第25話 満つる星、満つる天寿②

 静寂の中でパタンと本を閉じる音がする。


 まあもちろん、自分が読んでいる本を自分で閉じただけの話だけど。

 春が用意してくれた本は今日も新鮮で強烈な感動を私に与えてくれた。

 その読後感に浸りながらも、ふと携帯端末で時間を見る。


 時間はお昼の1時過ぎ。つまり外は完全に真っ暗になっている。どうりでお腹が少し空いてきたと思った。私はいつものテーブルの上に置いたバッグへと向かい、そこから携帯食と飲み物を物色する。


 いつものテーブル、つまりは歴史コーナーで本を読み続ける春の姿を後ろから眺められる場所で、私は何も考えないで食事を口に運ぶ。


 まあ、別にこのポジションは春の無防備な姿が見える位置にあるだけで、わざわざ春を眺める必要なんてないんだけど、でもどうしてか私は彼のことを視界の中央に収めていた。


「はあ、なんだかな」

 自分のアホらしさを自覚して、思わずため息が出る。


 私を気にしないで読書に集中する春と、その姿をじっと見つめる私。これじゃまるで私の方が春のことを好きみたいだ。もし他の誰かがこの場を見てたら誤解するに違いない。全然、そんなことないのに。


 にしてもなんだろ春は、何かサプライズでも用意してたんじゃなかったわけ? もうとっくに春が言ったお昼は過ぎてるんですけどっ。


 私は春が持って来た茶色のバッグの中身が気になって気になって仕方なかった。

 ああもう、どうして私の方がこんなにやきもきしないといけないんだろ。


 私の感情は沸騰するように湧きあがり、春を見つめる視線に物理的な熱量が上乗せされたその時。


「あ、」

 まるで何かを思い出したように春が顔を上げる。


「ん? 未蕾がいない、ってそんなとこにいたのか。ねえ未蕾、今何時かわかる?」

 春は私が隣で読書をしていないことに今さら気付いたようで、歴史コーナーから小動物みたいにひょっこりと顔を出して、私に時間を聞いてくる。


「何時って、昼の2時過ぎだけど?」

 口にして自分でもびっくりした。2時過ぎ!?


 私もしかして一時間近くもただぼんやりと春を眺めてたってことになるの?

 さ、さすがにそれは恥ずかしすぎる。


「しまったな、もうそんな時間なんだ。急がなくちゃ」

 ありがたいことに春が私の気持ちの動揺に気付く様子はなく、彼は茶色の大きなバッグを肩に担いでこちらまで歩いてきた。


「それじゃあ未蕾、行こうか」

 春は自然な仕草で私にエスコートの手を差し出してきた。


 いやいや、突然『行こうか』なんて言われても私だって困る。もしかして春は何の説明もなしに私をデートに連れてく気なんだろうか?


 ああもうダメダメだ。断言してもいいけど春に女性を楽しませる才能なんて全然ない。こういうのは、事前に了承を得て、前々からお互いに準備して、そうして、そうして、


「……うん」

 思いのほか素直に春の手を握り返す、自分がいた。


 春は私の手を引いて校舎の方へと歩き出す。

 図書室以外での春の行動を禁止してたんだけど、まあ今はそんなことどうでもいっか。今の私は、春がどこに連れて行こうとしているのか興味があった。


 胸がドキドキして、ワクワクした。


「え~と階段は、あった。う~ん、流石にコレを持って階段を上がるのはそれなりにしんどそうだなぁ」

 一人でブツブツ呟きながら春は彼の目的地だけを目指して進み続ける。

 私の手を、握りながら。


 ちなみに、階段をのぼる時に手を繋いでいるとすごく歩きづらい。でも何でかな、私も春と繋いだ手を離す気分にはどうしてもなれなかった。


 春は階段の途中でしんどいと口にしながらも茶色のバッグは頑なに自分で持ち続け、ひたすらに上階だけを真剣な眼差しで見つめていた。きっとその先に、彼にだけ見える何かが待っているみたいに。


 それは、ちょっとずるい。

 そんな真剣な眼差しをこんな近くで見せないで欲しい。

 だって私はこんなにも、春を好きにならないように我慢しているのに。


「ふ~、着いた。ねえ未蕾、ここの扉って鍵はかかってる?」

 ついに目的に辿り着いたようで、春は一息つく。

 春が連れてきた場所は私にとってはよく見慣れた場所。

 私が毎朝のように開く、屋上の扉の前だった。


「…………かけてない。けど春、まさか」

 この扉を開けるの?

