21.色違いの瞳(後)———ラウラ

 舞の稽古が始まって、数日が経った頃。ラウラは花街へ入る道を歩いていた。

 黒夢館の娼妓、メイルテに会いに行くためである。つい今しがた朝五つ目の鐘が鳴ったので、朝の遅い娼妓たちもいい加減目覚めているはずだ。


(メイルテ姐さんは、きっともう起きているわね。お仕事で疲れるわけないし)


 疲れるのはもっぱら、客の方である。

 花街の門をくぐる前に、二つ一組になった鈴を出してポーチのベルトにくくりつけた。その状態で歩くと、かららん、ちりりん、と二つの鈴の音が鳴り響く。

 気付いた男衆や娼妓が手を振ってくれたり、声をかけてきたりするのでラウラはそれに一つ一つ答えていく。そんなわけで、黒夢館に着いたのは花街に入ってからそこそこの時間が経ってからだった。


「こんにちは」

「薬屋か。どうした」

「今日は遊びに来ただけ。メイルテ姐さんは起きてる?」

「ああ。起きてはいるが……」


 店主がふっと明後日を見た。それだけで、大体の事情を察する。


「別に気にしないよ」

「……わかった」


 店主に導かれ、メイルテの部屋へ向かう。扉を開けると、どこか気だるげでむわっとした空気が押し寄せてきた。ぐるりと部屋を見回すと、黒の紗幕に覆われた寝台にメイルテが転がっている。


「こんにちは、メイルテ姐さん」

「ん……? ああ、ラウじゃないか。やっと来たんだね。待ってたんだよ?」

「ごめんね、なかなか来れなくて。舞の稽古があったから……」

「そうかい。でも、来てくれて嬉しいよ」


 そのとき、ラウラからは見えにくい奥の方で何かが動いた。もぞりと顔を出したのは、ぼんやりした様子の娼妓。瞳はどろんとぼやけていて、掛け布団代わりの衣の下には何も纏っていない。


「姐さん……? 誰か来たの……?」


 案の定、声はかすれていた。


「まあね。アタシの大事な客だから、今日はもう帰りな」

「えぇ~……って、なぁんだ。ラウラちゃんか。まあ、あの娘なら納得だけどさ……」


 何やらぶつぶつ言いながら、裸身に衣一枚纏っただけのあられもない姿で娼妓は起き上がり、寝台から降りた。力が入らないようで、ちょっと足をぷるぷるさせながらラウラと店主の横を通り過ぎて自分の部屋へと戻って行く。ラウラの横を通ったとき、ぽんと肩が叩かれた。


「ラウラちゃん、気をつけなよ。昨日の客がイマイチだったみたいで、姐さんだいぶ欲求不満だから」

「わかった。疲労回復のお薬がいるならいつでも声かけてね」

「ありがと~」


 軽い調子でひらひら手を振って、その娼妓は廊下へ。部屋は階下だったはずなので、階段で転ばないかが少し心配だ。


「……メイルテ、少しは自重しろ」

「いいだろう? 別に。客から搾り取っていいってんなら昼間は自重するけどさ」

「………………わかった、もういい」


 店主の眉間の皺の原因の一端が、分かったような気がした。


「ラウ、こっちおいでよ。何もしないからさ」


 放り出された服を拾いながら歩いていき、メイルテの示す場所に腰掛ける。途端にしなだれかかられ、ラウラの体が傾いだ。


「メイルテ姐さん、重い」

「ひどいねえ、ラウは」


 くすくすと笑いながらそう言って、メイルテはラウラの抱える服の中からショールだけを取って、羽織った。


「ちょっと水浴びてくるよ。待っててくれるかい?」

「いいけど……」

「なんなら一緒に」「行かないから。いってらっしゃい」


 しっしっ、と追い払うように手を振るが、メイルテは大して気にした風もなく浴室に消える。ラウラはちらりと扉の方に目を向けた。


「店主さん、別に見張ってなくても大丈夫だよ」

「兎の名代殿に恨まれたくはないんだが」

「いつ、誰と、何をしようが私の勝手だと思わない?」

「……もし恨まれたら、お前がそう言っていたと言うことにする」

「そうして」


 店主の纏う黒衣が視界から消える。よくよく考えれば、中々すごい格好だ。


(人族や獣人族は、黒を死の色と忌避しているのに。まあこんなところだから、仕方がない部分もあるんでしょうけど)


 手の中に残されたメイルテの衣服を畳んで、寝台の汚れていないところに置く。持って来た薬箱は寝台の脇に置いておいて、換気の魔具を発動させた。風が室内を一巡りして、煙突から外に出て行く。

 空気の匂いを嗅ぎ、あのむわっとした感じがなくなったのを確かめてからもう一度寝台に戻った。


「ラウ、服畳んでくれたのかい? ありがとう」

「どういたしまして。せっかくいい服なんだから、皺にならないほうがいいでしょ?」

「どうせ着たら皺が出来るんだから、気にしたところでねぇ」

「確かに、そうだけど」


 服を着終わったメイルテは棚から何かを出し、猫を思わせるしなやかな動きでラウラの隣に腰掛け、持っていた箱を差し出した。


「改めて、『春呼びの乙女』就任おめでとう。ラウの舞う舞なら、きっと春の乙女も飛んでくるだろうさ」

「ありがとう、メイルテ姐さん。……で、これは?」

「お祝いにいいお菓子食べさせてあげるって言っただろう? 客にもらったやつなんだけど、なかなか美味しかったよ」


 箱に並んでいるのは、茶色いお菓子。四角かったり丸かったりと形は様々だが、これは。


「……もしかして、チョコレート? 久しぶりに見た……!」

「おや、知ってたのかい? これ、かなり高かったって持ってきた客が自慢げに喋ってたけど……」


(あ、やばい)


