第二話:颶風の気配

 ベリル大陸で二番目に国土が広い海陽ハイヤン帝国を目指し、翡翠国を出発したアルカがまず向かったのは、透澄トウチォン公国。

 およそ二泊三日の船旅だ。

 透澄トウチォンはベリル大陸の玄関と言っても差し支えないほど栄えている国だ。

 元は海陽ハイヤン帝国の領土だったが、五百年前の統一戦争で敗北した貴族たちが起こし、独立した比較的新しい国である。

 海陽ハイヤン透澄トウチォンも翡翠国同様、多種族が暮らしており、それぞれの信仰を大切にしている多神教の国でもある。

 少し違うのは、翡翠国がアニミズム寄りの自然信仰であることに対し、海陽ハイヤン透澄トウチォンは各種族が大事にしている民間信仰が多いといったところだ。

 なぜ一番国土の大きなダジボーグ王国に向かわないのかというと、ダジボーグは人間至上主義の国だからだ。

 魔人族のアルカは入港することすら難しいだろう。

 現在でも他種族に対する差別行為が横行しており、国際社会でもそれは問題視されている。

 百年前、そんなダジボーグ王国から追い出されるように独立したのは、先住民だった狼化種族と熊化種族が起こしたスヴェントヴィト共和国だ。

 今も尚冷戦状態ではあるものの、ここ五十年は戦闘行為をすることなくにらみ合いが続いている。

「初めて船に乗って思ったけど……、結構つらいね。酔っちゃった……。最終日にどうしてこんなことに……」

 アルカは甲板で海に向かって嘔吐しながら顔を真っ青にしている。

 船に乗って最初の二日間は何ともなかった。

 きっと初めての遠出に興奮していたからだろう。

 ただ、最終日である今朝、急に気分が悪くなったのだ。

「だらしねぇなあ。箒じゃ酔わないくせに」

 ピクロは水筒を手渡しながら、嫌そうな顔でアルカを見た。

「自分で運転するのと他人ひとが運転するものに乗るのは全然違うんだよ。それに……、波が無理」

 こんなことになるのなら、酔い止め薬を調合して来ればよかったと、アルカは激しく後悔した。

「ねぇ、ピクロ。みんなが君を見ているのだけれども」

「可愛いからな、俺」

「あっそ」

 この客船には、透澄トウチォン公国から遊牧民たちの土地を通り、ダジボーグ王国へ行く人々も乗っている。

 つまり、人間至上主義の人間たちと、その他種族が同じ船内にいるのだ。

「わたしまで視線が痛いんだけど」

 生まれて初めて向けられる侮蔑ぶべつと拒絶が入り交じった視線。

 アルカにとってはまだ興味深いと思える範疇だが、これを何年も浴び続ければ、あまりいい気分にはならないだろうとも理解できる。

「我慢しろ。どうあがいたって、この世界じゃ人間の方が大多数なんだからよ」

 もちろん、差別的感情を全く持っていない人間も多く存在するが、種族の違いというものはそう簡単に乗り越えたり受け入れたり出来るものではない。

 獣化種族や鳥化種族、爬蟲はちゅう化種族、鬼や悪魔などの根棲こんせい幻想種族の中には、人間を食べるものもいる。

 警戒してしかるべきなのだ。

「俺たちのことが怖けりゃ、水棲すいせい幻想種族がアトランティス大陸に引っ込んでるみたいに、一生そこだけで生活してりゃいいんだよ」

「ちょっと! 声が大きいよ」

「ふん!」

 ピクロの人間嫌いは筋金入りだ。

 何度理由を尋ねても教えてはくれないが、大昔に何かあったようだ。

 それ以降、魔人族の魂しか食べずに生きて来たらしい。

 アルカに捕まってからは、アルカの余剰魔力を食べている。

「あ、陸地が見えて来たよ」

 アルカはホッとしたように積み重なっている縄の上に座り込んだ。

透澄トウチォンの悪魔どもはお行儀がいいから苦手だ。着いたらさっさと汽車に乗り換えて海陽ハイヤンに入ろうぜ」

「ええ、嫌だよ。せっかく観光できるルートで来たんだから」

