第10話
ニカはどっと疲れていた。怪獣に襲われていた雫(水性の年少者)を救い、その国の戦争を止め、小さな村の酔っぱらいのけんかを仲裁し、迷子の犬を飼い主に届け、病人の世話をしながら恋に悩む若い火の相談に乗り今は迷子の子供を背負っていた。
あたりが暗くなってくる。太陽が自分の背中に落ちてきているみたいにニカは感じた。背中は熱く足取りは重たかった。迷子の砂子(土性の年少者)がざらざらとした咳をして咳切虫が半透明なひし形を連ねながら咳を追いかけていった。迷子の砂子は発熱しているみたいだった。
あたりを夜に取り囲まれてニカは一歩も身動きが取れない。暗闇はまるで泥のように重たくニカの手足から自由を奪った。彼水はついに尻もちを搗き、背中に背負っていた砂子を降ろした。砂子の肌はまるで枯れ葉のようにかさかさと水気を失い今にも崩れそうだった。
「誰か助けてくれ」
勇者ニカが珍しく吐いた弱音は半透明な膜につつまれて夜をさまよった。四方八方どこを見ても人気はなくニカと砂子は孤独だった。
ニカは砂子を抱えて項垂れている。砂子の熱で腕や太ももが火傷しそうになりながらもニカは彼土を抱いて離さなかった。
「大丈夫だからね」と呼びかける声がシャボン玉から放たれることなく暗闇に飲み込まれていく。その時だった。どこからともなく美しい香りがやってきて、それが呼吸に紛れ込み肺を満たした。その夜に溶けるような美味はニカの服から胸に入り込み古傷に塗り込まれる。ニカの古傷はその味を楽しみ疼いた。
ニカはシャボン玉を吐き出しながら立ち上がりあたりを見回した。誰かが近くで料理をしているのかもしれないと彼水は思ったのだ。
「どなたか近くにいらっしゃるのですか?」
シャボン玉が弾けてニカの呼びかけが遅れて夜を伝わっていく。返事はないがニカは砂子を抱き起し美しい香りがする方へと歩いていった。歩いても歩いても美しい香りの正体にはたどり着けなかった。「誰かいたら返事をしてください!」ニカがそう呼びかけても帰ってくるのは夜の静寂だけだった。ニカの背中で砂子がむにゃむにゃと寝言を言った。小さなシャボン玉が弾けて砂子の声が届いた。
「きれいなお星さま」
ニカは夜空を見上げた。まるで夜に針穴を開けたみたいに一粒の星がキラキラ輝いている。その星の輝きがニカの瞳を美味で刺しニカは唾液のように涙をたらした。「そうか。今日は金曜日だった。」ニカの悔しそうなセリフをシャボン玉が包む。「この香りは星から降ってきていたんだ。」ニカは涙をだらだらたらしながらその場に項垂れた。星の光がニカのうなじに美味を塗りそれは背骨を伝って降りていく。
不意にニカの背後からシャボン玉がやってきて、ニカの背に負われていた砂子がじたばたと藻掻いた。シャボン玉がニカの耳元ではじける。
「降ろしてよ」
声が聞こえてニカは砂子を降ろしてやった。砂子はニカの姿を見るなり尊大な態度になって大きなシャボン玉を吐き出した。
「おい、水の性。のどが渇いた。何かよこせ。」
ニカは水筒を砂子に差し出した。砂子はその水筒を口に傾けて水を飲んだ。そのあと砂子は満足して水筒を夜に捨ててしまった。まだ半分残っていた水は暗がりの中に零れてしまった。
砂子は再び大きなシャボン玉を吐き出す。
「さあ、行くぞ。帰り道はわかっている。」彼土はすっかり熱が引き元気になったようだった。
ニカはこくりと頷いて、砂子の後についていった。
しばらく歩くと、暗闇が目を開いたみたいな丸い灯が現れた。その周りには集落があり星空を鏡写しにしたように無数の灯が集まっている。砂子が帰りを告げると集落から土性の人間や人魚がぞろぞろ出てきて砂子を迎えた。砂子を最後まで送り届けようとニカが集落の中心まで足を踏み入れようとしたとき、村人の中の一人がニカをにらんでシャボン玉を吐き出した。すると、暗がりから水性の人間や鳥人が現れてニカの肩を掴んで後ろに引っ張った。村人のシャボン玉がようやく割れた。「ここから先は水性の者は立ち入りを禁ずる。お前にもう用はない。帰れ」
ニカはおとなしく集落に背を向け帰途に就いた。水性の村人が一人ニカを送り出してくれた。彼水は「若を送り届けてくれてありがとうございます。十分なおもてなしができず申し訳ありません」と頭を下げた。ニカは「気にしてないよ」と小さくシャボン玉を吐いた。
水性の村人はニカを丘の上まで送り届けてくれた。その時まるで、星屑のさざ波みたいな天音がしてニカと水性の村人は立ち止まった。水性の村人は遠い集落の灯りを寂しそうに眺めている。ニカはこぶしにギュッと力を込めて「悔しいよな」と呼びかけた。音鳴りが終わったタイミングでちょうどニカの言葉が水性の村人に届いて、彼水はこくりとうなづいた。ニカは彼水の肩をがっちりと掴んで「僕は君の苦しみをいつでも聞いている。いつでも見ている。君は一人じゃない。」と呼びかけた。その呼びかけがシャボン玉から解放されるよりも早くニカはその場から去っていった。丘に取り残された水性の村人に星の美しい香りが眩しく降りてきた。その村人はそのまま村に帰ることはなかった。
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