第十章 スプリング・トゥ・ザ・フューチャー
第27話 スプリング・トゥ・ザ・フューチャー①
ペンを置く。
紙面に手紙を書くなんて慣れないことをするものではないな。
思った以上に肩の凝る作業だった。違うか、未来の息子に手紙を書くなんてこと、そもそも慣れていることの方がおかしい。
春に、届いてくれるだろうか。私は、
あの子は、私たちの息子として生まれてきた幸せだったろうか。幸せに、なれるだろうか。
未来演算者の両親、そんなものを親とする苦悩は、私では計れない。
『人類の未来を十年も引き延ばした』常月夫妻と。
私はそのほとんどの功績は妻のモノだと思うが、行き過ぎる彼女を止めるブレーキの役目は十分に果たしていたと思うので、夫婦セットの名誉でも甘んじて受け入れた。
私の妻、
生活に不要なモノ、人生に不要なモノ、人類に不要なモノ、まっとうな人間の尺度であれば捨てられないモノも、極めて合理的な判断の末に捨てていた。
だから、
若輩の頃から優秀だった彼女は、いくつもの都市運営改革案を出しては、それを成立させていた。5歳児の未来検診、40歳以上への医学的治療の停止、自殺防止法案の廃止。これらは普通の人間から見れば気が狂ったとしか思えない発想だ。
でも、だからこそ、彼女の打ち出した案はいつでも効果的な数値を示していた。
僕らの世界では数字が全てだ。現時点で判明している人類の限界年数をどれだけ引き延ばせるか、それだけが求められる。
その視点で見れば彼女は実に優秀で、私たちの住む海洋都市の限界年数を文字通り10年引き延ばした。これは各地に点在する49の海洋都市の中で、個人が弾き出した最も優れた成績であり、結果として他の48の都市もそのプランに倣い、人類総体の寿命が未来演算上は延長した。
この彼女の立案したプランにおいてどこに僕の活躍があったかと言えば、雪音さんが考案した5歳児の未来検診は元々0歳児に向けてのものだったし、40歳以上への医学的治療の停止は30歳以上が対象だった。そして自殺防止法案の廃止は、元々は自殺促進法案の制定が目標だった。
それらをほんのわずかでも緩和させたのが僕の仕事。なにせ、それが通ったあかつきには、都市全体の暴動が起きることが未来演算で予測できたからだ。だけど本当はこんなこと、未来演算を通さなくたって素人でも感覚的に予想できる。
でも雪音さんにはそれがわからなかった。彼女には、いわゆる普通の人の気持ちがわからなかった。自分自身の気持ちすらも、わかっていないように僕には見えた。
単独で、演算機を通さなくても脳内で未来演算が可能な天才、時代の寵児と
それはきっと、今も根本的には変わらないと思う。でも彼女には変わる瞬間があった。
僕と結婚した時、じゃない。春が生まれた時、でもない。
春が5歳児の未来検診を受けて、未来不適合の結果が出た時だった。
未来不適合、それはその子供が18歳の成人に至ることなく、社会に貢献できないという未来からの証明。心臓に病を抱える春は、そもそも10歳の時点で確実に死ぬと、未来演算は答えを弾き出した。その理由も明白、未来不適合の烙印が押された春は医学的治療が受けられない。
彼女自身の立案したプログラムによって。
その日の夜、彼女が涙するのを始めて見た。
「アプローチを変えましょう。今日からはマイナス検討をします」
次の日、目元を赤くしながら、彼女はいつも通りの冷たい声でとんでもないことを言い出した。
「今の方法じゃどうやっても西暦3000年を越えられない。だからアプローチを変えます」
もう一度、彼女は僕に告げる。氷のような冷たい瞳に、誰にも曲げられない確かな決意を宿して。
彼女の口にしたマイナス検討、それは
僕らはいつか来る終わりを先延ばしにするために未来を演算し続ける。その限界年数が西暦3000年、彼女が加えた10年をもってしても越えられない人類の壁だ。
だから僕らは必ずその先を目指さなければいけない。それが西暦3000年をいかに越えるかというプラス検討。ゆえに未来は限定される。確実に西暦3000年に辿り着けるポイントまでに切り捨てなければならないモノは変えられない。そこに自分たちの子供が含まれていても。
だけど彼女はそれをやめると口にした。
「私は切り捨て方が足りなかった。まだまだ世界に配慮してた、他人に遠慮してた、私の命も、貴方の命も引き算に加えてなかった」
彼女は、今まで自分が保証してきた『未来』を捨てると言い切った。
「現時点から西暦3000年までのあらゆる可能性を検討します。どんなに人類総数が最小値に迫ろうが気にしません。結果として人が時間的に前に進めているならいいでしょう。…………そこにたまたま、春が生きている未来が混ざっていても、問題はないはずです」
一瞬だけ彼女の言葉が濁る。未来に殉じてきた彼女にとって、その言葉は不実と言っていいほど自分への嘘だった。
自身の生きざまを、誇りを、汚れたドブに捨てるような発言、でも彼女は。
「やります。貴方の命も、ください」
今まで見てきたなかで一番真剣なまなざしをして、僕を見ていた。
断る言葉は最初から用意していなかった。僕は結局、未来を夢見た非人間で、息子の幸せを願うただの父親だった。
そこからの彼女は文字通り鬼気迫る勢いで未来を検索した。天才の死に物狂いほど恐ろしいものはないと実感した。
彼女は101兆5599億5666万8416通りの可能性羅列の中からたったひとつ、春が生存して、なおかつ未来へ繋がる可能性のある
だけどそれは、
「現時点での世界人口は約1億人ですが、最終的には私たちの海洋都市の人口を100万人にする必要があります。もちろん他の48カ所の海洋都市には滅んでもらった上で」