 と視線で伺いを立てる。


「うん、屋上に用があったんだけど、ダメだった?」

 私のアイコンタクトは正確に伝わったみたいだけど、それでも春は意外そうに聞き返してくる。


「ダメ、というか今が何時か分かってる? 外は真っ暗でかなり寒いんですけど」

 たとえ今が真夏であっても昼の2時過ぎと言えば外は氷点下になっていてもおかしくはない時間帯だ。この屋上の扉が二重扉になっているのだって、校舎内への外気温の影響を少なくするためなんだから。


「大丈夫だよ、ちゃんと準備してきたから」

 私の心配をよそに、春は自慢げに茶色い大きなバッグをアピールしてくる。む、その中になにか秘密のアイテムでも入ってるの?


「────じゃあ、春を信じるけど。私、風邪ひくのイヤだからね」

 春の手をギュっと握ってわずかばかりの抵抗の意を示しながら、私はシブシブと彼の提案を了承した。それを春はどのように受け取ったのか、子供みたいに嬉しそうな表情をして屋上の扉を開けていく。


 二重扉の開けて閉めてを繰り返し、最後の扉を開くと触れる外気が急速に私たちの熱を奪う。適温に保たれる室内と比べれば20℃以上の気温の変化。だけどこの一瞬は、その冷たい空気がただひたすらに気持ち良かった。


 まあ、本当に一瞬なんだけど。


「寒っ、やっぱり寒いじゃん春!」

 私はすぐさま抗議の声をお隣のデートプランナーに訴える。


「え、そんなに? 未蕾はこらえ性がないなぁ。多分これくらいなら気温は零度を切ってないと思うよ」

 春は空気の肌触りを確かめるように手を伸ばしてそんな所感を述べてきた。こらえ性がないとははなはだ心外だ。夏服を着て寒空の下に出されたら私の反応が普通だと思う。


「うん、今日は思ったよりも暖かそうで助かる。さすがに吐息も凍るくらいの寒さだと断念せざるをえなかったからね」

 春は私の手を離して、茶色のバッグの中から色々と取り出して何の説明もなしにゴソゴソと準備を始める。ちょっと待って、手が冷たくなるからまだ握っていたかったのに。

 そんな私の気持ちに気づくことなく、春は手慣れた様子で1分もかからずに作業を終えてこっちに振り返った。


「これでいいかな。どうぞ、未蕾」

 こんな寒さの中、それでも落ち着いた様子で春は彼が敷いたシートの上に私を促してきた。

 なんだろ、ここに座れってことかな。私は暖かい屋内がまた一歩遠くなるのを仕方なく受け入れ、春の要望通りにシートの中央付近に座り込む。


 あれ、このシート思ったよりも、

「結構暖かいでしょ? ちゃんと断熱と蓄熱素材を使ってあるから、しばらくは暖かいし熱が切れても地面からの寒さは遮断できるよ」

 そんな講釈を述べながら春は当然のように私の隣に座って何やら渡してきた。

 これは、毛布? 身体に巻いて暖かくしろってことかな?


「私が使っていいってこと? なんか今日の春、説明不足が多いよ」

 ありがたく春からもらった毛布を身体に巻きつけながら、当然のように文句も付け足す私。


「そう、かな。うん、そうかもしれないね。多分、緊張してるんだ」

 なのに、春はそんな恩知らずの私に困ったような笑顔で応えてくれる。


 この毛布も、暖かい。床に敷いているシートと同じ様に断熱と蓄熱効果があるんだと思う。地核熱エネルギーを濫用する原因になった断熱と蓄熱技術の進歩だけどこの瞬間だけは大いなる感謝を捧げてもいいと思うなんて、人間わたしは本当に都合のいい生き物だ。


「これで未蕾の不満も少しは解消できたかな」

 穏やかな顔で春は満足した様子だった。まあ、確かに寒さはマシになったしさっきは私も騒ぎ過ぎだったかもしれないと反省する。でもそれはそれとして毛布は私に渡してきた1枚しかないし、私だけがぬくぬくしているのは申し訳ないんですが。


