犬の話(犬の死亡描写があります)

 風の冷たい午後、公園のベンチで。

 長谷川邦子は親友である芦原環を待っていた。

長谷川邦子は魔法使いの弟子である。が、オフは普通の女子高生だ。

 この公園は邦子と環のそれぞれ通う高校から中間に近い位置にあるのだが、邦子はいつも走ってきてしまうので自然環を待つ事になる。

 学生鞄から慣れた仕草で本を取り出し、栞から本を開く。

 映画の原作になった暗殺者と少女の逃亡劇だったがあまり好みではないのかすぐ気をちらしてしまい読書は捗らない。

 邦子はぱたりと本を閉じ、鞄にしまうとベンチから離れた。

 公園の植え込みに犬が座り込んでいた。

「怪我、してるの?」

 犬は痩せて薄汚れていたが、首輪をつけていた。

迷い犬かもしれない。

 邦子は弁当を少し残していたことを思い出し鞄を開けた。

少し考えてから彼女は人避けの結界を張った。

静かに弁当の成分から犬が食べて平気な様に成分を選り分ける。

「ほら」

 鼻先に出されたそれを犬はガツガツと食べた。

少し柴犬のようだがおそらく雑種だ。

人馴れしているからあまりひどい扱いを受けてはいない。

逃げて日が浅いかもしれない。

 ひとしきり観察し、邦子は犬を抱き上げた。



 長谷川邦子は犬を飼っていたことがある。

小さい頃跡取りが産まれなかった父の家に連れて行かれ、その数年後、神楽坂庵に引き取られてすぐの話だ。

まだ小学生の頃だった。 

 犬は学校の敷地に迷い込んだ大型の老犬だった。

片目を盲でており、首輪は跡こそあれ外されていた。

教師やクラスの人たちが飼い主を探したもののさっぱり見つからず。

毛並みが悪く病気も有りそうだったため、やれ保健所だ。やれ警察だ。と議論が巻き起こっていた。

「あの、わたしが、引き取ります」

 邦子は何故自分が手を上げたかよく分からなかった。

普段気配を殺し息を殺し生きていた邦子に周囲は少し驚いた様子だったが、特に他に手を挙げるものも居らず、犬は邦子の家族になった。



 邦子は怒られると思った。

事前に相談などせずに犬を引き取ってきてしまった。

ただでさえ引き取られた身なのに、と家の前で今更に気づき途方に暮れていた。

「何をしているのですか?」

「…………」

 邦子の予想に反し、庵は怒らなかった。

どころか動物病院を調べ、一緒に餌や必要なものを買いに行ってくれた。

「学校の間はワタシが面倒を見ます。散歩は慣れたら一人でできますね。老犬に階段は辛いでしょうから敷地内で済ませなさい」

それだけだった。

犬は大人しかった。

番犬にするには問題がありそうな位鳴かず、邦子がリードを引くと少し覚束ない足取りでついていく。

 病院で見てもらうと片目は駄目だが身体は健康とのことだった。

邦子は犬を甲斐甲斐しく世話し、それなりに懐かれた。


 犬に名前もつけた。

ロシナンテ

読んだ本に出てきたロバの名前だが、邦子はそのロバが好きだった。

「ろし」

呼ぶと犬はのっそりと居間に置かれた座布団から起き上がり邦子と散歩に行った。

庵はその様子を少しだけ悲しそうに眺めていた。



 ある日、ロシナンテが庭に出てしまった。

足腰が弱いので散歩以外あまり動きたがらないロシナンテだ。

 心配なので邦子は縁側の軒下に入った犬を引っ張りだそうと庵に助けを求めた。

「邦子」

吹き飛ばされたと気づいたのはしばらく経ってからだった。

庭に転がり青い空を見ていた。

耳がジリジリとしていた。

庭木に、赤黒いものがこびりついている。

「生きていますか」

「うん」

邦子を覗き込む庵の片腕がなかった。

止血は済んでいる様だが白い骨のようなものが見えている

「ロシナンテは死にました」

「うん」

 ロシナンテに爆発物が仕掛けられていて、庵は邦子を庇って爆発を直に受けたのだろう。

邦子にも想像できた。

びっくりした。

悲しかった。

涙は、出なかった。

泣いてあげたかったのに。

大切だったはずなのに。

「あとはワタシがやりますから。お湯を浴びておやすみなさい」

「うん」

横を見ると庵の腕が転がっていた。