あまりにも残酷過ぎるシナリオだった。まず現実的じゃない、自分たちが住む海洋都市ならまだしも、直接移動手段のない他の海洋都市に干渉するなんて不可能な話だ。
「直接的な殺害を指していないので、いくつかの条件を満たせば可能です。まず、私と貴方が自殺する必要がありますが、それはいいですか?」
話の頭から、無理を言い出す人だった。だけどそれは了承する。命をくださいと言った彼女に、頷いたのは嘘じゃない。
「次に、私たちが今までに立案していたプランが破綻する必要があります。人類の寿命を10年延長可能だったプランが間違っていたということの証明。つまりは私たちの無能の証明ですね。完了すれば私たちのプランを流用していた海洋都市は目標時点までには自滅しています。それもやります」
気のおかしくなる言葉だった。彼女は今まで崩れないように丁寧に積み上げた自分の努力を、自身で壊すと口にした。今まで集めた彼女への敬意が、軽蔑に切り替わることも理解した上で。
「人類限界年数を10年先延ばしにできたからこそ、春が生き残れる可能性羅列が生まれました。ですからこれまでのことは無駄ではありません。滅ぶことになる他の海洋都市については、私たち無能に付き従った結果に起きたことですから、彼らが無能だっただけの話でしょう。自己責任という言葉、私は好きです」
自己責任、きっとこういう時に使う言葉ではないだろうが、結局彼女を超える天才が現れなかったのは、誰かが負うべき責なのだろう。
彼女の立案したプランはどれも、あまりに繊細過ぎてわずかなノイズだけで未来が大きく狂う。それを今も彼女は他の都市へのフィードバックを行なうことでプランを維持している。
だからこそ、彼女が周囲に気づかれないように意図的にノイズを加えれば、彼女の延長プランを無効にするのは難しいことではないはず。本当に難しいのは、9000万人以上の未来を強制的に10年短くすることについての倫理的抵抗だが、それは雪音さんにとっては問題にすらならない問題だった。
「最後に重要なのは春の手術です。現時点では春の未来適合が証明できないのでいかなる治療も手術も行えません。適合証明が可能となるのは4年後、手術は5年後になります。この時点で他の海洋都市に異常が出ないように調整するのは難しくなり、私たちの立場はかなり危うくなります。覚悟しておいてください」
その頃には西暦3000年まで保証されてた未来が突然短くなり始めるということだろう。
「春の心臓には
彼女の言葉に迷いはなかった。その必要があるのなら春に苦しめと、暗にこの人は言っている。未来に憑りつかれた彼女らしい言葉。でも同じように未来に憑りつかれている僕は、声を出さずに頷いた。
「手術は春が10歳になった時、私たちはそのタイミングで全海洋都市に改竄した終末時刻を発表します。私たちは自殺するのはその直後、それでプランは完成して改竄した嘘が本当になります」
信じ、られない。
彼女はあの日泣きながら、たった一晩でこんなプランを思いついていたのか?
でも、最後に譲れないところはある。その答えによっては、僕は彼女を止めないといけない。
「雪音さん、大事なことだ。そのプランに春が生きていける可能性があるのは理解した。それで、人間の未来はどこまで続くんだい? 西暦3000年の壁は?」
「越えます、少なくともこのプランには越える可能性がある」
そこが、大事だった。
僕らはどこまで行っても未来の奴隷で奉仕者だ。息子のために未来は変えられても、息子のために未来を諦めるわけにはいかない。世界の人々は裏切れても、自分自身は裏切れない。
「なら大丈夫、僕らはいい親なんかじゃない。息子をダシに届かない未来に手を伸ばした愚か者たちだ。雪音さん、君のプランに乗るよ」
そうして、5年の月日が過ぎていった。
10歳になる春は明日手術を受ける。そして私たちはあの子の退院を見届けた後、自殺する。
少なくとも春は17歳の夏までは生きていける。
その先は、人類の未来と同じ箱の中。
結局、未来への保証を確定させることが僕たちにはできなかった。
終わる世界と続く世界、どちらも等価の可能性として存在している。
毒ガスのスイッチとともに閉じ込められた猫が『生』に傾くためには、極小の運命、形而上熱量が必要なのに、どうしても最後の熱が足りていない。
それを解決しないまま、この日が来た。結局僕はどうしようもなく愚かな
僕自身への自己評価を確定させ、静かな気持ちで手紙を収める封筒を取り出す。
春への言葉は書いた。これなら、きっと読んだところで僕を好きになんかならないだろう。
「雪音さん、僕はもう手紙書いたけど、君は?」
振り返り、人生のパートナーであり最悪の共犯者に声をかける。
「はい、これ」
彼女が渡してきた手紙は実に綺麗で、何も書いてなかった。
「ちょっと、これ白紙だよ」
驚くくらいに真っ白だ。
「知ってるわ」
彼女の返答もさらに驚くほど淡泊だった。
「いいのかい? 未来の春に言葉を伝えられる最後のチャンスだよ?」
春の父として、彼女の夫として、せめてもの役割を果たそうともう一度促す。
どんなにダメな親であったとしても、何か一言くらいはあの子に残してあげるべきだと思ったから。しかし、彼女の冷たい氷のような表情は変わらず。
「いいの。だって、白紙の未来こそが、私たちが一番あの子にあげたいものでしょ?」
真の驚きで僕は目と口を大きく開いた。
あらゆる無駄を切り捨ててきたリアリストは、その実たったひとつのロマンを捨てられないだけの夢追い人だったなんて。
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