第10話 ワールズエンド④

 始めは、そんなこともあるか、としか思わなかった。


 次の日も、やっと私の望んだシチュエーションが完成したって安心したくらいだった。


 その次の日は、どうせ私を油断させておいて突然何食わぬ顔で来るんでしょ、と思って図書室の歴史コーナーをこっそりと覗き込んだ。


 だけど、その次の日も、その次の日も、春は図書室に来ることはなかった。


 なんで?


 私は春のことをなんとも思ってないけど、突然顔を合わせることがなくなると、胸の奥がザワザワしてくる。


 なんで、かな?


 別に私はぜいたくなことを言うわけじゃない。春の姿を、少し見れるならそれでいい。彼の声を、ほんの少し聞くだけで満足する。それで、何で今日もここに来てるのよって、春をあしらうことができるから。

 バカみたいなことを言ってるのはわかってる。でもそれでも、私は春をひと目だけでも見たかった。


 この世界と同じだ。私は、きっともう来るはずのない『春』を、ずっと秘かに待っていた。


 だけどそれも今日まで。一週間もここに来なかったのなら、春はもうやっては来ないんだと思う。

 だから私は彼のことは忘れることにした。この限られた時間の中で、無価値なことに割けるリソースはもうどこにもないから。


 いつも通りに屋上で朝焼けを見送った私はそのまま図書室へと向かった。

 私は、図書室の扉の前で一回深呼吸して中に入る。

 覚悟を決め、胸を張って勢いよく足を踏み鳴らしながらきっと春のいない歴史のコーナーに一直線に向かう。

 そこにはもちろん、


「やあ、未蕾。今日は随分と早い見回りだね」

 意味の分からない言葉を放つ、意味の分からない生き物がいた。


「春…………なんでいるの。まだ日が落ちてすぐだし、早く帰ったら?」

 そして、一番意味の分からない生き物は、間違いなく私だった。


「せっかく久しぶりに会えたのにひどいこと言うなぁ未蕾は」

 だけど春は、意味不明な私の発言を理解できなかったのか気にしないのか、まったく動じることなく手にした本のページを進めていく。……それもどうなんだろ。


「どうして、最近はここに来なかったの?」


「ん? そりゃ僕だってずっと暇をしているわけじゃないからね。用事があることだって、あるさ」

 春はこちらに振り向くことなく、本を読みながら答える。

 ま、それもそっか。私だってこんな世の中じゃなければ毎日ここに通ってこれるほど暇じゃないし。私、なんであんなにモヤモヤしてたんだろ?


「そうなの、ひと言もなかったからてっきり死んだのかと思って、少しだけ心配したわ。一応毎日顔を合わせていたんだし、次は先にに何か言ってね」


「はは、それは申し訳ない。確かに勝手に死んだことにされたら困るし、────その時は何かのこすことにするよ」

 やっぱりこっちを向かずに春は言葉を返してくる。それに、今の発言のニュアンスは何か違和感があったけど。


「あ、そういえばこの前に未蕾が言ってたことって本当らしいね。世界が残り1年で終わるって。おばあちゃんに聞いたら教えてくれたよ」

 ふと何かを思い出したように春はこっちを向いてそんな話題を振ってきた。


「えっ、春は本当にそのこと知らなかったの? それに、春のお祖母ちゃんはアナタが聞くまでそんな大事なことを教えてくれなかったわけ?」

 それが本当なら大問題だ。まだ事情を理解できない幼児や小学生の低学年の子供にそれを伝えないのはまだわかる。だけど、高校生にもなる春にそれを教えないのは、何か、大事な機会を奪っている気がして私は少し頭にきた。


「ははは、多分僕が聞かなければ教える気はなかったんじゃないかな。まあ僕は映像機器も携帯端末も使わないから、外からの情報は全部おばあちゃんまかせにしてたしね」

 私のちょっとした怒りに気付かないのか、春は何も気にならないかのように笑っていた。


「少しは自分のことくらい自分で管理しなさいよ。ちなみにその話が出たのは4月の頭だから、もう残った時間は多分1年もないけど」

 驚きと少しの怒りと一緒に、私の頭の中でパズルのピースが埋まっていく。

 そっか、春が穏やかで心に余裕があるように見えたのは、彼が世界が終わることを知らなかったからなんだ。

 だったら、


「…………それで? 世界の終わりを知った春は、これからどうするの?」

 意地の悪い、でも私にとっては大切な問い。

 春は、海洋都市のみんなみたいに無気力になるのか、私みたいに変な意地を張り続けるのか、それとも。


「どうって別に? いつもと変わりなくここで本を読んで、慎ましく生きるだけだよ」

 静かに、穏やかに、まるで湖の水面が空の月を写しとるかのような静謐さで、春は答えていた。


 え、なんで? 


 くやしい、とても、くやしい。


 彼は、とてもキレイだった。春は、とてもキレイだった。


 私がそうなりたいと思った心の静けさを、死ぬときはそうありたいと思った心の在り方を、当たり前のように体現していた。


「ず、ずるい」

 思わず、私の本音が口から出ていた。


「え?」

 そんな私の動揺が意外だったのか、目を丸くして春はこちらを見ている。


「何で、春はそんな風に思えるの? 死ぬことは、怖くないの?」


「────死ぬことは、怖いことだと思うよ。だけどそれは何も特別なことじゃないんだよ」

 静かな、とても静かな瞳が私を見つめていた。


「何を、言っているの? 死ぬことは特別でしょ? 死ぬことは当たり前じゃないでしょ? だから誰かが死ぬと凄く悲しいんでしょ?」 

 だから、いつかは順番が回ってくる自分の死が、こんなにも怖いんじゃないの?


