32.影津波(後)———セアル

「配置に着け! 今回の『影津波』は規模が大きい。絶対に街に入れるな!」


 アネスの大きな声が響き渡る。いつものようにアトーンドを囲う市壁に腰掛け、戦いの始まりを待つ時間。雪降る夜にいつもの静けさはなく、耳の毛が逆立つほどの緊迫感が満ちていた。


「セアル。こんなところにいたんだ」

「……ラウラ」


 フラウが偵察に出た帰りにラウラに避難を呼びかけてくれたらしい。いつもと同じ濃緑色のローブを纏って気負いなく立つ姿に、今にも叫び出したくなるような怖れが少し弱くなる。


「……今回も出るのか」

「うん。私だって魔術師だし……私、この街、好きだから」


 目を細めて、避難促す声満ちるアトーンドを見下ろすラウラ。彼女が心からこの街を愛おしく思ってくれているのだと分かるような、そんな笑み。

 この言葉がそんな風に思ってくれる彼女への侮辱だと知っていて、それでも発する。貴族位にあるものとしてあるまじき、身勝手な言葉を。


「ラウラ。逃げてくれ」

「セアルも、アネスも……いつも私を逃がそうとするね。そんなに信用できない?」

「そうじゃない! ……そうじゃ、ないんだ」


 ラウラの魔術の腕は、警務隊の者と比べても遜色ない。むしろ、勝るぐらいだろうと思っている。しかし。


「今回の『影津波』の規模は、いつもの比じゃない。それだけでなく、何かがおかしいんだ」


 兎の本能。食われるものとして培われた危機察知能力が、ここから逃げろと叫び続けている。いつもは意志の力で捻じ伏せられているのに、それが上手くいかない。下手に地に足を付ければ、そのまま走って逃げ出してしまいそうだ。


「今回と同じくらい規模の大きな『影津波』への対処は、したことがある。でもそのときは、こうではなかった。……上手く説明できないな。とにかく、今回は本当に危険な気がしてならないんだ」


 自身を急き立てるこれを、どう表せばいい。どのような言葉にすればいい。本能が理性を圧迫して、上手く舌が回らない。伝えたいのに伝えられないということがこれほどもどかしいなんて、知らなかった。

 知らず知らずのうちに、顔が歪む。心の中からそのまま飛び出したような、みっともないかたちの言葉。


「逃げてくれ、ラウラ。俺はラウラが傷付くところを、見たくない……」

「頼む……逃げてくれ……」


 さくりと雪を踏む音。頭を抱えたせいで狭まった視界に、ブーツの爪先が映った。


「大丈夫よ、セアル」


 嫣然と───それでいてどこか遠く、ラウラは微笑んでいた。セアルの感じている恐怖も脅威も、何もかも全て分かっているような……そんな風に、微笑んでいる。


「ラウラ……?」

「私は、死なないわ」


 老練な娼妓のように、無邪気な幼子のように。誰よりも人から遠く、何よりも人そのものに、微笑するわらう


「私の魔術も、身体能力も、何も信じなくていいわ。でも、これだけは信じて」

「私は絶対に、死なない」


 セアルは何も言えず、ぽかんとラウラを見上げていた。次に言おうとしていたことも、恐怖も懸念も何もかも吹っ飛んで、ただただ呆然と、ラウラの言葉を反芻する。


「……わかった」

「セアルも死んじゃ嫌だからね? セアルは冬の男の代わりをするんだから、セアルがいなくちゃアトーンドから冬が去ってくれないもの」

「あぁ……それは、困るな」


 ここは春焦がれ、アトーンド。冬の男と共に、春の乙女の訪れを待ち焦がれる街なのだから。


「セアル」

「アネス。指揮はいいのか?」

「ああ。そろそろ出陣だと伝えに来ただけだからな。……それにしても」


 アネスは、自身の耳に触れる。きっとセアルの耳と同じように、毛は逆立っているのだろう。


「普段このようになることはないのだがな……。街に入れたくないのは山々だが、地上で迎え撃つのも不安が残る。鷹族の隊員や狩人の方々に先行して攻撃を行ってもらっているが、魔獣の倒れる音はあまり聞こえない。大して数は減っていないのだろうな」


