十六、ウィスタリア

 ――星が舞う。


 霊峰キリに降る雪は、古くから華月の魔力を帯びていることもあって『星』に例えられることがあった。

『月の化身』の異名を持つ華月の影響を色濃く宿したその呼び名を、今まさにシュラは実感していた。

 柔らかな新雪が、吹き荒む風によって舞い上がり、視界いっぱいに広がっている。


「行くぞ」


 祖父である藤月から譲り受けた八雷神が鈍い光を放つ。


「連ねるは天の咆哮、遍く轟き、その軌跡をここへ――《嵐歌轟々らんかごうごう》!!」


 宙を舞う星々を巻き込み、シュラの身体が円を描く。

 刹那、暴風がリヒトを襲った。

 荒れ狂う大海にでも放り出されたかのような凄まじい風に、剣を地面に突き立てるのがやっとだ。


――パチン。


 耳のすぐ脇を何かが弾ける音が響いたかと思うと、それは遅れてやってきた。


「がああああ!?」


 瞬きの間に小さな雷雲がリヒトの周りを覆っていたのである。

 雷雲が一つ弾けたのが合図だった。


 幾度となく続く雷の連続攻撃に、リヒトは堪らず剣から手を離した。


 それを見逃さないシュラではない。


「これは、シィナたちと母上の分だ」


 おまけしておいてやる、と言いながら、刀の柄を握るシュラの手に血管が浮かぶ。

 凶悪な笑顔――ここに子どもが居れば間違いなく大泣きするような恐ろしい顔だった――を、視界に収めたエルヴィが、呆れたようにため息を吐き出した。

 次いで、番の気を沈めるために、力が込められすぎて真っ白になった彼の手に自分のそれを重ねる。


「落ち着いて、シュラ。私たちの目的を忘れたの?」

「…………分かってる」

「だったら、刀を納めて。私たちの役割はあくまで『囮』なのだから」

「ああ」


 エルヴィの声は不思議とシュラの神経を落ち着かせた。

 かつてナーガの群れと対峙したときの出来事がふと脳裏を過ぎる。

 あのときは確か、シュラの方が彼女を宥めていたはずだ。


「……お前も随分、人間らしくなったよなぁ」

「それ、褒めてるの?」

「もちろんだ」

「なら、いいけど」


 くすくすと笑うエルヴィの声に、昂っていた感情が腹の奥に沈んでいく。

 リヒトから視線を逸らさないまま、シュラは刀を収めた。


「世界樹の慈悲に感謝するんだな」

「な、んだと……!」

「お前のように反抗的な守護獣でも、エルヴィにとっては大事な兄弟らしい。番に『攻撃しないで』と頼まれたら、断れないだろ」

「ちょ、シュラ! エルヴィ、そこまで言ってないでしょ!」


 歌うように煽り文句を並べるシュラに、エルヴィが彼の袖を引くも、時すでに遅し。


「私を愚弄するか! 世界樹!!」

「ほら~~~! 怒っちゃったじゃない!」


 シュラのバカ、とエルヴィが彼の胸板に拳を叩きつける。

 バカみたいに体幹の強いシュラには然程のダメージも与えることが出来ず、歯軋りを繰り返していたエルヴィの耳元で涼しげな音色が響いた。


「――『予定通り』だよ、ミア。これから向かうね」

『さっすが、シュラくん。それじゃ、こっちも準備進めておくよ』

「うん。お願い」


 通信用のピアスから漏れ聞こえてきたミアの声に気付いたのだろう。

 シュラが得意げに鼻を鳴らすのが頭上から聞こえてきて、エルヴィは片眉を持ち上げた。


「準備できたって」

「俺のおかげでな」

「そうだね。シュラの『おかげ』でね」

「何だよ。棘のある言い方だな」

「ミアは別に怒らせろって言ってなかったでしょ」

「バカ、お前、ああいうタイプは怒らせた方が手っ取り早いんだよ。つーかそろそろ行くぞ」

「え、」

「直に術が破られそうだ」


 シュラの放った嵐歌轟々は既に消えかけの蝋燭のようにその威力を落としていた。

 リヒトが再び立ち上がるのも時間の問題である。


「じゃ、お先に――蒼月!」


 相棒の名を紡ぐ。

 大海の青を宿した龍が、リヒトの前に翻ったかと思うと、それは瞬きの間に空高く舞い上がって見えなくなってしまった。


「おのれ、世界樹!!」


