十七、魔女と獣

 酷いことを言っている自覚はあった。

 ミアとて感情は持ち合わせている。

 他人と比較すれば、それは随分と希薄だったが、これでも一応は『人間』である。

 相手が傷付くと分かっていて平気で言葉のナイフを放てるほど、ミアも冷血漢ではなかった。


(ごめん、ごめんね)


「貴女は回路がイカれてる。だから正常な判断が出来なくなっているの」


 主人を失った――それを飲み込むには相当な時間を要するはずだ。

 現に、ナハトでさえも、ミアとアウロラのことを混同しているほどである。


「うそだ、」


 迷子になった子どもみたいな声で、リヒトが唇を震わせた。

 嘘だ、嘘だ、と何度も譫言のように繰り返す彼女に、ミアも眉間に皺を寄せた。


「嘘じゃない。マスター・アウロラも、マスター・グルスもお亡くなりになってる」

「…………うそだ」

「聞いて、リヒト」

「うそだあああああああ!!」


 翡翠を宿した髪が、宙に浮かぶ術式を無造作に貫いていく。

 爆破と同時に発生した白煙にリヒトの姿は見えなくなってしまった。


「しまった……」

『どうした?』

「ごめん、見失った。そっちの方はどう?」

『こっちは桜千さんとエルヴィが進めてる。ナハトの状態も落ち着いてきた』


 通信機から聞こえてきたシュラの声に、ミアはほっと胸を撫で下ろした。

 先代世界樹の周りに張られた結界が健在であることを確認して、杖で地面を叩く。


「力を貸して、フュルギヤ」


 初代の頃よりヴァルツ家に仕える――創世期の大蛇、フュルギヤがミアの影からぬっと姿を見せた。


『何なりと』

「リヒトを止めたいの。見つけてくれる?」

『勿論』


 白煙はやがて霧となり、視界を遮っていた。

 けれど、フュルギヤにとってそれは何の弊害でもない。

 舌と優れた魔力感知の力を持つ彼女に取って、この霧はあってないようなものだったからだ。


『……二時の方向から、世界樹を窺っているようです』

「分かった、ありがとう」

『ミア』

「ん?」

『あの子は、私にとっても兄弟同然です。どうか、』

「うん。任せて」


 ミアの答えにフュルギヤは満足そうに頷くと、再び彼女の影の中へと戻っていった。

 

《動くな》


 ひたり、とミアの鼻先で剣が静止する。

 鈍く光った翡翠に、ミアは猫のように目を細めた。


「惜しかったね」

「くっ」

「まさか、こっちに突っ込んでくるとは思わなかったけど、理由は『それ』かな?」


 霧が、晴れていく。

 陽光に照らされたリヒトの姿は、酷い有り様だった。


「……桔梗ちゃんったら、随分古い術式使うんだなぁ~」

「このっ、はなせ!!」

「やだよ。術を解いたら襲ってくるじゃないか」


 桔梗に付けられたのであろう刀傷を起点として、身体がボロボロと崩壊を始めている。

 特に酷いのは左肩で、触れば今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさを孕んでいた。

 どうしたものか、と口元に手をやったミアの視界の端で、金色が瞬く。


「あっちも始まったみたいだし、君の気が変わるまで我慢くらべでもする?」

「何を、」

「大丈夫。ナハトくんが成功したら、次は君の番だから」


 そう言って笑ったミアの目だけが笑っていなくて、冷たい何かがリヒトの背筋を走り抜けていった。


 ◇ ◇ ◇


 ――あたたかい。


 意識の浮上したナハトは、身体の中を巡る魔力の先を寝ぼけた視線で辿って、ぎょっとした。

 暁光を纏ったエルヴィが豊かな金髪を唸らせ、自分の手を握っていたからだ。


「せ、世界樹……?」

「ふう、良かった。魔力の上書き、上手くいったみたいだね」


 嬉しそうに顔を綻ばせたエルヴィに、ナハトが慌てて上体を起こす。

 ゆっくりでいいよ、と言われても、そんなこと出来るわけがない。


「……ミアは、ミアはどこです?」


 きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせたナハトの姿に、エルヴィの背後で事の次第を見守っていたシュラが呆れたようにため息を漏らした。


