34.この傷で守れるのなら(後)———イェセリウス

 雪の積もる切妻屋根の上、雲間から突き刺してくるような朝日にイェセリウスは目を細めた。手で目を庇いながら、辺りを見回す。積もる雪はところどころが青空を千切り取ってきたようなターコイズブルーに染まり、人々が流した血により赤く染まっているところもあった。動く魔獣の姿がないことを確かめてから傍らの騎士に声をかけ、周囲の警戒を頼み目を閉じる。


 真っ黒な世界の中、様々な場所から様々な音が聞こえてくる。ブーツが雪を踏む音。剣を鞘に納める音。鎧の擦れる音。魔獣の息遣いや足音は、イェセリウスの聞こえる範囲にはないようだった。


「……どうですか、イェセリウス様」

「この周辺に生きている魔獣はいないようです」

「そうですか……! 奮闘した甲斐がありましたね」

「一旦皆を集めましょう。その後、見回りの班を振り分けます」

「かしこまりました。『風、その色は緑。運ぶものにして壊すもの。繭となりて我を包め』」


 詠唱の終わりと同時に、結い上げた髪が少し揺れた。魔術がきちんと発動したことを確かめ身を躍らせると、身体は羽毛のようにゆっくりと落ちていく。

 結界縄で囲み簡易陣地と化した北広場に降りると、気が抜けたのか口からため息が漏れ出た。予兆もなく突然始まった影津波は、二重の壁を乗り越え街中にまで被害を及ぼした。警務隊を中心に敷かれた防衛線のお陰で街への被害は大したものではなかったが、魔獣の様子がおかしくいつもより苦戦を強いられ、人的被害が出てしまった。


(命のやり取りであるからには、仕方のないこと。ですが、やはりくるものがありますね……)


 傷む心から目を逸らし、集まってきた騎士たちの様子を確認する。幾つかの隊に分け、街中に魔獣が隠れていないか見回るよう命じた。騎士たちが三々五々散っていくのを見届けた後、イェセリウスも傍に控える騎士たちを振り返る。


「わたしたちも行きましょう」

「その、イェセリウス様……。大丈夫、なのですか」

「貴方たちの尽力のお陰で怪我はありません。大丈夫ですよ。それより、早く民たちを安心させてあげなくてはなりません」

「……そうですね。参りましょう」


 騎士たちには大丈夫だと言ったものの、少しばかり身体が重く眩暈もする。間違いなく魔力切れの初期症状だった。


(魔力を使い果たしたら倒れてしまいかねない……。気を付けなくては……)


 青い魔結石煌めく指輪の形をした媒体つえは、イェセリウスの最も得意とする青の魔術の行使を助けてくれるもの。これがあるのであと一、二回であれば倒れることはないだろうが、それ以上ともなれば厳しいだろう。

 王の道を裏門方向へ歩いていると、前方から戻ってくる人々が視界に入った。隠しようもない、血の臭い。


「……もしや、そこにいるのはイェセリウス殿か?」

「アネス殿! 魔獣を倒しきったのですか?」

「侵入してきたものは、な。裏外門は魔術で塞いでしまったから、私たちが外に出るのは撤退時のことも考えると得策ではなくてな……魔術師の方々も多くが魔力切れを起こしているから、今は弩弓バリスタやクロスボウで攻撃しているところだ」


 頭の天辺から爪先まで、という形容があるが、実際にその状態になった人を見ることになるとは思わなかった。全身くまなくターコイズブルーに染まったアネスに怪我はないようだが、ここまで魔獣の血を浴びるとは一体どれほどの魔獣を屠ったのか。恐れにも似た感情が湧いてくる。しかし。


「イェセリウス殿も魔獣を討伐し終わったのか? 今回は市壁を越えてしまったものも多かったから、大変だっただろう。貴方も無理をしがちだが、無茶は禁物だぞ? 長期的に見れば、思い切って休んだ方が………何故笑っているのだイェセリウス殿。私は真剣に話をだな……」

「ありがとうございます、アネス殿。見回りが終わったら休ませてもらいますから、大丈夫ですよ。アネス殿も、きちんと休息を取ってくださいね。気付かぬうちに疲れを溜め込んでいることもあるでしょうから」

「む、そうだな。私もさっさとやるべきことを終わらせて、早めに休憩するとしよう」

「それがいいでしょうね」


 素直で真っ直ぐな労りの言葉の前に、そうしたものはすぐに消えてしまう。人から愛される人とは、こういう人を言うのだろう。


(愛される人、と言えば……)


