第5話 ネヴァー・スプリング②

 暗い昼が終わり、徐々に空が明るみ始める。

 三階の教室にいた私はその光景をゆったりと眺めながらそろそろ帰ろうかなと立ち上がった。

 私の手には1冊の本。図書室から出る時、時間潰しのために適当に取ったんだけど、これが思いのほか退屈な中身だった。

 でも、不思議。つまらなかったはずなのに、物質的な紙をめくる感覚だけは私にとってはすごく新鮮な刺激だったから。


 薄くとも、確かに存在する紙の厚み。ページをめくるたびに聞こえてくる紙のこすれる音。ちょっとした年月を感じさせる本の香り。

 静かな教室にたった一人で本を読む。ただそれだけで、私は世界から切り取られたみたいにすべてのことが忘れられた。


 だから総合的に言えば、悪くない体験だった。

 それなりの満足感を得た私は、読み終えた本を持って図書室に帰るために教室から出る。でも、


「まだ、……いるよね」

 私は少しだけためらった。図書室に行けば、また春のあの強い瞳が待っている気がして。

 だけどこの本を借りたまま帰るわけにもいかない。いや、別にそれでもいいのかもしれないけど、ちゃんと手続きをしていない以上はきちんと元の場所に返すべきだと思う……でも。

 そんなわけで五分くらい本を返すかどうか迷った後、私は仕方なく図書室へと向かいこっそりと扉を開けた。中は静かすぎるほどに静かで、人の気配なんて全然感じない。

 ほっと一息ついて私が図書室へと一歩踏み込んだその時、


「おかえり」

 突然どこからか春の声が聞こえた。


「ひゃい!?」

 ビックリし過ぎて私は謎の悲鳴をあげる。


 振り向くと、春は入り口の扉の横に座り込んでやっぱり本を読んでいた。

 何が人の気配はないだ、こんなにも近くにいてその存在を感じ取れないとか残念過ぎる。というか春の存在感薄すぎ!


「ちょっと、いるなら声をかけてよ!」

 私は八つ当たり気味に声を強める。


「え? いや、あの、だから声をかけたんだけど」

 そして私のお馬鹿な返事にキョトンとした顔で春は答えた。


「あ、ごめん。そうだよね、ビックリしちゃってつい」

 私は自分の非を素直に認めて頭を下げていた。それは、彼の瞳にさっきのような力強さが消えていたからかもしれない。

 というか、少し、弱々しい?


「あれ、転んでぶつけたところまだ痛いの? なんか元気ないみたいだけど」

 そんな春を見て私は思わず心配する。


「いや、もう大丈夫だよ。─────治まったからさ」

 治まった? そんなに痛かったのかな。


「それじゃあ私、そろそろ帰るから。アナタも準備してね」

 私は借りていた本を元の場所に戻して春にも帰宅を促す。


「え、僕も?」


「そうよ、だって私が帰った後にアナタが悪さをしないとも限らないんだから。管理者である私が帰るなら春も帰るのが当然でしょ?」


「ちぇ、さっきまでこっちを放っておいたくせによく言うよ」

 春は少しだけ不服そうに、だけどそれ以上に素直に後片付けを始める。歴史のコーナーに積んであった本も迷わずに全て元の場所に戻していた。


「────ねえ、やっぱり君の名前、教えてよ」

 春は本を片付け終わったのか私のもとへ戻ってそんなことを言ってきた。

 私は少しだけ悩んで、別にこれ以上引っ張るようなことでもないかと諦める。


未蕾みらい。未だ蕾と書いて未蕾よ。どう? 中々に皮肉でしょ?」

 ちょっとだけ自嘲気味に自分の名前を紹介する。

 だけど春は笑って、

「はは、それなら僕の方が皮肉が効いてるよ。ほら、『春』なんて失われて久しいだろ? 君の名前、僕は素敵だと思うよ、未蕾」

 ごく当然のように、私の名前を呼び捨てにしていた。

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