九、龍の子
一瞬でも目を離したのがいけなかった。
リオラの魔力で顕現していた炎月が姿を消す。
それに気取られていた僅かな間に、リヒトはシィナとの距離を詰めていた。
「返してもらうぞ」
「何のことよ!」
「アウロラ様は、我らが主人だ」
「!?」
そう言って伸ばされた手が、ララの小さな身体を奪い去る。
「ララ!」
シィナの手は、娘の指先を掠めただけだ。
虚しく空を切った己の手を睨め付けると、シィナは唇を噛み締めた。
剣が刺さったまま気絶したリオラと、再び奪い取られたララの姿に、怒りで視界が真っ白になる。
「…………その手を離しなさい」
声は震えて、音にならなかった。
言葉になり損ねた掠れた音を、リヒトはきちんと受け取ってくれたらしい。
「何を怒ることがある。アウロラ様はお前のものではなかろうに」
「その子はアウロラじゃない。私の娘よ」
「バカを言うな。この魔力、この声、間違いなく我らが主人だ」
「何を、」
宝物でも見つけたように、リヒトは嬉しそうに破顔した。
そして、ララのまろい頬に自身の頬を擦り寄せる。
機嫌の良いときの猫のような動きに、シィナの眉間に深い皺が刻まれた。
「アウロラ様」
うっとりと恍惚に表情を染めたリヒトに、ララはぐすん、と鼻を鳴らす。
「やあ~!!」
「何故、嫌がるのです。私です。貴女がお造りになられたリヒトですよ」
「離して! ママ! ママぁ~!!」
小さな身体を懸命に捻って、リヒトの腕の中から逃れようとするララの姿に、シィナの胸は押しつぶされそうな痛みに襲われた。
「……この人間が居る所為なのですね」
リヒトは、そう小さく溢すと、ララのことを地面にそっと下ろした。
翡翠の刃が二つ。
華奢な掌の中に収められる。
「貴様さえ居なければ! アウロラ様は私を見てくれる!!」
声を模倣することも出来なくなったのか、とても人間とは思えない歪な音で言葉を紡いだリヒトがシィナに牙を剥いた。
「咲き誇れ、雷の花――《閃光雷火》」
迫り来るリヒトに、シィナの唇は慣れ親しんだ魔法の詠唱を口遊んでいた。
稲妻が中庭へと降り注ぐ。
リヒトの周りを浮遊したかと思うと、それらはまるで捕縛布のようにきつく彼女の身体へ巻き付いた。
「ララ!」
娘の元へ駆け出したシィナの背に、リヒトの高笑いが木霊する。
「あはははははっ!」
「何を、笑って――!?」
その手に握られていた剣がどこにもない。
ハッと息を飲んだときには、全てが遅かった。
腹部が熱い。
二本の剣がシィナの身体を貫いていた。
「……ぐふっ、」
「ママ!」
「来ちゃダメ!!」
ララの目が、驚きに見開かれる。
シィナはそんな娘の姿を視界の端に収めると、深く息を吐き出した。
出来るだけ、傷口に近い場所へ魔力を集中させる。
「惜しかったな、龍の子」
シィナの魔力が途切れたことで、魔法を打ち消したのだろう。
爛々と輝きを放つ真っ赤な瞳がシィナを見下ろす。
ゆっくりと口角を持ち上げたリヒトに、シィナは低い呻き声を返すことしかできなかった。
「その魔力、アウロラ様の悲願のために貰い受ける」
「このっ、」
「龍の子よ、我が糧となれ!」
リヒトの声に、腹部へと突き刺さった剣が熱を帯びた。
朦朧とする意識の中、泣きじゃくる娘と地に伏す弟の姿が、ぼんやりとシィナの視界に映った。
そして、リオラに寄り添うようにリヒトを威嚇する炎月の姿も。
そこで、ふと疑問が生じる。
リオラは魔力弾を放つために炎月を解き放った。
龍の魔力を吸われたのであれば、炎月の姿はいつ消えてもおかしくはない。
それなのに。
(……まさか、)
考えるより先に、シィナは声を振り絞った。
「我に宿し龍よ。我が声に応え、彼の地へとその姿を顕現せよ」
「その詠唱は、」
「ここへ来れ。雷を纏いし龍」
――紫月!!
