31.影津波(前)———フラウ

 フラウが自室で気持ちよく眠っていると、突然使用人に叩き起こされた。窓の外を見やるも、まだ夜半。本来ならば眠っていなくてはならない時間だった。


「何だ、一体……」

「兎族領主名代、セアル・ペイルーズ様がいらっしゃいました」

「こんな時間にか。用件は何だって?」

「『影津波が起こるかもしれない』と」

「兎の危機察知は侮れないからな……。わかった、すぐ行く。リーユは?」

「別の者が起こしに行っております」

「よし。状況が危険となれば、担いででも避難させてくれ。リーユは何があろうと王種としての……いや、領主の娘としての責務を果たそうとするだろうしな」

「かしこまりました。使用人一同、この翼に懸けてお嬢様をお守りいたします」

「お前らも危なくなったらちゃんと逃げろよ。金翼おれらの庇護下にありながら、傷つくことは許されない」

「はい。勿論です」


 寝巻から外出着に着替え、軽く羽繕いをしてから部屋を出る。足音で気付いたのか、ホールの階段を下りている途中でセアルと目が合った。手を上げて挨拶すると、小さく頬を緩める。だがそれもすぐに引っ込んで、フラウを迎えるように歩いてきた。


「よう、セアル」

「こんな時間にすまない。だが、どうにも嫌な予感がしてな」

「うちに来たのは……偵察か?」

「あぁ。使い走りにしてしまっているようで申し訳ないが……」

「いくら兎族が俊足だって言っても、地を走る以上限界はあるだろ。今は雪も降ってるし、それならおれたち鷹族の方が偵察には向いてる。適材適所ってやつだ」

「……ありがとう」

「どういたしまして。……偵察なら襲われても振り切れるように斑羽種の斥候に……いや、鷹族おれたちはあんまり夜目が利かないから慣れてない奴だと危険だな。やっぱりここは……」


「話は聞かせてもらった、兎の名代殿」


 突然響いた声に、振り返る。自分よりずっと大きくて、分厚い身体。


「親父」

「人前では父上と呼ばんかバカモノ」

「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ」


 鷹族領主である父親は、すでに魔獣の素材でできた鎧を身に纏っていた。来るのが遅いと思ったが、それは鎧を着けていたからのようだ。


「それもそうだな。……と、いうわけで。フラウ、お前ちょっと偵察してみてこい」

「やっぱそうなるよな……わかった」


 鷹族は三種に分類される。最も数が多く、急旋回や急降下などを得意とする斑羽種。三種の中では最も大きい翼を持ち、力強い飛翔を特徴とする黒羽種。鷹族王種にして、三種の中で最も優れた目と最速の飛翔を誇る金翼種。


 夜間の飛行で、『影津波』が発生しているかもしれないという状況下では、より遠くからでも様子を見ることができ、もしものときも逃げ切れる可能性の高い金翼種の者を行かせるという親父の判断は妥当だ。さらにここにいる金翼種はフラウたち領主一族だけで、魔術が使えず幼いリーユは論外。領主であり指示を出さねばならない親父も勿論のこと、女主人として城館を守る母上もダメ。そうすると消去法で、偵察に行くのはフラウになるのだ。

 この程度のことはセアルも分かっているから、何も言わない。ただ、真っ直ぐに深紅の瞳がフラウを見据える。


「……頼む」

「任せろ!」


 媒体つえを服の隙間に落とし込み、軽く翼を動かして鎧が当たらないか確認。風防眼鏡ゴーグルをしっかりかけて、床を蹴る。

 使用人たちによって開かれた、玄関扉の上の硝子窓。そこは、飛んで出て行くときのための扉でもある。

 夜の中に飛び出すも、月の姿は見えない。だが、今の月齢では月はまだまだ丸いはず。月が丸ければ丸いほど、『影津波』は大きくなる傾向にある。


(でも、今日の見回りでは特に異常なかったはずだよな……。狩人たちからも『魔獣の様子がおかしい』とかいう話は聞いてないし……)


