第4話

~リラ~

 リラが後ろを振り向くと壁の目は風前の灯みたいに消えて、裂け目だけが残された。その裂け目から冷たい音が流れてきた。リラの腕に出来た鳥肌の粒粒が音を味わう味蕾となってぶるぶると震える。

 リラが冷たくなった唇を動かして小さなシャボン玉を吐き出した。そのシャボン玉がゆらゆらと上へ昇っていく間、リラはその壁の裂け目に腕を突っ込んでみた。腕が音に冷やされて神経回路が凍っていく。ちょうどさっきのシャボン玉が裂け目をなぞるように上っていきリラの頭上で破れた。


 「なんだろう、この裂け目は?」


 素朴な疑問に惨事が返事をした。壁の裂け目がまるで怪物の口みたいに閉じてリラの腕を噛みちぎってしまったのだ。リラは溺れている子供みたいに口から大量にシャボン玉を吐き出して後ずさりする。失われた腕のその痛々しい断面から光の筋がいくつも噴き出して壁に当たって砕け散る。

 少し遅れてシャボン玉が割れた。

 「うわああああああああ」


リラの苦しみの叫び声があたりに撒き散らされていく。固形化した光が眩いガラスの破片みたいにあたりに散らばって暗い路地を一瞬で明るく彩った。壁は再び大きく口を開けて苦しみ呻いているリラを食べようとした。

 その時だった。まるで世界が氷の打楽器になったみたいな冷たくて固い音がした。壁はその音に凍らされ口を開いたまま固くなる。すると、人間の水の子が一人現れて地面に散らばっている固形化した光の一つを拾い上げそれを槍のように壁に突き刺した。

 壁から吐き出される大きなシャボン玉が同じく壁の口から飛び出す矢のような光に押されてぐんぐんと空へ昇っていく。人間の水の子は光の槍で壁を刺し続ける。その様はまるで気の触れた炭鉱夫のようでもあった。

 空に昇ったシャボン玉が花火みたいに弾けた。


「キュオオオオォォォ」と生き物とは思えない叫び声がした。まるで空が泣き叫んでいるみたいに聞こえた。壁に空いた口は閉じ、壁の表面はまるで死人の肌みたいに力なく垂れ黒ずんでいる。


 人間の水の子は光の槍を放り捨てリラの方に向き直った。


 「遅れてごめんね。ニカ参上!」


 リラはニカの申し訳なさそうな決め台詞を聞いたのを最後に気を失ってしまった。


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~かなた・玉兎~

 ドングリが顔なのかそれともドングリは被り物に過ぎないのかよくわからないがこの小さな妖精はかなたの横髪を食んで徐々に気力を取り戻し自らを名乗るほどになった。妖精は口から小さなシャボン玉を吐き出して頭のドングリを独楽みたいに回してみせた。それで生じた微細な風で小さなシャボン玉が割れて妖精の声が遅れて届いた。


「僕の名前は玉兎(たまうさ)。ドングリ頭の妖精さ!」

 

 かなたはその名前を聞くと目に一杯涙をためた。


「良かった!」という安堵の声と一緒にかなたは玉兎を抱き寄せて震え声で喜んだ。玉兎はぽかんとした表情のまま首を傾げシャボン玉を吐き出した。かなたは鼻をすすって崩れるように笑った。



 玉兎のシャボン玉が割れて声が遅れて届く。


「あれれ?君に会ったことあったっけ?」


 まるで、土のように湿った味の声だった。かなたは首を横に振りながら「あったことないよ。でもね、本当に会えてうれしいよ」と鼻をすすり涙を拭った。


 そして、「僕の名前はかなただよ」とほほ笑んだ。


 玉兎は少し戸惑いながらも嬉しそうに微笑み再びシャボン玉を吐き出した。すると、かなたはいきなり冷たい水でも被ったみたいに無表情になった。


 「笑うときもいなお前」


 急に言葉のナイフで胸を刺されて呆然としている玉兎の前でさっきのシャボン玉が割れた。


 「よろしくねかなた。僕も会えてうれしいよ」


 その好意的な挨拶が今は痛々しくあたりに響いた。


 玉兎は本当に気を悪くしていた。他人をこんなに憎んだのは初めてかもしれない。かなたはというとまるでさっきの出来事などなかったみたいに親友みたいな馴れ馴れしさで玉兎を手のひらに抱き「図書館に行こうよ」などと笑っている。ある目的さえなければ今すぐにでもかなたから離れてしまいたかった。彼土にとって今はかなたと出会ったことこそが人生最大の不幸だった。


