第九章 ユアエンド ―君の果て―

第26話 君の果て

「春? 春っ!?」


 春が、倒れた。

 何が起きたのか、それは誰に聞かなくたって分かってる。

 発作が、春の心臓に限界が来たんだっ。


「ねえ春、ウソでしょ!? ねえ起きてよっ!!」

 ただそれを分かっていながら、私は春に必死で声をかけていた。

 なのに、返ってくる言葉はない。


 こんな突然に意識がなくなるなんて、まさか春はずっと苦しいのを我慢してたの?


 この瞬間を、私との一瞬を、少しでも長くするために。


 冷静に、お願いだから冷静になれ私。

 ずっと覚悟してきたことじゃないっ。春と一緒にいればこんな日が来るんだって覚悟してきたことなんだから。


「春のバカ!! なんで今なの、もう少しで世界は終わるのに。なんであとちょっと付き合ってくれないの!?」

 理不尽な感情を吐き出しながら、それでも、それでも自分がするべきことを認識する。

 一度はやったこと、今度はもっと間違えない。

 春の口元に耳をあて、同時に彼の胸部を見る。春の吐息も聞こえず、呼吸で胸が上下する様子もない。ああ、やっぱり息も止まってるんだ。

 私は迷わず春のシャツのボタンを外して胸をあらわにして、その中心のちょっと左に耳を当てる。


 トクン、トクン、という、希望のリズムは、微塵もない。


 何で? この前はちゃんと心臓は動いていたのに。

 そんな泣き言を噛み殺し、私は私の最善をする。


 できるだけの空気を肺に取り込んで、春の鼻を抑えて、彼の口へと私の息を送り込む。横目に春の胸部が大きく膨らむのが見えた。これで少しは酸素が肺にいったはず。

 今のが最後の人工呼吸、だってここから先は私が春の心臓にならないといけないんだから。


 春の身体の横に膝立ちになって両腕を垂直に胸部の中心に合わせる。ひんやりと冷たい春の胸。そこに手の平を重ねて体重を乗せるように胸を強く押す。


 心臓マッサージ、あれ胸部圧迫だっけ? まあそんなのどっちでもいいや。実践なんて初めて。それでも頭の中に詰め込んでおいた知識を総動員して、春の胸を何度もリズムよく押し込んでいく。


 心臓が止まって困るのは血液が脳に回らなくなること。酸素が脳に十分に回らなくなれば人は不可逆的な死に向かって走り出す。それを外部からの力で強引に、止まった心臓に血液ポンプの機能を思い出させる。


 大事なのは、しっかり押すことと、ちゃんと胸が元の位置に戻るのを確認すること。そうじゃないと押しっぱなしでは送り出す血液が心臓に戻ってこない。あとそれと、本当に一番大事なのは、絶対に途中でやめてしまわないこと。