「ねえ春、コレって春の分はないの?」

 毛布のことを指して春に聞く。


「ああ、いつも1人で使ってたからね。もう1枚用意しておけばよかったよ」

 何でもないことのように春は言う。いや、地面に敷いてあるシートは確かに暖かいけど、何か羽織るモノがなければいくらなんでも身体が冷えるでしょ。


 え~ともしかして、私からを言い出さないといけない流れ? 春に渡された毛布は結構大きくて、まあ二人くらいは包めそうだけど。……よしっ。


「流石に私だけこんな感じで暖かくしてたら気分が悪いわよ。────春も、入ってきたら?」

 私は真正面から春の顔を見れなくて、彼の側の毛布だけ開いて待つ。

 肝心の春は驚いたようで、なかなか返事がこない。


「────────来ないの?」

 だから仕方なく、私は勇気を出して春の目を見てもう1回だけ毛布の中に誘った。

 本当、恥っずかしい! もし春が狙ってこのシチュエーションを作ったんならあとで盛大に怒鳴ってやるからっ。


「ありがと、未蕾は優しいね。実は僕もさすがにちょっと寒いかななんて思ってたとこだったんだ」

 春は、はにかみながら私が空けたスペースに潜りこんで毛布をピッタリと閉じる。


 今の私たちは男女二人がくっついて座って毛布に包まれてるという状況だった。


「────────っ」

 これは、思った以上に恥ずかしい。私たちが触れ合うところから春の体温がすこしずつ伝わってくるのが、気持ちいいような気持ち悪いようなそんな境界線を行ったり来たりする。


 春の表情を横目で確認するけど、彼は上を見上げてるだけで何を考えてるのか全然わかんない。

 っていうか春はいったい何を見上げて、


「──────────────────、」

 釣られて私も空を見上げ、その瞬間あらゆる人間的な言葉を失った。


 空に広がるは満天の星。吸い込まれるような黒い空に、幾万にも及ぶ綺羅星たちが瞬いている。ああ、これもなんてアホさ加減だろ。私はさっきから春にばかり気を取られて、この美しい光景に気づかなかったなんて。


「どうかな未蕾、この時間の星空なんてなかなか見る機会がないだろ?」

 隣にいる春が聞いてきた。彼に触れている身体の部分からも声が振動になって伝わってくる。


「そう言われたって私はこんな星空、映像でしか見たことがなかった」

 海洋都市ではそもそも星はほとんど見えない。かつて夜と呼ばれた時間に私たちは一番強く活動していて、その海洋都市の明るさが星の煌めきを弱々しくするから。


「そっか、見たことがなかったならなおのことここに連れてきて良かったよ」

 私の表情を見て安堵したように春は微笑んでいる。


「春は、よくこんなことをしてるの?」


「まさか、普段はしてないよ。でもたまに調子のいい時にこうやって見上げるんだ。いつもは校庭から見上げるだけだったけど、こうやって屋上から見るとまた違った景色に見えるね」

 キラキラとした瞳で春は星空を見つめる。私はその瞳の中にこそ、本当に煌めく星々が住んでいるように見えた。


「うん、本当に綺麗。ここに、私たちと星たちしかいないみたい」

 寒さも忘れて、そんな詩的なことをつい口にしていた。今この瞬間だけは、そう言葉にするのが自然だと思ったから。


「いい表現だね。未蕾は『夏の大三角』知ってるかな。あれがアルタイル、デネブ、ベガだよ」

 春は嬉しそうに指を天に輝く星にさして謎の三角を描く。

 うん、どれがどれだか私にはさっぱりわからない。


「デネブは白鳥座、アルタイルはわし座、ベガはこと座、それぞれの星座を成す星の一つなんだ。織姫と彦星は聞いたことあるだろ? ベガが織姫、アルタイルが彦星のことなんだってさ」

 星空すらろくに眺めたことのない私に、次々と矢継ぎ早に新しいワードを春は教えてくる。う~ん、ギリギリ織姫と彦星まではわかったかな。


「織姫と彦星は聞いたことある。七夕に付き合ったり別れたりするカップルのことでしょ?」

 おぼろげな記憶を頼りに知っている言葉を並べて、どうか合ってますようにと願って春の顔を見る。おお、どうやら大外れだったみたいでドン引きした顔をしてますよこの人。


「……違うよ未蕾、7月7日の七夕の日にしか会うことのできない夫婦のことだよ。まあ詳しく調べれば諸説出てくるのかもしれないけど、僕が読んだ本にはそう書いてあった」

 春が引いた顔をしたのは一瞬のことで、そこからはやっぱり嬉しそうに彼の持つ知識を語り出す。七夕って7月7日だったんだ。

 もしかするとそれは、昔は知っていて当然の知識だったのかな。四季すら失った最新の今を生きる現代人としては、もう賞味期限がとっくに過ぎた振り返る必要のないイベントなのかもしれないけど。