 アネスにしては珍しく、ため息をついた。いつもやたらと堂々としているのに、今回は愛剣の柄を落ち着きなく撫でている。きっと無意識に心を落ち着かせようとしているのだろう。


「……二人とも、本当に気を付けてね」

「ああ」「うむ。ラウラ殿も、気を付けて」


 部下たちの元へと戻っていくアネスの背中を見送って、セアルはいつかと同じようにラウラに向き直った。

 雪積もる通路に膝をつき、少し高い位置にあるラウラの瞳を見上げる。翠の右目は、ほんの微かに揺らいでいて。


「どうか、戦野に赴く我に祝福を」

「……授けましょう」


(ラウラ。俺の恋しい春呼ぶ乙女。今だけは………どうか)


 儀礼の言葉の裏に隠れた心配に、喜びを覚えてしまう自分を許してほしい。


「戦に赴く勇ましき者よ。汝に、太陽と大地の祝福があらんことを」


 頬に触れる冷たい手。微かな息遣いが近付いて、祝福の口づけが贈られる。


「───行ってくる」

「───いってらっしゃい、セアル」


 未練がましい顔を見せないように、すぐさま踵を返してアネスの元へ。すれ違い様に肩を小突いてきたのでやり返しておいて、二人分かれて昇降板に乗った。


「それでは、降ります」


 警務隊員の操作で、昇降板はゆっくりと降下していく。地上に降りれば大地を揺るがす振動が直に感じられて、緊張による嫌な汗が背を伝った。


(春祭りまで、あと一ヵ月ほど)


 大役を務める身として前回のように怪我をするわけにはいかないが、領主名代として防衛戦に出ないということもありえない。そういう事情を鑑みてか、セアルの周りには盾や長剣を持った警務隊員数人が集っていた。


「よろしく頼む」

「はい!」「お任せください」「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 頼もしい言葉に微笑み返して、裏外門前へ急いだ。走る影に空を振り仰げば、魔術師たちが市壁と外壁の間を飛び越えている。皆緊張に顔を引き締めている中、栗色の髪をお下げにした人物がやたら落ち着いた顔で飛び越えていくから、可笑しくてたまらなかった。

 いい具合に緊張が解れたそのタイミングで、アネスの馬鹿でっかい声が響き渡る。


「出陣!!」


 ゆっくりと、扉が開かれた。魔獣の蹴立てる雪煙を遠目に見ながら半円形の陣形を整え、魔獣どもの訪れを待つ。しばらくすると、フラウを含む鷹族の狩人たちがセアルたちの方へ引き返してくるのが見えた。

 来るぞと怒鳴るアネスの声を聞くまでもなく、各々武器を構える。魔獣の蹴立てる雪煙は、もうすぐそこ。


 先頭で警務隊員の構える盾に、魔獣が激突した。身体能力の高い獣人を凌駕する力を持つ魔獣に勢いよくぶつかられ、さらには踏ん張りの効かない雪上ということもあって、警務隊員はじりじりと押し込まれていく。そもそもここアグリア王国には、他国に住まう熊族や牛族のような腕力に秀でた獣人はいない。明らかに、分が悪かった。

 盾で止まった魔獣が頭上から降り注いだ矢に貫かれる。ほぼ同時に火や雷も降り注ぎ数匹の魔獣が倒れ伏すも、魔獣たちは止まらない。倒れた仲間の身体を踏みつけ蹴り砕き、ただ前へと進んでくる。

 盾の横を抜けて来た魔獣の爪を弾き喉笛を切り裂きながらも、セアルは違和感を拭えなかった。


(普段ならもっと、怯んだりするものだが……)