 24時間365日休まずに拍動する心臓の代わりをするんだから、どんなに汗が出て腕が苦しくなってもやめちゃいけない。


 頭の中で断片的な知識を拾いながら、ひたすら無心に春の蘇生を続ける。


 五分、くらいは、たったかな。

 私の額から零れ落ちる汗が春の身体を濡らしていく。


 一瞬、春の顔を覗き見る。なんて、こと、本当に死んだみたいに穏やかだ。


 やめて、やめてよね春。こんなことだから、好きになられるのが怖かった。


 春を、好きになるのが、怖かった。


 続かない幸せが、未来のない平穏が、とてもとても怖かったの。


 だから、私はやめてなんかあげない。


 世界の終わりがすぐそこにあるとしても、私は春と一緒にいたい。


 たとえあと数時間の延命だとしても、この綺麗な世界で一緒に生きていたい。


 だって私は、私は……、



 途切れ途切れの思考の中、春の心臓の代わりを務め続ける。


 本当、ヒドい、話。


 誰かの命を生かすことが、こんなにも、大変だなんて。


 私自身の思考を維持する酸素が欠乏し始める。


 私の両腕を乳酸が駆け巡り悲鳴をあげる。


 私の両目が、涙で、なにも見えなくなる。


 それでも、それでも、と心の中で叫び続けて、


 それこそ意識を失うように、私は倒れ込んだ。





 いったい、どれだけの時間が経ったのか。



 私の荒い呼吸、汗だくの服、挙がらない腕。


 立ち上がろうとする気力が、続けようという意志が、回復してくれない。


 限界を超えて身体を突き動かそうとする想いを、肉体の方がブレーカーを落とすように拒絶する。


 仰向けになって必死に空気を取り込む。


 この間にも、春は少しずつ死に向かっているのに。


 いえ、あれからの時間を考えれば、もう……


 私の挙がらない腕は、無意識に春の手を握っていた。


 私の燃え滾るように熱い手を、春のただ冷たい手が冷やしていく。


 ああ、そうして、私は世界はるの終わりを実感した。










 ギュッ







 微かに、握り返されるような感触。


「春!?」

 私の身体は現金で、ほんの微かな希望をエサに起き上がる。


 陽が昇ろうとして白んでいく世界の中で、死んだように穏やかな少年の寝顔が、ほんの少し微笑んでいた。


「やあ、未蕾、汗だくだよ。今度こそ本当に、朝チュンかな?」

 まぶたを開いた春は開口一番にくだらないことを口にした。ホント、アナタが倒れてさえいなければ、そうなってたかもしれないのにね。


「おあいにく様、スズメも死んだしカラスも死んだわ。散前世界に今は私と春の二人だけよ」


「おお、それなら胸を張って言えるよ。未蕾、君が世界で一番綺麗だ」

 迷いのない笑顔で、春はそんなくだらないことを、口にした。


「バカ、今そんなこと言われても、嬉しくない」

 本当、嬉しくない。だから私はにやけそうになる口もとを挙がらないはずの腕で必死に隠す。


「困ったな。でも、未蕾が嬉しくなくても、たとえ困ったとしても僕は言うよ。世界で一番、キミが好きなんだ」

 春は再起動したばかりの心臓に無理を言って身体を起こし、そのまま私にキスをした。


「────やめて、やめてよね春。なんで、なんで春は、こんな終わりの見えた、ひび割れた世界なのに、私に好きだって言ってくれるの?」

 春の唇が離れて発言権を取り戻した私は、結局その疑問を彼にぶつける。だって、どんなに強がって世界の終わりを受け入れても、春が終わることは受け入れられなかった。彼を失うことが、心が壊れるくらいに怖かった。


「理由、あるけど、言っても怒らない?」


「……内容による、でも言わないと絶対に怒る」


「なら、仕方ないか。僕が未蕾を好きなのは、僕にとって未蕾が『余分』だからだよ」

 は、え、余分? どういうこと?


「僕の生活は、人生はずっと前に完成してた。決まりきった生活、おばあちゃんのいる家と図書室と、たまに夜空を見上げるだけの無駄のない日々。そのどこで死んでも構わないって思ってた」

 春は私をギュッと抱きしめて、その耳元で優しく語る。私が憧れていた、完成した人生の終わりを。


「そんな完成した世界に、余分な君が現れたんだ。高圧的で、わがままで、僕の言い分なんかちっとも聞いてくれない君が」


「何それ、好かれる要素が全然ないじゃん」


「そうだね、それが未蕾のすべてだったら、きっと僕は君のことを好きにはならなかったさ。でも、君は僕と同じ死を見つめる人だったから」


「え?」


「未蕾は一度も気づかなかったけど、この屋上は校庭からだってよく見えるんだよ。だから僕は見蕩れたんだ、沈む太陽に照らされた、世界の何よりも美しく輝く君を」

 今、春はなんて言った? 見ていた? 私を? 毎日のように自己陶酔して死にたがりを演じていた私を、春は見てたの?


「最初は、綺麗な世界を瞳に焼き付けたまま飛び降りるんだって思ってたよ。もしそうだとしても、僕は止めようとは思わなかった。いつ死んでも構わないと思っている人間に、そんな資格はないと思ったし」


「ちょっと、気づいてたならもっと早く言ってよ、春」


「言わないよ、だって未蕾は、死にたい以上に生きたいって思ってたんだから。今にも自殺しそうな死にたがりが、そんな終わりは認められないって、沈む太陽を、世界の果てを睨んでた。いつ死んでもいいと思っているところは僕と同じなのに、その最後が決定的に違ってた」


