付いた星空、その膨らみがまだらに破れていく。そして、その裂け目から弱弱しい塊が流れ星みたいにニカの周りに落ちて来る。ふいに、無音の音鳴りが止んだ。

 ぽちゃぽちゃべちゃべちゃ、大きな雫でも落ちてきているみたいに重たい湿った音がニカの周りで連続する。それらはすべて赤ちゃんだった。天使の赤ちゃん、人魚の赤ちゃん、鳥人の赤ちゃん、妖精の赤ちゃん、人間の赤ちゃん。みんな水性らしい瑞々しい膜を纏っている。

 ニカはシャボン玉を吐き出した。それは、さっきより痩せた星空へと上っていった。


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なんだか、頭に穴が開いたみたいな涼しい感覚がしてかなたたちは上を向いた。今まで、重たい傘のようにかなたたちを覆っていた森の天井が急に開けて星空が現れたのだ。まるで、かなたたちが万華鏡の底にいるみたいな眩しく乱れた星空だった。星空は妊娠しているのだ。星の一つ一つを核としてカエルの卵みたいに星空が肉付いていく。

 リラもりんごも玉兎も祭りが始まる前みたいにそわそわしている。生命の誕生という喜治が三人の口から自然と笑みをこぼさせた。

 「すごい!赤ちゃんが生まれるんだ」

 星空が意志のある房みたいに揺れる。

 かなただけは涙をこぼしている。かなたは森を歩いている間ずっとこうだった。なんで泣いているのか聞いても首を振るだけだ。

 

 そのときだった。ふいにリラやりんごや玉兎があたりをきょろきょろしたり耳たぶを引っ張ったり大きなシャボン玉を吐いたり始めた。かなたは鼻水を啜ってそのあとはすっかり泣き止んだ。無音の音鳴りで何も聞こえなくなったのだ。世界から音が死んだ。

 かなただけはすべてが聞こえていた。「わーーー」と玉兎のシャボン玉が弾けた後、頭上で聞いたことのない音がした。宇宙が泣いているような底知れない悲し気な声。まるで世界がヒステリーを起こしたみたいに”何か”が暴れている。その”何か”の声がするたびにプーッと間抜けな明るい音がして星の房が傷つけられていく。まるで、房から腐った実だけを間引くみたいにその何かの音は星空を傷つけていった。声がしてプーッと間抜けな音がして、声がしてプーとして、声がしてプーとして、声がしてプーとして、声がしてプーとして、声がしてプーとして、声がしてプーとして、そうして破れた星の実から次々と未熟な生命が落ちていく。美しい地獄みたいな光景。不意にどこからともなくシャボン玉が浮かんできてかなたの前ではじけた。

 「水になんて産まれて来るんじゃなかった」

 かなたのおでこの角が焼刃のように赤熱する。彼火の胃が沸騰し沈殿していた臓物たちが湧き上がり激しくぶつかり合う。まるでかなたの腹の中は小さな宇宙で隕石の衝突みたいなエネルギーが臓器の摩擦によってスパークする。

 かなたは大地を蹴りつけた次の瞬間かなたは星空の高さにいた。あの”声”が近くで聞こえてかなたは星空の虚ろを掴んだ。

 「ぎやああぁぁぁぁぁっぁああああ」

 かなたは声を掴んでいた。それはおそらく透明な怪獣だ。あの世界が起こしたヒステリーみたいな声が今は苦しみの怨嗟をあげている。かなたは手のひらに耳の穴が開いたような感覚がした。見えない怪獣の叫喚がかなたの手のひらの耳穴から入り込み骨まで貫くようだった。かなたはその”声”を胸に抱くようにして締め付ける。”声”も必死で暴れている。ふいにかなたは揚力を失って星空から落下を始めた。落下の中でも彼火は怪獣を離しはしなかった。星の数ほどの耳穴がかなたの全身に空いたみたいに、”声”がかなたの体内に入り込み臓器も骨も壊していく。


 かなたの全身に空いた穴から壊れた楽器みたいな音が無数に漏れ出していく。かなたは口から目から全身から血を噴きながらも戦い続けた。「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」そして、ついに”声”は息を失い死んだ。隕石のような衝撃とともにかなたは大地に落ちた。

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