 震える手と足を必死に抑えつける。すごく、カッコ悪い。

 でも、私の言っていることは間違いなんかじゃない。だから、だから私は、お祖父ちゃんが死んだとき、あんなにも涙を流したのに。


「そうか、そうだね。きっと死ぬことは怖いし悲しい。うん、それが当たり前なんだよ。多分、それが正しいんだよ」

 春は、自分の主張を強く押し通そうとはしなかった。だから、なんで、彼の優しい笑顔が、言葉が、遠い彼岸からのモノに見えるんだろ?


「さ、お話もこのくらいにしようか。世界に残る時間も少ないんだろ? 貴重な時間を、無駄にはできないんだからさ」

 春は静かに私から視線を切って、再び読書に戻った。

 早くも集中したのか、私の恨みがましい視線も気にならないみたい。


 く、くやしい。

 同年代の男の子相手にこんなに悔しいと思ったことない。


 確かに迫り来る『死』を知って、春はそれでも変わらない在り方を持っていた。それが、私にはとても『本物』に見えた。でもそれじゃ、明確な『本物』が目の前にあれば、誰が『偽物』なのかはっきりしてしまう。


 じっと、私が立ち尽くしていても、春はそれを気にすることなくページを進めていく。

 私は、これ以上カッコ悪いマネはできなくて、何もなかったみたいに近くの棚から適当な本を取って春が視界に入らないようにテーブルについた。


 あ、そういえば今日はまだ見回りしてなかった。でも、もういいや。今さら立ち上がってここから出ていくのはもっとカッコ悪いし。


 もう、本当に心の中身がチグハグしてる。世界が終わるんだって知ってから、ずっと内側と外側が一致しない。


 今だって、何時間も本のページをめくりながら、その内容なんて何一つ頭の中に入ってこない。私の意識は、歴史コーナーの棚の前に座り込む、春の気配だけに向けられている。


 聞こえてくる薄い呼吸、ページをめくる慎ましい音、じっくりと文字のひとつひとつを読み込んでいる、そしてバタンッと大きく響く倒れ込む音。……倒れ込む音!?


「え、春!?」

 私は驚き振り向いて、春がいるはずの場所に目をやる。

 そこには床に横たわる春の姿が、…………自分の力で起き上がる様子は、なかった。

 私は春のもとへと駆け寄りその顔を見る。

 苦しそうに口を強く結び、その唇は真っ青になっていた。


「春! 春! ねえどうしたの? ねえ大丈夫!?」

 返ってくる言葉はない。春はうずくまって胸を苦しそうに押さえているだけだ。

 え、これってどうしたらいいの?

 混乱に混乱を重ねる私の思考回路は、それでも携帯端末で救急への連絡をとるという選択肢には辿り着いた。


 すぐにテーブルの上に置いたバッグの中から携帯端末を取り出し、救急の呼び出し番号を押して春のもとへと戻る。彼はいまだに苦しそうな表情のままだ。

 耳元で響くコール音、ほんの数秒がひどく長く感じる。電波は届いているけれどここは海洋都市から少し離れている。来てくれるなら救急ヘリだろうけど、ちゃんと間に合うかな。

 そんなことを思っていた時、ついに回線が繋がってAIの音声案内が始まる。


「はい、こちらは救急コールセンターです。ご用件を教えてくださ…………」

 プツッ、私が事情を説明する前に回線が切れた。

 理由は明白だ、こっち側の端末から通話の終了ボタンが押されたからだった。春の、白く細い指で。


「春!? 何で切ったの!?」

 私はあまりのことに動揺して、泣きそうな顔で春を怒鳴ってた。だって、まだ春の顔は青白いままだ。


「いいんだよ、大丈夫、だから。別に、人を呼ぶほどのことじゃない」

 途切れ途切れに春は言葉を紡ぐ。私には、全然大丈夫そうには見えなかった。


「いつもの、ことなんだ。これくらいどうってことない。こんなことで、人に迷惑はかけられないよ」

 ゆっくりと身体を起こして、春は棚にもたれかかる。少しずつだけど、真っ青だった唇に血の気が戻ってきた気がする。


「ごめんね未蕾、びっくりさせたね」

 申し訳なさそうに、春は苦笑いをしていた。


「びっくりも、するわよ。病院、行った方がいいんじゃない?」

 嫌味なんて入れる余裕もなく、私は真剣に言う。


「大丈夫、原因もわかっているから」

 だけど心配する私をよそに本人はいたって平静だった。


「どこか、悪いの?」


「心臓が、少しね。初めに会った時に言ったろ、僕は余命一年だって」

 春の寂しげな言葉が、研ぎ澄まされた刃のように私の胸へと突き刺さる。


 ああ、あれは、まぎれもなく本当のことだったんだ。


 あれ、そういえば初めて会った日、そう口にした春に対して、私はなんて答えたんだっけ?

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