「でもそっか、昔の出来事をつづった『本』をたくさん読んできた春にとっては知っていて当然のことなんだよね、この星空もあの星座たちも、その伝説も」

 ふと私の心の中で思ったことがつい口に出ていた。


「え? ああ、そうだね。もしかするとこういった知識は今はもう僕みたいな物好きしか持ってないのかもしれない。少なくとも、生きていくにあたっては必要ないことだからさ。みんなで死なないように生きていこうって駆け抜けてきたここ数百年で、余分とされても仕方のないことだ」

 その返事を聞いて私は一瞬後悔した。私が思わず口にした言葉で春が嫌な気持ちになったんじゃないかって。だってせっかく美しい星空を見せて、自慢の知識を語っていたのに水を差されたようなものだし。


 だけど、春はいつもと変わらない穏やかさで空を見上げてる。


「ごめんね、私なんにも知らなくて。……でも春はどうして、」

 その余分かもしれない何かを、知り続けようとするんだろ?


「……うん、多分僕が歴史を好きな理由と一緒だよ。ずっと続いてきたことだから、これからも続くんだって信じられる。いつかあった輝きを、違う時代の誰かが受け取り続ける。誰かが見た輝きを、こうして僕たちが見上げている。紡がれる歴史も、輝く星も、僕にとっては同じように眩しいんだ」

 ほんの少しも疑いもなく、春はその心を言葉にした。自分が見た輝きを、これからも誰かが見つけてくれることを心から信じて。その姿を見て、私は、


「─────かなわないなぁ」

 心からの嘘偽りのない敬意を、小さく口にしていた。

 自分にはない輝きを、春に見た。自分では絶対に辿り着けない尊さを、彼に感じたから。


『だから、未蕾。お前は……』


 その瞬間、いつかのお父さんの言葉が蘇りかけた。あの時、お父さんはなんて続けたんだっけ? きっと今だからこそ思い出さないといけない、大切な言葉だったのに、その記憶にいくら手をのばしてみても届かない。


「くやしい、なぁ。まるで流れ星みたい」

 ほんの一瞬しか願いを受け付けてくれないイジワルな星。


「流れ星? 何か願い事でもあったの?」


「いくらでもあるわよ。世界が終わりませんように、私がいつまでも美人でありますように、あと春が元気でいられますようにってのも追加してあげる。あと、あとはこの時間が……」

 この時間が、いつまでも続きますように。


 お願いです、お願いします。どうか、どうか流れ星みたいに消えないで。


 子供の頃に思い描くような勝手な夢想。ほんの一瞬で駆け抜けてゆくあの星に、ずっと流れ星が消えませんように願おうとした、そんな横着な願いを私は何度だって祈りたい。


「未蕾はいっぱいお願いがあるんだね。いいことだと思うよ、未来に望みを託せるのは、きっと人間だけの特権だ」

 春は懐から取り出した一枚の紙を見つめてそう語る。何も書いてない白紙に見えるけど。


「それ、何?」


「今朝たまたま見つけたんだよ。今の時代、ただの白い紙なんて珍しいからね、宝物にしておこうと思って」

 春はほんとうにただの一枚の紙きれを、何よりも大切な宝物のようにまた胸にしまった。


「そういえば、一応飲み物も用意してたんだけどいる? 寒くならないようにと思って、ホットティーなんだけど」

 話を逸らすように、春はバッグからやや大きめの水筒を取り出してそれぞれのコップにお茶を注ぎだした。注がれると同時に立ち昇る蒸気。どんな外気温であっても容器の中に入れた飲料の温度は変わらない魔法瓶だ。


「用意がいいのね、春」

 魔法瓶の驚くべきところは、この技術が1000年前にはとっくに完成していたこと。多少のクオリティアップがあっても、その本質はずっと変わらない。


「はいどうぞ、未蕾。おばあちゃんに淹れてもらった紅茶をそのまま持ってきたから、味の方は大丈夫だと思うんだけどね」

 春は私に紅茶の入ったコップを渡してくる。受け取った瞬間、その熱がじんわりと私の手を温めていった。


「うん、ありがと」

 ちょっとだけ小声でお礼をして、火傷をしないようにゆっくりと口をつける。少しずつ私の内側を満たしていく淡い熱と鼻腔を通り抜ける心地よい香り。何よりもちょっとだけ加えられた砂糖が、私をただただ幸せにしていった。