 残された守護獣の咆哮が、物騒な反響を繰り返していた。


 ◇ ◇ ◇ 


「桔梗様が負傷されました――!」


 青白い顔でやってきた第四小隊の騎士に、シアンとユタは一も二もなく団長室を飛び出した。


「桔梗!!」


 脂汗を滲ませた桔梗の手をユタが握る。

 指先は酷く冷えており、呼吸も浅い。

 毒や呪術を付与されたときの症状に似ていた。


「何があったんです」


 ユタが触診を始めているのを横目に、シアンは同行者だった鈴蘭に声を掛けた。


「あ、あの、姉上は、」


 桔梗と同じかそれ以上に青褪めた顔の鈴蘭の声は震えて上手く音を成していない。


「鈴蘭様」

「ごめんなさい、私、」

『……我が話そう』


 唇を震わせて怯える鈴蘭に痺れを切らしたのか、桔梗の右腕から旭日が姿を見せる。


『リヒトの攻撃から鈴蘭を庇ったのだ。桔梗は龍の因子と魔力の結びつきが強い。華月が内部から修復を試みているが、』

「そう、ですか」

『鳴雷の欠片を埋め込まれたときと症状が似ているらしい。アメリアを呼んだ方が良いやもしれぬ』

「承知しま――」

「お呼びかしら?」


 シアンの声に、掠れたソプラノが重なった。

 ボサボサになったラベンダーの髪を手直ししながら、現れた稀代の魔女にその場の全員が釘付けとなる。


「丁度、シィナたちのお見舞いに来ていたの。そしたら、第四小隊の子たちが慌ただしくしているのが見えたものだから」

「助かる。鳴雷の欠片を使った術式に症状が似ているらしい。頼めるか?」

「誰に言ってるの? ユタ、魔力増強剤とカグラの薬草を手配してちょうだい」

「分かったわ」


 珍しく髪を一纏めにして結んだかと思うと、アメリアは桔梗の額に濡れタオルを叩きつけた。


「い、いたっ」

「声を出せる元気があるなら大丈夫ね。傷口と剣の形状から見て拡散型ではないと思うけれど、念の為、この部屋に反魔法の結界を施しておきましょう」

「ああ」

「それから、部屋にはユタと第四小隊以外近付けさせないで。特に龍の魔力を持っている人は」


 眉間に皺を寄せながらそう言ったアメリアに、シアンは静かに頷いた。

 憔悴した鈴蘭の肩を支え、部屋を後にしたシアンの背を見送って、ユタとアメリアは肺の中の空気を入れ替えるかのように長い、長いため息を吐き出した。


「~~~っ!! 桔梗っ!!」

「ひ、は、はい」

「貴女、自分の身体に何を宿しているのか、きちんと理解しているの!?」


 ヒステリックに叫んだアメリアに、旭日が思わず天井を仰ぐ。


『言ってやれ言ってやれ。こやつは年々態度が悪くなって手が付けられん』

「ど、どういう意味ですか! それぇ!」

「そういうところよ!! まったくもう!! 貴女は普段生活を共にしているから気安いのかもしれないけれど、旭日様たちは創世期から存在している方たちなのよ!!」

「ぞ、存じています……」

「いいえ、分かっていないわ。反旗を翻していた時期があったとしても、旭日様と華月様は創世期からこの世界に存在してるの。その二人が消えたら、どうなると思う?」

「あ、」


 ここにきて漸く事の重大さに気がついたのだろう。

 ただでさえ青かった桔梗の顔から血の気が引いて、真っ白に染まる。

 それを見たユタが旭日に次いで天井を仰いだ。


「二人は今『魂』としての身体しか持っていない。依り代の貴女に何かあれば、お二人も消えてしまうのよ」

「はい……」

「今後は少し慎みなさいね」

『少しと言わず、盛大に慎んでもらいたいものだな』


 アメリアのお説教の合間を縫うように、旭日の追撃が飛んでくる。


「まったく、貴女は昔から……」


 ため息を吐きながらユタが、桔梗を見据えた。

 母親の自覚は愚か、創世龍の依り代としての自覚もないとは呆れて物も言えない。


「それじゃあ、私はアメリアに頼まれたものを第四小隊の別棟から持ってくるわね」

「ええ、お願い」


 こつん、と桔梗の額を軽く小突いてからユタが扉を潜っていく。

 ネイヴェス家を象徴する夕日を切り取ったような緋色の髪を薄めで見送って、桔梗は顔を歪めた。