 図書館に着くとかなたはペンとノートを取り出して研究者のような熱心さでメモを取り始めた。かなたのメモには難しい数式が書かれているのだが、その研究対象は下品な絵がある滑稽本だった。亀が逆立ちしながら泥を啜る意味の分からない絵から何をどうしたら数式が導き出せるのか玉兎にはわからなかった。玉兎はまだ体が弱り切っていたからかなたの横髪を食んでいなければならなかった。体の中にかなたの一部を摂取するのが玉兎には屈辱だった。


 玉兎はふいに催して、厠へと向かった。厠には鳥人の土の性が便器に向かって性器を露出したまま用を足すでもなくずっと立っていた。その鳥人は仮面のように表情を変えずにずっと壁を見つめている。玉兎は妖精用の便器である葉っぱの上に砂粒をいくつか排泄した。なんだか気味が悪くなって玉兎はそそくさと厠を後にした。


 机の上ではかなたが相も変わらず滑稽本をにらみながらノートに難しい数式を書き込んでいた。


 「この世界は狂人ばかりになってしまった」


 玉兎の呟きは口から出ていく前に未然に止められた。それを止めたのはふいにかなたが向けたまなざしだった。そのまなざしは風のない灯みたいに落ち着いた知的な味を帯びていた。かなたは玉兎を呼び寄せて机の上に座らせて頭を下げた。


 「玉兎。さっきはごめん」


 急な謝罪に玉兎は戸惑う。


 「僕は君のことを裏切ってしまった。僕のあいさつに好意で返してくれた君を僕は冷たく中傷した。君を傷つけたことをここに謝罪するよ」


 かなたはそう謝って机におでこを付けた。玉兎から何か答えをもらうまで顔をあげる気がないのが玉兎にも伝わってきた。

 玉兎は小さくシャボン玉を吐き出した。そのシャボン玉の中には「まあ」とか「うーん」とかいう意味のない声しか込められていない。とにかく玉兎は目の前のかなたという者に戸惑っているのだ。

 すると、さっき厠にいた鳥人が羽根で重たそうな足取りでかなたと玉兎の机を通り過ぎ三つ向こうの机に座った。そして、何か大きなシャボン玉を吐き出し続けている。

 その鳥人の土の性が出した最初のシャボン玉が破れた。その中身は「ちっ」という舌打ちだった。その舌打ちに怒気が含まれているのに気が付いて玉兎はビクンと身体をこわばらせた。相変わらずかなたは机におでこを付けたまま動かない。

 

 次のシャボン玉が割れた。その中身は憎悪だった。

 

 「殺してやる。水の性を殺してやる」

 

 書架の前で本を選んでいた水の性の天使が本を選ぶ指を止めて鳥人の方に注意を向けた。玉兎は胸がキュッと痛んだ。

 三つ目のシャボン玉が割れた。その中身は嘆きと失望だった。

 

 「王国こわ。王国こわいよ。これ俺らに死ねって言ってるよ」

 

 静寂が掟の図書館でその呪詛の呟きは狂気そのものだった。図書館の司書たちが注意をするとその鳥人は小さくシャボン玉を吐いて頭を下げる。

 そのシャボン玉が破れる前に水の性の天使はいたたまれなさそうにあたりを見回した後、少し悩んで本を書架から抜き出して図書館を後にした。

 彼水が抜き取って歯抜けになった書架に赤い宝石みたいなカラーパが挟まっている。玉兎はかなたの肩を突いてシャボン玉を吐き出した。かなたが顔をあげてできた風でシャボン玉が割れた。「もう謝らなくていいから。かなた。それよりさ、きれいな隠れカラーパを見つけたよ」

 「本当に?」

 いまさらだが、かなたの声はまるで冥鳴りのように遅れなく玉兎の耳に届く。

 「本当さ」という玉兎の返事はシャボン玉に速さを奪われてふわふわと空中を泳いでいる。ある者が乱暴にそのシャボン玉を割りながら図書館を後にした。さっきの鳥人の土の性が速足で天使の水の性を追っていったのだ。「助けなきゃ」かなたはそう言って玉兎を肩に乗せその土の性の後ろを追いかけた。残されたのは本と本に挟まれたルビーみたいなカラーパだけだった。

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