「お前には危機感ってものがないのか。魔女にも言われただろ? お前だってその存在を知られたら命を狙われるんだぞ」

「大丈夫だよ。それに、目的の一つは情報収集でしょ? 港町は最適じゃないか」

「お前は相変わらず暢気のんきだな」

「翡翠国内以外で初めての一人旅……、あ、いや、二人旅だからね。楽しまなくちゃ」

「着いてきたことを後悔してるよ俺は」

 いくらピクロが文句を言ったところで、外見は可愛い猫のぬいぐるみだ。

 多少声が低いことに目を瞑れば、ファンシーな状況だと思えなくもない。

「で、吐き気はおさまったのか」

「もうすぐ降りられると思ったら元気出てきた」

「あっそ」

 ピクロはぷいっと横を向いてしまったが、どうやら心配してくれていたようだ。

 長い付き合いの中でうっすらではあるが、アルカは絆を感じていた。

 唯一の友人、というのもあるが、ピクロは基本的にお節介なのだ。

「で、透澄トウチォンに着いたらまずどこに行くつもりなんだ」

「えっと……、歴史博物館かな」

「は? なんでだよ」

「翡翠国には魔王と勇者の記録が残ってないんだもん」

「ああ、なるほど。不都合な歴史は紅碧こうへき家が梵書ぼんしょしたからな」

 翡翠国は世界創世神の子孫である紅碧こうへき家が代々統治してきたが、政教分離により、現在は国の精神的支柱、そして外交政策の要としてその存在を示し、今に至る。

 今でこそ自然信仰アニミズムに似た多神教で多種族が平和に暮らしているが、翡翠国こそ、千年前に魔王を生み出し、そしてそれを封印するための巫女――勇者を輩出した国なのである。

「大昔から親交のあった海陽ハイヤン帝国の中でも、透澄トウチォン公国を起した貴族とは数回にわたる婚姻関係があったらしい。だから、当時の記録もいくつか残ってるんだって」

「ふうん。良く調べたな」

「お師匠様の屋敷にある図書館にはいろんな資料が置いてあるからね」

「……俺以外の友達も作ろうな」

「わ、わかってるよ」

 師匠も言っていたが、アルカは隠され、護られて育てられてきた。

 そのせいか、昔から一人遊びが得意で、友人がいないことを不自由だと思ったことは一度もなかった。

 積極的な引きこもり体質なのだ。

「アナウンスだ」

 船内に『あと十五分で到着いたします』と放送が入った。

「あ、油断したらまた吐き気が……」

 アルカは急いで立ち上がると、また甲板から海に向かってキラキラと吐き出した。


「つ、着いた……」

 ほとんど満身創痍と言ってもいいほど疲れ切ったアルカと、その左腕を引っ張り上げるように飛ぶピクロは無事に透澄トウチォン公国の港へと降り立った。

「どうする? どっか飲食店でも入って休むか?」

「う、ううん。大丈夫。もう吐くものもないし。深呼吸しながら歩くよ」

 季節は秋。

 海風が涼しく、アルカは歩いているうちに気分が良くなってきた。

 目に映る、どこか懐かしさを感じるレトロな雰囲気がとても好ましい。

 街行く人々の服装も、地元の人々は皆伝統装束を身に着けている。

 観光客からの反応は上々のようだ。

「あ! あったよ。歴史博物館」

 『透澄トウチォン公国立歴史博物館』と達筆な文字で書かれている建物はとても趣深く、壮観。

 円形土楼という、かつての巨大な居住空間を改築して建てられたものらしい。

「わくわくするね」

「俺は興味ない」

 二人はチケット売り場へ行き、「大人二枚下さい」と言ったはいいものの、アルカはその幼い顔立ちから疑われ、ピクロはそもそもぬいぐるみであるために、受付の女性に怪訝な顔をされてしまった。

「あ、あの、身分証です。十八歳以上は大人料金なんですよね?」

「あらあら、十六歳のうちの息子よりも若く見えちゃったもんだから。ごめんなさいねぇ。そっちの猫ちゃんは無料でいいわよ。どうせ、カウンター横の石像よりも背の低い子供は無料だから」

