第16話 ダイス・ライフ②
「おはよ、未蕾。情けない所を見せちゃったね」
少し薄暗い部屋の中、ベッドから身体を半分だけ起こしていつもと変わらない笑顔で春は入室した私を迎え入れた。
いつもと変わらない、いつ消え入ってもおかしくなさそうな、儚げな笑顔で。
「別に、あんなのどうってことないわよ。情けないっていうなら春は普段から情けないんだし」
私にできる精一杯の強がり、春のお祖母ちゃんから聞いた話をできるだけ頭から外していつも通りの会話を心掛ける。
「それは流石に傷つくなぁ。はは、未蕾はいつも僕に厳しいや。───それで、おばあちゃんからあらかたのことは聞いちゃった感じかな?」
春は疑問ではなく、確信をもってそう聞いてきた。
私の心の中の動揺が顔に出ていたのか、それとも声に乗っていたのか、どっちにしても春をごまかすのは無理みたいだった。
「春の身体のことについて少しだけ聞いた。手術とかは春が10歳の時に成功していて、その時に余命一年だって言われたって。でもそれってどういうこと? 春の身体はもう治っているってことでいいの?」
私のそんな都合の良い解釈に春は困ったように笑った。
「うん、治っているってのは正しいよ。……余命一年っていうのも」
困った笑顔のまま、春はベッドの側のテーブルに置いてあったサイコロを手に取る。
なんでここにサイコロが、とも思ったけど春はとても自然な仕草でテーブルの上にサイコロを転がしていた。
出た目は、6。
「未蕾、余命ってどういうモノだと思ってる? 余命一年と残りの寿命が1年は意味が違う。医者は未来が見えるわけでも神様ってわけでもないんだから。余命っていうのは同じ症状の人たちがどの程度長生きしたかってデータと経験則からの逆算でしかない。例えば6人の内の5人が1年以内に死んでいるデータがもしあったら、余命は1年って宣告したくなるだろ?」
春は再びサイコロをとって転がす。
「なら、春はそのデータには当てはまらなかったんでしょ? だから今もこうして生きてる」
また、6が出た。
「ただ運が良かったんだよ。6人の内5人は心臓が止まって死んでいるところを運良くこの心臓は止まらなかった、それだけなんだ。未蕾、2回連続でサイコロで6が出る確率ってどのくらいだと思う?」
そう言って春はまた、ためらうことなくサイコロを手に取る。
「え、そんなの36分の1でしょ?」
中学を卒業していれば考えるまでもない。
「そうだね。最初のひと振りは10歳の時に僕の心臓が止まらなかった確率って思ってくれたらいい。2回目が11歳の僕、それでこれが12歳の僕」
春はまたサイコロを振る。その淡々とした行為を見て私はどうしてか怖くて泣きそうになった。
コロコロと転がり、出たサイコロの目は、6。
「お、珍しい。3回連続で出ることは珍しいんだよ」
春は静かに笑って私を見る。
それは珍しいだろう。3回連続なら216分の1だ。でもちょっと待って。
私の言い様のない焦りをよそに、春はまたサイコロを手に取る。
「それじゃ、これが13歳の僕だ」
ためらうことなくサイコロを振ろうとする春の手を、私はギュッと掴んで止めていた。
「やめて、春。……わかったから」
「────良かった、止めてもらえて。実は4回連続で出たことはないんだ」
変わらない笑顔のまま、春はそっとサイコロをテーブルに置く。その置かれたサイコロの目からすら、私は必死に目をそらしていた。
わかった。
わかって、しまった。
なんで春がここにサイコロを置いているのか。
春がどんな気持ちで今までを生きてきたのか。
「未蕾、僕はいつ死んだっておかしくない。僕が今を生きているのもたまたま、運良く8回連続で6が出たに過ぎないんだ」
春は、それでも笑っていた。もう笑うしかないみたいに。
8回連続でサイコロを振って同じ数字が出る確率、パッとは計算できないけどそれが途方もない数字であることはわかる。現実的な数字でないことも。
もちろん人の生き死になんて確率で語れるものじゃない。
けど春はそのくらいの気持ちと覚悟で生きてきたんだ。いつちぎれてもおかしくない細い糸をたぐりよせるように、1歩進むごとに周りの足場が崩れて狭くなる道の上を歩くように。
そして春の目が語っている。
もう、次に6の目が出ることはないと。
自分の人生に、ここから先の道は用意されていないって。
「わかったわ、春がなんでそんなに落ち着いていられるのか。世界がもう終わるって知っても、何も変わらずに普通にしてられるのか」
「うん、そうだね。もし明日世界が終わったとしても、僕にとっては普通の当たり前のことに過ぎないから」
目を細めて春は笑う。それは、少し悲しそうな笑いだった。
