第6話


 ニカとかなたは傷ついた天使と玉兎を癒しの館に預けて、自分たちは家へと帰っていった。

 帰り道の空は殴られた顔みたいに腫れていて、傾いた陽ざしがそれを容赦なく焼き付けている。痛々しくも生き生きとした空の下には、くぼみのある大岩の群れが丘を3つもまたいでいて、妊娠した空が落とすだろう赤子を待ち構えているみたいだ。かなたはニカの左の薬指を飴棒みたいに口に含んでいる。ニカはかなたにされるがままに、ただ彼火に歩みを合わせて大岩をいくつもすり抜けて丘陵を越えた。


 家に入ると今度はニカの方がかなたを抱き寄せて、その首に指で円を三回なぞった。かなたは首でニカの指が動くこそばゆい音を聞きながら何か夢想にふけっているようにぼんやりとしている。その節穴のように開いた口からは鈴の音でも聞こえてきそうだ。


 ふいに、ニカがかなたの首筋に描いた見えない円に噛みついた。それは、恋する吸血鬼みたいな激しくも甘い噛みつきだった。ニカの糸切り歯が注射針みたいにかなたの肌を破って首から美味を吸い上げていく。その光のスープみたいな眩しい味が舌を熱し喉を降り、温かく胃にたまっていく。

 急にかなたが動いたからニカは顎から歯が持っていかれそうになった。ニカはかなたの首から歯を抜いてシャボン玉を口から吹き出す。かなたが雫のようにしくしくと泣いているのに気が付いてニカはぎょっとした。自分の口からかなたの方へと放たれたシャボン玉が割れないことをニカは祈ったが駄目だった。シャボン玉が暗がりを放つみたいに破れた。


 「ちょっと、いきなり動かないでよ!」


 ニカの声が遅れて届いた。かなたは相変わらず俯いて鈴みたいなしゃっくりをあげながら泣いている。


 「僕が悪い。僕は悪い。僕が悪いんだ。ごめんね」


 ニカはかなたの肩を抱き自分の薬指を彼火の口に含ませる。そして、ニカは口からシャボン玉を放った。今度はシャボン玉が早く割れることをニカは願っている。


 急にかなたの震えが止まった。また、いつものようにかなたが顔をあげて辛味に耐えているみたいな変顔で笑い出すことをニカは期待している。


 シャボン玉がニカとかなたの頭上をふわふわ漂うこと3周、かなたは眠りについてしまった。かなたは水たまりが囁くような潤いで寝言をつぶやいた。


 「ニカ、大好き」


 ニカはかなたを抱き寄せてそのまま眠った。いまさらになってシャボン玉が割れた。

 「かなた、あなたは悪くない」という言葉を聞く者は夜以外いなかった。


 翌朝、騒がしい音でニカは目を覚ました。その音の正体は投げられ傷ついているモノたちの泣き声だった。かなたが癇癪を起して暴れているのだ。ニカは寝ぼけ眼をごしごしと擦った後、朝食の準備を始めた。朝食はウサギのもも肉を炒めたものだった。朝から逃げ遅れた塩味星の香りが食事に程よい風味をもたらす。 

 かなたが床を蹴りつけながら朝食の方へとやってきてテーブルから自分の皿を掴んでそれをニカに投げつけようとした。ニカは一つシャボン玉を吹き出した後、平気そうに食事に戻った。その平然とした態度がかなたの怒りの火を吹き消してしまった。かなたはスンと落ち着いて皿をテーブルに返して椅子に座った。そして、お箸でお肉をほぐした後それを口に運んだ。


 兎のお肉はかなたの口の中でさらに解けてかなたが鼻から吸い込んだ空気の塩味と混じりあう。


 「うわ。まずい」という心のないセリフとは裏腹にかなたの舌は喜んで唾液が口から溢れそうだった。ふいにかなたの舌がお肉の在りかを失って迷っている。お肉の固形部が幽霊みたいに消え去って、かなたの口の中が寂しくなる。口内に残されたのは塩っぽい風味だけだった。かなたは仕方なくその風味を飲み込んだ。それは、喉を下っていくほどに光にさらされたお化けみたいに消えて胃に届くことはなかった。


 かなたは再び箸で兎のお肉をつまんで食べた。ニカのシャボン玉がようやく割れた。

 「食べ残さないようにしなさいよ」

 かなたは最後のお肉を箸でつまんだまま動かなくなった。

 「ねえ」

 かなたの呼びかけにニカが首をかしげる。

 「どうして食事をしなきゃいけないの?」

 ニカは下あごに手を当てて返事に窮する。

 かなたが疑問を続ける。

 「だってさあ、食べ物を食べたってみんな幽霊みたいに消えちゃって胃に届いたためしがないよ」

 かなたはそう言い終わると最後の一つまみを口に含んだ。かなたの膨らんだ口はすぐにしぼんだ。そのあとかなたは何も言わずに部屋の片づけを始めた。


 妊娠した空が時計台や丘の木々を空間的に拉げながらも、力強く膨らんでいる。いつ、このふくらみが破れて新しい命が産み落とされてもおかしくない。その証拠に今も空間が内側から蹴られて泡沫のように張り出しては引っ込み張り出しては引っ込みを繰り返している。神様の眼差しみたいな澄んだ光がその膨らみを温めて空間が孕む新しい生命を称えているようだった。

 そんな、生き生きと膨らみ歪んだ空の下をニカは物思いに歩んでいた。彼水が考えているのは二週間ほど前のことだった。彼水が世界の裏側に現れた怪物を退治しているとき燃える街に取り残された人魚の雫(幼い水性のこと)が不満げな眼差しでこっちを見ていたのだ。彼水の氷(その人から見て年長者の水性)が迎えに来た手を彼水は不機嫌そうに振り払っていた。


 「あの子は何が不満だったんだろうか?」


 そんな独り言をシャボン玉に結んで、ニカはある家の前に立った。その家の扉を拳の裏でノックすると年老いた鳥人の水の性がドアの隙間から覗き込んだ。

 鳥人は眉間に眉を寄せて嘴を叩きシャボン玉を結んだ。ニカは手に握っていたうさぎのぬいぐるみを差し出した。

「あなた誰ですか?」

 鳥人の訝し気な疑問が遅れて届く。すると、その鳥人の水性の陰に隠れていた人間の幼子がシャボン玉を口から跳ねさせながらニカからぬいぐるみを受け取って飛び跳ねながら家の奥へ帰っていった。ニカは微笑みながらシャボン玉を吹く。

 「やったあやったあ。うさぎちゃんが返ってきたよ」

 幼子の喜びが遅れて聞こえてきた。ちょうどニカのシャボン玉が弾けた。「よかった。灯ちゃん(火性の年少者)がずっと探していたので」その言葉を聞いて鳥人の眉間はますます深くなった。今なら、鉛筆を縦に挟んでも離さないぐらいその鳥人の眉間の溝は深かった。鳥人は嘴からシャボン玉を鉄砲みたいに噴出した後「バタン」と乱暴にドアを閉じた。残されたニカの頭の上でシャボン玉が弾けて冷たい言葉が霰のように降って来る。

 「あなた誰なんですか?うちの子に近づかないでください」

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