「……痛いです」

「当たり前でしょう。貴女は他の人と違って、龍の因子が強いんだから」

「うう……っ」

「泣く元気があるなら、大丈夫ね」

「ひ、ひどい」

「酷いのはどっちよ。貴女が負傷したと聞いて私は寿命が縮んだ気がするわ」

「……」

「何よ、その顔は」


 アメリアは今でも世間から魔女として恐れられてはいるが、それは『良い意味』に変わりつつある。

 かつての祖母の名誉を取り戻すため、仇を討つためだけに生きていた頃のアメリアを知っている身からすれば、随分と『人間らしく』なった彼女の姿に、桔梗は目を丸くしたまま固まった。


「失礼なことを考えている表情だわ」

「い、いえ、何も……あ、いたたた、き、傷が痛むなあ……」

「まあ、白々しい。――それで? 作戦の方は上手くいったの?」


 桔梗に突き刺さったままの剣を注視しながら、アメリアが患部に治癒魔法を施し始める。

 疼くような痛みに、桔梗は思わず唇を噛み締めた。


「うっ、ちょ、あまり押さえつけないでください。本当に痛いです」

「痛いのは、組織が傷を治そうとしている証拠だから安心なさい」

「何一つとして安心できない……!」

「それで? 私の質問にまだ答えてもらってないけれど?」

「……一応、一太刀は浴びせてきましたけど、」

「なら、問題ないわ。傷口が一つでもあれば、あの術式は発動するから」


 にんまり、と笑ったアメリアに、桔梗は肩を竦めた。

 それでこそ『魔女』の名を恣するアメリアである。

 不気味な表情に安心感を抱くとは何事だ、と旭日が呆れたように首を振るのだった。


 ◇ ◇ ◇ 


 眼前に見えてきた世界樹の姿に、シュラとエルヴィはどちらからともなく顔を見合わせた。

 二人が出会い、そして別れた場所である。


「……懐かしい」

「そうだな」

「うん」

「いけそうか?」

「……シュラが一緒だもん。平気だよ」


 すぐ後ろに、リヒトの気配が迫っていた。

 ここで失敗すれば、シュラは勿論のことエルヴィも無事ではすまないだろう。

 けれど、恐れはなかった。

 番が隣に居る。

 たったそれだけのことで、無敵になったかのような感覚がシュラたち二人を包み込んでいた。


「いくぞ!!」

「うん!!」


 眼下では見慣れたラベンダーが風に揺れている。

 それを視界に収めると、シュラは大声で従姉妹の名前を叫んだ。


「ミア――!!」


 頭上から降ってきた声に、ミアはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。

 シュラたちを乗せた蒼月の向こう、翡翠がこちらに迫ってくるのが見える。


「総員、ありったけ放てぇー!!」


 それは、真昼に咲く花火。

 色取り取りの術式が宙を舞い、リヒトの進行を妨げる。


「な、何だ、これは……!?」


 傍目から見れば美しい光景だが、リヒトにとっては堪ったものではない。

 空中に浮かんだ術式は少しの風を感じ取っただけでも爆発するのだ。

 指先は勿論、髪の毛一本の挙動にさえ、気遣わなければならなかった。


「くそっ!」


 術式に気取られていた所為で、世界樹とその番を見逃してしまった。


「どこへ行った!!」


 振り返ったリヒトの視線の先。

 同胞を奪った女がそこに立っていた。


「また貴様か! 女ァ!」

「んふっ。随分と嫌われたものだね。残念だよ」

「黙れ!! アウロラ様をどこへやった!!」

「うーん。また記憶が混濁してるのかな……。君には残念なお知らせだけど、マスター・アウロラは既にこの世の人ではないよ」

「何を、」

「分からない? マスター・アウロラは死んだんだよ」


 とっくの昔にね。

 マスター・アウロラと同じラベンダー色の髪が突風に弄ばれる。

 前髪が持ち上がった隙間に覗いたのは、リヒトの知らない『いろ』だった。

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