CHAPTER 4 魔妃オプスキュリア


 女の髪には悪魔が棲まう――。

 それはロヴュソールに限らず、古くから伝承されてきた言い伝えである。いや、すでにそれは言い伝えや御伽噺という枠には収まらず、まぎれもない真実として知れ渡っているだろう。

 この国において、髪長姫……つまりエルマのことは最重要機密として扱われているが、彼女が長大な金髪を有している美少女だということ、ひいては凄まじい魔力を振るって魔物を蹴散らす能力を秘めていることも、おそらく誰もが知っている。

 先の戦にてそうだったように、これまで彼女は幾度も戦場に投入されてきた。そして、幾度も魔物の侵攻から国を守る立役者となってきた。だから知られないほうが無理な話であり、兵士だけでなく、民衆、ひいては他国にも周知のことだ。

 しかし、エルマの魔力の源泉については、限られた者しか知り得ていない。

 エルマの身に宿された魔妃――オプスキュリア。

 彼女と会うことが、エバンがここを訪れた目的である。


「オプスキュリアと?」


 エルマが訊き返した。

 オプスキュリアは、すでにエバンの目の前にいる。しかし、まだ会えてはいない。

 彼女と会うには、『出てきてもらう』必要があった。それにはまず、エルマに頼んで『出してもらう』必要があるのだ。

 エバンは頷いた。


「ああ、頼めるか?」


 エルマも頷き、目を閉じる。俯くように顔を下へ向ける。


「オプスキュリア、エバンがあなたに会いたいって……」


 顔を上げたと同時に、閉じられていたエルマの目が開かれる、青かったその瞳が赤く変じていた。

 変じたのは瞳の色だけではない。エルマの表情も大きく変わっており、清楚で優しげだった色は消え失せ、険阻で眼光鋭く、眼差しを向けられた者すべてを畏怖させるような形相だった。

 エバンの目の前にいる少女は、すでにエルマではなくなっていた。

 彼女の手に抱かれていた黒薔薇が、その足元に落下する。

 床に広がる純白のドレスと、その上を駆け巡る金髪。そこに落ちた一輪の黒薔薇。

 美しさと不気味さが相乗的に絡み合い、神秘的なコントラストを生んでいた。しかし、それを見る猶予は与えられない。


「わらわに何用だ、小僧」


 発せられる言葉にも、威圧感が滲み出ていた。

 幾度も聞いてきた声ではあるのだが、やはり慣れない。しかしエバンは自らの役目を思い出し、使命感を取り戻した。


「オプスキュリア……もう知っているだろうが、君が言ったとおりになった。アストリアが同盟を破ってこのロヴュソールに侵攻してきた」


 ゆっくりと前に歩み出ながら、エバンは語った。

 そう、先の戦は予見された出来事だった。


「当然であろう。これまで、わらわが間違ったことがあるか?」


「いや……俺が知る限りでは、一度もない」


 ロヴュソールと同盟を結んでいるはずのアストリアが、魔物の力を帯びて侵攻してくる。それを予見したのは、今エバンの目の前にいる彼女だ。

 エルマではない、彼女に封じ込められている魔妃――オプスキュリア。

 その人格が顕現する時、エルマの両目は赤く変じる。今そうであるように、声色も性格もすべてオプスキュリアのそれに取って代わられ、エルマの意識はどこかに追いやられることとなる。

 今はエバンが希望してオプスキュリアに出てきてもらっているが、有事の際にはオプスキュリアが強制的にエルマの人格を押し退けることもできるようだ。戦場で魔物を蹴散らした時も、きっとそうだったのだろう。


「『俺が知る限りでは』? 貴様、わらわを愚弄するか。この数百年、読みを違えたことなど一度もないわ」


「機嫌を損ねたなら謝るよ」


 エバンは背筋を伸ばして、エルマ……否、オプスキュリアに向き直った。


「それより、今回も君が魔物を追い払ってくれたお陰でこの国は助かった。礼を言う」


「礼など求めてはおらぬ」


 エバンの感謝を、オプスキュリアは一蹴した。

 感謝など、彼女にとっては無価値も同然のものなのだろう。


「わらわは魔妃であるぞ。あんな粗雑に生み出された、小虫同然の魔物どもに好き放題されるのが気に食わなかっただけだ。それに、今この国を攻め落とされてはわらわの悲願も達せなくなる……」


