CHAPTER 6 彼女が望むもの
翌朝の早朝――エバンは馬に跨り、草原を駆けていた。
通常であれば、起床して身支度を済ませたあとのこの時間は訓練や稽古に精を出しているものだった。しかし今日だけは、彼はそんな毎日の習慣……というより、騎士団としての義務から外れることを行っている。
だがもちろん、遊びなどではない。
彼が向かう先はラスバルの村、ロヴュソールのみならず、多くの国家と取引を行うほどの大規模な農村だ。穀物はもちろん、多くの種類の野菜や果物の生産、さらには畜産まで行っており、ロヴュソールでは『我が国の台所』と呼ぶ者もいたほどだった。
ロヴュソールにとって、ラスバルは自国の食を支える重要な柱だった。そしてラスバルにとってもロヴュソールは重要な取引先であり、双方良好な関係を築き、長年に渡って交易が続けられてきた。
しかし、その取引は突然として途絶え、ラスバルからの物資がまったく届かなくなった。文を出しても、返事もない。
国王はじめ、ロヴュソールの重鎮達は困惑した。
今は国が備蓄していた食糧を流通させることで民を守っているが、それもいつまでも続くわけではない。
一方的に取引を打ち切られるような心当たりもなく、ラスバルはロヴュソールとの交易を『打ち切った』のではなく『できなくなった』。もしかすると、文に対しての返事を出すことすら困難な状況に陥っているのではという意見が出始め、それは次第に有力視されていった。
魔物が絡んでいる可能性も考えられ、早急に実態調査が必要となった。国家と違ってひとつの村に過ぎないラスバルには兵もおらず、自衛能力など皆無に近いだろう。
その調査の役に、エバンが選出されたというわけだ。
「何事もなければいいんだが……」
砂煙を巻き立てながら疾走する馬に跨り、全身に風を受けながらエバンは呟いた。
彼が騎乗している赤茶色の馬は国王が貸し出してくれたもので、ロヴュソールが保有している多数の馬の中でも一際足が速く、力もある馬だった。乗りこなすにはかなりの技術が必要と言われていたが、騎士団副団長の立場にあるエバンは乗馬の技術にも秀でており、15歳という若さにしてこの馬の手綱を握ることを許されていた。
手綱や鞍といった馬具だけでなく、エバンは国王から借り受けた赤茶色の馬に必要な装備を括りつけ、携行していた。剣や食料はもちろん、何らかの理由で帰れなくなった場合に備えて寝袋も持ち込んだ。調査を終えたらすぐにロヴュソールに戻るつもりでいたが、何が起きるかは分からない。使わずに調査を終える可能性が高く感じられるものの、備えあれば憂いなしだろう。
天候やこの馬の足の速さを考慮すると、ラスバルの村まで1時間ほどはかかる見通しだった。
到着するまでは、このまま馬の背に揺られ続けているしかない。
エバンはふと、昨日の出来事を思い返した。
◎ ◎ ◎
「だが、心配はあるまい? 貴様はわらわと契約を結んだ身であるのだからな」
オプスキュリアは微笑んだ。
美しくもあり、怪しさ、それに不気味さもたたえた笑みだった。
エバンの右腕に絡みついた金髪が、ぱさりと崩れ落ちた。エバンはすぐに袖を戻し、薔薇の茨が絡みつくような模様が赤く浮き出た自分の腕を隠した。
再び視線を戻した時、オプスキュリアは俯くように顔を伏せていた。
すぐに彼女が顔を上げる。その時にはすでに、エバンの前にいた魔妃は別人に変わっていた。
「お話は、終わった?」
赤く変じていた瞳は青色に戻り、険阻で眼光鋭く、眼差しを向けられた者すべてを畏怖させるような雰囲気は消え失せていた。
目の前にいるのは、この部屋でエバンを迎えた時の清楚で優しげな雰囲気をたたえた美少女だった。
さきほどまでの彼女は、オプスキュリアの意識がエルマの意識を乗っ取って現れた存在。それが解けた今、彼女は元のエルマだった。
これ以上話すことはない、と判断したのだろう。オプスキュリアは自らその身を退かせ、エルマに意識を返還したのだ。
「ああ、ありがとう」
オプスキュリアに会い、彼女の助言を求める。
エバンがここに足を運んだ目的は、ひとまず達せられた。
「っと、いけない……」
エルマは慌てて、自身の足元に落ちた黒薔薇を拾い上げた。それは、いつも彼女が大事そうに抱えているものだった。
ロヴュソールの黒薔薇、かつては忌むべき存在とされていたが、今はこの国の象徴とされる花。彼女もきっと、それが持つ意味は知り得ていることだろう。
「その黒薔薇、いつも持ってるけど……そんなに大事なものなのか?」
記憶している限り、エバンがこの部屋に足を運ぶ時には、エルマは必ずあの黒薔薇を抱いていた。
刈り取っても、除草剤を撒き散らしても、炎で焼いても再生するロヴュソールの黒薔薇。切り花になったあの黒薔薇も、枯れることはないだろう。
それはまるで、オプスキュリアの魔力によって寿命を引き延ばされ、年を取らずに何百年と生き続けているエルマと重なる気がした。
「うん、黒薔薇はたしかに、他の色の薔薇と違って華やかさには欠けるかもしれない。でもわたし、好きだよ。落ち着いた感じがあるっていうのかな、とにかく他の色にはない雰囲気があるし、それに……」
その手に抱いていた黒薔薇に落とされていたエルマの視線が上げられ、エバンのほうを向く。
