長谷川邦子

わたしという価値

 今日は何曜日だろう。

日付の感覚はもう無い。

目を覚ますとそこは牢で、今日もわたしは鎖で檻に繋がれている。

わたしは牢屋に閉じ込められていた。


・ ・ ・


 集合住宅の六畳一間、檻が無い分牢屋より少しだけ広い部屋。

ありふれた母子家庭だった

あの日は保育園の入園準備のために帽子を買ってもらって

黒服の知らない人に黄色いそれが踏みつけられたのを覚えている


・ ・ ・


 会ったこともないけどわたしのおとうさんはえらくてこわい人らしくて、わたしとおかあさんはある日突然黒服の人達に大きなお屋敷に連れて行かれた。

辺りは薄暗くて、大きなお庭には知らないおじさんと怖い顔をした綺麗な女の人が立っていて

おかあさんは二人の前で土下座をしてしきりになにかを謝っていた。

わたしはどうすればいいかわからなくてただそれを見ていて

おかあさんが見えないなにかに掴まれて、空中でゆっくり絞られてぐちゃぐちゃの挽き肉にされるのを


ただ、立ったまま見ていた。


・ ・ ・


 檻に入るまでは目まぐるしかった。

突然お屋敷の子になると言われ、知らない名前をつけられた。

多分犬用の首輪を着けられ、部屋から出ることを禁じられ、読み書きや勉強を強制された。

他にできることもなく、わたしはひたすら勉強した。

家庭教師のせんせいのテストで1間違えるごとに出来の悪い子だと叩かれ、奥様には爪を一枚剥がされた。

テストは怖かった。爪は不思議な力で治して貰えたけど、やっぱり剥がされるのはすごく痛かった。

 でも、ある日突然勉強はもういいと言われた。

奥様は現れなくなり、わたしはもういらないと言われた。

そして、暗い奥座敷に置かれた檻がわたしの家になった。


・ ・ ・


 やがて、弟が産まれ暴力が始まった。

死なないように置かれた水と、今日はにんじんが一本

わたしは何も考えずそれらを音を立てないよう口に運び、奥様に呼ばれるのを待つ

暇潰しにやってきた奥様にうるさくすると鞭で叩かれ、お腹を鳴らすと蹴られた。

寝ていると叩かれて起こされ、より折檻が厳しくなる。

気絶してしまうと最悪だ。

煙草の火を当てて起こされて、煙草を消した水を飲まされた。

わたしは叩かれるために生かされていて、きっとその用が済めば殺される。

わたしには抗う術は無い。

ただ生きるために、生きていた。


・ ・ ・


 その日は、また突然訪れた。

いつものように起きて、やれることもないのでこっそり貰ったコピー用紙で鶴を折っていると眼前の襖が静かに大きく開けられた。

奥様は足音がするから油断していた。

「子供……?」

 知らないおじいさんだった。

白い髪、黒いお着物、逆光でもわかる珍しい黄色の目。

「何をしているんですか?お嬢さん」

おじいさんはしゃがみこんでわたしに聞いた。

「……ぅ…………つ、る、折って、る」