 一般人は滅多にお目にかかれぬ代物だということを忘れていた。どう言えば自然だろうか。


「アトーンドに来る前は南の方にもいたことがあって。そこで知り合った人に、食べさせてもらったことがあるの」

「いい知り合いを持ったねぇ。昔の男かい?」

「そんな感じ」


 正確に言うと女だが、そこまで話す必要もないだろう。


「ラウの昔の男も気になるけど、まあいいさ。さ、食べた食べた」

「じゃあ遠慮なく……いただきます」


 噛み砕いた瞬間、豊かな香りと苦み、それからとろけるような甘味が口の中に広がる。昔食べたときよりも、味自体はよくなっているかもしれない。


「どうだい?」


 取り繕いも何も考えず、思ったままが口から溢れ出す。


「すっ………………ごく美味しいぃ……」

「そんな幸せそうな顔してもらえて、きっとチョコレートも本望だろうさ。はい、あーん」


 口元にチョコレートを持ってこられ、反射的に口を開ける。今度のは初めに食べたものと味が違う。中に、ベリーのソースが入っているようだ。チョコレートの苦みとよく合う。


「ほら、口をお開け」


 次は、中にナッツが入っていた。食感の違いが楽しい。


(これは昔もあったかも。彼女はあんまり好きじゃないって言ってたけど)


 かつての生を思い出していると、それに気付いたらしいメイルテが少し頬を膨らませた。


「こら、昔の男のこと思い出してるだろ。今はアタシを見ておくれよ」

「大丈夫、ちゃんと見てるよ。拗ねないで、


 頬に手を添わせつつそう言うと、メイルテが言葉に詰まった。彼女がこれに弱いのはもう知っている。


「……反則だよ、ラウ。これじゃ生殺しじゃないか」


 と言いつつさりげなく次のチョコレートをスタンバイしているところ悪いが、狙いはバレバレなのだ。


「お仕置きに決まってるでしょう? 私に媚薬として扱われてるものを食べさせた、ね」


 獣人族の耳や尻尾は雄弁で、言葉にならない気持ちがよく表れる。ふいと伏せられたメイルテの耳を見て、ラウラはくすくす笑った。


「私は薬屋だよ? 気付かないはずないでしょう?」


 世のどれだけの薬屋が知っているかは分からないが、それなりに有名な話だ。


「これだけやっても応じてくれないなんて、ほんと酷い女だね、ラウは」


 いつの間にか近付いていたメイルテの体を押しやり、立ち上がる。


「お仕置き、って言ったでしょ。チョコレート、美味しかったよ。またね」


 足元の薬箱を持って、部屋から出て行く。これ以上は流される恐れもあるし、時間もいい時間なのでこれで退散するとしよう。


(香草煙草は店主さんに渡せばいいわね。この後は予定通り、イェセルのところに行くとしましょう。お昼は途中の屋台ででも買えばいいし)


 店主にメイルテの香草煙草を渡しておき、花街から出る道。そこにいた人物に、ラウラは足を止める。


「ここは入り口じゃないけど、間違えたの? ヴィアス?」

「お前を待ってたんだよ、薬屋」


 セアルとよく似た顔に、いやらしい笑みを浮かべて近付いてくる。この街に住み、彼の横暴を知る人物なら怯えを抱くであろう笑みだったが、ラウラにとっては違う。


(相変わらず、哀れな男)


 腕を掴まれ壁に押し付けられてなお、ラウラの冷ややかな目は変わらない。ヴィアスはそれが腹立たしいようで、より一層下卑た笑みが深くなる。


「なァ、薬屋。お前が俺に犯されたら、あいつはどんな顔するだろうな?」

「………私、この後用事があるのだけど」

「安心しろ。早めに済ませてやるから」


 ヴィアスの手が顎を掴み、無理矢理に上向かせる。花街近くの路地ともなれば、誰も来ることはないだろう。


(さっさと気絶させてお昼ご飯買いに行こ)


 黄の魔術を発動させようとしたとき、ヴィアスが顔を上げた。路地の入口を睨み、小さく舌打ちをする。


「……相変わらず運がいいな、薬屋」


 そう吐き捨てるとヴィアスはラウラの手を離し、路地の奥へと歩き去っていった。半ば吊り上げられるような体勢だったから、解放された反動でラウラは座り込む。


「ラウラさん、大丈夫ですか!?」


 路地の入口に顔を出した人物に、流石のラウラも目を見張る。今の季節、ここにいるはずのない人物だったからだ。


「……イェセル?」


 蛇族領主名代、イェセリウス・ゾフィドその人が、その魔眼をほの光らせ、息を弾ませて立っていた。

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