20.色違いの瞳(前)———セアル

 三月に入ってすぐの淡白の日、セアルは幾つか来ていた執務を片付けてから、外に出るために着替えを始めた。いつものように辺りの音を探るも、不思議なほどに静かだ。


(………ヴィアスはいないのか。いつものことだが、妙に不安になるな)


 つい二日前、ラウラが『春呼びの乙女』に決まったところだ。自分と仲がいい、というかこちらが思いを寄せているせいで普段からラウラはヴィアスに目を付けられがちなのに、余計に狙われるかもしれない。


(あいつなら、春祭りを台無しにすることも厭わないだろう)


 ただの暴力で済めばまだいい。ラウラは白の魔術が使えるのだし、治すことが出来る。だが、もし。もしもヴィアスが、ラウラを犯してやろうと考えているのなら。

 ばち、と音がするほどの勢いでいつかの記憶が甦ってきた。


 一人の女に、男が覆い被さっている。女は栗色の髪をして、左目を眼帯で隠していた。ラウラだ。

 ラウラはぼうっとした顔で、男の狼藉を受け入れている。男は首を甘噛み、舐め上げ、夢中になってマーキングをしているようだ。

 その男は、白い髪をしていた。頭からは白い兎耳が伸び、それは興奮を示すように忙しなく動いている。ちらりと見えた目は紅い。


(これは、俺だ)


 いや、違う。よく見れば、瞳の色が自分のものより黒みを帯びている。口元に浮かぶのは、嘲笑と傲慢に歪んだ笑み。


(ヴィアス)


 歪んだ笑みが、そのまま、ラウラの唇へと寄せられていく。呼吸が混じり合う。もう少しで重なる─────

 ばさっ、と足元で音がして、我に返った。ゆっくりと瞬きして、辺りを見回す。

 ここは兎族領主の城館で、自分の部屋で、今自分は外に行くために着替えをしているところだ。

 そしてあれは過去に本当にあった出来事だが、媚薬に当てられラウラにマーキングをしたのはセアル自身だ。ヴィアスではない。


 ゆるゆると息を吐き出した。握り締められ過ぎた手にはくっきりと爪の跡がついていて、開いた今も指先が震えている。水を飲もうとグラスを持ち上げるも、凪いでいるはずの水面はゆらゆらとさざ波立っていた。

 それを見ていたら不意に、頭の上でグラスをひっくり返したくなった。だがそれをすれば、使用人たちに余計な手間をかけさせてしまう。

 セアルは着替えを中断して、寝室に隣接した浴室へ向かった。シャワーヘッドに仕込まれた赤の魔術と青の魔術を込めた魔結石を意識し、魔力を流す。

 ざあ、と降り注いだ水は、念じたとおりに凍えきっていた。

 記憶を頭の奥底に押し込めながら、ぼんやりとこの後のことを考える。そうでなくては、考えるべきでないことに意識が行ってしまいそうだった。


(ラウラを迎えに行くか? なるべく目を離さないようにしなければ。いつヴィアスが来るか分からない。いや、だがもうイェセリウス殿のところにいるかもしれない。まずは蛇族領主城館に行って、ラウラがいなかったら迎えに行くか)


 つらつらと止めどなく溢れる思考に身を任せていたら、足や指の感覚がなくなるほどに冷えているのに気が付いた。どうせこれから外に出て、冷えるのだから問題はないだろうと頭のどこかで囁く自分がいる。その言葉に頷いて浴室を出、念入りに水気を拭き取ってから着替えを再開した。

 蛇族領主城館に向かうと、いつも通り大広間に通された。そこの隅、休憩場所にと置かれたソファーに並んで座る影がある。片方は栗色の髪と、黒い眼帯。片方は動きやすそうな衣服に身を包んだ、長い白髪の男。


