CHAPTER 5 籠の鳥
エルマ、それにオプスキュリアとの面会を終え、エバンは塔を後にした。
だだ広い部屋を出て、螺旋階段をひたすら下り、赤い光の結界を通過して外へ出る。入った時とまったく同じ道順を、逆に辿った。
思っていた以上に時間は過ぎており、塔に入る前は夕焼けに染まっていた空も黒く変じていた。
これから家に戻り、出発の準備を済ませて休まなくてはならない。ラスバルの実態調査に向かうのは明日の早朝だった。
「エバン」
不意に後方から呼び止められ、振り返る。
エバンを呼び止めたのはガルウィンだった、彼は塔の近くに生えた大きな木に背中を寄りかからせ、エバンのことを見つめていた。
「団長……」
予期せずして、上官と遭遇した。会議終了後にもう休むと言っていたが、そうではなかったようだ。
エバンが塔に入り、エルマと、そしてオプスキュリアと面会しているあいだ、彼はずっとここで待っていたのだろうか?
「髪長姫、それに魔妃の様子はどうだった?」
木から背中を離し、エバンのほうへ歩み寄りながらガルウィンが訊いてくる。
「これといって、変わったことはなかったよ」
エバンは答えた。
エルマ、それにオプスキュリアがいるあの部屋に入るには、塔の入り口に張られた赤い光の結界を通過しなくてはならない。しかし、それができるのはエバンと国王だけだ。それ以外の者が塔に入ろうとすれば、たちまち結界から発せられる炎に焼かれて死んでしまう。つまり、ガルウィンは塔の頂上に位置するあの部屋に入ることも、階段を上ることも、そもそも塔に踏み入ることすらできない。
彼がエルマやオプスキュリアの様子を知るには、エバンに尋ねるしかないのだ。
「そうか。お前のほうも、あの娘に……それに魔妃から何かをされたわけではないな?」
まばたきもせずエバンをじっと見つめ、ガルウィンが問いを重ねてきた。
ロヴュソール王国騎士団団長である彼は、副団長である少年があの塔に入ったということを聞くと、しばしばそのような質問を投げかけてきた。これで何度目なのか、もうエバンには思い出せない。
騎士団全体を仕切る者として、部下の身を案じるのは当然だろう。しかしエバンには、どこか過保護であるようにも感じられていた。
「別に何もされてないさ。いつも思うけどガルウィン、心配しすぎだよ」
嘘はついていない。
オプスキュリアが髪を動かして、それを使ってエバンの袖を捲ったことを除けば、彼女はエバンに触れてすらいない。
「心配しすぎなものか、あの娘の恐るべき魔力がお前に向けられたりしようものならどうなるか……ただ、お前のことを案じているだけだ」
戦場にエルマ、すなわちオプスキュリアが投入された時、ガルウィンは彼女を『大量殺戮兵器』と称していた。
あの時もそうだったが、エバンにはどうしても納得がいかなかった。
会議のあとのやり取りの時も感じたが、どうして彼はそこまで彼女を恐れ、おぞましい存在であるかのような言い方をするのだろうか?
ずっと気になっていた。しかし、理由を尋ねてみようとは思わなかった。いつもそうであるように、尋ねたところで打ち明けてくれないだろうと思ったからだ。
「ところでエバン、気になっていたことがあるんだが」
「何?」
ガルウィンは目を細め、じっとエバンを見据えた。
まるで、ここからが本題だと言いたいようにも感じられた。
「髪長姫に対して、情が移るようなことはあるまいな?」
「えっ?」
エバンは一瞬、ガルウィンの言葉の意味を理解できなかった。
緩やかな風が吹き、木に付いた無数の木の葉がザワザワと音を立てる。ふたりの足元に生えた無数の黒薔薇が揺れ、かぐわしい花の香りが鼻腔に届いた。
ガルウィンがどういう意図をもってそのような質問を投げかけてきたのか、エバンがそれを理解した頃には、もう風は止んでいた。
「何言ってるんだよ、俺は陛下から彼女の……エルマ、それにオプスキュリアの見張りを任されているんだ。あの塔に通っているのも、その任務を全うするためさ。彼女に情が移るだなんてことはない」
塔の入り口の結界を通過できるのは、国王とエバンのみ。
もちろん、国家の最高責任者たる王は忙しい。忙しく、エバンには想像もできないほどの多大な責任と、重圧を負っているだろう。
日々膨大な仕事に追われ、どれほど多忙な毎日を過ごしているのかなど、エバンには想像もできない。時間の余裕などあるはずがないし、塔に足を運ぶこともままならないに違いなかった。
ゆえに、国王以外で唯一あの塔に踏み入れるエバンが、エルマひいてはオプスキュリアの監視役を引き受けるしかないのだ。
あれほどの魔力を有する彼女が敵に回ったりしようものなら、国家の存亡を左右しかねない。エバンが行っているのは単なる雑務などではなく、ロヴュソールの命運に関わる重要な仕事だ。
