第9話

 かなたはずっとニカを待っている。癒しの館で事件が起こったあとすぐにニカは姿を消した。それはいつものことだった。彼水はみんなのヒーローだから今頃きっと誰かを助けている。

 妊娠した空が時折地震みたいな振動を起こして空気をびりびりと痺れさす。そんな空の下でかなたは膝を抱えていた。膨張した空間が時計台を拉げさせ丘にくぼみを作り、かなたの体もスプーンに映ったみたいに歪んでいる。不意に世界中の精霊が囁きだしたみたいな静かでかつ騒がしい音がした。その天音が終わるまでかなたは膝を抱いて顔をうずめる。すると、水晶玉みたいな綺麗なシャボン玉がスーッと風に運ばれてきてかなたの耳元で割れた。「わたしはどこにいるでしょう?」潤いのある声がかなたにそう尋ねた。

 かなたは膝から顔をあげてあたりを見回した。水晶玉の曲面に映ったみたいな歪んだ石樽の群れが丘をいくつもまたいでいるだけで、何の気配もなかった。そよ風がかなたの髪を撫で上げる。すると、かなたは喉を軽く押さえて立ち上がった。

 光のような眩しい甘露が喉をべっとりと照らしながら胃へと降っていく。かなたは喉を押さえて息を止めながら石樽の林を駆けた。かなたは虫でも探しているみたいに石樽を超えるたびその陰をのぞき込みながら進んだ。そして、ついにかなたはシャボン玉の主を見つけた。それは、人魚のリラだった。彼水は石樽の隙間に水かきのある手を差し入れて

星水を掬い上げ飲んでいる。かなたはリラのその水かきのある手を払って怒鳴った。「こんなまずいもの飲むんじゃない!」透明でどこかとろみのある雫があたりに撒き散って草花に艶を塗った。リラは本当に不思議そうな顔をしてシャボン玉を吐いた。その中身は次のセリフだった。「甘味星の星水をまずいだなんていう人はかなた、君が初めてだよ」

 かなたはイライラしながら喉を擦った。リラが星水を飲むのをやめてからかなたの喉の違和感も収まっていく。

 「なんで君の感覚を僕も同時に感じるんだ?」

 かなたがそう疑問を言うとリラが肩のうろこをはがしながらシャボン玉を吹き出した。すると、かなたは肩にちくっと痛みを感じて後ずさりする。シャボン玉がかなたを追いかけるように迫ってきて彼火の鼻先ではじけた。

 「それはね、私たちが玉族同士だからだよ」


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 「私はね、星見の丘で働いているんだ。」リラはそう言いながら石樽に柄杓を突っ込んで星水をバケツに移し始めた。リラは唇をすぼめて特大のシャボン玉を作った。そのシャボン玉の中身は次の内容だった。玉族とは感覚と死を共有する共同体であること。星水の丘は怪獣が襲ってこない聖域だからリラを含めて多くの水性が働いていること。などだ。しかし、とうのかなたはすぐに話に飽きてしまってほとんど聞いてすらいなかった。

 リラがバケツと柄杓をかなたに差し出した。かなたが不思議がっていると小さなシャボン玉が弾けてリラの声が遅れて届く。

 「せっかくだから手伝ってよ」

 集団墓地の十字架が丘をいくつもまたぐみたいに、暗い石樽が丘の上に広がっている。その空には虹で鞭打たれたみたいにカラフルに傷ついた空が妊娠している。これこそが星水の丘だった。リラたち星水師は朝に石樽から星水を抜き取り昼には石樽に水を溜める仕事をしている。かなたが任されたのは空っぽの石樽に水を溜める作業だった。

 かなたはバケツにたまった純粋な水を石樽に注ぎ水を汲みに泉に戻ってを繰り返した。そんな作業をしているうちに妖精の玉兎と水性の天使がやってきた。「おーい。かなたじゃないか?」ビーズみたいなシャボン玉がかなたの耳に玉兎の言葉を届けた。

 「うわ。最悪。」

 かなたがそう言って顔をしかめると玉兎はドングリ頭をころころ揺らして怒った。「最悪ってどういうことだよ。」沸騰した泡みたいに玉兎の口からシャボン玉が溢れて来る。

 「お前なんかに会いたくないってことだよ。」かなたはそう言い捨てたあと水性の天使の方をにらんだ。彼水はかなたを恐れてビクンと肩を震わせた。すると、かなたは灯みたいに穏やかに微笑んで「君の名前は何?」と尋ねた。天使は緊張で固くなりながらもかなたに柄杓を差し出した。その柄杓に溜まった星水が日の光を浴びて輝く。

 「あの、わ、私、りんごっていいます。良かったら、どうぞ」

 かなたはりんごから柄杓を受け取って迷いなくそれを仰いだ。かなたは何かすごいアイデアを閃いたみたいに目を大きく開いた。そして、星水を飲み終わると「おいしい!」と跳ねる声で微笑んだ。

 玉兎がビーズみたいなシャボン玉を吐きながら柄杓に残った星水を嘗めた。リラも指先で柄杓の中をなぞってそれを口にくわえた。玉兎のドングリ顔が腐ったみたいに暗くなり羽ばたきは勢いを失った。落ちていく中で玉兎はいくつか泡沫を吐き出した。続いてリラも眉間にしわを寄せて唸っている。

 「まっずい!これ、苦味星の星水だよりんご!」

 玉兎のシャボン玉が割れて彼土の声が遅れて届いた。

 「そんなわけないだろ。お前の味覚が虫けら同様だからじゃないのか?」

 かなたは玉兎のシャボン玉を叩くようにして彼土を非難した。それはすべての妖精を傷つける心無いセリフだった。

 玉兎はカンカンに怒って口が沸騰しているみたいに小さくて激しい泡を吹き始めた。リラはまだ苦味星の星水に耐えている。リンゴは気まずそうに後ずさりした。

 玉兎の泡が弾けて彼土の怒りが遅れて届く。「かなた、それだけは言っちゃいけないよ。俺たちの、妖精のことを虫けらだなんて」

 雲がお日様を隠して空のカラフルな傷が少し黒ずんだ。星水の丘は少しの間沈黙に支配された。かなたは下あごに手を添えて「うーん」とうなった後指をパチンと鳴らして跳ねた。まるで、数学者が難しい問題を解き終わったときみたいな興奮でかなたは玉兎を拾い上げた。「そうか!そういうことか!妖精は虫じゃないのか!教えてくれてありがとう!」

 かなたの笑顔は純粋そのものだった。玉兎は肩透かしを食らった見合いに拍子抜けして怒りも忘れてしまうほどだった。リラが好機を見逃さずに話を切り替える。「さあ、みんな石樽に水を溜めて!今日は金曜日、美味の夜がやってくる。」リラのシャボン玉が届くころにはかなたと玉兎は手を繋いで丘を散歩し始めた。りんごもその後ろを遠慮がちについていく。リラも「ふう」と軽くため息をついた後三人の後に従った。

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