まともに人と話したのは何日……何ヶ月ぶりだろうか、わたしはなんだか恥ずかしくて鶴を見つめたまま答えた。

「いや、そうでなくて……まぁいいか」

明るいと折りやすい。

会話もうまくできないわたしはおじいさんが見ている前で鶴を折る。

できた

きれいな白い鶴が折れた。

おじいさんはまだこちらを見ていた。

じっと、わたしの目を見つめている。

暇なのだろうか。

「あげる」

「ワタシにくれるのですか」

鶴を差し出すとおじいさんはそれを両手で受け取った。

わたしは頷く。

白い髪のおじいさんに似合うかと思ったけど、おじいさんが持つとみすぼらしく見えた。

「お嬢さん。ここから出たいかい」

「ころされる」

「ふむ……君自身が嫌かどうかなんだけど」

「……」

「じゃあ、もし出ても殺されなければワタシと来てくれる?」

おじいさんは笑顔で聞いてきた。

殺されるのはわたしではない。

わたしに情けをかける人間を奥様が許すことはないだろう。

この襖を開け放っただけで既に二人殺されている。

わたしに紙をくれた国木田さんもよく顔を腫らしている。

助けてください、の意味は死ねに変わっていた。

「……でも……逃げ、ほうが」

「分かりました。待っていてくださいね」

おじいさんは最後まで聞かずに去っていった。

きっとこの人も

そう思いながらわたしは鶴を折り続けた。


 少し大きな音がして、開けられたままの襖の先で日が傾いて、わたしのところにその日奥様が折檻しに来ることはなかった。

それどころか青い顔をした国木田さんに檻から出され、わたしは最初に閉じ込められた部屋に戻された。


 部屋にはお医者様がいて、身体の傷を確認されて、国木田さんではなく知らない女の人に温かいお風呂に入れられた。

「邦子ちゃん……お母さんがあんな事になったのに、ごめんね」

女の人はおかあさんの知り合いらしかった。

「神楽坂様は有名な方ですから、きっと、良くしてくださいますよ」

女の人は涙を零した。

わたしはなにか返事をしなければと思った。

「あ、う」

「邦子ちゃん……?」


 わたしは、自分で思うよりも壊れてしまっていたらしい。

緊張で辛うじてまともさを繕っていただけだったのか。

釣瓶を落としたように歪みは大きくなる。

 言葉は分かるけど話せない。お医者さんはストレス性の失語症だと言っていた。薄々気づいてはいたけれど、ごはんの味もわからなくなっていた。

こちらは正確にいつからか自分でも分からない。

試しにボタンを食べてみたら普通に食べられた。

すぐにバレて、何故かお医者さんが怒られていてかわいそうだった。

悪いのはわたしなのに

 足は、痛いとは思っていたけれど靭帯がちぎれかけていたらしい。

これ以上無理に動かすと下手をすれば二度と歩けなくなると言われ、わたしは安静を命じられた。お手洗いや身の回りの事はお手伝いさんに手伝ってもらうよう呼び鈴を置かれた。