シィナの声が辺りを支配する。
いつもより少ない魔力で召喚した所為か、金色の瞳はどこか不機嫌な色を宿していた。
『その傷で無茶をするな』
「…………ごめん。でも、急いでいたから、」
『完全顕現など、本調子でもすることではないわ』
「分かってる。だけど、これしか方法が思いつかなくて」
常はシィナの魔力に龍の魔力を重ねることで、紫月は身体を形作っていた。
けれど、完全顕現となれば事情は変わる。
シィナの魔力を媒介とし、その身体を『大気中』の魔力に落とし込むのである。
依り代ではなく、魔力そのもので自身を形成するので、本来の姿である魂を形作ることができた。
『……古の産物よ。これ以上、我の愛し子を傷つけるようであれば容赦はせぬぞ』
眼前に突如として現れた龍の姿に、リヒトは固まっていた。
それをいいことに、紫月の爪が彼女へと振り下ろされる。
――ダァン!!
激しい音と共に地面へめり込んだリヒトの姿に、シィナはやっとの思いで膝をついた。
ここで意識を失えば、ララが連れて行かれてしまう。
その不安だけで、彼女は意識を保っているようなものだった。
『シィナ』
「私のこと、は、気にしな、いでっ」
『だが、』
言い淀んだ紫月の手中で、リヒトが身動ぐ。
それに気付いた紫月が体重を乗せると、さらに深く地面が抉れた。
「穢らわしい、龍の分際でッ……!」
――私に触れるな!
怒号が空を割く。
あまりの声量に、シィナは鼓膜が破れるのではないか、と痛みに目を細めた。
五官の鋭い龍なら尚のこと、今の声は堪えただろう。
「紫月!!」
自身の片割れの名を叫ぶ。
火事場の馬鹿力を発揮したリヒトによって、紫月の身体はひっくり返されていた。
『ぐうっ……!』
「依り代ともども、あの世へ送ってくれよう」
翡翠の剣が空を覆い隠す。
避けられない、とシィナと紫月が奥歯を食いしばったそのとき――。
「やめて~~ッ!!」
ララの細い喉から出されたとは思えない、悲痛な叫びが響き渡った。
今にも二人へ剣を振り下ろそうとしていたリヒトの身体が、ぴたりと動きを止める。
「ママとしーちゃん、いじめないで!!」
ぼろぼろと涙を溢しながら、血だらけになった母の前にララが立ち塞がった。
その小さな後ろ姿に、シィナは思わず息を呑む。
「ララ、」
囁くように娘を呼んだ。
毅然とした態度でリヒトを睨むその横顔が、夫のクオンに重なる。
「シィナ!!」
「姉様!!」
――刹那。
青い落雷が中庭に降り立った。
クオンとキヨラの二人が、怒りに震える身体でシィナたちを抱きしめた。
「大丈夫か」
「……これが大丈夫に見える?」
こんなときでも皮肉混じりな言葉を吐き出す妻の姿に、クオンは僅かに口角を持ち上げた。
次いで、共にやってきた義弟へと視線を遣る。
「キヨラ」
「分かってる。姉様とララはこっちへ」
キヨラがララの身体を抱き上げながら、姉の手を引っ張り上げる。
鼻腔にこびり付くほど強烈な血の匂いが、シィナたちの戦闘を物語っていた。
ほとんど力の抜けた腕がキヨラの腕を引く。
「キヨ、リオラが……」
掠れたシィナの声に、キヨラの眉間に浮かんでいる皺が更に深みを増した。
「知ってる。リオが映像通信送ってきたんだ」
「そう、」
「大丈夫だよ。バイタル情報は安定してたから」
「え、ええ」
こんなに怒っているキヨラの顔は初めて見る。
シィナはまごつきながら弟の肩を借りると、緩慢な足取りで家の中に入った。
「てめえ、よくも俺の家族に手ェ出しやがったな」
びりびりと後ろから聞こえてきた殺意の込められた声に、シィナが思わず振り返る。
アメジストが二つ。
怒りの炎を宿していた。
◇ ◇ ◇
「――悪い。取り逃した」
ぐったりとしたリオラを抱えて戻ってきたクオンの姿に、シィナとキヨラは安堵の息を吐き出した。
「回復魔法はかけたんだが、相当魔力を持っていかれたみたいで意識がない。治療のために本部へ急いだ方がいい」
「分かったわ」
「……お前も、間違っても抜くなよ。それ」
「出血するからでしょう。分かっているわよ、それくらい」
「まあ、それもあるけど。ここ見てみろ」
クオンの手が、シィナの脇腹に刺さったままになっている翡翠の刃に触れる。
その表面には古代文字がびっしりと記されていた。
「何かの術式だと思った方がいい。抜いた瞬間、あいつが転送される可能性も捨てきれないからな」
「どういうこと?」