 魔獣たちは降り注ぐ矢や魔術にも怯まず、ひたすらに押し込んでくる。血走ったその目は、禁断症状を起こした薬物中毒者を思わせた。

 戦いの合間に顔を伝ってきたターコイズブルーの血液を拭う。到底生き物とは思えぬ、冗談のような色合いだった。


「セアル様!」


 警務隊員の一人が死角から飛びかかってきた魔獣の牙を長剣で受け止めた。セアルは魔獣の動きが止まっている隙にその眉間に短剣を突き刺し、素早く離れる。警務隊員の手で首が落とされるのを確認しつつ別の方向から迫っていた魔獣を投げナイフで牽制、あまり効き目がないことは分かっていたからすぐさま次の攻撃に移る。後脚だけで立ち上がり圧しかかってこようとする魔獣にあえて肉薄、心臓のあたりに短剣を突き刺した、その瞬間だった。


(っ!?)


 全身が総毛立って、足が止まる。自分の意思でなく耳が動き、少しでも脅威の情報を得ようとする。食われるものとしての、兎の本能が悲鳴を上げていた。


「警戒しろ───」


 衝撃。

 耳が痛い。何が起きた。状況を整理しろ。


(まず──)


 背後には石壁。前方からの衝撃によって叩きつけられたようだ。前方には魔獣の身体。心臓に突き刺した短剣は先ほどより深く突き刺さっていて、魔獣は既に絶命していることが見て取れる。

 魔獣の身体に足を当て、蹴り飛ばす勢いも利用して短剣を引き抜いた。クリアになった視界の中、ちらつく雪の狭間。雪の中に倒れているものは、何だ。

 すぐ傍に倒れている、人としてあり得ない方向に捻じ曲がった遺体は先ほどセアルを守った警務隊員。反対向きに曲がった腕を押さえて呻いているのは、いつもアネスに取り次いでくれる隊員。ターコイズブルーの血に塗れた魔獣の死体。


「セアル!! アネス!!」


 優秀な聴覚が拾った愛しい女性ひとの声に、照れ屋の従兄の無事を知る。アネスは少し離れたところの壁際で、剣を支えに立ち上がったところだった。


「備えて! まだ、来る!!」


 ほとんど体当たりのような勢いでアネスの傍に行き、念のためにと忍ばせておいた魔具を発動させる。張り巡らされた結界がみしみし鳴って、見えない攻撃が加えられていることを知らせた。


「無事だったのか、セアル」

「魔獣の身体が盾になったらしい。俺は無事だったが……」

「死者が出てしまったな。あのように曲がって……何の攻撃を受けた?」

「風……いや、違うな。何らかの力そのもの。衝撃波か?」

「可能性は高い。魔法を使える魔獣が混ざっていたようだな」


 壁際までやって来た魔獣が結界の中のセアルとアネスに噛みつこうとする。邪魔にならない場所へずれると、魔獣は一閃で頭をふたつに割られて倒れた。


「アネス、出るなよ。いくらお前でもこの数では多勢に無勢だ」

「分かっている……分かって、いるッ!!」


 アネスの激情は理解できる。だからこそ、セアルは冷静でなくてはならなかった。


「退くぞ、アネス」

「っ、ああ。……生存者は魔術か魔具で退避しろ!」


 馬鹿でっかい声に耳を傷めつつ、できる限りの早口で詠う。


「『風、その色は緑。運ぶものにして壊すもの。我らを包み、彼方へ運べ』」


 セアルとアネスの身体が浮き上がる。しつこく追いすがる魔獣に剣の一閃をくれてやりながら、先ほどとは逆に壁を上って行く。

 眼下は蠢く魔獣で黒く染まり、ちらりと見えた雪の地面にはターコイズブルーと赤の斑模様が見える。セアルたちの守っていた裏外門は魔獣たちの猛攻に敗れ去り、下半分ほどが瓦礫と化していた。


「やられてしまったな」

「……ああ」


 上がる狼煙の色は、痛いほどに鮮やかで。思わず目を逸らしてしまうほど明確に、敗北を告げていた。

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