第20話 ティア・レイン③

 家に、帰り着く。


 あれから、私は春と言葉を交わさず、夕方になっても降り続ける少し冷たい雨の中を帰っていった。


 雨はドシャ降りというほどでもなかったけど、さすがに家に辿り着く頃には私はずぶ濡れになっていた。玄関のドアを開けて中に入り、ぐっしょりと濡れた靴を脱ごうとしたところで声がかかる。


「未蕾?」

 顔を上げると、そこにいたのはお母さんだった。


「あ、お母さん。……ただいま」

 いまだ気持ちの晴れない私は、どんな顔をしたらいいのかわからないまま帰宅の挨拶をする。


 だけど、おかえりって返事は来ることなく、

「未蕾!!」

 私は、ただひたすらに強く抱きしめられていた。


 びしょ濡れの私に構うことなく、ただ強く、強く。


「お、お母さん? どうしたの?」


「どうしたのじゃないでしょ未蕾! 心配したに決まってるじゃない!」

 私を抱きしめるお母さんは、泣いていた。

 私の心をさっきまでとは別の強い動揺が襲う。まさか、お母さんがこんな反応をするなんて思いもしなかった。


「お母さん、昨日電話したでしょ。その、え~と、体調を崩した友達を家に送って、そのまま泊めてもらうことになったって」


「聞いたわよ。聞いたけど、心配になるでしょ!? 本当に、未蕾がちゃんと戻ってくるのかって、心配だったの」

 私を抱きしめるお母さんの腕は、小さくカタカタと震えていた。


「こんな、時代だから。未蕾が、本当に戻ってくるのかって、怖かったの」

 小さくもれる、お母さんの本音。

 私は手にしていた荷物から手を離し、お母さんを強く抱きしめ返していた。


「ごめんね、お母さん。不安にさせちゃったね。でも大丈夫だよ、私はちゃんと帰ってきたよ」

 優しく、お母さんの背中をさする。少し、痩せたように感じた。


「うん、うん。……ごめんね未蕾、取り乱しちゃって」

 少し落ち着いたのか、お母さんは顔を上げて涙を拭った。


 私の大好きな、世界で一番美人な顔だった。

 私の目指す……目指したかった世界で一番の人だった。


「大丈夫だよお母さん。私は、大丈夫、だから」

 気持ちを振り絞って、せいいっぱいの笑顔をここに作る。けど、

「本当に? 大丈夫そうには見えないわよ、未蕾」

 この人を誤魔化すことは、できなかったみたい。


「お母さんだって、人のこと言えないじゃん。全然大丈夫そうに見えないよ」


「そう、よね。お互い様だったわ」

 少しだけ疲れた笑い。でも、私はもっとひどい時期を知ってるから、お母さんが笑えていることそのものに驚いた。


「少し、元気が出たの?」


「まさか、毎朝海に駆け出す一人娘がいるから、気が気でないわよ」

 冗談めいて、さっきよりも自然な笑みがお母さんからこぼれる。


「それは、ごめんなさい。……でも私、止めないから」


「止めないわよ、今さら。友達が、いるんでしょ? 未蕾が一人じゃないなら、私はそれでいい」


「ありがと、お母さん。それで、お父さんは、どうしてるの?」

 私は今まで深く追求できずにいたことを、漠然とした質問でお母さんに聞いていた。


「一時期よりは、だいぶ落ち着いていると思うわ。最近は昔の写真を引っ張り出して、色んなことを二人で思い出してるの。私たちが出会った頃のことや、未蕾が生まれた時のことを」

 お母さんは少しだけ寂しそうに笑って答えてくれた。


 海洋都市の都市長を務める私のお父さんは、今年の春からこの家に引きこもっている。世界の終わりが発表されたその日、糸が切れるように生きる気力を失ってしまった。

 今は自宅療養中でお母さんが看てるけど、春のお祖母ちゃんの話を思い出すと都市長のお父さんですら医学的治療の対象ではないのかもしれない。


 だって、都市長がいなくたって、この海洋都市は十全に回っている。それは私のお父さんだけじゃない、今現在海洋都市に住む九割以上の人たちが精神的な不調で本来の立場から離れている。公職に就く人も、私たち学生も、誰も彼も以前のようなまともな活動を行なえていない。

 それでも、この海洋都市は滞りなく機能する。緊急時用に備えていた人工知能AIプログラムが都市機能を支えているから。


 発展性を度外視して維持、それか緩やかな衰退を前提にすればほとんどあらゆる物事は人工知能AIで代用可能だ。都市長という役割すら、代替でいいくらいに。


 今は、人工知能化できなかったライフライン、一部医療や救急救命、治安維持組織だけがギリギリ最低ラインで生きているだけ。その人たちは都市災害クラスの緊急時でも問題なく動けるようにメンタル強化プログラムを受けるそうだけど、どんな鋼の心臓に鍛えられるんだろ。