「あいつが地面に剣を突き立てた途端、転送魔法が発動したんだよ。剣(これ)を触媒にされたら大事だろ」
「ちょっと、物騒なこと言わないで。嫌な想像しちゃったじゃない」
自分の身体からリヒトが飛び出てくる姿を想像して、シィナは口元を押さえた。
その隣でキヨラも同じように顔を顰めている。
「とりあえず本部に行こう。第四小隊の誰かを捕まえられたら良いんだが、」
クオンの言葉に全員が頷いた。
次いで、足元へ大きな転送魔法陣が現れる。
「は!?」
「え、」
「うわ、」
「きゃ~!?」
異口同音の悲鳴が半壊した家の中に響き渡った。
「ごめんねぇ。お迎えが遅くなって」
真顔のミアに出迎えられ、全員が凍りつく。
特にクオンとララの震えっぷりは尋常でなかった。
ミアの声には無意識のうちに魔力が込められていた。
「あ、姉貴」
クオンの呼びかけに、ミアは答えない。
代わりに、片手を上げたかと思うと、後ろに控えていた第四小隊の緑の隊服が翻る。
飛ばされたのは第四小隊の駐屯所であったらしい。
無駄のない動きで処置を始めた彼らの横顔を眺めながら、クオンはちら、と姉を見遣った。
「……私がもう少し早く気付けていたら、二人とも怪我しなくてすんだのにね」
珍しくしおらしい様子のミアに、クオンは目を疑った。
あまりの物珍しさにうっかり精霊眼まで開いてしまって、不躾な態度が気に入らなかったらしいミアの張り手が飛んでくる。
「誰かが傷付いている姿を見るのは、気分が良いことじゃないでしょう」
「姉貴にも人の心があったんだなあ」
「うふっ。久しぶりに泣かされたいみたいね?」
猫のように目を細めたミアに、クオンが笑いながら両手を持ち上げて『降参』のポーズを取った。
そんな弟の姿を見て溜飲を下げたミアは、その隣でずっと黙りこくっている従兄弟に興味を移した。
「キヨ? どうしたの、黙って」
「…………リオラ、死なないよね」
普段から寡黙なキヨラが震えながら紡いだ言葉に、ミアたちは息を呑んだ。
ララを抱くその腕が、小刻みに震えていることに今になって漸く気が付く。
「……大丈夫よ。第四小隊が回復魔法に特化した部隊だってことは、よく知っているでしょ?」
「ん」
ぽろり、とキヨラの目から大粒の涙が零れ落ちた。
ララの額に当たって弾けたそれは、空気中に散らばってすぐに見えなくなってしまう。
「キーちゃん? どっかたいたいなの?」
恐怖で愚図っていたはずのララが、はらはらと落ちてくる涙の雨に、顔を持ち上げる。
くりっとした小さなまんまるの目に見つめられて、キヨラは少しだけ眦を和らげた。
「ううん。痛くないよ。心配してくれてありがとう」
「ほんと?」
「本当、本当。ララは? どこか痛くない?」
「ララ、ちょっと怖かったけど、リーちゃんやママのおかげでたいたいないよ!」
「なら良かった」
ララのおかげで強張っていたキヨラの雰囲気が柔らかくなる。
それを見て、ミアとクオンは安堵に胸を撫で下ろした。
「やっぱり、ララは偉大だね。貴方とシィナが結婚したきっかけもあの子だったし」
「……その話は蒸し返さない約束だろ」
「ごめんごめん。つい、ね」
「それよりも、あの剣。どう思う?」
クオンはシィナから摘出されたばかりの剣に視線を送った。
その問いに、ミアの目も険しくなる。
「詳しく見てみないと分からないけれど、転送魔法と座標の固定術式が施されていると思う」
「やっぱり、」
「魔力を送らない限りは発動しないから大丈夫だけど、念のため反魔法の結界に入れておくね」
ミアの手が、剣の柄にそっと触れる。
ガラスのように透き通った翡翠のそれには隙間なくびっしりと術式が施されていた。
「……ナハトくんに聞くのが一番なんだけど」
先日の一件から、未だナハトの損傷は回復していない。
その件を解決するためにもシィナに助力を仰ごうと思っていたところに、この襲撃事件である。
「次から次へと」
これだから、騎士団は辞められないんだよね。
うっそりと、恍惚に表情を染めた姉の横顔に、クオンは深いため息を吐き出した。
さっきまでのしおらしい姿は一瞬の幻だったらしい。
常の様子に戻った彼女の姿にどこかホッとしている自分にも辟易としながら、顔色の戻ったシィナとリオラの姿に、クオンは目を窄めるのだった。
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