ガルウィンも、そんなことは承知のはずだ。そう思っていたのだが、
「その言葉……誓って本当だろうな?」
騎士団団長を預かる男は、エバンの言葉をすぐには信じなかった。
それどころか、彼の口から発せられたのは疑いが滲んだ言葉だったのだ。
当然だろう、とエバンは答えようとする。しかし、できなかった。上官の眼差しは、嘘や誤魔化しを一切拒絶するものだった。
エバンは観念するようにため息をつき、視線を逸らせた。
「情が移った……かどうかは分からないけれど、戦争とかを抜きにして外の世界に連れて行ってあげたいって気持ちはある」
無数に咲いた黒薔薇を見つめながら、エバンは本心を打ち明ける。もう隠し通せないと感じたのだ。
「かわいそうだとも思わないか? その身体をオプスキュリアの依り代にされて、望まない魔力を与えられて……年も取らず、水も食べ物もなく、戦争の時以外は自由に外にも出られない……あの塔でもう何百年も、そんなふうに過ごしているんだからさ」
語りながら、エバンは塔の頂上を見上げた。具体的にどのあたりなのかは分からないが、視線の先にはさっき彼がエルマ、それにオプスキュリアと面会したあの部屋があるはずだった。
あそこで今、彼女は何をしているのだろうか。
いや、きっと何もしてはいないだろう。あの部屋には家具も何もないし、窓もない。何かをしようとしてもできないし、外の景色を見ることすら叶わない。
水も食事もないし、湯浴みもできない。といっても、エルマにはその必要もないだろう。水や食事がなくても生きていられるし、湯浴みをしなくとも彼女は一切の穢れを寄せつけない。
エルマに許されているのは、せいぜいその身に宿った魔妃オプスキュリアと語り合うこと、それに睡眠くらいだろう。
望まずに与えられた魔力に、不老不死の身体。それに余るほどの時間――髪長姫という異名の所以たる、部屋中に広がってもなお余るほどのあの金髪は、彼女が途方もない期間、国に縛られてきたという事実の証であるようにも思えた。
これからも何年、何十年、何百年と……彼女はそんなふうに時を過ごすのだろうか? あの金髪は、際限なく伸び続けていくのだろうか?
エルマがまるで、永遠に閉じ込められたままの籠の鳥のように思えた。
明日も明後日も、1年後も10年後も、このままではきっと永遠に、エルマはあの塔に幽閉され続けるのだろう。そして、自分の意思で陽の光を浴びることすら許されない日々を過ごしていくのだろう。
彼女が不憫でならない……エバンは、そう感じていたのだ。
「やはり、お前は青いな」
ガルウィンは言った。エバンの言葉に関心したようにも、はたまた呆れているようにも思えた。
どういう意味なのかを問いたかったが、エバンにその猶予は与えられない。
「エバン、お前は黒薔薇の花言葉を知っているか?」
「えっ?」
不意に重ねられた問いに、エバンは怪訝な声でしか対応できなかった。
黒薔薇はロヴュソール各地に自生していて、この国に住む者であれば誰もが目にしている。見飽きている者だって少なくはないだろう。
しかし、多くの人々がおそらくそうであるように、エバンもその花言葉など知らなかった。黒薔薇にどんな意味があるのかなど、考えてみたことすらなかった。
「“あなたはあくまでわたしのもの”……だ」
どうしてガルウィンがそんなことを言うのか、エバンには分からなかった。
だが、黒薔薇の意味を聞かされた瞬間、エルマやオプスキュリアのことが頭に浮かび、思わず唾をのんだ。
足元に視線を向ける。
そこに生えた無数の黒薔薇が、不気味な眼差しで自分を見上げているように思えた。あなたはあくまでわたしのもの……ほんのさっき聞かされた黒薔薇の花言葉が、エバンの頭の中を反響していた。
真意など読めなかったが、それはガルウィンからの警告であるような気がした。
エルマ、ひいてはオプスキュリアに情を寄せつつある自分に対して、注意を促しているのかもしれなかった。
「お前のそういう青さは嫌いではないが、その青さで破滅を呼び込まないよう注意することだ。さっきも言ったが、一歩間違えばお前まであの娘の餌食になりかねないことを忘れるな」
ガルウィンが、黒薔薇を踏みしめながらゆっくりとエバンのほうへ歩み寄ってくる。
すれ違う間際に、
「色々と言ったが、お前のことはもちろん信頼している。騎士団の副団長としても、戦友としてもな」
歩を進めていくガルウィンの背中を、エバンは黙って見つめた。
「ラスバルの村の実態調査、よろしく頼む。お前が不在のあいだ、騎士団は私に任せておけ」
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