「そういえば、ラウラさんの姿が見えませんね。まだ前線に?」

「それが……流石に限界が近いだろうと一緒に戻ろうとしたのだが、『様子を見ておきたいところがある』と言って、どこかに行ってしまったのだ。イェセリウス殿たちは今から見回りなのだろう? 見つけたら、私があまり無理をしないようにと言っていたと伝えておいてもらえないだろうか」

「構いませんよ」

「助かる。……それではな」

「ええ。また後ほど」


 アネスと別れた後、騎士たちと共に北東の区画を見て回った。数体小型の魔獣を見かけたが、どの魔獣もすぐさま襲い掛かってきたため、魔術を使っている暇がなかったのは幸いと言えるだろう。しかし、他の区画を見て回ったどの騎士からもラウラらしき人を見たという話を聞かなかったことだけが、少し気がかりだった。

 蛇族領主城館に戻り、半ば倒れ込むように寝台に転がる。やはり夜通しの戦いは体力的にきつく、魔力切れ寸前ということもあって目を閉じればすぐさま眠りがやって来た。


「旦那様。お起き下さい」

「今、いくつめの鐘がなりましたか……」

「丁度、昼の鐘が鳴ったところでございます」

「……そう、ですか。すみませんが、紅茶をください……」

「ご用意しております」


 寝台の中で、というのは行儀が悪いが、今すぐ目を覚まさないと再び眠りに落ちてしまいそうだ。閉じようとする目を気力でこじ開け、カップを受け取る。熱いそれを一口含めば、じわじわと眠気が去っていくのがわかった。


(身体の怠さは取れている。眩暈もない。動くに支障ない程度には、魔力は回復したようですね)


 ふと、視界の中にある自分の腕が戦装束に包まれたままだということに気付く。髪も、結い上げたままだ。そういえば着替えもせずに寝台に倒れ込んだのだった。


「……沐浴をしたいのですが」

「ご用意しております」


 全く、気の利く執事である。


 汗疲れ汚れその他もろもろを洗い流してさっぱりしたイェセリウスは、いつも纏っている祭祀官の長衣に着替え自室を出た。食事しながら騎士や執事からの報告を受け、食事を終えた頃合いに祭殿からの連絡を受ける。

 此度の犠牲者の葬儀は、夕の鐘が鳴ると同時に始まるそうだ。


(花を、手向けに行かなくては)


 この国では、死者は葬儀が始まるまでは広場に並べられることが多い。葬儀が始まれば弔歌を歌った後に棺の蓋が閉められ、遺族や祭祀官で墓地に運び、埋葬。という流れになる。それ故に、個人的な死者との別れは葬儀の前に済ませておかなければならない。

 顔見知りの警務隊員、部下である騎士、魔術師として前線に出た祭祀官、この街に住まう蛇族同胞たちにも花を手向け、別れを告げなくてはならない。


 自室に戻って腰帯を黒に変え、上着やストールも葬送に相応しいものを身に纏う。鏡台の前に腰掛け櫛を手に取ろうとしたところで、後ろに控える使用人の存在を思い出す。

 いつもは自分でやってしまうところだが、今回ばかりは使用人プロに任せることにした。


「髪は後ろで結ってくれますか? 前に垂らすと、ストールと絡みそうなので」

「かしこまりました」


 鏡の中で、使用人がイェセリウスの髪を梳いている。肌に生える鱗と同じ、ぬめるように光を弾く白い髪。黒瑪瑙オニキスの珠がついた黒い飾り紐が髪を纏めたところで何故か肩から力が抜けた。どうやら動いてはならないと、無意識に力を込めていたらしい。


「できました」

「ありがとうございます」


 階下に降りる。執事から絹製の造花がいっぱいに入った籠を受け取り魔術式懐炉を首から下げ、そのまま一人で外に出ようとしたら、騎士が泡を食って追いかけてきた。まだ一人で行くのは許してくれないらしい。


