第25話 謎の令嬢
しかし、それが俺に向けられた言葉でなかったらただただ恥ずかしい。俺の背後にいる、姿の見えぬ恋人などであったらどうだろう。
俺は返事をするべきか迷っていた。
「どうしたの、足を止めたりして。あなたにそんな感情はないはずよ」
周囲を探ったが他に気配は感じられない。ならば、それらの言葉は俺に向けられたものなのだろう。
そう思い込むしかない。
俺は静かな足取りで女に近づく。女は依然として変わらぬ口調で語り続ける。
「ふう、今回は早かったわね。まあ良いわ、私は諦めない。あなたをその座から引き下ろす、その日まで」
飲み物をすする音がする。女は落ち着いているようにも見えるが、どことなく気落ちしているようにも感じる。
「さあ、やりなさい」
俺は女の後ろ、約5メートルほどの距離にまで近付いた。
「お、俺に言っているんだよな?」
不安が残る。聞かずにはいられなかった。
俺の声を受けて、女がゆっくりと振り返る。気品のあるシルクのドレスに、胸元に輝く宝石。知的な瞳は、同時に意思の強さをうかがわせる。
不意に視線が交わった瞬間、少しドキッとしてしまったが、ぐっと押し殺して無表情を装う。
この出会いに、何か意味があるのだろうか。
男女の出会いか、はたまた何かの運命なのか。
ああそうだ、例えば恋愛ドラマなんかではこんな感じだ。
一瞬だが、時が止まったかのように感じた。だが、女が振り向いた時、それは激しい音と共に崩れ去ることになる。
「だ、誰よ、アンタ!?」
これにはさすがの俺も驚いた。全く予想だにしなかったセリフだ。
「俺はロ……」
勢いで名乗ろうとしてしまったが、フィッシャーの言葉が脳裏に閃く。軽々しく名乗りを上げてはならない。
とはいえ、何か答えなければ気まずい。
「俺は通りすがりの一般人……」
「えっ、通りすがりの一般人ですって!?」
激昂もしくは驚愕。一見しただけでは判然としない声だ。女は急に立ち上がったかと思うと、つかつかと靴音を鳴らして迫り来る。
「今、通りすがりって言ったわね!?」
もしかすると地雷を踏んだのか。だが、下手に言い訳をしてもどうにもならない気がした。
「あ、ああ、言ったが…」
「まあ、なんてこと!?」
女性は両の手を顔にあてて、舞台役者の如くに驚きを表現した。
「こんな所に通りすがりの一般人が来るなんて、何てことでしょう。あなた、名前は!?」
俺が困りは果てて戸惑っていると、女は更に声を張り上げて続ける。
「そうよね、通りすがりに名前があるのも確かにおかしいわ。あなたは、そうね、とりあえず通りすがりで、私の執事であるロジタール、そういうのはどう? ……あら、満更でもないって顔ね、じゃあ決定!」
予想外の出来事に、俺は思わずフリーズしてしまった。
「ロジタール? それは何か良くない名前なのではないか?」
突如として飛び出したロジタールの名前に、俺はそっと探りを入れた。マダイの国で、その名前は禁忌に近いはずだ。
「そう? まあ、そこまでありふれてはいないけど、それなりにまともな名前だと思うわ。もしかして気に入らなかった? いや、通りすがりにそんな事はありえないはずよ。でもあなた、本当に変よ」
「変ではないと思うが……」
どっちが変だ、と言いたいのをぐっと堪えて、俺は力なく答えた。女はぼんやりと考える仕草をして、俺に問う。
「ねえ、もし私がビンタしたら、怒る?」
ふざけているかと思えば、顔は真面目だ。そこが何となく気にかかる。
「そりゃあまあ、理由もなく頬をはたかれれば、怒るかも知れないな」
一部には喜ぶ人間もいるだろうが、それはそれだ。女の真面目な顔つきを見てちゃかすような気にはなれない。
「……まさかと思うけど、あなた、もしかして人間?」
「どういうことだ?」
その時、やや離れた所から物音がした。何かが荒々しく森の中を動いているようだ。
「今度こそ奴らだわ、いつもなら私も諦めるけど、ロジタール、あなたという存在を得た以上、もう少しあがくことにした! こっちに来なさい!」
「待ってくれ、どうしようと言うのだ」
女は俺の手を引っ張って奥へ向かおうとする。しかし俺にもフィッシャーとの約束がある。これ以上無駄に歩き回ってしまうと、もはや町への道が分からなくなってしまうかも知れない。
「ダメよ、奴らに見つかったらかないっこないわ。これは負けイベントなのよ、回避するしかないの、急いで!」
そこまで叫んだところで、女は一転して肩を落として、分かりやすく気落ちした。
「……ああ、そうか、あなたも結局、この為に存在したというのね。変な期待をした私がバカだったわ」
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