37.冬の終わり(前)———イェセリウス
「今日はここまでにしておきましょうか」
そう声をかけると、ラウラは一度窓の外を見て、それから不思議そうにイェセリウスの方を見やった。少し下からこちらを見上げる、森の翠と春告げる花の赤。
「どうしたの、イェセル。いつもは夕の鐘が鳴るまでお稽古してるでしょう? まだ昼一つ目の鐘も鳴ってないよ?」
不思議そうを通り越して怪訝そうな顔のラウラとは対照的に、セアルはその理由に思い至ったようで、静かに成り行きを見守る構え。というわりには視線が完全にラウラを向いているところがらしいといえばらしいが。
「そうですね。春祭りは一週間後に迫っていますしわたしもそうしたいところですが……。今日は、春祭り当日の動きを確認しようと思いまして」
「当日の動き?」
「はい。正門から中央広場までと、中央広場に入ってから舞を始めるまでの動きですね」
「それはわかったけど……ずいぶん早くにするんだね。私、そういうのってもっと直前になってからするものだと思ってた」
「実はこれでもぎりぎりなんですよ? もうそろそろ祭りの準備のために周辺から人が集まり始める頃です。これ以上遅くなると、悠長に説明などできないほど人が溢れ返りますから……」
「そういえば去年もすごい人混みだったね……」
あのわりとえげつない人混みを思い出したのだろう、ふっとラウラの視線が右上を向いて、焦点がずれる。つられてイェセリウスも思い出しそうになって、慌てて咳払いをした。
「こほん。……それでは、早速行きましょうか。わたしは着替えてきますので、ラウラさんとセアル殿も準備をお願いします」
「うん、わかった」
「あぁ」
いそいそと汗を拭いたり上着を着たりする気配を感じながら、大広間を出る。駆け出さないぎりぎりの速度で部屋に戻り、運動用の動きやすい衣を脱ぎ捨てた。
「これ、お願いします」
「かしこまりました!」
緑鱗種の従僕の少年に脱いだ衣を渡し、いつもの長衣に袖を通す。高く結い上げた髪は一旦解いて低い位置でくくり直しつつ、扉の方へ。差し出された魔術式懐炉を首から下げながら廊下を足早に進めば、足元で長衣の裾が早い歩みに従いはためいた。足を取られるほどではないが、少しだけ煩わしい。
(そういえば、王都で屋内に昇降板を設置した屋敷が増えている、とクロシェルド
鍛えているとはいえ、イェセリウスももう三十歳を迎えようとしている。そろそろ代謝が落ちて、太りやすく痩せにくい身体になり始める頃だ。親類にいるような、自分の体より大きな獲物を呑んだ蛇のような腹にはなりたくない。
(ラウラさんも、きっと……)
太った男は嫌いだろう。なにせ周りにいるのは、細身ながらもしっかりと鍛えられた体躯を持つ者ばかりだ。
(……努力することとしましょう)
階段を下り、しばらく廊下を進んでまた階段を下る。攻め込まれにくくするため短く分割して設置された階段は、今は焦りを誘うばかり。
「すみません、お待たせしました」
大広間に戻ると、もうすっかり外に出る準備を整えたラウラとセアルが何やら話している。普段ほとんど表情の変わらないセアルが微かに口元を綻ばせていて、ラウラに向ける思慕の深さが窺えた。
「何の話をしていたのですか?」
「あ、イェセル。……実はさっき、外は寒いからって執事さんが魔術式懐炉をくれたの。それがとっても暖かいね、って話をしてただけ」
「気に入ったのでしたら差し上げますよ。壁のない屋台に長時間座っていたら、身体が冷えてしまうでしょう?」
「……いいの? これ売ってるのを見たことあるけど、そんなに安くないでしょ?」
「魔具としては平均的な価格ですよ? ラウラさんの持っている魔具も、同じぐらいの値段だったでしょう?」
互いに首を傾げあう。何か、前提条件がずれているような気がしてならない。
「あぁ……私の使ってる魔術式カンテラとかランタンって、自分で作ったものなの。古道具屋さんで魔具の外装が売ってたから、それに魔術を刻んだ魔結石を入れて……」
「……すごいですね、ラウラさん。魔術を扱うだけでなく、魔具まで作れてしまうなんて」
「そう? でも、そんなに褒めてもらうほどのことじゃないよ。あまり複雑なものは作れないし……」
「生活に役立てられる品質のものが作れているならば、十分にすごいですよ。立派に魔具職人を名乗れます」
「そ、そう……? あの、イェセル、もう大丈夫だから……早く、外に行こう? 春祭り本番の動き、確認するんでしょ?」
何でもない風を装いながら露骨に話を逸らして、ラウラはソファーから立ち上がった。寒さ以外の理由で赤くなった頬と耳が、可愛らしい。ついつい意地悪してしまいたくなる。
(これ以上は、怒られてしまいますかね?)
