38.冬の終わり(後)———ラウラ
不意に瞼に触れた冷たさに、ラウラは反射的に目を閉じた。見上げれば、昼間は止んでいた雪がまた空に舞い始めている。冬の終わりを惜しむかのように降るそれは次第に強さを増して、遥か下方からはいくつもの嘆息が聞こえてきた。
「……いつもならこの時間、起きてる奴なんかいねーのにな」
「そうね。でもまあ、仕方がないわ。春祭りはもう明日だもの」
夜闇に沈んでいるはずの街路は火や魔術の灯りに照らされ、多くの人が行き交うさまはまるで昼間のようだ。だが今の時刻は、夜の鐘が鳴る少し前。本来ならば普通の人々はとっくのとうに眠っており、街を歩くは欲に溺れた者どもと魔女たちだけという時間だ。
「夜を徹して作業するぐらいならもっと早くから始めとけよな」
「それはそうだけど……王都やその近くからすれば、アトーンドは北の最果てよ? ここに来るだけでもちょっとした旅だわ」
「街道も整備されてるし、移動にかかる時間ぐらい分かんだろ。見通し甘過ぎじゃね?」
「そうね。夜が明けるまでに終わるのかしら」
「知らね」
「……何だかイラついてるわね、ケント。どうしたの?」
「何でもねーよ」
言葉とは裏腹にぶすくれた顔のケントに苦笑しつつ、その顔を覗き込む。ラウラの与えた翠と生来の黒をそれぞれ宿した両の瞳は、頑ななまでにラウラを見ない。
「私にも話したくない?」
「………」
「ケント?」
「……あいつら邪魔だなって、思ってた」
「そうね。お散歩には、少し邪魔ね」
「こいつらもだけど、そうじゃなくて、……あいつ。白蛇野郎、うぜーなって」
「もしかして、イェセルのこと? まあ、確かに突然『明日支度などで朝が早いので、今日は泊っていってください』だものね。私もちょっとびっくりしたわ」
「それもあるけど、ずっとラウラのこと見てたのが一番ウザかった。……あいつもラウラのこと、好きになったんだろ」
「そうみたいね」
愛欲司る『白』の魔女たるラウラは、そこにいるだけで愛欲――つまり、人を愛し愛されたいという欲を喚起する。もし愛を向ける相手がいるならばその相手への愛がより深まるし、深まりすぎた愛がいびつに歪んでしまうことも、誰かの愛がラウラに向くことだって当然ある。だからこんな風に、周り中から好意を向けられることなんてこれまでにも幾度となくあったけれど。
「……拗ねちゃった?」
「そんなんじゃねーよ!!」
「隠さなくていいのに」
「隠してねーし!!」
「ふふ。可愛い子」
毛先の白くなった黒髪をわしゃわしゃ掻き回すと、ものすっっっごく複雑そうな顔をしながらも大人しく撫でさせてくれる。ちょっぴり羨ましそうなカウルやトーヴァには悪いが、二頭には少しだけ我慢してもらって。
少し上にある頭を引き寄せて、こつんとおでこをくっつける。あまりの近さに自然と上目遣いになったケントは、やっぱりちょっと拗ねた目をしていた。
「大丈夫よ、ケント」
安心させるように、ゆっくり頭を撫でながら。魔女なりの誠実で言葉を紡ぐ。
「私に『特別』ができたって、あなたが私の
「『特別』も他の奴らも、愛すのに?」
「だって私、欲張りだもの。その愛に多寡はあれど、みんなみんな愛するわ。あなたには悪いけれど、それは変えられない」
「知ってるよ。ラウラがそういう奴だって」
「ええ。そういう奴なの、私。―――それでも、あなたを愛しているわ。私の眷属。私の可愛い狼さん」
「……ラウラのくれる愛を疑ったわけじゃ、ないんだ」
「ええ」
「でもオレは、ラウラじゃないから。……生まれながらの魔女じゃないから。ときどき……わからなく、なるんだよ」
「いいのよ、わからなくなったって。私は何度だって、あなたに愛していると伝えるわ。……むしろ、ごめんなさい。あなたを不安にさせてしまって」
「ラウラが謝ることじゃねーよ……」
ゆっくり、ゆっくり、頭を撫でる。ケントの不安を感じ取ったのか、いつの間にかカウルとトーヴァも傍にいて、足元にそっと寄り添っていた。
そうしていると、視界の隅に何か動くもの。見れば、髪と同じく先の白くなった尻尾が、下を向いたまま右に、左に揺れていた。
「なまえ、呼んでくれよ。ラウラがオレにくれたやつ」
「もちろん。―――ケント」
「もっと」
「ケント」
「もっと、呼んで」
「ケント。―――ケント。愛しているわ」
「うん。オレも」
目を閉じて素直に甘えてくる姿はこの上なく愛おしくて可愛らしいが、そうしていると下から聞こえる人の声が煩わしくなってくる。
「ケント。ねえ……ケント。別の場所に、行きましょう? あなたの言う通り、今日のアトーンドは少し、人が多すぎるわ」
「ん」