幸い短いスパルタ教育で文字は読み書きできるようになっていたわたしは筆談で本とカレンダーを求め、望みは概ね叶えられた。嫌な思い出は多くても勉強はすきだった。

 わたしは本を読み、少しだけご飯を食べ、部屋の布団から外の景色の移り変わりを眺めて過ごした。

わたしが壊れてしまったからか、おじいさんはあれきり現れなかった。


・ ・ ・


「おねえちゃん、だれ」

 しばらくしたある日、小さな男の子が部屋を訪れた。

この屋敷に子供は二人だけ。

おそらく彼が詩鏡院國光だろう。

歳は3歳くらいだろうか。

彼の年齢は邦子がおおよそ監禁された期間になる。

「……………」

「ぼくね、くにみつっていうの」

黙る邦子を彼は不思議そうに見つめた

「しゃべれないの?」

頷く。

彼に何かしらの感情が湧くことはなかった。

もっと憎むかと思っていたのに。

やはりわたしは壊れてしまっているらしい。


 義理の弟はわたしの部屋を隠れて何度も訪れた。

病気だとでも思ったのだろう。

いや、事実病気か。

数度部屋の前で奥様に見つかり大声で叱られていた。

「お姉ちゃん」

 わたしは動けないし喋れないので彼の話を聞くだけなのだが、あまりに平和で、違う世界の話で、実感は全く沸かなかった

怒りも、悲しみも、愛情も、何もかもわたしにはなかった。


・ ・ ・


 そんな空虚で穏やかな日々が約一年続いた。

ある日、国木田さんが部屋に来た。

わたしは抱き上げられ部屋をだされる。

「お嬢さんばかり犠牲になることは無いんです」

「う?」

 わたしは寝間着の白いワンピース一枚だけ着ていて、ひどく寒かったのを覚えている。

国木田さんはわたしを毛布を敷いた車のトランクに入れてじっとしているように言っていた

暗い空間は牢屋にいる様だった。

ガタガタと車に揺られ、強い衝撃の後、目の前が急に明るくなった。頭をぶつけて顔に少し血が垂れていた。

「やあ、久しぶり」

白い髪、お着物を着たお兄さんがわたしを抱き上げた。

黄色い瞳。おじいさんと同じ色。

お着物には折鶴とお花の模様が入っていた。

「軽いな……ちゃんと食事はしていたかい」

「う、ん」

喋れた。

なにかされた訳ではなく、素直に言葉が出た。

まともな単語を喋ったのは一年ぶりだ。

術、にそうゆうのがあるかもしれないけど。

奥様にかけられたこともあるからわかる。これは違う

わたしはお兄さんに無意識に「安心」を感じていたのだと思う。

車は壁に衝突していて、運転席で国木田さんがぐったりしていた。

国木田さんも頭から血が出ている。

彼が車を停めたのだ。わたしは何故か確信していた。

お兄さんは運転席に向かい歩を進める。

「ころ、ないで」

「おや?」

「ころさないで」

「はい、分かりました」

やれやれと言い、お兄さんはわたしを抱えたまま振り返る。

「待ちなさい!」

叫んだのはお屋敷から追いかけてきたのだろう奥様だった。

肩をいからせ、手には刀を握っていた。

「許さないん、だから」

「おやおや」

「そのガキは殺すの」

「迎えに行くと連絡したら急に逃がそうとしたり、殺そうとしたり、きみたちはとことんまで契約を反故にするおつもりですか」

「あんたは、元々うちの事情に関係ないでしょ!」

刀は小さく音を立てている。

「震えていますよ?」

「そいつのせいで……家は……」

「はぁ……ワタシはこの子を貰えるなら何でもいいんですが、それこそきみとは無関係な話なので、邪魔するなら殺しますが」

 お兄さんの片手にもいつの間にか抜き身の刀が握られていた。

きっと国木田さんも斬ろうと思っていたのだろう。

奥様が青い顔をしている。

「死にますか、退きますか?」

沈黙が流れた。

空は晴れていて、空気は澄んでいて、張り詰めていた。

を……二度とアタシに見せないで……」

奥様は青い顔のまま腕を降ろした。

「構いませんよ?彼女自身がそれを望まなければ」

お兄さんはスタスタ奥様の隣を歩いていく。

奥様はわたしを見てあんたにはお似合いよと呟いた。



 お兄さんはわたしを連れて大きなホテルに入って行った。

上の方にエレベーターで登り、部屋の一つに入る。

わたしはベッドの上で服を脱がされた。

他人に裸にされてジロジロ見られるのはもう慣れている。

「……鞭で打たれていたんですね」

「うん」

 血のついた母子手帳やお薬手帳を見ながらお兄さんは眉根を寄せた。

「予防接種は二種しか射ってなさそうですね。一応用意はありますが……栄養状態が良くないですからもう少し元気になったら射ちましょう」

お兄さんは隣のベッドに置かれた鞄を持ってくると瓶や包帯、注射器を出す。

「痛いでしょう。よく頑張りましたね」

