26.一筋の涙(後)———アリスティリス

 見上げた空は、夕焼けと夜のあわい。満ち満ちるそれら全てを食い尽くすように、満月が光を放っていた。ひとたび自身に目を向ければ、その光に応えるように本能がざわめいている。これがあるから、満月は好きになれない。


(祭祀官の仕事にしゃしゃりでてくるなど、どれだけ目立ちたがりなのかしら。『春呼びの乙女』に選ばれたというだけで、本来ならばわたくしたちに傅かねばならない立場だというのに……)


 視線の先には、突然現れアリスティリスの愛する者の関心を搔っ攫っていった憎い女が佇んでいた。

 先日、イェセリウスが一筋の光明を見つけたというような顔で話したこと。平民にしてはよく考え付いたと思うが、無駄だ。あれが見つかりさえすれば、彼女に掛けられた期待は全て裏返り失望となって彼女に返る。

 そうすればきっと、あの方は自分を見てくれる。少なくとも、あんな女に惑わされることはなくなる。


(そうして笑っていられるのも今の内……。精々、楽しむがいいわ)


 心の奥底で低く笑ったアリスティリスは、視線を憎い女──ラウラとかいう薬師に戻した。

 ようやく始まるようだ。それが自身の破滅に繋がるとも知らずに。

 表では平静に、心の中では高らかに嗤いながら、アリスティリスは祭祀官たちから成る円の中心を見やった。

 ラウラはいつも通りの濃緑色のローブ姿。いつもと違うのは、その手に大きな糸巻きを持っていることぐらいだろうか。

 始めますと前置いて、ラウラは糸巻きに巻かれた絹糸の一端を引き出し大きく息を吸い込んだ。雪交じりの風に乗って響くソプラノに、空気が変わる。忌々しいことに、アリスティリスも含めて彼女を囲む者たちはもれなく彼女に呑まれてしまった。


「『無、色持たぬもの。満たすものにして見えざるもの。我は定める。汝は縁の現れであると。我は命ずる。彼方と此方の縁を、その身をもって示すことを!』」


 詠い終わるや否や、引き出していた絹糸の一端を高く掲げる。不思議なことに絹糸の端は手を放しても落ちず、まるで上空に浮かぶ何者かが糸を摘まんで手繰り寄せているかのように伸びていく。

 もう片方の糸の端はというと、勝手に解けて雪舞う街路を進み始めている。憎くはあるが、魔術の中でも形が定まらない故に発動すらも難しい色のない魔術を見事に成功させているのには、驚嘆を禁じ得なかった。


(それにしても……糸は足りるのかしら)


 あの糸はこの春焦がれの街アトーンドを出て朽ち果てた異教の教会まで伸びていくはずだ。糸巻きにはかなりの量の絹糸が巻かれていたものの、中央広場から街を出て廃教会まで伸びるとなると、いささか心もとない気がする。辺りを見回せば替えの糸巻きを幾つか抱えた祭祀官が見えたため、そのあたりは対策済みのようだが。


 ラウラとイェセリウス、そして立ち合う兎族領主名代のセアル、犯人を捕らえるために呼ばれた警務隊隊長アネスとその部下、保管用の箱を持つ祭祀官長が糸の端を追って動き出す。人払いをするため、最低限の人数を残してアリスティリス含む祭祀官たちもその後を追いかけた。

 物見高い町人たちを帰らせ、あるいは道を変えさせ、万が一にも邪魔されぬよう道から人を追い払い続ける。糸は順調に王の道を裏門方向へ伸びて行っているようで、あの女に注がれる期待の視線が失望のそれへ変わるところを幻視しアリスティリスは表に出さぬよう笑う。その光景が楽しみで仕方なくて、満面の笑みを浮かべそうになる顔を抑えるのが大変だ。


(さて……そろそろアトーンドを出た頃かしら?)


 この時、アリスティリスの胸中にふと何らかの予感が生まれた。それは満月によって高められた獣としての本能が告げたものなのか、はたまた精霊の囁きか。何を指すのか全く分からないが、その感覚を無視できずにアリスティリスは人払いを他の祭祀官に任せてイェセリウスたちの元へと駆けた。


(糸が……曲がっている?)


 廃教会までの最短の道のりを行くならば、東に曲がるはずがない。あの廃教会は、アトーンドから見て西側にある。何らかの予感は明確に嫌な予感へと姿を変え、アリスティリスの心を内側から刺し始めた。


(ありえない。そんなこと、あるはずがない。わたくしはきちんと、この手で、あの廃教会の一画に置いたはず。いくら匂いが残っていたとしても、雪が全てを覆い尽くしているはず)


 完璧だったはずだ。あの女を陥れれば、イェセリウスは目を覚ましてくれるはずなのだ。

 なのに。なのに─────


(何故イェセリウス様は、信じられないと言いたげにわたくしを見ているのか)

(何故警務隊の者どもは、わたくしを取り囲もうとしているのか)


 何故、何故、何故。


(何故絹糸がわたくしの部屋の窓から中に入っているのか。祭祀官長殿がわたくしの部屋の中で、糸の絡んだ『春乙女の花冠』を持っているのか)


 誰もが自分を注視する中、人の視線から解放されたあの女がアリスティリスに向かってにっこりと微笑んだ。

 妙に親し気で、同性おんなの目から見ても大層美しい微笑み。その癖目だけは冷え切って、嘲りにも似た光が満ちていた。


 ───ざまあみろ。


 言葉もなくそう告げた微笑みに、アリスティリスは理解した。

 陥れたつもりで、陥れられたということを。

 同時に、気付いた。

 嘲りにも似た光の奥に、この世の全てを見下しながらもこの世の全てをいつくしむような、常人にはあり得ぬ色があることに。


(この女は……この女は、危険だわ! 間違ってもイェセリウス様のお傍に居させてはならない!)


 時に獣の勘より鋭い女の勘。それに従い、アリスティリスは走り出した。例え自分の手を汚しても、この異物を排除するために。


「失せなさい、化け物!」


 普段は、口を大きく開くということはしない。しかし今は、持って生まれた毒牙を剥き出しにしてラウラへと迫っていた。

 何の前触れもなく突然叫び、ラウラに襲い掛かったことに驚いているのか警務隊員たちは少し動きが悪い。だがそれはアリスティリスにとっては好都合。力では彼らに敵いはしないのだから、この場にいる者が動き始める前に、あの女を仕留めなくてはならない。

 だが、唐突に足が動かなくなった。

 足だけではない。腕も、口も、瞼ですらも、何一つアリスティリスの命令を聞かない。まるで、石像になってしまったかのように。


(ああ……)


 辛うじて動く眼球で捉えたのは、哀しそうな顔をしながらも毅然とこちらを睨みつける、誰よりも愛しいひとの姿。その瞳は彼の持つ魔眼ちからを示すように、ほの赤く光っている。

 『魔を視る瞳イヴルアイ』───かつては『蛇の邪眼イヴルアイ』と呼ばれた魔眼の力の一つ。魔力を込めて睨みつけた相手を、金縛りにする力。


「アリスティリス……これ以上、罪を重ねないでください……!」


 痛みを堪えた悲痛な声に、アリスティリスは答えることができない。答えることは、許されていない。


(申し訳ありません、イェセリウス様……)


 悲しませて。守れなくて。


(申し訳、ありません………)


 石像のように動きを止めたアリスティリスの頬を、一筋の涙が伝った。

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