「ゴメン、って言っちゃダメなんだよね。でも言わせてゴメンなさいって。私、春にひどいこと言った」
「ひどいこと?」
私の言葉に春は心当たりがないと首をかしげる。
「私も余命一年だなんて。春には、春にだけは言っちゃいけなかったのに」
「ああ、そのことか。あの時は驚いたよ。未蕾もどこか身体が悪いのかなって。でもそうじゃなかった。僕はそのことの方が嬉しいよ。世界の残り時間についてはなんて言ったらいいかわからないけどさ」
軽く頭をかきながら春は答える。
自分と同じ不幸を持つ人がいなくて良かったと、この少年は心の底からそれが嬉しいと言った。
「だから、未蕾が謝る必要なんてない。気に病む必要も。僕らの残り時間に、そう変わりはないんだから」
春の言う通り、私と春の間にある違いなんてないのかもしれない、だけど私は、その言葉を素直に受け止めることなんてできなかった。
「ごめんね、春は病み上がりなのに長居しちゃった。私はもう出てくから」
これ以上ここにいると、これ以上春と向き合っていると私の中の感情がグチャグチャになる。だから私はこの空間から早く逃げ出してしまいたかった。
春に背を向けてドアへと歩き、私がノブに手をかけたその時、
「あ、未蕾待ってよ。言い忘れてたことがある」
私の背中に春の声がかかる。
春は、明日の天気について話すような気軽さで、
「未蕾、好きだよ」
そんな言葉を、口にした。
「っ!? ……何で、今?」
私は混乱のあまり、心からの声をもらしていた。
そう、何で今なのか。私を好きになるなんて……そりゃいつかはあってもいいけどどうして今なの? あんなに重い話をしたばかりなのに、タイミングもなにもない。
「────それは、『今』しかないからだよ、未蕾」
私の疑問に、春は真剣な瞳でまっすぐに答えた。
「僕には明日の保証なんてないからね。だから、好きだと気づいたら、それを伝えずにはいられない」
「なん、で。何で私のことが好きだって言えるの? 私たち、数えるくらいしか会ってないじゃん。突然好きって言われても、私には理由がわからない」
「理由? 理由かぁ、未蕾がいい人だから、じゃダメかな?」
「ダメ、私いい人じゃないもん。春に結構ヒドイこと言った自覚ある」
「あ、自覚あるんだ。むぅ、それじゃ未蕾が美人だからってのは?」
「春は、別に私のこと美人だなんて思ってないでしょ」
「──────そんなことは、ないんだけどね。じゃあ、優しくしてくれたからとか?」
「優しくしてないし、優しくなんてないし。それに優しくされたら春はその人のこと好きになるの?」
「う~ん、そりゃ優しい人にはそれなりに好意を持つかもしれないけどさ。…………それじゃあやっぱり好きだからだ。僕は未蕾のことが好きだから、好きなんだ」
「なにそれ、結局理由になってないじゃん」
私は思わず春から視線を外して下唇を噛んでいた。
どうにも噛み合わない。
どうにもずれてしまう。
どうしても目の前の生き物との相互理解が進まない。
分かり合えたように思えても、まったく違う価値観が突然私を襲ってくる。
好きだから、好きとか。
ロジックになっていない。理由とか背景とかがないと、私はとてもじゃないけど不安でその気持ちを受け止められない。
なのに、
「理由は、いいんだ。探せばきっとあるよ。気持ちがあるんだからその大元だって必ずある。だからそれでいいんだ。あると分かっているならそれでいい。僕には、僕たちには理由を探す時間すらもったいないから。なら僕はその時間を、未蕾に好きだって伝えることに費やしたい」
私の目の前の少年は、命の灯火がいつ吹き消えてもおかしくないような彼は、世界から失われたはずの『春』はかつてそうであったであろう穏やかな空気をまとって、自分の中に生まれた気持ちを、来年も花が咲くことを疑わない子供のように信じていた。
「そう、なんだ」
私は今も春と目を合わせられない。
後ろ手に、ドアのノブは握ったまま。
「じゃあ私もはっきり答えてあげる。ごめんなさい、私はあなたのこと好きじゃない。だって春といると苦しいから。こんな未来のない世界で、好きだって言われても苦しいだけじゃない!」
そう言い捨てて、私は逃げるように部屋から飛び出した。
もうすぐ終わることが分かっていて、私はその気持ちに応えられない。
どんなに面白くても、途中で終わることが分かっている物語に手を伸ばせない。
なのに、何で春はそんなこと言ってくるの?
苦しい、苦しい。とてもクルシイ。
ああ、だからやっぱりと確信する。
私をこんなに苦しい気持ちにさせる、春のことが大嫌いだ。
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