「この黒薔薇は、エバンがくれた贈り物だから」
純粋な笑顔を浮かべ、エルマは告げた。
そう、エルマがいつも抱いている黒薔薇は、いつかエバンが切り取って彼女に贈ったものだった。
エルマがこの塔から出られるのは、オプスキュリアの魔力が必要とされる時のみ。そんな機会が訪れるような出来事は、エバンが思いつく限り戦争の時だけだ。
戦火の中で薔薇を見ることなどできるはずがないし、そもそも戦争中ではエルマの人格はオプスキュリアに取って代わられてしまう。だから彼女は、自分の目で薔薇はおろか、ロヴュソールの各地に自生する黒薔薇すらも見ることができない。
また薔薇を見てみたい……彼女がいつか、エバンの前でそうこぼした。
エバンは前、遠征した際にピンク色の薔薇を国へ持ち帰ったことがあった。それをエルマに見せてあげようとしたのだが、塔の入り口のあの結界に触れた瞬間、その薔薇は燃え尽きてしまった。
黒薔薇は通過できるのに、国外から持ち込んだ薔薇は通れない――理由は分からないが、結界が黒以外の薔薇を通すことを拒んだかのようにも思えた。
塔に入るには、あの結界を絶対に通過しなければならない。だから、黒以外の薔薇を持ち込んでエルマに見せることは不可能だった。
「ごめん、その……黒薔薇しか見せてあげられなくて」
エバンには申し訳なく思えた。
塔の頂上、それもこんな明かり以外に何もない部屋に何百年も幽閉されているのだ。彼女のささやかな望みくらいは、叶えてあげたかった。
「大丈夫だよ。そもそもわたし、エバンがここに会いに来てくれることだって嬉しいから……この黒薔薇、ずっと大事にするね」
黒薔薇を胸元に抱き締め、エルマは無垢な笑顔を見せた。
「本当にありがとう、エバン」
エバンには不思議に思えた。これからもずっと、もしかしたら永遠にこの塔から自由には出られず、国の最終兵器として利用され続けられる運命にあるかもしれないのに、どうして笑うことができるのか。どうして、そこまで他人を思いやることができるのか。
少なくとも、自分がそんな立場に置かれれば絶対に気がおかしくなる。高所から飛び降りてでも、剣で喉を裂いてでも、岩壁に頭を打ち付けてでもいい。どんな方法だろうが、そんな一生を過ごすくらいなら自害を選ぶだろう。
エバンはそう思った。エルマの無垢で純粋な笑顔を見るたびに、そう思っていた。
同時に、エルマをこの塔から救い出したい。魔妃オプスキュリアの魔力、それに国の重圧。そういった彼女を縛るものすべてから解き放ってあげたいと感じた。
そして願わくば……エルマに黒以外の薔薇を見せたいと心から思った。
◎ ◎ ◎
「っ!」
考え事をしていたエバンだったが、彼の思考は現在の状況へと引き戻される。
彼が跨っている赤茶色の馬が、突然走るのをやめて立ち止まったのだ。
「どうした?」
もちろんエバンは、止まれなどという指示は出していない。
手綱を使い、進めと命令してみる。しかし馬は、再び走り出すことはなかった。ただ唸るような、おののくような鳴き声を発するだけだった。
様子がおかしい、何かに気づいたのか?
馬は視力はさほど良くないが、人間より非常に鋭敏な嗅覚を有するとエバンは知っていた。だとしたら、何か奇妙なにおいでも感じ取ったのかもしれない。そうでもなければ、ロヴュソールの軍馬が騎手の命令に背き、勝手に足を止めたりはしないだろう。
周囲の様子を探ろうと、エバンは一旦馬から降りようとした。
その時、何かが追い迫ってくる気配を感じ、横を向いた。
「うっ!」
反射的に、エバンは身を屈めてそれをかわした。
すれ違いざまに、エバンは自身に向けて飛び掛かってきたのが茶色い毛並みをした獣だった。
すぐにその方向に目を向けると、その獣は不気味な唸り声を発し、口からダラダラと唾液を垂らしながらエバンの様子をうかがっていた。
獣臭い臭気が鼻をつくが、そんなことに構っている余裕などない。
エバンはすぐに地上へ降り立ち、馬にくくり付けた装備を探って剣を取り出し、抜いた。鞘は不要なので、その場で投げ捨てた。
「ダルラグ、どうしてこんな場所に……!?」
エバンを襲撃してきた獣――ダルラグは単独ではなかった。
先の1匹に加え、すぐにもう2匹が現れ、計3匹となる。狼ともハイエナとも分からない風貌をした獣は、離れた場所からエバンの様子をうかがっていた。
ダルラグは『敏捷なる襲撃者』という異名を取り、体格こそさほど大きくはないものの、異名が示すように素早く動き回り、獲物を仕留めることを得意とする。さらにある程度の知性も備えているようで、複数の個体で徒党を組み、狩りを行うことを得意としていた。
しかしながら、ロヴュソールとラスバルのあいだに位置するこの場所で遭遇したという例をエバンは聞いたことがない。
なぜ、こんな場所に?
疑問には感じたが、理由を探っている暇はなさそうだった。よほど飢えているのか、3匹のダルラグは嫌に気が立っていて、凶暴な面構えをしているように見えたのだ。
いつ襲い掛かってきても、不思議ではない。
「3匹か……!」
思いがけず遭遇することとなった敵を前に、エバンは剣を構えた。
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