 それに、そのライフラインが必要なのも、人間が生きている間だけ。

 もしも仮に、私たちの住む海洋都市に住む人間が絶滅したとしても、この都市は変わりなく機能し続ける。


 だから、お父さんが働けなくなった時、それを責める声は上がらなかった。お父さんがこの未来を回避したくて身を粉にして働いていたことは誰に目にも明らかで、周りの都市が次々と沈黙する中で、この現実を個人のせいにできるだけの気力が残っている人は誰もいなかった。


 だけど、私は、今のそんなお父さんにどう関わればいいかわからなかった。尊敬するお父さんの、心折れた姿を直視することが、私にはできなかったから。


「そう、なんだね。お父さんが、少しは良くなってるなら、よかった」

 何がいいのかよくわからないまま、私の口からは自動音声のように言葉が出てくる。


「そうね、きっといいことよ。未蕾も、そのままだと風邪をひくわ。シャワーを浴びてきなさい。暖かいものを用意しておくから」

 お母さんに促されて私は浴室へ行き、冷えた身体を熱いシャワーで温める。


 人間の心とは不思議なもので、ハードである身体が調子を取り戻すことで気持ちも少しだけ前向きになってきた。

 浴室から出ると用意されていたパジャマに着替えて、長い髪をタオルで拭きながらリビングへと向かう。そこにはお母さんが淹れたての紅茶を用意して待ってくれていた。


 いや、もしかしたら待ち構えていたと言った方が正しいかもしれない。

「未蕾ちゃん」

 ソファに座っているお母さんは優しい声音で隣のスペースをポンポンと叩いて私にそこに座るように促してきた。


 ちょっとだけ嫌な予感がしたけど、私は恐る恐るそこに座って用意されていた紅茶に口をつける。

 仄かな香りとともに紅茶の熱が私の内側を駆け抜けていく。

 外側と内側が熱で満たされたことで、私の心もここに来てようやく落ち着きを取り戻した。


 その時、

「未蕾、好きな人ができたの?」

 気の緩んだ私に、お母さんから予想していなかった質問が飛んできた。


「けほっ、けほ。……何お母さんいきなり」


「だって、最近は毎日朝早く出かけて夕方まで帰ってこないし、あげくの果てに男の子の家にお泊りでしょ? そりゃ何かあったって思うじゃない」

 お母さんは楽しそうな笑みを浮かべながら私に流し目を送ってくる。


「ちょ、別に春はそういうんじゃ……」

 あ、しまった。


「へぇ、『春』くんって言うんだ」

 お母さんの笑みはより一層深みを増していた。


「いや、違うからお母さん。春とは別に付き合ってるとかじゃないからね、勘違いしないで」


「でも、告白とかはされたんでしょ?」


「えっ? 何でわかるの? ……あ、」

 しまった、どうして私はお母さんに対してはこう防御が甘くなるんだろ。

 お母さんは私の心のツボを心得ているかのように、ピンポイントな質問で情報を引き出していく。


「そりゃ分かるわよ。未蕾ちゃんは私に似て美人だし、それにほどよくひねくれてるからね。男の子はそういうめんどくさい子を好きになっちゃうんだから」

 とても優しい声音でお母さんは解析してくる。私はすぐにでも逃げ出したいけど、ソファに置いた私の手の上に、お母さんはさらに手を重ねてきていて逃がす気が全然ない。


「それで、未蕾ちゃんはその男の子になんて返事したの?」


「……最初に好きって言われた時は、私は好きじゃないって言った。もう一度好きって言われた時は、私はちゃんと答えられなかった」


「そうなんだ、どうして? その子のことが、好きなんじゃないの?」


「そんなの、考えたくない。だって、意味がないじゃん。私が告白を受け入れても、その先に続くものは何もないんだよっ」

 私は、ちょっとだけ声を荒げていた。でもお母さんは、それを静かに聞いている。


「そう、……そっか」

 私の言葉に納得したのか、お母さんはゆっくりと自分のカップに手を伸ばして紅茶をそっと口にした。


「嫌な、時代ね。子供たちが普通に恋をすることも、もうできないのね」


「別に、私は気にしてないから」

 これは本当。気にしてないから、気にしなくて済むように春の告白から目を背け続けるだけ。


「私は、気にするわよ。ごめんね未蕾。こんな世界に、あなたを産んでしまっ……」


「お母さん!」

 お母さんの言葉を全力で止める。この優しいお母さんの確かな後悔。その苦悩に、私も共感してしまうから。


「……それは、言わない約束でしょ?」

 お母さんの手に私の手を添え、できるだけの優しい笑顔を向ける。


 私は、ちゃんと笑えているかな?


 悲し気な目元になっていないかな?


「未蕾。ごめんね、ごめんっ」

 結局、私は上手く笑えていなかったみたいだ。


 お母さんは私を強く抱きしめ、静かに泣いた。


 ああ、やっぱりソフト身体ハードの関係は深刻だ。


 だって、どんなに人間ソフトが明るく振る舞おうとしたところで、地球ハードが冷えきってしまえば、とても笑うことなんてできないんだから。

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