33.この傷で守れるのなら(前)———アネス
アグリア王国が北の最果て、アトーンド。『影の森』より溢れ出る魔獣との戦いの最前線でもあるここは、それに相応しく堅固な二重の防壁を持っている。普段頼もしく思うその高さも、敗走する今では疎ましいとしか思えない。
アネスは結界の中、こちらに迫ってきた飛行型の魔獣を鋭い突きで迎え討った。普段なら頭から一刀両断してやるところだが、今はそう広くもない結界にそれなりに上背のある男二人が詰め込まれている状況だ。あまり大振りな動きをすることは出来ない。
「まだか、セアル!」
「あと少しだ。もうすぐ外壁の上に着く」
先ほどセアルの使った魔術は術者とその周囲の人や物を纏めて風で包み、任意の方向から吹かせた風によって運ぶというものだそうで、複数人で移動することが出来るが速度はそう出ないらしい。魔術はからっきしである自分が言えることではないのだが、他になかったのだろうか。
「『水、その色は青。潤すものにして攫うもの。凍れる礫となりて我が敵を討て』」
不意に響いたソプラノ。朝方の空気のように凛としたその音色は、魔術となって下から横から追い縋る魔獣どもを一掃した。
「ラウラ殿!」
「二人とも、怪我はない?!」
小走りに駆け寄ってくる小柄な影に、アネスは羞恥を堪えて正面から向き合った。
少しほつれた三つ編みお下げ。深い翠の瞳。健康的ながらも白い肌。顔の半ばを覆う出来合いの眼帯が、強烈な存在感を放っている。
(………こんな顔を、していたのだな)
いつも視界の外にいてくれたその人は、今はそれも忘れて心配そうにアネスを見ていた。翡翠色の瞳に、呆けた顔の兎族の男──すなわちアネス自身──が映り込んでいるのを認めて。
(わ、私は何をしていたいやしているのだ!?)
顔から湯気でも立ち上っているのではないかと錯覚するほどに顔が熱くなった。ラウラはこちらがいたたまれなくなるぐらい優しい微笑みを浮かべて、視界の外に退いていく。今なお降り続ける雪は、アネスの顔の熱を奪い去ってはくれなかった。
視界の外から声がする。優しく響く、ソプラノの音色。
「怪我がなさそうでよかった。回復薬は別の人に渡してくるね」
落ち着くための猶予をくれたのだと気付けないほど、アネスは馬鹿ではなかった。
「………セアル、私を殴ってくれ。力いっぱい」
「そんなことしている場合じゃないだろう……。本当に、何をやってるんだ?」
「私にも分からない……」
「雪にでも顔を突っ込んで来い」
「わかった」
「真に受けるな落ち着け。奇行に走る前に自分の立場と役割を思い出せ」
ひとつ深呼吸をして、自身の立場と負う役割、責任を反芻する。ラウラが視界から外れてくれたこともあって、顔の火照りは嘘のように消えていった。
「……助かった、セアル」
「俺は何もしていない。落ち着いたなら、対策を練るぞ」
「そうだな。……今のうちに、負傷者の手当を進めておけ! 休んでいる暇などないぞ!」
声を張り上げ指示を飛ばしている間に、セアルは少し離れた場所で疲労回復薬を呷っていた。魔獣の身体が盾になったと言っていたが、怪我などはなさそうだ。あいつはいつも痩せ我慢をするから、しっかり見ておかなくては。
「隊長」
「どうした?」
小隊長を務めるユーリの声に振り向く。血染めの制服に怪我を悟るも既に手当済みらしく、千切れた袖から伸びる腕に傷は見当たらなかった。
「どうした、じゃありませんよ隊長。貴方はいつも他人の怪我ばかり気にして……ご自身の怪我の心配もしてください」
「怪我はしていないぞ」
「……貴方がやたらと頑丈なのは知っています。が、魔獣の魔法、直撃していましたよね?」
「まあ、そうだな」
「本当に怪我はないんですか?」
「どこにも痛みは感じないし、違和感もないな」
「本当に隊長ってどんな身体をしているんですか……」
「私の母は平原白種でな。平原種は屈強な者が多いから、母に似たのだろう」
「そうなんですか。……まあ、怪我がないなら何よりです」
ユーリは狼族灰種。案の定兎族のことは詳しく知らないようで、種名を出してそれらしい説明をすると簡単に納得してくれた。
(隠すことでもないのだが、誤魔化してしまった……。思いのほか引き摺っているのだな、私は)
平原種に兎族で過半を占める群生種より屈強な者が多いのは事実だが、兎族の祖はあくまで草食動物。いくらなんでも他の、肉食獣を祖に持つ獣人たちより頑丈なわけはない。だからアネスの異様なほどの頑丈さや怪力は、アネスだけの持つ特質なのだ。
父や母が言うには、混血の第一世代目は親より優秀な能力を持つ子が生まれることがあるらしい。アネスはきっとそれだと言われたが、例えその説明が正しくともそれは慰めでしかないことを誰よりもアネス自身が知っていた。
(セアルと私の抱える事情は違う。それでもあいつの気持ちが分かるのは……)
下唇を噛み締める。口内に薄く広がる、鉄錆の味。
(……今は、そのようなことを考えている場合ではない)
足元に蟠る薄暗い影をマントと共に払いのけ、目と耳を凝らす。市壁の外に敷いた第二防衛線も善戦はしているようだが、やはりあの衝撃波を使ってくる魔獣に苦戦を強いられているようだ。あれを街中で使われると、建物だけでなく民たちにも被害が及びかねない。どうにかして
「……どうしたものか」
「アネス」