横から感じるじっとりとした視線に一つウインクを返しておいて、イェセリウスはちょっと苦労して悪戯心をしまい込んだ。
「ええ、そうですね。行きましょう」
濃緑色のローブに映える栗色の三つ編みお下げを追う。後ろからもう一つ足音がついてきていることもきちんと確認して、玄関へ急いだ。
「まずはどこに行くの?」
玄関先で待っていてくれたラウラに追いついて、雪舞う街路を行く。王の道に出る前で立ち止まって、そう問うてきた。
「まずは正門まで行きましょうか。春祭りの始まりは、パレードからですので」
「そうなんだ?」
「ええ。春の乙女は南からやって来るので、それに準えて正門からパレードを行うんです。ラウラさんは去年の春もこの街にいたんでしたよね。見なかったんですか?」
「私の住んでるところ、裏門の方が近いし……すごい人だから用がないなら行かない方が安全だ、ってケントが同僚さんから言われたらしくて」
「なるほど、それで……」
領主名代としても祭祀官としても祭りを見守らないという選択肢はあり得なかったイェセリウスからすれば、人混みが嫌だから祭りに行かないという考えは些か新鮮だ。もしかしたらそういう考えの人は一定数いるのかもしれない。
「でも、行ってみてもよかったかな、とも思うよ。例え同じお祭りでも、本当に同じものなんてきっとないと思うから」
「……そうですか?」
去年、一昨年、もっと前。一つ一つ、春の始まりの記憶を手繰ってみる。すると、どうしたことだ。同じ日。同じ街。同じ式次。それでもイェセリウスの見てきたアトーンドの春祭りは、一つとして同じではなかった。
(運営の行政官や祭祀官の顔ぶれ? それとも、パレードに参加する子供たちの姿? ……いいえ。きっと、それら全て)
「……そうでした。わたしの見てきた春祭りは、毎年同じようで……でも、毎年違っていました」
「でしょ?」
「はい。……きっとわたしの見てきた春祭りと、ラウラさんやセアル殿が見てきた春祭りもまた、違うものなのでしょうね」
辺りに視線を向ければ、家々の窓辺に二週間前にはなかった植木鉢が飾られている。まだ小さな蕾は固く閉ざされていて、春の乙女が訪れるまで開くことは決してない。
(……そういえば、こんな風にわたしが春祭り当日の動きを説明するため外に出るのも初めてですね)
これも、去年と違うこと。心の中で一つ、指を折る。
今度は南の方向、正門のある方へ目を向ける。雪霞む街並みはあまり遠くまで見えなくて、目指す正門は遥か彼方のように思えた。
「……正門までは、まだかかりそうですね。その間に、聞かせていただけませんか? ラウラさんやセアル殿の春祭りが、どんなものだったのか」
「構わない」
「いいよ」
ほんの少しだけ先を行くラウラがちょっぴり足を速めた。積もった雪を踏みしめる、ただそれだけの音がやけに大きく耳に届く。
先ほどよりも離れた、ぎりぎり手の届かないぐらいの位置でラウラは立ち止まり、身体ごと振り返った。ふわりと緩く弧を描いて、三つ編みお下げが背中に隠れ見えなくなる。
「その代わり、イェセルの春祭りがどんなのだったのかも聞かせてね」
「……長くなりますよ?」
「いいよ。正門まではまだかかるんでしょ?」
「……そうですね」
好きな人がいること。これも、去年と違うこと。心の中でもう一つ、指折り数える。
はたして春祭りが始まるまでに、いくつ去年と違うことが見つかるのやら、なんて考えながら、イェセリウスはラウラに向かって微笑みかけた。
――――春祭りまで、あと一週間。
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