 セアルには悪いが、フラウは本当に『影津波』が起こるとは思えない。さっさと行って帰って、「何ともなかった」と笑いながら報告できるだろう。

 暗い夜にも明るく見える雪が途切れて、黒く沈む。創世に語られる渾沌が、この世界に落とした影だと言い伝えられる場所。『影の領域』。


「ふざけんなよ………」


 高く低く、遠吠えが響く。風もないのに真っ黒な木々が揺れて、枝葉の狭間からは滅茶苦茶に行き交う魔獣の姿が見えた。魔獣はどいつもこいつも血走った目をしていて、狂ったように吠え、走り回っている。明らかに、普段の『影津波』と比べても常軌を逸していた。

 まだ『影の森』に留まっているのが不思議なぐらいの狂騒。これ以上近付くのは危険だし必要ないと判断して、鋭い弧を描きながら『影の森』に背を向けた。

 方向転換の最中、雪の中にある一つの建造物が目に入る。天井のない礼拝堂と、あちこち崩れた石塀。友人であるラウラとケントの住まう、廃教会。


(いくら建物内にいるとはいえ、あんなぼろい場所じゃ簡単に入り込まれる)


 地下へと続く鉄扉は重いが、人族であるラウラが持ち上げられる程度のもの。獣人を凌ぐ力を持つ魔獣にかかっては障害にすらなり得ないだろう。


(早く戻って知らせるべきなんだが……)


 ラウラは優秀な魔術師で対魔獣における立派な戦力だが、白兵戦はからっきし。ケントが魔術を使えるなんて話は聞いたことがないし、そもそも本人が戦えないと公言している。


(偵察で来ている以上、連れて逃げることはできない。けど……避難を促すぐらい、いいよな?)


 友人だし、彼女らも守るべき民の一人ではあるんだしと言い訳しながら翼を縮める。天井のない礼拝堂、その椅子と椅子の間の通路を着地点と定め、フラウは真っ直ぐに下降していった。地面が近くなってきたところで翼を広げて減速、狙った位置に無事着地。もうかなり細かい硝子片をさらに割り砕きながら祭壇に回り込み、鉄扉を上げた。


 翼を引っかけないよう気を付けつつ階段を下り、鉄扉を閉じる。途端に視界が闇に閉ざされ泡を食うが、目が暗闇に慣れてくるとぼんやり二筋の光が見えてきた。廊下の端に何やら光を放つものが置かれているようだ。それでもこちらに道があると分かるぐらいなので、足先で道を確認しながらそろそろと進む。思ったより時間がかかって辿り着いた突き当りには小さく灯りが灯っていて、その光にひどく安心した。

 ノッカーで扉を叩くと、中で人の動く気配がする。こんな時間だから寝ているものだと思っていたが、起きていたようだ。


「どちらさま?」

「フラウだ。……ラウラだけか? ケントは?」

「一緒にいるよ」


 扉が開く。暗闇に慣れた目に室内の明るさは眩しすぎて、ラウラのいる場所は真っ白に見えた。何度も瞬きを繰り返しているうちに目が慣れ、室内の様子が見えてくる。暖かそうな敷物の上に低い机、あちこちに置かれたクッション。どうやら椅子を使わず、床に直接座るようにしているらしい。ラウラは旅暮らしだと聞くから、別の地域の生活様式を取り入れているのだろう。

 暖炉には薪が入っておらず、ただ炎だけが燃えている。魔結石を使っているのだとすぐにわかった。地下だから、あまり煙を出したくないのだろう。


「フラウ? どうしたんだよ、こんな時間に」

「あー、突然悪い。でも、起きててくれて助かった」

「何かあったの?」

「実は、『影津波』が起こりそうなんだ。しかも、猶予はそんなにない。念のため、アトーンドに避難してくれ」

「そう……わかった。すぐに準備するね。教えてくれてありがとう」

「どういたしまして。……ところで、何でこんな時間に起きてたんだ?」

「今日はひどく吹雪いてたから、カウルとトーヴァを中に入れてたの。そうしたら、あの子たちが妙に騒ぐから気になって……」

「オレらのことはいいから、さっさと街戻れよ。偵察の途中なんだろ」


 その言葉で、自分の役割を思い出した。本来、寄り道などしていい状況ではないということも。


「やべ……二人とも気を付けて避難してくれ! じゃあな!」


 二人に手を上げて別れを告げ、フラウに出せる最高速度で廊下を駆け戻る。鉄扉をほとんど頭突きするような勢いで開け、慌てながらもそっと閉めてから飛び立った。

『影の森』を見やる。暗く沈んだ森が魔獣の動きに揺れる様は、何か大きな生き物が蠢いているようにも見えた。

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