 そこで、オプスキュリアの言葉が止まった。


「それだけ? 仮にも魔族の君が俺達に味方してくれているのは、他に理由があるんじゃないの?」


 エバンが問うが、オプスキュリアは答えなかった。

 視線を外して忌々しげに舌打ちすると、赤い目が再びエバンに向けられる。


「詮索は無用だ。貴様、わらわに命を握られていることを忘れるな。この塔の入り口の結界、通過できないようにすることもできるのだぞ。そうなれば、困るのは貴様であろう」


 塔の入り口に張られていた赤い光の壁は、オプスキュリアの魔力によって作り出された結界だった。

 結界には人を認識する力がある。触れた蝶がたちまち炎に包まれたように、許可された者以外が通ろうとすれば、結界はその者を焼き尽くし、殺すだろう。結界が赤い色をしているのは、その危険性を侵入者に知らしめるためなのかもしれなかった。

 オプスキュリアが作り出した結界は、破壊することも誤魔化すこともできない。

 通過できるのはエバンと、国王だけだ。


「分かったよ、気をつける。本題に入ってもいいかな?」


「ふん、よかろう」


 オプスキュリアは腕組みをした。

 エルマの人格の時には決してしなさそうな、いかにも高圧的な仕草だ。


「実は、ラスバルの村からの荷物が急に途絶えたんだ。文を送っても返事が全然なくて……ラスバルの村は知ってのとおり、この国の有力な交易相手、ロヴュソールで消費されている穀物の7割の仕入れ先でもある」


 オプスキュリアは何も言わず、腕組みをしたまま眉をひそめた。 


「なんとなく嫌な予感がしていたんだけど、アストリアの襲撃があったことでさらにそれが強まった。ラスバルとの交易、それに連絡の途絶……魔物が絡んでいると見るべきだろうか?」


「わらわに助言を求めに来たということか。それで小僧、察するに貴様は、ラスバルに出向いての実態調査を命じられたというところか?」


 オプスキュリアは、的確にエバンが負った任務を言い当てた。

 このままラスバルから穀物を仕入れることができなければ、国の食糧庫は大打撃を受けることになる。ラスバルは食糧生産においては非常に名高く、ロヴュソール以外にも多くの国家と取引を行っているほどだ。

 エバンが言ったとおり、国内で流通している穀物の7割はラスバルから仕入れられている。

 国王はじめ重鎮達は、ラスバルとの取引が不可能になった場合の対策を講じていた。繰り返し文を送って応答を求めたり、代わりに穀物を仕入れられる取引先がないか探しているそうだ。しかしながら、その成果は芳しくないと聞いている。

 現在は、国庫の食糧の備蓄を切り崩す形で民を救っているらしい。しかし、それも永久に続けてはいられないだろう。

 対策が難航する中、国王はエバンにある任務を命じた。

 それこそが、エバンにラスバル村に出向いての実態調査を行わせるというものだった。


「ああ、そういうことさ」


「ふん……国の糧、ひいては人民の命を左右するそのような任務を貴様ひとりに丸投げとは、国王もずいぶん冷酷になったものだな」


 国王からラスバルの実態調査に向かうよう命じられた時、正直エバンは耳を疑った。

 アストリアの襲撃以前から、ロヴュソールに魔物が侵攻してくる事件は幾度か起きている。ラスバルとの途絶に関しても、魔物が絡んでいる可能性は十二分に考えられた。もしそうであるならば、自分ひとりの手には余る任務だと感じたのだ。

 しかし国王の命に逆らえるはずもなく、『御意』と答えるしかなかった。


「冷酷だなんてことはない、国王はいつだって民のことを最優先に考えている。このことも俺に丸投げしたのではなく、俺を信頼して任せてくれたのさ。それにいつ、またこの国への侵攻が起きるか分からない。だから、ラスバルの実態調査に大人数の兵を投入することはできないんだろう。お前という切り札があっても、陛下は決して油断はしておられない」


 組んだ腕を崩さないまま、オプスキュリアは口元に笑みを浮かべた。


「相変わらず貴様は、馬鹿が付くほどの忠義者だな。齢15にして騎士団副団長を任されているのも、ただ剣の腕が立つからということだけが理由ではあるまい?」


 エバンは何も言わなかった。

 オプスキュリアは一旦目を閉じ、そしてまたエバンと視線を重ねた。その時にはもう、彼女の顔に笑みはない。


「ラスバルからは嫌な魔力を感じる。出向くのであれば、くれぐれも用心することだな」


 組んでいた腕を崩し、その右手の平がエバンに向けてかざされる。

 次の瞬間、オプスキュリアの金髪が動き、蛇のようにエバンの右腕に絡みついた。


「っ!」


 エバンは息をのんだ。

 絡みついた金髪によって衣服の袖がめくられる。

 ――露になったエバンの右前腕には、薔薇の茨が巻きつくような模様が赤く浮き出ていた。


「だが、心配はあるまい? すでに貴様は、わらわと契約を結んだ身であるのだからな」





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