 「猫ちゃん」「子供」と立て続けに言われたピクロは渋い顔をしていたが、「無料」という言葉に仕方なさそうに頷き、おとなしく館内へと入って行った。

 アルカは同盟国内で使える共通通貨、べいで払った。

 大人一枚で銀貝ぎんべい一つと銅貝どうべい二つ。

 翡翠国の通貨で換算すると千二百円といったところ。

 少し高いが、観光地の博物館のため仕方がない。

 チケットを受け取り、中へと入って行くと、とても美しい空間が広がっていた。

「素敵な建築だなぁ」

 豊かな木の香りが鼻をくすぐる。

「なんだ。いつの間に建築に興味を持つようになったんだ」

「どうせ友達が君しかいないからね。本ばっかり読んでいるといろんなことの知識が身に着くんだよ」

「おいおい、その通りだな」

 ピクロはケラケラと笑いながらアルカの後をついていった。

「もっとちゃんと見て回りたいけど、さすがにこの規模だと一日かかりそう。はやく翡翠国の展示に行こう」

「あいよ」

 翡翠国の展示場は建物をぐるりと半周した先にあった。

「わ、広いね」

「観光客としても貿易相手としてもお得意様だからなあ」

「そういう言い方寂しいんだけど」

「事実だろ」

 二人は手分けして記録を探した。

 十分後、アルカの足がある展示の前で止まった。

「あったよ、ピクロ」

「お、意外と早かったな」

 二人の前にあるのは、いくつかの絵巻物と、魔王討伐に使用された武器防具の数々だった。

「……『魔王は天津星あまつほしから生まれた』って書いてあるね」

「ほう。邪神信仰か。魔王は紅碧こうへき家を恨む連中から生まれたってことだ」

「どうしてわかるの?」

紅碧こうへきは世界創世神って言われてる太陽神の子孫だろ? それに相反する勢力のことを白虹はっこうって言うんだよ。字の通り、白虹はっこうは星々の輝きから作られる白い虹のことだ。この世で唯一太陽を穿つことが出来るのは、その白虹はっこうだって信仰が大昔にあったんだ」

「へぇ……」

「本の虫のお前が知らないのも無理はない。こういう話が書いてある書物はすべて紅碧こうへき家が闇に葬っちまったからな」

 アルカは資料を見つめながら、自身のルーツが酷く悲しいものの上にあるのではないかと感じていた。

「勇者に選ばれた紅碧こうへきの巫女は、どうやって魔王を封印したんだろう。どうして魔王の子を身ごもったんだろう……」

「ううん、さすがに書いてないな。なんだ、結局何が知りたかったんだ」

 アルカは絵巻物を見つめながら呟いた。

「……わたしの弱点」

 ピクロは目を見開いて動きを止めた。

「お前、死ぬ気なのか」

「例えわたしか師匠が0012とその子供やらクローンを葬ったとしても、魔王わたしが生きていたら意味ないでしょ」

「馬鹿だなお前は。こうは考えないのか」

 そう言うと、ピクロはある武器の前で止まった。

 青銅の剣には、黄金に輝く八咫烏の紋章が施されている。

 目の部分にはめ込まれたピジョンブラッドのルビーが美しく煌めく。

「お前の師匠である魔女は魔王と勇者の一人娘だろ? ってことは、お前は勇者の子孫でもあるんだよ。魔王よりも勇者に近い存在かもしれないのに、それを知らずに死ぬのはもったいないぞ」

 ピクロの言葉に、アルカは胸がきゅっと苦しくなり、同時に熱くなった。

「ありがとう、ピクロ」

「事実を言ったまでだ」

 ピクロの不機嫌さが、今はただただありがたかった。

「せっかく遠出できるようになったんだ。さっさと過去の因縁を断ち切って、世界一周でも十周でも、遊ぼうぜ」

「そうだね。うん。元気出たよ」

「おう」

 二人は博物館を出ると、宿を探しに街へ出た。

 夕陽が港を橙色に染め、光の道が出来ている。

 二人の進む道も、そうであるよう願った。





「あら? また来たの。猫ちゃんは置いてきたのかい?」

 少年は小首をかしげながら思案すると、ハッとして受付の女性にたずねた。

「僕に似た人が来たんですね?」

「え……。あ、そういえば目の色が違うねぇ。身長も、君の方が小さいみたいだ。おばちゃん、見間違えちゃった。ごめんよ」

 少年は深い海のように青い目で女性を見つめながら優しく微笑み、「いいんです。よくいる顔ですから」と言った。

「えっと……、子供一枚でいいのかい?」

「はい。僕はまだ十二歳なので」

 少年は提示された金額を払い、チケットを受け取ると、館内へと入って行った。

 目指すは翡翠国の展示室。

 歩きながらも、自然と笑みがこぼれる。

「ふふ。母上に報告しなくちゃ」

 バサッと一瞬音がして、純白の羽が一枚ひらりと床に落ちた。

「危ない危ない。興奮すると翼が出ちゃう癖、直さなきゃ」

 空気が冷たくなっていく。

「兄上殿、きっとまた会えますよ。ふふふ」

 それはただ秋の気配が漂っているだけなのか、少年から発せられる何か別のものなのか、誰にも分らなかった。

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