「───良かった」

 春はそんな私を優しく眺めながら、自分の紅茶を飲み始める。ああ、またもや温かい飲み物に癒されるなんて、人間はなんて単純で、完成された生き物なんだろ。

 だってきっとこの感覚はずっと変わってなんかいないはず。2000年前だって、4000年前だって、寒いところで温かい飲み物を口にしたら今の私と同じように心がほぐれていくに違いないから。


 それはきっと完成されているということ。もしも多少のクオリティアップがあったとしても、その本質は変わらない。


 春の言葉を借りるなら。これで健康だと笑った彼の言葉を借りるなら、これで人間は完成されてるんだ。どんなに不出来さと愚かさを拭いきれなかったとしても、それでも人は、健康なんだ。


 私たちは永続を約束された生き物ではなく、


 私たちの歴史たびは永遠に残されるものではなかった。

 

 でも、


 だからこそ、


「──────────、」

 少しずつ至福の紅茶で身体と心を暖めながら、そんなとりとめのないことに思い至った。どんな状態であれ、どんな時点であれ、完成しているのならば、それがいつ終わってしまったとしても、『まあいっか』って。


「春、」

「未蕾、」

 私たちは、二人同時にお互いの名前を呼んでいた。


「どうしたの春、何?」

「いや、未蕾の方こそ、先にどうぞ」

 お互いにお互いの顔を穏やかな顔で見つめながら言葉を譲り合う。ああ、これはこれで幸せで、こんな幸せでいいから、ずっと続いてくれたなら、何も言うことはなかったのに。


「いや、春の方が先。だって気になるもん」

 私は少しだけ身体を丸めて精いっぱいの可愛さをアピールする。ちょっと前の私なら恥ずかしさで悶絶するだろうけど、今の私はこれでいいと思える。


「そっか、それじゃあ僕の方から、」

 春は見えるはずのない遠く黒い地平を見つめながら切り出した。


「未蕾は、僕の両親が自殺したことはおばあちゃんから聞いた?」


「…………うん、聞いた。春にそのことは伝えてないけど、多分気付いてるだろうって、言ってたよ」

 私は穏やかな笑みは崩さずに話を聞き続ける。そっか、やっぱりその話だったか。


「そうなんだ。色々気を遣わせちゃったなぁ」

 春の瞳に少しだけ、少しだけ哀しい色がのぞく。


「まあ、お互いに親のことには触れないようにしていたからね」

 哀しい目をしていても、春の穏やかさは崩れない。私も平穏の中で、彼の言葉を待ち続ける。


「両親……父さんと母さんの自殺した理由を、僕はずっと知ろうとしなかった。ずっとそれに近づくことを避けていた。今日それがなんでかわかったよ。僕は、ずっと二人に怒ってたんだ」

 語る春の言葉とは裏腹に、彼の表情は穏やかなまま。


「春が、怒るの?」


「うん、僕だって怒るさ。多分、自分を見てもらえてないって思ってたんだろね。僕の親は未来を、ずっと遠くを見て話す人たちだった。だから、二人の自殺にもきっと意味がある。だけどそれを理解してしまったら、赦さないといけないだろ?」


「そんなこと、ないと思うよ。赦せないことは、誰にだってあるでしょ」


「そう、なんだけどさ。赦してしまいそうになる気がしてね。両親の過去に近づかない、それが僕にとって精いっぱいの抵抗だった。だけど、それも今朝崩されたよ。きっと、サイコロの目が悪かったんだろね」

 春がくやしそうな目をしていた。何があったのかはわからないけど、春ってこんな顔するんだ。でもそれも一瞬だけ、後には静かな優しい瞳だけが残っていた。


 そっか、春はきっと自分のためじゃなくて、私のために話そうとしてるんだ。


「それで、さ。僕は父さんと母さんの書斎に入ることになってね。未蕾には話してなかったけど、僕の親は夫婦で海洋都市の都市エンジンのエンジニアをしていたんだ」


「うん、春のお祖母ちゃんからちょっとだけ聞いたよ」

 海洋都市のエンジニア。今の時代においてエンジニアは未来演算者とも呼ばれている。運命死演算フェイトシステムを駆使して海洋都市における利用資源を把握し、利用実態を調査し、必要資源を捻出する仕事だ。


