第19話 ティア・レイン②

 響く静寂を、包むような雨音。

 どうやら外は雨が降り出したらしい。


 広い図書室の中、たった二人しかいない私たちは、まるで世界に取り残されたみたい。

 ううん、その二人っていうのだって、私は今まさに置いていかれて一人ぼっちにされるところだった。


「────あれ、未蕾、何でここに?」

 春が目を覚ます……いや、意識を取り戻した。


「あ、もしかしてこれって僕、膝まくらされてる?」

 春は頭の周りの違和感に気付いたのか、私にそんなことを聞いてきた。


「別に、その辺の本でも良かったけど。今や本は貴重品だから、そんなモノをアナタの枕にするのはもったいないと思っただけよ」


「あはは、それはありがたいや。僕も硬い本より柔らかい太ももの方が、イタッ」

 寝言を抜かす春の頭を小突く。柔らかいとか太いとか、セクハラもいいところだ。


「あれ? 何かスースーするんだけど。僕って今、服を着てる?」

 何かに気付いたのか、春は自分の腹部や胸部をさすり始めた。

 私から見たら実に間抜けな光景だ。


 だって春は今、裸なんだから。


 あ、間違えた。半裸が正解だ。

 いやいや、それも言い過ぎかな。正確に言うと、ワイシャツのボタンが全部外れて大きく服がはだけ、胸とお腹が丸見えというだけ。


 脂肪のほとんど付いてない春の肉体は、まるで若い女性向けのアイドル写真のような耽美さがあった。

 でもまあそれよりも、胸の中心に刻まれた痛々しい手術の傷跡の方に私はどうしても目が行ってしまうけど。


「え、本当になんでこんな状況なのさ? え~と、もしかすると朝チュンかな?」

 春は自分の異常事態に気付きながらも意外と冷静なのか、私の知らない単語を口にしてきた。


「何よ、朝チュンって?」


「知らないかな、昔の物語やドラマでよく使われていたっていう表現技法だよ。直接的な性表現を用いないで、翌朝一緒に寝ている男女と外から聞こえるスズメの鳴き声でそういうことがあったって暗に示すのさ」

 なるほどね、本の虫なだけあってさすがに博識だ。でも、

「残念だったわね、スズメは10年前に絶滅したでしょ」

 いわゆるジェネレーションギャップってやつなのかもしれない。かつては当たり前だった表現だって、時間が経つことで意味を失っていく。


「あ、そうだったっけ? じゃああれだ、『三千世界の鴉を殺し……』ってやつならどう?」

 何がどうかは知らないけど、春はキラキラした瞳でこっちを見てきた。別に、大喜利をここでやってるわけじゃないんだけど。


「それも知らないわ。どういう意味?」


「三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい、だったかな。昔の、それこそ新撰組がいた頃の歌らしいよ。朝を告げるカラスがみんな死んでしまえば、あなたとずっと一緒に寝ていられるのに、っていう男女の歌さ。ロマンチックだろ?」


「そうね、ロマンチックかもね。そのカラスが一昨年本当に絶滅していなかったらだけど」


「え、カラスって絶滅したの?」

 流石にその事実は驚愕だったのか、春がドン引きした顔をしている。


「ニュースくらい見なさいよ。もう何もかもが終わりに向かう時代だもの、色々絶滅したわよ。ついには人間もその絶滅へのカウントダウンが始まってるわけだし。さながら三千世界ならぬ散前世界ね」


「うわぁ、それを聞くと世界の終わりって現実味が増して嫌だね。それはそうと結局どうして僕は半裸になってるんだっけ?」

 この会話の間もずっと膝枕の春が聞いてくる。

 女子高生の太ももを枕にすることを平然と受け入れているあたり大物なのかも。


「春が倒れてたから、……色々したのよ」


「────色々って?」


「だから色々。とりあえず心臓と呼吸が止まっているか分からないから服を脱がせて耳を当てたの。こういうの、初めてなんだから上手くできてなくても文句言わないでよ」


「文句なんてないよ、ありがと未蕾。でも意外だった、こういうのに心得があったんだね」


「…………別に、最近たまたま人命救助の勉強をする機会があっただけ」

 私は春の顔をまともに見ることができずに、まったく関係ない方へ顔をそむける。


 そう、たまたま。

 たまたま私が朝一番に手にとったのが『すぐに実践できる人命救助』で、たまたまそれを熟読してただけの話。


 ただ、それを実践する機会はできることならずっと来て欲しくなかったけど。


「なら、その偶然に感謝だね。おかげで『好きな人』とこんなに近くで話ができる。手を伸ばせば、触れ合える」

 春は本当にごく自然な仕草で手を伸ばし、その指が私の頬に触れる。少しひんやりとした、女の人のように細い指だった。


「……なんで?」

 思わず言葉がこぼれた。


「あ、ごめん。つい触っちゃった」

 反射的に春は謝る。

 でもそういうことじゃなくて、

「なんで春は『好き』って言えるの?」

 ずっと気にしないようにしていた疑問がまた顔をのぞかせる。


「なんで、か。難しいね。命を助けてもらったからかな」

 春は伸ばしていた手を自分の左胸に当てて、その心臓を握り締める仕草をする。


「春を助けたのはさっきでしょ。それに私が聞きたいのはなんで好きかってことじゃなくて、なんで好きって言えるのかってこと。だって、私がなんて答えたとしても、その先には何もないんだよっ?」

 ポタ、ポタと突然の雨が春を濡らした。

 春は、いきなり泣き出したわたしを見ながら、ただそれを何も言わずに受け入れている。


「私がもし好きだって答えてもその先に当たり前の楽しい日々なんかなくて、私が嫌いって答えたら、そのツラい気持ちのまま死んじゃうかもしれないんだよっ? なんで、なんで春はそれなのに『好き』って言えるの?」

 私は今、自分がどんな顔をしているのかわからない。わかりたくもない。


「そっか、そこまでは考えてなかったな。うん、確かにそれはツラいことかもしれない。苦しいことかもしれない。……でも僕は、それでも未蕾が好きだよ」

 何の迷いもない言葉が、私に向けて放たれる。


「だから! それはなんで!?」

 つい私はヒステリックな声をあげていた。


 でも、それでも春は穏やかで。

「それは、苦しいことから逃げる為に生きているわけじゃないから。たとえもし本当に明日が苦しい一日になるのだとしても、僕は『今』にしか生きていないから」

 真っ直ぐな、瞳だった。


 嘘偽りのない、言葉だった。


 私が今持っている迷いや葛藤を、春はとっくの昔に飲み込んで消化していた。


 だから、迷わない。


 だから、私が感じているこの恐怖を理解してくれない。


「もう、やだ。強すぎるよ春は。こんなに、弱いのに、どうして、強いの? ムリだよ。私にはムリなの。春の言葉に、春の気持ちに応えてあげられない。だって私は怖いもん。好きだって答えた次の日に春が死ぬかもしれないことが。嫌いって言った次の日に、この世界が終わるかもしれないのが」

 私の無様さを、私の弱さを春は何も言わずに見つめている。


 その強さが、その優しさが私にはただ苦しい。


「だから、ムリだよ。私は春の気持ちに、何にも返してあげられない」


 雨は、やまない。


 とめどなく、ただ静かに忘れ去られた春を濡らしていた。

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