ロシナンテは、粉々になっていた。



 神楽坂庵はこうなることを予想していた。

曲がり違ってもこうなるよう仕向けたわけではないが、庵を殺すためなら何でもする輩は少なくない。

犬や猫は仕掛けるには都合がいいだろうなとは思っていた。

そしてロシナンテの位置が邦子になる可能性も常にある。

「悪い事をしました」

聡い犬で良かった。

腕を吹き飛ばされたのに庵は安堵を感じている。

そしてそれを不謹慎だとも思う。

「お前のおかげであの子は無事です」

腕を拾い上げ見分する。

手袋に覆われた手の部分に損壊が無いのを確認し、庵は腕をビニール袋に入れた。

近くに邦子が選んだ首輪が千切れて転がっていた。

邦子が珍しく欲しがったもの。

哀れみか、同情か、最初はそう思ったが邦子はロシナンテを可愛がっていた。

そういう出会いだったのだろう。

庵さえいなければ、幸せに天寿を全うできたかもしれない。

とはいえ、庵は奪った生命以外に責任を持たない事にしていた。 

ロシナンテに爆弾を仕掛けた犯人は殺す。

しかし、間接的に、こうなることを予想して受入れた庵は

「きっと邦子がお前の仇を討ってくれますよ」

口に出して少し笑う。

まだ子供の彼女を思う

しかし、ああ、いつまで彼女は子供でいるのだろうか。

庵は暗くなる庭先で一人笑う

面白くもないのに



 次の日、邦子が目覚めると庵が黒い着物を着ていた。

邦子も黒いワンピースを着て、庭に出た。

爆発のあとはすっかり片付き、縁側は修理されていた。

傷んだ庭木には薬が塗られていた。

「すみません」

「庵がどうして謝るの」

ロシナンテの墓は紅葉の木の下に作ってあった。

庵はろくでなしだから。仇討ちや復讐の為によく毒や爆発物を送りつけらる。

邦子も数度誘拐された。

 でも邦子を誘拐したのもロシナンテを殺したのも庵じゃない。

「動物病院の先生が入れ替わられていたようです」

「そう」

庵は敵を許さないから、きっとその偽物は殺されたのだろう。

ロシナンテの墓に花を供える。

庵が邦子の分の線香と花も用意してくれていた。

「ろし」

やはり涙は出ない。

付き合いが短いからだろうか、そんなにロシナンテを大切にしていなかっただろうか。

うつむく邦子の頭を庵が撫でた。

「どうして撫でるの」

「お前が泣いているからですよ」


 あれから動物は飼っていない。



 邦子は少し離れた交番にいた駐在に迷い犬は探されていないか尋ねた。

「あ、この犬かな」

彼はコピー用紙を持ってきた。載っている写真は確かに同じ首輪に見えた。

「後はお願いしていいでしょうか」

「あ、一応規定なんでここに連絡先を」

「あと、おまわりさん」

「?」

「わたし、鼻がいいんです」

駐在は後ろ手に銃を出していた。

警察のものではないグロックの銃口が静かに突きつけられる。

邦子は犬から感じていた素子を辿ってきた。

「もうこの子の爆弾は解除してありますが、あまりこういうのは好きじゃないんですよ。おまわりさん」

邦子の眼前で銃がチーズのように溶けていく。

警官に扮した男は銃を取り落とした。

腕の中で犬が暴れ邦子を噛む。

「ひぃ」

 犬の興奮や出血より、微動だにしない少女が恐ろしい。

「この子を飼い主に届けて。返せないなら貴方が死ぬまで責任を持ってお世話なさい」

 血が流れているのに特に構う様子もなく邦子はただ昏い瞳を男に向ける。

「できないならお前はわたしが殺す」

そう続けると邦子は男の腕に犬を抱かせた。

邦子は鞄を掛け直して交番を去る。



 公園のベンチで環は鞄を抱えて待っていた。

メールで事前に迷い犬を届けてくると送っておいたので心配している様子はない。

邦子は慌てて駆け寄る。

「たま、お待たせ」

「ううん、わんちゃん大丈夫だった?」

「お巡りさんにまかせて来た。飼い主さんが探しているみたいだったから」

「そっか。ちゃんと帰れるといいね」

環が立ち上がって歩くのに合わせ隣に並ぶ。

「うん。そうだね」

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