 つまり、人類われわれはどこまで走り続けられるのかっていう命題を研究するのがエンジニアの仕事だった。人間たちの限界を模索し、先の、その先を目指して。

 だから、

「まあ、その、そんな仕事をしてたからさ、真っ先に知ってしまったみたいなんだよね。僕らの、人間の限界点を」

 悲壮感は漂わせず、ただ目にした事実のみを春は告げてくれる。


 そう、知ってしまう。海洋都市にわずかに残された人類、その未来を可能な限り先延ばしにしようと頑張っていれば、いつかは辿り着く。私たちの限界点、『いったいいつ、人類が終わるのか』ってことに。


「父さんと母さんは優秀なエンジニアだったらしくてね、世界中の誰よりも早くその限界に気付いた」

 気づいた、と春は言ったけど、春の両親がしたのは『限界を決定づけた』と言えるほど強烈なものだった。でも、うん、春はそれを知らなくていい。


 そして春の両親はその限界、『世界の果て』をしかるべき機関に正式な研究、演算結果として発表し、そのあとすぐに自殺した。

 当然、その発表は物凄いバッシングを受けた。そんなはずがない、そんな簡単に人類が終わるわけがないと誰もが否定した。そうして世界中の未来演算者エンジニアたちが必死に研究して、演算して、何度も何度も否定しようとしてついに否定できなくて、今年の始めに諦めたように一般の人々に公開した。1年以内に、この世界が終わるって。


「その辺りの詳しいことは僕には分からないけど、はっきりしているのはいつか滅びる未来を知って、2人は自殺を選んだってこと。僕に理解できたのはその程度のことと、」

 春は今朝のわずかな時間で手に入れた情報を私に伝えてくれる。伝えようとしてくれる。春にとって、両親の死もその理由も到底納得できるものじゃないはずなのに。


「日付が、残されてたんだよ。いつ、人類が限界を迎えるかっていう正確な日付。え~とね、それがさ、」

 ここにきて春は口ごもる。私を傷つけないように、悲しませないように。


 うん、だったら。


 この優しい人を、優しい人のままでいさせないと。


「……今日、なんでしょ?」

 私は先回りして、春に告げた。


「あ、え、何で? 知ってた?」

 キョトンとした顔で春はこちらを見ていた。その顔を見られただけで、勇気を出して口にして良かったと思う。


「春のお家に泊まった日があったでしょ。あれからずっと、家にいる時間を使って調べてたの。なんで春をおいてご両親が自殺したのかを。春のおばあちゃんから聞いてお二人がエンジニアだったってことはわかったし。常月って苗字から、すぐにご両親の情報には行きついたよ」

 自分でやっておきながら情報化社会は恐ろしいものだとつくづく思う。ほんの少しのとっかかりがあるだけで、個人情報があっさりと他人に知られてしまうんだから。


「言ってなかったけど、私のお父さんは都市長をしてるから。その関係で優秀な都市エンジニアの人も結構ウチを出入りするの。まあ都市運営を担う都市長も、半分はエンジニアみたいなものだし。だから、私、春のご両親に会ったことある」

 それは私が9歳くらいの頃、どこを見て話しているのか、どこを向いて語っているのか分からない不思議な雰囲気の夫婦だったからとくに印象に残っていた。


 春と似た穏やかな雰囲気の男の人に、春とそっくりの整った目鼻立ちなのに冷たい雰囲気を感じる女の人。今なら分かる、あの人たちは遠く、遠く、自分たちのいない未来を見据えながら言葉を重ねていたことを。