「……春は、って思わないの?」

 なんでか、この問いがとても大事な気がした。


「思わなかったよ。そうでもなきゃ、こんな身体で寒空の下、ひとりで星を見ようなんて思わないさ。でも、だから僕には最初から、未蕾が特別に見えてたんだ」


「特、別?」


「完成した僕の世界に入り込んできた『余分』。同じ生き物、同じ死に行く者なのに考えも、行動も、感じ方さえ違う君。違う目線、違う歩幅、呼吸も、話す速度も、笑い方も、同じことをしているのに何一つ僕とは一致しない未蕾のすべてが、僕には星空のようにきらめいて見えるんだ」


「──────っ」

 言葉を、失った。代わりに春を精いっぱいの力で抱きしめる。私は今、この心からこみ上げる嬉しさを表す言葉を知らないから。


「だからね、未蕾。僕といっぱい違っていてくれてありがとう。僕とまったく違う人でいてくれてありがとう。そんな君だから、僕は好きなんだ」

 涙が、止まらない。

 春の言葉を聞いた瞬間、お父さんの言葉が解凍されるようによみがえる。


『だから、未蕾。お前は自分と他者との違いに敬意を払える人間になりなさい。形だけの平等に当てはめるのではなく、お互いの何が同じで何が違うのか、それを正しく認め、敬える人に』


 滅びそうになる世界を必死に支えながら、限られた時間を割いてお父さんが私にくれた大切な言葉。


『まだ、未蕾の歳ではわからないか。それじゃあこれだけ覚えておくといい。いいか、自分では届かない星を、相手の中に見つけなさい。そうしていれば、いつか未蕾も誰かにとっての星になる日がくる』


 ひどい、親不孝者。覚えておけと言われた言葉すら、世界が終わる瀬戸際まで思い出さなかった。でもお父さん、私、見つけたよ。私じゃ届かない星を、手を伸ばさずにはいられない、たったひとつの星を。


「星、みたい。春は」

 涙を流しながら、私は言葉を絞り出す。


「どんなに手をのばしても、つかめない星」


「そんなことはないよ、未蕾は今、僕をつかんで、抱きしめてる」


「嘘つき、さっきまで死にかけてて、今だって、すぐにでもどこかに消えてしまいそうなのに」

 春を抱きしめながら、彼の鼓動を感じる。本当に弱々しい、儚いリズム。

 太陽が昇るのと同時に終わるこの世界みたい。もうその半分以上が顔を出して、最後の美しい光景を生み出してる。


「嘘じゃ、ないさ。最後に、未蕾は僕をつかまえたよ。世界が終わるのに、僕は生きてみたくなった。君とこれから生きていられたら、どんな未来があったのか、見てみたいよ。生きて、いたい」

 春が私から少し離れる、彼は、泣いてた。どんなに苦しいことがあっても寂しい笑みしか浮かべなかった春が、今は生きたいと言って泣いている。


「死にたく、ないよ未蕾」


 あふれる涙が、春の言葉を証明していた。

 死にたがりの彼に、死にたくないと言わせてみせた。


「やっと、やっとつかまえたよ春。私は星をつかまえた」

 彼が、私と同じ場所に来てくれた。


「未蕾?」


「私はね、春が、好きなの、一緒に生きていたいのっ! 春に、他人事みたいに世界を生きて欲しくない、同じ当事者として、手をつないで歩きたい。また、何度でも、一緒に星が見たい!」

 心にあるモノすべて、この瞬間に吐き出してしまう。

 この胸を焦がす熱を全部、世界にささげる。


「だから、私はこんな終わりは認めない。どんなに綺麗でも、好きな人と一緒でも、それでも私は春と一緒の明日が欲しいの!」

 世界の果て、全ての終わりが迫る中、私は必死に叫び続ける。

 綺麗なんかとは程遠い、ぶざまでみっともなくて、ただ熱いだけの声を。


「ずるいや、未蕾。まだ、そんな顔を隠してたなんて。今までで一番まぶしい、僕との違い。でも今は僕も同じ気持ちだ。僕は、明日も明後日も、ずっとずっと未蕾と一緒の未来が欲しい!」

 そう口にして、春は涙ながらに私に口づけをして、強く、強く抱きしめた。


 太陽が完全に昇る。


 世界が終わる最後の合図。


 世界の果て、私と春の果て、それはこんなにも美しく、愚かな一ページで、

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