聞き慣れた声に振り向きかけて、途中で止まる。先ほどのこともあったから、視界に収める前に止まれたのは幸いだった。
「どうした、ラウラ殿」
「狩人の人が、話があるって。その人、何度も声をかけてたみたいだけど……」
「……すまない。考え事をしていたうえに第二防衛線の方に意識を向けていたから、気付けなかったようだ」
「それは私に言うことじゃないでしょ。あの衝撃波を使う魔獣についての話って言ってたから、早く行ってあげて」
「そうか! ありがとう、ラウラ殿!」
「気にしないで」
その姿を視界に収めぬまま、すれ違う。染みついた薬の香りが、鼻腔をくすぐった。
「気付けずすまない。話とは何だ?」
「お気になさらず。話というのは、あの衝撃波を使う魔獣のことです。先ほど外壁の外を見ていたら衝撃波で雪が抉られてることに気付いたんですが、その跡が魔獣のいたと思われる場所より前にしか付いていなかったんです」
「だとすると……魔獣は前方に向けてしか衝撃波を放てない可能性があるな」
「はい。……鷹族は被害を受けた者が少なかったので、常に後ろを取りながら攻撃すれば大丈夫かもしれません」
「ふむ……では、衝撃波を放とうとしたら上空から攻撃して、魔獣の注意を逸らしてもらえないだろうか。あれは早めに討伐しておきたいから、衝撃波を気にしなくてよくなるだけでだいぶ倒しやすくなる」
「分かりました。仲間に共有しておきます」
「頼む」
辺りを見回せば、負傷者の手当や攻撃の準備は粗方整っているようだった。
「自力で飛べる者は自力で、飛べない者は魔具を使うか魔術師の方々に運んでもらってくれ。橙の魔術を扱える方々は残って裏外門の応急処置を。その他の魔術師の方々は第二防衛線の支援を頼みたい。……我々は魔獣を後背から攻撃、第二防衛線と挟み撃ちにする!」
様々に返る応えに頷き、傍にいた隊員の元へ行く。魔術小隊に属しており、橙の魔術は扱えないが緑の魔術は使えたはずなので丁度いい。
「運んでもらってもいいだろうか」
「お任せください、隊長。……ラウラ嬢ほどではないですが、頑張ります」
「何を言う。魔術での攻撃精度が高いと前に褒められていただろう。そう自分を卑下するな」
「はい……!」
彼の傍に寄り、出撃を告げる。気合の入った詠唱が終わるや否や、身体がふわりと浮き上がった。
「行きます」
彼が外壁を蹴ると同時に、身体が前に進む。駆け足ほどの速度に苛立ちめいたものを感じるが、走りにくい雪の上を走っていくより体力も温存できるし合理的だと無理矢理自分を納得させた。
後ろを見やれば頑丈そうな岩が裏外門の崩れたところを塞ぐように鎮座していて、魔術師の方々が上手くやってくれたことを知る。視線を戻すと、いつの間にか魔獣の群れの傍までやって来ていた。
(これぐらいの高度なら、問題ないか)
「ここまででいい。どうやったら出れるんだ、これは」
「え、あの、結構な高さがありますが……」
「問題ない」
「わ、分かりました。一旦魔術を解除します」
「お前は大丈夫か?」
「はい。解除したらすぐに魔具を使いますので。……ご武運を!」
先ほどまで確かに踏み締めていた何かが解け、身体が落下を始める。アネスは衝撃に備えながら、剣を抜いた。魔獣はまだ、頭上から落ちてくるアネスには気付いていない。狂ったように前だけを向いて、吠えている。
(本当に、『影の森』で何があったというのやら……。しかし、我々の生活圏を脅かすなら容赦はしない)
がばりと大きく開いた口に、衝撃波を放つつもりだと気付く。そこに狙い澄まして飛んできた火矢が爆発し、魔獣の体勢が崩れて。
「─────ッッ!!」
裂帛の気合と共に振り下ろした剣は、魔獣の頭を過たずかち割った。ターコイズブルーの血が噴水のように噴き出し、紺の制服やマントを汚す。癖の強い髪も血に濡れ、張り付く感触が気持ち悪かった。
鼻面を青く染めた魔獣が飛びかかってくる。大きく開いた口を水平に切り裂き、身体の半ばまでを真っ二つに。空から奇襲をかけてきた魔獣の動きを風切り音で先んじて気付き、攻撃に空を切らせて首を落とす。小型の魔獣は剣の柄で殴り飛ばし、短剣で止めを。振り翳された爪を剣で受け、強靭な足で蹴り飛ばして体勢を崩させたところで前脚を、次いで踏み込み心臓に刃を突き立てた。
喉から溢れ出した咆哮に、狂った魔獣たちですら怯んだのが分かる。ターコイズブルーの血に染まり、獅子吼する自身は彼らからどう見えているのだろうか。
(いつだったか、『兎の皮を被った修羅』と言われたことがあったな。それもまた、正しいのだろう)
この異常な頑丈さや力が、アネスの抱える傷であることは確かだ。出生は自分の力ではどうにもならないものだから。
(───それがどうした?)
(私が何であろうと、知ったことか。この傷に血が滲もうが、どうでもいい。守れるのならば、何でもいい)
春焦がれの街。優しさと責任感に溢れ過ぎた従弟。仕方のない自分を受け入れてくれる友人たち。
(全部大事だ。全部守りたい。───この傷で、守れるのなら。私は喜んでそれを晒そう)
わらう。笑う。凄絶に。
わらう。哂う。晴れやかに。
「───来い!!」
足元の雪を蹴散らし、アネスは剣を振り上げた。
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