「こんにちは、セアル」「こんにちは、セアル殿」

「………ラウラ。もう来ていたのか」


 無事な様子に心の底から安堵しつつも、セアルの表情筋はこれっぽっちも揺るがない。相変わらずの怠けっぷりだが、こんなときは本当にありがたい。


「お薬の補充が早めに終わったから、舞の練習をしておいた方がいいかと思って。後二ヶ月しかないんでしょ?」

「正しい判断です。舞は春祭りのメインイベントですからね」

「酷いと思わない、セアル。イェセルったら、こんな風にすぐ圧をかけてくるんだよ?」

「圧なんてかけていませんよ? 事実ですから。ねえ、セアル殿」

「そうだな」

「セアルまで!」


 今自分は、いつも通りに話せているだろうか。何でもないように振る舞えているだろうか。

 ラウラの隣に腰掛けながら、そんなことばかり考えていた。


「休憩中だったのか?」

「うん。記録の魔具で『来たる春の舞』を見せてもらって、始めの方の動きをちょこっとやっただけなんだけど……。案外足が疲れちゃって」

「舞は普段使わない筋肉を使いますからね……。ところでさっきから気になっていたことがあるのですが、一つお伺いしても?」

「答えられることなら」

眼帯それ、見えにくくはないんですか?」


 はっとした。一年前に出会って、友人になり、想いを寄せるようになった今でもセアルが聞けなかったことだったから。

 聞いてはいけないと思っていた。ここは北の最果て、アトーンド。事情を抱えた者たちが行き着く、吹き溜まりだから。


「ああ……これ」


 ラウラは指先でそっと、左目を覆う眼帯を撫でた。黒い布地が少しへこんで、閉ざされた目の形が浮かび上がる。


「むやみやたらと言うようなものじゃないから、隠してただけなんだけどね」


 左手で眼帯を押さえながら、ラウラは右の手を頭の後ろ──眼帯の結び目へと伸ばした。

 はらりと皺の寄った両端が落ち、それから全体が外される。閉じられた目が開いたとき、思わずセアルは息を飲んだ。

 隠されていた左目は、右目とは違った色をしていた。顕わになった左の瞳は、春告げの花フォンスを思わせる赤みの強い紫色マゼンタに煌めいている。


色違いの瞳オッドアイ……?」


 イェセリウスの、思わずと言った風情の声が大広間に散らばった。それも、仕方のないことだろう。

 色違いの瞳オッドアイは古来より、精霊を視る瞳とされてきた。同時に、人ならぬ者の証とも。そしてその力は、左右の色が離れていればいるほど強くなるという。この瞳の色合いならば、隠そうとするのも無理はない。


「私も一つ、聞きたいんだけど」

「……え? ええ。どうぞ」


 イェセリウスの狼狽を気にも留めず、ラウラが問う。その瞳は、セアルの視えない何かを見つめていた。


「イェセル、貴方も魔眼を持ってるんじゃない?」


 ラウラの向こうで、イェセリウスが身を固くした。無意識にだろう、その縦長の瞳孔抱く瞳に手が伸びている。


「……何故、そう思ったのですか」

「『常ならぬ瞳は魔力を持つ』有名な話じゃない。それに蛇族は、魔眼持ちが生まれてくることがあるらしいし」


 艶やかで、遠い笑み。細められた瞳に、何故だか寒気を覚えた。


「いいでしょ? 教えてくれても。私だって教えたんだから」


 瞬きのうちに妖魔のような笑みは消えて、あるのはいつもの悪戯っぽい微笑み。


(……気のせいか)


 イェセリウスは乾いた笑いを零しながら、観念した様子で中途半端に持ち上がっていた手を下ろした。ゆっくりと目を閉じ、開くとその瞳がぼうと光っている。


「……はい。確かにわたしは蛇族の魔眼、『魔を視る瞳イヴルアイ』を持っています。ラウラさんの魔眼とは比べ物にならないほど力は弱いでしょうが……」


 瞼に瞳が隠されて、また現れたときには燐光は消えていた。そう長い時間「開いて」おけるものではないのかもしれない。


「やっぱり。話の分かる人ができて嬉しい!」


 無邪気な少女のようなはしゃいだ声を上げるラウラ。先ほど一瞬浮かんだあの笑みを見た後だと、その無邪気さを素直に受け取れなかった。

 それよりも。


(俺だけが、分からない)


 セアルも普通の獣人とは言い難いとある事情を抱える身だが、魔眼のようなものは持っていない。自身の体内にある魔力を感じられるぐらいだ。


(俺だけが─────)


 壁際に控える祭祀官らしき女性が、その縦長の瞳孔に暗い光を湛えて何やら楽しげに語らうラウラとイェセリウスを見ている。気付けたのはきっと、セアルも同じ目をしているからに他ならないだろう。


(ラウラには、気付かれたくないな)


 そうして見上げた窓の外、空は分厚い鉛色の雲に覆われていた。

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