「魔獣が現れたらどうするのですか……! イェセリウス様は魔術師で、突発的な襲撃には対応しづらいとご自身で仰っていたではありませんか!」

「わたしとて剣や体術は一通り修めているのですが……。確かに、そんなことも言いましたね。……では、道中よろしくお願いします」

「はい!」


 雪の積もる道を行く。戦いの後の沈鬱のせいか、灰色の空のせいか。左右に聳える石壁はいつも以上に冷ややかに感じた。

 建物が途切れ、視界が開ける。そこは街路以上に灰色で冷ややかで、寂しい空気が満ちていた。幾つもの棺の隙間を喪服の人々が歩き立ち止まり、哀しみと別れの声が雪雲に吸い込まれていく。先ほどまで陣地だった名残はなく、モノクロームの風景の中に入り混じるターコイズブルーと暗赤色だけがいやに目に付いた。

 雪舞う寒さに腐敗は進まず、漂う死臭は薄い。その所為か、ここが告別の場であるということが上手く実感できなかった。


(花を、手向けなくては)


 どこか何かが麻痺したままに、籠からつくりものの白百合を抜き取る。ひとつひとつ棺を覗き込み、知る顔であったなら、蛇族であったなら、悼む言葉と微かな思い出と、絹の花弁を持つ白百合を棺の中に置いていった。


 次の棺には誰が眠ると覗き込めば、まるで本当に眠っているだけなのだと誤認するほど生き生きとした死化粧を施された女性が横たわっていた。剥き出しの肩に落ちた雪が溶けないことに、彼女の死を知る。人の顔を覚えるのは得意な方なはずなのだが、この女性の顔には全く見覚えがない。


 頭の中を漁る最中、視界の端に棺の縁を撫でる手があることに気付く。邪魔をしてしまっただろうかと顔を上げれば、いつもと違うローブを纏ったラウラがそこに立っていた。傍には黒衣の男が立っていて、その男から立ち上る香りはやけに甘ったるい。嗅いでいるだけで頭がくらくらしてきた。


「こんにちは、イェセル。騎士さんも」

「こんにちは、ラウラさん。……この方は?」

「この人は娼館の店主さんだよ。彼女は、彼の店の娼妓だったの」


 彼女の雇い主だったはずの男の目に、涙はなかった。無感情に眺めているだけかと思えば、唐突に口を開いた。


「馬鹿な女だ」


 間違っても死者にかけるような言葉ではない。思わず怒りが湧いてくるも、ラウラの瞳がイェセリウスの口を封じた。


「男衆のひとりに恋をして、そいつを庇って死んだ。……妓が恋をすれば寿命を縮めると、知らない訳ではなかったろうに」


 口調に反して、花を置く手は優しかった。


「次は、間違っても娼妓などにはなるな」


 冷めた瞳がこちらを向く。哀しみ、憐み、浮かんでいると思った感情の全ては彼の瞳の中にない。


「蛇の名代殿か。……疲れを溜め込んでいそうな顔だな。羽目を外しにくるなら歓待しよう」

「は」「薬屋、俺はもう行く。……帰るときは、気を付けろ」

「ありがとう。じゃあね」


 黒衣の男はあっさりと身を翻し、甘ったるい香りだけを残して去っていった。死者を侮辱したかと思えば悼むような素振りを見せたような気がしたその口で人を娼館に誘う。結局何を考えているのか全く分からないしどんな顔をすればいいのかもわからない。何なんだあの男は。


「あんまり怒らないであげてね。店主さんは店主さんなりに、彼女を悼んでるから」


 苦笑気味のラウラに毒気を抜かれ、少し落ち着くことができた。手ぶらのラウラにもしよければと造花を差し出せば、礼と共に一つがラウラの手の中に収まった。


「イェセル、私ね……弔いに、ほとんど参加したことがなくて」


 旅暮らしだったから、と絹製の白百合に呟きが落ちる。降り続く雪がつくりものの花弁に積もれど、棺の中で眠る彼女の肌と同じく溶けることはなかった。


「だから、知らないの。この街アトーンドがどんな風に、死者を送るのか」


 いつもと違う黒いローブに影が差す。頭上に羽ばたく鳥は、烏だろうか。死を司る『黒』の魔女が変じる姿。屍啄む不吉の鳥。


「……教えて、くれる?」

「わたしは蛇族の領主名代として、死した同胞たちを悼まねばなりません。……その後で、よろしければ」

「ありがとう」


 絹の花弁を食むように、つくりものの白百合に唇が触れる。棺に置かれたその花にどんな言葉が託されたのか、イェセリウスに知る術はないけれど。


「また後で、イェセル」


 ぼんやりと、意識の裏側で。知りたかったな、と思ってしまった。

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