額を放して、一歩後ろに。音高く手を叩いても、魔法に隠されたその音に気付く者はいない。誰にも気付かれることなく、二人と二頭の姿が街からかき消えて。
転移したのは、アトーンドから少し離れた森の中。今日は春祭りの前日ではあるが、人らが忌む黒の日でもある。薄く積もった雪に、人の歩いた跡はない。
「『影の森』じゃないんだな」
「ええ。少し、用事があって。……ところでケント、どの方向が一番寒いと思う?」
「は……? ……んじゃあ、こっち」
「こっちね」
辺りに幾つか光を浮かせ、雪に埋もれた木の根で転ばないよう注意しつつ道なき道を行く。ある程度進んだらまた立ち止まって、後ろを振り返った。
「今はどの方向が一番寒い?」
「……あっちだな」
「あっちね。わかったわ」
さくさくと、雪を踏む音だけが夜の森に響く。適当なところで足を止めて、また振り返った。
「じゃあ、次は?」
「………向こうだと思うけど。なあ、これ、どこに向かってんだ?」
「着いてからのお楽しみ。……たまには、こういうのもいいでしょう?」
「……まあ、悪くはないけど………」
ケントの示した方へ、歩き出す。問う回数が増えるごとにケントも慣れてきて、十数回に及ぶ頃には振り返るだけで最も寒いと思う方向を指し示すようになってしまった。ちょっとつまらないのだが、それはさておき。
「ん……どうやら正解みたいね」
「着いたのか?」
「ええ。ほら、この先の広場になってるところよ」
木と木の隙間から小さな空間を覗き込んだラウラとケントの鼻先を、冷たい風が通り抜けていく。覗き込んだその場所には尋常ならざる厚みで霜が降り、中心部にはぼうと天を見上げる真っ白な男の姿があった。
「あいつ、なんでこんなとこに……?」
「すぐに分かるわ」
話し声に気付いたのか、凍てついた瞳がこちらを見やる。いつもの無表情は、どこか少し悲しげだった。
『……我が兄妹』
「こんばんは、冬の男。あちこち移動していたみたいだけど、何か探し物?」
『……花を、探していた。――――は、花が好きだから』
呟いた名はきっと、彼しか知らない春の乙女の本当の名前。ラウラも知らないその名は、全てを凍てつかせるような声で、ひどく温かに紡がれて。
「そう……。花は、見つかったの?」
『……そもそも、見つけることすら出来なかった。仮に見つけたとしても、私が地に下りればこうなるのだ。花などすぐに、萎れてしまう』
局所的に発生する異常な霜や何の兆候もなく突然発生する吹雪のことを、人々は「冬の足が下りた」などと言う。それは真実言葉の通りで、ひとたび冬の男が地に足を下ろせばたちまちその場所は凍てつき氷と霜に閉ざされてしまうのだ。
「分け身とはいえ、貴方は『冬』だもの。冬に咲く花だって、貴方の寒さには耐えられないわ」
『そうだろうな』
「だから―――これは、幻よ」
左から、右へ。撫でるように手を動かせば、分厚い霜は拭い去られるように消えて、小さな広場は薄青く発光する花が咲き乱れる花畑へとたちまち姿を変えた。
『……これは?』
「ベルチェという花よ。冬の夜に咲く花で、魔力を吸って育つから貴方が足を下ろした場所に咲きやすいの」
『そうか。………そういう花も、あるのか』
「持ってきてあげたいところなのだけど、残念ながらこの花、一晩でしぼんでしまうのよね。だから、これで勘弁してちょうだい」
『良い土産話が出来た。………美しい花だ』
「でしょう? 私も結構好きなの、これ」
『迷惑をかけた』
「構いやしないわ、我が兄妹」
『迷惑ついでにもう一つ、いいか』
「何かしら」
『長らく人らは「春」をこの地に招けていない。……視線を交わすことは出来ても、言葉を交わし、触れ合うことは叶わない』
万年氷のような瞳は、焦がれるような熱を宿してラウラを見上げてくる。彼が
『会いたいのだ。……会いたいのだ、我が兄妹。どうか、私の「春」を……喚んでは、くれないか』
「……いいわよ。愛欲司りし『白』の魔女の名にかけて、春の乙女をこの地に……アトーンドに喚んであげる。……でも、これは貸しだからね?」
『ああ。この借りはいつか、必ず』
「分かっているならいいわ。私、そろそろ戻るから」
『感謝する、我が兄妹』
追ってきた言葉には軽く手を振って答え、元来た道をケントと並んで歩いて行く。適当なところで足を止めて、向かい合った。
「楽しかった? ケント」
「まあ、結構」
「それならよかったわ。……また、来ましょうね」
「ベルチェ? とか言ってたよな。今度は本物、見に行こうぜ」
「いいわね。また、いつかの冬に」
「ああ」
――――冬が、終わる。
<第1章・完>
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