「落ち着け。ミアは今、お前の片割れと戦闘中だ」

「なっ!」

「……落ち着け、と言っているだろう」


 今にも飛び出しそうになったナハトの肩を、シュラが片手で制する。


「そんなこと言われて、落ち着いていられるわけがないだろ」

「魔力が馴染むまで待てと言っているんだ」

「うぐっ、」


 荒っぽいやり取りに、エルヴィが番の名前を紡いだ。


「ちょっとやりすぎだよ、シュラ」

「こうでもしないと飛び出すだろ」

「そう仕向けたのはあなたでしょ」

「……」

「もう、ミアが心配なのは分かるけど、二人とも落ち着いて」


 シン、と静けさが先代世界樹の虚を包み込む。

 次いで、激しい振動が彼らを襲った。


「何事だ!!」


 シュラの通信に、世界樹の周りで結界を張り巡らせていた桜千の咆哮が届いた。


『《守護獣》が形振り構わず暴れ始めた……! 私は結界を維持するのがやっとだ! 応援を頼む!!』


 誰かが生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。

 割れ先にと、飛び出したのはもちろん、ナハトだった。


「待て、ナハト!」


 シュラの制止は届かない。

 突風がシュラとエルヴィの肌を撫でたかと思うと、ナハトの姿はそこに無かった。


 ◇ ◇ ◇


 空気が震える。

 ミアの言葉に、リヒトは更に凶暴性を増した。


 言霊魔法の効力は長くて五分。

 それを理解した彼女は、ミアの声が届く範囲と術の持続時間を考慮し、遠距離での攻撃を選択した。


「……ふふっ。戦闘でこんなにワクワクしたの、久しぶりだなぁ」

「の、呑気なこと言ってないで、防御魔法張り直してください!! ここら一体消し飛んでもいいんですか!」


 アルフレッドの悲鳴を右から左に流しながら、ミアは空に浮かんだ大量の剣にうっとりと目を細めた。


「まるで夜空を彩る星のようだ」


 ミアが口角を持ち上げたのと同時に、剣が一斉に彼女へ向かって落ちてくる。


「隊長――ッ!!」


 アルフレッドが叫ぶ。

 宙に浮かぶミアに、防御魔法陣は届かない。

 掠れた叫び声を上げることしか出来ない自分に、アルフレッドは絶望に表情を染めた。


 視界の端を橙が閃く。


 まさか、と目を疑ったアルフレッドの前で、《彼》は大きな翼を広げた。


「やめろ!! リヒト!!」


 空を叩いた声に、リヒトはもちろん、ミアの目が驚愕に見開く。


「もう、やめてくれ」


 これ以上、君が誰かを傷つける姿を見たくない。


 そう言ったナハトの背には、彼の髪と同じ色の翼がはためいていた。


「ナハトくん、それ」


 ミアの声が僅かに震えていた。

 それは興奮からくるものであったのだが、ナハトは違う意味で受け取ったらしい。

 彼女の震える指先を柔く包み込むと、にっこりと微笑んでみせた。


「……ああ、俺が自分で編み出した術式だ」

「すごい、すごい! え、ちょっと解析してもいい!?」

「あとで、な?」

「約束だよ!!」


 嬉しそうに笑うミアの頬に触れて、ナハトはゆるりと頷いた。

 それを見たリヒトが親の仇でも見つけたかのような顔で、ナハトを睨む。


「随分とそれに肩入れするんですね、夜」

「……当たり前だろ。今の俺のマスターは彼女だ」

「な、」


 リヒトは怒りで魔力が沸騰するのを、このとき初めて知った。


「ふざけるなよ、お前!! そんな紛いものをマスターなどと!!」


 リヒトの剣が二人を――否、ミアを標的として捉える。

 翡翠が鈍い光を宿して落ちてくるのが、ミアの目にはスローモーションで映った。


「ヴァルツを、守ることが俺たちに初めて課された命令だったのを忘れたのか」


 夕日を宿した翼がミアを守るように広げられたかと思うと、リヒトの剣を全て弾き返す。


「……すごい、」


 ミアの呟きに、ナハトは口角を持ち上げた。


「俺が凄いんじゃないよ。術式を調整してくれたミアと、世界樹の魔力が凄いんだ」

「う、うん」

「術式を、書き換えた、だと!?』


 ナハトの言葉に、リヒトがギリと奥歯を噛み締めた。


「マスターたちから授けられたものを、書き換えたというのか!!」

「……俺たちの術式は、劣化している。そのことにお前が気付いていないはずがない」


 認めたくないんだろ、とナハトがトドメを刺せば、リヒトの目が怒りに染まった。

 そして、肩を震わせたかと思うと、再度ミアとナハト、二人の頭上に剣を召喚する。


「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れええええ――――っ!!」


 それは悲鳴に似ていた。

 上手く泣けない子どものように、喚き散らすリヒトの姿に、今度はナハトが唇を噛み締める。


「……ミア」


 振り返った彼の目には《落陽の洞窟》で見つけた、淡いラベンダーが嵌め込まれていた。

 優しく細められたその双眸に、ミアの頭が警報を鳴らす。


「お願いがあるんだ」


 真っ直ぐ、こちらを見つめるナハトに、ミアは「いやだ」と渇いた声を絞り出した。


「頼む」


 きっと碌なお願いじゃない。

 懇願するかのように、ミアの右手を取ったナハトに、ミアはもう一度「いや」と首を振った。


「君にしか、頼めないことだ」

「ナハトくん、」


 唇から震えが全身に伝播していく。

 握っている手からナハトにもそれは伝わっているはずなのに、彼は穏やかな表情を浮かべたままだ。


「――俺を、俺たちをあなたの手で終わらせてほしい」


 請われた願いはあまりにも鋭く、ミアの胸を穿った。

 目頭が熱くなる。

 彼の真剣な眼差しが、泣いても無駄だと告げているようで、それが余計にミアの涙を誘った。


「いや、」

「頼む、ミア」


 停止しろ、とそう紡ぐだけでいい。

 懇願するように両手を強く握りしめられて、ミアの頬を涙が濡らす。

 

 銀色の雫が、彼女の顎を伝っていくのを、ナハトはただ黙って見つめていた。

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