「不思議な、人たちだったよ」

 私はちょっとだけ、春の両親への印象を濁す。


「言葉を選んでくれてありがとう未蕾。でも大丈夫、変な親だなって、ずっと思ってたから」

 でも春にはそれすら伝わってしまうみたいだ。


「仕方ないよ、普通の人じゃ、みんなの未来を思い描けない」


「でもその結果が、今日なんだろ?」

 春は、彼の両親に対しては常に辛辣だった。


「うん、私も、春のご両親について調べてるうちにそこにいきついたの。今年の8月31日、日が昇っていくのと一緒に、私たちは滅亡するんだって」

 昨日の夜に言葉を思い出す。


「日の出の時間なんだ? 父さん、そこまでは書いてくれてなかったな」

 ちょっとだけ恨みがましい春の声。


「だから私、春にこのことをどう切り出そうか迷ってた。でも、まさか春も同じタイミングでこのことを知っちゃってたなんて思わなかった」

 これを運命と言うには、あまりにも意地悪過ぎる。


「うん、まあ、未蕾が知っていたなら、良かったんだ」

 春は落ち着いた様子で再び紅茶をコップに注ぎ、自然な仕草で私にもおかわりを用意してくれた。


「春は気にならないの、その、ご両親のこと」


「気にならないと言えばウソだし、でも気にするほどのことかと言われたら、そうでもないのかな。ちゃんと理由があった、今はそれだけでいいよ」

 凪のような心で、春は紅茶を口に運ぶ。そのあまりの自然さに、私は周りを包む寒さすら忘れそうだった。


「そう。だったら、もしも明日が来たら教えてあげる」

 私もそれ以外に言える言葉が見つからず、仕方なく春から貰った紅茶を小さく啜った。



 寒空の下、長い沈黙が私たちを見つめていた。



 1分だって無駄な時間はないのに、言葉を探すよりも、ただ2人でいるだけの時間を私たちは選んだ。なんて贅沢な時間の使い方、資源の贅沢な消費を良しとした実に人間らしい選択だった。


 だけどその消費も、永遠というわけにもいかないのが現実だ。

 ここに来てからどれだけの時間経ったのか、私たちの熱量も少しずつ冷めていく。


「ねえ、春。世界の終わりって、どんなものだと思う?」

 ふと、私の口からもれ出た疑問。

 違うかな、これはただの質問だ。春の思い描く『終わり』を、私が聞いてみたかっただけ。


「う~ん、どうだろうね。人類の滅亡として考えると食料資源の枯渇とかだろうけど、流石の僕らも明日食べるモノに困るという状況じゃない。この最後の日にあっても世界が穏やかであることを考えると、この星の熱的死が現実的、なのかな」


「熱的死?」

 また知らない単語が春の口から出てきた。


「昔々のお伽噺だよ。宇宙が何もないところから始まったのなら、きっと最後は何もないところに行きつくだろうという言葉遊び的な空想。まあつまりは宇宙から全ての熱が失われて何の活動もない『死』を迎える日がいつかくるってことだね。だけど僕が言ったのはそこまで大袈裟なことじゃなくて、この地球が完全に熱を失うのかもってこと」

 なるほど。春の言葉全てを飲み込めたわけじゃないけど、理解できる部分もあった。つまりはこの大地、地球そのものの熱が失われるってとこ。

 地熱と呼ばれるエネルギーは随分と前に相当量が人類に消費されて結果として地殻の収縮、つまりは地球の小型化が進行した。

 実はその地熱の喪失はそれからもずっと続いていて、まさに本日ゼロになると言われたら、それはもう『地球さん、これまでお疲れさまでした』と言うほかない。


「あとは地球が太陽の公転から外れて放り出されるとかね。熱源を失えば僕ら生命はこの宇宙で一瞬にして凍結する。────まあ驚かせるようなことを言ったけど、唐突な終わりがどんなモノかって考えてみても僕から出てくる妄想はこの程度かな」

 春はそう言って笑いながら、自身の言葉を妄想と片付けた。

 そう、確かにこれは妄想だ。空がいつか落ちてきてみんな一緒に死んでしまうかもしれないなんて心配するようなただの杞憂。


 実際にどんな終わりが来るのか、私は知らない。どんなに調べたところでその答えは見つからなかった。

 ともあれ、春の両親が証明した終末を名だたる未来演算者エンジニアたちはどんなに時間をかけても否定することができなかった。


「う~ん、昨日までは具体的な日付は知らなかったし、あともう少しくらいは続いてくれると思ってたのになぁ」

 本当に残念そうな言葉が、私の口から自然と出ていた。


 本当に、残念でくやしくてたまらない。

 もっとやりたいことがいっぱいあった。もっと見たい景色みらいがたくさんあったから。


 春と、一緒に。


「最後の日か。知らずにその日を迎えることと、知って迎えること、どっちが幸せなのかは、確かに難しいね」

 柔らかい春の声。そのどちらの可能性も、春には遠い彼岸のことなんだと思う。いつ来るか分からない『死』を明日のことように受け入れてきた春にとっては。


「春は、何かなかったの? 世界の終わりの日にやってみたいこと」

 終わりをそういうものだと受け入れ、私は思わず定番の質問をしていた。まあ色々あると思う、好き放題にお金を使いたいとか、美味しいモノをこれでもかというほど食べてみたいとか、家族と穏やかに過ごしたいとか、そのちょっと、恋人とことをしてみたいとか。