手際よく深い傷を消毒し、軟膏を塗られる。

手早く新しい服を着せられてから何本か注射も射たれた。そちらは麻酔と栄養剤らしい。

少し意識が薄らぐ

お兄さんが足を見ているのは分かった。

なんだか、かかとの上が暖かい。

お兄さんは少し悪態をついている。

「あなたは、おじいさんのむすこさんなの?」

「違いますよ」

「……あなたが、おじいさんなの?」

「……あまり老人扱いされるのは好きではありません」

「わたし、あなたをなんて呼んだらいいの?」

「庵ちゃんが良いです。ワタシ、神楽坂庵というので」

神楽坂様

「庵様?」

「うーん……さまはなんか嫌ですね……呼び捨ての方が好きです」

「い、庵……?」

「はい、いっぱい呼んでくださいね。邦子ちゃん」

「わたし、あなたの娘になるの?」

「いえ、あの、その」

しどろもどろしてから彼は続けた。

「もし、もしも……その、大人になって気が向いてくれたら結婚して欲しいなと」

手品のようにおもちゃの指輪を出す庵様。

結婚の概念は本で知っていた。

邦子は指輪を受け取る。

「わたし、まだ7歳だよ」

「はい……あの、16……じゃなくて高校を出てから……18くらいになったら検討してくれれば……それに無理強いはしませんので」

「あの家に……帰らなくてもいいの?」

「帰りたければ帰してあげます……」

「帰りたくは、ない……です」

「うううう」

「どうしたの」

「帰りたくないって言われて嬉しいんですけど喜んじゃいけないなって」

「?」

「そうだ。辛いようでしたらあの屋敷での記憶を消せますが、消します?」

「きえる……の……?」

庵は微笑んでいる。

「できますよ。庵さんは自分で言うのもなんですが割とすごい人なので」

「……いい。ほんとのおかあさん、わたしが忘れちゃったら寂しいだろうから」

「あなたは優しい方ですね」

「ちがう」


 多分、そういうのじゃない

わたしは、本当に、本当のになるのが怖かっただけなんだと思う。



「はぁ……はぁ……」

 夜、邦子の熱が上がった。

息が苦しくて、何度も咳き込む。

「困りましたね」

庵は邦子の額に額をつけた。ひんやりして気持ちいい。

10分ほどそうしていると邦子はだいぶ楽になった。

庵は邦子を抱きしめる。

邦子も弱々しくはあるが庵を抱きしめ返した。二人はただ抱き合ったまま夜を明かした。


 朝、目が覚めると邦子はベッドで一人だった。

日常になった切りつけられるような痛みはなく、足をそろそろと床に下ろす

立つことができた。

もっとも、筋力は殆どないためすぐへたり込んでしまったのだが

 シャワーを浴びてきたのだろう、庵はそんな邦子を見て柔らかな笑顔を浮かべた。


 服を着替え、ホテルの部屋で朝食を済ませ、邦子は庵に抱き上げられたまま電車で都心を離れた。

庵は途中ガレージのような場所で車に乗り換え邦子を助手席に載せた。

「どこにいくの」

「ワタシ達の家ですよ」


 そこは家というより神社だった

長い長い石の階段を登った。

三才の時、一回行った祭りの記憶のそれより古く寂れている。

脇には更に寂れた社があった。

「ここ、おうちなの?」

「廃殿ですがなかなか雰囲気は良いでしょう」

いくつか狐の石が置かれている。

「わたしも、いていいの」

「はい」

「……」

「やっぱり、ワタシと一緒は嫌ですか?」

「ちがう」


 優しくしてくれる理由がよくわからない。

結婚したいにも、幼女趣味だとしたってもっと可愛くて愛嬌のある女の子はいくらでもいるだろう。

「わたしはなんのためにひきとられたの?」

 奥様はわたしが育ったら男の人に遊ばせるおもちゃにすると言っていた。

 要領も器量も悪く、愛想もない、多分わたしには殴るくらいしか使い道が無い。

でも庵様は殴らない。

「わたしは、できそこないなのに」


「あの時君を見て、惹かれました。ワタシには、産まれて初めての感覚でした」

 青い紅葉の葉が一枚頭に落ちる。

「ワタシも、まともな人生は初心者みたいなものですので、おさまりもきっと悪くないですよ」

庵様はわたしの頭についた葉を取って手渡してきた。


「だから、試しに一緒に生きて、家族になってみましょう。邦子」


まだ紅葉が青い頃、わたしはその日から人になった。





***

長谷川邦子の倫理観捕捉

邦子にとって勉学で爪を剥がれることは理由のある折檻。ストレス発散に殴られることは暴力でした。別に痛いのは好きでもなんでもなくむしろ嫌いですが理由があることは大抵受け入れる子になってしまった原因です。

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