「あるよ。というか叶った、好きな人と一緒に星空を見る。うん、そう考えると僕は幸せ者だね。未蕾は? 何かなかったの?」

 春は本当に当然のことのように、私の顔から火が出そうな言葉を恥じらいもなく口にした。


 空を見上げると星空は淡く消えかけていて。少しずつ、陽が昇ろうとしていた。終わりが、近づいてくる。


 そっか、春のやりたいことは叶っちゃってたのか。まあ、その? 春が幸せだって言うのなら、私から文句はないですけど。


「私、かぁ。うん、誰にも知られたくはなかったけど、どうにも叶いそうになさそうだし言っちゃおうかな。私ね、朝陽を眺めながら死にたいと思ってたの。世界の終わりの日にたった一人で綺麗な朝陽を眺めながら死んでいく。なんかそれ、綺麗でしょ? 私の人生が綺麗なモノとして終わるならそれでいいな、って」

 誰にも話す予定のなかった心の内を、以前なら一番聞かせたくなかった少年に口にする。だって今はただ、春にだけは知っていて欲しいと思ってしまったから。


「……そうか、そうだったんだね。そんな気持ちで未蕾はいつもここにいたんだ。どうする? 僕が邪魔なら席を外す──」


「バカなこと言わないで春! こんなときに、私を1人にしないでよ。1人に、なろうとしないでよ」

 春の言葉を私は遮る。私の思いを尊重しようとしてくれた春の優しさは好きだ。でも、その鈍感さは、嫌いだ。


 春の手を強く掴む。ここから、絶対にどこにもいかないように。


「でも、最後の日にしたいことじゃなかったの?」

 鈍感な春は、まるで私が無理をしているんじゃないかと心配するように私の顔を覗きこむ。


「そういうのは別に、想像するだけで良くて叶わなくてもいいものがほとんどでしょ。私はちょっと意外だったよ。春の望みがロマンチック過ぎて。ふつうもっとあるでしょ、こう、なんていうか、野生っぽいやつ」


「野生、っぽい?」

 どうも私の表現が婉曲的すぎて春には何一つ伝わらないらしい。ああ、もうこれじゃまるで、私の方が獣みたい。


「いいから、目をつぶって黙ってなさいよ」

 私のちょっと強い語気の言葉に、春は素直に目をつぶる。ああ、その素直さも、純朴さも、今はもうその全部が、


「──────────、」

 少しずつ淡い蒼に移ろう空の下、私は春の唇を強く奪った。

 抵抗は、ない。ただ春は目を見開いて驚いただけ。


「未、蕾?」

 唇が離れて、ようやく春は発言の自由を得る。


「ごめん。だけど、死ぬ前に一度は、キスくらいしておきたいでしょ?」

 聞き様よっては、一度もキスをしたことがない少年に私がキスを施したみたいに聞こえたかもしれない。まあでも私だって初めてのことだから、多少の動揺は許して欲しい。


「それとも、嬉しくなかった?」


「いや嬉し、かったよ? というかビックリだ。未蕾はそういうの、興味ないとばかり」

 はぁ!? 女の子舐めないで欲しい。


「勝手に、決めないで。春は、こう、ないの? 内側から、なんか、こう」

 湧き上がるような、目の前の相手の全部が欲しくなる、衝動が。


「────あるよ、もちろん。うん、そうだね。僕は、未蕾が欲しい」

 優しい真剣な眼差しで、春は私を抱きしめた。

 同時に私たちを包んでいた毛布がはだける。でももう外の空気はそんなに寒くない。


 少し、春の熱が、暖かい。


「未蕾、」

 ああ、春からキスをしに来たのがわかり、思わず目をつぶる。遅れてくる唇の柔らかい感触。春の少し冷えた唇が、少しずつ熱を帯びる。


 何の経験もない二人が、そんな二人なりにお互いの気持ちを確かめ合う。


 春のシャツを掴む指に力が入り、彼も私を強く抱きしめた。


 そんな、終わりの刹那の永遠が、ずっと続いて欲しいと思っていたのに。


 春の腕から、力が抜けるのを感じる。

 私は脱力した春の身体を支えきれず、彼は力なくシートに倒れ込む。


 白い頬、青く染まりゆく唇、春の心臓は、止まっていた。

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